11月には学校の音楽コンクールがある。課題曲と自由曲、学年と全校の二つの部門で審査がある。それは賞状一枚だけだか皆の心にはずっと残る。大人になっても同窓会の話題になるのだと音楽の渡利先生が言っていた。課題曲は6月に決まり、自由曲を夏休みまでにクラスで決める。ピアノのうまい吉野さんと指揮のできる大田君、学級委員の佐野君とが選考委員だった。
皆は無関心だ。それどころか面倒くさいことをやらされるのがいやだと反発している。そんなことをしている暇に塾の勉強をした方がいいと思う人は多いし、運動部は競技大会に向けて必死に練習している。なぜ中学1年生がそんなに忙しいのか僕には分からない。父さんも母さんも不思議がっていた。
候補曲は他の組とだぶってしまった。ジャンケンで負けたので変更しなければならなくなった。吉野さんに頼まれて僕も協力することになった。しかし僕はアンデスの歌しか知らない。土曜日の夕方、吉野さんの家で相談することになったが学級委員の佐野君は来なかった。塾ごめんとメールが来たそうだ。
CDや楽譜が並べられ吉野さんはパソコンのユーチューブを開いた。
いくつもの合唱曲を聴いた。どれも素晴らしかった。男声と女声がハーモニーを作って水があふれるように流れていく。僕は驚くいるばかりだ。
「すごいね、気持ちが一つになっている」
「でもふだんはこうはいかないんだよ。コンクールが近づくと毎日、毎日、苦労ばっかりしているさ」
指揮の太田君がいやそうに言った。
「声を出さないし、心をこめて歌わないの」
吉野さんも同じ顔になって言った。
「君の好きな曲があったかい」
さすがのユーチューブも僕の好きな曲はアップされていなかった。それで僕は皆に言われてアンデスの祭りの歌を口ずさんでみた。
「いい曲ね」
「透き通った曲だね」
「楽譜は…ない。だから弾けない」
「指揮もできないな」
またCDとユーチューブに戻った。
何曲目かに三人の気持ちがぴったりした。
「やってみようか」
「ドラマチックよね」
こんな歌詞だった。
渡り鳥は帰って行きました
野を渡り山並みをこえて
海の向こうの南の島へ
一羽 帰りおくれた鳥がいて 枯草の中に
小さくまるく座っています 座っています
ほんのちょっと よそ見をしていたために
ほんのちょっと ハマナスの花にみとれて
いたために むれから離れて
むれから離れて むれから離れてしまった
離れてしまった 鳥
鳥よ 鳥よ 勇気を出して
鳥よ 鳥よ 翼を広げて
眠りかけた鳥に 聞こえてくる
おかあさん鳥の声
遠い空から 遠い空から 聞こえてくる
おかあさん鳥の声 おかあさん鳥の声
高田敏子作詞 岩河三郎作曲
「岩河三郎さんって合唱曲をたくさん編曲している人よ」
「高田敏子さんの詩、僕は大好きです。僕が一番好きな詩を朗読します」
気をつけの姿勢をとり一礼して太田君は暗唱を始めた。
入道雲にのって
夏休みはいってしまった
「サヨナラ」のかわりに
素晴らしい夕立をふりまいて
けさ 空はまっさお
木々の葉の一枚一枚が
あたらしい光とあいさつをかわしている
だがキミ! 夏休みよ
もう一度 もどってこないかな
忘れものをとりにさ
迷い子のセミ
さびしそうな麦わら帽子
それから ぼくの耳に
くっついて離れない波の音
「去年読んだんだ。そうしたら耳から離れなくてさ。まるで詩の中の言葉が頭に張り付いてしまったみたいなの。忘れているかと思ったけれど覚えていたよ」
「夏休みか。始まる前が長くて、始まると短い、終わってしまうと、アレッという感じで忘れてしまう」
「だんだん夏休みが短くなる気がする」
どうして…と僕は聞いてみた。
「小学校の時は自由だったけど、中学校に入ったら部活とか講習とか、大人は子どもが休んでいると不安になるのさ。もっともお父さんなんか夏休みが六日間だけしかないって嘆いているけどね」
「みんなヒマはムダと思っているのよ」
「僕の母上も素晴らしいお方ですけれど、そんなヒマがあったら勉強しなさいとおっしゃる、これには参るね」
吉野さんと太田君は盛り上がっている。しかし、僕は何も言えずに黙ってうなずいていた。二人は疑いなく僕の家もそうだと思っている。少し悲しくなった。たぶん僕はふつうの生活をしていないのだ。
「では『一羽の鳥』に決めます」
太田君が気負いこんで言った。
「たぶん他のクラスとは重ならないと思います。ドラマのある歌詞だから反対する人もいないと思います」
「太田君、夏休みの詩も朗読してね。すごく良かったから」
しかし太田君は照れたように言った。
「僕のことを嫌っている人がけっこういるんだよ。キザだから嫌だって」
「私も同じよ、でしゃばりだって」
「僕は…」
「試してみて、あなたは今まで一度も提案者になっていないわ。アンデスから来た人っていうだけ、だから今度はクラスのリーダーになってみて、もちろん応援するわ」
綾乃さんは障害を持っている。授業中じっと座ってニコニコ笑っているだけで、どの先生も指名しないしテストを白紙で出しても怒られない。
「綾乃のことだけど、コンクールの時、どうしようか」
帰りの学活の後、30分ほど練習した。吉野さんがキーボードで曲を流し、パートごとに歌った。もちろん音程は外れるし皆が勝手に歌っているだけだ。しかし、うれしいことに歌詞は覚えてくれた。それは国語の先生が授業中に見事に朗読してくれてイメージを一つにまとめてくれたからだ。優しく艶(つや)やかで少し寂しげなハマナスの花が皆の心にも残されている。
綾乃さんは緊張に弱い。だから大声を出したり、動き回ってしまったりする。練習の時でさえ、皆が緊張するのを意識してキーッという奇声を発してしまった。
「だいなしだぜ、いくら俺たちががんばっても、あいつが変な声を出したら大笑いだ」
「小学校の大縄跳び大会のときは見学だったぜ、今度も見学させておく方がいいよ」
本人は隅っこでじっとうつむいて指を縮めたり伸ばしたりしている。
「先生に言ってもらおうか」
会話は長続きしなかった。皆、急いで部活や塾に飛びだして行ったからだ。
キーボードを片付けている吉野さんと練習がうまくいかずにイライラしているような太田君が残っている。
「綾乃さんのこと話していたけれど…」
「全員参加が原則よ」
吉野さんがはっきり言った。太田君は疲れたようになげやりだった。
「良い合唱にしたいならパートから外してほしい」
「だって全員が一つの気持ちになって歌うことがコンクールの目的でしょう」
「それが綾乃には理解できないんだよ」
「時間をかけて教えてあげよう」
「歌を理解する力、歌で表現する力がないんだよ、かわいそうだけど」
「先生は必ず、皆が一緒にって言うわ」
「でも困るのは俺たちだよ」
僕は何も言えずに考えていた。いっそ音楽コンクールでなくて音楽祭ならもっと気楽に参加できるのに、そうも思った。先生はもっとがんばらせようと、より良いものを創らせようとコンクールにしたのだろう、しかし生徒たちは勝ち負けにこだわってしまうのだ。
火曜日は6時間目まである。長い1日だ。少しげんなりしながら昼休み、校庭にでようとすると川田がそっと寄ってきて耳打ちした。
「あいつらコンビニ強盗を計画している」
えっと息を飲んだ。
「俺に見張りをさせようとしている。今度の金曜日の夜中の2時、バス停の前のコンビニだ。俺は客がいないことをメールする係だ」
3人がバイクで乗り付けて、ヤスシとタカヤが金属バットでおどして金を取り、見張っていた羽田を乗せて逃げ出す、そんな単純な手口らしい。金曜日は終電車を降りた人と深夜でかける車とで1時ごろまでは客が絶えないが、それ以後は誰も来ない。
「警察には言わないでくれ、俺はひどい目にあう」
それに警察に捕まったくらいで反省するとは思えない。むしろハクがついたと喜ぶくらいだ。本当のヤクザになろうとしているのだから。
「よし考えてみる。君は知らん顔して協力だけしてくれ、また連絡する」
僕は誰に相談しようかと考えた。今井先生にはまだ話せない、なぜなら一人で動いてしまうから。カウンセラーの東さんは今日は学校に来ていない。そうだ前と同じように中山さんに相談しよう、知恵も経験もあるだろうし、3人に死ぬほど怖い体験をさせてくれるだろう。僕は放課後まっしぐらにレストランに走った。
「なるほど分かった。この前のことがあったのにあいつらは少しも改めない。特に羽田だ、両親がよくない、恥ずかしいが俺の親せきなんだよ、親子三人が互いに憎みあっていて嫌がることや困ることばかり仕掛けあっているんだ。いい機会だ、とっちめてやろう、でないと将来がいよいよ苦労になる。こんなのはどうだろう、少々荒っぽいよ」
強盗に押し込んだ3人を逆にヤクザが捕まえて拉致(らち)し、散々に脅かす。
「最後はどうしよう、やはり警察官がでないと落ちがつかないな」
「川田くんの立場もあるから」
「少年課の萩原刑事なら協力してくれるだろう。そこでまた脅かして最後は学校の先生に渡そう」
「今井先生が生徒指導担当です」
「たぶん萩原さんとも知り合いだろう。よし、早速動いてみる。俺は実はこういうことが何より好きなんだ。血が騒ぎ胸が高鳴る、ありがとうよ」
木曜日の夕方6時にレストラン集合という連絡がきた。顔合わせとリハーサルだという。父さんも呼ばれていた。川田には何も言わなかった。彼はおびえきっていた。夜中に隠れてメールを送るだけなら僕がやると言うと、ほっとしたように携帯電話を手渡した。
しかし僕の役目は何もない。金曜日は家を出てはいけない、メールは父さんが送る。すこし憤慨したが中山さんと父さんに怖い顔でにらまれた。遊びじゃないんだ、そういう二人は何かワクワクしているようだ。しかし筋書きだけは教えてくれた。
2人が侵入してきたらレジのオバさんはわざとあたふたして店の照明を切る。それを合図に店のトイレと駐車していた車から男が飛び出す。再び照明をつけると同時にオバさんは催涙スプレーをかけ、男たちは2人を毛布でグルグル巻きにして車に運び込む。バイクで待っている女も同じように海苔巻にして運び込む。レストランに仕入れをする水産会社の車だから少し魚臭いがその方がリアリティがあってよいだろう。30分ばかりわざと町内を走り回って三崎あたりに到着という見当で海岸のボート小屋に連れ込む。実はレストランのすぐ下だ。ヤクザたちがすごみをきかせながら連絡すると船長とフィリピン人が来て男も女も買って連れて行くという。あすの朝マグロ漁船は出航する、もう2度と日本には帰れないのだと散々脅かす。すると、そこに刑事が来てドタバタしたあげく、今井先生に連絡して中学校の保健室に運び込む。逮捕しない代わり観察する。3年前法律が変わって14才以上は大人と同じ扱いになった。だから強盗の時効は十年だ、観察がそれまで続くことになる。そして一件落着、保護者に引き取らせる。
ケーキをもらって帰って来た。何も知らない母さんは楽しそうに食事を作っている。信心深いクリスチャンは金曜日には肉を食べない。日本は色々な魚があって助かるわ、ペルーでは魚は値段が高いのだ。
明け方、父さんは帰ってきた。僕は寝たふりをしていた。起きていた母さんに「明日の夕飯はイタリア料理だぞ」というのを聞いて作戦はうまくいったのだと分かった。
今度は僕も母さんも話に加われる、うれしくてレストランに行った。結婚式に使う個室に案内された。もう部屋は盛り上がっていた。
驚いたことにカウンセラーの東さんがいて中山さんが上機嫌で話しかけている。
「さすが素早いですね、催涙スプレーを使い慣れているし、あたふたした様子などはとてもいい役者でしたよ」
「ちゃんと防弾チョッキを着ていたから安心なんです、私、ガードマンもやったことがあるんだから」
するとコンビニのオバさんは東さんだったのか。
「岸井さん、あなたがスペイン語で話しだしたから、あいつらはびっくりして、そして俺たちは笑いそうで困りました」
「笑いそうなのはこっちだよ、お前のでたらめスペイン語には参った、なあ船長殿」
「あの香港のヤクザというのはきちんとした中国語を話しましたね、誰かのお知り合いですか」
中山さんは聞こえなかったようだ、隣の人に話しかけている。席の真ん中に座ったがっしりとした人相の悪いお爺さんだ。
「ところで親分、実際には男一人いくらで売れるんですか」
男はニヤリとすごい笑い顔を見せた。
「そんなこと聞いちゃあいけません。ただあの値段では安すぎやしたよ」
するとこの人は本当のヤクザなんだ。
「今回、こんなお芝居に参加していただいてありがとうございます。さすが本職は違う、ドスがきいていました」
「あんたらのしゃべりは迫力がない、あれでは震え上がらせることなんかできやせんや」
「やはり親分にお願いしてよかった」
「わしが承知していないと後々、困ったことになったかもしれん、危ない橋を渡ったものだ。ところで萩原刑事は今日は来ませんな」
すると刑事さんも本物か。中山さんが自慢そうに言う。
「さすがあの署長は豪傑です。計画を打ち明けたら、人を3人助けるためには仕方ないから目をつぶろう、ただ証拠は残すなよと言ってくれました。萩原刑事がここに来たら証拠が残ります。あの3人は顔を知られているから、もう頭が上がらないでしょう」
東さんもうれしそうだ。
「防犯カメラに映っていたのを押収したというハッタリもききましたね。親御さんは泣いていた、もう駄目だと思ったのでしょうね」
中山さんも調子にのっている。
「あの親は世の中を甘く見ているからさ、きついお灸をすえてやたよ」
東さんも笑っている。
「あの大男の人は力持ちでしたね、どなたですか」
「今は忙しく料理を作っています。一段落したら来るでしょう」
「えっ、お宅のコックさんですか」
「本物の香港人です。あいつも仕方ないやつで、男の子はひどく乱暴に引きずって行ったのに女の子はやさしく抱いて運びました、甘ちゃんだな」
今井先生が入ってきた。
「遅れてすみません、ようやく部活が終わりました」
互いに知っている人もいたが中山さんが紹介した。
「お知り合いになれて幸いです。また生徒指導関係でお頼みすることがあるかもしれません。あの3人はしょんぼりと学校に来ました」
茶髪は切ったり染めたりして、ピアスは外し普通の服装で登校している。おずおずとして誰よりも大人しく、同級生に挨拶されてもうつむいてしまうほど、むしろ逆にいじめられるのではないかと心配している。先生も生徒もキツネにつままれたようで、ほっとしているのか気味悪いのか。
とりあえず様子を見ている。
「私がカウンセリングしますよ」
東さんは本来の仕事を思い出した。
「でもコンビニのオバさんだと見破られると困りませんか」
「似ている人だと思うかもしれないけれど、逆に私の顔を見るたびにあの日のことを思い出すのは良いことでしょう」
ひどく残酷なことを言う。
「眠れない日が続くじやろうな、自業自得」
親分がボソッと言った、自分自身のことなのだろう。
「あいつらを良くも悪くもするのはこれからだ。悪人というのは世間がつくるものだよ。つまずいた者を踏みつけたり、無視して通り過ぎたりという非道な仕打ちはまず善人がする。建君、先生、東さん3人を頼みます」
場がシーンとなった。計画が成功して得意になり、はしゃいでいた中山さんが一番ショックを受けたようだ。
白い帽子をかぶり一層大きく見えるコックさんが二人、湯気の立つ大皿をワゴンに乗せて運んできた。一人が真面目に挨拶した。
「ニイハオ」
ではこの人が香港ヤクザ役だったのか。女の子を百万円で引き取る、漁船が香港についたら現金を渡すといって震え上がらせたのだ。
もう一人のコックさんは日本人だった。
「社長、私たちも同席させてください。だめなんて言ったら料理に毒を混ぜますぜ」
「今の声はドスが利いていて合格だ。あの晩どうしてそんな調子が出なかったんだよ」
親分が恐ろしくドスの利いた声で言った。きっと半端でない修行をしてきたのだろう。
「いや寒いし怖いしで震えていました」
コックさんはいい人だ。
「今井先生と萩原刑事の怒鳴りあいも様になっていましたよ。修羅場を踏んでいますね」
中山さんがそう言って今井先生にビールをついだ。
「警察はつかまえるまで、家庭裁判所は法律に照らして刑罰を決めるまで、少年院は決められた期間だけ矯正する、学校も卒業年度まで、最後は家庭が壊れるのです。何度かそういう現場を見ました」
「先生、本気で刑事を怒鳴りましたね」
「よし、やってやれと、あれは本音です」
ワルは二度三度と悪いことをすると慣れてしまって警察も裁判も怖くなくなる。少年院でも一目置かれるようになる。この夏にもそんな教え子の一人が入れ墨をみせびらかして海水浴場をのし歩いていた。
親分はニヤニヤしている、たぶん知っている男なのだろう。
「若い者は怖さを知らないからムチャクチャをしやす。ああいう連中がヤクザにあこがれて入ってくるのでわしらは教育するのが苦労なんだ」
「やはり親分も教育者ですね」
「すべての大人は教育者だ、ああいう大人になりたくないと思わせるのも教育さ。本気になった人にはヤクザは手が出せない。しかし強がったり、ごまかしたりすると、そこにつけこんでいくんじゃだよ」
「しかし、ヤクザはヤクザだ」
中山さんがきっぱりと言った。親分は怒りもせず中山さんの顔を見た。
「あんたに言われては仕方ない。その通りだ。絶対にヤクザはいかん。ただ間違えないでくれよ、今のわしはカタギで土建会社の社長だ、それでも昔の自分は消したいと思っておる」
「刑事がいらない世の中になるといいんですがね」
私服になった萩原刑事が入ってきた。
「非番になりましたので見回りに来ました。悪は許さん、昔のワルも摘発しますよ」
今度は中山さんがしゅんとなった。
音楽コンクールの練習は吉野さんの言うとおりいらいらするばかりだった。鈴木先生も口を出さない。もっとも先生は音痴に近いらしくて歌の指導などあきらめているようだ。
「ただいま」と叫んで部屋に入った。母さんは台所で料理を作りながら歌っていた。僕はそっと食卓に座って歌を聞いた。前に聞いた時にはテンポの速い自然に体が動き出すような浮き浮きする曲だったが、今日はバラードのようにゆっくり歌っている。歌の意味は分からなかった。ケチュア語の中で僕の知っている言葉もあったが全体の意味は分からなかった。しかし歌の響きはすばらしかった。アンデスの空と風のように曇りっけのない、悲しく青く、それでいて優しく深い心を感じさせてくれる。
「母さん、歌が上手だね」
僕は心の底からうれしくなってそう言った。
「母さんは歌手だったのよ、知っていた」
いたずらっぽく笑って母さんは僕にクッキーを渡してくれた。
「母さん、小さい時に両親を亡くして兄さんと親戚の家で暮らしていた。みんな親切だった。食べるものも着るものもちゃんとくれた、学校にも行かせてくれた。けれどみんな貧乏なの、だからお金をくれとはいえなかったわ。鉛筆とかノートとか学校で使う物が必要だったの。それで母さんは歌手になったの」
僕はちっとも知らなかった。気持ちがわくわくしてきてすぐに聞いた。
「テレビに出たの」
「ばかね」
母さんはバスの中で歌ったのだ。渋滞で止まったバスに乗り込んで、最初にケーナを吹いて調子を合わせる。一曲目、二曲目と声を張り上げて歌う。他にもそういう歌手はいたが母さんは歌うだけでお金を求めなかった。貧乏な学生ですとか父が病気ですとか言って一回りすると乗り合わせた人が恵んでくれる。しかし母さんは物乞いになるのは嫌だったので一言だけ「私は歌が大好きです」と言った。
「母さんは小柄で可愛かったし、歌も上手だったの。みんな気持ちよくお金をくれたわ。私は歌手、聞いた人にお礼をもらっていたの」
そのうちに顔馴染みの人もできて、あの曲を歌ってくれと注文されるようになった。そのうちに家でパーティをするから来てくれないかという声もかかった。必要な品物を買って残りを家に渡すと喜ばれた。
「すごい。本当の歌手だったんだね」
僕が言うと母さんはうれしそうに笑ってから、すぐにさびしそうな顔になった。
「でも私は勉強したかったし、太陽の乙女になるのはいやだった」
太陽の乙女というのは、昔、インカの時代に穀物が実り平和な一年を送ることができるように太陽に祈った。その役目は少女たちだった。もっと古い時代には生贄(いけにえ)にされることもあったらしい。しかしインカの時代の太陽の乙女たちは、皇帝の妻となり貴族の妻となり、王宮で織物をし酒を造り、音楽を奏でて満ち足りた生活をしたそうだ。ただし自分で物事を決めることができなかった。
「もし母さんが歌手になっていたら、こんな幸せな毎日は過ごせなかったわ」
しかし母さんがためらっている、僕は分かった。今の生活が本当に幸せなのか、別のチャンスが与えられるのか母さんは迷っている。
「この曲が太陽の乙女たちなんだ。どんな意味なのか教えて」
「本当の曲ではないの、母さんが自分で作った歌詞で歌っていたの」
「すごい、どんな意味」
「恥ずかしく言えないわ」
「もう一回歌って、お願い」
「歌手に歌を頼むのは無料ではいけないわ」
「これでいい」
僕は家庭科の先生にもらった毛糸の切れ端で編んだ髪飾りを母さんの手にのせた。掃除をしながら無意識のうちに編んでいてできあがった髪飾りだ。きっと母さんはピンで髪に編みこんでくれるだろう。
「きれいね、いいわ、では気前のいいお客様に歌をお聞かせいたします」
インティ・太陽とかブーユ・雲とかの言葉は分かる。アジ・良い、ソンコ・心という言葉も分かった。スマック・すばらしい、カンキ・あなたという言葉も歌われた。
「みんな真面目に歌おうとしないんだよ」
夕食のときに僕は練習の不満をこぼした。
父さんは言う。歌というのは、その歌手が歌ってこそかけがえがない、つまり時代の記憶だ。リカバーして今の人が歌うのは勝手だろうが、聞き手をあの時のあの気持ちに戻すことはできない。合唱の歌い手も同じさ。たった一度の機会だ。いくつになっても忘れられない思い出さ。
母さんは言う。歌うのが嫌いなんて分からないことね。うれしいときも悲しいときも歌って喜びと幸せを呼び寄せるのよ。みんなが歌うから、みんなの心が育つのよ。
「明日クラスでそう言ってみるよ」
「心に届くセリフを考えて、ちゃんと練習してから話すんだよ」
父さんも少しずるいところがあるようだ。
しかし、今年の合唱コンクールは順位をつけないことに決まった。審査を頼まれた地域の音楽家の意向だそうだ。どのクラスもがんばったからという理由だ。しかし、僕は自分のクラスが一番だと思っている。クラスの皆も同じ思いだ。ならば堂々と表彰してもらいたかった。講評のときに一言だけ注意された。言葉のキレを良くしなさい、『わたり鳥は』が『わたりどりゃ』『鳥よ』が『とりょ』に聞こえました。そうかもしれない、だからなんだと言うんだ、こんなに心をこめて歌ったのは自分たちだけだ。
誰よりも綾乃さんが注目された。大きく目を見開いて、大きく口を開いて、母さん鳥の声…というところでは心の中で泣いているようだった。そして観客はその表情にひきつけられた。ちょっとだけ遅れてしまった一人、皆が気づかないハマナスの花の美しさを知る心の持ち主、あやうく絶望に落ち込んで自分を失う間際に、母さんが助けに来た、実は僕も目が熱くなったのだ。綾乃さんはそれを表現してくれた。
皆がすごく良かったと言ってくれた。そう思ったら表彰されることなどどうでもよくなった。歌って幸せ、聞いて幸せ、同じ喜びを共有することができたのだ。
紅葉の季節になった。僕も母さんも初めて見る。もう少しで日本の半年を暮らしたことになる。
僕の家の前の空き地、つまり父さんが相続のために売った土地はまだ放りだされたままになっている。5、6軒も家が立つ広さなので草刈りをするのも大変だった。今日は最後の草刈りをして冬を迎えることになる。土地の持ち主になった不動産屋がすぐに家を建てようとしないのは、隣の土地も手に入れて規模の大きい施設を作ろうとしているかららしい。お隣のお婆さんはすぐに一人では生活ができなくなるだろう、すると相続のための大変なお金が必要になる、だから土地を手放すだろう、それを待っている、ちょうど父さんのように、業者はそういう思惑だろう。そのおかげで僕の家は静かで落ち着いたままだった。
父さんの古い家はお隣さんよりも大きかったそうだ。高い塀を周囲に廻らし、大きな木がぎっしりと並んで植えられていたという。
お隣さんも木立ちに埋もれた瓦屋根の家だ。お婆さんが一人で住んでいる、もう80才をはるかに越えている。
「なにしろ怖い爺さんだった。竹の棒を振り回して追いかけてくるんだ。元は軍人さ、陸軍大佐かなんかだよ、大きな声でね」
父さんが小学生の頃だという。隣家には果樹がたくさん植えられていて、春のビワから始まってサクランボ、梅、桃、イチジク、柿からブドウ、ミカンまで四季それぞれの味が楽しめる、もちろん泥棒だ。父さんの家は広い芝生になっていて遊ぶには便利だが食べられる実はない。まだろくな菓子がない戦後の時代だ、スリルと実益が近所の子どもを結束させ、爺さんとの攻防が繰り広げられた。
「何度なぐられたことか」
父さんが戻ってみると年老いたお婆さんだけが一人暮らしをしている。表札は二つ掲げられているがお婆さん以外の姿はない。
ご近所の人は僕を岸井さんの息子さんと呼ぶ。このお婆さんは岸井さんのお孫さんと呼ぶ。しかし家にこもっていてゴミ出し以外にはめったに外出しなかった。
たまたま玄関を掃除しているお婆さんを見て、僕は話しかけてみた。
「岸井さんは良い人でしたよ」
これはお祖父さんのことだ。
「けれど私の夫とは気が合わなかった。夫は職業軍人でしたから戦争を賛美する。岸井さんは大正デモクラシーの人だから国際連盟とか民族独立とかを大切にする。東条英機が八紘一宇とかいって日本がアジアの中心になろうとしているのを、私の夫は正しいと言い、岸井さんは間違いだと言い、大喧嘩をしていました」
「だけど息子さんは軍国少年で士官学校に入ろうとした。大変な親子喧嘩でね、近所の人たちも一番激しい戦争はここにありってうわさしあっていましたよ」
風が寒いと言って部屋に戻ってしまった。
合唱コンクールが終わると追いかけるようにクリスマス・コンサートが近づいてきた。合唱とは違って部活の仲間たちだ、気が合うはずなのにギクシャクしている。お互いに相手のミスが許せない、下手くそと叫びたい、神経がピリピリする。顧問の吉岡先生の言葉がきつくなってきた。
「ああ、疲れる、なんかサプライズはないかしら」
中村先輩が部長の責任でみなの気持ちを和らげようとするのだが空回りしている。
「体育館で演奏するだけなのだから、そんなに緊張しないでよ」
「でも一度だけでしょ、本番は、やっぱりがんばりたい」
桜田さんが言うと皆がうなずく。
「わかった、どこかでリハーサルをしよう。お客を集めないで演奏だけ」
吉岡先生がほっとしたように言った。
「誰かいい場所を知らないかな」
さすがの中村先輩も古墳の山で、とは言えない。ふと僕は母さんの教会を思い出した。
「教会はどうでしょう。母さんが頼めば貸してくれるかもしれません」
ヘェーという声が上がった。素敵という声もあった。そんなわけで夕方、母さんと一緒にシスターに会いに行った。
聖堂は椅子が動かないから使えない、しかし食堂ならサロンにしているので大丈夫です。
「ただし一つ条件があります。懐かしい曲なので聞きたい人もいるでしょう。何人かが聞きに来てもいいですね」
その方がうれしい、壁に向かって演奏するなんてごめんだ。皆、同意してくれるだろう。
「それから、もう一つ、ラウアさんの歌と楽器を聞く会を計画します。協力してくれますね」
母さんにはわざと通訳しなかった。シスターにウィンクして「あとで」とささやいた。シスターも了解してくれて母さんにスペイン語では伝えなかった。
中村先輩に電話した。喜んでくれた。その時、サプライズを思いついた。エッと先輩は息を飲んだ。
「教会の人たちは許してくれるかな」
「喜んでくれると思います」
「来てくれるかな」
「チャンスだと思います」
あのワタナベさんを招こうと提案したのだ。金井さんに相談した。賛成してくれた。たぶん音楽にも詳しい人だろうと思うよ、あの絆(きずな)の人にも言っておくと答えてくれた。
演奏会の翌朝、金井さんが小屋に野菜を持っていくと誰もいなかった、ワタナベさんは消えてしまった。金井さんは詳しく話してくれないが、ただ現れた時とは違って手紙が残っていたそうだ。こんなことをしてはいられない私は行動します、壁に破れ目が見えました、祝祭が待っていることに確信が持てました、コンドルは大空に飛んでいます、その他に仕事のこと家庭のこと、失敗と失踪のいきさつ、連絡先が書いてあったという。
「でも、そういうのをプライバシーというのだろ、侵害するのは嫌だし、おしゃべりと思われたくないし、秘密漏洩(ろうえい)罪にされると困るからな」
金井さんは大笑いして帰っていった。ただ帰りがけにこんな感想をのべてくれた。
「音楽の力は大きいね、ワタナベ君は帰り道も小屋の中でもずっとあの歌を口ずさんでいたよ、ケーナっていい音だね」
えっ、ならば金井さんはワタナベさんをずっと監視していたんだ。
「何かあったら困るからさ、配慮だよ」
まだ僕は日本人になっていない、それは病原菌のせいだ。保健所に通って日本の病気にかからないように予防接種を何度もしなければならない。母さんは真剣に注射を怖がっているので、まず僕が見本になって大丈夫だよと安心させなければならない。
部活動は週3日間だけしかない、それは習い事とか塾に行く人のために休みが必要だからだ。それで僕は坂の途中の保健センターに木曜日ごとに自転車で通っていく。日本脳炎、はしか、BCG、もちろん僕は予防注射をした覚えがないし母さんもしていない。
この町には坂が多く山の上まで家が続いている、しかしクスコの急坂にくらべればはるかに楽だ。それに知らない道に迷い込んでいくと新しい発見があって少しも損をした気にならない。
今日はわざと坂の途中を左に入ってみた。道の左右には落ち着いた家がならんでいて、人の姿はまったくない。小さな橋がある、細い流れはどこかで長柄川にそそいでいるのだろう。一軒のスペイン風の大きな建物があって、枯れた芝生の上には赤い花がポツポツと落ちていた。
「やあ、入りなさい。ただし、踏むと花が見苦しくなるから気をつけてください」
黒い鉄の門柱の脇から声がかかった、気づかなかった。老人はこちらを向いて手近な花をつまんで口に当てた。花に接吻する習慣が日本にもあるのかしら。
「ツバキの蜜は甘くてね」
すっと吸って花びらを落とした。
まさか庭に落ちている花は全部、老人が吸ったのだろうか、僕の目がまん丸くなっていたのだろう。
「君もやってごらん、この季節だけの味わいだ。徳川二代将軍秀忠はツバキが好きだったそうだ。たぶん時にはこうして蜜を吸っていたのだろう」
落ちている花を踏まないように気をつけて庭に入った。
70才はずっと越えているだろう、白髪をきれいに整えた老人が背筋を伸ばして立っている。まるでお出かけする時のようなきちんとした服装だ。
「こんにちは」
「小学生かね、中学生かね」
「境い目です」
「いい答だ、この世の中はすべてグラデュエーションだ、白とも黒ともいえないものがたくさんある。花は好きかね」
「はい」
僕は母さんがするように花にとけこんでいこうとした。老人の視線を感じる。
「よければ1時間ほどつきあわないかね、アフタヌーンティーの時間だ。今日、私は孤独でね、独り言を言うより誰かと話している方がいい」
僕を壁の代わりにするのかと思ったが、知らない人と話をするのはおもしろい。
通された部屋は書斎らしかった。書籍も椅子もテーブルも眠っているようだ。壁に掛かった絵にも椿の花が描かれていた。
「私の名は表札に書いてある、しかし今はツバキの爺さんと呼ばれる方がいい。なぜなら、私は表札の名前で人生を送ってきた。輝く日もあったし、太陽に見放された暗い日々も過ごした。人の賞賛や追従やあざけりや中傷を耳にしてきた、それが分かるかね」
言葉はもったいぶっているが、つまり色々な出来事があったということだろう。
「僕の父もそうです」
返事はしたが聞こえたのか無視されたのか分からない。
「¿Quién dañó una joya? 宝石を傷つけたのは誰だ」
そのスペイン語は理解できたが黙っていた。老人の世界にはあまり深入りしない方がいいことが多い。
「Tengo el reproche. その責めは我にある。いずれツバキのようにポタリと死ぬだろう」
僕は老人の独り言に挑戦する気になった。
「その輝く宝石のような日々のことを話してください」
スペイン語が分かることを知られてしまってもいい、しかし老人は気にもとめずに話し出した。
「まず紅茶を入れよう、リンゴのタルトはお好きかな。私はビスケットにしておく」
フィリピンの話から始まった。美しいビーチ、深いジャングル、山脈には四季に花が咲き、穏やかな人々の暮らしがあった。それどころか山奥には昔ながらに赤フンドシをして刀を腰に差した先住民が住んでいた。
「日本人を巻き込む犯罪が泥棒、恐喝、殺人、誘拐まであった。スリリングでもありうんざりもした」
スラムに住む人々のこと、独裁者マルコスのこと、イメルダ夫人のパーティのこと、ゲリラ、とそこで話が止まった。
「ケニアにもおったよ、私はアンバサダーだった」
「偉い人だったんですね」
えっと言うように老人は目を開いた。僕は照れた顔を見せた。
「英語の授業でアンバサダーという単語を教わったばかりです」
安心したように老人は話し始めた。
サファリの冒険、観光客のトラブル、スラム、ゲリラ、アメリカ大使館の爆破事件、軍事政権の独裁
「He subido el mismo lugar como una escaleraespiral. 私はらせん階段のように同じ所を巡りながら登ってきたようだ」
つまりこの老人の生涯にはスラムと独裁者とゲリラが関わりを持ってきたのだろう。
「私は若い人たちに期待した、そして手助けしてやりたいと願った」
使命に燃えて海外を目指す気概のある青年、自堕落に日本を逃げ出す若者、生まれは良くても育ちの悪い男、両親から慈しみ育てられた輝かしい娘たち、そんな話がしばらく続いた。僕はお行儀よく紅茶を飲み、タルトをつまんで聞いている。窓の外は薄暗くなってきた。
「リマ…」
老人の言葉に僕はドキッとした。老人はこちらに見向きもせず目をつぶってつぶやいている。
「あの126日、大使館、アルベルト・フジモリ、トゥパック・アマル」
僕は自分のことを何も言わなくて良かったと深く息をついた。そして、このことは母さんには絶対内緒にしておこうと思った。
「そうだ、私はペルーの日本大使館にいた。そしてゲリラに占拠された。古く長い話だ」
そしてはっと気づいたように僕を見た。日の沈むのがすっかり早くなって、窓からは巣に帰るカラスやトンビが飛んでいくのが見える。
「ずいぶん長い時間、引き止めてしまった。君はうれしい聞き手だ。来週も来てくれないか、ケーキを用意しておく」
「はい」
僕はスパイではない、しかしこの話は聞かなければならない。この話は父さん母さんと深い関わりを持っている。僕は知りたいだけだ、だましたりウソをついているわけではない、そう自分に言い聞かせた。
「同じ時間に参上いたします」
老人は笑った。殿様に向って言うような、そんな言葉が彼にとって自然なのだろう。大使館員なんてまるでお奉行様だ、威張るばかりで何もしてくれない、前に父さんが怒っていたことを思い出す。その大使館の親分なのだからまったく殿様なのだろう。
「君はどうやら時代劇が好きとみえる。必ず来てくれたまえ」
僕の都合をまったく聞かないのがいかにも殿様らしかった。
保険センターは清潔すぎてどんな生き物も住むことが許されない。僕は左腕に注射液の違和感を残したまま自転車に乗った。
ツバキの庭はこの1週間、落花を散りばめて何の動きもなかったようだ。しかし、薄暗い書斎のテーブルには熱い紅茶とチョコレートのケーキがあった。
「部屋を温めておいた」
それが大変な手柄であるかのように老人は言った。
平たい大鉢に水がはってありツバキの花がいくつも浮かんでいる。
「ツバキは美しいが、その名前はあまり風流とはいえない。これはタマガスミ、抱咲き筒しべ中輪」
後ろ半分は理解できない、説明もしてくれない。掌に乗せられたツバキはうっすらとピンクの花びらに赤い線が細筆で塗られていて花弁を包み込んでいる。まるでお菓子のようだった。
「これはコンロンクロ、これはゴマンゴク」
色と形ばかりでなく名付け親が勝手につけていいようだ。
「暗紅色の宝珠咲き」
それはオリーブの実のように見えた。
「アカシガタ、これは早咲きだ、もう散り掛かっている。暮れには咲いていた」
上品なつつましい花を指差して、ふと声が沈み思い出の世界に入ってしまったようだ。
「それは天皇誕生日を祝うパーティの日だ、我々にも油断があった」
話はペルー大使館にゲリラが入って人を閉じ込め126日間も占拠した事件のことだった。老人はよくできた物語のように話した。たぶん何度も人に語り、何度もこの部屋で独り言を言ったのだろう。
「これはシロワビスケ、あの日々の私はこんな姿をしていたのだろう」
清楚なたたずまいの小さな花、固く花びらが閉ざされている。誇り高い老人はしばしば自分の姿に幻想を持つ、ナルシズムは青年ばかりではない。つまり誰でも自分を花にたとえる思いがあるのだ。
「私は憎む、あのゲリラたちトゥパック・アマル、インカ最後の皇帝、反スペイン蜂起の頭目、山の無法者」
14人のゲリラたちは600人の人質を取り、大使館に立てこもった。
「私はチェスは好きだがオセロは嫌いだ、ゲームが単純すぎるから」
また話が飛んだがすぐ本題に戻った。
「ゲリラたちはすぐ遊び方を覚えた、一緒に遊ぶ、それが友好の第一歩だ、これは中国の知恵だ、卓球ピンポン外交と呼ばれた。しかし、彼らはサッカーが好きだった、あのパーティルームでだ。まるで体を動かしていないと溺れてしまうマグロのようだった」
哀れむような口調になったが上から目線、ヒヤリとするほど冷たく突き放している。花をしばらくながめている。
「これはマドノツキ、これはグビジン、これはオウショウ、古典を知る人が名づけたとは思えない名だ」
花を水に戻して胸を張り演説のような口調になった。
「彼らは無教養な山の先住民や混血ばかりだった。貧しく生まれて貧しく育ち、政治も経済も何も知らない。ただ撃てと命令されるから撃つだけ、判断する力がない」
それは彼らのせいではないと父さんは同情した。物事を洞察するには経験と知識が必要だ。人間を育てられない学校や社会が何を偉そうに非難できるのだ。父さんが珍しく怒っていたのを思い出す。
「見てごらん、突然、白い花の中に赤い縦じまが入る、赤い花に白いすじが入る。花なら喜ばれるが人だと困りものだ、秩序を壊す」
たとえ皆と違うものが隣にいても、ツバキは差別や軽蔑はしないだろう、自分たちの価値だけを正しいとして押し付けたりもしないだろうと僕は思った。
「もちろん同情すべき原因はある。しかし行為は悪だ。断固として糾弾されなければならない。それは死にあたる罪だ」
何回か失敗のあった後、特殊部隊がゲリラたちを射殺し人質を解放した。フジモリ大統領はヒーローになり3選を禁じた憲法を改正して大統領を続けた。しかし汚職と独裁を糾弾されて辞任し日本に逃げた。翌年にはこの事件が殺人罪にあたると有罪判決を受けた。
しかしフジモリ個人の人気は高く、娘のケイコさんは全国第一位の得票で国会議員に選出された。にもかかわらず今年1月、他の殺人容疑の判決が確定してフジモリ前大統領は禁固25年の刑が言い渡された。
これが報道された「事実」だ。
窓の外が暗くなってきた、それに気づいて電灯をつける、そこに僕が座っている、老人は驚いた表情になった。
「私はツバキの話をするつもりだったのに、ずいぶん長い話をしてしまったようだ、老人はこれだから困る。今、気がついたのだが、たぶん君にも話があるのだろう、眠れぬほどの悩みがあればなおさらだ。それを聞かせてくれればフェアになる」
この人はやっぱり殿様だと思った。思ったことはためらわずに言う。そしてポケットを探る様子をして、あわてて手を組んだ。タバコを探したのだろう、そのタバコこそ、元ペルー大使に暗闇をもたらした原因であることを前に父さんから聞いていた。
事件を語るテレビのインタビューでタバコを吸っていた。視聴者たちは、それを自然な形、落ち着いた態度とは思わなかった。不快だ、不遜(ふそん)だという批判がわきおこって役所も対応しなければならなくなったのだ。
「今日はもう帰ります。来週、また話を聞かせてください。くれぐれも健康にお気をつけいただき、お大切に」
毎度、保健センターで聞かされている言葉が流れるように口を出た。
老人は重々しくうなずいてツバキの枝を切って渡してくれた。ライトのついていない自転車で走るのは不安だ、明日は百円ショップで懐中電灯を買ってこようと思った。
遅くなって家に着いた。父さんがギターを弾きながら歌っている声が聞こえる。母さんは教会のクリスマス会の手伝いに行くと言っていた。父さんは暗い部屋に負けない暗い歌を繰り返し歌っている。
〽 死んだ男の残したものは、ひとりの妻とひとりの子ども、
他には何も残さなかった、墓石ひとつ残さなかった
声をかけるのをためらった。
〽 死んだ女の残したものは、しおれた花とひとりの子ども、
他には何も残さなかった、着もの一枚残さなかった
母さんのことかと思ってドキッとした。すると次の歌詞は僕のことになるのだ。
〽 死んだ子どもの残したものは、ねじれた脚と乾いた涙、
他には何も残さなかった、思い出ひとつ残さなかった
思わず「やめて」と叫びそうになった。夢に見そうな悲惨な情景ではないか。気配に気づいたらしく父さんは歌をやめて僕の方を見た、真剣な表情だった。僕を見すえながら4番を歌った。
〽 死んだ兵士の残したものは、こわれた銃とゆがんだ地球、
他には何も残せなかった、平和ひとつ残せなかった
また沈黙が続いた。父さんは僕にメッセージを送っている。僕は何も言えずじっと父さんを見ていた。
「お前も成長したな、歌が伝えるものを受け止めようとしている」
またギターの弦が鳴った。僕はおびえた。
「次を聞け、それで助かる」
〽 死んだかれらの残したものは、生きてるわたし、生きてるあなた、
他には誰も残っていない、他には誰も残っていない
そして歌いやめた。
「歌詞はもう1番残っている。しかし俺にはその意味が確信できない」
そう言って部屋の明かりをつけた。
「母さんが作った夕飯がある。食べながら聞いてくれ。今日は12月17日だ」
それは14年前に起きたペルーの日本大使館襲撃事件が起きた日だった。それで老人もあんなに深く思いを込めたのだ。
ゲリラが占拠した。レストランといえるほど大きくなかったが日本食の店をやっていた父さんはボランティアで食事を差し入れていた。言葉が話せるのですぐにゲリラの若者たちとも親しくなり、そのパーティルームで一緒にサッカーをしたこともある。バスケットボールをしたり、一緒にビールを飲んだこともある。そして聞こえてくる情報を人質にこっそりと教えたりもした。
軍隊が突入しゲリラを全員射殺して事件は終わった。すぐに父さんはリマを離れ、マチュピチュに移ってガイドになった。そこで母さんと結婚し僕が生まれた。
最後の歌詞はこういうのだ。
〽 死んだ歴史の残したものは、輝く今日とまた来るあした、
他には何も残っていない、他には何も残っていない
一番親しくなったゲリラの一人、山地から出てきた純朴な青年が、いよいよ突入の間近になった日にこっそりと言った。妹がかわいそうだ、たぶん殺される。その妹は父さんの店で働いている少女だった。父さんは願いを聞いた。
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