第四章 昭和22年

 オットーさんはエミールを日本の学校に入れたいと言った。横須賀の基地にはアメリカ人学校があり黄色く塗ったスクールバスが走っているのだが、せっかく覚えた日本語を練習しなさいと言って入学を勧めた。もちろん僕らは大喜びだ。
 もっとも僕らの学校はまだ大混乱だ。教育制度が変わって国民学校は小学校となり、六三三制といって中学校までが義務教育になった。新制中学校は葉山小学校に併設され、僕らも中学生になるのだが校舎も教科書も何もない。新聞紙くらいの大きさの紙が裏表に印刷されているのが教科書、それを四つ折で切り離して32ページの冊子にして綴じる。それでもベタベタ墨を塗って何がなにやらわからなくなった教科書より良かった。
野口先生は学校をやめた。佐伯先生は3年の担任になった。先生方は戦場帰りの人が多くて怒ると怖かったがエミールが入ってくるとずいぶん変わった。国語の先生はエミールに気遣いして、その結果、他の生徒にも親切に教えてくれた。英語の先生は、時々エミールの顔をうかがっては発音を確認した。そんな風に先生方が気を遣うようになったので生徒はゆったりと授業を受けることができた。
 エミールの日本語はみるみる上達した。なにしろ学校でも遊ぶ時でも僕らが一緒だから当然だろう。
 長柄川の土手も今では子どもが隠れられるほどの丈になった。草は一晩ごとに育つ。タンポポは綿毛になって飛んで行ってしまった。その代わりに白い花、黄色い花、紫、桃色の花が太陽のほうに向いて一杯に笑いかけている。風が香る季節というのだろう、戦いに負けても季節は変わりなく移っていく。
「あのライトパープルなのは何?あそこの山のななめのところだよ」
 礼子は目ざとい。
「もう桐の花が咲いたのね」
「藤の花だよ」
 僕は言い返した。礼子の言い方が上から目線でなんとなく気にさわる。
「桐よ、木の梢で咲いているでしょ。それに藤の花は終わったわ」
 そうなのだ、それは知っていたのに逆らってみせたんだ。
「私、桐の花が好き、水彩絵の具の薄紫よ」
 僕はこだわった。
「一番は藤の花だよ。藤棚の下から見るとすごいよ、それにいい匂いだし」
「桐の花は清らかで上品だわ、まるで初陣(ういじん)の若武者みたい」
「そんなことを言うと軍国主義だと追放されるぞ」
 洋二がまじめに言う、GHQはお芝居も小説も禁止した、戦争をあおったというのだ。
「若武者と言ってなぜ悪いの、前髪立ちのきれいな少年よ、武田勝頼とか明智十次郎とか森蘭丸とか、みんな討ち死にするの、お芝居に行きたいな」
「GHQなにか悪いことしましたか」
 エミールが心配そうに聞いた。オットーさんは力強くて優しい頼れる人だ。日本の軍人は空威張りばかりしていた、学校の先生もそれを真似していた。あんな人たちが戦争を始めたのだ思っている。
「マッカーサー元帥のおかげで日本がよくなったって母ちゃん喜んでいるよ」
 民主主義っていいものだ。父さんと母さんは対等、男と女は平等、大人も子どもも同じ人間なんだ。
「ああ良かった、お父さんも日本大好きだから日本のために働くのはハッピーだって言っているよ」
「エミール、父さんに言ってよ、お芝居って軍国主義じゃないのよ、見ている人は泣いたり笑ったりするけれど、それはお芝居だって分かっているから。アメリカでもそうでしょ、お芝居が見たいな」
「うん、お父さんに言っておくよ」
 桐も藤も忘れられてしまったが、やっぱり僕は藤が好きだ。
 木々は葉を茂らせて新しい緑の着物を着ているようだ。僕らはツギだらけのボロ服を着ている。謎々を思いついた。
「寒い冬の間はハダカ、暑い夏になると重ね着するのはなんだ」
「変な謎々」
 そう言いながら礼子が一生懸命になってエミールに説明している。するとエミールがひらめいた。
「それは木です。でもカナダの木は冬になっても厚いオーバー着たように葉が落ちません、ソフトウッドと言います」
 土はたっぷりと水を含んで座れば尻がびっしょりと濡れる。ウグイスは少しずつ山の方へ移動している。ツバメがせわしく飛び交っている。巣ができたので卵を産む準備だ。スズメも忙しい。カラスも子育てを始める。他のことなどかまっていられない。虫たちも出てきた。数日前からカエルが鳴いている。
 
 4月に総選挙があり、吉田茂という人が内閣総理大臣になった。11月に日本国憲法が施行された。大日本帝国という国の名前も日本とだけになってすっきりした。憲法の最初に軍備を放棄すると書かれた。もう他の国と戦争をしなくてすむ。戦争は政治の最後の手段だ、政治の敗北が戦争だ、政治さえしっかりしていれば戦争は起こらない、そう言って立候補した人もいた。
 婦人参政権が確立し、女の人の政治発言が活発になり井戸端会議の話題も豊富になった。ちょうど僕とエミールが通りかかると引き止められた。
「わたしはね、アメリカさんって本当にいい人ばかりだと思うよ。この間も兵隊さんがオハヨって向こうから挨拶してくれたんですよ。日本の軍人なんか威張っているだけで、それでも負けたんだからね」
 野菜を洗っていたオバさんだ。続いて赤ん坊を背負ったお母さんだ。
「進駐軍の力で平和になったんだから、みんな進駐軍を尊敬しますよ」
 エミールがたまりかねて言った。
「僕のパパはアメリカ人だけど進駐軍にはイギリスもオーストラリアもソ連も中国も混じっているだ」
「なに進駐軍とアメリカさんは違うのかい、へえ、だけど決めているのはアメリカさんだろ、だからこんなにテキパキしてるんだ」
 学校に遅れるから、そう言って走って逃げ出した。
 
「日曜日は海に行こうよ、潜って魚を突くんだ」
「んだ」
 ニヤッと笑う。エミールが面白がってわざと方言で話す。ハウスキーパーの君枝さんの影響だ。
「だろも、あちさんにはあんまつーじねーみてーらね」
 晴れた大潮の朝だった。
「焼いて食べたらうんめーがって、がんばってくらっしゃい」
 海岸には日本人立ち入り禁止区域があり、いつもMPが銃を構えて警備している。しかしエミールの顔を見て片手を上げて挨拶した。
「ハーイ、モーニング、ゲストOK」
 エミールも元気よく声をかけるとたちまち海に入った。海岸は二つに仕切られている。岩場があり潜りやすい右手は外人専用、オンリーと言っている。左側が日本人用、混雑している。当然エミールは右に入る。僕らはエミールのゲストだから堂々と右に入る。以前は岩場のアワビなど獲ったら漁師にひどく怒られるのだが、オンリーの海岸では何をしても大丈夫だ。戦争でよかったことなど何もないが、魚や貝がめっきり増えたことだけはうれしい。
 突然、接収された海辺の家から銃声が響いた。僕らは緊張した。エミールもびっくりしてMPの方を見ると笑っている。面白がって軍人と家族がピストルを撃つのだそうだ。旋回してきたトンビを撃ったが、下手だったのか酒に酔っていたのか外してしまった。僕らは嫌な気分になった。日本のトンビではないか、戦場では銃口が日本の兵隊に向っていたのだ。
 アワビとタコと、なにをまちがえたのかイカが一匹迷い込んでいた。あとはおいしくない小魚数匹だけ。
 
 週に3日、君枝さんが手伝いにくるので節子さんもゆとりができた。
「春山夫人に畑のものをお届けするの、ご一緒しませんこと」
 日曜日の午後、母が節子さんに誘われた。僕も興味があったのでついていった。
「春山夫人は子爵というご身分ですが、ご実家は伯爵家、恋愛結婚されたのよ」
「すてき」
 母は誰に対しても妹のように若々しい。
「もう十年になるかしら、ご主人が事故で亡くなられてからこの別荘で一人暮らしなの、教会には来られるが信者さんではないの」
「お寂しいのね」
「春山夫人、今、大変お困りなの」
別荘は教会の奥の丘の中腹にある。晴れた日は相模湾の向こうに江ノ島、その先に富士山を望むことができる。もちろん葉山の別荘はどこも富士山を望むのだが、修道院のとがった屋根越しに見る富士山はまるで外国の景色のように美しい。
 部屋に通された。優雅なフランス窓に花が飾ってある、しかし家具も調度品も何もなくガランとしていた。
「新タマネギとキャベツです。召し上がっていただけますかしら」
 春山夫人は色が白く優雅で白鳥のような…というと褒めすぎで、すこしずんぐりしているのでガチョウのような…では怒られるか、そんな女の人だ。
「うれしいわ、ヨシさんにもお分けしましょう」
「大丈夫、もうお届けしてあります。ヨシさんもお元気です」
 修道院で働いているお婆さん、ヨシさんは夫人の乳母だったが、戦時中、修道院も教会も軍が閉鎖してしまった時、夫人はその管理をヨシさんに頼んで施設を守ってくれた。
「なにもおもてなしができませんのよ」
「春山夫人とお話ししているだけで心が癒されますわ」
「こちらは梨口夫人でしたわね、あなたは坊ちゃんね、どうぞ家をご覧になってくださいな、何もないので広々していますこと、三階の窓からの見晴らしがいいのよ」
 節子さんと母は昔の社交界の話を聞きたがった。僕はうれしくて家の中を探検して回った。三階に昇るラセン階段があってワクワクする、あちこちに彫刻があって面白い。
「殿方は金モール、ご婦人はローブ・デコルテをお召しになって、お裾を持つお小姓は学習院の生徒さんたち、ちょうどあなたの息子さんと同じ年恰好(としかっこう)でした。ブルーのビロードの服にナポレオンのような羽飾りの帽子を背にされて、皇后様には四人、妃殿下には二人ずつが従って、それは優雅でしたこと」
 節子さんと母はため息をついている。
「私の結婚式のことをお知りになりたいっておっしゃるの、夢のような昔ですね」
 節子さんと母はまた女学生のように話をせがんでいる。
「私の実家は武家華族なので新郎は衣冠束帯、新婦は袿袴(けいこ)と決まっていました」
 ちょうど桃の節句のお雛様の同じ衣装だ。家族と家の職員、親類筋や来賓、旧藩の人たち、都合3度の披露宴がある。和食、次に洋食、最後は和食、お客によって変えていく。
「伊勢海老が美味しくてこっそり夫の分も食べてしまったのよ、ヨシさんに見られて怖い顔をされたわ。そう、こんなものをお見せしましょう、笑わないでね」
 小さな銀の器だ、ふたの表面には桜の彫刻。
「ボンボニエール、金平糖とかボンボンを入れる箱、式の引き出物、これだけは手放さなかったの」
 本当はツクシとかワラビの絵にしたかったのに職人が嫌がって満開のサクラの花になった。花は散るし毛虫が出るわ、春山夫人は顔をしかめた、きっと夫人にも困った毛虫が出たのだろう。
「夫は外交官でしたけれどまだ見習い、現地で自動車事故にあって死にました。実家の父母は帰ってこいと何度も言いましたが、私はここで暮らしています」
「私も夫が帰ってくるのを待っているんです、戦死したという通知が信じられなくて」
節子さんが悲痛な声で言った。
「信じてあげてね、きっと帰られるわ」
 夫人が優しく言うと節子さんは泣き出した。春山夫人はキリストを抱く聖母マリアのように節子さんを両手で抱いた。
 僕の方をチラッと見て母が言った。
「またお伺いしてもいいですか」
「お待ちしてますわ」 
 春山夫人の声は深いアルトだ。

 オットーさんが訪ねてきた。今日のお土産はビスケットと紅茶だ。さっそくご馳走になった。
「マッカーサー元帥というのはどういう方ですか」
 待ちかねたように父が質問する。僕も同席するようにうながされた。
「きさくで飾らない人でした、以前はね」
 マニラに司令部を置いていたころは崩れかけた建物でもテントでも平気で暮らしていた。しかし今では日本でも数少ない立派な建物を本拠にしている。
「あの一角は空襲から免れましたからね」
「当然です、空軍に爆撃するなと厳命したのです。そういう意味では思慮深い」
「なるほど、それで今はどんな方になりましたか」
「演技者です」
 オットーさんは複雑な表情で言った。マッカーサーが尊敬するのは実父とペリー提督だという。あの江戸幕府を脅して開国させた海軍軍人だ。ペリーはオランダやロシアのように江戸幕府に友好的な態度は見せなかった。威厳と高慢をあからさまにして権力に服従する癖のついた幕府役人を翻弄(ほんろう)した。
「降伏調印をした戦艦ミズーリに掲げてあったのは、昔、ペリーが掲げた当時の古い国旗です」
 マッカーサーは軽々しく人前には現れない、絶対に自分からは譲歩しない。天皇陛下が会見を申し出るまで待ち、普段着の軍服のままで会見した。
「新聞にその写真を載せて、GHQ司令官が日本で一番の権力者であることをアピールしました」
援助物資を手配し、海外に残された日本人を帰還させる手段を講じ、日本の制度と組織を改革した。
「本国からは占領政策が生ぬるいと激しく非難されていますが断固として柔軟な態度は変えません。つまり慈悲深い王様を演じているのです」
「さすが自由の国では総司令官を批判できるんですね」
「いくら私でも総司令官に面と向かってあなたは間違っているなどといえませんよ。軍人であるかぎりはね、部局の対立もありますし将軍たちも戦友同士ではありません」
 GHQの組織も複雑らしい。
「元帥が気にかけているのはなんですか」
「ソ連です」
日本の混乱とソ連の望むところだ。シベリア帰還兵にも徹底した思想教育を施し、革命の芽を育てている。
「アメリカにとって次の戦争は間近です」
 父は考え込んでいる。オットーさんも黙って壁を見つめている。
「日本にまた戦争が起きますか」
 あえぐようにして父が言った。
「そうならないことを願います」
「日本人は軽はずみですからね」
 オットーさんは何も言わなかったがアメリカ人も同じだと言いたいようだった。
 
 8月15日は旧盆の中日だ。今年は戦争が終わって2年目,つまり3回忌にあたる。亡くなって2年目を3回忌というのはそれほど月日が早く感じるからという意味なのだろうか、確かに誰もが忘れたがっているようだ。福厳寺は川の南側から、長運寺は北側から灯篭(とうろう)を流す。家ごとにワラを一束持ってきて川辺で火をつける。鉢に入れた水を手でふりかけ、サイノメに切ったナスを投げかけて合掌する。川辺にはいくつも火がともっている。火は風にゆらゆらと揺れてやがて燃え尽き、川の水は静かに流れて海に注いでいく。僕とエミールは灯篭を追いかけるように川下へと歩いていった。今晩は坂井さんの家にも灯火がついていた。
 長柄川が大きく曲がった所に、木々と雑草に覆われたお化けの出そうな屋敷がある。そこに入る細い道が分かりにくいのだが八百屋も肉屋も配達をしているし、めったにないが郵便屋さんも入っていく。そこには坂井大佐がたった一人で住んでいるということだった。
どんな人かと父に聞いた分からない。あまり聞きたくなかったが久保谷さんにたずねてみた。
「ああ元海軍大佐様だ、逃げるが勝ちの名艦長、日本が負けた今となってみれば先見の明があったということだ」
 いかにも意地悪な言い方だった。
「訪ねてみないか、冒険だぜ」
 僕が誘うとエミールもうなずいた。
「日本のお化けにはまだ会っていないよ。きっとアメリカのお化けとは違うだろ」
 家の中で話し声が聞こえる。僕は恐る恐る玄関の呼び鈴を鳴らした。
「どなたですかどっしりとした低い声だ。
「郷の子どもです」
「ご用は」
「大佐殿にお会いしたかったのです」
「このお盆の、それも夜に、肝試(きもだめ)しかな」
 笑うような響きがあったので安心した。
「なんだ梨口ではないか、エミールも一緒か、大佐殿、私の生徒たちです」
 灯火が明るくなって佐伯先生が顔を出した。僕らはえっと驚いた。
「いたずら猿どもがついに俺の居場所を突き止めたのかと思ったよ、上げてやってもいいですか」
 卓を囲んで4人が座った。
佐伯先生は久保谷さんの家を飛び出した後に偶然、坂井大佐と出会った。坂井大佐が海航空隊の司令だった時に佐伯先生が志願したので顔を覚えていてくれた。しばらくは私の家で過ごしたらどうですかと言われてここにやっかいになっているということだ。
「優秀な隊員でしたよ」
 静かな口調で言われて佐伯先生は照れている。坂井大佐はやせて背が高く目がきつい、顔も髪も灰色がかっているので、まるで長柄川の青鷺のように見えた。
「司令には助けてもらいました」
 東条首相の腰巾着(こしぎんちゃく)と呼ばれていた軍人がいた。何でも首相の言うとおり、それどころか首相が考えていることをピタリと予測する優秀な部下だった。誰もが嫌っていたが出世して少将になった。航空隊を視察して精神訓話をすることになった。チャンスだと思った佐伯先生ほか何人かがいたずらを仕掛けた。
「あいつが蛇を怖がるのを聞いていた。だから講話テーブルの真上に蛇をテグスで吊ったのさ。放送室に結んで訓話が始まればご降臨だ。蛇にはすまなかったがな」
 計画どおり蛇は急降下した。少将は真っ青になり絶句した。坂井大佐はいたずらに気づきサッと立ち上がるとマイクの具合を見るふりをして蛇をハンカチで包みポケットにしまった。
「失礼しました。マイクが直りました」
 そして、これは極秘にしましょうと耳打ちした。誰も処罰されなかったが隊員はしっかり見届けた。
「東条が辞めた後に彼は前線の司令官になりました。もう追従できません、自分で考えて判断を下さなければならない、しかし、それが一番の苦手なのです。ついに前線視察を自分で自分に命令して飛行機を飛ばして逃げてしまいました。それでも軍法会議は開かれない、なぜなら軍は身内の恥を隠すのです」
「大佐はなぜ航空隊を辞めて予備役になったのですか。あの少将の仕返しですか」
「執念深い人ですから忘れなかったと思いますよ。私が黒幕だと思ったのでしょうかね。快哉(かいさい)です、生涯で数少ない大勝利でした」
「それは済まないことをしました」
「私は信念に基づいて退官しました」
 そんな昔話に佐伯先生が気持ちよさそうに笑っている。このごろ先生は気落ちしてつまらなそうな顔をしていることが多いので僕らは心配していたのだ。学校中で一番人気のある先生だから元気で陽気な顔をしていないと皆が落ち込む。
「先生、それなら僕らがいたずらしても許してくれますね」
「いやな相手ならよろしい、けれど、もし俺を相手にいたずらを仕掛けたらただではすまさないぞ」
「民主主義では誰も同じ権利と義務があります。先生であれば誰もがいたずらを受けなければなりません」
「それが中学生のデモクラシィですか」
 坂井大佐が笑いながら言った。
「佐伯君、いたずらは甘受しなければなるまいね、生徒の愛情表現の一種だよ。大人よりも子どもの方が進歩的ですね」
 遅くなったから帰りたまえ、いつでも来てください、歓迎する、二人の声に送られて僕らは家に帰った。

 しかしエミールと僕は坂井大佐のことをもう少し聞いてみたかった。あの宴会の時に海軍の話をしていた芝さん、元海軍上等兵のところに行ってみた。
 戦争帰りの人たちには喜んで戦争の話をする人も多い。
 坂井大佐をご存知ですか、すかさず話が始まった。
「えっ、今ここに住んでいるのかい、知らなかったよ。ああ名艦長だったと戦友から聞いているよ。どっかの海戦で潜水艦の魚雷攻撃をくらった時、航跡がみるみる近づき、全速前進、時速70キロだぜ、ここで素人は怖くて速度を落とすから艦首に魚雷が当たるんだ、艦長は何もためらわずに取り舵一杯すぐに面舵一杯、ここで素人はモタモタするから艦尾に魚雷が当たるんだ、長さ160メートル、幅15メートルの巡洋艦をおもちゃのように操ったそうだよ」
 白い航跡を残して進む軍艦の姿をうっとりと目に浮かべている。
「すぐに艦首を立ててテキパキと全速前進、なぜなら潜水艦が一本しか魚雷を打たないはずがないだろう。二本目を回避、三本目を回避さ、鮮やかだったそうだよ」
 続いて空から来た。
「敵の爆撃機の編隊が側面から突っ込んできた。今まさに爆弾を投下しようとした時に主砲20センチ砲が一斉発射、ゼロ照準だから砲口を出たとたんに砲弾が爆発する、たちまち数機がバラバラになって落ちてくる」
 まるで戦時中の武勇伝だ。
「ギリギリまで待つ、これが戦さ慣れした人の胆力だ、艦長を信頼すれば部下はいくらでも勇敢になれるものだ。潜水艦だって爆撃機だって軍艦を狙った方が手柄になるだろ、だから艦長はいつも一番危ないところに艦を持っていくんだ。軍艦が輸送船に隠れているなんてバカなことはないよ」
 坂井艦長は艦の動きを完璧に制御した。
「艦長なんて1年でころころ変わるんだ。艦種が変われば操艦はまるで違う。同型艦だってクセってものがある。出陣の直前に艦長副長が変わることもあったよ、だから機関長も砲術長も上の命令を軽んじて勝手にやるし上も司令できないのさ。よくそれで戦闘ができるね。実際、海軍武官として大使館に務めていたなんて人が急に艦長になる。何もできやしないよ」
 なぜ退官したのか聞いてみた。
「知らないよ、偉い人には事情があるんだろ。こちとらは兵隊だから自分では何も決められないんだよ」
 
「誰か日本の軍隊のことをよく知っている人を知らないかな、この文書は軍隊用語ばかりで意味がよく分からないだよ」
 パイプを吹かしながら分厚い書類を読んでいたオットーさんが聞いた。
 エミールと僕は顔を見合わせた、チャンスだ、坂井大佐を紹介しよう。エミールが早口で父親に話した、もちろん英語だ。
「その人とすぐに会えるかな」
「成り行き次第です」
 この意味はエミールには分からないだろう。困らせるつもりの言葉だから意地悪だ。
 僕とエミールは走って坂井大佐の家に行った。元海軍大佐は相変わらず縁側の揺り椅子に座って本を読んでいた。
手早く話したが、坂井大佐は少し困ったように僕らの顔をじっと見ている。僕らは精一杯、善意を顔に現した。僕よりもエミールの真剣な顔が好感をもたらしたようだ。
「ではオットー大尉にお会いしましょう。なかば公式訪問になります。用意をするので待っていてください」
 承諾してくれたことを報告しにエミールが先に家に走った。
 僕は久保谷老人が在郷軍人会に出席する時に、あれだこれだともったいをつけて気取ったのを思い出し、いやな気がした。しかし驚くほど早く支度を終えた坂井大佐が玄関に出てきた。階級章も軍刀もつけていなかったが海軍大佐の白い制服だ。
「海軍はすることが速いのです。段取りはいつも頭に入っています」
僕の驚いた顔を見て満足そうに大佐はつぶやいた。 
 道は10分とかからずオットー邸についた。あわてて出迎えたオットー大尉に坂井大佐は敬礼して英語で自己紹介した。いよいよ大尉は大あわてだ、いくら戦勝国といっても大尉と大佐では位が違う、おまけに急いで結んだネクタイがひん曲がっている。しかし二人は当たり前のように英語で話しはじめた。
 ローラさんがお盆にコップとウィスキーを載せてきた。僕らにはオレンジジュースが渡される。坂井さんは勧められた椅子に座り、大尉は背筋を伸ばして向かいあった。
「ほらパパが苦労しているよ、坂井さんがキングズ・イングリッシュを話すのでパパもアメリカなまりを出すまいとしているんだ」
 エミールがそっと言った。もちろん中身は分からないが、坂井さんの英語は上品でていねいな響きだった。ローラさんに目で合図されて僕らは、失礼しますと言って台所に入った。
 なんだかすごくうれしくなった。たとえて言えば土の中で木の根の汁を吸っていたセミの幼虫が、今は透きとおってキラキラ光る羽を広げて飛び立った、そんな気がする。うす暗い廊下でしょんぼりと本に沈んでいる坂井さんの姿はどこにもない。
 ローラさんがパンケーキを作り始めた。バターのかたまりがじっくり溶けていく。ようやく今日は礼子も洋二も不在でかわいそうだなと思った。
料理の皿をいくつか持ってローラさんも話に加わった。2時間ばかりも話していたが二人はさわやかに別れた。進駐軍といえばなんでも物を頼もうとする日本人が多いのに、坂井大佐は何も求めないし頼まない。質問に対する回答は明白、的確、学識は豊かでオットーさんは舌を巻いている。
「なぜ日本海軍は敗れたのですか」
 あとからエミールに聞いた話だ、オットーさんは坂井大佐に率直に質問したそうだ。
「日本海軍は日露戦争で戦い、アメリカ海軍は現代で戦ったからです。つまり大艦巨砲対レーダー潜水艦航空機です」
 軍隊は一つ前の戦争で戦う、という名言があるそうだ。日本海軍はバルチック艦隊を撃滅した勝利が忘れられない。
 逆に坂井大佐が質問する。
「真珠湾攻撃は事前に察知していましたか」
「はい、ニイタカヤマノボレ一二〇八、暗号には攻撃日まで書いてあるので謀略ではないかと思ったほどです。そのことを知っていた大統領は後に査問されました」
 オットー大尉はなぜ真珠湾の成果、つまり航空戦を生かさなかったのか質問する。
「海軍長老は艦隊決戦の信奉者です。軍は官僚化し保守的で、出世のためには上司に逆らわない事なかれ主義がはびこっていました。山本五十六提督でさえ困り者扱いでしたし、真珠湾とマレー沖海戦の大勝利でいよいよ嫌われました。嫉妬(しっと)と排斥(はいせき)です」
 オットー大尉はなおも聞く、まるで裁判のようだ。
「それなのにあなたは戦わなかったのですか」
「私は巡洋艦の艦長から航空隊の司令になりました。特攻に反対して予備役となりました。しかし私はプライドにかけ戦争責任を負っていきます」
「陸軍は好戦、海軍は非戦だと聞きました。現に戦犯となったのは陸軍ばかりです」
「陸軍は中国で戦い、海軍は太平洋で戦いました。日米の戦いを仕掛けたのは海軍です。しかし海軍は終戦時に占領軍に協力を申し出て取引しました。アメリカ軍は海軍に勝ったので寛大な面があります」
「海軍は昔から英国が好きだったはずです」
「第一次大戦の時に地中海に出撃してから嫌いになりました。ドイツがそこにつけこんで日本を取り込みました。私はヒットラーの本を原文で読んでいます。彼は日本を軽蔑していますが翻訳本はそこを隠しています。軍人も一般人も知らずに熱狂したのです」
「戦争を起こしたのは誰ですか」
「戦争がしたい軍人、それを怖がる政治家、金儲けの軍事産業、戦争を煽り立てた報道、それに乗せられた庶民、誰もが共同責任を負います。ところが当事者全員が自分は悪くないと思っている。あの恐るべき特攻を命じた人までが」
 坂井大佐は目を伏せた。心の底からわきおこる苦しみだ。
 坂井大佐を見送ってオットーさんは言った、偉い人だね。敵がああいう人ばかりだったらパパはまだ戦場にいるよ。
 それは最大の褒め言葉だよ、エミールが言った。

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