「お祭りにさ…」
「ワタアメかい」
「バカ、幼稚園じゃないよ。神輿をかつごうよ」
「肩を痛めるからだめだと部活の顧問に言われちゃった」
休み時間には何人か集まるとそんな話をしている。週末は森戸神社で祭りがある。父さんは日本の祭りを母さんに見せたくて何回も誘っている。
「お祭りはいいよ、気がわきたつ。日本の神様はパチャママのような供え物は求めないんだ」
アンデスでは取り入れが終わると農家の人ばかりでなく僕たちも呪術師に頼んで祭りを行う。パチャママという女の神様にトウモロコシやジャガイモを供え、ご馳走を持って丘に登り、少しを埋めて残りを食べる。
「人々に収穫を与えるとパチャママはお腹がすいてしまうの、お供物をあげないと人間を食べてしまうのよ」
「ママもそう思っているの?」
「みんなに悪いことが起きると困るわ」
「日本の神様はお祭りの時だけ神社を離れて、お神輿という乗り物に乗って自分のテリトリの人々の暮らしを見て回る。だから神様を心配させないようにお神輿を元気よくかつぐんだって」
大人神輿と子ども神輿があり、太鼓と笛でにぎやかに囃したてて行進する。アンデスでもインティラーミの祭りにはパレードがある。インカ皇帝つまり太陽の神とその奥さんを神輿に乗せて太鼓とケーナで囃したてて行進する、日本と同じだ。服装だって、貫頭着というそうだ、頭からすっぽりかぶるだけの服で、ハチマキで髪を左右に分ける。それは亀頭先生の言っていた古墳を造った人々と同じスタイルだ。
「子どもの楽しみは露店さ、タコヤキ、ヤキソバ、リンゴ飴」
インティラーミだって焼トウモロコシやチチャ酒の店が出て、おとなも子どもも楽しんでいる。
「女の人は浴衣を着てきれいになって、来年は母さんも着るんだよ」
父さんは言うが、ケチュアだって一番の晴れ着を着てうれしそうに集まってくる。祭りの楽しみ方は日本もインカも同じなんだ。
日曜日の朝は早く起きる習慣だった。父さんと僕はいつも眠そうな顔をしていたが母さんだけは水に映るお日様のようにキラキラ光っている。教会に行く日だからだ。
父さんは世界中を旅して回ったので信仰には冷静だ。人間の遺伝子の中には神様というDNAが組み込まれているからどんな民族も信仰の心を持っている。仏教とかキリスト教とかイスラムとかの大宗教にも必ず民族の心が残されており、お経や聖書やコラーンを唱えながら自分のDNAの神様に帰依しているんだというのが持論だ。大宗教には多数派の安らぎがあり、地域の小さな信仰には結束とプライドがあって、それぞれが人の心を支え奮い立たせてくれる、神様はありがたいものだ、そんなことを僕に言った。
母さんは迷いもなくカトリックを信仰しており日曜日には必ず教会に行く。父さんと僕も浮き浮きした気分で教会まで一緒に行くがミサは受けない。神社やお寺やモスクで拝む時に義理が悪いからと説明しているが母さんは理解しようとしない。同じ信仰を持ちずっと一緒に暮らして死んだ後も天国でまた会いたいと願っているのだ。教会の入り口で父さんと僕は笑って母さんを抱きしめるが、母さんは不満そうな残念そうな悲しそうな顔を残して入っていく。それから半日、父さんと僕は一緒に過ごす。
母さんを見送ってから父さんと僕は早足で海へ向かっていった。山で育った母さんは海を前にすると怯(おび)えてしまうので二人だけで行く。
鐙摺(あぶすり)の小さな入り江を通り過ぎるとマリナーがありヨットが陸揚げされている。父さんには思い出すことがたくさんあるようだった。
父さんは葉山で産まれたがふだんは東京で暮らしていた。しかし夏になって学校が休みになると葉山の別荘に来ていた。そして海の友だちと遊んだ。小学生の頃は泳いで釣りをしてボートに乗ったが、中学生になるとサーフィンをするようになって友だちも変わっていった。
「みんなはワルって言ったけれど、いい奴ばっかりだったよ」
別荘の管理人の老夫婦は昔気質の人なので地元の少年たちを可愛がった。父さんも最初は余所者(よそもの)だったがすぐに仲間になり、やがてリーダーになった。お盆休みで両親が別荘にいるときは良い子として過ごし、後は真っ黒に日焼けした土地っ子になった。父さんは中学校のサッカー部の選手で、顧問の先生は夏の大会に出るように強く言ったがまったく聞かなかった。それほど葉山の海にひかれていたし、僕と違って運動神経の良かった父さんはわがままを言うことができたからだ。
マリーナの一角に人混みがあった。亀頭先生の教えてくれた朝市だ。
「行ってみるか」
僕は大賛成だった。ペルーにもサンデーマーケットがあるし、町によっては水曜や金曜の市がある。山を越えてたくさんの人が集まり、農産物や布や日用品が売られたり物々交換される。山の人たちは赤や青の鮮やかな民俗の晴れ着を着て、大きな荷物を風呂敷に包んで背中に載せ、笑ったりしゃべったりしながら楽しい時を過ごす。
ここの朝市は十軒ほどの店が車を乗りつけてきた観光客を相手にケーキや野菜や骨董などを並べている。何時間も山道を歩いてきた人などはいないので品物を見る目もすれちがう人とのふれあいも冷たい。もう帰ろうと僕が言おうとした時、父さんに声がかかった。
「まちがったらごめん、岸井じゃないか、帰ってきたんだって」
胸に名札をつけたおじさんがこちらを見ている。
「そうですが、誰だっけ」
「中山だよ、食堂の息子のさ」
「ああ、あの、食いしんぼの中山か、だけど俺が帰ってきたってよく分かったね」
「お前のことは皆が知っているよ」
日本にも秘密警察がいてこっそり人を監視しているような気がして背中に冷たい風が吹いた。
「ほら野中さ、忘れたか、今は役場の課長様だ、あいつが的確な情報を流しているぞ」
父さんはほっとしたようだ。
「職務上知りえた個人情報というやつだろう、訴えてやる」
「きっと野中が握りつぶすさ。お前のアドレスが分からんから連絡のしようがない。まさか葉書でお知らせするような昭和レトロなことはできない。先日、亀頭が訪ねたそうだが、あの大将はメールをやらんから話が全然、伝わってこない。ケータイでもスマホでもアドレスを教えろ」
威勢よく一気にしゃべる。
「まだ、あの食堂にいるのか」
「なつかしいな、店の冷蔵庫からよくビールを盗んで隠れて飲んだじゃないか、ヤキブタくすねてひどく怒られた」
父さんは全部を思い出したらしい。
「バカ、人前だぞ、いまさらヤバイ話はするなよ」
「いい年こいて何をいまさらだよ」
岸井が帰ってきた、別荘の土地を売って、嫁さんと息子が一緒でどこか隅っこで暮らしているらしい、そんなうわさが流れてきて、昔の仲間は見張っていたという。
「こんな所では話もできない。俺のレストランに来いよ、めし食いながらゆっくり話そう、奥さんはどうした」
昼の十二時集合、よし分かった。
それで僕たちはイタリア料理を食べることになった。家に戻って着替えをした。母さんと僕はアンデスの模様の入った薄いセーターを着て、父さんは別荘のクローゼットに残っていた昔のブレザーを着た。冬でも暖かいペルーから戻ってきたので着る服に困っている。
待っていたのは中山さんとあと二人、父と抱き合って再会を喜び、母さんと僕に丁重な挨拶をした。母さんが日本語を話さないことを知ると父さんに通訳を促し、少しも僕らによそよそしさを感じさせなかった。
「外国からの客も多いんだよ」
そんなことを言いながら中山さんはメニューの紹介をして、母さんと僕に食べることができるか尋ねた。さすがに父さんもイタリア語の料理の名前が通訳できずに材料だけを通訳した。母さんは居心地よく座っていてニッコリと笑って返事にかえた。父さんの友だちも喜んで母さんに笑いかけた。さっそくビールが注がれ、僕らにはジュースが並んだ。
次々に料理が出たが父さんたちはしゃべるのに夢中だ。昔の思い出から今の出来事まで、皆でどんな「ワルさ」をしたか、その後も中山さんがどんなワルになって地域で幅をきかせたか、古い食堂をレストランにするまでの大活躍、町の有力者に出世した話、父さんは通訳を僕に押しつけて話に専念した。まるで最後の晩餐(ばんさん)のように思い出をすべて語ってしまいたいようだった。すぐに会話が昔の若者言葉に変わって僕も通訳をあきらめた。コーヒーが出され冷たいティラミスのデザートが終わってもまだ話は続いている。先に帰ることにした。
奥さんと建君は車で送るからと言うのを振り切って僕らは歩きだした。「腹ごなし」という日本語を覚えた。父さんはずいぶん遅くなって帰り、すぐ寝てしまった。しかし母さんは日曜日にいつもするように夜遅くまで聖書を読んでいた。
お祭りの晩になった。宵宮に行こう、父さんが言うとさっさと浴衣に着替えた。母さんと僕は浴衣を初めて着る、下駄は無理だからサンダルでいい、中山さんと友だちのプレゼントだ。ブラバンの女子も浴衣の子がいた。なんとなく桜田さんを探しているのに気づいてハッとした。
にぎやかに祭囃子が奏でられている屋台の近くで中村先輩に会った。大きな朝顔の描かれた緑の浴衣姿だった。
「この前はご馳走様でした。おいしかったです」
丁寧に母さんに挨拶をした後、僕に向かって小さな声で言った。
「気をつけて、川田が探していたわよ」
父さんには聞こえた。
「ケンカか」
「僕のことが気に入らないらしい」
「どうする」
「戦うさ」
「あの羽田がヤスシとタカヤを呼んでいるみたいよ。危ないわ」
中村先輩が心配してくれた。
「お前の相手は川田というやつか、他の連中はなんだ」
「3年の不良仲間です。オートバイに乗っています。先生も困っています」
中村先輩が本当に困ったように父さんに言う。父さんも少し困った。
「子どものケンカに親が出るのは恥ずかしいな、そうだ中山に仕切らせればいい」
僕は川田を探して駐車場の奥で見つけた。
川田は気づいてギョッとしたようだが、海の方に向かってイタゾと叫んだ。バラバラと数人の足音がした。急に元気になった川田が無理に低い声を出して言った。
「ゴミが臭くて迷惑なんだよ」
「それで」
僕は普通の声で返事をした。脅されているときには平静に向かわなければならない、びびったらすぐに付け込まれる。
「迷惑料を出せよ」
背の高い棒を持ったのがすごんだ。もう数人が僕を取り囲んでいる。
「いやだよ」
僕は叫んで前かがみになってすばやく囲みを走り抜けた。
「やっつけろ」
「おっと待て」
大声がして皆が足をとめた。僕も立ち止まった。中山さんだった。すぐに棒を持ったのが迫ってきた。
「うるせぇ、おやじ、あっちへ行ってろ」
「なめられたもんだな、おい中学生」
中学生と呼ばれると少しひるんだ。中山さんはつけこむように前に出た。
「ガキがえらそうになんだ、この祭りは俺たちの組が仕切っているんだ、どこのチンピラだ、目障りだよ」
もっとドスのきいた声が人込みから聞こえた。
「おう、何かあったのか」
「親分、どうしやしょうか」
「ヤキを入れてやんな」
あっという間に追ってきた全員が逃げ出した。親分と呼ばれた老人と中山さんが笑っている。
「祭りの間は大丈夫だよ」
次の週の体育祭の日にもなにも起こらなかった。
体育の日には逗子の海岸ではフェスティバルが行われる。カヤックやウィンドサーフィンの体験、ヨットの試乗ができる。
僕は海を知らずに育った。小さい時に海を見たのは1回だけ、ナスカの地上絵を見ようとリマの町から海辺を走った時だけだ。荒れ果てた砂漠と灰色の重たい波が砕ける海、気が滅入るような400キロ続く道だった。世界一荒れる海、世界一サメの多い海、僕は海に恐怖しか感じなかった。
「お前みたいに山奥から来たやつはウィンドサーフィンなんか知らないだろう。おれはフェスティバルにエントリーされているんだ。優勝まちがいなしだよ」
川田がいやみたっぷりに言ってきた。
「まあ見ていてくれ、34番がおれだ」
そう言い捨てていってしまう。その様子をじっと見ていたらしい、桜田さんが声をかけてきた。すまなそうな言い方だった。
「建君、よかったらクルーザーに乗りませんか。気持ちいいわよ」
僕らはすっかり友だちになっていたが、あの誤解していた間のことを桜田さんは借りがあるように思っているらしい。僕は誘いを素直に受けた。
「伯父の中山さんがクルーザーを持っていて、フェスティバルでは監視艇になるの。毎年、乗せてくれるのよ」
「中山さんってレストランの」
「そうよ、知っているの」
「父さんの友だちだ」
あの祭りの一件は言わなかった。
「なら余計にいいわ。行きましょう」
体育の日は晴れ渡った。相模湾はまるで湖、大島の左右に太平洋につながる出口が開いているが、伊豆半島の天城山から箱根・丹沢、秩父の山々、相模丘陵から鎌倉を取り巻く丘がそのまま三浦半島に続いて、その奥には房総半島が海を囲んでいる。ひときわ高く富士山が、しかし雪化粧はしていない。アンデスにはもっと大きい塩水の湖がたくさんある。ただ富士山はない。
「友だちの岸井君です」
桜田さんが丁寧に紹介してくれたが中山さんはしらんぷりしてくれた。
「叔父さんと呼ばれている中山です」
僕もしらんぷりして挨拶した。
「桜田さんにはお世話になっています」
「ふつつかな姪(めい)ですが仲良くしてください」
何も知らない桜田さんは妙な顔をした、まるで婚活のようだ。
体験試乗は午前で終わって、午後はウィンドサーフィンとヨットの競技になった。
小さなクルーザーなのでお客は僕ら二人だけ、しかしバーベキューはグルメ、なにしろ食材が一流だ。
のんびりと行きかう帆を見ているうちに船が揺れ始めた。中山さんはキッと沖をにらんで電話機を取りあげた。クルーザーには船舶電話が取り付けてあるが本部には受信機がないので仕方なく携帯電話だ。
「切り上げよう、やばいぜ」
「もう少しもたせてくれ、審査が始まったばかりだ」
返答はつぶれたような声だった。
「幸三さんがきのう心配した通りだ。大気が不安定、突然に風が出る」
「あと1時間だけ…」
海の行事なのに日を決めて実行するなんて非常識だ。天気は予定できないんだ。それにスポンサーなんかつけるから素早く中止の判断ができない、漁師の幸三さんは天気見の名人だ、助言を聞かないととんだことになるぞ、あいつなんかを実行委員長にするからだ。中山さんがブツブツ言っているうちに波頭が白くなるほど風が強まった。さすがに危険を感じてウインドサーフィンもヨットも自主的に帰っていく。
「中止になった」
「早く点検しろ、全員帰着か」
「砂浜が混乱して手間どっている」
「すぐ動けるように待機している」
中山さんは僕らのことは忘れて海をにらんでいる。
風と波が船体を揺さぶる。僕の胃はさっきのバーベキューを拒絶していることを強く感じる。桜田さんはキャビンのソファに横になって動かない。狭いキャビンに二人も入るといっそう気持ちわるくなりそうで、僕は水しぶきのかかるデッキにしがみついていた。
「確認はまだか」
中山さんの声がとがっている。
「1名、ウィンドサーフィンが…34番、沖に出ていたという…ああ…視界にはない」
「大変だ、この風に流されたら相模湾を出てしまう」
中山さんはクルーザーを沖に向けた。僕は34番と聞いて川田のことを思い出した。
「川田君です」
「なに、あいつか。午前中から目ざわりだったサーファーだな。行儀が悪いので警告しようと思っていたんだ。一人で沖に出ていたからずいぶん流されたろう」
クルーザーは全速力で波を切った。僕は救命胴着を結び直した。風と波が顔に当たって痛い。
中山さんは電話機に叫んでいる。
「風を背に走っている、鐙摺を回りきった」
僕も目を凝らして水面を見た。緑色の帆、オレンジ色の救命胴着、白いボード、何か見えないかと必死だ。
森戸神社の森を回りきると赤い鳥居を建てた岩礁と水面にすっくと立つ裕次郎灯台が目の前に迫ってくる。
「あっ、いたぞ」
浜から点々と続く真名瀬の岩礁の一番沖に引き裂かれた帆が風に翻っている。岩にはさまれたボードにしがみついている人影がある。ちょうど逗子の海岸の反対側にあるので見えなかったのだ。
「まずいな、クルーザーでは接岸できない、あの辺は岩礁が不規則に続いているんだ」
人影は僕らに気づいて必死に手を振っている、まだ大丈夫だ。
「陸からの救援はできない。風が強いのでヘリコプターも難しそうだ。とりあえずできるだけ接近してみる」
「なんとか助けてやってくれ、大会主催者も心配している」
なにが主催者だ、中山さんは電話機に怒鳴りつけて大きく艇を回した。
みるみる岩が迫ってくる。口を開けて牙をむき出したサメのようだ。寄せてくる波をもろにかぶって黒々と光っている。
「船からでは助けられない。命綱を結んで一旦泳いで引き上げる他はない。しかし風に流されてロープは届かないだろう。なら誰が命綱を届けるのか、俺は操舵室から離れられないし」
僕は決心した。
「やってみます」
「泳げるのか」
「川では泳ぎました」
「子どもを危険にさらすわけにはいかないが、相手も子どもだ。やるしかないか。よし、できるだけ近づけるから岩を伝って綱を渡せ。自分に結びつけることくらいはあいつにもできるだろう。そしたら順に引っ張り上げる、あわててはいけないぞ。救命胴着を確認しろ、靴はしっかりしているか、手袋をつけろ、ケガをするなよ、頼む」
最後の言葉が心に響いた。僕は夢中だったがこの言葉だけが繰り返し聞こえていた。艇尾から海に入り少し泳いで岩につかまり全力ではいあがった。頬にピリリと痛みが走った、岩にひっかけたらしい。よつんばいのまま岩の上を進んで、もう一つ次の岩にとびうつって、もう一つの岩へもう一つの岩へと這い上がった。びっしょりしぶきを浴びながらようやく人影にたどりついた。青ざめて恐怖にゆがんだ顔がこちらを向いた、川田だ。とたんに僕は冷静になった。ロープを渡して大声で叫んだ。
「川田、もう大丈夫だ、しっかり結べよ」
うんというような動作があった。僕はそれを手で確かめるほど落ち着いていた。しかし川田の顔がなさけなさそうにボードを見た時には思わず叱りつけた。
「命が助かればいいんだ。ボードなど捨てていけ」
また、うんという動作があった。静かに先に行かせ、サポートできるように後をついていった。
岩の上を波が覆いかぶさる。しかし風が後ろからなので目はしっかり開けていられた。ようやくクルーザーの間近にたどりついてためらう川田をようやく海に浮かばせた。中山さんがロープを引いて艇に引き揚げるのを見て僕も海に入って泳いだ。衣服が水を吸って重くなっている。何回も頭まで水に沈んだがようやく舷側にたどり着いた。桜田さんの泣きそうな顔が目に飛び込んできた。
クルーザーは海岸ではなく母港のマリーナに引き返した。温かい衣服と熱い風呂が用意されている。甘い紅茶でスポンジケーキを溶かしながら飲み込んだ。中山さんの褒め言葉よりも桜田さんの賞賛の目の方がうれしかった。
ほっとして電話で報告している中山さんが急に怒りだした。裂けるような目で怒鳴り続ける。やりとりは長く続いた。ついに僕に向って言った。
「流されているところを救助されたと言ってほしい、と言っている。危険な岩礁があるなどと報道されると来年からフェスティバルができなくなると心配している。だからスポンサーなどつけるなと言ったんだ」
それには僕なんの異存もなかった。人目につくような扱いをされるのは恥ずかしい。僕は冒険をしただけだ、不安はあったがそれは憶病からだ。
「君の勇気あるすばらしい行為がなかったことになる。俺は許せん」
「川田君がそれでいいなら僕はかまいません。来年も楽しみにしている子どもたちがたくさんいると思います」
「あいつらは自己中心、保身ばかりで卑怯(ひきょう)なうそつきだ。流された者の不注意で事をすまそうとしている。俺は二度と協力しないぞ」
実は僕にも保身の気持ちがあった。英雄などと扱われると敵視する者がもっと増えるだろう。それに自分の名前や経歴が紹介され人目を引けば父さんや母さんに困ることが起きるのではないか。
「君はすばらしい。岸井の息子で良かった。俺はこのことを絶対に忘れない。ありがとう」
人の集まる前に帰ったほうがいいと思った。僕は皆になぜか「ありがとう」と言って玄関に向った。桜田さんがあわててついてきて家まで送ってくれた。母さんも父さんも留守だったので何も説明せずにすんだのでほっとした。
遭難の日から1週間経った。桜田さんは色々の新聞を買って記事を探したが何も報道されていない、すごく不満だったそうだ。しかし僕を見る目が親しさを超えて尊敬にまで至っている、照れくさいけれどうれしい。
川田は僕のそばに寄るまいとし顔も見ないようにしている。僕も恩に着せようなどという気持ちはないのだが何となく不愉快な感じもある。川田の心情は分からないが、何かのこだわりがあるのだろう。
もちろん友だちはこの出来事を誰も知らない。川田は自分の恥になることだし、桜田さんはうわさ話が嫌いなので何も言わない。
僕も母さんに心配させまいとして家では黙っていたが父さんは中山さんに話をくわしく聞いていた。そっと僕を呼んで「よくやった」と抱きしめてくれた。
川田が僕を避けるので他のワル仲間も近づかなくなった。吉野さんは喜んでくれたが、まだ不安そうだった。
「下っ端は強い者にはかからないの、だけどリーダーのワルがきっと仕掛けてくるわ。気をつけてね」
まさかそれが今日だとは思わなかった。
学校帰りに自転車で歩道橋を渡って裏道に入った。まず大きな神社がある。住宅の間に畑が残っている静かな道だ。なぜか茶碗や皿を売る店がある、今は裏道だが昔は人々の生活に必要な店がそろっていたメインロードだったのだろう。大きな歩道橋のかかった十字路まで行けば酒屋さんと小さな八百屋さんがある。
広い神社の境内にはいつも小学生が遊んでいるのだが今日は静まり返っている。なにげなしに通りすぎると爆音が響いた。2台のオートバイが迫ってくる。
あわてて左の細道に入った、ここは行き止まりなのだ。自転車を飛び降りて家の庭を突っ切りさっきの道に戻った。後から追いかけてくる足音が聞こえる。もう少し走れば自動車修理の工場があり助けを求めることができるのだが、そこまでも逃げられるのか、とつぜん横合いから鋭く僕の名前を呼ぶ声がした、早く早く!。垣根の間から飛び込むと手招きしながら畑の畦道を走ってくる者がいる、川田だ。
「逃げろ、金属バットを持っている」
そうして反対側の垣根をくぐり抜けた。山裾をたどる細い道があって右側に石段がある、ヤブに囲まれているので分からなかった。
「この階段を登ると団地の奥に出る。まっすぐ行くと古墳だ。そこから海に向って降りれば蘆花公園だ。自転車は俺が届ける。気をつけろ」
それだけ言うとさっきの道に帰っていった。石段には木の枝がかぶさっていて足音を立てなければ上からも下からも見つからない。
オートバイは僕を見失って走っていった。危うかった。
「フローレス デル ビエント エスタ ビエン」
母さんが歌いながら洗濯物をたたんでいた。このくらいのスペイン語なら僕にも分かる。風がほほえむ、いい天気。でも母さんが歌うのと僕とでは冬の風と春の風ほど違いがある。母さんから吹いてくる風は本当に気持ちがいい。
「洗濯物がよく乾いたっていうことだね」
母さんはにっこり笑ってうなずいた。
「リマだって風が吹いていたし、洗濯物もよく乾いたよ」
母さんはまた笑った。
「ここの風はやさしく乾いているわ、リマとはちがう」
それは僕も感じている。リマの空気は目にピリピリするほど汚れている。そこを太陽がまともに照らしつけると洗濯物は激しく乾いてしまう。だから手ざわりが悪い。こんな透き通った陽に照らされてシャツも靴下も柔らかく乾いている。だから母さんの気持ちも和らいでいるのだ。
しかし、学校からもらってきた手紙を僕がスペイン語に直すとたちまち顔が曇った。手紙はPTA会長の名前だった。PTAの事業として料理教室をしている、毎回40人くらいが集まって楽しく作ったり食べたりする、ついては次回の講師をしてくれないか、ペルーの料理を教えてほしい、という内容だった。グローバルな時代なのでとか、外国人の方とぜひ親しくしたいとか理由がつけ加えられていた。きっと珍しい国から来た人を見てみたいという好奇心が、日ごろ退屈している母親たちを刺激したのだろう。
「どうしようか」
母さんは困った声を出した。料理を作ることではない、パーティは大好きだし料理も得意だ。しかし、ここ一ヶ月ほど日本のスーパーマーケットで食材を買ってみると、ペルーとはだいぶ違うことが分かったのだ。ジャガイモもタマネギも唐辛子もレモンさえも味が違う。
「何をつくればいいのだろう、クイだって売っていないわ」
ペルーではモルモットのようなクイという動物を飼っている。ふだんはどこかに隠れてクイクイ鳴きながら遊んでいるがエサの時だけ集まってくる。草の葉やジャガイモの皮、キャベツの芯も好きだ。一年に何回も子どもを産む。それを人にプレゼントしたりお祝い事のご馳走にする。
「だってクイは母さんだって食べないだろ、日本人で喜んで食べる人なんて絶対いないよ」
けれどもインカの時代からクイは最高のおもてなし料理だったのだ。よく太ったのを選んで膝の上でゆっくり押しているとクイは死ぬ。熱湯をひと浴びさせて毛をむしり、火でゆっくりあぶって串焼きにするのだが、その前にクイの供養をする。口と腹の上に好物の葉っぱを載せて死を悼(いた)むのだ。さっぱりしておいしい。パリパリに焦げ目のついたクイはニワトリや魚の丸焼きなんかよりずっと食べ物らしく見えるのだが、とうてい日本のお母さんたちに出すことはできないだろう。そんな情景を見せることもできない。
「すぐできるのはチャーフンだけれどね」
「だめだよ、チーファ(中華料理店)は日本にもたくさんあるんだよ。チャーフン(炒飯)は日本では普通の料理だからさ」
「父さんさんはアンティクーチョ(牛の心臓の串焼き)が好きだね」
「これもね父さんに聞いたら、ヤキトリ屋って店に行けば普通にある、。心臓のことをハツっていうのは、ハートがなまったんだって」
「困ったね」
「うん、せっかくのお誘いなのにね」
中学校に通い始めた日のことを思い出した。母さんはお弁当を作ってくれた。ゆでたジャガイモをいくつかとゆでた豆を少し、塩と唐辛子のペーストがそえてある。ペルーではふつうのお弁当だが、皆のを見て僕はふたが開けられなかった。担任の鈴木先生がすぐに気づいて、そうだ校長先生が会いたいと言っていたからすぐに校長室に行きなさい、お弁当もそこで食べなさいと言ってくれた。僕は校長先生のお弁当を分けてもらいながら一緒に食べた。恥ずかしい気持ちはなかったが、悔しいようなさびしいような妙な気分が残った。帰ってからこっそりと父さんに言うと、翌朝、父さんが三人分のお弁当を作ってくれた。母さんは何をお弁当に入れるのか見当もつかなかったのだ。それからというもの母さんは日本料理がめきめき上手になりメニューもどんどん増えていった。しかし味つけは塩と唐辛子とレモン、中国のショウユにケチャップというペルー風の濃い味から離れられないようだった。
「セビッチェはおいしいね」
イカとタコと魚のお刺身にタマネギをまぜてレモンで食べる料理だ。しかし、これもカルパッチョという名前で日本でも普通にある料理だ。
「カウカウはどうだろう」
基本はジャガイモとタマネギの唐辛子煮込みだが、肉や内臓や魚などいろいろな材料がある。僕は豚の皮の脂身を煮込んだカウカウが好きだが、豚の皮の脂身なんてスーパーには売っていない。中村先輩に食べてもらったサルタードは肉とタマネギとフライドポテトをバーベキュー味で炒めたものだが、父さんは日本の家庭料理だと言っていた。
「日本のジャガイモは味がないからね」
僕も同感だ。ペルーの市場には大きいの小さいの、紫色から土色まで数え切れないほどの種類のジュガイモが並んでいて、煮たり茹でてつぶしたりフライドポテトにしたり選べるようになっている。塩をつけただけでとてもおいしいジャガイモもある。タコヤキそっくりの団子にして甘い蜜をかけたお菓子もある。
「インカコーラもないし」
うす黄色い炭酸のきいたコーラは2リットルも入る大瓶で売っていた。
「チーチャ・モラーダもないし」
ブドウジュースのような甘い飲み物だが原料は紫トウモロコシだ。シナモンの香りとレモンのほんのりとした酸っぱさがあってとても美味しい。料理店では無料でついてくるし、1リットル買っても料理一皿の半分もしない値段だ。
「コカ茶もないし」
リマは海のそばの町なので高山病にかかることはないがクスコは標高が3400メートルもあるので空気が薄い。頭痛がしたり足が重くてのろのろとしか歩けなくなる。甘いコカ茶をたくさん飲んで栄養のあるものをたっぷり食べないと高山病に負けてしまう。昔、インカの人たちはコカの葉を噛んで仕事をしたそうだが僕らはお茶にして飲むだけだ。
ないものづくしでどうしよう。
「父さんに相談しよう」
困った時に父さんは必ずいい知恵を出してくれる。
料理教室は1ヶ月後の金曜日午後、僕は通訳兼助手として授業を休んで参加してもいいことになっている。
父さんは笑って言った。
「おいしい料理は俺に作ってくれ。人に食べさせるのは強烈な味がいい、後から後から我が家に押しかけて食べに来られてはたまらない。レストランは閉店してきたんだよ」
そういえば日本に来る前、父さんはペルーで食堂を開いていたんだ。いくつかのメニューが提案されて母さんはようやくほっとしたようだった。
日曜の午後は散歩をした。新築したばかりの小さな建物に隠れて小さな空き地がある。畑といってもいいほどよく耕されているが作っている作物は雑多だ。父さんが指差しながら名前を教えてくれる。
「大きいのが白菜、炒めてもし漬けてもよし。ネギ、そのまま焼いて熱いのをほうばると最高だ、あれは大根、まだ葉しか見えないがすぐに身を乗り出してくる。サヤエンドウ、トウガラシは秋の名残り、おやトマトも残っている。大きな葉がワサワサ集まっているのはサトイモ、こちらはご存知ジャガイモだ。まるで八百屋さんのようだね。あの芽が出たばかりの葉っぱ、あれは何だか分からない」
スーパーに数え切れないほどの野菜が並んでいるのには驚いたが、こんな畑にもたくさんの野菜が育っていることに感動した。母さんも畑から目が話せない。
「ジャガイモしか育てたことはないの。小さい頃から畑でジャガイモを育てたわ。小さなジャガイモばかり、だけど土から掘り起こしたときはうれしかった」
「アンデスにはいろんなジャガイモがあったね」
「そう、いろんなジャガイモしかなかったわ。大きいジャガイモ小さいジャガイモ」
「マチャピチュにはトウモロコシ畑しかなかったよ」
突然、トウガラシやタマネギを買いに行った小さな店を思い出した。お菓子もセッケンもビールも並んでいる、そしてお婆さんがいつも日なたで編物をしている。挨拶をし座り込んで村のニュースを話し合い、そうだ買い物に来ていたんだと思い出してわずかの品物を新聞紙で包んでもらう。
「あれはレタスだ」
遠くから僕らを見ていたのだろう、畑を耕していた老人がのっそりと近づいてきた。高齢だが背を伸ばすと大きな人だった。
「話は聞いたよ、岸井さんだろ、イタズラ坊主の。昔は追っかけまわしたものだよ」
「えぇと…」
「金井だよ、あんたもこの爺の野菜を食べて大きくなったんだ、忘れてはいかん」
父さんは照れくさそうに挨拶した。
「その節は畑を荒らしたりスイカを盗んだりしてすみません」
「当時は広い畑を持っていたが宅地に買い取られて、今ではこの通りさ。年相応にちょうどいい大きさではあるがね」
「妻と子です」
「聞いてるよ、かわいい奥さんだと評判だ」
ラゥアは肉も魚も料理はするがあまり食べない。だから日本は住み心地がいいそうだ。たくさんの果物、豆とその加工品、そして野菜と海藻を様々な調味料を使って毎日違う料理を食べ続けることができる。
「私も野菜を育てたい」
「ああいいよ、手伝ってくれ、がんばりがきかなくなってさ、草むしりも大変なんだよ」
「雑草は邪魔だね」
「そうだ、皆が邪魔にするから誰の助けも借りずに育っていこうとする、雑草は生きようとする力が強いんだよ。深く地面に根をおろしてさ、野菜みたいな甘ったれではないんだよ。時にはいとおしくもなるんだが、作物を育てるために仕方なくむしるのさ」
昔の金井さんの広い畑には、夏は一面にナスとキュウリがぶらさがりスイカが寝そべっており、冬は一面に白菜と大根が整列していた。それを父さんはじめ近所の悪ガキどもが侵入して激しい攻防戦を繰り広げる。
「若いころのワシは…スイカ泥棒など苦もなくつかまえたもんだ、なぁ岸井さんや」
「はい、怖かったです」
父さんが珍しく神妙に答えた。
近々、訪ねていくからスーパーの野菜など買わないように、そう言って金井さんは小屋からカボチャとタマネギと冬瓜を持ってきた。散歩を中止して重い荷物を手に持って僕らは家に帰った。夜はクリームシチューよ、どうも母さんは初めて見る冬瓜をズッキーニと間違えているようだ。
とうとう料理教室の日になった。会場の調理室には30人ばかりのお母さんが集まっている。今井先生の顔も見える、マチュピチュに行く準備の一つなのだろう、授業が変更になった理由が分かった。
僕はじゃがいもの皮をむく。果物ナイフが切れなくて苦戦している。母さんはタマネギを刻みベーコンとバターでいため始めた。良い匂いがあふれだして会場が笑顔になる。
「ペルーにもジャガイモがあるんですか」
派手目なお化粧のお母さんが聞く。質問はいつでもフリーだ。
「パパと呼ばれています」
僕が答える。パパこそが世界中のジャガイモの本家本元なのだ。
「ケチュアの人たちが大昔にアンデスで初めてパパを食べるようになり、スペイン人がそれをヨーロッパに伝えて、オランダ人が日本に伝えたそうです」
これは予想通りの質問で父さんに教えてもらった一夜漬けの知識だ。
「それは美味しいのですか」
今度は母さんが答えて僕が通訳する。
「野生のパパは指の先くらいの大きさ、だけど毒があって人も死ぬそうです、それを何千年もかけて美味しくしたのがケチュア族です。朝も昼も晩もパパを食べます」
「トウモロコシが主食だってTVで見ましたけれど」
秘境ほどTVが取材して、茶の間で見る人はそこをお隣さんのように思ってしまう。
「アンデスの3千メートルの高さではサラつまりトウモロコシは育ちません。ゆでたり焼いたりして食べるのは収穫の時だけ、あとは硬くなるので粉にしないと食べられません」
「そうか高地だからお湯が沸騰しないんだ。トウモロコシはサラっていうんだ、その方が美味しそうですね」
今井先生がフォローしてくれた。
「サラからチチャを造ります、チチャがなければお祭りができません」
チチャというのは薄いお酒でインカの人の大好物、子どもも飲む。
料理教室の計画をしている時に僕は聞いてみた。
「チチャ造ったらどう」
「ダメ、日本の法律では酒は作れない、それに日本のサラは甘くて柔らかいからチチャにならないだろう」
父さんはそう言ったが、チチャが飲みたいという思いを感じた。
アンデスでは毎日、ジャガイモを食べる、干し肉を少しとトウガラシ、スープにしたりつぶしたり、でも一日の畑仕事のあとでは皆が疲れているので、ゆだただけのパパに塩をつけて食べるだけということも多い。
同じ高地でもネパールにはジャガイモはなかった。父さんが最初に旅したころは大麦とソバだけ、トウガラシとミルク茶と干し肉、二度目に行った時はジャガイモが主食になっていた。そのおかげで病気が減り人口も増えていたという。ジャガイモは素晴らしい。
「毎日パパだけでは飽きませんか」
夕飯の献立に悩まされているらしいお母さんが聞いた。
「パパは三十種類くらいあります、苦いのも甘いのも大きいのも小さいのも。料理法もいろいろあります、アンデスでは何千年も食べ続けてきましたから」
父さんはこんな話もしてくれた。
ジャガイモは世界を救ったが、頼りきると災厄をもたらす。ジャガイモの病気が全国に広がったアイルランドでは人口が半分になってしまった、飢え死したり国を逃れて移住したりしたからだ。今でも本国の人口の二十倍のアイルランド人がアメリカや諸外国で暮らしているという。ケチュアの人々は高度差が千メートルもある段々畑に三十種類のパパを植え害虫と病気を防いだ。そして1度植えるとあとの4年間は休耕する。
「ケチュアはジャガイモだけで幸せな生活をしていたけれど、それでは文化が深まらなかった。日本では文化が栄え何でもあるけれど幸せとはいえないようだ。しかし私は日本を選んだ」
父さんそう言う。しかしまだ幸せは家まで届いていない。
母さんの料理教室は成功だったようだ。手際よく料理ができたし美味しく試食もした。後から「ありがとう」という手紙がいくつも届いた。ただしスペイン語で書かかれているのは一つもない、だから僕が母さんに読み聞かせる。
珍しい料理でおいしかった、家でも作ってみます、というのが標準形だ。ペルーに行ってみたいとか、ペルーに親しみを感じたと付け加えるのも多かった。中にはお節介に、日本の料理もおいしいです、今度、教えてあげますとか、困ったことがあったら相談にのります、とかいうのもあった。きっとプライドが高い人なのだろう。
1週間後の昼前、僕も父さんもいない時、PTAの厚生委員長と副委員長という人が家に来て丁寧な挨拶のあとダンボール箱を置いていった。中には衣類や雑貨が詰まっている。どうも料理教室のはじめに僕らを紹介した委員長の言葉が原因らしい。
「岸井さんご一家はある事情で日本に来られました。突然の移住なのでお困りになっていることもあるでしょう。それなのに、この会に快く協力してくださって本当にありがとうございます」
先生方はプライバシーを尊重するから話さない。しかしTVや新聞で知った難民とか迫害とか困窮とかいう言葉でお母さんたちは僕らを理解したのだろう。委員長の手紙には、これらの品物をお役立ていただけるとありがたいということが丁寧に書かれている。僕が帰ってくると母さんはなんと書いてあるのか知りたがった。たぶん冬の衣類とか食器とか台所用品が入っているのだろう。もしここがペルーだったら日本の古着をもらえば喜んだだろう、しかし今は日本に住んでいるのだから元の持ち主にでも会ったら恥ずかしいし。第一、人に物を施されるというのは気が重い。箱は嫌なオーラを発揮している。
玄関の外から「ご在宅かね」というずっしりした声が聞こえた。箱を見ないようにして扉を開くと金井さんが立っていた。
「料理教室とやらで使ってもらおうと思って持ってきたのだが、ええっ終わってしまったかね。まあいい、誰に食べてもらっても野菜は文句は言わない。ただ少し量が多かったな。しおらせたり腐らせたりしないでくれよ、夢見が悪いからな」
機嫌良く言いながら持ち上げてふたを開けるとお取寄せという雰囲気で色々な野菜がきれいに詰められていた。
「お上がりください」
お邪魔するよ、そう言って金井さんは入ってくると母さんの顔を懐かしそうにながめた。
「戦争が終わったころはこの辺りに外人さんがたくさん来たよ。ペンキ塗りの家を建ててね、そのうちにいなくなったと思ったら、近頃はまた住んでくれるようになった。ここは気候もいいし安全だ、あなたも良い場所に移り住んだね」
僕が一生懸命に通訳をすると金井さんも母さんも真正面から顔を合わせてうちとけて笑いあった。
「飲み物はお茶ですか、紅茶ですか、お勧めはマテ茶ですが」
「ではそのマテ茶というが面白そうだからもらいましょう」
アンデス高地の飲み物だ。母さんが器に葉をつめて湯を注いで差し出すと、金井さんはためらわずにストローで吸い始めた。茶碗よりも一回り大きい銀色の飾りのついた器を大事そうに持っている。ふと金井さんに箱のことを聞いてもらおうと思った。
母さんは台所に引っ込んだ時に話した。
「こんな物をもらったのですが、どうしたらいいでしょう」
金井さんは「開けてもいいかね」と言って箱の中身を点検し始めた。僕はそのときまで箱の中を見ていなかったことに気づいて顔が赤くなった。
「これは良い物ばかりだ、どれも新しい。みんな親切だな」
卒業生は学生服やジャージを学校に置いていくこと、赤ちゃんや幼児の小さくなった服や靴も順送りに使っていくこと、無料に近い値段で色々な物を売っているフリマがあることを教えてくれた。
「リサイクルなんて言うと使い古しみたいに思われるから、わしは天の授かりものと言っているよ」
「だけど、たくさんありすぎます」
「ふうん、ならば必要とする人にあげるか」
金井さんはニヤリと笑った。
「あの人の世話をすることになっちゃってね、知っているだろ、歩く人だよ」
秋の連休の後ころだろうか、ふわりとその人が現れて歩き始めた。目ざとい川田が第一発見者と名乗って皆に言いふらした。黒い丸縁のメガネをかけた中年の男でディパックを背負い頑丈なスニーカーを履いている。毎日のように集団で二子山に登りに来る歩け歩け隊やバードウォッチの人のように見えたが、妙なことにバス通りの道を往復していくだけなのだ。さすがに一ヶ月になると皆あれあれと思うようになった。
クラスでもうわさが広まった。
「俺はさぐってみたんだ」
教科書は嫌いだが銭形平次からポアロまで探偵小説は大好きだという川田は自分の仕事だと思ったらしい。あれ以来、川田はすっかりうちとけて僕らの仲間になっていた。まだ仲間のことを怖がっているが一緒にワルさをするのはやめたようだ。
「どこから来てどこへ行きどこに帰るのか、それをつきとめなければならない」
まるでパイプをくわえたホームズのように重々しく言う。
川のそばの大きなお寺の前までつけていったが狭い道に車が行き違ったすきに見失った。今度は待ち伏せしようとトンネルの手前で見張っていた。あんな退屈な時間を過ごしたのは初めてだ。ついに現れた。まるで競歩のようなスピードだ。教会のすごい坂道を平気で上っていく。息が切れて教会までたどりついた時にはもう誰もいなかった。
「ホームレスさ、仙元山のどこかに野宿しているんだよ」
聞き手の誰かが確信をもって言う、確かに服も靴も汚れてきたしヒゲが伸びた。顔も手もすすけたように黒ずんでいる。
「本人に聞くのが一番だ」
「話すものか」
「チームを作って調査するかい」
皆が勝手なことを言い合っていると、突然、吉野さんが厳しい口調で言った。
「異界の人よ、踏み込んではいけないわ」
「イカイって」
僕は日本語が浅いのでなんでも聞けるが。他の同級生はそんな言葉も知らないのと言われると恥ずかしいから聞き返さない。
吉野さんはいよいよ重々しい顔になった。
「この世界って一つではないの。いくつも違う世界が重なってできているの。だから、その境い目を踏み外すと異界に入ってしまうわけ」
皆がざわっとした。
「あの男の人もそうだと思うわ。たぶんハイキングしていて間違って異界の道に入り込んでしまったのよ。だから、ああやって毎日、道を探しているの、行ったり来たりしているうちに元の道に戻るのではないかと必死に歩いているのよ」
悲惨、可哀想というつぶやきが聞こえた。
しかし川田は残念そうだ、それでは探偵の職務が遂行できない。
「でも、それってテレビのミステリー番組みたいだな。吉野は何かで見たことを言っているだけだろ。俺は実証できるまでは調査するよ」
「確かにそう、誰かに聞いたこと、誰だか思い出せないけれど、でも私は信じたの、こんなことも思い出しちゃった」
異界に入ってしまった時、そこの食べ物を口にすると道は消えて閉ざされてしまう。人は食べずに生きていくことはできないから選択が迫られる。食べずに死ぬまで道を探すか、あきらめて異界に生きるか。
「残酷ね」
吉野さんが諦めたようにつぶやいた。川田は諦めずに聞いた。
「だって異界の人と決まったわけではないのだろ。一ヶ月も食べずに暮らしていたわけでもないし」
では何を食べているのだろう。
「俺はホームレスだと思う。悪いことをして逃げ出したのさ」
でも丸いメガネの中の目は善良で悲しそうだ。
「家族に迷惑をかけないように身を隠したのさ、外国人かもしれないぜ」
「えっ」
誰一人意識しなかったし、吉野さんだってそんなことはまったく思ってもみなかっただろうが、僕は心の底から震えた。もしかして僕も異界から来たのではないか、母さんも。
吉野さんは続きを話しているが、もう僕の耳には入らない。クラスにある日知らない子どもが入ってくる。言葉も顔も変だ、母親はまったくの異国人、とまどい疑いながら仲間に入れていく。しかし、いつか彼は異界に戻っていくかもしれない、そんな思いで皆は僕とつきあっている。
「黄泉に妻を取り戻しに行ったイザナギは妻のイザナミを見つけたの、しかしイザナミは黄泉の物を食べてしまったので怖ろしい死者の姿になってしまった、体のあちこちをイカヅチが取り巻き黒い影がたちこめている。イザナギは逃げる、黄泉の鬼たちヨモツシコメは追いかける」
皆、おとぎ話を聞く子どものように緊張している。しかし僕は自分が何なのか考えている。世界は一つだと常識のように言われるが本当は幾重にも重なった異世界だ。この日本にだって僕らはとまどっている。父さんは日本人として育ったから帰国したのだ。僕らはやって来た人なのだ。
「塾の時間だから帰る」
一人が背を向けると友だちは次々に帰って行き、塾に行かない何人かだけが残った。
「本当の話なの、ずいぶん怖かったよ」
川田が目を見開いて言った。
「でも調査することは続けるよ」
「誰でも人に知られたくないプライバシーがあるのよ。人につきまとうのはストーカー行為、犯罪よ」
そうピシャリと言われるとさすがの川田もめげた。
「悪意はないよ、何か助けてあげられるかもしれないって思うから」
すばやく探偵からボランティアに変身した。
「中学生にはできないことよ」
教室でこんなやりとりがあったのだ。
僕は思い切って金井さんに聞いてみた。
「あの人って、もしかすると毎日、ずっと歩いている人ですか」
「知っているかい、考える人はじっとしているけれど、あの人はただ歩いているんだ、放っておくのはかわいそうだからって」
何人かで相談して支援することにした。金井さんは家を提供した。大山の谷戸にある空家で伯父が一人で住んでいた。高齢者施設に入所した後は空き家になっている。
「家は人が住んでいないとダメになる、だから住んでもらうとありがたいのさ」
ただ電気は止めてしまったので乾電池とガスボンベで生活している。
「テレビは見ないようだしね」
米や野菜を届ける人、風呂に呼ぶ人など役割を決めたという。
「みんな老人ばかりだから親切だよ。詳しくは聞かないのだが訳ありの人らしい、しばらくは客人にしておくんだよ」
小屋を掃除に入ると難しい本があったり、いっぱい書き込みのある論文や俳句を推敲したノートがあったりして、ずいぶん勉強をした人らしい。
「お父さんにもらった服を分けてやってもいいかい。それからそっとしておいてやってください。中学生の皆さんもいじめたり、かまったりしないように注意してほしいんだ。そうだ学校の先生にも言っておこう」
「教頭先生ならよく分かってくれると思います」
僕が初めて来た時にまったく不安を感じさせず受け止めてくれたのを忘れない。分かった、頼むよ、そう言って金井さんはゴム長靴でズカズカと帰っていった。
それから一週間もしない頃、僕は逗子に行くトンネルの中でその人に出会った。毎日、同じ道を何往復もしているのだから会わないはずはないのだが、やはり古墳の下を突き抜ける暗いトンネルの中で会うのは気味悪い。上り下りが新旧二つのトンネルになっていて、古い方が少しだけ近道なので、皆、そちら側を歩く。驚くほどの速さでその人は近づいてきて、さっと風を残して行き過ぎてしまった。とたんにガチャンという金属音がした。自転車のお爺さんがあやうく立ち直ると舌打ちをして走っていった。その人はススで黒くなったトンネルの壁に押し付けられている。
「大丈夫ですか」
僕が声をかけるとその人はしゃがんで何か拾い始めた。まず眼鏡、それから帽子、ウエストポーチが開いて中の物が散らばったらしい。一所になって探した。時々ヘッドライトを光らせて車が通る。キラッと光ったのはバッチ、白い紙は名刺らしかった。
「どうぞ」と差し出すと、僕の顔を無表情でながめて黙ってさっさと歩き始めた。渡したときに触れた手の温かみだけが残った。
家に帰って父さんに話した。
「自転車をぶつけたお爺さんが一番いけないよね、すみませんとも言わないんだから。あの人はしゃべれないのかな」
「どんな印象だったかい」
「優しくて悲しそうだった、大丈夫ですかって僕は本気で心配したもん」
「バッチと名刺か、バッチは本当は返却しなければならないんだ、それに名刺も捨てられないんだね」
「仕事をやめたということ?」
「昔、父さんもそんなことがあったな」
「自転車にぶつけられたこと?」
「違うよ、毎日、歩き続けたことさ。強いショックがあってね、なにも判断できなくなったのさ、心の中で渦巻きがグルグルしていて自分なんかどうだってよくなった。仕事かな家庭かな、引きこもりになる人もいるし、家から逃げてただ歩き続ける人もいる」
父さんには二度あった、日本を出るときとペルーから帰る時だ。初めのときは親子の対決、次のときは親子の絆を守るため。
「なんのこと」
「いずれ話すよ。父さんはラッキーだった。その人にもチャンスが必要なのさ。覚えておいてくれよ、小さな出来事が人を傷つけ、小さな出来事が人を救い出すのさ」
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