第5章 春のきざし

 3月に職場体験をします、希望する職業があったら書いてください。また保護者の方で中学生に体験させたい仕事に就いておられる方はお申し出ください。
 そんなプリントをもらった。もちろん鈴木先生が説明してくれた。
「ただ何となく勉強するのでなく、自分の夢をかなえるために目的を持って今をがんばるという気持ちが大事です。職場体験を生かしてください」
 なりたい職業、そんなことは考えたこともなかった。ペルーにいたら仕事は限られている。留学をしないのなら企業に入って活躍することなどできない。友だちも、家の仕事を手伝う、なにかチャンスがあったら飛びつく、そんな選択しかない。
 日本はどんな可能性もあるという、まったく仕事をしないでホームレスになるというチャンスもあります、学年集会でそう言った主任の先生に僕は反発した。ホームレスになる人の事情を知ろうともしない、差別して見下している、思いやりがない。いじめというのも同じ心情だろう。この前、ワタナベさんと話した記憶が生々しくよみがえってくる。
「父さんの仕事は中学生の参考になる?」
「マチュピチュの案内人ならあこがれる子どももいるかな。なかなか難しい仕事だし」
 はるばる日本から飛行機を乗り継いでアンデスを訪ねてくる、そこで何時間だけを過ごすために大金を払ってやってくる観光客、父さんは最大の感動を残してもらうように気を配ったのだ。マチュピチュ遺跡を探険家が発見した、同じように観光客も発見する。もちろん遺跡では途切れることなくインディオたちがトウモロコシ畑を作り住み続けていた。インカの古道も村人の通路だった。
「お前はどんな職場を見たいんだい」
 それが困っている。桜田さんはイラストレーターになりたいという、僕にはついていけない。吉野さんはタレント、これもダメだ。川田はアルバイトならなんでもする、これもダメだ。
 
「桜を見に行こう」
「いいね、でも夕方しか行かれないよ」
「平安時代の人は和歌を詠んだりして雅やかなことが好きだから、よくお花見に行ったらしいよ。なかでも夕方の景色がきれいだって」
「チャリで回ろうよ、桜狩りの会だ」
「なぜ桜の花を見に行くことを桜狩りと言うの、狩りといえばライオンとか熊とか猛獣を撃ちにいくことじゃん」
「だって昔からそう言うから」
「たぶん武士は狩りといえば鹿とかイノシシで武勇を自慢したけれど、お公家さんは桜とか紅葉とかで優雅さを自慢したんだ。お公家さんにとっては勝負だから狩りと言ったんだよ」
「へぇ、物知り、本当なの」
「たぶんね」
「では長柄の郷の桜くらべ、一番は」
「南郷の桜、校庭と公園と坂道」
「コンビニの桜、川の向こう側の桜の木だ。せっかちだから咲くのも早いし、去年なんか秋の終わりに咲いて、春の始めに咲いて、春の終わりにまた咲いたよ。大風で葉が落ちて、その後で暖かくなったから春が来たと間違えたのさ、春の終わりに急に寒くなってまた暖かくなったので、もう一回咲いたのさ」
「それってかなりアホじゃない」
「だから好きなんだ」
「橋から見る桜が最高だよ、川下橋、下小路橋、風早橋、木下橋、亀戸橋、長柄橋」
「長柄橋ってどこにあるの」
「歩道橋のある十字路さ」
「川が見えないよ」
「道路の下を直角に曲がって流れているんだ」
「へぇ道路の下に川が流れていたんだ、知らなかった」
「俺の一押しは石段の桜、ほら危険だから登るなっていわれているだろ。真ん中あたりに桜の木があってきれいだよ」
「じゃあ保育園の桜、ふだんは子どもがうるさいが、日曜日は静かだよ」
 
「日本に来て残念なことがあるかい」
 父さんが冗談で言っているのが分かったので僕もとぼけて答えた。
「クイが食べたいね」
  食事が終わって三人でテレビを見ていた。母さんが珍しく手を伸ばして父さんのコップのビールを一口飲んだ。僕は少し驚いて母さんの様子を見た。母さんは小さい声でテレビに合わせて歌っていた。なんとなく晴れやかでアンデスの風に吹かれているような透明な感じがした。
 僕は風呂に入りなさいと言われた。浴室の扉を閉めると二人はケチュア語で話し始めた。突然、アワアワという言葉が耳に入った。赤ちゃんという意味だ。僕にはいろいろなことが分かった。一番うれしかったのは母さんが日本にずっと住むことに決めたことだ。故郷のペルーと日本とが母さんの気持ちの中で言ったり来たりしているのを僕は感じていた。ペルーは僕にとっても生まれた所なのだが、父さんの故郷は日本だ。そして僕はずいぶん前に日本を選んでいた。
 母さんはよく歌いながら自分の気持ちを確かめていた。遠いアンデスには帰りたい気持ちと帰れない理由がある。そして太陽の乙女ではない母さんは自分の意思で住む所を選ぶことができる。アメリカでもいい、ヨーロッパでもいい、父さんが昔、旅をした東南アジアの国々でもインドでもいい。しかし母さんは一緒に暮らしたい人がいる。父さんと僕だ。二人が日本に住みたがっていることも知っている。母さんは自由に生きることを獲得したので多くの悩みを抱えてしまった。母さんの歌は哀しいこともあれば、大きな憧れが大らかに響いていることもあった。決断できないもどかしさや不安にかられて震えるような響きもあった。
 その時が終わって、今、母さんは決めたのだ、一緒に日本で暮らすことを。僕はうれしくて叫びそうになったがバシャリと水を浴びただけにした。まだ僕には教えてくれていないことだ、たぶん父さんが話してくれるだろう。
 赤ちゃんという言葉に僕は一層うれしくなった。弟か妹か、愛することのできる人が産まれるのだ。
 母さんはそっとお腹に手をやった。そして僕の手も取ってお腹に触らせた。少し固い感じがした。
「やがてピクピクと動くようになるわ。もっとたつと活発に運動するようになるわ、早くみんなと会いたいって」
 僕はなんにも言えず驚いていた。
「ママは山奥で育ったの、トラックを降りて山の中へ歩いていく、二日も山の中を歩くの」
 待ってと僕は言って、すぐに地図を持ってきた。
「ここがクスコね、こちらがマチュピチュか、反対側よ、チチカカ湖側、地図ならすぐ指させるけれど、人は荷物を背負って2日も3日も歩いていくのよ」
 聞きたいことがたくさんあり、話を続けてほしかった。取りあえず話しやすいことを聞いてみた。
「どんな暮らしだったの」
「小さいうちに離れてしまったから忘れてしまったわ、でも思い出してみるわね」
 アルパカとリャマを飼っていた。谷底にある家から千メートルも山を登って草地まで家畜の群れを追っていった。アルパカもリャマも夜は膝をついて眠っている。日がさすと起きてくるのだが、一番のんびりした朝寝坊のアルパカと母さんは仲良しだった。朝ごはんを食べ、お弁当の焼いたトウモロコシを持って兄二人と小さい妹の母さんは毎日50頭ばかりの家畜を追っていった。
「もちろんテレビなんかないわ、電気がないんだから。ラジオというのを初めて聞いた時は皆びっくりした。でもすぐに聞こえなくなったわ、電池がなくなったから」
「学校には行かないの」
「学校も教会もない、谷間のあちこちに30軒くらいの家があるだけ」
 山にはピューマやコンドルやキツネがいる。大事な家畜を守らなければならない。それに家にいても畑仕事を手伝い、水くみに行き、家畜の糞を集め干して燃料にする、ジャガイモをゆでて夕飯を作る、子どもの仕事はたくさんある。
「こんな女の子?」
 僕はガイドブックの写真を見せた。刺繍のついた耳の隠れる帽子をかぶり広いスカーフとスカート、はだしにサンダルを履いた女の子が恥ずかしそうに笑っている。服装は違うが顔は近くの幼稚園にいる子と同じだ。
 母さんも笑って言った。
「そんなとこね、でも写真家に会ったことはないわ」
 夕方から朝までの空は輝く星、朝から昼までは手を伸ばすと染まりそうな青い空、そして午後は真っ白い雲におおわれてしまう。夜になると家の中で糸をつむぎ、畑で掘り出したジャガイモを凍らせる。朝になると布を織り、ジャガイモをふみつけて乾かす。そんな村だ。
「昔は月だけが光る暗黒の時代で、ここにはニャウパという魔物が住んでいた。しかし神様が現れて太陽を造ると、ニャウパは目が見えなくなり洞穴に隠れたの。そこで神様はインカリとコラーリという人間の男女を造って金の杖と糸巻きを贈ってくれたが、インカリとコラーリは神様を怒らせてしまったの。人間をうらやんでいたニャウパは喜び、神様に取り入って人間を殺しはじめたの。インカリとコラーリはチチカカ湖まで逃げていったの」
「そして神様に許されてまた帰ってきたんだね」
 神様に造られたばかりのインカリとコラーリはさぞ美しかったことだろう。高山の陽光で焦げるように日焼けし、畑仕事で節くれだち、辛苦の深いシワを宿した子孫たちは神様の罰を受けているようだ。
 母さんは黙ってうなずいた。しかし母さんが再び村に帰ることはないだろうと思った。なにか事情があって帰れない、それは神様に願ってもできないことなのだ。
「一番上の兄さんが死んだわ。銃で撃たれたの、地主の部屋で。警察は銃をいたずらして間違って自分を撃ったと説明したわ。兄はウサギやキツネを撃つ名人だったのにね」
 次の兄が復讐するのを怖れて地主は村に来なくなった。機嫌をとるように地代を値下げした。それでも村人は一年の半分以上を地主の畑で働き、自分の畑の収穫の三分の一を差し出していた。国に税金を納めたことはなかった。しかし父が死に、一家はクスコに出て行き、母が死に、兄と母さんはリマに出て行ったのだ。それは聞いたことがある。
「楽しかったことを思い出したわ」
 母さんが話題を変えた。
「カーニバルと巡礼祭よ」
 毎年2月末、南半球なので夏の終わり頃、カーニバルがある。ブラジルのように派手な衣装もつけず、ベニスのように仮面をつけることもなく、ここでは明るい色の晴れ着を着た人たちが教会の像を先頭に行進する。もちろん踊ったり歌ったりの祝宴がある。兄たちが娘の気を引こうと顔を紅潮させているのがおかしくて笑ったそうだ。まだ小さかったので恋愛や結婚など思いもしない。それで晴れ着とご馳走だけしか覚えていない。 
 巡礼祭は6月にある。聖地シナハラに向けて何万人という人が行列をつくる。リャマにテントや食料を積んで何日もかけて万年雪の山をめざす。もちろん娘たちは一番良い服を着、銀の飾り物を身につけている。行列には楽団がついていてバイオリンやトランペットで囃したてる。十字架のついた旗を立てて女たちが踊り、男たちも輪に加わって賑やかに行く。「ウクク・熊」と呼ばれる男たちの手で氷河の峰に高く十字架が立てられている。祭りの間、テントで寒い夜を過ごす巡礼たちは最終日の夜明け前に一団となって山に登り十字架を担ぎ下ろし、氷河を切り取った厚い氷を背に負って帰っていく。氷はキリストの重荷で、罪をあがなう行為なのだ。
「たくさんの人と歌って踊って、聖なる水で足を洗って、人間に生まれた喜びを感じるのよ」
 まだ母さんの心はシナハラにいるようだ。美しい民族の衣装を着飾った人々が上りはじめた太陽の光を受け虹色にキラキラ光る氷の上で歌い踊っている。弦楽器、管楽器が鳴り響く祝祭、その中に母さんもいる、僕は泣きそうになった。
 
 春休みが終わると新学年、僕も2年生になった。
 長柄川の水面を数羽の鳥がせわしくなく飛びまわっている。黒い長い尾をひるがえし、反転するときはまっ白い腹が鮮やかだ。岸辺は一面の菜の花、しかしコンビニ桜はすっかり葉に覆われてしまった。
「もうツバメが来たんだ、今年は早かったね」
 中村先輩がうれしそうに言った。バス停から降りてきた先輩は高校の制服を着ている。橋の上でたちどまって信号を渡る僕を待っていてくれた。
「まだ巣を作っていないから、ほら岩の上で休んでいるわ」
 春に来て秋に帰る、その間に卵を産み子を育て、南の国に帰っていく。もちろんツバメには祖国などという意識はない。一番良い環境で生きていたいだけだ。
「高校でもブラバンやるんですか」
 僕は先輩と話したかった。
「パートが空いていればね、得意な楽器はケーナって言ってみようかな」
「一緒に古墳で練習しましょう」
「いいわね、それよりも中学のブラバンをお願いするわね」
 新1年生が部活見学に来ている。こちらでは空いているパートがたくさんある。偉そうに楽器の特徴などを教えている。日本に来て半年と1ヶ月しか経っていないのに先輩と呼んでくれる。
「指揮をやってね、部長は誰でもできるけれど指揮は難しいわ」
「えっ」
「桜田君も言っていたわ、建君の指揮なら安心して演奏できるって」
「桜田さんとはずっとケンカしていたのです」
「聞いたわ、ウィンクでしょ、習慣の違いで誤解されるなんて驚き、気をつけましょう、私は外交官志望なの」
「指揮者なんて無理です、僕は日本語だってまだ半分なんだから」
 先輩は小さく歌を口ずさんだ。
「渡り鳥は帰ってきました。いい歌ね」
「そうか南の国から今ね帰ってきたのか」
「はぐれそうになった鳥かもしれないわ、だから勇気を出して、引き受けると言ってね」
「…はい…」
 じゃあ、またと言って別れた。
 
 家に帰って、すぐ母さんに言った。
「母さん夏の頃のユリの歌を覚えている」
「悲しい歌だったわね」
「母さんと約束した二番ができたよ」
「覚えていたのね、でも、また悲しい歌だと困るな」
「大丈夫、母さん弾いてくれる、僕が歌うから」
 母さんはケーナを口に当ててゆっくり前奏を吹いた、少し心配そうな響きがあった、そして「さあ」というように僕の顔を見た。

―朝日がのぼる空
暗い眠りを
追いやって、さあ行くぞ、力あふれる
まだ見ぬ世界へ
旅立つときだ、行くぞ
何かが、誰かが、待っている
夢と望みは先にある
行くぞ、行くんだ、勇気をふるい


「この歌、好きな歌」
 母さんは黙ってケーナを置いて台所に立っていった。
父さんにも聞いてもらった。
「長調に転調しなければならないな」
 父さんは真面目な顔になってポロンと弦を鳴らした。
 僕は自然に笑っていた。

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