9月5日京急大事故
2日間電車が止まった。確かに悪いのは大型トラックだ、細い道から右折して踏み切りに入り曲がりきれずに立ち往生したところに快速特急が突っ込んだ。例によって評論家がでしゃばって、快特120キロは出しすぎだとか、ブレーキ操作が1秒早ければとか偉そうに言う。トラックの運転手が亡くなってしまったので電車に矛先を向けるのだが、その踏み切りは度々トラックが入り込んで苦労していたという、事故後に細い道は大型車進入禁止になった、なぜ早く標識をつけないのか、警察に文句を言う評論家はいなかった。
燕柳まくら
神社仏閣に詣でる方がおりまして、中にはただ見物するだけで「古い建物だよ、彫刻がいいね」なんて美術館に行くのと同じ気持ちでお賽銭も出さずに帰っちまう。これではお寺は損するので入場料を取るようになる。すると本当に参詣なさる方はへんてこな気分になって、なんでぇ、なら入場料のいらないところへお参りしようなんて、結局、神様・仏様はご贔屓をなくしちまう。
ちゃんとお参りに行く人は「病気が治りますように」とか「試験に合格しますように」なんて必死な気持ちが現れていますので、ぜひ、かなえてあげたいと思うのですが、いい女と出会いたいとかダービーは6-3で願いますなどと祈られるとふいっと横を向きたくなります。これは私が言うのではない、心安い神様に聞いた話です。こんなことを言われますと神様もじれてきて「なに言ってやんでェ、この不景気なご時勢にそれっぽっちのお賽銭で図々しいや、身の程を知れ」なんて逆にバチがあたったりします。
この前、あるお寺ですが賽銭箱の横に願い事の一覧表が出ておりました、いわく「家内安全、商売繁盛、病気平癒、交通安全、試験合格、即身成仏」即身成仏というのはありませんが、全部で60個も四字熟語が並んでいた、これにはびっくりしました、薬の広告よりもすごい。そんな全部、願い事がかなうんですか、と坊さんに伺ったら、願かけよりも願ほどきとのご託宣、つまり出来高払いなんですな、しっかりした仏様もいらっしゃいますもので。
「これは春本さんに口切りを頼みましょう。この先10年、宗教はどうなっていくのか」
中路の誘いに春本行者はすぐに反応した。
「宗教は永遠に不滅だよ、神も仏も照覧」
「だって、どの宗教にも始まりがある、それなのに終わりがないと断言するのは無茶ね」
林姫の正論に春本行者はむきになった。
「それが傲慢だ、仏の前で己の小ささを知れ、いいか神も仏も眼前におわしますぞ」
「それを説明するのが宗教でしょう、その説明の仕方の違いが宗派だと思う、自分にフィットするのを選ぶのが信仰よ」
「信仰は理屈じゃない、神や仏を感受することだ、わしも目の前に仏を見た」
「それでご利益があったの」
「おお、今の女房と出会った」
たぶんそれは懲罰だったのだろうと皆が思った。
メカ吉川がおずおずと言った。
「古墳は宗教施設でしょうか。僕は長柄桜山古墳を守る会の会員です。草刈りをしたり道の補修をしています。うれしいことに堺の巨大古墳がユネスコに認定されました。山車鉾行事のように各地の古墳が一括してユネスコになると、この古墳にも制約がかってくるかもしれません。宮内庁では古墳には立ち入らせませんから」
確かに天皇陵と推定される古墳は厳重に管理されている。
「前方後円墳といっても土がもっこりしているだけだろ、施設なんかないよ」
これはJW藤野の失言だった。メカ吉川は猛然と反発する。
「僕たち設計者は古墳の計算された構造を古代技術の結晶と思っています。ピラミッド、始皇帝陵と同等の土木建造物です。この技術が寺社や宮殿建築の先駆けとなりました」
JW藤野は反撃する、負けず嫌いだ。
「僧侶や神主のような祭祀者がいない、経典もない、それでも宗教といえるのかな」
しかし中路は郷土史に詳しい。
「森戸神社の名は守戸つまり古墳の護人さ。管理と祭祀に当たる者が川口に居住したのは、海に向かった墓に捧げ物をする舟人がいたということだ。日本中に航海の無事を祈る神社はたくさんある。その原型と言えないかな。古墳の主は海と陸の道の管理者さ」
誰も反論するほどの知識はないし、だからどうなんだと言い返す気分でもない。
能勢ボンが立ち上がった。
「皆さんご承知の通り私は世界の教会を見てきました。それでヨーロッパの話をします。教会と帝国がそれぞれの絶対権力を確信して争い、信仰の力が軍事政治力を上回る時代が続きました。しかしルターの改革運動に直面して教会は聖書を民衆に読ませる必要を感じ、当時、最先端の印刷技術を取り入れました。しかし、これは裏目に出て、神父の話が聖書通りか民衆が検証するようになりました。おまけにキリスト教以外の宗教があること、科学的、思想的な深い知識が世界に広がっていること、そうしたものを教会が注意深く隠していること、民衆は不信感を持ちました。加えて改革派は聖書を読むことを推し進め、教会の腐敗を印刷物によって広く伝播しました。つまり教会は印刷技術の向上によって力を失った」
また長い話だ、誰も聞かない。JW藤野が割って入った。
「なるほどご高説だ、それを現代にあてはめるとどうなりますか」
「…」
能勢ボンははかなく敗退する。
「印刷技術はラジオに始まる電波メディアに取って代わられました、それに気づいた最初の神、いや悪魔がヒットラーです。トランプのツィッターも延長線上にありそうかな」
JW藤野はわざと無表情に重大事を言うが得意だ。
「私が初めてTVの力を知ったのは力道山が死んだ時です、15、6才だったかな」
メカ吉川は力道山のがっちりした体格に強度を感じたのだろう。
「鉄人ルーテーズ、ボボ・ブラジルは頭突きココバット、フレッド・プラッシーは銀髪の吸血鬼、かみつきと急所攻め、キラーコワルスキーはニードロップで相手の耳をそぎ落とし自殺させてしまった。デストロイヤー とシャープ兄弟、バックドロップ、四の字がため、そこに力道山の空手チョップが伝家の宝刀。プロ同士がすっかり打ち合わせたショーだなんて知らなかったな」
JW藤野も知っているのだ。
「流血がショックで死んだ観客が何人もいたよ。カルホーン273キロ巨漢、鉄の爪フォン・エリック、生傷男ディック・ザ・ブルーザー、みんな体が資本だから大事にしていた、死んだ人は浮かばれまいね」
春本行者が張り切った。
「相撲番組もはまりこんだわい。柏戸、大鵬が同時に横綱昇進、栃若引退、高見山初土俵初めてのガイジン力士だ。相撲は古来の伝統格闘技であるからいかに外人が挑もうとも日本人にはかなわないなんて評論家は言ったが、今ごろあの世で赤面しておろうな」
つい林姫も口を出してしまった。
「TVはシャボン玉ホリデーよ、植木等およびでない、スーダラ節、ザ・ピーナツツ」
どうも皆は宗教に興味がないらしい。
突然、忘れていたことを思い出したように春本行者が皆をにらみまわした。
「お前たちが何を言おうと、わしの生きている限り仏は不滅だ」
「君、仏様を私物化してはいけませんよ」
林姫がたしなめるとさすがにボロを出したと思って春本行者はひっこんだ。
「ロシアでも中国でも宗教が復活しているのよ。アメリカではイスラム・アラブとカトリック・中南米移民をプロテスタント・白人が排斥しようとしています。信仰を理性で制御した時代は終わって、信仰を行動で表現する時代になりつつあるわ、再び」
林姫の憂慮にメカ吉川が同調した。
「コンピュータが神になるといって心配した時代がありましたね、だけどハッカーが活躍するようになったのでコンピュータは欠陥だらけのか弱い機械に逆戻りしました。神は機械にはおわしませんでした」
「じゃあこの先も人間はずっと神頼みか、生きるも死ぬも仏様の手のひらの上か、それは俺の好みではない」
RR池田が吠える。
「生も死も理不尽だからな」
JW藤野はわざと沈み込んだ顔をする。
「カウンセリングを必要とする人はどんどん増えているわ」
これは林姫の商売だから皆は遠慮して言及しないのだが春本行者は土足で踏み込む。
「ノイローゼになったらカウンセリングなどより巡礼じゃよ、3年目にすっかり元気になって帰ってきた奴がおる」
「巡礼か、ロマンチックですね」
野瀬ボンは能天気だ。
「それは成功例なの、きっと直らなかった人もいるでしょう」
ケチをつけられた林姫が目を吊り上げる。
「おお、20年経つのに帰らん者がいる。たぶん次の3つのうちのどれかじゃ。
・あちらに住み着いてしまった
・まだ廻国を続けている
・誰にも知られず往生した
どれでも好きなのを選ぶといい」
あっけに取られていると、この機会を逃すものかと勢い込んで野瀬ボンがコピーを配った。
「詩を読んでください。病院で創りました」
メメント・モリ 死を思え
若木を枯らすのが老木の森
絡みつき締め上げ息を止め
嫌悪が快感に変わっていく
メメント・モリ 死を思え
病気などとはしゃらくさい
たかが四、五日臥せるだけ
けどそれだけで気が滅入る
自分が小さく小さく小さく
蟻ほどの存在感もなくなり
そこで信仰をと教わったが
死者は子孫のもとに集って
幸福を支え不幸をさえぎり
喜びを共にし悲しみを担う
死者は子孫に生まれ変わり
生者は先祖とともに生きる
靖国に死霊が集まり数百万
勝利を再生 そりゃ嘘だよ
医術が進歩しても死者は減らない
ちょうど文明が人を賢くしたのに
戦争がなくならないのと同じだよ
まるで戦車のキャタピラーと同じ
人間は軌道の上へ下へと移動する
病気になると動くのが面倒になる
「俺にはさっぱり分からん、メメントモリとはなんだ」
RR池田が吠える。
「死を思え、昔、流行った古語です。また言葉をもてあそびましたね」
林姫は簡潔だ。
「ヴォードレールの面影がありますね。シュールレアリズムの影響も感じるよ。生は十ヶ月で満ちますが死は予測不能だ。それを医者はおのれの裁量という振る舞いをする。不遜であり神を恐れぬ技です。生は短く作品は永い、優れた芸術はすばらしい」
JW藤野は芸術家のパトロンを自認しているが、ちょっと口がすべったのであわてて言い直した。
「すべての芸術家は神の恩寵を受けています。もちろん君も…」
野瀬ボンの機嫌が直ったところを春本行者が直撃した。
「つまり病気で死ぬかと思ったが、まだ心の準備ができていないということだろう。未練たらしくあれだこれだとグズグズ言う、お前はまったく未熟者だ」
もうお前なんかに詩は見せない、能勢は固く決心した。
「統計で申し上げます、少し古いデータですが宗教団体のことですから正確さはあまり意味がないと思われます」
メカ吉川がブリーフィングのように言い出すのでJW藤野がちゃかした。
「慎重な言い方でおそれいります、つまり信者の公表と実数の違い、デモ隊を数えるみたいなものですね」
まったく意に介せずメカ吉川が続ける。
「神社本庁6800万、幸福の科学1100万、創価学会827万、真宗大谷派694万」
「神社本庁というのは全国の神社の氏子さんの数ですね、初詣だけとか七五三になると思い出すとか、それもありですね」
林姫が指摘するとJW藤野も黙っていない。
「幸福の科学が多すぎないかい」
「世界に100の支部がある、日本だけなら150万」
「それでも多いようだが教祖様の本の出版数というなら納得しよう」
「俺のところは先祖代々の浄土真宗だ、その中に入っているんだよ」
RR池田は多数派なので安心したようだ。
「わしは日蓮さんだが何人いるんじゃ」
もちろん春本行者だ。
「385万」
「すべてがわしの仲間たちだ」
孤独な一匹狼ではなかったのかい。
「君のことを仲間だと思う人は少ないでしょうね、修験道の仲間ではなかったの」
「それは10万」
林姫の冗談にもメカ吉川は淡々とデータを示す。
「カトリック45万、ものみの塔21万、日本基督教団19万」
「少数派ね、でもエホバの証人・ものみの塔はキリスト教とは認定されていないわ」
林姫はキリスト教シンパだったのだ。
「私の家の近所にエホバの王国会館があります。子ども連れで本を置いていきます。礼儀正しい人たちです」
メカ吉川がやっと人間の言葉をしゃべった。しかし燕柳兄さんは肯定しない。
「昔のことです、若い噺家が結婚したので祝ったら奥さんがエホバの信徒でして引き出物が聖書だ、赤ん坊が生まれると抱っこして毎日近所を歩く、苦に病んでね。タバコが悪、酒も酔ったら悪、いさかいがたえません」
「エホバの神は旧約聖書の神様だから怖いのよ、それでどうなったの」
林姫はもはやカウンセリングの気分になっている。
「奥さんが子ども連れていなくなっちゃいました、今どうしているんだろうな、けどこういうのはうっかり探せません」
「エホバはストレスと不安と悲しみをのりこえる力を授かる、地上の楽園で永遠に生きる、というフレーズなのにね、宗教は無力ね」
RR池田が週刊誌ネタを思い出した。
「桜田淳子っていた、かわいい歌手だったがなにかの宗教にはまったな」
「韓国の統一教会、今は世界平和統一宗教連合と言っています。日本の右翼の勝共連合と関わりが深い、昔は壷を売っていました、高額で」
メカ吉川もこのへんと週刊誌だ。
「信者同士で合同結婚式をやるの、ほとんどあてがわれた相手ね、その子たちも信者同士でないと結婚できない、閉鎖的な世界を拡大する、韓国は本貫の制度をひきずっているからなの」
結婚相談も林姫のテリトリーらしい。結婚と聞くと野瀬ボンも黙っていられない。
「本来、韓国は儒教です。たぶん世界で一番祖先を大事にする人たちではないですか。一族の系譜を調べ上げて少しでも繋がりがあると結婚させない、21世紀直前まで法律の定めがあったのです」
「さては韓国で色ごとがあったな。相手が日本人のお前なら本貫も本願寺もないだろう。田舎をほっつき歩いていたら娘に声かけられたんだろう」
RR池田に喝破されて野瀬ボンはやっきになって反論する。
「韓国の田舎はふた昔前の日本、人も景色も素朴で温かい、都市からバスで30分も郊外に出るとそんな景色です」
野瀬ボンは懐かしそうだ。
「若い者などまるでいない、都市との格差はひどいものです。ただ本貫の先祖を守る本家は貧乏しても尊敬されています」
「なるほど結構、弥陀の本願さ」
本貫を知らない春本行者は本願寺で理解している。
「韓国人はルーツを誇ります。どこそこの町の何氏、たとえば栄州李氏というように大表札をつけているのが本貫の本家です。しかし本貫同士は結婚できない、昔は悲劇、今はキリスト教に逃げていく、国民の四分の一が信者だそうです」
「経済と結婚は密接だから、韓国の出生率は世界最低なのよ、百年たつと韓国人がいなくなるほど」
林姫も高学歴、高齢出産だが二人の子の母、2人の孫の婆になっている。
「結婚する、仕事をする、子を育てる、家族を支える、これが昭和の男と女の定番コースだったが昔語りになってしまうのかね」
中路とJW藤野は恋愛結婚だ。
「昔は寿退社といって祝福されたものだ。その年齢で子どもを産むと楽々5人までいけたな、たいていは3人だったけど」
「高齢出産と少子化の連動ね」
それを乗り切った林姫は自慢げだ。
「昔の会社ではOLがキャリア社員の草刈り場だった、互いに目をつけあって円満に結婚していく。当時のOLの仕事は半端なものが多かったから未練がない、今のようにプロジェクトを任せるなんてなかったからな。どうせ苦労するなら子育てより仕事に打ち込みたい、そういう選択になったのさ」
JW藤野に保守派のメカ吉川が反論した。
「それはわがままです、子を育てるから親になることができるんです。もちろん自分の生涯に子を加えたくないという人生観は昔からありました。男のわがままだったり女の人だって芸や技術に生きる人には許されていた。しかし、特殊な事例だとされていました」
JW藤野がまた斜に構えた。
「子は宝、その見返りは親孝行、両者がっぷり四つに組めばな。結婚願望なんてのは近頃の若い衆にはまだあるのかい」
RR池田も時々警句がひらめく。
「経済的に自立でき社会人としての修行が進んで成熟しかけた大人でも伴侶と巡り合うことができない者が多いのよ。コミニュケーション力が弱いからかな」
林姫が同情するとRR池田は馬鹿にする。
「つまり結婚してくれと言えないんだな、スマホじゃだめだろうな」
「私だって差出人を見て破いた恋文がありましたことよ」
「おままごとから始めて何が社会人の自立だ成長だ、女房がなんだ」
春本行者が威張ってもRR池田には通じない。
「よし分かった、母ちゃん自慢を聞かせてやる。俺の母ちゃんは頼りになるんだ」
JW藤野も調子に乗る。
「私の女房は自立しているから互いに自由な生活を認め合っている。不干渉だ」
皆が不感性と間違って聞いた。メカ吉川も負けぬ気になった。
「妻は僕の仕事に理解がある。専業主婦を喜んでいるよ。だいぶ年下だけど僕よりも生活力、社会経験が豊富だから頼りきっている」
「うちは同業だから完全にパートナーだね、できないことを補い合う。出産は女しかできない、大工仕事は俺がやる。子育ては補完しあいながらやるし、飯炊き・掃除・洗濯に役割はない、俺は10分で一汁三菜を作れるよ。仕事場の苦労も悪口も共有できる。以心伝心がモットーだ」
中路の奥さんも教員だった。もちろんとっくに退職している。すると林姫まで参加してきた。
「私は医者だし夫は研究者だったから趣味だけ一致させたわ。ドライブ、映画、スポーツ、水泳、いつまでも恋人同士でいようねというスタンスね。だから子どもの自立も早かったわ」
野瀬ボンがうらやましくなって口をはさんだ。
「皆さんはどこで知り合ったんですか」
「同級生、肉屋の娘」
「オフィスの後輩」
「紹介してくれた人がいてね」
「新任で来たんだよ、結婚すると発表したらがっかりするヤツがたくさんいた」
「プールで一緒に泳いでいたのよ、このままずっと一生泳ごうよと言うから、ハイと」
林姫ののろけに一同は萎縮した。まったく話が好き勝手な方向に進んでいく。
「宗教の話に戻っていいですか。僕の親戚の爺さんがオオアマツウズメノミコトの知り合いでして、戦友だったそうです、復員して新興宗教を始めて大金持ちになった、そういう話をたびたび聞きました。今も流行っているのですか」
野瀬ボンがおっかなびっくり言う、まるで教祖様に聞かれるのを怖れているようだ。
「まだ盛んです、実は私の夫の親せきの家のそばなの。教祖様は30年も前に亡くなりました。初めは病気治療、人生相談、言ってみればメンタルケアの先輩みたいなものね、戦場のPTSDを抱えた人がそうして戦後を乗り切ったということもあるわ」
林姫のクライアントには関係者がいたらしい。
「もしかすると中路じゃないか、久しぶりだな」
大声で呼びかけられた。少し離れた木の下にぽつんとテーブルがある。そこで焼酎のボトルを立てている怖い顔の大男だ。
「相変わらず気取った話し方をているな、顔は変わっても声は同じだ、そっちに行ってもいいか、話の邪魔はしないから」
いいも悪いもなく男がひょいとテーブルと椅子をつかんでこちらに来た。その間にようやく中路は思い出した、同級生だった。
「高塚…だよな」
「そうよ、ワルの高塚だ、なんだ皆いるのか」
焼酎のビンが傾きコップが一杯になる。
「お前、今は何してるんだ」
「130キロの体重を95キロに落としたよ。2度結婚し2度離婚した。先の女房に3人、後の女房に2人子どもを作った。皆いい子でな、なぜか子どもが大きくなると女房は去っていくんだ。女は身勝手だな」
「それで養育費を渡しているんでしょうね」
林姫がつっけんどんに言う。
「えーと誰だったけ、森山か、旧姓でないと分らん。覚えているよ、声を聞いて思い出した。昔と変わらぬ透き通った声だ。惚れてたんだぜ、小柄でピチピチしていたな、目がくりくりしていて可愛かった、今だってなかなかだぜ、もっとよく顔を見せろよ」
林姫はかかわりあいになるまいと椅子をずらして春野行者の影に隠れた。そんなことに気もかけずに焼酎を飲む。
「そうだ養育費か、財布を空にして払っているよ。ワルのかたわら運送屋をやってな、だんだんそっちが本業になって今は盛大なものさ、ついでに故郷に寄ったのだが、景色も変わったし仲間もいないし寂しく呑んでたんだ。田辺はいい奴だ、自分の酒を出してくれたよ」
昔は殺気だっていた奴だが、だいぶ饒舌になったものだ。
「よくしたもので今の彼女は14下だ、でももう子どもはだめだ」
計算すれば14才年下でも50半ばに達している。
「昔、いじめられたし金を取られたな」
RR池田は鼻っぱしが強い。
「おお池田か、ミカンやリンゴをよくもらったよ」
代金をくれないのだから客とは呼べない。
「俺が13才の時に親父が死んでな、翌年にお袋も死んだよ。弟妹がいるが長男の俺は食わしてやることができん。辛かったよ」
「それで学校に来なくなったのか、お前は学年で一番成績が良かったじゃないか」
中路が少し同情した。
「そうよ、お前らみたいなぬくぬくと暮らす奴が憎くてたまらなくてそれで悪さをしたんだ、ごめんよ」
本当に謝っているのか、金を貸せと言いだすのか不安になって皆が黙った。
「悔い改めれば結構じゃ、悪行は許す、極楽往生まちがいない、めでたい」
春本行者が褒めるつもりで危ないことを言う。
「お前は…春本か。お前から金を取ったことなんか一度もないぞ。でも許すと言われればうれしいね」
またコップをつかんでグビリと喉が鳴る。
「ちかごろのイジメなどは陰湿だ、若い者にまかせておいてはいかん、所詮は未熟者だよ。お前らがいい年をして手ぬるいからこうなったんだ。といって俺も会社の若い奴には手を焼いているけどね、ワッハッハ」
またグビリ、ほぼ独演会だ。
「おい、みんな呑めよ、田辺のおごりだ、いやがるな」
燕柳兄さんがたちまち酔っ払いに変身して話を受ける。一滴も飲まずに酔えるのが噺家だ。
「社長、いいご機嫌だね。私もだいぶ回っちゃってさ、ずいぶん久しいね」
「誰だっけ、思いだせんが、まあいいや。昔の仲間と話すのは楽しいね、ワッハッハ」
「俺たちの出世頭だよ社長は」
燕柳はヨイショ、お世辞も仕事のうちだ。
「金はあるよ、死ぬまで大丈夫だ。住まいは高層マンションのペントハウスだが会社の所有だから無料さ、税金も経費で落とす。別れた女房たちに毎月40万ずつ、生命保険と財産分与で5千万は渡せる、それだけあれば暮らしていけるだろう。残りは10数万だけ、質素なものさ、普通の爺だよ。朝はパン一切れ、夜は宅配弁当、それで大満足だ、金持ちの端にも入らんよ」
「つまるところはそういうことだ」
JW藤野がしんみりした、どうやら富豪になる分岐点があったらしい。
「お前は藤野だな、勉強でも俺に勝てなかったろう。俺の方が強かった。ライオンだってサルだってメスは強い奴の子孫を残すんだ。俺の子どもたちだって立派に育っている、俺など一緒にいれば邪魔なんだよ。会いたいだろうって、会えば子どもに汚れがつく、だから女房は去っていったのさ、正解だ。俺の弟か?真面目な奴でオレの会社の専務をしている。妹は堅実に暮らしているよ、ボランティアが好きで旦那を悩ましているらしい」
「お前の成功は神様仏様のご加護だ。運を授かってよかったな」
春本行者は大胆なのか悟っているのか、ワルの高塚が怒り出すのではないか皆はひやひやした。
「そうかも知れん、しかし運を生かすのは頭脳と気力と体力だな」
しんみり答えたので春本行者は追及をやめない。
「それは父母からもらったものだ、父母にも感謝だぞ」
「ありがたいと思っているよ。あの世にいったら父母に会える、それが楽しみさ」
「葬式はどうするんだ」
春本行者の言葉に一同はまた仰天し目をみはった。
「葬式はしない、墓も作らない、とうとう死んだかヤレヤレだという奴らに拝んでもらいたくはない。焼き場から海に直行、散骨だ」
「元女房と子どもたちは」
「生きていればこその愛情さ、わずらわしいことを生きている者にさせたくはない」
感嘆の声があがった。
「ああ酔ったな、友だちと一緒だと気持ちよく酒が呑める、ありがとよ。田辺!タクシーを呼んでくれ。駅までに決まってら、自分で洗濯し自分で頭の毛も刈っている男だ。また来るかどうか分らんぞ」
皆は「またおいで」と思ったが茫然とした。
「なんか映画の一場面、違う世界をのぞいたような気分です。
野瀬ボンがため息をついた。
「ホラだよホラ、酔っ払いのホラ」
RR池田がゴミを払うような手つきをして言う。しかし話に圧倒されているのが歴然として現れている。
「どうも僕らの世界はチマチマしていました。まさに小市民的でしたね」
野瀬ボンが感想を述べた。
「私らが苦労して作った高級マンションにはああいう人たちが住んでいるのですね」
メカ吉川はしょんぼりしている。
「夫婦はパートナーだなんていう議論は受けつけない人ね。たぶん父母の愛情に包まれなかったのが原点だろうけれど、話を聞いていて負の連鎖がないので安心したわ」
高塚が自分の過去に踏み込んできたので狼狽した林姫だったがようやく立ち直った。
JW藤野は黙っていた。もしかすると自分も富豪になって豪華な生活をしていたかもしれない、つまるところはそういうことか、そんな感慨だったのだろう。
「時間だよ」
マスター田辺が顔を出した。
「マスターの焼酎は飲み逃げかい」
RR池田が昔を思い出して同病相哀れむの態で声をかけた。
「偉くなったよ高塚は、苦労人だね。瓶に一万円札が貼り付けてあった」
「ふうん」
RR池田は鼻息を噴いて、自分の店の大根にも札が張り付いていないか確かめようと思った。
「よしよし、因果を含めてやったわい。あいつも往生できるぞ、南無阿弥陀仏」
「あなた、この前は南無妙法蓮華経だったわよ、宗旨が変わったのかしら」
「相手によるのさ、あいつは阿弥陀様の極楽に行くことになるのだ」
こういうところが友だちでも分らない。
「燕柳兄さん短く頼みます、なんだか疲れがどっとでたよ」
中路が哀願した。
燕柳裾まくら
江戸の昔にガマ浄瑠璃というものがあったそうです。
お座敷に呼ぶと、茶色の着物のガマ仙人のような男が格子になった箱を前に置く。格子の中にガマが何匹も男と同じように座っている。
「ご注文は」
「柳をやってくれ」
「東西東西、このところ浄瑠璃名題、三十三間堂棟木由来、木遣り音頭の段 あい勤めまする太夫は池本ガマ太夫、藪元ケロ太夫、泥水跳大夫 東西」
口上がすむと細い棒でガマを叩く。ギョと短く鳴く、次々に別のガマを叩いていくと浄瑠璃の一節に聞こえる、玄人はだしです。
さて何の事件が起きるのか皆が静聴していると燕柳が席をずらした。
「これで終わりかい」
「ガマだけにもうカエロって、私はちょっと野暮用で、浮世の深い古池に飛び込むカエル男気の水音高く、さて、ひんしゅくカワズに帰るとしようか、サヨウナラ」
さっさと帰ってしまった。口あんぐり、一同も帰るより仕方ない。
「なんだなんだ、色事だね、芸人さんは気楽でいいや」
RR池田は勘がいい。
「来月話がありましょう、お楽しみに」
あのことかなと心当たりのある中路がまあまあと皆を静めて帰した。
「マスター、麻美ちゃんはどうしてる」
「燕柳兄さんに会って弟子入りを頼んだらしいよ。たしか今晩も行くとか言っていた」
「なるほど早く小噺を切り上げたわけだね」
「燕柳兄さんは人畜無害だろ、やらせておくさ、どっちかが飽きるよ」
夜風が冷たくなった、ふだんより一層背中を丸めて中路も帰っていった。
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