10月 は天上大風天下大変

  台風15、19号
 10月12日台風19号が来た。いまだかってないほどのスーパー台風だという。夕方から明け方までゴーゴーと風がうなり豪雨が降り続いた。台風一過の青天、後始末は大変だった。瓦が落ちたり、物置がホッポリ出されて車や壁をへこましたり、一色は停電になった。被害がなければあっけない通過だ、自民党の大幹部がまずまず収まったといってマスコミに叩かれた。根こそぎ破壊されるといった怖がらせる予報が多かったのだ。
  町も午後には避難勧告を出した、それで福祉会館に急いだ人は満員と言われた。葉山中学校が空いているからそちらに行きなさいと、豪雨の中を長い坂道を上って見晴らしのいい風の強い道を高齢者が歩いていった。町のバスがあるのだから、せめてシャトルくらいできなかったのかな。

燕柳まくら
 大変にお年よりが幅をきかす時代となりまして、60才以上の方が人口の30%以上、つまり3人に1人ということだそうで、それで、以前は「お若いですな」というのがお世辞になりましたが、今は通用しません。70を越えた方に「いやお若いですな」といえば、何を言うんだい、あと30年は生きるんだと叱られる。仕方なく百才の方に「お若いですな」と言っても耳が遠くて分からなかったりします。
 若ければいいということはありませんが年寄りでもいいということはもっと少ない。
 これはタクシーの運転手さんから聞いた怪談ですが、空車を走らせていたら青山辺でなんともかわいい娘を乗せたそうで、モデルさんかしら、きれいだなと思っていたら赤信号になったのでバックミラーで観察したら、どうも少し年が上らしい、仕事帰りかな買い物かしら旦那はどんな奴だうらやましいね、などと思っていたらまた赤信号、なかなか艶っぽくてどうやら四十路を越えているようだ。熟女ですよ結構ですね、相手に不足はないや、四十八手裏表ご承知ときた、俺の好みだなどと思いながら次の赤信号を楽しみにしている。こういう時はスースーと走るものでなかなか止まらない。しばらくたってようやくご尊顔を拝したら、目じり口元、首筋にシワが見えた。俺より少し上か、よっぽど金を遣って若く見せているんだな、貴婦人ですよ貴婦人。ようやく着いて料金をもらう時によく見たら、年の頃は八十というお婆さんだったという。「熱心にバックミラーでご覧になっていただきましたが、この老いぼれでは今夜のお相手は無理でしょうね」と笑い声を残して立ち去っていきましたが、幸いお金は木の葉にならなかったそうです
 
「俺の店の裏は空き屋でさ、雨戸が飛ばされて車のボンネットをつぶしてしまった。相続した持ち主はずいぶん遠くに住んでいて連絡がとれない。つまり車は当て逃げされたのと同じだよ」
 RR池田がうれしそうに吹聴する。他人の不幸は蜜の味だ。
「立派な日本家屋の隣に新建材の玩具みたいな家を建てるんだよ、リフォームだ何だと改築費用が高くつくからだといってさ。人が住まなければすぐに廃屋になり、火事の心配、台風で崩壊、野生動物が住み着く、シロアリが出る、見た目に汚い、良いことなしだ。目先のことしか考えないからね。景観はだいなし安っぽい町並みは散歩してもおもしろくない」
 RR池田もそれほど見栄えのいい家に住んでいるわけではない。
「町も県も国も困っているよ、神奈川県は内山知事に始まるんだ。なんとか館という建物をたくさん造ったな、大金をかけてみんな県債でまかなった、そのツケは誰が払う。役人は愛想よく言ったよ、子どもたちのために造って使ってもらうのだから、大人になったら返してもらいます。そんなペテンがあるかい。子どもは同意なんかしていないよ」
 RR池田の憤懣(ふんまん)はおさまらない。
 たしかに現在、音楽ホールも博物館も子どもより老人がお得意様だ。もちろん頭脳明晰な役人は、それを見越して造ったのだと言い訳するだろう。
「図書館を見ろ、爺ばかり新聞を読んでいる。それを入館者数にカウントして、図書館は賑わっている市民文化は向上しているだと、笑っちゃうね」
 RR池田の憤慨に林姫がつきあった。
「あらいいじゃない、年寄りが家でテレビを見ているよりも」
 中路も同調する。
「住み分けができていて図書館は爺の領分、音楽堂は婆の世界だ、世はこともなし」
 
 RR池田は音楽も読書も縁遠いので黙ってしまった。
「今度の台風番付には参りやしたね、後の方ほど強くなるというから、まるで横綱だ思ったら、それがあっさり寄り切られたやした」
前の台風15号9月9日が激烈だったのだ。2日間停電したのが普通で、3日4日続いた家もある。エアコン、冷蔵庫、トイレ、調理(オール電化の)、風呂、そして電話とスマホが全部ダメだった。電波と電気の時代を痛感させてもらった。
「TVで台風が迫るのを刻々予告するから耳も目もタコができてしまう。それで台風が来てもアア、ソウとなってしまう。だから気象庁は躍起になって注意喚起して、今度はそれもタコになってしまう、悪循環ですよ。オレオレ詐欺とまったく同じだ」
 めずらしくメカ吉川が苦言を呈した。
「つまり人間の依存性てもんだな」
 中路が引き受ける。
「昔の時代だって気象変化の予感があったろう、神がかりみたいな老人がなんか言って人々が不安におののくと時の為政者は人心を惑わせた不届き者といって処罰する。大被害の出たあとで人々は後悔して神様に祀りあげる。そんな展開だろう」
 中路が淡々と言うがメカ吉川は不本意らしい。
「これで地震も台風のように観測態勢が調って刻々予報されるようになったらどうでしょうかね」
「すぐ避難所に逃げるよ、停電・断水・道路寸断、津波と矢つぎばやだからさ」
 RR池田はもとより「てんでんこ」の人だ。
「そして地震は天変地異のランクを失いただの自然災害に格下げとなります」
 野瀬ボンが少し未練らしく言う。
「小学校が停電で2日休校になった。中学校も1日休んだ、これも災害に含まれる。家族は大変な日々を過ごした。親の仕事が休めるならいい、子どもだけが家に取り残されて停電の中、一日を過ごす。これはやりきれなかったろう」
 中路の家も孫対応で大変だったようだ。
「テレビが実に薄っぺらか分かったよ。連日どこのチャンネルも台風のことばかりさ。同じ解説、同じ映像、なにしろソースが同じだから当然だね。おっかぶせるようにラグビーだ。準々決勝の前後はどのチャンネルもまったく同じ。各局が趣向をこらそうとするのだが小手先だけ。おっかぶせるように即位式さ。次にまた台風、チャンネルを変えても変化なし。偉いのは教育テレビ、関与しないからね。報道の自由とか威張っても横並びだから仕方ないね。だからBSを見ていたよ、韓ドラ、蔵出しのシリーズドラマ、野球、サッカー、始終やっている通販番組。マンネリゆえの脱力感もいいものだよ」
 中路はTVに八つ当たりする。
「無料なものに文句をつけてはダメ」
 林姫がなだめるとRR池田が怒った。
「NHKは有料だ、俺の家では見たこともないのに」
「公共放送というスタンスが憎らしいね。正しいのは俺だけという主張だ、官僚的」
 JW藤野は役所に不快感を隠さない。
「燕柳兄さんはNHKに出たことがあるのかい」
 RR池田がずらっと並んだ歯をむきだして笑いながら言う。
「若い頃の寄席番組でね、まだ白黒画面でげしたな。志ん生・文楽盛んでござんした。NHKは日本薄謝協会の略でおタロ(出演料)がポチポチ」
 メカ吉川が張り切った。
「街頭TVは昭和29年3月に江ノ島に設置されたのが湘南では初めてだそうです。次が建長寺、翌年に東逗子駅前に設置されました。この順は何でしょうね」
プロレスと野球が強烈に記憶に残っている。なにしろ月給の十倍という値段では家庭で買えるものではない。テレビのある所に皆が集まった。大人たちは飲み屋、子どもたちは近所の商店、母親は子どもを迎えにくるふりをして見ていった。
視聴率という言葉がはやってスーパーマン、プロ野球、おトラさん、私の秘密、名犬リンチンチン、月光仮面、名犬ラッシー。
「少しおませになった頃にシャボン玉ホリデーが始まったのよ。ザ・ピーナッツとクレージー・キャッツ、こちらはまさにシャボンの匂い、後発するドリフターズの泥臭さとは大違いだった。ドリフが好きというとなにか子どもっぽい気がしたものだわ」
 林姫はかなりおませだったりだろう。
月光仮面は真似をする子どもが多くて親が抗議して中断させたそうだ。チロリン村とくるみの木、その後がひょっこりひょうたん島だ。人形がそれまでの指人形や糸操りではない、棒遣いという手法が新鮮だった。
「かといってTVなしには過ごせないしな」
 RR池田のぼやきに春本行者は手厳しい。
「TVを処分せよ、なにごとも根源から改めねばならぬ、優柔不断が悟りを妨げるぞ」
「お前みたいな世間知らずに言われたくないよ。お前なんか過去・未来・現在どこにも属さずにクラゲみたいにフワフワ浮いているだけだろう」
 RR池田が吠えると春本行者も対決の素振りを見せたが林姫に指差しされて止めた。
「断捨離か、これが爺婆には一番厳しい課題よね、世間から離れてもニュースは知りたい、するとTVと新聞からは離れられない、人間の欲の一つね」
「わしは超越したぞ、本来無じゃ」
 そう叫んだ春本行者だが全員の冷たい笑いに遭って沈没した。
「新聞を読んでじっくり考えるという授業を中学3年でしたことがある。五社の朝刊を配って、どうだ違うだろう、これが新聞社のスタンスだ、新聞の真実だと大見得を切ったんだ。しかし今では新聞を取っていない家が過半だから新聞に驚く生徒が多いだろうな」
「俺なぞは新聞勧誘員が来ると、家は昔から朝日だとか、読売だ、毎日だ、日経だと偉そうに煙にまいたものだ、石鹸とかゴミ袋とかつまらんものを貰ったな」
「俺は貰っただけで新聞はとらなかったぞ」
 春本行者にはこんなことが自慢になるらしい。
「月刊誌の発行日を待ちかねていたなんて夢の世界ね」
 林姫もそれが今では自慢になるらしい。
「なるほど医者も客が来なければ暇なんだな。一番長い時間TVを見るのは床屋の親父だそうだ。流行らない医者がその次か」
 RR池田が無遠慮に放言する。
「テレビ報道に価値は失せたね、時間と画面規定の枠のなかで切り取った画面の一部だけしか報道していないことに老も若きもようやく気づいたのさ。そこでインターネットとスマホの登場だ」
 JW藤野の解説コメントに春本行者とRR池田が即答する。
「お手上げだね」
 JW藤野が追求する。
「ライン、ツイッター、インスタ、SNS」
「使い道がないんだもの」
 中路とメカ吉川が脱落。
「ツイッターもインスタも盛んにしてます」
 野瀬ボンとJW藤野はまだ仕事から足を洗っていないようだ。
「フォロワーはいるの」
 林姫も現役らしい。
「若干」
「JW藤野なんか常連でしょう、不倫とか」
「若干」
 RR池田がはっとしたようだ。
「それで不倫ができるのか」
がぜん乗り気になっている。
「しっかり見極めないと、騙しも多いし、法に触れると一発だよ、未成年とか」
 JW藤野は危ない橋を渡ったらしい。
「ラインはおしゃべりさ、インスタとSNSは、これ見てこれ見ての世界だよ。トランプ得意のツィッターは俺が俺がの自己顕示だ」
 JW藤野が得意そうに言う、自己顕示だ。
「お前らは不純だ、メディアなんかいらん、わしは瞑想と読経だけだ。お前らはきちんとした生活をしておらんから魂が汚れ体を痛めておるのだ」
 春本行者も自己顕示の塊だ。
「では伺います。あなたはどんな生活をしているのですか」
 林姫が憤激半分、面白半分で質問する。
「夜明けとともに起きる。うがい手水に身を清めて1時間の瞑想だ。朝飯、午前の散歩、昼飯、午後の散歩、夕飯、夢安らかだ」
「生産性はまるでないのね」
 林姫にRR池田が同意する。
「いや散歩してれば何か拾うさ、きちんと交番に届けているだろうな」
 JW藤野も意地悪だ。
「肉は一切食べない動物の命を奪わないというが奥さんも同じ食生活なのか」
「いや女房は隣で肉をもりもり食べている。わしは寛容かつ辛抱強い」
 野瀬ボンも笑いをこらえている。
「仙人ですね、そのうち霞しか食べなくなるでしょう。それにしては君の顔は物欲しそうで気高くないのはなぜでしょう」
 メカ吉川はきわめて真面目な顔だ。
「尊敬します。肉を生産するコストは莫大だ、牛の代わりに草を食う、率先して菜食を主張するのは先端思考です」
 燕柳兄さんも思慮深げだ。
「私ら子どもの頃は食糧不足でタンパク質を摂ることに異常に執念を燃やしましたな。セミも食ったし蜂の子も食った、それが間違いだったことを教えていただきやした」
 中路は少し茶化してみる。
「人類を救うのは昆虫食だそうだ。いずれ大豆タンパクに代わって昆虫タンパクが製造される。芋虫ハンバーグがトレンドになる」
「いやあね」
 林姫が女性であることをカミングアウトした。
「お前ら間違えるな、わしは魚は食うぞ、刺身でも焼き魚でも何でもいい、湯豆腐、おでん、人参じゃがいもに湯葉をいれたこってり煮、白菜のクリームスープ、ゆずを刻んだおひたし、あぶらげをさっとあぶるのもうまいな、寿司は食べ放題だ」
 さすがに一同はあっけにとられた。
「魚には命がないのかしらね」
「美食の割にやせこけているのはグルメの下痢だね」
「奥さんが焼き肉を食べるわけだな」
「そんなに食べて経済破綻しませんか」
「起きてすぐに瞑想するというのは今日一日何を食うか考えることだろう」
 RR池田に喝破されて春本行者はうなずいた。
「そういう日もある」
 「君は教祖様になれるよ。新宗教ばかりでなく伝統的な寺も神社も教会もツィッターだホームページだSNSだ掲示板だと何でもやっているよ、人気の高いのは何十万とアクセスがある。若い娘もけっこうフォローしているらしいよ」
 JW藤野は悪の誘いをつぶやくと春本行者の顔がゆるんだ。失笑と冷笑が満ち満ちて沈黙が訪れたとき、すかさず野瀬ボンが立ち上がってコピーを配った。
「詩を読んでください。この前、歩いて買い物に行った時に自転車に乗った少女とぶつかりそうになりました」

 トンネルの歩道で 避けようとした自転車は
右へ折れ左へ折れ 気まずく笑いかけたが
少女は厳しく撥ね退けた 
昔 フランスの短編で 糸屑を拾った老人が
見とがめられ疑われ 嘘つきとされ断罪され
葬り去られた それはユダヤ人だからだと
ぐぎぐぎとペダルが鳴り 
やな奴ね、わざと邪魔してさ                    信じられないサイテーと スマホはピコピコ鳴る
気があっちゃったね そんなこと言ったら
とりかえしつかんよ 忘れてしまおう
それが一番いいんだ 何事も


「俺にはさっぱり分からん」
 RR池田は平然と言う。
「また消沈したのね」
 林姫が言い放つ。
「唐突な出来事です、モーパッサンの短編を覚えていたのが我ながらうれしかったのでしょう。きっと白皙ポニーテールの少女で君の好きなタイプだ。トンネルの中というのも間が悪かったですね、昔、進駐軍の兵隊がホールドアップしたそうです、お化けもでますしね。若者めかした詩です、サラダ記念日を思い出しました」
 JW藤野は芸術家のパトロンを自認している。
「何事も…が余分だ。まだ達観しておらん、娘はお前の俗臭を嗅ぎ取ったのだろう。いやいや老人臭だろうな、衣服も心もこまめに洗濯するといいぞ」
 メンバーの中で一番むさくるしい春本行者に喝破されて能勢ボンはため息をついた。メカ吉川がしゃしゃり出てきた。たぶんトンネルの構造とか掘り起す機械の説明がしたいのだろう。中路はすばやく話題を変えた。
 
香港騒乱
「香港人に加担したいね、そもそも一国二制度なんて当座しのぎをしたのが間違いだ。もっとも、あの時の中国はまだ世界を敵にはできなかったからな」
 野瀬ボンが詩のショックから立ち直った。
「中国の思惑は台湾併合でした。一国三制度でもいいからソフトランディングできると思ったのでしょう」
 林姫も世界通を自負している。
「自由・法治・民主が香港人のスローガンなの、つまり中国にないものばかり。中国人が連帯すると人民政府は崩壊するわ」
 JW藤野、もとは商社マンだ。
「政治はともかく経済では富裕な中国人が香港の土地を買ってビルを作るんだ。売るのも買うのも中国人ばかり、家賃が高騰しているよ。年間四千万人の中国人観光客が爆買いする、本国製品に不信感があるから粉ミルクをはじめ生活用品を土産にして持ち帰る。商品が払底してインフレさ、香港人は困窮しているんだ」
 野瀬ボンはロマンチストだ。
「映画の名場面、余情の漂う昔ながらの香港なんてなくなりましたね。中国では中都市までけばけばしい商業ビルとくすんだ高層アパートが立ち並んでいます。それと同じになっていく、つまり香港が中国中のどこにでもある中都市になる。アイデンティティの喪失は悲しいことです」
 林姫もエールを送る。
「台湾はもっとも敏感に受け止めているわ。香港がんばれよ」
 中路も分析的だ。
「発端は台湾で殺人をして逮捕された男を香港でなく中国で裁判しようとしたんだ、犯罪者を中国に引き渡す条例。これは至極ふつうのことと思ったが、実は外国から引きとろうとしているのは政治犯、これは許せない、世界が注目したしアメリカ議会は香港問題を提案して満場一致で採決した」
 メカ吉川もアメリカ議会にはひどい目にあっている。貿易摩擦は建設現場に直結するのだろう。
「アメリカは世話焼きです、中国は当然怒ります、まさに内政干渉だから」
 中路がつぶやく。
「昔の学生ならすぐにデモだな、香港の同志を救え、中国に制裁を、我らは団結する」
 林姫も全共闘だった。
「歌ったもんね、がんばろう戦いは今から、くろがねの男のこぶしがある」
 中路はたぶんデモにはお義理で参加するノンポリ学生だったろう。
「俺も拳を振り上げたよ。急に恥ずかしくなった、どの腕を見ても細くて白くてクロガネなんか一つもない、本と鉛筆、箸より重いものは持たない手さ、逃げ出したくなったね」
 野瀬ボンも典型的ノンポリだろう。
「なかにはいましたよ、いかにも土方や沖仲士のアルバイトで鍛えましたっていう手が」
 中路は厭世的な顔をした。
「それだって一生の仕事とは思っていないや。歌に浮かされてアホして踊らされるのは嫌だとしみじみ思ったよ」
 林姫はデモの余韻にひたっている。
「燃え上がる女のこぶしがある」
 JW藤野は悦楽派だ。
「それをしっかり握り合って、一ッ時の快楽にふけるやつもいたね。がんばろう、てさ。でも時々思うよ、がんばったやつ、今は何してるんだかね」
 
「時間だよ」
 マスター田辺が顔を出した。今日も他の客を見ない。早く店を閉めて電気代を節約したいのかもしれない。
 
燕柳すそ枕

「高杉晋作が作った小唄というのが例の
   三千世界のカラスを殺し
        ぬしと朝寝がしてみたい
と言うヤツですが、なんとも野暮ですな。噺家の中にもこれを枕にふって粋だねなどと言うトンチキがいますが、勤番侍、浅黄裏というのが田舎のお女郎相手に寝呆顔で通(つう)ぶっている、色気も艶気もない唄です。こんな小唄と比べてみましょう。
   あまり言葉のかけたさに
       あれ見さいのう空ゆく雲のはやさか
惚れた男に初々しい情愛、こんな女と添いとげたいものでげす。
 
「今日は短いね」
 RR池田が冷やかした。燕柳が答えようとするとさえぎって先に言った。
「おっと、裾は短く、スカートはミニの方がよろしいようで、かなんか言うんだろ」
「おや、お見通し、座布団一枚だね」
「小粋な裾さばきね」
 林姫は寄席に造詣が深い。
「こむらがえりの素足の娘」
 JW藤野が知った顔でしゃしゃりでる。
「それを言うなら、こまたのきれた、でござんしょう。足がつっては戦さにならん。ラグビーのことですよ」
「兄(あに)さん、ふられたんだな」
 RR池田が無遠慮に冷やかした。
「いやいや、惚れられましたよ喜寿婆に」
 林姫が容赦なく冷やかしはじめる。
「兄さん様子がいいからよ、単衣の着流しに博多献上の帯、扇子をはさんでナヨナヨと」
「ナヨナヨは情けない、夜な夜な歩くに直してくださいな。でも、テレビで昔のアイドル歌手が昔のヒット曲を今の顔でお歌いになるのは辛いものでげすな」
「あら、変に美容整形したりするより自然でいいわ、どんなふうに年をとるか次第ね」
「ツツン、色で磨いて、ツンテントン」
「兄さんはいいね、なんでも唄にできてさ」
JW藤野も色では磨いたのだが、水彩絵の具ではなかったようで透明感がない。
「時間だよ」
 またマスター田辺が顔を出した。
「秋の夕陽はつるべ落としだ。足元がおぼつかない人もいるこったしカラスと一緒に帰るがいいよ」
 何かいやなことがあったのだろう、夫婦喧嘩でもしたかな、皆はそそくさと帰った。