学校は低い山の上にあった。大きくカーブをした坂道を登っていくと汗があふれる。もう30分も高速道路につながる幅の広い道沿いの歩道を歩いている。青空にカラスやトンビが飛んでいく。セミの声がうるさいほどだ。僕は負けずに口笛を吹いていた。
「あれはコンドルではないけどね」
母さんが笑った。たぶん僕よりも母さんの方がよほど緊張しているだろう、だから僕は口笛を吹き続けた。また、そうすれば二人が何も話さないことが不自然でなくなる。母さんは早足でさっさと歩く。小さい時から山道を歩き続けてきた軽快な歩調だ。
この道の先に中学校がある。父さんは役場の人から編入と転入の違いを教えられた。
日本の学校から日本の学校へ移るのが転入です。あなたの息子さんは1997年生まれですか、平成にすると…平成9年…になりますね、では13歳、なら中学校一年に編入することになります。
父さんは僕の言葉や学力の問題について相談したかったのに、役場では学区と年齢だけしか質問されなかった。そこにはなんの選択肢もない、不安がわいてくる。母さんの日本語はたどたどしい、だから聞かれることは父さんか僕が通訳しなければならない。そして何よりも母さんは役人というのを怖れていた。ペルーでは母さんみたいなインディヘナ、つまり先住民族は役人や警官に酷い仕打ちをされる。一般のお店だって白人や観光客に見せるような笑顔で迎えてくれることはない。だからは母さんも「身内」でないところではひどく緊張する。その時が近づいてくる。
坂道を上りきると立派な校門があった。扉は閉まっていたが鍵はかかっていないので開けることができた。ギリギリ、ゴロゴロという重い響きがいっそう母さんを不安にした。僕は『花祭り』という陽気な曲を吹いた。母さんはにっこりしてくれた。校門から玄関までが遠くて僕は花祭りを三番まで吹いた。
案内された小さな部屋で教頭先生という人が相手になってくれた。
「Hola welcome to esta escuela!」
突然のスペイン語に僕らが驚く顔を見て先生はにっこりした、そして、昨日何度も練習したのだけれど正しく発音されていますかと言った。僕も母さんも笑ってすっかり安心した、そしてこの学校が好きになった。
「心配いりませんよ、すぐ友だちができます」
それから学校のきまりや給食のこと、保護者へのお願いなどの書かれたスペイン語のプリントをくれた。
「一度お父さんにお目にかかりたいのでお伝えください。担任の先生を紹介しましょう」
背の低い優しそうなおじさんが現れた。鈴木と名乗った。理科を教えているそうだ。先生は僕を教室に連れていってくれた。夏休みの最後の日なので誰もいない。長い廊下は熱気でムッとする、しかし母さんも僕も初めて見る日本の学校をキョロキョロ見回していた。
こうして岸井建は長柄の郷の南中学校一年一組に編入した。2010年、平成22年夏の終わり、父にとっては25年振りの故郷、健と母母さんにとっては初めての日本だ。帰り道は行きよりもずっと短く感じた。あまり話さないうちに長柄川のそばの家に帰った。
これは別棟だった。父さんの祖父が建てた子ども用の家で管理人が住んでいたこともある。しかしずっと無人だったのでだいぶ痛んでいた。草に埋もれた家は壁がペンキで白く塗られ羽目板に青い太い縞が引かれている。船倉のような丸いガラスをはめた玄関の上にベランダがヨットのへさきのように突き出ている。奥の部屋には暖炉があって黒い煙突が高く立っている。河口は半キロほど先、この家も建てられたときは海を目指していた。しかし今はすっかりペンキがはがれて、壁にはツタがからみつき、庭は青草に埋もれて陸に捕らわれたしまった難破船の姿になっている。一足先に帰国した父さんががんばって手入れをしたのだ、まだまだ人の住まいとはいえない。母屋は取り壊されていて生け垣も庭木もすっかり切られている。キャタピラやタイヤの跡が残っていて、まるで戦乱の後のようだ。
しかし、それはもう不動産屋の所有になっていて、小さな別棟だけが僕らの住まいだ。砂利も敷いていな道が通りから続いていて、もう雑草があたりを覆い始めている。
待ったなしに日本の生活が始まっている。
「このクラスに新しい友だちが入ります。岸井建君です。建君はペルーから来ました。自己紹介してもらいます。ペルー語でもいいですよ、先生はどんな言葉でも理解できるのですから」
皆がどっと笑ったが、ペルーの言葉はスペイン語とケチュア語があることを誰も知らないだろう、僕だってそんなことをえらそうに言うほど軽率ではない、僕は日本語で慎重に話した。少しでも変な発音をしてしまえばずっとからかわれるだろう。
「この席に座ってください。桜田さん、面倒を見てあげてください。それから席替えは約束通り来週行います」
一斉に皆がブツブツ言い始めた。席替えのことらしい。僕はその時初めて集団に所属するということを意識した。35人のクラス集団に36人目として僕が入ってきた。モザイクのように彩り鮮やかに敷き詰められたタイルのどこかに僕という一枚が加わる、すると全体のバランスが崩れて、皆はもう一回やりなおしの気分になるのだ。
桜田さんは背が高かったので、僕は上を向くようにして顔を見た。色が白くて目が黒くてほっそりとした顔をしている。インディヘナではないなと思ったが、すぐにここがペルーでないことを思い出した。僕の心が揺れたことを察知してくれて桜田さんがニッコリと笑いかけた。目が細いシワになり口の端が上がってマンガの女の子のようになった。僕はうれしくなって、そして最初の友だちができたことを感じた。
母さんはあの小さな部屋、相談室で僕を待っていたらしかった。しかし誰も話しかけてくれぬままポツンと一人だけ座っている孤独感にいたたまれなくなって帰ってしまった。手紙が残っていた。おいしい夕食が待っていますという内容だった。鈴木先生は興味深そうに手紙をのぞき込んだがスペイン語なので少しあわてた。それで僕が内容を話すと親しげに笑って、いいお母さんだねと言った。教頭先生だけでなく鈴木先生も僕らに好意を持ってくれたのを知ってうれしかった。
帰りの学活が終わるとともに生徒たちは四散していった。部活動に向かう生徒もいるし、塾や習い事などのために家に帰る生徒もいる。たちまち教室はからっぽになる。
鈴木先生は部活動に入ることを勧めてくれた。友だちができるし先生とも親しくなれる、だから入部した方がいい、そうすれば中学校生活が倍くらい楽しくなる、そう言って運動部と文化部の活動内容を教えてくれた。
父さんはサッカーをしていた、その話をする時、父さんの顔は楽しそうだ。自分と同じようにサッカーをしてほしいというのが父さんの気持ちだ。
しかし母さんは僕が楽器を練習してほしいと思っている。母さんが歌い僕が伴奏する、それで心が深く結ばれているのを感じることができる。ペルーにもカラオケがあったが、それは伴奏に合わせて決まった歌詞を歌うだけだ。上手に歌うことが目的で心を歌うことはない。母さんはその時の気持ちを自由に歌う、だから伴奏も自由だ。父さんや僕と気持ちが通い合えば歌は生きてくる。心が触れあうということだ。
たしかにサッカーも楽しいがその才能は僕にはなさそうだ。僕はボールが飛んでくるとどう対応しようか考えこんでしまう。それでタイミングが遅れる。それは性格だからどうしようもない。
僕は鈴木先生にいくつかの部を見学させてほしいと頼んだ。先生は喜んだ。
「桜田さんはブラスバンドです。案内してもらいましょう。サッカーは吉木君がいいかな。明日から始めましょう。けれど今日は早く帰ってお母さんのおいしい料理を食べなさい。先生からよろしくと言ってください」
帰りは下り坂だ。一日の疲れを癒してくれる道だ。行きの時とはずいぶん気持ちが違いステップをふみたくなった。
ふと不安になった。先生は母さんに「よろしく」と言ってくれと頼んだ。もちろん僕が通訳しなければならない。「よろしく」ってどういう意味だろう。
ただいま、しかし、「よろしく」の前に話すことがたくさんあった。僕はその日に見つけたオドロキを家に帰って母さんに話した。
「母さん知らないでしょう。お弁当を皆で一緒に食べるんだよ。ちょうだいって言ってくると肉も野菜もタマゴもみんなで分けて食べているよ」
「肉やタマゴを食べない人はいないの」
「先生がね、お弁当は残さず食べましょうって、僕も友達のを食べてもいいんだよね」
「日本人には食べ物のタブーがないって父さんから聞いたわ。だから何でも誰のでも食べていいんだわ」
先住民への差別だけでなく、キリスト教・ヒンズー教・ユダヤ教の厳しいタブー、身分、貧富の差、混血の人の思い、好き勝手な観光客、ペルーの人たちの生活は窮屈だ。
「女の子と隣同士で座るんだよ、ケシゴム貸してって言われたから貸してあげたけれど、それもいいんだよね」
「日本にはカーストがないのよ」
「体育の時、みんな輪になったけれど左手で手をつないでもいいんだよね」
「左手はケガレた手ではなくなったのよ」
「体育の後、みんなと水道の水を飲んだけれどお腹こわさないかな」
「みんなが飲むならたぶん大丈夫だと思う」
「女の子も男の子もだれも指輪とかネックレスをしていないよ、持っていないのかな」
「子どもはしないのかもね」
「車が赤信号で停まるよ、横断歩道は手を上げて渡るんだって」
「日本ではそういう規則がきびしいのよ」
「母さんが驚いたことってどんなこと」
「うん、まず店にたくさんのものが売っていることね。野菜にもラップがかけてあって値段が書いてあるの」
「少しおまけしてよ、なんて言えないね」
「日本には日本語しかないことね、いろんな言葉を話す人が隣同士で住んでいないこと」
「だから僕の日本語は変だって言う人がいるんだね、僕は少しだけペルー語が話せるけれど、日本では意味ないかな」
「ちゃんと覚えておいてね、母さんのためにもね、Mi corazón está en los Andes. Está volando enese cielo azul siempre」
それは、私の心はふるさとアンデスにあるという言葉だった、あの青い空をいつも飛んでいる。僕は母さんの気持ちが分かって真面目な顔で手をにぎった。
ペルーで生まれ育った僕の故郷もアンデスだ、それは誇らしく叫ぶことができる。今まで日本のことはテレビで知るだけ、日本語は父さんとだけ話した。
「そうだ先生が母さんに『よろしく』って言っていた。よろしく、だよ」
「それって何のこと」
「父さんに聞こうよ、僕には分からない」
僕は何度か父さんから思い出話を聞いている。父さんの家は古くからのお金持ちだったらしい、それが戦争で財産も家を無くした。わずかに残った葉山の別荘で父さんは育った。戦争から帰った父さんの父、つまり僕からすれば祖父さんは仕事ができず、また祖母も気位が高くて家庭的な人ではなかった。きっと父さんは生まれてからずっと祖父母と折り合いが悪かっただろう。
昭和61年、父さんを育ててくれた曾祖母が亡くなった。父さんは21才の大学生だった。すぐに破局がきた。曽祖父と祖父を相手に大喧嘩をして家を出た父さんは、しばらく日本の各地をアルバイトしながら転々とした後、世界へ向けて出発した。「深夜特急」というそのころ流行した海外放浪の小説を、宣言するかのように自宅に送っただけだった。どこに行くとも知らせなかったのは父さん自身も分からなかったからだ。
世界を放浪してきた父さんはペルーの首都リマの町に二年間ほど暮らした。レストランの手伝いをしたり運転手をしたりするうちに言葉が上達して商社の人の手助けもできるようになった。実業の人の中には祖父の名前を知っている人もいた。それが信用と親しみの元になって父さんには居心地が良かったのでつい長い間住みついてしまった。
ここにはすばらしい歌があった。古代からの曲にスペインの響きが加わって物語のひとこまのような歌だ。父さんは熱中した。やがて父さんは裏通りに小さな日本食のレストランを開いたらしい。少しのペルー人とインド人とたくさんの日系人が客になった。
店は古いアパートの一階で前に小さな公園があったそうだ。
リマで世界をゆるがすテロ事件が起きた。トゥパク。アマルというテロ・グループが日本大使館を占拠したのだ。パーティに集まっていた客がたくさん人質になった。そのことを父さんは話さない。父さんが結婚したのはその後だ。すぐに僕が生まれた。
しかし、僕の覚えている父さんはマチュピチュのガイドだった。世界中から遺跡を見に来る観光客を案内している。英語、ドイツ語、フランス語で説明する。日本の人が来た時だけ日本語を話す。僕は現地の小学校に通ったが、たいがいのことは父さんが教えてくれた。観光客は昼に来るだけなので、父さんには朝も夜も家で過ごす時間がたっぷりあった。
「岸井さん、日本からの知らせだ」
手紙はマチュピチュの遺跡で観光客と日陰で一休みしていた時に渡された。リマの運転手だった。昔の仲間だ、運転手はここに来れば父さんがいることを知っている。しかし両方ともにお客が待っていてゆっくりと話はできなかった。
手紙が届いた日の父さんの顔は忘れられない。苦悩と不安で老人のようだった。
「どうしたらいいのか」
差出人は日本の弁護士だった。曽祖父の残した財産を処理するために帰国してくれという内容だった。祖父は亡くなり、ずいぶん前に離婚したという祖母も亡くなっていた。とうとう父さんは和解できなかったのだ。
弁護士は顔の広い人で一年ばかりで父さんを見つけ、二ヶ月ばかりで手紙を届けた。海外の日本人社会は狭くて、いつも噂話が飛び交っている。隠れて住むことなどできないのだ。
「どうしよう」
母さんも僕も答えられない、それは父さんの生き方の問題だからだ。しかし、日本に行くと僕と母さんが失ってしまうものについては父さんの悩みにはなかった。
「建の将来を考えると帰った方がいい。母さんも不安を抱えたままこの国に暮らすより日本に行った方がいい」
母はケチュア系のインディヘナだった。僕の知らない不安が深く覆いかぶさっているようだ。
ついに父さんは決意して夏の終わりに日本に帰り、母さんと僕は秋の終わりになってから日本に来た。残っていた財産は別荘の家と土地だけだった。相続税のためにそれを売却したので、すぐに古い建物は壊され広い敷地は細分されて売られた。それで父さんの思い出はすべて清算された。僕らは別荘の管理人が住んでいた小さな家で暮らしを始めた。僕は中学校生活にチャレンジし、母さんも長柄の郷の生活と習慣に溶け込まなければならなくなった。
母さんも僕も黙って座っている。セミの声はうるさかったが風は涼しく吹いていた。母さんがケーナをとって吹きはじめた。最初にこの家に来たときに僕は「鳥の声?」と父さんに聞いた。
「これはセミという虫が鳴いているんだ」
それから父さんはセミのことを話してくれた。
「僕もセミの気持ちが分かる」
僕はその時に思ったことを言葉にまとめてみようとした。
母さんはケーナを吹いている。僕はセミのことを思っている。桜の木ではセミが鳴いている。静かな時。
「さびしそうな曲だね」
「そんなふうに聞こえる?」
「母さん、この歌には歌詞があるの」
「これはユリという曲、朝とか始まりとか出発とかそんな意味よ。歌詞もあるのでしょうけれど忘れてしまったわ」
「僕はセミのことを考えていたんだ。こんな言葉だよ」
朝日がのぼる空
やさしい夜を
消しさって熱い陽が地面を焼きつ尽くす
戦いの時がきた、負ければ死ぬさ
さからえない運命、ほかに道はない
ふるえる心でセミは飛び立つ
つらい思いでセミは飛ぶ
ふるえる羽でセミは飛ぶ
母さんはハッとしたように僕の顔を見た。
「かわいそうなセミ、あなたにはセミの気持ちが分かるのね」
「うん、たぶん今の僕の気持ちだよ」
母さんはもう一回曲を弾いてニッコリ笑った。
「うまくリフレインもできているわ、だけどこれは歌の一番だけね、二番はないの」
「今はこれだけ」
「二番ができたら教えてね」
「うん約束する」
夕食のあとに父さんがギターを持ち出して僕に言った。
「母さんに聞いたよ、ユリに歌詞をつけたんだって」
「うん、歌詞を書いておいたからたぶん歌えるよ」
「やってみるか」
ギターが鳴った。少しつっかえたが言葉は曲にうまく乗った。
「セミの気持ちが分かるって言ったのか」
「うん」
「セミはそんな気持ちかい」
「たぶん僕と同じ気持ちだろうと思ったんだ」
父さんはキッとした顔になった。
「セミに聞いてみなければな」
僕はけなされたような気がしてムッとした顔になった。
「なら父さんこそ聞いてみればいいんだ」
僕は急に悲しくなってうつむいた。
「デザートを持ってくるわ」
母さんはそういって台所に立った。父さんは黙ってギターを取ってユリを弾いた。僕は涙が流れるのを隠さなかった。
翌日の放課後、桜田さんがブラスバンド部に連れていってくれた。
「全部で15人しかいないの、1年生は4人だけ、岸井君が入ってくれるとすごくうれしいな」
桜田さんの真剣な顔が真正面にあって僕はあやうく目を伏せそうになった。しかし、どうやらちゃんと見返して軽く片目をつぶると桜田さんは突然、真っ赤になり怒ったようにプィと横を向いた。それからは何も話してくれない。
第一音楽室には金管楽器のものすごい騒音が渦巻いていた。顧問は社会科を担当する吉岡先生だった。
「音楽の河野先生が合唱部をやっているので代わりに僕が指揮しているんだ。昔は僕もトランペットを吹いていたんだよ」
先生は一声叫んで楽器を止めさせた。一瞬にして静寂が戻り、好奇心むき出しの15人の目が僕に向けられる。先生は指揮台を軽く叩いて指揮棒を振り上げた。
「課題曲 天馬の道」
さっきまで渦巻いていた勝手な音が一つの流れにまとまって僕の前を通り過ぎていく。いっときも止まらず、もつれたりねじれたりすることもなく音が流れていく。ちょっと驚いてあたりを見回した。先生も部員も一心に演奏している。扉と窓は閉ざされている。今ここにいて色々なことを考えているのは僕だけだ。
ピタっと音が止まって、どうだいと言うように吉岡先生が僕を見た。その前に僕は拍手していた。
「どの楽器をやりたいのかな」
自分に戻って思い思いの練習を始めた部員を見ながら先生は質問した。
「フルートです」
「ちょうどいい、パートが空いている」
「でも他の部も見てから決めたいと思います」
「待っているよ。ところで君は楽器をやったことがあるのかい」
「ケーナなら吹けます」
突然、カメラのフラッシュが光ったように感じた。先生は驚いた顔をして僕を見た。近くにいた部員も同じように振り向いた。
「ケーナか、それはいい。願ってもないことだ。今度のクリスマス・コンサートで『花祭り』をやるんだ。中村がケーナに挑戦しているが中々うまく吹けない。君、部員でなくてもいいから出演してくれ」
中村先輩がケーナを持って近づいてきた。
「難しい楽器ね、吹いてみて」
僕は呼吸を整えて『花祭り』を吹き始めた。
拍手が起こった。
「それこそケーナだ。中村のはただの竹笛だ」
「先生だってゼンソクでヒーヒーいっているような音しか出せないでしょう」
中村先輩に言い返されて部員が爆笑する、先生も笑った。
「ケーナを吹きます。その代わりフルートも教えてください」
「それは部長の役目だ、中村、いいね」
「部長は多忙です、仕事がたくさんあります。しかし、中村頼むと言ってくれれば私はがんばります」
「ナカムラタノム」
僕は一つの部をゲットした。しかし桜田さんは僕の方を見てくれない。僕は何かまずいことをしたのだろうと気になった。
騒音を後にして階段を降りて行くと呼び止められた。
「君がペルーから来た岸井か」
ジャージを着ているので体育の先生だと思った。がっしりした大男だ。
「僕は今井だ。長い間、アンデス登山にあこがれてきた。君のことを聞いて、ぜひ話をしたいと思っていたんだ」
「はい、ただ今日は母の買い物につきあう日なんです」
「お母さんはペルーの人か」
「はい」
「マチュピチュにも行ったか」
「住んでいました」
「それはすごい。写真とかもあるか」
「ええ、少しだけ」
「…」
今井先生が言おうとしたことは分かった。先生は早く知りたいのだ。
「夜だったら父もいます。いつでも大歓迎です、小さい家ですが」
「…」
先生は少し困惑した。生徒の家、初めて会う父親と母親、しかし先生はハードルを飛び越えた。
「ぜひ、お邪魔させてもらいたい。僕の妻は少しスペイン語を話す。一緒に行ってもいいか聞いてくれ。いつの日がいいか、ここに電話してほしい」
翌朝、桜田さんが僕の机の上に黙ったまま紙を置いた。ブラバンの中村部長、上級生なので先輩と呼ぶのだそうだが、休みの日にフルートとケーナの練習をしましょうという内容だった。僕はお願いしますとメモを書いて桜田さんに渡したがツンとしてこちらを向かない。ひどくさびしかった。
土曜日の朝、8時にバス停で待ち合わせた。
「ここは静かでいいの、つまり誰にも迷惑がかからないということ」
中村先輩は坂道を上がって住宅地をぬけ山に入った。細い落ち葉の道を十分ほど歩くとステージがあった。それはすっかり自然に同化してしまった古い展望台だった。葉を落とした樹々の間に海が見える。空は乾いた青い色、海は湿った青い色、その境い目に黒く影のように山がある。左側から伊豆の天城の山々、続いて凸凹した箱根の山、富士山が一際高く白い雪をかぶっていて丹沢山脈を従えている。
「左手は大島、正面が江ノ島、今日も富士山がきれいだわ」
こんな高い山が一つだけそびえている景色はアンデスにはない。空もアンデスよりはずっと濃い色だ。海には一つだけヨットの帆が白く浮いていた。
「ここで練習しているとすごく上手になった気がするのよ。ちょうどお風呂で歌っているのと同じで気分がいいのね」
「中村先輩はいつもここで練習しているのですか」
「朝と昼だけ、夜はだめよ、ここは怖い」
「ドロボーとかですか」
「この山には古いお墓があるの。ずっと昔の人のお墓だからすごくスピリチュアルで、力をもらえるのよ」
「お墓には見えません。ただの山です」
「誰も知らず、誰も世話をしなかったから。でもその方が静かだったから死者にとってはうれしかっかもしれないわ」
「マチュピチュにもスピリチュアルな石があって観光客が手を押しつけていました」
「あそこの下を掘るときっと石の棺があるわ、いにしえの王が眠っているのよ」
中村先輩は楽譜を出して自分のフルートを吹き始めた。僕も借りてきたフルートを吹いた。
「すごい、あなた肺活量があるのね、たぶん空気の少ない所で生活していたからね。勢いがあるから調節できればすぐに上手になるわ」
楽譜の読み方、音の調整をていねいに教えてくれた。
「今度はケーナね、ただあなたみたいな肺活量がないから私には無理かな」
「だいじょうぶですよ、中村先輩」
「中村って呼ばれると教室にいるみたいでハイって返事したくなる。みんなナカ先輩って呼ぶからそう言って、君はタケシ君?ケン君?」
「タケルですがケンでもいいです。父さんがケンイチなので僕はケンジかもしれません」
「このお墓の作られた頃、ヤマトタケルっていう人がここを通ったわ、同じ名前だからあなたの先祖かもね」
「ならここで僕がフルートを吹いても大丈夫ですね。でも下手に吹くと死者が目を覚まして怒るかもしれない」
「そして指導してもらえば上手になるわ」
先輩はニコリともせずに言った。
二人で楽譜を見ながら一時間ほど吹き続けた。日差しは暖かかったが風が冷たかった。ナッカ先輩は温かいお茶を持っていた。一休みすると僕は母の歌を思い出しながら楽譜を見ないで吹いてみた。なかなか思うようなリズムにならなかったが先輩はうれしがってくれた。
「暗譜で吹けるなんてすごいわ」
「母さんの子守唄、歌詞はでたらめ」
「ふうん、私、お母さんがいないんだ」
「どうしたんですか」
言ってしまってハッとした。間抜けな質問だった。
「離婚したのよ、よくある話、学校中の子どもの十人に一人くらいは片親よ。でも私はパパに再婚したら家出するって言っているの。離婚も再婚も大人の勝手よ、許せない」
落ち着いていて優しい先輩がきつく言ったので僕はびっくりした。たぶん、この展望台で先輩は何度もその思いをかみしめてきたのだろうと思った。
「あなたのお母さんに会ってみたいな、あなたの吹いた曲と実際の歌がどのくらい違うか確かめてみたい」
先輩が意地悪なことを言った。僕は負けない気持ちでケーナを取り出し、母さんがこの前歌っていた『太陽の乙女』を吹いた。先輩は黙って富士山を見つめている。
「秋分のころになると富士山の頂上に太陽が沈んでいくの。太陽はみるみる山頂に近づいていって白く輝くダイアモンドになって光を発するわ、指輪のように。そして光は金色になってサーモンピンクになってルビーの赤になっていく。あとは夕闇が広がっていくわ」
「先輩はすごいな」
僕にはそんなことしか言えなかった。先輩の目が少し赤かった。
「家に帰って一人で昼ごはんを食べて午後の部活に出るわ。あなたはどうするの」
「家で昼ごはん食べませんか、母さんがアンデスのランチをごちそうします」
「うれしいわ、だけど突然で悪くないかしら」
「先輩は都合が悪いですか」
「パパはいないし、残ったごはんを温めて目玉焼きと野菜炒めを作るくらいなの、お母さんにも会いたいし、行ってもいいかな、すごく楽しみ」
この学校は休みの日は私服で登校してもいいことになっている。昼ごはんを食べてから一緒に登校すればいい。
いつもの通り濃いスープとごはんとサルタード、つまりフライドポテトの昼食だ。僕が台所から食卓に運んだ。もともとペルーの料理は薄味だが、日本の米やジャガイモ、唐辛子、タマネギで作ると味が濃くなる。先輩は珍しそうにサルタードをつまみ、大豆をつぶれるまで煮込んだスープを飲んだ。次にタマネギと細切りの鶏肉炒めが出た。トウガラシの効いた塩味の料理だ。母さんが手をふきながら台所から出てきてスペイン語で僕に話しかけた。中村先輩は驚愕した、僕がびっくりするくらいだ。あの冷静な先輩がこんなにあわてるなんてと僕は笑った。
「だって日本人だと思っていたから」
母さんは優しく先輩を抱いてペルー式の挨拶をした。
「日本人と間違えてくれて私はうれしいです。私は日本に来て本当に良かったと思っています。息子と親しくしてください」
僕は通訳したが自分のことを頼むのは妙な気持ちだった。ようやく先輩も立ち直って微笑が戻った。
「建君がすばらしい曲を吹いてくれました。歌がお上手だってうかがいました」
これを通訳するのも妙な気持ちだ。
「タケルには音楽の才能があります、私はタケルに伴奏してもらうと心が安らぎます」
いいかげんにしてくれ、僕の顔は真っ赤だったろう。
先輩にどうしてもと言われて母さんは『花祭り』を歌った。僕がケーナを吹いた。歌詞はでたらめだった。故郷を離れて遠く日本に来て、私を支えてくれるのは神様と…、そんな母さんの思いが即興で歌われている。通訳しなかったので先輩は写真やテレビで見たアンデスの景色を想像していただろう。しかし歌い終わって母さんがポツリと言った。
「これはボリビアのアイマラ族の歌よ」
これも通訳しなかった。日本の歌と韓国・中国の歌くらいの違いがあるし、楽譜になっている曲は欧米風の新しいリズムだ。実は僕も民俗の響きを知らない。
ふと寂しくなった。母さんの歌に僕が伴奏して喜ぶのは、故郷の響きがあるからだけではない。日本人の父さんと半分の僕が支えあい共に生きるきずな、かろうじて生きていける弱さを保証する約束のしるしなのだ。
しかし母さんは鳥影が去っていたように笑いかけた。
「また来てください。父さんもギターを弾きます。楽しいパーティを開きましょう」
中村先輩は顔を赤くして何度もお礼を言った。雲が広がって寒くなった。先輩はコートを着て学校に向かった。僕も吉木の案内でサッカー部や陸上部を見学しなければならない。母さんの側にいてやりたかったが、強く行きなさいとうながされて出かけた。扉を開いたままいつまでも母さんは立っていた。
約束通り日曜日の10時に今井先生と奥さんが小さな車に乗って訪ねてきた。今井先生は陸上部の顧問だが部員が少ないので日曜日は自主練習にしているのだ。奥さんの手にケーキの箱があるのを見て母さんは喜んだ。
話がはずんだ。先生と父さんは山と旅の話を、奥さんは苦労しながら母さんとスベイン語で会話をした。僕は時々通訳しながら聞く側になった。
「マチュピチュは神秘な所だと思っていました。そうではないのですね」
「毎日ぎっしりと観光客が来ます。十数台のバスがピストン輸送でふもとから山頂まで往復しています」
「大観光地ですね」
「入場料が50ドル、家族が二週間は食べていかれる金額です」
「登山ができますか」
「ワイナピチュには一日400人だけ登山許可が出ます。朝三時頃から行列ができます。ふもとからマチュピチュまでは二時間半くらいで登れます。ずっと狭い石段です」
父さんはガイドだったのだ。2時間ほどかけて遺跡を一周しながら説明する。近頃はだいぶ日本人も増えてきた。父さんは研究好きなので説明も詳しくて評判が良かったらしい。
「明治になって日本の移民が住み着いてここを開発しました。すっかり生活が楽になって現地の人はいまだに感謝しています」
「そんなつながりがあったのですね」
先生の奥さんも驚いている。
「クスコの石組みに比べるとずっと粗末なものです。ここは峰に囲まれた独立峰ですから昔から聖地だったと思います。日本でも南北朝の時代に僻地のあちこちに皇子たちが隠れて御所を作ったように、インカの子孫が住みついた隠れ里だったのでしょう。棚田には丈の高いトウモロコシを植えましたから石垣は隠れて、マチュピチュは鮮やかな緑の塔に見えたと思います。インカの末裔は安らぎを得たことでしょう」
父さんは現地のガイドブックを取り出して奥さんに渡した。スペイン語で書かれている。先生を通り越して直接に渡されたことを奥さんは喜んで熱心に読み始めた。
「インカの橋があるそうですね」
先生はもう行く気になっている。
「インカ道は幅五十センチほど石垣で補強された山の桟道です。垂直な崖で道を切って五メートルほどの板を渡した橋です。踏み石が作られているので橋を落としても人は通過できます」
「それでは何のために」
「スペイン人の馬が怖かったのだと思います。クスコからの道に橋がかかっています。ドラゴンに乗った神々が雷電で人を殺しながら出現した。穢(けが)れた悪魔のようなドラゴン、彼らが見たのは一体となった人と馬だったのでしょう」
ガイドブックに疲れた奥さんは日本での暮らしを母さんに話しているようだ。父さんも長い間、日本を離れていた。僕はまるで知らない。母さんは時々質問しながら熱心に聞いている。もちろんスペイン語だ。
先生の質問は具体的になっていく。
「アンデスの六千メートル峰には登れますか」
「標高差、二、三千メートルですが、けっこう上まで村があってリャマやアルパカが放牧されていますよ」
「やはり深山幽谷ではないんだ」
「高山病は容赦なく襲ってきますよ」
僕はこのマッチョな先生が高山病にかかってひっきりなしに飴をしゃぶっている姿を想像して笑ってしまった。それで皆がようやく時計を見る余裕ができた。
「やっ、だいぶ長居をしました。昼飯の時間です」
「ペルーのランチを食べてください」
「それより私がお礼に回転寿司をおごります。車で行けばすぐです」
僕はうわさに聞いた回転寿司に行けると知って大喜びした。母さんだけが遠慮の言葉を口に出したが父さんは平気だった。
「まだ話が終わっていません、午後もよければ話しましょう」
先生は父さんとほぼ同じ年齢で、若い頃には父さんと同じように冒険をしようとしたらしい。しかし先生には『発車まぎわの駆け込み乗車』ができなかった。職業を持ち家庭を持って平凡な生活をしている。しかし子どもがいない生活はメリハリがないと言っていたのを耳にはさんだ。
「回転寿司にもうまい不味いがあります。一皿100円でも私はこだわります」
そういって先生は海のそばを走っていった。
ペルーにも海と湖があって魚料理は多いのだが肉よりずっと高い。母さんは山の出身なのでカニやエビやタコの姿には抵抗がある。実は父さんも回転寿司初体験だったのだ。日本を出たときにはこんなお店はなかったからだ。
「遠慮しないで食べてください。これは授業料です」
遠くからベルトに載ってやってきてサッと離れていく皿を先生と奥さんはひょいひょいつまんで食べている。それを母さんは一つ一つ確かめる。マグロ、イワシくらいはスペイン語で言えるのだが、次々に現れる新手の隊列に答えを探しているうちに皿は行ってしまう。母さんもあきらめて色だけで選ぶようになった。そして時折、アボガド巻きなどが流れてくると喜んで歓声をあげる。楽しい時間だ、それが午後も続いた。
「健君のことは僕が面倒をみますから安心していてください」
先生はそう言って帰っていった。
昨晩は早く寝てしまったので、その分まだ暗いうちに目が覚めた。夜明けは迎えているのだろう空が薄いブルーになっている、しかし間近に山がある家の窓には夜がしがみついている。ふと静かだなと思った、暗いうちはセミが鳴かないのだと気づいた。ペルーの夏も暑くて激しい季節だが、日本ではセミが鳴くので暑さを十倍くらいに感じてしまう。しかし、今、セミの鳴き声が聞こえないので妙に不安な気持ちになる。虫が自己の存在を叫んでいると人間の心も安定する、たとえ宇宙旅行ができても生き物のいない星に下りていくのは嫌だな、そんなことを思うと寝ているのが嫌になった。まだ僕はこの土地を知らない。まず自分の足で歩いて目と耳と頭を使って知らなければならない、そっと起き上がってTシャツと半ズボンをはく。静かに歯をみがき顔を洗って、玄関に出る。小さい家だがお父さんとママはやりくりして僕のスペースを作ってくれた。二人を起こないように、それは説明や言い訳が面倒なわけではなく、ただ寝ている二人を起こすのがかわいそうなだけだ。
その間にも空は白くなっていた。山で最初のセミが鳴き始めた。夜明けの風は吹き去ってしまったらしい、木々はそよとも動かないが、湿った根元では夜の虫と昼の虫が忙しく入れ替わっていることだろう。
海が見たくなった、歩いて15分だ。心配させないように玄関に散歩中と書いた紙を置いてきた。往復と海に30分ずつ使ってちょうど1時間で家に戻ることができる。
眠そうに出勤する男の人、犬を連れた元気な女の人、ユニフォーム姿で自転車に乗る高校生、道には思ったより人がいる。おはようと挨拶をしてくれる人が多いのにもびっくりした。普通とは違う時間に外にいる人は互いに言葉をかけあう、そうしないと不安になる、お父さんが話してくれたのを思い出した。
夕方とか早朝、まだ暗くて向こうから来る人の顔がはっきり見分けられない時間をたそがれ時、かわたれ時と言う。つまり彼は誰という意味だ。境い目にはすき間がある、その境い目から忍び出てくるものがいて人に害をする。夜と昼の境い目に出会った人は互いに自分は魔ではない、あなたと同じ人間ですと挨拶で告げあうのだ。
海に近くなるにつれて山から顔をのぞかせた太陽が照りつけた。建物の影から木の影へ飛び移るようにして歩いていく。犬を連れた人が少し多くなった。バス通りから海側は古い家が多い。塀と屋根に身をかがめるように窓がある。狭い路地に向いて狭い入り口がある。昔はこうやって風と砂と波しぶきをよけようとしていたのだろう。しかし今は海に面したところにはマンションや保養所のビルが立ち並んでいるから海は遠ざかった。家々はガラス玉や貝殻や流木を飾って、まるでいじめっ子が赤んべをするように、海にちょっかいを出している。
明治から続くお菓子屋のどっしりした建物から突き出た煙突は盛んに蒸気を吹いている。一日がもう始まっている。
砂浜に出るとあっと声が出た。正面には雲一つない富士山が左右に長く裾野を引いている。右手には丹沢の山々がひとかたまりのギザギザの峰を連ねており、左手には森戸神社の向こうに箱根の山が大地の底からムクムクと隆起した姿を見せている。江ノ島の先は湘南の、手前は逗子のビルが白く続いているのが見える。
もう漁船が何隻か浮かんでいる。波打ち際を歩いていくと老人が釣りざおを少し動かして笑いかけてきた。犬をつれた女の人が5、6人歩いている。ヨットに保冷箱を積み込む男の人、ジョギングする人、けっこう浜辺はにぎやかなのに驚いた。そして海の家もよしずを片付けて開店の準備を始めている。山とビルに光がさえぎられて砂浜にはまだ日陰が残っている。やがて砂漠の熱さになるのだろう。
ただ庭に出ていただけのようにさりげなく家に入ったが、まだ二人ともベッドで眠っていた。
確かに僕は父さんに似て耳がいいようだ。まだ小さい時に、テレビを見ていた僕が急に英語を話し始めたので母さんがびっくりしたという話がある。母さんは誰かに僕のことを自慢する時には必ずこの話をつけ加える。そんなにたいしたことではないと思うのだが、英語も日本語もなかなか上達できない母さんにとってはすごいことなのだ。
ペルーのテレビはすごくたくさんのチャンネルがある。でもペルー人が作って放送している番組は少なくて、ニュースとかスタジオの椅子に座った偉い人が長々と話をするような決して面白いとは言えない番組ばかりだ。もちろん音楽は一日中、どこかのチャンネルで流しており、母さんはリズムをとりながら仕事をしている。
僕は映画やドラマが好きで小さい時からずっと見ていた。登場してくる人たちは男も女も大人も子どもも英語を話す。アメリカで作られた番組だから当然だ。たいていのペルーの人は英語が分からない。どうやら片言で話したり聞いたりすることのできる人もドラマを見て面白がるほどの力はない。だからスペイン語の字幕がついている。僕は小さかったけれど、ドラマの人たちが話す英語を聞いて、画面に出てくる字幕を読んでいるうちになんとなく英語が話せるようになったのだ。それ以来、父さんも母さんもテレビばっかり見ていてはいけないと言わなくなった。時々、父さんは英語で話しかけてくる。僕も英語で答えるが、分からない単語があると聞き返す。父さんは必ず、英語とスペイン語と日本語で意味や使い方を教えてくれる。少し会話をすると父さんは80点とか95点とか点数を言う。つまり語学のテストなのだ。ジョークを言ったり洒落た言い回しをしたりすると百点になる。汚いスラングをまぜたりすると0点になる。そしてスペイン語で母さんに説明する。いつも母さんはうれしそうに笑って、うらやましそうな表情になる。僕はその時の母さんの顔が好きだ。
スペイン語と英語は言葉も文字も似ているから自然と覚えることができたが日本語を書くのは難しかった。しかし父さんと僕は赤ちゃんの時から日本語で話してきたし、父さんは赤ちゃん言葉を母さんにスペイン語で教えてきたので僕と母さんは同時に日本語を学び始めたわけだ。僕の方がずっと良い生徒だった。母さんは仕事や家事に忙しかったし、僕ほどいい耳を持っていなかったのでどんどん遅れてしまった。そしてそれが悔しくなるとケチュア語で父さんと話をした。そんな時に僕の方をちらっと見る、さも分からないだろういうように、目が子どもっぽく笑っている。僕はその時の母さんの顔も好きだ。子どもだって分かっている、父さんと母さんは愛情で結ばれた夫婦で、僕と両親とは血を分けた親子だ。時々、母さんは父さんを独り占めしたくなるのだが、僕はいつだって母さんと父さんを独り占めしたい。母さんと父さんがケチュア語で話している時、僕は知らない顔をしてテレビを見ている。聞こえてくる言葉も少しずつ分かってきたが僕は話さない、いずれ母さんとケチュア語で話す時が来ると思うがそれは先のことだ。その日まで僕は父さんと母さんの会話には加わらない。それが「仁義」と言うものだ、いつか日本のチャンバラ映画を見ていた時に父さんに教えてもらった言葉だ。
編入してすぐに友だちからテレビのことを聞かれた。
「ペルーのテレビってアニメがあるの」
「ピカチュウとドラエモンはやっていたよ。でもスペイン語を話していた」
「へーえ、日本のアニメなのに」
僕にはすぐに分かった、その子は日本の自慢をしたいのだ。だからすぐに返事をした。
「でもびっくりしたのはお笑い番組が多いことだよ。ペルーのテレビを見ていてこんなに笑ったことはないよ」
「そうなんだ」
たぶん友だちにも家の人にも言うのだろう。ペルーのテレビってつまらないらしいよ。アニメも古くてドラエモンくらいしかないんだってさ。実際にそうなんだ、チャンネルは百もあるのだが面白いのは少ない。でも中国語の番組があってスペイン語の字幕がついたり、もちろんフランス語やドイツ語の放送もあるので、その気になればたくさんの言葉を話せるようになる。日本のテレビは日本語しか話していないから言葉の教室にはならない。しかし、そんなことは友だちには言わない。学校にはスペイン語を話す人は一人もいないし、英語で会話のできる人もいない。僕は母さんとスペイン語で話すし父さんとは日本語と英語で話す。この人とはこうして結ばれているということを確かめられるのだ。三人が一緒に話す時は言葉が混じってしまう、それがまた楽しい。
母さんは日本のテレビがさびしいという。ペルーではいつもフォークロアの番組があった。鮮やかな色をした民族の服を着て歌ったり踊ったり、背景にはアンデスの山と草原が広がりリャマやアルパカが写っている。そんな故郷の景色を見ることができない。残念ながらそこは母さんの故郷で僕のではない。美しい景色だなとは思っても母さんのように涙をこぼすことはできない。
夜の間の激しい雨が朝になってようやく小降りになった。川の水はゴウゴウと音立てて川幅いっぱいに流れていく。
「今日はバスで学校に行ったら」
母さんがお弁当を作りながら声をかける。僕はなんとなく逆らいたくなって、自転車で行くと返事をした。僕らの学校は自転車通学OKだ。山の上には広い公園があるだけで人は住んでいない。だから朝夕に何本か学校往復のバスが来るだけで昼間は隔離されたようになってしまう。有料道路にアクセスする広い道の左右にはタヌキの出そうな草地があるだけだ。
ディバックを背負って薄いビニールのカッパを着て自転車をこぎだした。サドルとハンドルが冷たい。バス停の前にあふれていた中学生が僕を見つけた。雨なのによくやるよ、さすがペルーは強いな、あざけるような笑いが聞こえた…ような気がした。
桜田さんは相変わらず口をきいてくれない。僕が挨拶してもそっぽを向いているだけだ。何に怒ったのだか僕には分からない。各教科の先生も、最初はやさしく思いやってくれたのに、たった一週間だけで、今は僕を砂利道の石ころくらいにしか見てくれない。同級生も冷たくなってきたような気がする。
昨日、理科室で授業があった後、教室に戻ると、何人かいた男女が一斉にこちらを見て話をやめた。あごをしゃくって、ほら来たぞというように口元に笑いを浮かべた奴がいる。無視して席に座ると寄ってきた。
「おいペルー」
僕は顔も見なかった。
「お前、本当にペルーの顔しているよな」
図書室から持ってきたのだろう、図版はマヤの象形文字の写真だった。
「これはマヤだよ、ペルーはインカ文明だ」
そんなことも知らないのかという調子が出ていたらしい、そいつ、川田という乱暴者がムッとしたように僕にのしかかってきた。数名が周りを取り巻いた。
「どっちも不潔だってことよ、ゴミ」
他の生徒も続々と教室に入ってきたが様子を察して外に出て行く者が多かった。
こいつら僕が泣けばいいと思っているんだな、一瞬そう思ったがここで喧嘩はしたくない。
「ゴミって言ったのか」
「そうだよ、もっと言ってやらぁ、ゴミ、ゴミ、ゴミ」
突然、おかしくなって笑いそうになった。ゴミ収集車と川田の姿がだぶって思い浮かんだからだ。
周りの者は身構えた。僕は立ち上がって一番弱そうな奴を押しのけて輪の外に出た。
「待てよ、ゴミ」
僕は無視したが、きっと何か起こるだろうと覚悟した。しかし昨日は何もなかった。
自転車置き場から階段を登っていく。自転車の数も少ないし人影もない。濡れた落ち葉はムギッというような音を出してかわいそうだった。ようやく昇降口に着いてカッパを脱ぐと声をかけられた。
「岸井くん、気をつけるのよ」
吉野さんという眼鏡をかけた目立たない女の子だった。
「川田たち、悪いこと計画しているわ。ネットのアドレスとかブログとか、スマホの番号とか絶対に教えてはだめよ」
「それって何、僕、なにも持っていないよ。父さんはインターネットやっているけれど」
吉野さんは笑わなかった。
「あいつら悪質、いじめる相手をいつも探しているの、前に小沢くんも」
「先生は知っているの」
「教室ではいい子ぶってるし、第一、先生はネットなんて見ていないわ」
吉野さんは消えてしまった。まるで天の声のようだった。
僕は大人しく席に座っていた。今朝も桜田さんはすっと座って真正面しか見ない。僕なんかいないも同然だ。そして最後の方になってあの数名がドヤドヤと入ってきた。僕の脇をすりぬけざま「死ね」「ゴミ」とつぶやいて行く。学活が始まった。4時間目は自習なので図書室で静かに本を読むように伝えられた。きっとその時だ、何か起きる、僕は唇をかんだ。
取り囲まれるだろう。大きな奴が正面に立つ。汚いとかゴミとか国に帰れとか口々に言うだろう。下を向いていた僕が突然、顔を上げてゆっくりと全員を見回す。にらむより笑うより無表情な方がいい。小さな声で「それで」と言おう。きっと大きい奴が「死ねよ」とか言って胸倉をつかむだろう。
シュミレーションをしているとなにか浮き浮きしてきた。桜田さんがチラッとこちらを見る。他にも僕に注目している生徒がたくさんいる。
僕は立ち上がる、素早く…がいいかノロノロがいいか。奴が手を離すまで黙っている。皆の見ている前では殴れないのだ。取り囲んでいる連中もここまでくるとびびっている。「ただのふざけ」が「けんか」になると先生が出て来て指導する、ときには親が呼び出される。
もう一回「それで」と言う。たぶん、この辺で図書委員とか学級委員が「静かに自習してください」とか「席についてください」とか注意するはずだ。それでこの場の勝負はおあずけになる。奴が単なる乱暴者だったら、場所と時間を決めて勝負することになろう。もっと根性曲がりの嫌な奴だったら執拗に嫌がらせをするだろう。ともかくサイは投げられた。
さっきから桜田さんの視線を感じている。好意的ならいいなと願っている。
教室へ帰る廊下で吉野さんが言葉をかけてくれた。
「強いね」
すごくうれしかった。
「次の手に気をつけて。相談にのるわ、役にはたたないかもしれないけれど」
「小沢…くんは」
「学校に来なくなったのよ」
「なぜ皆、助けてあげなかったの」
「…だって、ふざけているだけだと思ったから」
「そんなはずないよ、皆知っているんだ」
「…私がいじめられるようになってしまうといやだし」
最初は弁当を取り上げられて、教科書にいたずら書きされて、ノートを破かれて、キーホルダーやゲーム機を取られて。
「それって犯罪だよ、見ていて訴えないのも罪になるんだよ」
「転校してしまいたいと思ったこともあるよ、だけど我慢していればクラス替えもあるし、卒業してしまえば終わりだし」
吉野さんの声がだんだん小さくなった。
「私、帰る、がんばってね」
吉野さんは走っていった。責めてしまったのかなと反省した。
雑草ほど根が深いんだ、という言葉を思い出した。目に見えている所は少しだけ、そこに力を送っているのは土に隠れて広がっている根、ボスが川田でないことは分かっている。その他の連中も「虎の尾を借りたキツネ」つまり使いっぱしりばかりだ。親分と対決しなければ僕がいじめから抜け出しても、次に誰かが獲物になってしまう。
中村先輩なら知っているのだろう、ブラバンで聞いてみよう。僕が顔をのぞかせると先輩は待っていたように話してくれた。
「トラブッたってね、もう話が伝わったわ」
「どんなグループですか」
「3年のヤンキーのヤスシとタカヤよ」
「アメリカ人?」
「ばかね、茶髪でピアスでチェーンなんかジャラジャラさせているワルよ、バイクにも乗るわ。だけどリーダーは羽田よ、3年になってから転校してきたの。でもまるで学校に来ないでヤスシとタカヤをボーイフレンドにしてワルをしているの」
「えっ羽田って女の子なの」
「パシリに万引きさせたり、いじめている子からお金を取ったりするの」
「先生も困るね」
「この前なんか授業中にバイクで校庭を走り回ったわ。それから門に鍵をかけるようになったの」
「僕が初めて来た時には開いていたよ」
「先生って意外とガードがゆるいのよね。担任の鈴木先生だって前の授業がどこまで進んでいたかすぐ忘れるし、小学校の先生もそうだったわ。でも、そういうゆるい世界って私は好きなんだ」
ペルーもゆるい世界だから時間はテキトウだし学校の規則も緩かった。休み時間におやつを食べに行ったまま帰らない子もいた。
「日本の学校って箱の中に物を詰めているように感じます。制服を着てチャイムで行動するとか、規則通りにするとか、試験もたくさんあるし、日本のスーパーも学校みたいにきちんとしているし」
「表向きはね、でも大事な所でルーズだからイジメとかヤンキーがはびこるのよ。体育祭の日は気をつけてね。去年も大変だったんだから」
1ヶ月後に戦いがある、しかし僕は不思議に冷静だった。
翌日の2時間目、鈴木先生に呼びだされた。誰かが川田のイジメのことを告げ口したのかと思って、どう答えようか考えた。先生には解決できません、なぜなら、先生はいじめたり、いじめられたりしことがないでしょう、そんなことは絶対に言えない。
話は違った。この時間は授業に出ないで、相談室、最初に僕と母さんが案内された小さな部屋に行きなさいということだ。待っている人がいます、ちょっと気味悪い言い方だ。
おそるおそるドアをノックすると、すぐにハイ、ドウゾというオバさんの大きな声だった。
「私はあずまきみこ、これが名刺です」
スクールカウンセラー東貴美子、携帯電話の番号が書かれている。
「週に1日、この部屋にいます。携帯電話は24時間オッケー。悪を滅ぼし正義を守る、弱き者を助け学校の平和を支える神様仏様、私はその子分です」
シワの多い小さなオバさんだが威勢がいい。僕も調子を合わせた。
「僕は健、インカ皇帝カパックの子分、ケチュア族の勇者です」
「元気でよろしい。それで今、心にチクチクしているものは何ですか」
「皆が僕に対して少し冷たくなったかなということです」
「勇者はチヤホヤされて喜ぶものではありません。友だちに親切にしてもそのお返しを求めるものではありません」
「僕のことを大嫌いだという人がいます」
「すべての人を好きになるなんて神様でもできません。大好き、少し好き、まあまあ許せる、嫌なヤツ、そんなランクです。殺したいほど嫌いな人がいたら私に言いなさい」
「授業の言葉で分からないのがあります」
「メモしておいて友だちに聞きましょう。その場で先生に聞くと授業の流れが止まって他の生徒が困ります。実は君が分からないという言葉は他にも『分からない』と思っている生徒がかなりいるでしょう」
「母さんの元気がありません」
「君が元気なら母さんは大丈夫です」
ポンポンポンと答が返ってくる。よし、それならばと思った。
「東さんの悩みは何ですか」
「生徒が悩みを自分で解決してしまうこと。私の仕事がなくなります」
「するとどうなりますか」
「この部屋で私は年老いていき、やがて忘れられてしまいます」
「父さんも仕事がみつからなくて困っています」
東さんはちょっと黙った。ふつうの大人同士の会話になりそうだったからだろう、ようやく小さい声で言った。
「仕事って物々交換なの、相手が欲しいものと自分の持っているものが一致すると楽しいのだけれどもね」
東さんは元女性警察官だった、びっくりした。冒険もあったし悲しいこともあった。警察をやめた今は、学校カウンセラーとして小学校・中学校の子どもたちと話している。
あっというまに時間がたってチャイムの音が響いた。教室に戻ると、どこに行っていたのか聞きたいという好奇心の顔が一斉に僕を見た。勇者は人の幸せを願う、僕は一番の笑顔で皆を見回した。
もう森の奥ではセミが弱々しく鳴いている。しかし草むらではコオロギが鳴き始めた。
静かな朝だ、窓から吹き込む風が冷たくて目が覚めた。薄い上掛けを胸まで上げてみた。ついこの間まではこんなことは暑くてできない、季節が変わるという実感だ。
時計を見ると4時半だった。ふいに何かをしなければならないという衝動がわきおこった。何をしよう、とりあえず着替えて外に出よう。隣の部屋で眠っている父と母を起こさないように忍び足で歩いていくと自然に笑いがこみあげてきた、ドロボウの喜び。
ようやく白んできた北の空には大きな焚き火のような雲がわいていた。それが次第に淡いピンク色になって、もっと明るい赤になっていく。
眠っている家々をどんどん通り過ぎていった。犬の散歩の老人に会って挨拶する。少し緊張しているのが自分にも分かったが、お爺さんは気にもとめずに行ってしまった。
太陽が昇ったあとの雲は無愛想に曇った死んだ色になっていく。
前の日の雨でたくさんのセミたちが地に落ちたのだろう。葉かげで雨をさけている仲間が一匹一匹と力つきて地に落ち水に流されていくのをじっと見ていたことだろう。
土の中で、温かく静かで満ち足りて平穏な日々を過ごしてきたセミたちは命の最後の時に地上に出る。それまで身を守ってくれた透明で固く軽いよろいのような殻を脱ぎ捨て、弱者となって穴から出る。ギラギラとにらみつける太陽、破滅をもたらす鳥や虫やケモノや人間の恐怖、雨と風、最後の仕事となる交尾を全うできずに死んでしまう者は多い、固い殻だけを残して。
セミの定めも過酷だなと思う。もちろん七年もの土の中の生活は地上の二週間のためにあるのだが、自分を束縛する殻がなくなったとたんに死が隣り合わせになる。自由に空を飛ぶ代償は高価だ。
父さんの仕事はなかなか見つからない。年も45才だし25年も海外生活をしていたのだから当然だ。プライドを捨てて何でもするのか、それとも幸運が舞い降りるのを待つのか、しかし世の中は不況の最中だ。インドの時代だ南米の時代だ、俺の語学は貴重な財産だ、父さんは威張って言っているが、ヒンディ語やペルー語を大事にする会社はまだ見つからない。
ついに父さんは近くにある企業の研修センターでアルバイトを始めた。
宿泊して研修を受けている人のために朝食と昼食を用意する。20人の日もあり40人の日もある。朝の5時からビュッフェの朝食を作り、昼のスープやカレー、スパゲッティのソースを煮込む。午後の時間に会社を回ったり職安に相談に行ったりする。がんばって運転免許も取ってきた。しかし思い通りにいかなくて疲れて帰ってくる時が多い。そんな晩は、三人でアンデスの曲を奏でた。時には食事の前のこともある、そういう時は父さんのストレスが大きいのだ。窓の外には曇り空がのしかかるように広がっていた。曲からは間違いなくアンデスの冷たい風が吹いていた。
「まだ食べていかれるから大丈夫、気を大きく持ってアンデスの空のようにアマゾンの流れのように悠々と生きよう」
母さんは何か言いたそうだったので僕が代わって聞いた。
「どうして父さんは帰国を決めたの」
「母さんも賛成だった。お前も日本に帰りたいと言ったろう」
「移民の人たちが懐かしがっていたしね、どんな国だか知りたかった」
「帰って良かったかい」
「まだ結論は出せないな」
僕と父さんは「会社の面接ごっこ」をする。しかし、なぜかペルーのことは話したくないようだ。父さんが旅した国はたくさんあるから話題には困らない。
「インドには町の中に象がいるそうですね」
「そればかりかラクダも歩いています」
「あぶなくないですか」
「衝突すると自動車の方がひどい目に会います、だから動物も人間も大変のんびりと歩いています」
「赤ちゃんもカレーを食べるのですか」
「はい、朝昼晩カレーを食べます」
「みんな裸足だそうですね」
これには父は異議があるのだ。
「日本だって明治時代まで裸足の人がたくさんいたんだ、政府が裸足禁止令を出したくらいだ。インドでは裸足が合理的なんだ。それで後進国だと思うのはまちがっている」
「乞食とかホームレスが多いそうですね」
「乞食はカーストで伝統的なちゃんとした職業だ。道ばたに寝ている人はたくさんいるがホームレスではない、なぜならそこが家だからなんだ」
父さんはデリーの町を話してくれる。オールドデリーには大きな寺院や城があって人がひしめきあって暮らしている。ニューデリーは新しい町で森のような公園の中を広い道路が通っていて人々はゆったりと暮らしている。孔雀が羽を広げている上の木の枝には猿やリスが遊んでいる。
お金持ちは天まで積み上げるほどの宝物を持ち、貧しい人はたった1枚の着物しか持っていない。しかし、お互いになんの悪意も持たずに暮らしている。
母さんはペルーを懐かしがっている。
「ペルーで大切なことはね、アマスーア、アマケーヤ、アマユーヤ」
小さなころから何度も教わった言葉だ。ケチュア語で、盗むな、怠けるな、うそをつくなという意味だ、ケチュア語はスペイン語よりも現地の人にはなじみがある。
昔、インカの国はこの三つの掟で治まっていたという。人々は挨拶にもこの言葉を使っていたという。モーゼの定めたのは十戒、仏教は五戒、それに較べればインカの国はずっと平和だったのだと言って父さんは笑う。
「でもペルーの役人はコイマ(わいろ)を取るし、市場にいけばバンバ(まがいもの)の品物がたくさんあるよ。一日中座っているだけで仕事をしない人もたくさんいるからアマケーヤというのも守られていないよ」
僕が言い返すと母さんは悲しそうに目をそらせた。
「いつの時代にもどこの土地でもそうだったのさ、だから理想ということをいつも人間は求めるのさ」
父さんがなぐさめてくれた。
「フジモリもそうだったの」
母さんが話題を変えたのでびっくりした。
「フジモリはアマスーア、アマケーヤ、アマユーヤを思い出させてくれたわ。自分たちが誇れる国、誇れる歴史、誇れる人々、でもやがて独裁者になってアマスーアの掟を破ってしまったの」
「なにを盗んだの」
僕は分からなくて聞いてみた。
「国を、人々の国を自分の思い通りにしはじめたのよ、自分だけに感謝を要求してきた、神様とすべての人々に感謝する心をなくしてしまったの」
「そうかもしれない、そうでないかもしれない、あの人は教養があり賢い人だ」
父さんには日系人という身内意識がある。
「人気取りのパフォーマンスはしたけれど本当に庶民の苦しみ悲しみには目を向けなかったわ」
「それでも前の大統領よりはずっといいだろう」
「あなたは日本人、私はインカの末裔。だからあなたは大晦日になっても私に黄色いパンツはくれない」
ママは笑って食事の仕度を始めた。
ペルーでは大晦日には黄色いパンツをプレゼントしあう習慣があるのだが、父はばからしいと思っている。僕にもなぜ黄色なのか分からない。
次の朝、たぶん母さんは少し冒険をしてみる気になったのだろう。母さんではなく母さんという名の女の人になって歩き始めた。美味しいパン屋さん、けれどいつも売り切ればかり…を通り越してトンネルを越える。暗い道がこわくてポケットの中でロザリオをまさぐった。トンネルを出ると道路脇に木のベンチとテーブルが置いてあった。座っていたお婆さんが優しく挨拶してくれた。落ち葉に囲まれて杖を手に静かに座っているお婆さんはおとぎ話の森の精のようで、さっと気持ちが明るくなった、まるで心もトンネルをぬけたようだった。茶色い建物はステーキ、スペイン風の洒落た建物にはビストロと書いてある。クスコもマチュピチュも急な斜面の町だから石畳の坂道は歩きなれているが、こんな平坦な道を歩くと体がふわふわするようだ。美容院があって、トラットリアがある。赤と黄色のダリアがきれいに咲いている。
母さんは驚いて立ちどまった。大きな門の中は左右に緑の垣根が続いていて、幼子を見つめるマリア像が立っている。そして奥から子どもの声、そう思って奥を見ると生け垣の先にも大きな門があり、正面の白い建物の屋根には十字架が見えた。
古い時代のヴィラというような2階建て建物で細かい窓の桟と物見のような尖塔が美しい。
白い山茶花が咲いていた。誰かに叱られそうな気がして母さんは心配しながらそっと門の中をのぞいてみた。白いスペイン風の建物があった。小さな子どもたちの声が聞こえている。気持ちが和らいでにっこり笑ったとき修道女の姿をした人がこちらを見ているのに気づいた。
「おはようございます」
「あの、おはよう」
たどたどしい日本語を聞き取って女の人はニッコリした。
「ここは祈りの家です。どうぞ聖堂にお入りください」
手まねを添えて案内してくれた。
ひきつけられたように母さんが二つ目の門を入っていく清々しい聖堂がある。母さんは長い時間かけて祈りの文句を繰り返した。
入り口で待っていてくれた人は、水色がグレーになったようなフワッとした上っ張りを着てベールをかぶっている、さっきと同じ修道女の服装をしたお婆さんだった。
母さんは思わずスペイン語で挨拶した。
「Hola ¿Esta iglesia es católica?(こんにちは この教会はカトリックですか)」
「Ése es el derecho usted vino bien. ¿Cuál es un país?(そうです ようこそいらっしゃいました お国はどちらですか)」
それがペルーの修道女と同じ雰囲気だった。母さんは涙が流れるほどうれしくなった。スペイン語で話ができる、それもシスターと話ができる、母さんにも家族に話せないことがあるのだ。
「あなたはどうしてメスティーソのスペイン語を話すのですか」
「この修道院にはラテンアメリカやフィリピンの教会で暮らした修道女がいます。私もメキシコに長い間おりました」
「うれしい」
母さんは修道女にとびつき、修道女も帰ってきた娘を抱く母のように受け止めてくれた。
「私、不安です。夫のことも子どものことも、神様にお話ししています」
シスターは真面目な顔で母さんを見つめると聖堂の奥の建物に案内してくれた。窓の大きい明るい部屋の正面に色ガラスでイエス像が描かれており左右に十字架とマリアの立像がある簡素な部屋だった。
「お茶をさしあげましょう」
母さんは両手でカップを持って温かくて甘い紅茶を飲んだ。
「他にも教会はありますがあなたにはここの方がお祈りしやすいかもしれません」
シスターは穏やかに言って自分も紅茶を飲んだ。
「どちらから、そうしてもうどのくらい」
「ペルーから、そうして一ヶ月くらい」
「神様にお祈りしましたか」
「はい、そしてシスター様にもお話したいのです」
カトリックの母さんはマリア像を部屋に飾り、ロザリオをいつも離さない。しかし日本に来てから教会に行っていない。家から見える山の中腹に尖塔を立てた教会はプロテスタントだった。聖堂には幼子を抱くマリア像も聖人像もなくガランとしている。その簡素で厳しい雰囲気はペルーの役所を思い出させて、母さんは怖くなって逃げ出した。駅のそばの教会は英国国教会だ。そこでも母さんは祈りを捧げることができなかった。なぜこんなに色々な教会が日本にはあるのだろう、母さんにとってカトリック以外の教会は日本のお寺や神社、イスラムのモスクと同様に不安で不気味な世界なのだ。
「Mi corazón estaba aliviado.(私の心は癒されました)」
そう母さんが言うと修道女はニッコリした。
「Cuando usted es requerido, por favor vengasiempre.(あなたが必要なときにはいつでもおいでなさい)」
門が開かれた。悔い改めの告解がしたいと母さんは願った。シスターは、私にはできないが神父さんが日曜日に来ます、ただスペイン語が話せない、どうしましょうと言った。心の闇と怖れ、罪の意識はスペイン語で話さなければ真実にならないような気がする、母さんはそう言った。では告解ではなくお話をしましょう、心が軽くなります、シスターは微笑んだ。この修道院はイエズス孝女会といいます、フィリピンと交流しているのでスペイン語を話すシスターが何人もいます。いつでも門は開かれています。
それから昼まで母さんは話し、シスターは聞いてくれた。僕の知らないこと、多分、父さんも知らないことがあるのだろう。シスターは昼ご飯を誘ってくれたが、母さんは、こんなうれしい温かい気持ちのまま家に帰りたいと言った。神様は私をじっと見ていてくれる、それを確信することができた。迷うことはない、ここで生きていけばいいのだ。大事な家族、これから作る思い出が大事なのだ、過去のことは神様に預けよう、そして、この気持ちにまた影が差したらシスターが助けてくれる。
そうだ教会のバザーに贈り物をしよう、みんなの喜ぶものを、何がいいだろう、しなければならないことがあると楽しいわ、家に着いても母さんは楽しそうだった。
夕食後、父さんの携帯電話が鳴った。
「今度の土曜日に『昔のダチ』が来る。一晩語り明かすだ。母さん、ご馳走を頼む」
珍しく父さんが浮き浮きして言った。
曇り空が二日続いて土曜日は晴天になった。午後になってもつやつやの青い空には雲一つない。日本にもこんな空があるんだ、母さんもアンデスの空を思い出しているようだ。澄み切った乾いた空、人間とは何も関わりを持たない、そして人間も空の下で黙々と生きていく。それに較べれば日本の空は優しかった。
昼過ぎに「こんにちは」という細い声が聞こえた。僕は真っ先に玄関に出た。その人は父さんと同じ年だというが頭が薄くて背の低いずいぶん年寄りじみた人だった。挨拶もそこそこに父さんはビールを出してきてうれしそうに「乾杯」などと言っている。
ひとしきり昔の話が続いた。
「俺は世界中を旅して回った。初めはアメリカやヨーロッパなどの憧れの国に行った。どこも物価は高かったがアルバイトの賃金もよかった、日本料理を覚えたよ、家では台所に入ったこともなかったけれどね」
すごく懐かしそうに言うので、僕は父さんがまたどこかに出て行ってしまうのではないかと不安になった。
「世界中に日本人の若者たちが散らばっていた。父さんはすぐにインドの魅力を吹き込まれた。そこでカードを盗まれて家とのつながりが絶えた」
曽祖父は父さんが持って行ったクレジットカードの契約を切らなかったらしい。本当に困った時はお金を引き出すから居場所が分かるという。
「なんだ、お前さんは最後の所では家族に甘えていたのだな」
『昔のダチ』はずけずけという。
「インドには怖ろしい緊張感と、生きていることさえ不思議に思えるような緩んだ時間があった。つまりクラゲのように水に浮かんでいるだけの時もあれば、腹ぺこな鮫がかみつくものを探して歯をむきだしている、そんな時もあるということだ」
「お前さんは耐えられなかったんだな」
「そうだ。俺はまた放浪した。1971年まで1ドルは360円だった。10ドルあればインドでは金持ちだった。それが80円を切ろうとしている。しかし、ペルーでは現在も年収が200ドルだ」
「3万ドルないと日本では暮らせないぞ」
「困っている。しかし今は忘れよう。現実逃避の話をしよう」
誰それの噂話がはずんでいる。僕は母さんと洗濯物をたたんでいた。
「へぇ古墳が発見されたのか。昔、秘密基地を作ったところだな。ちょうどいいや、明日は古墳を見に行こう。この鬼頭先生はこう見えても専門家だ」
父さんが大声で僕に言った。
「どう見えるか知らないが、お前さんが放浪している間、俺は勉強していたんだ」
「だからこんなに爺になってしまったのか、かわいそうな親友よ、何、まだ独身だって、母さんのような美人を探してやろうか」
しかし僕は「古墳」という言葉を知らなかった。
「コフンって何ですか」
「お墓には違いありませんが、人々の心のよりどころ、つまり記念碑でもあります。それよりも、古代の人にとっては偉大な王の魂がいつまでもこの地に留まって、守り手として力を発揮してもらいたい気持ちが強かったでしょう」
「神社と同じだな」
父さんが言うと先生は出来の良い生徒を褒める顔になった。
「いい答です。先祖を神として祀る、家康も東郷元帥も神社に祀られました。つまり日本人は今も昔も同じことをしています」
「教会だって聖人を祀っているからな。カレンダーには『その日の聖人』の欄があって、毎日、違う名前が書いてあったよ」
「キリスト教は一神教ですが、カトリック教会には聖人の名前をつけています。神社もそれぞれ違う神様を祀ります」
先生の話はどんどん広がってしまう。
けれど僕は素直に驚いた。
「それってすごくないですか」
僕は思わず大声で聞いた。
「だって1600年も前の遺跡が今まで見つからなかったなんて、大発見だね、誰のお墓なんですか」
しかし鬼頭先生は普通の顔をして言った。
「分かりません」
「世界で一番大きい墓を知っているかい」
父さんはビールでだいぶ顔が赤くなっている。
「マチャピチュ」
「いやあれは墓ではなくて都市だよ」
「なら中国だ、秦の始皇帝のお墓。それともピラミッドかな、ただしエジプトのだよ、メキシコのではない」
僕は偉そうに言う、前に父さんに教わったからだ。
父さんが先生の顔を見て答を求める。
「正解は日本の仁徳天皇陵です。前方後円墳で縦が約500メートル横が300メートル高さ35メートルあります」
さすがに先生だ、数字まで覚えている。
「それ…って、どうして…古墳だと…分かるので…すか」
僕の日本語は緊張すると途切れ途切れになる。
「言い伝えがあります。昼は人が作り夜は鬼が作ったと。古代の通りに工事をすることにしたら、一日二千人働いて十年、予算が一兆円かかるとある建築会社が計算しました」
「そんなに金をかけて大きな墓を作るのはなぜだ、やはり王様の権力欲かね」
父さんが悔しそうに言う。父さんは威張っている者は大嫌いなのだ。
「持てる力にふさわしいものを、それは今も昔も変わりません。巨大なビル、豪華な車、テレビに出演してちやほやされること、昔は大きな墓を作ることでした」
「死んだら終わりだ、潔く」
「古代人は、いや現代人もそうは思っていません。後に残すのです、事跡と名前と子孫を」
「くだらんと思う」
父さんが大声で言う、先生もうなずく、しかし、僕の聞きたいのは別のことだ。
「なぜ、それが仁徳天皇の墓だと分かるの」
「父さんに聞くな。鬼頭大先生の出番だ」
先生はもうすっかり赤くなった頭を両手ですっとなでてニヤリと笑った。
「お前さんは逃げ足が速い、昔も今も同じだ。では、ご指名でございますので一席弁じさせていただきましょう。その墓に葬られている方は仁徳という名前ではありません、オオサザキノミコトと申しました」
父さんがまずびっくりした。
「では親父が教えてくれた神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊というのはウソかい」
「あれは平安時代になって淡海三船という人が朝廷に命じられ、自分で考えて勝手につけた名前です。本当の名はイワレヒコ、ヌナカワミミ、シキツヒコ、ヒコスキトモ、ミマツヒコなどと申します」
「なぜ、そんなことをしたんだろう」
「中国の皇帝風にしたかったのでしょう、見栄です。中国に手紙を出しても、ミマツヒコなんて漢字で魅魔図卑古と書かれたらかっこ悪いですから、まだヒラガナもカタカナもないし、第一中国では通用しません」
話はおもしろいが、古墳からどんどん外れていく、僕は先生の顔をじろじろ見た。
「まあ、とりあえず明日は古墳を見に行こう。そして我らが秘密基地の思い出話などをしよう」
母さんの料理はおいしい。体は小さいのに先生は驚くほど食べる。外はすっかり暗くなっていた。
「腹一杯のあとは一曲だぜ」
父さんがうれしそうに部屋からギターを持ってきた。母さんはガラス窓を確めて厚いカーテンを引いた。
「ご近所に悪いから…」
「俺の声はいいのだが、このお客人はね」
「悪いとでもいうのですかな、この名代のボーカルに」
父さんは調弦しながらつぶやいた。
「昔、俺たちは長髪だった。お前はヒゲまで生やしていた。ああ歳月人を待たず。昔これ紅顔の美少年」
「グチはよそうぜ、500マイルだ」
軽快なカントリーミュージックが流れる。父さんも先生も気取って鼻にかかる声で歌っている。
「花はどこへ行ったの、ジョン・バエズだ」
「ビージーズだぜ、ホリディ」
ビートルズは有名だが、二人は歌わない。なんかのこだわりがあるのだろう。日本の曲も出てこない。
「俺は海外に向けて羽ばたいたのか、それとも踏み外したのか」
父さんがポツンとつぶやいた。たちまち先生は父さんの顔を正視して猛烈に言った。
「今さらなにを言うか。覆水(ふくすい)盆に帰らず、振り返って美しいのは見返り美人だけだ」
この先生の話には分からないことがある。
「マリアンヌ・フェイスフルを覚えているか」
「リトル・バードだ」
哀しげな歌だった。このくらいの英語なら理解できる。風に乗って軽やかに飛んできた鳥が枝にとまる。青く透き通ったような小鳥だ。しかし不吉な死が予感されている。
「復活したんだよ、それもゴーストという曲だ。魔女のような顔で魔女のような声だ」
先生が身を震わせて言った。
「この歌のころは天使だった。ところがデビット・ボウイという悪漢と結婚し酒と麻薬でボロボロになった。そこからゴーストが立ち上がった」
「俺にも厳しい試練の時があったよ」
父さんがボソリと言って母さんの手を取った。
「しかし、お前は生き続けた者の顔をしている。死者が甦ったゾンビではない。ましてゴーストでもない」
先生が正面から父さんの顔を見ている。
「天使だったころのマリアンヌ・フェイスフルの歌だ、イン・ザ・ナイトタイム、俺に独唱させろ、姿かたちは老人でも心は若いぞ」
先生はおどけたように目をくりくりさせて歌い終わるとビールを飲み干して母さんに向って言った。
「いのちの またけむひとは たたみこも へぐりのやまの くまかしがはを うずにさせ そのこ」
「なんだそれは、スペイン語のつもりか」
「いやヤマトタケルの歌だ。今、あなたの命は光り輝いている。なつかしい故郷の聖なる木の葉を髪に飾って永遠の命を願おう。これはお前の奥方様を讃える俺の賛歌だ」
父さんがあわてて通訳すると、母さんはにっこり笑ってお辞儀をした。
「アンデスにも聖なるコカの葉があり命を強めるというんだ」
「樹の命は長い。たぶん古墳の主はヤマトタケルの親愛な弟だろうな」
また先生のはったりか。
「なんでそんなことが分かるの」
「明日、古墳で聞いてみなさい。私にはそう教えてくれた」
「本当にお前は研究者なのか、神がかりか、論理性が感じられないぞ」
「研究にはインスピレーションが大切だ」
「よし、では俺がインカの神を讃える歌を聞かせてやる。託宣をいただくがいい」
父さんがそう言ってギターを弾いた。三人はいつものようにアンデスの曲を奏でた。僕はケーナを吹き、母さんが歌った。
『Fiesta de la queburada Humauaquena paracantar.』
『ウマウアカの祭りだ、歌い明かそう』
二人はずいぶん遅くまで飲み語って盛り上がた。友だちっていいなと思った。きっと寝坊するだろう、昨晩の約束なんか忘れてしまったにちがいない。
しかし翌朝、僕が起きた時には先生はすっかり仕度ができていた。
「朝飯前の散歩にはぴったりです。寝ぼけたパンダのお付き合いなど不要、私たちだけでいきましょう」
落ち葉がきれいだった。ふんわりと積もった上を歩いていくのはもったいなかった。赤と黄色のモミジの葉、黄色いブナ、ナラ、カシの葉、薄紫のはなんだろう。木々は自分の姿を見せている。どの木も少しずつ色彩が違い枝の広がりが違う。この季節には、たくさんの木が集まって一つの山を作っていることがはっきり分かる。
「おっと気をつけて、山芋を掘った穴です。昔、お父さんとよく掘りました。必ず穴は埋めたものです」
「危ないからですか」
「なんのなんの。残った根から芋が育ってまた取れるからです」
先生は山道をヒョイヒョイと登っていく。しかし驚いたことに、今、歩いているのはフルート練習場への道だった。この前、先輩の言っていたお墓というのは古墳のことだったのか、しかし、そのことを話すと先生ががっかりするような気がして黙っている。今、先生は古墳を発見した人の気持ちになりかかっている。
僕の呼吸は荒くなったが、先生は平気で歩き続ける。
「昨日の話、そうそう仁徳天皇陵でしたね。あれは百舌鳥古墳群の中で一番大きい大仙陵という古墳ですが、大きいから偉大な仁徳天皇の墓だろうということになったのです。江戸時代の初め元禄の頃に修復されて正式に仁徳陵になりました。それまではただの山で豊臣秀吉もそこで狩をしたそうです。今は厳重に柵で囲んでありますが、昔は弁当を食べてヤブでトイレなどしたのでしょう」
秀吉は知っているけれどそんな姿など想像したこともない。
「なぜ江戸時代になって、わざわざ手入れをしたりしたのですか」
昨晩から聞きたいことだった。
「江戸幕府の3代将軍徳川家光は皇室を大事にする勤皇思想の持ち主だったからです。皇室を崇拝する姿を見せれば自分も同じように崇拝されます。家来というのはそんなものです」
「だって江戸幕府を倒したのは勤皇の志士たちでしょう。幕府は勤皇だったのですか」
「そうです幕府は勤皇でした。だから幕末にもう一回修復事業をしました。文久の頃、開国か攘夷かの議論が始まったので、幕府は世論に気を使って古墳を修復し、勤皇であることを人々に見せようとしました。それが政治というものです」
勤皇の幕府を、なぜ勤皇の志士が倒したのか分からない。それが政治というものです、などと脱線しそうなので聞かなかった。
「その時に誰のお墓だか分かったのですか」
そういえば父さんは僕らを連れてお墓参りをしていない。東京のお寺にあるそうだが。
「左様、崇神天皇の墓はたぶん確かです、箸墓もヤマトトトヒモモソヒメ、つまり魏志倭人伝にいうヒミコの墓だろうと思われます。戦乱の時代に、天皇の墓などすっかり忘れられてしまいました」
練習場の手前に案内板があった。中村先輩は何も言わなかったし僕も立ちどまらなかったので気づかなかったのだ。言われてみれば道標もある。
しかし古墳はどう見てもただの山だった。太い樹が茂り、こんもりした丘は秘密基地にはぴったりだった。
「ここは戦場にもなりましたし、楽しい宴の場にもなりました、古代のことではない、私たちが子どもだったころの話です。あの樹の上には見張り場がありました。敵の姿が見えるとカラスの鳴き声、一同はサッと隠れます。だから散歩の人が一休みなどしてしまうと大変に苦しい思いをしました。木の幹にしがみついたりヤブで腹ばっていたからです」
先生は立ちどまって来た道の遠くを指差した。
「古代の街道はあそこに続いていました。今は住宅地です。そこから分かれて海を見渡す山の先端に行く道がここです。この墓に葬られた人は山の道と海の道の支配者だったのでしょう。権力を持っていた、しかし慕われてもいた。死者を弔う宴会は6日続きました。そして土に埋め、墓が完成した時にここに移しました」
ついこの前のことのように言うが、きっと先生の頭の中は古代も現代もごちゃまぜになっているのだろう。
「ヤマトタケルですか」
「いえヤマトタケルは東国で戦いヤマトに帰る途中、ノボノという所で死にました。魂は白い鳥になって故郷に飛んで行きました。勇者の魂は見えるものです」
「するとこのお墓は誰のですか」
「ヤマトタケルはヤマトの勇士という名前です。この名前を持つ人は何人もいたことでしょう」
「ジョージとかフェリッペとかいう王様が何人もいたみたいにですか」
「タケルは何百人かの家来を引き連れていました。この地にも古くからの豪族がいたことでしょう。オトタチバナ姫も一緒でした。ここから半日ばかり歩くと走水です、そこで姫は舟から海に身を投げました」
「なぜ」
「という古いお話です」
ふと先生の表情がぼんやりした。
「ヤマトタケルとオトタチバナ姫は深い愛で結ばれていました。海神が荒れ狂った原因はタケルが無礼で神をないがしろにしたから、祝詞も捧げ物も不満足だったからでしょう。そこでオトタチバナは自分の身を神に捧げました。身代りです、タケルはアズマハヤああ我が妻よ、と嘆きました。その思い出は心の傷になりました、という古いお話です。最愛の人を失う辛い話です」
最後のつぶやきは自分の思い出のように聞こえた。
「いいお母さんですねラウアさん、いい名前だ、太陽という意味だそうですね」
それは知っていた、いいお母さんという言葉にも素直にうなずいた。
「古代の人もアマテラスオオミカミ、つまり太陽を一番大切に祀りました。古代の一日は夜に始まり朝を迎え日が沈むと終わりました。人間の一生と同じ感じです。暗闇に生まれ日の出に育ち、昼に栄え夕闇とともに没する」
「一番明るいのが昼ご飯の時、いつですか、先生にとっては」
先生があんまり重々しい顔をしているので僕は少しふざけて聞いてみた。
「私?今まで幸せだと思ったことは何度もあります。しかし、この先には、もっと幸せだと思うことがあるでしょう。さあ帰ってお父さんに悔しがらせましょう。昔、月と星が太陽を誘って旅行したそうです。旅館で太陽がいつまでも寝ているので、二人はさっさとでかけてしまった。ようやく起きた太陽が、ああ、月日のたつのは早いものだ。これは小話ですよ」
僕には何だか分からなかったがハイと言うのが礼儀だと思った。
先生は朝ごはんを食べるとさっさと帰っていった。別れを惜しむ気はありません、なぜなら、また来ますから。後姿がそう告げている。
先生が言っていた朝市にいくことにした。母さんは市場が好きだ、というより売っている女の人たちと話すのが好きだ。たいていはしわだらけのお婆さんだが服装は派手だ。悩み事があれば良い知恵を授けてくれる。
「朝市というのは観光客相手だから雰囲気が違うよ」
父さんが心配してくれたが僕らは楽しみにして出発した。
ついに学校を休んだ。夜のうちから熱が出てひどく汗をかきセキが出始めた。すっかり風邪をひいてしまったらしい。学校を休んで夕方までうつらうつらしていた。
呼び鈴が鳴った。洗濯物をたたんでいた母さんが玄関に出て誰かと話している。
「タケル、サクラタさんという友だちが来たよ、プリントを持ってきた」
あまり会いたくなかったので寝ているふりをした、僕の顔はきっとぼんやりしているだろうから。
「寝ています、すみません、読んでくれますか、日本の字は難しいです」
桜田さんの声、イチゴ味のムースのような柔らかい声が聞こえた。何度も言葉を易しくして母さんに分かるように話している。そして母さんがようやく理解して、うれしそうに笑うと、一緒に喜んで笑ってくれた。
母さんは軽くウィンクした。そう、その通り、あなたの心が私に伝わりましたという感謝の表現だ。こんなことを言葉にしていると大事な香りが蒸発してしまうから。
しかし桜田さんは棒を飲んだように直立して、おずおずと、しかし冷たく聞いた。
「ラウアさんは私になぜウィンクしたのですか」
母さんは驚いて黙ってしまった、泣きそうだった。
「ごめんなさい、あなたは良い人、親しい人、大切な人、私そう思いました。それで自然にウィンクしてしまいました」
「ウィンクというのはそういう気持ちでするんですか」
「私いろんな人に助けられます。それで、うれしかった時にウィンクをしてしまいます。ごめんなさい」
母さんは泣きそうな目で桜田さんを見つめた。桜田さんの頬は真っ赤になりみるみる涙が目にたまった。
「ウィンクっていやらしいことだと思っていました。悪い男の人がよくする、私、建君に謝らなければ」
僕は寝たふりをしている。
「いつか建君がウィンクしたので私は怒ってしまって、嫌なやつと思っていたのです。そういう習慣の違いを知らなくて誤解していました。ごめんなさい」
母さんに分かったのは、この少女が自分の間違いを認めて詫びているということだ。それで優しく肩を抱いてLo quiero.あなたが大好きよ、と繰り返しつぶやいた。
桜田さんは顔を真っ赤にして母さんと握手した、もちろん僕は寝たふりをしている。
「お茶にしましょう。ケーキがあるの」
鬼頭先生のケーキが残っていた。二人は話したり笑ったり楽しそうにしている。今さら起きることもできなくて僕はつらい時間を過ごしているうちに、また眠ってしまったらしい。目が覚めた時には窓の外にはもう薄い闇がカーテンのようにかかっていた。窓を開けると冷たい風が吹き込んでくる。ひとかたまりの雲がリボンのように引きちぎられた端っこを引きながら流れていく。台所では母さんが歌いながら夕食を作っていた。
「いいお友だち、明日は学校でタケルにごめんなさいって言うって、今度クッキーの作り方を習いに来るって」
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