燕柳まくら
ノーベル賞の季節だそうで、今年の平和賞がエチオピアの大統領、そういえば去年の平和賞はアメリカ前大統領のバラクさん、それで皆が思い出したんでしょうか人気復活中だそうですな。なにしろトランプさんは赤っ面で目の回りに筋が入っている、芝居で言えば敵役、バラクさんは色こそ黒いが品が良いので二枚目です。まことにもって生まれというのは隠せないもので、私なんかも楽屋に座っているとお客様が、おや、ここは歌舞伎座でしてたっけなんて間違える。品がよくて相がいい、つまり貧相だと、まあ、そんなところでしょうかね。
アメリカは歴史の浅い国で南北戦争からまだ160年しかたっていない、日本の南北戦争といえば関が原合戦ですからそれから数えれば江戸は寛政改革の時代になります。経済が苦しくなったから何とかせねばならん、ロシアがちょっかいを出してくる、インフレで失業者が増えている、緊縮財政と軍備強化をしなければならない、それを松平定信という人が強引にやった、日本の話ですよ、アメリカは後追いでげすな。
近々大統領選挙があるそうで共和党も民主党も票が欲しい。
「日本には噺家というエンターティナーがいて国会議員になったり政治にも活躍しているようです。日系人票集めに活用しましょう。燕柳というのがヒマそうですよ」
なんて側近がトランプに耳打ちしたら私もアメリカデビューして世界の燕柳になれるのですが、無理な望みは持たぬがましです。
「こう寒くなると温泉だね」
中路がのんびり話し始めた。
「だけど、あちこちの旅館に年寄り一人旅がいるんだ、皆、つまらなそうな顔をしてね。聞くと夫婦で行くなんてまっぴら御免、夫とは妻とは絶対に行かないと息巻くんだよ。夫婦でいると白い目で見られる」
野瀬ボンが職業意識に目覚める。
「そうです、旅行会社はそういう人たちが顧客なんです、若い人は会社には頼みません」
ホテルも航空券もネットで見れば自由自在だ。金がなくてもカードがあれば飛び出せる。金がありネットもカードも活用できない爺婆が電話してくる。
「それが集団の一人旅、個室を求め隣席を嫌い、追加料金でビジネス席に移り、それでいて観光は添乗員にすがり、ここは前に行ったと文句をつける。添乗員はお客様だから大事にします、すると頭にのってまるで家来のようにこきつかいます、僕も嫌気がさして会社を辞めました」
もちろん皆はそれだけが理由ではないと思っている。
「一人一部屋温泉六日間、同じ旅館に泊まり続けて送迎だけをする、そんなツアーは旅行社の仕事ではありません」
冒険気分で未知の世界を旅する、興奮とスリルを共有する、昔のツアーは良かったという。そこから詩が生まれ、恋が…生まれなかったらしい。
「客が喜ぶならそれでいいだろう」
RR池田は無造作だ。メカ吉川も話を外す。
「鈍行列車で九州まで行きました。朝一番の電車に乗ると終電車が九州は小倉に着きます、三食分の弁当とおやつを持ってまる一日電車に乗り続けました。乗り鉄仲間では普通のことです」
燕柳兄さんは呆れた顔だ。
「乗るのが好きだから乗り鉄、写真は撮り鉄、酒を呑むと呑み鉄ですか、お道楽にもいろいろござんすね。この前、露天風呂に入ったら先客がいる、今晩は、良い湯です、いや体が延びます、色々話しかけるのに返事をしない。ネェあなたって前に回ったら外国人でしたよ、温泉だけにニューヨクから来たと」
どうも燕柳兄さんはとりとめない。
「俺は温泉よりオリンピックに行きたいね。オリンピックの思い出が鮮明だよ。高校に入ったばかりかな」
RR池田のノスタルジアに春本行者が交信した。
「まったくあの行進はよかったな、わしの魂が震えたよ」
不安定な魂だ、置き所が悪いのだろう。
「三波春夫の五輪音頭は今でも歌えます」
野瀬ボンの詩才もしれたものだ。
「16個の金メダル、東洋の魔女、ウルトラC、テレビ、新聞は書きたてたね。競技場に行かなかったが臨場感は残っている」
JW藤野はそれ以来の見物系スポーツマンらしい。
「それが今回は切符を買うのにまずインターネット申し込み、そして抽選、2ヶ月たってから購入、それでは誰も手が出ないよ。この不確実な時代に1年半の未来は永すぎるよ。それにしても、もし地震がオリンピックの前に起きたらかなり困るね」
中路が世論の動向を言うとRR池田が鼻で笑った。
「当然、中止だ、決まってるだろ、競技場全壊、組織委員が他界」
「事後に起きたらどうなるかな」
「義捐金の額が増えるだろうな」
RR池田はもう計算を始めている。
「いつか、やり直しができるかな」
「復興記念感謝デーにやるんだね」
RR池田と中路が隣同士で話しているのを聞いて燕柳兄さんが感嘆する。
「さながらお二人で漫才の高座が務まります、聞いていてひつまぶしにちょうどいい」
皆ちょっと考えて、林姫が一歩先んじた。
「それってひまつぶしですか」
「ご両人もウナギもつかみどころがないという洒落です」
「しかし地震は必ず起きます」
メカ吉川がチケットを販売するような確信の口調で言う。
「俺は助かるかね」
せきこんで聞くRR池田に春本行者が引導を渡す。
「日頃の行い一つ、宿命は偶然ではない」
つまり看板が落ちてきて頭に当たるのと一秒早く前に落ちるのとは日頃の行いの結果だという。
「その日、東京にいたら80%、釣りをしていたら70%、家で昼寝をしていたら30%の致死率さ、それを宿命というのじゃ」
行者の悟りは言葉は理解しにくい。
「東京の高層ビルは耐震構造ですが液状化現象には疑問です」
メカ吉川がここぞとばかり説明した。
「なるほど上半身鍛えたマッチョが足をすくわれて尻餅つくというやつだな」
RR池田のたとえは分りやすい。
「マッチョの老い、人情噺ができますな」
燕柳兄さんの職業意識も高いということだろう。
「私は建築の専門家として過去の地震のデータを持っています。参考までに」
メカ吉川は自己中KYだ、まわりの空気は読まない。
地震考古学というのだそうだ、人間の文化があれば年代が分かる。文字文化は当然だが、縄文時代だって土器の地域性と制作年代はずいぶん確定している。裂け目に砂が噴出して砂脈が残る、住居跡が引き裂かれるとその土器から年代が分かる。継体天皇の墓らしい巨大な今城塚古墳は地震で地すべりして形がいびつになり見栄えが悪くなった。近くのすっきりした形の太田茶臼山古墳が伝継体陵となった。この後はおびただしい文書が正確に地震を書き残している。
「東海地震が1096、1498、1605、1707、1854、1944に起きている。南海地震が684,887、1099、1361、1605、1707、1854、1946に起きている、これを連動と言わなくてなんと言いましょうか」
「ごもっとも、すると、あと20年は大丈夫か、しかし俺は逃げられないな」
中路が珍しくていねいに対応する。
「楽観してはいけません。関東直下型地震はもっと頻繁です。818、878、1241、1257、1293、1498、1703、1707、1855、1914そんな記録が残っています」
「この先10年以内に地震が起きる可能性が7割というわけか、お前たちが犠牲になる可能性も7割じゃね」
春本行者の発想も自己中心的だ。
「お前はどうなんだ」
「人のことを心配するな、津波はテンデンコだ。わしはその日、たぶん別荘で瞑想している。テレビもラジオもないから、ずいぶん経ってお前らの悲劇を聞くことになるじゃろう。心ばかりの供養はさせていただく」
春本行者の別荘なるちゃちな小屋は地震の前触れだけですぐに全壊するだろう。
「気色悪い、どんな供養だか知りたいね」
中路が顔をしかめる。
「水と心だな。火で焼かれ、瓦礫に埋まり、海に流されたお前たちに水を手向けて心から哀悼する、それ以上の供養はなかろう」
なるほど安上がりな供養だ、JW藤野はしかし経済のその後が気になるらしい。
「君の供養は無料でできるが、地震の被害予想は百兆円、国の予算と同額だ。人的被害が少なくても3万人近く、これが時間帯によっては何倍にもなる。議員や官僚、大臣だって命が危ない、復興にどう取り組むかだ」
「そうか、死ぬのは年寄りばかりではないのか、それは心強いな」
RR池田に林姫がさすがにたしなめた。
「口を慎みなさい、言ってはいけないこともあるのよ」
野瀬ボンがいつになく気迫を込めて話し出した。
「皆さんは頭で考えたことを言っているだけで心でとらえていません。もっとも活字と映像だけでは実感がないから仕方ない。僕は東北大震災のあと現地に行きました」
津波は海沿いの町をすっかり押し流して、電柱も防砂林の松の木もすべて打ち倒した。
「お寺の本堂の屋根が川にかぶさっていました。津波の威力に震えました」
家は跡形もないが生活の品々は地面にへばりついている。台所のあった場所には食器の破片、居間のあった所にはTVのリモコンやら裁縫道具やら壊れたメガネが半ば土に埋まっている。
「子ども部屋だったところです。鉛筆やカバンに混じって綴じこんだ紙がありました。泥を払ってみると修学旅行のしおり、鎌倉の見所、持ち物、行動の注意、涙がこぼれました」
さすがに一同は沈黙して野瀬ボンの顔を見て話の続きを待った。
「たぶん子どもは無事に避難したと思います。僕は拾いあげてきれいに泥をふきバッグにしまいました。帰り道でこのしおりをどうしようかと考え続けました。子どもは無事です、たぶん、もしそうでなかったら」
「どんな選択肢があったの」
また涙をこぼしそうな野瀬ボンを心配そうに見て林姫が言う。
「小学校に展示してもらう、図書館に寄贈して何かの折に公開する、家に大事に保管する、持ち主を探して返す」
「それは辛すぎる思い出よ、たとえ無事だったとしても色々な思い出に苦しむことになるわ」
林姫も真剣に考えている。
「君はそういうことを詩にすればいいのよ。言葉が人の心にしみこむわ」
「さっさと言え、それをどうしたんだ」
RR池田がじれったがった。
「鶴岡八幡に持っていって庭を掃いていた白衣の人に事情を話しました。ああ、お焚上げですね、それならと指差したところにお札が無造作に積み上げられていました」
「なんだ神様まかせか」
RR池田があきれた。
「でも僕の心はすっきりしました」
珍しく春本行者がほめた。
「それでいい、苦しい時の神頼み、心の暗雲を去るには悩みを神仏に委ねることだ」
「お前は長生きするよ」
RR池田があきれた顔になった。
「いや安心はできん、人間の浅知恵で地震は予知する台風も監視する、ただ隕石だけはどうにもなるまい。いずれ恐竜が絶滅したように人間も滅び去るのだ。その日のためにお前らは身の回りを整理しておけよ」
無精ひげを生やしてすりきれたような作務衣の春本行者に言われると皆ムカつく。
メカ吉川がすっくと立った。
「巨大隕石は15年くらい前に軌道が観測できます。半年から1ヶ月前には落下の可能性が分かります。数週間前には落下地点が予想できます」
「なんと知らなんだ、それでどうなる」
春本行者も当然、覚悟などはできていない。
「直径50メートルの隕石が落ちるのは百年から3百年に一度、恐竜絶滅くらいの隕石が落ちるのは1億年に一度だそうです」
「ここで会ったが1億年、盲亀の浮木うどんげの、というのがもしかして明日のことになるのではござんせんかね」
燕柳兄さんは真面目なんだかふざけているんだか分からない。しかし、メカ吉川には洒落が通じないから気に留めない。
「この前のが6500万年ですから、まだ少し間があります」
「死後昇天ハライソハライソ、やれ大丈夫」
「いや、それで落ちるのが分かったら逃げ出すのか、どこへ…」
RR池田は荷物運びを考えているようだ。
「ミサイルで壊します。大きすぎたら仕方ない核爆弾です。アメリカ製がいいな、中国製は値段が安いが少し不安です」
たぶんメカ吉川の頭の中には原材料費見積もりという書類があるのだろう。
「ふうん」
一同が沈黙したちょっとのスキにあわてて能勢ボンがコピーを配った。
「詩を読んでください、先日、図書館で見た情景です」
柔らかで汚れがつきにくく
水洗いできる衛生的な子犬
のぬいぐるみではなかった
国旗のポールの根元には
念入りにむすびつけられ
黒い瞳だけが左右に動く
ああかわいいと言って子どもが
自分にも貼りつけられる言葉を
パリッとはがしては投げていく
皆、物乞いに施す小銭のように
言葉と笑顔を喜捨していくのに
黙って眺めているのは僕だけだ
阿諛と追従をたてまつろうかと
立ち上がったとき飼主が戻って
縫いぐるみをペットにもどして
連れ去った 当然の犬の宿命だ
「俺にはさっぱり分からん」
RR池田はにべもない。
「また君は言葉をもてあそんだのね」
林姫は簡潔だ。
「ぬいぐるみと本物を交差させていく手法は新鮮ですね。ペットに戻して…というところが洒落ています、谷川俊太郎に爪の垢ほど似ていますよ」
JW藤野は芸術家のパトロンを自認している。
「爪の垢ですか」
「ご不満でしたら左耳の耳糞もつけます」
さすがの能勢ボンもムッとしてJW藤野にくってかかった。
「どうして左なんですか」
「僕の左耳は難聴なんです、耳が悪いと耳糞もたまります。右耳よりはずっと多いと褒めたつもりです」
これ以上、何も言えない能勢ボンであった。
「そもそも我こそ詩人なりという顔をするのがうっとおしい」
RR池田に春本行者が同調する。
「詩人そもさん何者ぞ」
そう言われては野瀬ボンも腹が立つ。
「詩人とは、夢を追う仕事、流動する現実を形象化して固定する仕事、日本語の粋を尽くす、記憶に残し親しんだ時もあるという思い出つくり、トラウマ残し」
「また訳のわからんことを言う。最高の詩はお経の文句だぞ。ナムハンニャハラミタ…」
春本行者の顔をじろじろ見ながらJW藤野がわざとしかつめらしい顔をする。
「ネットを見て般若心教の現代語訳を読んだよ。もし幸せになりたけりゃ、力を抜いて楽になれよ、心に余裕を持ったらば、誰でも仏陀になれるんだ。心配すんな大丈夫だ。そんな内容だったな、人生の応援歌だ」
「それは無作法、お経の文句は神聖で崇高なのだ。現代語訳などしてはならぬ」
「聖書も現代語にしたら分りやすくなったけれど、がっかりした信者もいるわね」
林姫も容赦ない。
「そういえば昔からお前は一人で詩を書いていたよな。俺たちが遊びに誘っても出てこなかった。その頃、ひきこもりだったのか」
RR池田は無遠慮だ。
「いつから引きこもると引きこもりと呼ばれるのだ。会社をクビになったので引きこもっても引きこもりか」
「それは個人の自由よ、でも不登校になる子どもにはパーフェクトな解決策があるの」
林姫が言うと中路もニヤニヤした。
「知っていますよ、それはそうだがハードルが高いね、学校も文部省も既得権を守ろうと反対するにきまっている」
JW藤野も知っているようだ。
「それが世界基準さ、日本の学校もいよいよ変わる時期になりましたか」
中路が専門家らしく解説する。
「明治になって寺子屋の自由教育ではだめだと国家統制の学制発布、住民は多額の寄付をして学校を作った。それが軍国教育になって、敗戦で一晩で民主主義教育に代わった。それからは右往左往、詰め込み教育、ゆとりの時間、文部省内の派閥争いと日教組の盛衰で学校はゆれ続けました」
RR池田が世論を代表する。
「なんのことだ、はっきり言ってくれ」
「必ずしも通学しなくてよいことにするのさ。欧米は昔からそうだよ。家庭学習OK、塾OK、ボランティアの教育OK、ともかく学校で集団指導をする以外の学習を認めれば、いじめも不登校もなくなる。実際に今の小中学校だって、不登校もなにも全員を卒業させているよ、でないと面倒なんだ、義務教育だから」
「それで学力がつくのか」
中路は余裕だ。
「成績を5段階でつけて1の子を必ずつくる。学力がついたという評価は不要、一応は学習させたという言い訳だけさ。中学校の成績など社会人には役立たない。いわゆる引きこもりでゲームばかり学習した者が世界的なプログラマーになる時代だ。以前だって芸能をする者は学校なんぞ行ってはいけない、余計なことを考えずに修行すればよいと、それで名人を育てたんだ。良い成績は良い進学、良い就職、幸せな人生を導くという戯画の時代は終わったんだよ」
「学校になんか行きたく子はどう育てる」
「教師は学校だけではない。家庭教師、塾の教師、派遣教師、ボランティア教師、教員資格さえ持っていれば皆が教師だ」
「そうなの、学校教師の給料は国と県の負担だから予算に縛られ採用できない。苦肉の策で臨時採用とか講師とか再任用とか安い給料で雇える人を使う、もう派遣と同じような形態よ、けれど資格は全員が持っているの」
「集団指導が得手の人は学校で教えればいい、苦手な人は個人指導に当たればいい、当然同じ給料だ。その人件費を国は惜しんでださないのさ」
「教員を倍にすればいいだけ、派遣教師が町内会館でもお寺でも巡回して個別指導に当たれるば爺婆だけで学習支援ができる、不登校は1割、学校不適応はその何倍かがハッピーになれるの」
「学校の必要性がずいぶん薄れますね」
メカ吉川は勉強好きだった。
「そのとおり、学校というブラツクホールを解消するにはそれしかないのよ」
「その通り、学校はブラック企業だよ」
林姫とJW藤野は改革派だ。ただし二人とも昔は愛され期待された中学生だった。
「確かに教師と警官と坊主は嫌だと水商売の女は言うな、ケチで偉ぶっていやらしい」
RR池田の世界だ。中路がさえぎる。
「校則がブラックだ。勤務がブラックだ。人間関係がブラックだ。」
「茶髪ピアス化粧禁止、持ち物服装検査、厳しいというが底抜けで誰も守ってなんかいない。バスや電車で高校生の間にはさまるとうんざりするよ」
「昔は提灯学校なんて言って夜中まで職員室の灯りがついていて、親はそれを見て先生の仕事に感謝した。現代もそれ以上の仕事をしている、土日も部活をやり女房は母子家庭と恨み事を言い親は熱心な先生と尊敬した。今の時代は昔の倍も仕事が増えているのに職員室は消灯厳守なので自宅に持ち帰る。部活も親が付き添い批判者の目で監視する。授業準備を滞らせてはならない、子ども以上に親に手がかかる。欧米では授業をする先生と子どもの生活指導、親・地域との対応、心配事相談、みな別の先生がやる、日本は学級担任がすべてやる」
「セクハラ、パワハラ、モラハラ、学校には濃厚だよ。同じ活動を並行して行うが先生の個性と巧拙があるから成果はまちまちだ。それが親も子も我慢できない。校長は逃げ腰だし教育委員会は官僚的だ、不思議だね評判の良い先生が指導主事になると途端に役人っぽくなるんだ、みなが他人事の顔をして臭いものにはふただよ」
「では不条理の世界を歌います」
やけに野瀬ボンは浮かれている。
蛍の光窓の雪スズメの涙セミの夢
ゴマメのはぎしりアリが笑う
ムカデにももひきはかせましょ
「詩よりはずっといいわ。ナンセンスを笑えれば人生に少し幅ができます」
林姫は褒めたのかけなしたのか。
「時間だよ」
マスター田辺が顔を出した。他に客がいるわけでもないのに今日はやけにつっけんどんだ。
「時間だよ。燕柳さんやってくれなくては皆が帰らないよ」
「おやおや、おそうじ番の催促ですか」
「掃除は店でやるよ」
寄席でトリを務める噺家は最後の客を見送るのでお掃除番というのだがマスターは知らないようだ。
燕柳裾まくら
とうとう師走になりまして極月といいますな、一年の計は元旦にあり、一年の悔いは大晦日にありと申し、極楽よりも地獄に近い語感です。「今年の出来事」なんていうのが新聞に載ります。吉例なのかマンネリなのか、災害にあった方にまた悲しみを思い出させる辛い企画です。
ずいぶん昔のことですが12月14日に大事件がありまして吉良上野介の身内は辛い目にあいました。忠臣蔵、劇場では客の入りが悪くなると演目にするそうで、全編どこかで人が死にます。極めつけは五段目、命冥加はシシばかり という川柳の通り鉄砲で撃たれる斧定九郎、役者が六世幸四郎、刺し殺される与一兵衛を五世歌六、切腹する勘平を六世勘九郎、生き残ったイノシシを八世…たぶん名優がいるのだと思いますよ、猪はこの人しかありませんという役者、大向こうから、待ってましたボタン鍋と声がかかるようなお方、そんな配役でやってくれたら私なんか財布をはたいて桟敷席…やはり無理で天井桟敷の3階席にすぐに見物に行きます。そういえばシシ年も残り日を数えています。
芸人は何世とか何代目とか名乗りますが、外国でも親子が同じ名前というのが多い、トランプもオバマもです。こちらは芸名ですが、あちらでは戸籍も同じで、よっぽど親父は自分の名前に自信を持っているんですな。もっとも中には考えるのはめんどくさいから同じでいいや、そうすりゃあ役所の戸籍係の人もいちいち字を書かずに、点々を打って同と書いとけばすむという不精な人もいるようです。
「燕柳さん、枕とかぶってるよ、よしな」
マスターが声をかける。
「厳しい催促、まるで掛取りだね。令和元年に別れを告げようとしているのでげす。落ちがないまま、ハイ終わりでげすか」
「爺婆にハイ終わりは忌み言葉よ」
笑いながら言う林姫にRR池田が毒づく。
「どうせすぐには死なない奴ばかりだよ」
「明日ありと思う心の仇桜、せいぜい長生きすると思っていればいい、諸行無常だ」
春本行者も自分は死なないつもりだ。
「春になるまで生きていたいな」
野瀬ボンはロマンチストだ。
「身体パーツは耐用年数以内です。医者がメンテナンスをしてくれていますから大丈夫でしょう。不可抗力の事故はしかたない」
メカ吉川は機械工学を人間にあてはめる。
「昨今は趣味も仕事も家庭もほどほどにしているよ、」
JW藤野は得意の憂愁の微笑を浮かべる。
「客がいるから店が閉まらないんだよ、すっかり暗くなった、足元に気をつけて早くお帰り、令和2年2020年と2尽くしさ、もし生きて元気だったらまた会いましょうや」
マスター田辺が椅子もテーブルも片付け始めた。追い出されるように皆は帰っていく。中路が最後に残った。
「マスター、心配事があるようだが大丈夫かい、ふだんの様子ではないよ」
マスター田辺は嘆息した。魔法が解けたように店は閑散、荒涼とした姿になった。
「税務の方は安泰だ、客が来ないから査察はない。消防は耐震基準とか消防設備とか攻めてくる。俺も疲れたから、いずれ建物もろとも崩壊するかもしれん」
「マイナー思考だ、起死回生を図る妙案がある、短期間だけもうけて、すぐに元の廃墟に戻るというのはどうだい」
「廃墟探検という客もいるからね、けど、大もうけの話は聞きたいね」
マスター田辺はそのまま座り込んだ。
「ヒントは葉山女子旅キップだ、執事喫茶を提案しよう、ターゲットは若い娘とおばさん、それに執事がサービスするのさ」
「風俗営業ではないな」
「当たり前だ、そんな元気者がここにいるか、第一、落魄の気分が漂うこのカフェでは色っぽくはなれないよ」
「昔、俺はこの庭で今の女房に口説かれた」
マスター田辺が案外なことを言う。
「そして手ごめにされたのか、鏡を見てから物を言えよ、こんな計画だよ」
予約制にして注文を聞いておく。お相手はミュージシャン、サーファー、俳優、もちろん大学教授と医者と牧師、父親・大伯父、元伯爵の息子、そんなところか。
「衣装をみつくろう、ミュージシャンならロックは黒革、フォークならブルゾン、クラシックなら正装、この仲間なら古着をいくらも持っているだろう」
「えっ、この連中がやるのかい」
「暇なんだ、いい気晴らしさ」
サーファー風ならアロハ、俳優ならジャケット、伯爵・執事は式服、父親や伯父はネクタイをしめて、またはラフなジーンズ、それなりの小道具を持って客を出迎える。
「あとは悩み事相談でも浮気トークでも、優しい励ましでも厳しい叱責でも、相手の言葉に応じて受け応えればいいんだ。皆、人生の中で演技してきた連中だ、できないはずがないだろう」
ドカドカ足音高くRR池田が戻ってきた。
「大変だ、カバンを忘れた、あった、中身は…大丈夫、泥棒はいないようだ、それで何を話しているんだ」
「もうけ話、女とつきあいたいかい」
さっそく中路が誘い水をかける。
「いいね、女の声が聞きたいね、相手は選ばんよ、美人で金持ちで優しくて尽くしてくれる女だったら誰でもいい」
RR池田は身の程知らぬバチ当たりだ。
「俺は外国航路の船乗りだ、港々で女を抱いたが日本の女はよく知らない…そんなスタンスで相手の言うことに、いちいち相槌が打てるかい」
「だって俺は海外旅行もしていないぜ」
「相手はただ話したいんだよ、聞きたいんじゃない。そんな昔は覚えていないとボガード調で黙ってしまえばいいんだ」
「それなら得意だ、いつも女房にそうしてる、それはなんの企画だ」
「ここで執事カフェをやろうというんだ」
「いい娘は来るかい」
「たぶん欲求不満で横柄な奴ばかりだろう」
「家と同じだな、慣れてるよ」
そこにJW藤野も戻ってきた。
「君ら、よからぬ相談だね」
「お前ならピッタリだ。しかじかこうだ」
「フンフン、それで俺の役はなんだ」
「俳優、医者、父親」
「伯爵をやらせてくれ、シルバーのジャケットがあるんだ。牧師もできるよ、手を取って懺悔を聞いてやる。聖書を手にして、あなたの罪は償われたと言う、祝福してやる。天国は間近い、女は俺の胸に泣き崩れるね」
「風俗にならんように自制できるか」
「相手による。注文の時に相手の自撮り写真を添付してもらおう」
野瀬ボンものんびりと戻って来た。
「ミュージシャン、サーファー、義理の弟というのがあってもいいですね。もちろん詩人を求める女性もいるでしょう」
話を聞いておおいに乗り気な様子だ。
「フォークソングがテリトリですがロックもやれます、ヨット乗りというのはどうですか。クルーザーの知識はあります」
燕柳兄さんが風に吹かれたティッシュのようにフラリと入ってきた。
「一度消えた明かりがついて、なにやら押し殺した声が聞こえる。二幕目は濡れ場ときまっておりやす。といっても誰と誰、見当もつきやせん。後学のため戻ってきました」
「燕柳兄さんは伝統芸能全般だな」
「なるほどそういう話でござんしたか、結構。小唄・三味線・踊りの師匠なんでもござれ、歌舞伎役者もできますよ」
「幇間(たいこ)はどうだい」
「女客相手にはいけませんや芸尽くしをさせられて疲れるだけ、噺家もできますよ」
「お座敷がかかりそうもないよ」
RR池田がニヤニヤ笑って言う。
「野瀬ボンはマゾっ気があるから、ヒールになって思いっきり女に叱られる役というのはどうだい」
メカ吉川も知らぬ間に戻って後ろで聞いている。
「それは吉川さんの役でしょう。四角四面の堅物で融通が利かない、そんな亭主を持つ女房にありとあらゆる悪口を言われて涙ぐむなんてのが適役ですよ」
メカ吉川は自画像を思い描いて沈黙する。
「あとは政治家、官僚、銀行員、学校の先生だがそれは俺の本役だろうな」
中路が言うとJW藤野が笑った。
「きっと昔のうらみを思い出してかっとなった相手が刃傷沙汰に及ぶだろうよ」
ワイワイ言い合っていると林姫が顔を出した。
「私を追い返して悪い相談をしている、皆さん眼が輝いているわ、私は勘がいいのよ」
話を聞いて納得した。
「自分がしゃべらずに聞くだけ、それも同じ繰り返しを何度も何度も、それって疲れるわよ。礼儀正しく、お客様にする、君たちにできるかしらね。メイド喫茶は接待マニュアル通りに可愛くやればいいの。執事喫茶ではでたとこ勝負だから臨機応変の才がいるわね」
「幇間は長生きできない商売です、酒を飲むからね。けど珈琲なら大丈夫、それにここの珈琲は薄いからね、健康増進に妙薬です。大田蜀山人は文化元年にロシア使節のレザノフと長崎で会って珈琲を飲んだら不味かったと書き残しておりますね」
「兄さん、もう裾枕かい、まだ早いよ」
JW藤野が口を封じる。
「やりましょう、応援するわ。私、マネジャーになります。話の内容はすべて報告してもらいます。キャッチコピーが安全安心執事カフェ」
「清風一刻値千円」
春本行者の役は決まっていない。易者や占い師くらいだが趣旨に反することにならなければいいが。
「愚痴も悩みも流しソーメン」
RR池田が誇らしそうに鼻ピコで言う。
「やめます、そのコピーではやる気がでませんよ」
野瀬ボン辞退
「僕も脱落、それは恥ずかしい」
メカ吉川逃亡。
「昭和のクサイ、平成のダサイ、令和はなんと言うのだろう、もっと良いフレーズにしてほしい、でないと三抜けするよ」
JW藤野は態度保留、ともかく棚上げになった。
さてこの先がどうなりますでしょうか、麻美ちゃん弟子入りの一件、執事の按配、令和2年はネズミ年、めでたさもチューくらいなりおらが春、一茶も喝破しております。
とりあえず皆さん、よいお年をお迎えください。
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