ちょっと打ち明け話がありますのでご足労いただけませんか、燕柳の葉書が舞い込んだ。虫食いだらけの枯れ落ち葉のようなみすぼらしい文字が並んでいる。もの好きな一同はかえって張り切って集ってきた。
「ちょいと皆さんにご相談、いつもの本題とは離れたつまらない話です」
いつもに似ず重い雰囲気で燕柳が一同を見回した。いつも本題などと名乗る格式の高い話はしていない。
「また女か、好き者め」
RR池田は無遠慮だ。
「女に間違いありませんが、ちょっと若い」
「くだらんことをすると逮捕されるぞ」
「池田さん、聞くのが先でしょ」
林姫にたしなめられてようやく燕柳は話し始めた。
「マスター田辺さんの孫の麻美ちゃんが弟子入り志願にきましてな、困った」
学校寄席に来た若手女流落語家に魅了されたのだという。学校はとうに嫌気がさしている。授業も同級生も先生もくすんでいる、しかし芸人は輝いていた、そこに自分の活路を見出した。とりあえず燕柳を師匠にしたいのだという。
「親御さんは承知なの」
林姫が心配する。
「引きこもるよりいい、学校を出て平凡な生活をするより面白そうだ、お願いしますと菓子折りを持ってきました」
「ところでさぁ、前から不思議に思っていたなだけど、だいたい燕柳兄さんとはいったい何者なんだよ」
RR池田が無遠慮に聞く、皆を代表しての質問だ、全員がうなずいた。
「私も若い頃は本格的に古典落語の修業をしたものでげす。あの当時はキラ星のように大師匠が並んでいましたな。その中の一人になりかけたのですが」
照れもせずに燕柳が言う。
「永井荷風も落語家になりましたね、あの師匠は誰だったろう」
JW藤野は芸術家のパトロンを自認している。
「朝寝坊むらく、六代目の。立花屋橘之助と結婚したり、上方に行ったり、なかなか派手な人でした。しかし私の師匠は売れない真打でくすみきっていました。その時の私もひきこもりみたいなもので、噺の中の勘当された若旦那、船宿の二階にくすんでいるみたいなもんでげした。それが一番売れない噺家を師匠に選んだようなわけで、私はひねくれ者でしたな」
高座に呼ばれない、だから貧乏、いつも家にいる。六畳と四畳半のアパート、本来内弟子なんて無理なのだが師匠は頑固で見栄っぱり。その貧乏の実感が噺から伝われば客も喜ぶのだろうが、そうは問屋が降ろさない。正直、師匠は下手なのだ。
「そうはなるまいと修行すれば私も名人になったのかもしれませんがね」
「師匠のまくらは絶品だよ」
JW藤野は芸術家のパトロンを自認している、噺家は古典と新作の芸術家だ。
「それで、よく飢え死にしなかったね」
RR池田が珍しく同情する。
「世間様はありがたいものです」
永の年月一人暮らしの老人の所に生活体験の薄い若い男が来て同居してしまう。
「昼飯を私が作ります、ひどくまずそうに師匠が食べるのでつい箸を伸ばすと確かにまずい。のべつ小言を聞きながら、なんにも考えずに言われたことだけやっている、確かに引こもりにはいい境遇です。なんで自分がここにいるのかなどと考えもしないし、ここに自分がいるのを師匠も不思議に思わない。ヘルパーさんを頼むと銭がかかる、もしかすると自分は師匠の介護士なのかも、妻なし子なし貯金なし、この先のあてもない老人のお世話するのが内弟子かい、まあそれでもいいさ。そんなことを思うと心が休まりましたな」
楽屋で師匠の帰りを待っていると、珍しく誘ってくれたのが場末の蕎麦屋だ。汚れたノレンを分けて入ると、まず小言だ。間が悪い、エエが多い、言葉が滑る、上っ調子だ、ムダばっかり、テケレッツノパ。
モリ一枚に一本つけてほどよく上燗(じょうかん)でね、どうでぇ江戸っ子だろうという注文だが、私はカケに冷酒、たちまち師匠の眉間にシワがよる、でも逆らいたくなる性分でしたな。よれよれセーターとズボンの師匠に擦り切れたジーパンとジャンパーの弟子、高座着の入ったカバンも古びて手擦れができている。店では勘定のことを心配していたでしょう。
こいつは引きこもりから心機一転、噺家になりました、挨拶もろくにできない奴ですが、どうかよろしくと師匠があちこちを引き回してくれましたが、もういやになって、こちとら辞めちまったっていつでも引きこもりに戻れるんだとたんかを用意しました。
「そういう引きこもりの確信犯ばかりだとカウンセラーは楽なんだけどな」
林姫は燕柳の顔を穴のあくほど見つめている。
冷たいモリで人肌の酒をね、お前はどこの生まれだっけ。東京です、温かいカケに冷たい酒が好きなんです。それでも江戸っ子かい。では師匠のご出身は。埼玉だ。老人の手がのびる、私は殴られるかと思って身構える。ありゃあどういう展開だい、冷たい骨ばった手が私の手を握る。年寄りは涙もろい。人が見ますよ師匠、店も迷惑でしょう、帰りましょうや、オレも温かい手で握り返す。
「これが弟子と師匠のきずなです」
「話はきれいだが、現場で見る情景はむさくるしいですね。それで師匠も麻美ちゃんの手を握りたいのですか」
能勢ボンはトンチンカンだ。
「麻美ちゃんには噺家でやっていける素質があるのかしら」
林姫が大人の対応をする。
「私には後援者を自認するご隠居がいて世話をやいてくれました」
その隠居が稽古の相手をしてくれる。
「寄席をよく知っている人でしたな、少しヤカンではありましたが」
「なんだハゲ頭か」
RR池田が口をはさむ。
「知ったかぶりする人をヤカンと言うのよ。兜の代わりに水沸かしをかぶって、矢が当たるとカンという。少し静かにして燕柳兄さんの話を聞きましょう」
林姫は多少は落語通らしい、ヤカンを湯沸しといったらヤカン老人に怒られて、湯を沸かしたら熱くて飲めない、水沸かしと言いなさい、そんな知識があるのだ。
しかし燕柳は久々に高座に上がったような気分になって話し続けた。
「ちょいとさらってみたらどうだね」
「私も舌がムズムズしていたところです、ご免なこうむってお古いところを一席」
寄席に行けば銭がかかる、私にしゃべらせればただです。当時から私はまくらに凝っていました、こんな調子です。
春になったね、と言うだけでなんかこう気分がポカポカしてまいります。冬が近いねなどと言われると背中がゾクゾクしてくるし、もう夏だよ、と言われると汗が吹き出てきます。人間というものは気分のものです。
春はいいですな、梅は咲いたか桜はまだかいなツツン、なんてね、ちょっと遊びに行きたくなります。これが冬ですとインフルエンザは大丈夫かいとか、夏には熱射病に気をつけなとか、ビクビクしながら外にでます。ただ春は花粉症の方にはお辛いようで、ティッシュの箱をそばに置いてね、ティッシュがなくなるか鼻がすりきれるかなんて、敵討ちのように構えている。気の毒ですが慰めようもありません。なかには杉と聞いただけでもダメな人がおりして、杉良太郎ハクション、上杉謙信ハクション、スギの停車駅は東京ですハクションなんて、困った方がおりますもんで。
「軽いまくらだね、燕柳さんの人(にん)にあっている、ご隠居はそう言って褒めてくれました」
「人(にん)にあうとは何だ」
RR池田が言葉尻をつかむ。
「つまり芸風・風貌・口調・その他がぴったりだから無理がないということよ」
RR池田は、その他、にこだわろうとしたが林姫ににらまれて口をつぐんだ。
「こんなまくらをふっておいて本題に入ります。蜀山噺をお一つ、
一刻を千金づつにしめあげて六万両の春のあけぼの
蜀山人の狂歌でございます、大風呂敷で江戸っ子好み、たぶん仲間と勇躍、吉原に遊びに行く時でしょう
「どうでぇ、この景色は、いいね。しめて六万両だよ、大金持ちの気分だね」
春宵一刻値千金と申します。
「なるほど一分が千両で一時間になると六万両か、豪勢でいいね。俺なんかも、その大根いくら、80万円なんて言ったもんだよ」
RR池田は金の計算は速い。
「学校寄席で何を聞いたかしらないけれど、本格だったのかしら。燕柳兄さん、麻美ちゃんに古典をじっくり演じて聞かせてみたらどうかしらね」
林姫も口をはさんだ。
「なるほど、それで落語が嫌いになれば良いということですね」
能勢ボンがすかさず応じたので燕柳の口がとがった。
「難しくて自分にはできないと思わせればいいのよ」
林姫がとりなすが燕柳の機嫌は直らない。
「私たちも後援するから、昔のご隠居に聞いてもらうもりでやってみてはどうですか」
JW藤野がパトロンの笑みを浮かべて穏やかに言うと、ようやく燕柳も笑ってみせた。
「蜀山人にはケチがつきました、都々逸坊扇歌をやってみましょう」
「椅子では小言も言えないでしょう。マスター、居間を借りるよ、独演会の始まりです」
中路はずかずかと家に入って、勝手知ったる八畳の部屋にあぐらをかいた。後から皆が入る。座がおさまると燕柳はピタリと扇子を前に置いて話し始めた、皆は少しだけ名人の風格を感じた。
燕柳「小話扇歌」
この頃はカラオケというものが流行りますようで、町の小さな喫茶店や飲み屋にも、よく、一曲100円とか歌い放題千円とか書いてある。それで入ってみると、これが大変、世の中の後期高齢者という人がみんな集まってきたような集会で、入ってきた人をジロッと睨む。私のような臆病者はこれだけで、ハイさようならと退散します。伺ってみたら、客があとから来てカラオケに加わると自分の歌う番が遅くなってしまう、だから協力しあって、ひと睨みで追い払うのだそうで、老人パワーというものは恐ろしいものです。
今、カラオケといえば世界共通の言葉だそうで、アメリカでもロシアでも中国でも通じるそうです。この前、一座に加わって南米に行きました。ご当地の日系人に落語を聞いていただくという趣向で人呼んで落語大使、大人気、私もそのうち外務大臣になってくれと言われるのではないかとビクビクしております。
幕末から明治・大正にかけては都々逸というものが流行りました。宴席で都々逸の一つも歌えないと肩身の狭い思いをしたもんで、あいつは野暮だねとか田舎もんだとか言われたものだそうです。また、短い文句だけにヤアヤアなんて言いながら聞く人もちゃんと聞いてましたな。そこへいくとカラオケは誰も聞いてません。しゃべったり飲み食いしたりしながら、早く終わればいいと思っている、終わったとたんに、やあ良かったよ、サイコーなどと、人情というものが感じられません。
腹がたつときゃ茶碗で酒を 飲んでしばらく寝りゃ直る
天保の頃、都々逸坊扇歌という名人が出て、江戸中に広まりました。お目の悪い方で、なんでもお父っあんが医者で、赤ん坊のときに熱を出したら、カツオは毒だというが本当だろうか、と息子に実験してみて、ああ本当だったと、親父は満足ですが、息子はたまったものではない、目が不自由になりました。艱難辛苦、江戸に出て、都々逸で名人と呼ばれるようになりました。
棟梁 師匠いるかい。
扇歌 おう、棟梁ですか、お早いことで
棟梁 夜の遅い仕事だから、起きているかどうか危ぶんだよ、ところで
師匠、こんだの晦日は体があいておいでかい。
扇歌 寄席は休みですから、よござんす
棟梁 いやね、あっしが手伝わせてもらった普請がようやく終わって
ね、その披露目の祝いをするんだそうだ。ぜひ師匠に花をそえて
もらいたいと思ったんだよ。
扇歌 どちらのお屋敷で
棟梁 木場の材木屋、鹿島屋さんの座敷普請さ、旦那が一中節に凝って
なさる。立派な舞台を造られてね、ご商売だけに木曽のヒノキを
ふんだんに使って節ひとつない、いい出来だ。お前さんにも、ぜ
ひ踏ませてやりたいと思ってさ。
扇歌 そりゃありがとうござんすが、どうでしょう、旦那の一中節と私
の都々逸では芸の格がちがやしませんか。
棟梁 お前さんは江戸一番の芸人だ。旦那の素人芸とは訳がちがう。実
は普請のさなかにも芸自慢があってね、ちょっと中っ腹だったの
さ。じゃあ迎えを寄越すから頼んだよ。
昔の江戸の町ではあまり立派な家は建てなかったそうで、というのも火事の多いところで、じゃんと半鐘が鳴ればどんなに金をかけた家でも灰になってしまう。江戸城天守閣でさえ、明暦の大火で焼けてしまってから、それっきり、になっています。しかし、地方に行きますと立派な家がありますな。大黒柱なんかこんなに太くて、梁なんか自然の木の形に曲がっていたりして。実は私の家もなかなかで、柱は樹齢300年という栗の木…の枝くらいの太さで地震のときはよくしないそうです、天井は薩摩の鶉目(うずらもく)…のようにシミが出ており、障子は五代目左甚五郎と自分で名乗っていた建具屋の半ちゃんの作で、ゆがんでできた1寸ほどの隙間から風を通す、いつでも新鮮な空気を吸うことができます。
扇歌 木の香がすがすがしいですね
棟梁 木曽のヒノキだ。強くて長持ちするよ、末代ものだ、アントニ
オ・ヒノキというくらいさ。
旦那 おお棟梁、来なすったか。
棟梁 あっ旦那、こんちおめでとうございます。扇歌師匠をお連れ申し
ました。
旦那 おや、そうかい、ありがとう、と言いたいところだがお前さん
ね、前にも言いましたが今日は私の一中節の仲間もおおぜい来て
くれるんだ、これから芸尽くしをして楽しもうというだよ。寄席
芸人風情にね。扇歌さんとやら、一中は京都のお公家さんに始ま
る芸だ。お前さんのような一代限りの芸とはわけが違います。こ
りゃ少ないがご祝儀として、お祝いのお気持ちだけをいただきま
しょう。こんちありがとうござんした。
棟梁 旦那、扇歌師匠は江戸っ子の誇りだよ、人情の機微を七七七五の
わずかな言葉にこめて喜怒哀楽を唄い込む名人だ。そりゃ了見が
狭くありやせんか。
旦那 おや、棟梁、きいたふうだね。腕は良し江戸育ちだがちょっと木
目が荒いようだね。客間には使えませんよ、せいぜいがカマボコ
板というところだね。
棟梁 旦那、見かけは紫檀だが、芯はおがくずってこともありますぜ。
扇歌 棟梁、材木仕立ての喧嘩をしないでおくれよ。結構です、おいと
まいたしましょう。
と、扇歌はつっと帰ってしまった。
番頭 これだから宴会はいやだよ、みんな飲むと尻が重くなってね。
手代 旦那の一中節をいやと言うほど聞かされましたね、どうやってあ
あいう声が出るんだか、こりゃ夢にうなされますよ。
番頭 おや、ご覧よ。このついたてはあつらえたばかりなのに、なんか
書いてあるよ。
手代 性の悪い客がいたずら書きしたんですよ。なんて書いてあるんで
すか。
番頭が見るとついたてに墨黒々と達筆で書かれている。
きにいらぬ ふしもあろうに材木屋
手代 旦那、これも一中節ですか。
旦那 いや、これは川柳だ。ああ、私があんなことを言ったから、扇歌
が書き残していったんだよ。なるほど、洒落たもんだね、打てば
響くというが。番頭さん、明日一番に扇歌師匠に詫びを入れに
行っておくれ。お披露目のやり直しだ。それにしても、私も一中
節じゃあ玄人はだしと言われているもんだが、今度ばかりは目が
利かなかった、とんだ節穴だね。
番頭 なあに、旦那の一中は、節がないので聞かれません。
都々逸も歌いつくして三味線枕 楽にわたしも寝るわいな
辞世の唄だそうでございます。
「とんだところで一席つとめさせていただきました」
手ぬぐいを顔に当てて汗を吸わせてから燕柳が頭を下げた。
「ふぅん、笑点とは違うんだ」
RR池田と春本行者は半信半疑、メカ吉川も変な顔をしている。林姫がとりなした。
「古典落語は笑わせないのよ、登場人物それぞれの人(にん)を語り分けるのが腕なの。笑点だって大幹部の方がやっているから聞けるのよ、たまに若手とかアナウンサーが大喜利をやっても面白くないでしょう」
「しかしつまらないな、漫才の方がいい」
RR池田の評価基準は現代的だ。
「渋い噺に軽いまくら、それが燕柳兄さんの性根ですね、生き方にもかかわっている」
JW藤野は芸術家のパトロンを自認している。
「これは若い娘には無理だね、カンガルーにモグラの穴をのぞかせるようなものだ」
能勢ボンの詩的世界だ。
「わしは一中節というのは知らんがご詠歌なら知っておるぞ」
春本行者が詠いだそうとするのを中路があわてて止めた。
「マスター、聞いていたよね」
「ああ、麻美に言ってやるよ。コーヒーの香りはしないって、まるで昆布茶だな」
「あら新作落語は新しいわよ。演者もファンも若い人ばっかり」
林姫が割って入った。
「そういう師匠のところに行けばいいんだ」
RR池田が無遠慮に言う。さすがに燕柳も苦笑するしかなかった。
「結論が出たようですので後は皆さんにお任せヨイショと、カンガルーの夢でも見ることにしやしょう」
燕柳が立ち上がると、さすがにJW藤野は気を遣った。
「麻美ちゃんが燕柳兄さんを選んだら弟子にしてやってくれますか」
「なりゆきでね」
絵画終わって帰る燕柳の足取りは重かった。思い出すことがたくさんあった。まず住んでいた東京の場末が目に浮かんだ。こんなに閑静で瀟洒な所ではない。
古い自動車修理屋はT型フォードの故障も直してくれそうだ。ブリキ板に手書きで曰く、自転車のパンク修理千八十円、一箇所増二百円と書いてある。道路はどこもご婦人の肌よりも余程滑らかで、何箇所もパンクをするとは思えないのだが律儀に書いてある。そこを行き過ぎると大安売りの紳士服店もう何年も前から店仕舞いのビラが貼ってある。百万国加賀様の名前を記した居酒屋があるが下戸の燕柳には敷居が高い。小さなトンカツ屋にも何度か入ったが年取るにつれて暖簾をくぐることが少なくなった。
確かに古典落語に似合わしい景色だ、人情風俗も物語も演者も。女子高校生がはつらつと駆け出していけば白眼視、カラオケの老人たちのように排斥するだろう。
ちょいと前にツインテールを茶髪に染めた派手な顔だちの娘が花屋を開いた。明るい光りがまばゆい間口一間の店だ。赤や紫の花がくすんだような界隈を明るくして、通りかかると良い香りがした。住人は喜んだ。前の店はアフリカやアジアの気味悪い彫刻や雑な作りのカゴなどをならべて線香とも何ともつかない妙な匂いがした。人っ気のない夕刻など避けて回り道をする老人もいた。
今度は花屋でよかったよ、仏壇と神棚を持つ老婆たちはうれしそうに言った。一人がおそるおそるシキミを買いに行った。なに、それと聞き返されて逃げ帰った。今度は仏壇の花を買いに行った老婆が五百円のつもりで五千円の花束を作られそうになった。菊とか桔梗とか仏様が好きそうな花はまったくない。客は黄色く光るサングラスの男や肌をむきだしにした女、それも二ヶ月ほどで終わった。娘の姿も見えなくなった、飽きてしまったらしい。
しばらくしてリフレクソロジーという看板に変わった。近所への挨拶など何もない。町会長さんが行ってみるとコンニチワという妙なアクセントで挨拶された。なんの店ですか。ワタシタチ、マッサージする。それは困る、風紀が乱れる、とは言っても近所に子どもなどいやしない。チガイマス、フウゾクではない、本当のマッサージ。昼休みや夕方になると会社員も来るようになった。ならばワシらもどうだろう、爺さんが言ったがご婦人たちは許さなかった。とうとう会長夫人が偵察することになった。
「あたしゃ二度といやだよ、なんかベタベタ塗られてツボも何もあるもんじゃない、顔ばっかりいじられて、肩も腰もおかまいなしさ、変に目の釣りあがった女だったよ」
フェイスマッサージというのを知らずに頼んだらしい。爺さんの自制心が限界になる前に店はつぶれた。
わずかの資金で商売に踏みだした若者の所詮は道楽だった。
新作落語というのも似ています。燕柳は思うのだ。寄席に来る若い客は増えているがまだ少数派、独演会やホール落語とは違う。人気者は若者を集めていよいよ華やぐが、寄席に巣食ったような者たちの寿命も長い。若い者の店がすぐにつぶれ忘れられるように新作落語の命は短く、古典に回帰していく。古典を現代風に改作しても鮮度を失えば捨て去られる。生き残るのは古典なのだ。
「扇歌噺は昆布茶かい、私はコーヒー党なんだがね」
つい口に出してつぶやいた。閑静な裏通りに人影はない。
「蜀山人太田南畝は酒好き宴会好きの粋人でしたがコーヒーはお気に召さなかったようですが、江戸の昔にコーヒーを飲んだ数少ない人です。私はコーヒーに目がない、こんなふうに思うと昔の人と知己になったようでうれしくなります。今はラインとやらでたくさんの知りあいを作るそうですが本当の知己がいるのかどうか、私はラインのつながらない蜀山人をごく身近に感じています」
ふと『千両蜜柑』をアレンジしてみようかと思った。江戸に名高い蜀山人先生を見なければ冥土には行かないと頑張るご隠居さん。
オチは小噺の『牛鍋』にしてもいい。牛なんか気味悪くて食えんという男が牛鍋を食べて「ああ、これなら好きなんだ」という。
弟子入りが一件落着してほっとするような、寂しいような気分だった。若い者が最初から新作をやるのは困る。話芸と笑芸との区別がついてから、それまで熟成しておいたネタを商品にすればいい、その辛抱ができますか。そんなことを思ったが、ただ女子高生というのが身近にはべるのは魅力を感じている、孫ほども年の違う、あやうく行き過ごすところだった。
3日過ぎて、近頃の若い者がそれほどやわではないのを思い知った。忖度だ世間体だなどと悠長なことは一切皆無、イルカが泳ぐように麻美がやってきた。
「よくここが分かりましたね」
「グーグル地図で」
「この前ご両親と…」
「それより師匠、名前をつけてください。実家とは縁切りするのですから」
想像したよりこじんまりして色の白い娘で目鼻立ちも平凡、世をはかなんで噺家になる昔の歌笑タイプではない。
「子が親の縁を切る!結構です、私もそうしたかったね」
「祖父から聞きました。師匠は若い頃、引きこもりだったんですってね」
言葉の独り歩き、勘当の若旦那を気取ったのだが裏目に出たようだ、しかし尊敬の眼差しでこちらを見る。
「昔のことでげす、麻美ちゃんは…」
べつに聞くことがない。なぜ落語家をなんて野暮はいえないし、正業につきなさいなどと説教のできる境遇ではない、面倒になった。
「こうしやしょう、名前をつけます。ただし燕柳だけが承知、落語協会も芸術協会も立川流も円楽党もかかわりなし、よござんすね」
「それで落語を教えてもらえるんですか」
「もちろんでげす、ただし、いざ高座に上がることになったら知り合いに頼んでその一門の前座にしてもらいましょう。近頃は噺家も二世・三世の時代で、いい名前はみんな世襲になりつつあります。さて何としたものか、コーヒーのご縁で新風亭の豆香はどうです」
「それって、なんだか舞妓さんみたいではありませんか」
「では私が燕柳、燕と柳は小野道風、その一族が小野小町、新風亭小町はどうですか」
「きれいな人はきらいです」
「花札でいえば柳と燕は11月、霜月の縁で霜焼けは嫌でしょうし、霜降りはもっと太った人だ。霜花はいかがです。あなたは色白でキリリとしている、怜悧な顔ですからとても噺家とは見えません」
「師匠もそうですね」
「これはありがとうございます。褒められたのは百年ぶりだ。あなたバカになれますか、バカのふりはできるがリコウのふりはできないと言います。昔から客は噺家が少しバカだと安心する、優越感というものです。教養と知性のあふれる現代ではなおさらです」
「私がバカのふりをするのですか」
「噺家の宿命です。人間というのは相手がバカだと安心して本性を見せます、人間を知るには一番良い方法です。ところで、なにか噺ができますか」
「なんにも」
「それはよかった。素人が噺を覚えると必ず誰かの口調になります。落研(おちけん)に入るとそれを自慢します、直すのに大苦労」
「落研って何ですか」
「大学には落語研究会というサークルがあります。そこで研究するなら見上げたものですが実演してしまう。現役の落語家も落研あがりの人がたくさんいます」
「では私は入りません」
「入ってください、名づけ親の要求です。まず大学、それもとびっきり難関という学校に入りなさい、リコウ者がたくさんいます。つまりバカのふりの競争相手が少ないから人間観察しやすい。そして落研に入る、ただし古典落語はやらずに新作に打ち込む」
「なぜですか」
「若い娘が、エーご隠居さんだの熊さんやなどとしゃべるのは噴飯(ふんぱん)ものです」
「噴飯って何ですか」
「食べていたご飯を噴き出す、つまり飲み込めない、味も舌触りも最低ということです。新作ならあなた自身と友だちが登場するから口調が自然になりますが、お客に聞いてもらうための工夫をしなければならない、それが修行です」
「私が創るんですか」
「ウグイスとホトトギスは知っていますね、東京にいたころは林家猫八さんの芸でしか聞きませんでしたが、ここに住んだらうるさいほど鳴いている。昨日、こんな小話を創りました」
目に青葉 山ほととぎす 初鰹
この季節のいいとこどりをした俳句です。
「目に青葉」は誰でも無料で見れますが、初鰹は大変で、江戸の頃は一匹に数万円も払ったそうです。それでも食うというのが江戸っ子の見栄っ張り。
いずれ負けいずれカツオとほととぎす
ともに初値の高う聞こゆる
唐衣橘洲という方の狂歌ですがあまり面白くない。
ホトトギスの鳴き声っていうのは例の「テッペンカケタカ、テッペンカケタカ」というやつで「東京特許許可局」をホトトギスがパクッたそうですな。
しかし、伺ってみたら、あのホトトギスというのは中々の悪女で、卵を産みたくなるとウグイスの巣に忍び込んでヘヘヘッ、シメシメなんて言いながら留守のうちにこっそり産んでしまう。ところがヒナは親よりもっと悪党で、自分が真っ先に卵から出て本物の卵をみんな地べたにおっことしてしまう。親はホトトギスの子だと気がつかないで大事に大事に育てて大人にするってんで、こりゃ半グレどころではありません、初音のかげに事件あり。
「これを高校生の噺にしてください」
「へえ、シリアスでもいいですか」
「そういうのをおっかなびっくり聞くお客もたくさんいます」
「子育て放棄、子殺し、ゲノム分析で親子でないことが判明、自虐的養母、そして子は親と同じ道を歩む、そんな話になりますがいいですか」
「新聞の社説ではなく落語の小噺にしてくださいね」
「できたら、ライン?そうかメールで送ります、アドレス教えてください」
「公開はしないでくださいね」
なんと燕柳はスマホを持っていた。
麻美はほくほくと帰った。それなりの大人と対等の話ができた満足感だ。しかし、麻美は燕柳が仕掛けたトラップには気づいていない。
・受験勉強を乗り切って難関大学に入る。将来が開けるので噺家希望も思
い出話になる。
・創作に知恵をしぼれば。作家とかコラムニストとかもっと軽い雑文ライ
ターとか別の道が開けていく。
・同級生とか先生とかを興味の対象にすると、 すぐに仲間ができて苦楽
をともにし、恋愛から発展して結婚までの段取りが出来る。
・自分のキャラを意識していけば、内面も外面も磨かれて、自由自在に社
会を泳げる。
我ながら苦労人は違うなと自負したが麻美の仕掛けたトラップ、つまりスマホの誘惑に感染したのに気づいた。いつ連絡が来るのか。ラーメン食べたよとメールがあるかもしれない、どう返答しようか。いつ、あの埃の積もった小噺を高校生が現代に映し直してくれるのか、それも楽しみだ。
反面でスマホ、スマホと浮き浮きしている自分をおかしく思った、それが老人の余裕だ。
ケータイを買った時、ご近所の魚屋さんは言った。
「あら、師匠やだねケータイなんて、ポケットの中でビリビリ痺れるんだろ、詐欺にあわないようにね」
米屋のお婆さんはズバリ当てた。
「燕柳さん、また落っこちかい、今度の相手は誰だい、内緒の話を聞かせておくれ」
そんな情景、そんな時にできたまくらや小噺が次々に浮かんでくる。ケータイはスマホに変わる、あの時の販売店の娘がめっぽう艶っぽかったのだ。
翌々日メールが届いた。想定外に早かった。
「ホトトギス考え中、こんなの創りました」
「ちかごろ寿司屋のかけひき 麻美小噺」
私はお寿司屋さんに一度だけ行ったことがあります。父に連れられて、私の父は苦労人で、以前、日産自動車で社長をやっているときが一番辛かったと常々言っているお爺さんの介護をしたことがあるそうです。
寿司屋の親父さんはプロ、こちらはめったに寿司屋に行かないド素人ですから、おそるおそる顔色を見ながら注文しています。
「えぇ親父さん、へへへ、最初はマグロをね、へへへ、お願いしますだ」
お奉行様の前で言い訳するような笑い顔が情けない。また寿司屋の親父というのが立派な押し出しをしていて、売り物は海老とマグロと頑固偏屈だったり、機嫌を損ねると包丁持つ手をピリッと動きますから気が気ではありません。
「えぇ鯛を」
「シメかいアブリかい」
「えぇアナゴを」
「ツメかいサビかい、ツメはニキリだよ」
周りの客は息を潜めてなりゆきを見守っている、あれはパワハラの一種ですね。
バブルの頃は、会計は会社持ち、右肩上がりで風切って寿司屋に入る会社員が、ハマチ・イクラ、シャコ・ガレージなんて洒落を言っていたそうですが盛者必衰、古文の先生が言っていました。しかし近頃は外国人が常連になるので仕込みを変えているそうですね。
○ へい、まいど、ウエルカム、ワッツ、シェイク
英語話せますと看板に書いてある。
● オー、シェイクハンド オッケー 日米親善万国旗、トランプ安倍
バンザイ。タマゴを注文するのがワンだって聞きました。
○ それってツウじゃありませんか。お次は。
● あの、アメリカで評判のお豆腐にヨーグルトつけて粉チーズはさん
だトロトロ巻き。
○ 握りにくいな
● メルティでスムージィ
○ うるさいね、はいお待ち、次は。
● あの赤と白ください。
○ 日の丸の旗、違いますねタコ、オクトパス
● インディアンオーシャンブラックツナ
○ はいインドクロマグロ、今日のお勧め、あなご江戸前だよ
● 東京ヤクザの親分のワイフね
○ それはアネゴ
● あれは
○ ヒラメの縁側
● 日当たり抜群、ヒラメと猫とお婆さん、SNS栄えしますね。マス
ター、新作は?
○ ネバースリー
● ワオウ
○ オクラと納豆とトロロ、緑と茶と白が粋でしょう
ネバースリー聞いただけで口の中がネチャネチャしてきます。
回転寿司は高校生でも入れます、誰も一言もしゃべらない、自分でお茶を注いでガリを取って、あとは回ってくる皿を取って黙って食べるだけ。ボタンを押すと会計になる。うまくいくと子どもの玩具までもらえます。ところが近頃、外国人の接待を回転寿司でするようになって、五月蝿いほどにぎやかです。
○ いらっしゃいませ、ニーハオ
ニーハオというのだけは本場の発音です。
● 回転寿司、はじめてです。
○ ユーキャンチョイス。回っているのを取ってもよろし、注文もOK
ね。ただ皿の取り方、少し難しいあるよ。分からない?では北京語
で説明します。
● ひとつ質問してもいいですか。何が回転するんですか。
○ 皿載せたベルト回るよ。
● おお、中心を皿が回る。この回転は銀河系なら公転です。天文学で
は、あなたが太陽なら皿は地球、ガイアの夜明け。ところで皿に
載った魚は目がまわらないですか。
○ 死んじゃってるから大丈夫よ。
● 生きがいいって聞いてきたけどやっぱ死んじまっているんですね。
せっかく私のために握ってくれた皿が去っていく。皿よさらば、
あっぐるっと回って帰ってきた、再会の喜び。おお、エビが目に涙
を浮かべて去っていきます。なぜ私を選んでくれなかったのと、捨
てられた私、ああ恨まんといて。さよなら。ツァイチェン。うう、
カッパ巻きが睨んで通っていきます。ガンつけられました。ええ、
生シラス、今、歯ぎしりの音が聞こえました。シラスの歯ぎしり。
ゴマメと違って歯並びがいい。おい、イクラ、イクラちゃん、今、
助けてやるぞ。これワサビ、きくきく涙でる、何で耳で聞かないの
ですか。そうか耳はイヤー、イヤーなことはききません。
まことににぎやかなことです。
すぐに燕柳はメールを返信した。
「陳腐、同工異曲多し、求む独創性、高校生の日常生活感じられず、登場人物は類型ではなく典型を、笑いをこじつけないように」
なんのことはない自分に言っているのだ。
「あーあ噺家なんぞにならなければよかったよ。俺の人生、どこかでボタンをかけちがえてしまったんだ、だけど、あとに引けない
のさ、長生きするのも芸のうちさね」
感慨がわいてしばらくは動けなかった。
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