エミールを誘って海に行こうとした。風のあとはワカメが打ち上げられる。しかしエミールはローラさんと出かけていた。オットーさんは一人で薪を割っていた。カツン、カツンといかにも楽しそうないいリズムだ。ジープとか洗濯機とか何でも機械でするアメリカ人が薪を斧で一つずつ割っているのが変だった。そのことをオットーさんに言ってみた。
「こんな楽しいことをなぜ機械にやらせるんだね」
「だって薪割りは力がいるし、疲れます」
「それがいいんだよ」
話はすれちがった・
しかし僕は今日は聞きたいことがある。 オットーさんが笑顔を見せているので思い切って聞いてみた。
「オットーさんは日本が好きですか、それはなぜですか」
じっと僕の顔を見た、鋭い目だ。しかし、すぐに微笑が返ってきた。
「君は日本が好きですか」
「戦争をした悪い国です、校長先生もそう言っていました」
またオットーさんの目が鋭くなった。
「こういうことに人の考えを取り入れてはいけません。君自身が思うことが大事です」
そうだ僕は日本のことをあまり知らないのだ、そのことを素直に言ってみた。
「その通りです、自分で見たこと考えたことを大事にするのです。本を読み人の話を聞くのもそのためにするのです」
そう言ってこんな話を聞かせてくれた。
まだ子どもだったころ、大人たちが黒人やヒスパニックや東洋人を差別しているのを見た。肌の色や体つきが違う、英語の発音がおかしい、それだけで劣った人々にしてしまう。オットーさんは思った、すべての人は平等だと定めた独立宣言をアメリカ人は誇りに思っている。それなのに実際は平等ではない。
軍に入って日本語を勉強したのは憎い敵に勝つためだった。しかし日本の本を読んだり歴史を調べたりしているうちに色々なことに気づいた。
「日本もアメリカと同じような移民の国でした。それは二千年か三千年前、もしかすると一万年かもしれません、あちこちからこの島に人が渡ってきました。先住の人たちは温かく迎えいれました。みんな肌の色も言葉も違う人たちです」
その影響は今に残って、未だに日本人は色々な顔をしている。アジアのどこの国の顔も日本人の中にはそろっているようだ。
「アメリカに最初のイギリス人が上陸した時も先住の人たちは温かく迎えてくれました。しかし、その後はまったくだめです、移住してくる人に憎悪まで感じています。昔の日本のようにすべての人が融合して一つの文化を造るようになる、そうなればアメリカも文明国と言えます。それができるでしょうか、そのお手本が日本です」
僕は顔が熱くなった。戦争中、大人の真似をして支那人だ朝鮮人だと馬鹿にしたことがあるからだ。大人は言った、日本人は優れている、それは大和魂を持っているからだ。ところが戦争に負けたら、日本は劣っている、民主主義の精神がないからだと叫んでいる。
オットーさんは僕の気持ちを見通したらしい。
「私が言ったのは短い時間のことではありません。百年、千年という間のことです。怒りや憎しみは喜びや優しさと同じ人間らしい感情なのです」
「僕はアメリカで生まれたかった」
オットーさんは僕の肩をやさしく叩いた。
「アメリカ生まれの私が日本大好き、日本生まれの君がアメリカ大好き、人間というのは面白い。だから私は人間大好きです」
放課後に作業を手伝ってくれる者はいないか、佐伯先生に声をかけられた。応募したのは僕と礼子だけだった。何かの案内状を折りたたんで封筒につめる、ゴム印を押す、そんな仕事だった。黙々と作業するので少し飽きてきた。
「いい機会だ、君たちの将来を相談しよう」
僕は進学したかった。昭和23年に学制が変わって、以前の中学校が高校になった。国民学校が中学校に変わったのと同じようなものなのだが、新制高校は入学選抜試験を「あってはならないもの」と決めたのだ。定員が大きく上回らない限り希望者は全員受け入れるという。
近くには公立の横須賀高、横須賀女子高、三崎水産高、私立の開成高、三浦高がある。もちろんお金がかかるし、3年の間は勉強するだけで家の厄介になる。
礼子はさっさと進学を決めていた。
「戦争が終わって一番よかったことは中学校に通えるようになったことです」
礼子がいつになくしんみり言った。
「本当は勉強がすき、でもお父さんは別荘の女の人が書斎で本を読んでいたのを見て、生意気そうでいやだね、大工の娘に学問はいらないと平気で言うの、だから進学したいなんて言えなかったんです」
戦前の横須賀には中学校が公立私立各一校ずつ、もちろん男子だけだ。それに比べて女学校はいくつかある。男子には海軍兵学校か職工の養成所という選択肢もあったが、女子には就職か裁縫とか料理とか実業の花嫁学校を出て、軍人か勤め人と結婚するというコースしかなかった。
「大工の娘なんかって言うくせに、結婚相手は会社員だ銀行員だ医者はどうだなんて言うの、さすがにもう軍人とは言わなくなりました」
僕も戦争中は悩んでいたのだ。兵学校に入れば戦争に行く。中学生になってもすぐに学徒動員だ。職工になれば戦場には行かないが、空襲がある、日本中が戦場だった。戦争が終わるなんて考えもつかなかった。
「高等女学校って成績がいい子数人だけでしょ、勉強が好きっていうのと試験で良い点を取るのとは違うのよ」
それはそう思う。先生の言うことを丸暗記して忘れない才能があれば試験で良い点は楽々取れるのだ。
「それに高等女学校はセーラー服が着たいからっていう見栄っぱりの子が志願するの。私は勉強してお医者さんになりたいのです。昔は高等小学校を卒業してもバスの車掌かデパートの売り子、お茶くみくらいにしかなれませんでした」
戦争が終わって初めて僕も将来の希望を持つことができた。女の子たちは兵隊にならないから、大人になったら何になるという夢を持つことができたのだ、僕はちょっと驚いた。
「でも女ではなかなか医者の資格が取れないらしい、不公平でした。今は民主主義の時代だからもう大丈夫、まず勉強をして、もっと世の中を知りたいのです」
話し始めると言葉がとまらない。家では何も言えなくてじっと黙って考えていたのだろう。
「礼子はずいぶん色々なことを知っているね、どこで本を読んだのだい」
佐伯先生はちょっとびっくりした。
「お屋敷よ、お父さんが修繕したお屋敷やら別荘で、私、こう見えても顔が広いんだから」
「足も太いよ」
雑巾が飛んできたが当たらなかった。わざと的を外していることは僕には分かる。
「吉屋信子とか菊池寛とかも読んでいるのかい」
「読みました。だけど好きなのは『おてんば娘日記』です」
「本なんか読まなくても十分おてんばだよ」
今度は鉛筆が飛んできた。
「だけど、本に書かれているのはお金持ちにしかできないことばかり、吉屋先生は鎌倉にお住まいなのよ」
「ほう、知らなかった」
佐伯先生は本当に知らなかったのだ。
「だって片瀬マンジュウとか極楽寺の星月夜の井戸なんていう名前が出て来るでしょ。兄の太郎さんも姉の雪子さん、フィアンセの東益(とうます)さんも暮らしにまったく困っていないし、北海道に避暑に行ったりして。太郎さんと東益さんはナショナル党だなんてマヌケのように言っているけれど、戦争中は日本中が愛国党だったわ」
僕は佐伯先生の顔を見たる先生は苦しそうにうつむいていた。
「…戦争が終わって本当によかった」
僕は小さい声で言ってみた。
「よく分かった。マヌケな男たちが愛国だ、玉砕だと騒いでいた時に、賢い少女たちはおてんばができる日を夢見ていたんだね。先生が知らなかっただけだ、恥ずかしいよ」
佐伯先生は礼子の手を握りそうになったが、立場を思い出してあわてて腕を引っ込めた。礼子は自分から進んで手を出して先生と握手した。
「先生、シェイクハンドっていうのよ、エミールなんか当たり前のこと。お話の中に出てきた。『おてんば娘』は大正の頃の話だから、やはり昔なの。東益さんの故郷の東北は飢饉がある、二十世紀の文明国なのにって書いてあったけど、今は日本中が飢饉ですものね」
僕も負けずに何か気の聞いたことを言いたくなった。
「先生、ジョークを言います。先生と生徒の会話。皆さん、お母さんのいいつけはしっかり守らなくてはいけませんよ。はい、私のお父さんはそうしています」
先生がニヤッと笑った。僕は調子づいてもう一つ言った。
「先生と生徒の会話。知恵の足りない人ほど物事をすぐに言い切るものです、よく考える人はそうはしません。先生、本当ですか。まちがいありません」
今度は佐伯先生は笑わなかった。焦った僕はもう一つ。
「先生と生徒の会話。相手が退屈した顔をしているのに、いつまでもダラダラと自分の話をしていてはいけませんよ。はい、先生のことですね」
今度はしくじった。先生はムッとし礼子はゲラゲラ笑った。
「青い山脈を歌おう」
僕らは大きな声で歌い、先生はハミングした。こんなことでも僕らは幸せな感じになった、先生と生徒がこんなに親しくしている、ぜったいに戦前ではありえない。
ドアががらっと開いた。左官の幸さんが顔をのぞかせた。
「歌が聞こえたので来ちまったよ」
「一緒に歌おうか」
先生は照れ隠しにそんなことを言った。
「いや、それより先生、警察予備隊って知ってますか。8月の末に試験があるんだって、俺、応募してみようと思っているんですよ」
幸さんの顔は真剣だ。
「なんたって職人より月給取りがいいですよ、こんな仕事を爺いになるまで続けるなんてご免です」
先生は難しい顔をしたが、そんな様子に気づかずに幸さんは声を高めた。僕らもどんな話になるのか緊張して聞いていた。
「軍隊じゃないから危ないことはないし、給料はいいし、何より飯がうまいってさ」
「俺も誘われたよ」
「あっ、ではラバウルですね」
「なんだい、ラバウルってのは」
「ほら競争相手のことを英語で言うと」
「それはライバルだろ」
さすがに僕らも笑った。
朝鮮で戦争が始まりそうだから、いざという時のために一度は解散した軍隊を再編成する。勝手知った戦友同士が誘い合っているのだそうだ。
「断ったよ、もう飛行機には乗りたくない」
幸さんはまだ浮き浮きしている。
「俺は泳ぐの嫌いだから陸上の方に志願します。筆記試験とか人物考査があるんだそうで、人物考査ってなんですか」
世の中は騒然としている、共産党も社会党は大声で叫びあい、戦犯となった人たちも続々と世の中に戻ってきた。デモもありストもあり組織の中にいる人は厳しく自分の思想を表明させられている。学校の職員室も混乱しているらしく、先生が前の授業の先生を批判したりする。佐伯先生はそういうことは絶対にしなかった。
先生は幸さんに思いとどまらせたいようだった。
「よし、人物考査の模擬試験をしてあげよう。君たちは並んで試験官になる、いいね。そのドアから入ってここまで歩いてきて名前を言いなさい」
幸さんはぎごちなく歩いてきて僕らの前に立ち、大声で名前を言った。
「石渡幸吉であります」
「何才になりますか」
「この10月で21になります」
僕らとそれほど年齢が違わないのに驚いた。熱心に仕事をしたり陽気に歌ったりしている姿はまったく大人に見えた。
「なぜ警察予備隊を志願したのか理由を言いなさい」
「このまま左官をやっていてもつまらないからであります」
「あきっぽい奴を採用するはずがないだろう。尊敬する人物は誰ですか」
「はァ、考えたこともありません」
幸さんが学校にいたころは勤労動員の時代でろくに授業などがなかった。そして戦後は生きるために必死で、物など考えていれば飢え死にしてしまう。
「尊敬する人物は、たとえば…」
先生も困った。戦前なら楠正成とか乃木大将とか言えばよかった。今は誰の名前を言えばいいのだろう。僕が助け舟を出した。
「湯川秀樹はどうですか、ノーベル賞をもらいました」
「名前は聞いたけれど、どんな人か知らないもん、賞をもらったからといって俺が尊敬するっていうのは変だよ。なら水泳の古橋の方がいいや、なにしろ世界記録だぜ」
「幸さん、水泳嫌いなんだろ、希望は陸上だって言ったよ」
礼子が鋭くつっこむ。
「ダメか、ならゴマすってマッカーサーというのはどうだい」
「試験官は旧軍のお偉いさんだよ、マッカーサーでは困るな」
「では歌手の霧島昇、これなら好きな人がたくさんいるよ」
「父と答えるのがいいだろう、父を尊敬します、これがすっきりしていていい」
「父って父ちゃんだよね、尊敬するところなんて何もない」
「何でもいいんだ、父は立派です、それでいいんだ」
「人物考査っていうのはウソをつくことなんだね、そんなのは嫌だな」
「号外だ号外だ、いよいよ電車が逗子から三崎を通って浦賀までつながるそうだ」
新聞吉が叫んでいる。
大人たちは田畑の枯れ草やらツルやらを燃やし、子どもたちは芋が焼けるのを待っている。せわしくなく手をこすりながら白い息を吐いて誰ともなしに大声で話し始めた。「そうすると長柄川が大曲りになるあたりが駅だよ長柄駅だ、たぶん次は役場のあたりだろう葉山駅さ、その次が秋谷駅だね、次は大楠、お降りの方はお支度ください、出発進行」
「いつの新聞だい」
「昨日11月15日付け第一面さ、お隣さんの記事はイノシシが出て困るというやつだ」
皆はイノシシの方はうなずいたが電車の方は疑った。
「土地を買うなんていう話はまだないよ」
「なんでも三浦半島を観光地にして客を集める計画らしい。平和になったからね」
「それがお前の浅知恵だ、新聞なんてありもしない話を書いてあおりたてるものだよ、大本営発表がいい教訓だ」
この戦争中どれほど新聞にだまされたか、敵機何十機撃墜、敵艦何隻撃沈、敵軍何千撃滅、みんなウソだった。「敵」という字は全部「我が方」の間違いだった。もちろんみんなうすうすは知っていた。こんなに勝っているのに敵はどんどん攻めてくる。食べ物はなくなり兵隊さんは帰ってこない。
「あんな記事があったよな、5月だったっけ軍国の家にこの勇士だと、
大空の露と消えつもとこしえに
我が魂は国を護らん
父母でなく子でなく家でなく、ただ国だけを護れというんだ、はいそうですかそうします、とは言えないよ」
「そうだ、久保谷じいさんが偉そうに演説したよな、新聞見せながらよ。腹が立ってたまらなかったが今となってはいい思い出だね」
「兵隊さんにタニシ進上ってのもあった、国民学校のヨイコたちが川でタニシを獲って兵隊さんにあげて表彰されたんだ、長柄川にタニシはいるかって聞かれたから、ホタルはいますって言ったら、殴られたよ、ホタルは食えんってさ」
「こんなのもあったよ、三浦のバレイショ上出来、農民魂で突撃せん。その後の記事が農産物を目標に戦略爆撃だと。アメリカもバレイショに爆弾落とすなんてよほど困っているのかなと思ったら、なんのことはない他に爆弾落とす場所がなくなったんだってさ」
「お先走りが『三浦連合義勇軍』ってのを作ったな、地主や工場長や警察署長や校長が隊長になってさ、ところが郷には人がいないのさ、寝たきりの爺さんまで隊員になったよ」
ひとしきり新聞の悪口が続いた。あの戦争が今となってはいい思い出話になっているので驚いた。
ちょうど掃除の時間だった。僕らの割り当ては職員室だ。そこにスリッパのペタペタいう音が聞こえて怖い顔をしたご婦人が入ってきた。
「校長先生はどちらざます」
僕が校長室を指さすと、力一杯バタンとドアを開けてご婦人は入っていった、居眠りしていた校長も飛び起きたろう。
それから30分、ご婦人は話し続けた。僕らはこっそりと聞いていた。
「男女同権ということが憲法で定められたのに学校はまだ目が覚めていません」
校長の顔によだれの跡でも見つけたのだろう皮肉たっぷりに話し出して、後は立て板に水だ。
婦人の権利ということを知っているか、婦人は激しくしいたげられている、自由・平等ということを学校はどう教えているのか、男組女組を作ったり教室の中で男女を別の席にしたりする学校がある、まさか女性教師にお茶を入れさせてなどいないだろうな、社会の中でも家庭でも女性こそが太陽なのだ、平和を守ることが教育の使命だ、全世界が団結している。
「あの原爆の時、お母さんとさえ言えずに黒焦げになった子どもがたくさんいます」
ご婦人が『長崎の鐘』の歌を口ずさんだ。『こよなく晴れた青空を』呪いをかけられたように背筋がゾクゾクした。だけど横浜だって東京だって黒焦げになって子どもも大人も死んでいったんだ。
「今までは一人ひとりがバラバラで弱い母親でした、しかし、団結した今はパリの世界母親大会に代表を送るまでになりました。苦しい生活の中で乳飲み子を抱えてパリへ参ります。ご賛同ください、ご署名ください」
ふと僕は「お父さん」が無視されているのに気づいた。震え上がった校長は封筒に名前を書いた。そこには金額を記すようになっている。
「ありがとうございます。応分の寄付を願います。この物価の高い昨今です、千円入れてくださる方も多うございますわ、ハッハ」
校長がいくら寄付したかは知らない、しかし、僕らはこの見事なユスリに感動してしまった。封筒のお金がどこに行くのかは知らない、とりあえずご婦人のふくれたバッグにしっかりとしまわれた。悪いものを見てしまった、僕らはそっと教室に帰った。
晩にオットーさんが訪ねてきた。
「日本の人たちは元々そういう性質だったのかな、私には分からなくなってきました」
オットーさんは困った顔をしていた。
「どんなことがありましたか」
父は穏やかに聞いた。
「このままだとマッカーサー司令官はデミ・ゴッド(半神)になります」
「天皇陛下が人間宣言をして司令官が神宣言をするのですか。なんでそうなったのですか」
「日本人が自ら招いたことですよ」
オットーさんは投書の抜書きを読上げた。
『戦争協力者の追放をお願いします。わが町の大政翼賛会の発会式でルーズベルトを殺せと叫んだのは村長です』
『わが社の工場長は戦争中も良い物を食べ、年中、酒を飲んでいました。不正をする極悪人を成敗してください』
「まるでお奉行様に庶民が哀願しているようですね」
あきれて父が口をはさんだ。
「日本人は封建制を残しているのでしょうか、こんなのもあります」
『日本は完全に敗れました。世界一野蛮な国が道義正しいアメリカによって浄化され、国民の不純な点を清めてください。閣下のあの切れ味のいいお仕事が私たちには神様のように思われます』
『私の願いは貴国の旗に星を一つ付け加えて日本を一州として追加し、日本人種をたたきなおしていただくことです。なにとぞ至急お願いします』
まるで奴隷が主人におもねるようだ。
「確かに卑屈な人はどこの国にもたくさんいるでしょう」
「司令官はそれが世論だと誤解します。私は日本の民情を報告する職務があります。これをどう扱うか悩んでいます」
『マッカーサーおじさま おばさま、いつもおいしいキャンディをありがとうございます。お母様が、アメリカのキャンディよ、あなたたちは幸福ねと言いました。日本のかわいい子どもたちはみんな、連合国からのキャンディにとても感謝しています。今日、感謝の集いを開きました』
「子どもに書かせるという手法も古くからあります、確かに司令官と夫人は鼻が高いでしょうね、こんなことをアメリカの新聞は報道しますか」
「大統領に立候補したら、おおいに書き立てるでしょう」
「日本人として少し恥ずかしいですね」
「言語道断なのもあります」
『日本の国策にもはや大臣等は必要ないと思います。ご多忙中でも世界の主様であらせられます大きなお心の元帥様が御はからいあそばした方が私どもは安息な気持ちで一杯です。ここは元帥様のお国ですもの、なにとぞよろしくお願いもうしあげます』
「ご婦人の手紙ですね、なるほどこれはひどい、たぶん進駐軍に取り入って甘い汁を吸おうとしているのかな」
「元帥は自尊心の強い方ですからこんな手紙を読めば舞い上がってしまうかもしれません、この危ない時期に」
「…聞きますまい…朝鮮のことは」
次の戦争が迫っているのを父は感じている。
「ハウスキーパーをしばらく休ませてください」
朝やってきた君枝さんがローラさんに言う、エミールが通訳する、一緒に登校しようと待っていた僕らはびっくりした。
「ちょっと長岡に帰ってすぐ戻ります。私、結婚することになりました」
少しなまりのある標準語で宣言した。
「えっ誰と」
おめでとうと言う前に聞いてしまった。
「…佐伯先生…」
ウヒャと驚いた。もう登校などどうでもいい。
「まだ、あんちゃとエミールさんだけの話にしておいてくろな」
昨晩9時を過ぎた頃、大木屋にヤクザの菊田が現れて、佐伯先生を連れてきてくれと頼んだそうだ。佐伯先生の住まいは大木屋からは5分もかからない。君枝が走ると菊田は持ってきたウィスキーを飲んでいた。お爺さんとお婆さんは寝ている。
「遅い時間だが何があった、取締りか」
聞かれて菊田は苦笑した。
「善行を施そうとしてな、貴様の助けが必要になった」
「救世軍か、赤十字か」
「黙って聞け、人助けだ」
数日前、桜木町のガード下で死にかかっている子どもを見つけた、5、6歳だろう。ほうってはおけないので隠れ家の旅館に連れ帰り介抱するとなんと昔馴染みの一人息子だ、親にはぐれてしまったという。ツテを頼んで調べてみると、かなり大きな仕事をしてMPと警察に追われて日本を飛び出し故郷の朝鮮半島に逃げようとしたらしい、もちろん密航だ。その途中で息子とはぐれてしまった。
「あいつには世話になったし、こちらも尽くしたよ、いわば戦後の戦友だ。あちらの人は血筋を大切にするから息子をなくしたら取り返しがつかないほど悔やむだろう。それで子どもを返してやろうと思ったのさ。大人しくて良い子だよ、父親は鬼だが子は仏だ」
子どもは裏の物置に寝かしているという。
「おい、すぐに連れてこい、病人じゃないか」
青い顔をしてやせ細った少年は、それでも健気に挨拶をしようとした。
「ハリヤマサオです」
菊田はその様子をいとおしそうに見ている。
「俺が行けばいいんだが、今はそれができない。頼みに来たんだ」
「急なことか」
「親父の密航船は3日後に新潟を出る」
子ども一人だけ海を渡らせることは無理だ。新潟で父親に引き渡さなければ故郷には帰れない。相変わらず汽車は恐ろしいくらい満員だし取り締まりも厳しい。この子は衰弱している。それで、どうにかならないかという相談だった。
「俺などは警察にも敵対勢力にも目をつけられているからうっかり移動はできないんだ。まして子連れは目につく」
いつのまにか君枝さんも聞いていた。
「国も進駐軍もやってくれない、ならば俺がやるしかないだろ、国のためではない人のためだ、義理もあるけど人情さ。なんとか数日だけ学校を休めないか」
「今の朝鮮半島の情勢はおかしい、いつ戦争が始まってもおかしくない」
佐伯先生はしばらく考えていた。すると君枝さんが大声を出した。
「私、行こう」
二人はびっくりした。
「そりゃだめだ、頼めない」
「この時勢に女一人では危な過ぎる」
しかし君枝は言い張った。
「大丈夫、子連れなら女の方がいいだら。それに父ちゃん母ちゃんの墓参りをしたいんさ。戦争終わって一度も帰ってないかんな」
それでも菊田は心配した。
「では仕方ない、護衛をつけよう」
「そんなのがついてきちゃ余計に心配だら」
菊田も困ってしまった。自分が危険を負うのは望むところだ、しかし若い娘を危険な旅に出すなんてできない。
しかし君枝はまるで挑戦するように佐伯と菊田の顔を見つめている。
「やはり一人では行かせられん」
「佐伯、どうする」
先生はちょっとためらったが、すぐにはっきりと言った。
「俺が一緒に行こう」
今度は君枝が驚き、菊田が心配した。
「学校は大丈夫か」
「休む、やめてもいい、君ちゃん、俺と一緒に墓参りに行こう」
君枝は茫然(ぼうぜん)としている。
菊田はフーンと長くため息をついてから一人言のように言った。
「それでどうなるんだろう」
「大木屋をついでもいい、店をたたんで長岡に行ってもいい、学校というのはやはり俺の性に合わなかった」
まだ君枝は茫然としている。菊田がじれたように言った。
「まったくそうだ。前からそう思っていた。君ちゃん、早く返事をしろ、佐伯がプロポーズしているんだぜ」
「それったら、どういうことだべか」
「俺と一緒にずっと行ってくれるかということだ、もっとも行きは子連れだがな」
「えっ結婚だか、私につとまるべか」
「女性が謙遜して言うときはあふれるほど自信があるということだ。佐伯、早く決めてしまえ」
「お爺さんお婆さんと一緒に暮らしてもいい、それはあとから相談だ。夫婦、力を合わせて最初の仕事はこの子を親のもとに届けることだ」
「うれしい」
君枝にかじりつかれて佐伯はあわてた。
「切符が一枚増えても大丈夫か」
「心配するな、明日7時に駅で会おう。ハリモト、もう大丈夫だ。親父によろしくな、佐伯、いつまでも親友だぞ。祝いは帰ってからだ、花嫁衣裳は用意しておくぞ」
「号外号外、夕刊朝日でサザエさんの連載が始まったよ。大人気サザエだよアワビじゃないよ。おっと忘れた大ニュース、君枝さんが結婚するよ」
前の方は聞き流した郷の人もあとの方ではおやっと思った。
「おい、君枝っていうのは大木屋の娘かい」
「はい正解、君ちゃんだよ」
「相手はどいつだ」
「ドイツは味方の同盟国、敵は学校の佐伯先生、号外号外」
先を急いで走り去った。
佐伯先生は長岡からは帰っても学校には戻らなかった。あとでスミレさんに聞かれて一部始終を話したとき、スミレさんは苦いものを吐き出すように言った。つまり鮎は池にはいないでしょ、ドジョウやフナとかは泥水でないと暮らせないの、ああ困ったものね。
土曜日に激しい雨が降って日曜日はよく晴れた。川は濁流が渦巻き、中州には葦の葉が必死に土にしがみついていた。
教会を出て山裾の道を帰りかけた春山夫人は木陰にたたずむ坂井大佐を見た。具合が悪くて木にもたれているのかと思い急ぎ足で近づいていくと大佐はぎごちなく挨拶した。いつものように夫人は左足を少し引いて優雅にお辞儀をした。
大佐は何か言おうするようにと口をモゴモゴさせた。その様子がおかしくて夫人は声を立てて笑った。
「あら、はしたない、失礼しました」
よく響くアルトの声だ。ようやく艦を風上に立て直した大佐が低い声で言った。
「伯父上様とは戦艦比叡に同乗いたしました。当時は艦長と見習士官であります」
「それはおなつかしうございます。伯父は戦中に亡くなりましの」
「お悔やみ申し上げます」
それで会話が終わりそうになった。今度は夫人が機関全開を指令し艦を前進させた。
「よろしければお茶をいかがですか。アフタヌーンティです」
「お招きありがとうございます。喜んでお伺いいたします」
3時ぴったりに大佐は白いスーツのポケットに赤いハンカチをはさんで別荘の呼び鈴を鳴らした。夫人は華やかな和服で迎えた。
残念なことに大佐はドイツ語が堪能でドイツ文学を、夫人はフランス語が堪能でフランス文学を語った。もちろん二人の話す日本語は上品で丁寧、心地良い会話が続いた。
後でヨシさんから聞いたその日の夫人の感想はこうだった。
「あの方と話していると死んだ父のことを思い出しますわ」
坂井大佐はヨシさんにこう言ったそうだ。
「夫人の物腰とか笑い顔が私の母親によく似ていたよ。懐かしいことをたくさん思い出してしまいましたよ」
青鷺のような大佐とぽっちゃりした白鳥のような夫人をそこここで見かけるようになった。しまいには買い物かごを持った大佐の姿まで現れた。
ポツポツとうわさをする人もいたし、ヨシさんもこんなことをもらした。
「日曜日の礼拝に坂井さんの姿がありましたよ。もちろん信者さんではありませんがシスターは喜んでお茶に招待しました。私は春山夫人の幸せを祈っています」
しかし、新聞吉は一切を無視した。号外とも事件だとも叫ばなかった。あまりニュース性がないと思ったのだろう。皆がとびつくような事件性もないし、眉をひそめるようなスキャンダルでもない。新聞吉が騒がないので郷の人のうわさにもならない。
話を聞いて父は言った。
「父上を思い出す夫人と母上を思い出す大佐か、それでは毎日、追善供養をしているようなものだな」
しかし母はうっとり笑っていった。
「すばらしいことじゃない、亡くなった夫と亡くなった妻の思い出を傷つけずに、慕わしい父母の愛をよみがえらせて、ずっとこの先生きていかれるなんて」
父は苦笑した。
「夫だけでは物足りないと君は感じているんだね」
しかし母は同じ気分のままだった。
「女はマドンナよ、人類すべてを愛することができる、子宮は地球そのものなの」
「おやおや、では俺も『かつて愛した人』の仲間入りになるのか」
「そうならないように生き続けてね」
子どもはあっちに行けと言われる前に退散した。
暮もおしつまってきた。道路が左側通行になった、それはどうでもいい。ついに中華民国が台湾に移り、大陸は中華人民共和国が支配した。それは前の年に建国した大韓民国と朝鮮民主主義共和国の対立に油を注いだ。西側諸国とソ連・中国はとうに決裂している。アメリカは国連軍を組織しマッカーサーが司令官になるだろう。もはや戦争は既定のことだ。
「これでサヨナラだ」
突然、エミールが言った。
「なんの話だよ」
「今朝、お父さんに転勤命令があった」
「えっ、いつ」
「1週間後に新しい部隊に出頭だ、どこに行くかはお父さんが秘密にしている。ともかく3日以内に引越ししなければならない、手伝ってもらえるかい」
「えっ、皆に言っていいのか」
「頼むよ、僕からは話せない、泣いちゃいそうだ」
エミールと二人で家に行った。オットーさんとローラさんがもう荷物の整理をしていた。さびしそうだった。
「どうやって送ってあげようか」
「送別会をする間もないよ」
そんなことを相談しているうちに部屋はどんどん片付いていった。もともと多くのものがあるわけではない。
翌々日の朝、トラックが来た。荷物は荷台の半分もなかった。郷の人も見送りを約束していたが予定より早すぎた。僕ら3人とあと数人の前をトラックが走りだした。エミールは自分のかぶっている帽子を僕の頭に載せた。礼子にはきれいな花の絵皿をくれた。洋二は欲しがっていたUSエアーホースのワッペンをもらった。僕は通り過ぎていくトラックに叫んだ。
「this is the beginning of friendship 」
エミールは「またね」と言っておじぎをした。あっというまにトラックは行ってしまった。
「英語でなんて言ったんだ」
洋二がキイキイ声で聞いてきた。
「新しい友情の始まりだな」
僕は去年、横浜で見た映画を思い出している。『カサブランカ』だ。酒場の主人がお尋ね者の恋人同士を逃がすのだ。警察の取り締まりを受けたり、フランス人とドイツ軍人が歌合戦したり、最後に二人は無事、飛行機に乗って逃げる。最後に助けてくれた警察署長に主人公が言うセリフだ。
「エミールの返事が、またね、か。俺はアイ・シャル・リターンかなんかでかっこよく決めるかと思ったよ」
洋二が言うと礼子が目に角を立てて叱った。
「バカなこと言わないで、それはマッカーサーの言葉でしょ、必ず日本に勝ってやるという宣言よ、そんな言葉は聞きたくないわ」
またね、僕は何度も繰り返していた。すぐに会えるよ、なのか、いつか会えるよ、なのか。
また、普通の毎日になった。
しばらくしてエミールから絵葉書がきた。きれいな海とヤシの木、白い建物はホテルらしい。宛名は正確に書いてあったが差出人の住所はない。こう書いてあった。
「みんなに会えてうれしかった。毎日が楽しかった。Here’s looking at you at times go またね」
返事が出せないと父に嘆いた。
「たぶん軍の事情があるのだろう、また戦争が始まるんだ。落ち着いたらきっと手紙を書いてくるよ」
父も別れぎわに贈り物をもらっていた。結核の特効薬というストレプトマイシンが1ダース、オットーさんはニコニコしながら、科学者の神様のお恵みです、そう言ってケースを渡してくれた。アメリカで開発されたばかりの結核の特効薬だ。浜野先生に見せると、ひどく驚いてどこから手に入れたのかと聞く。父さんは口が固い、科学者の神様のお恵みです、そう答えた。浜野先生も笑って、それ以上聞かなかった。しかし、父は治療に入るとストレプトマイシンを使うことを渋った。
「この薬を必要とする人が他にいるだろう、その人に差し上げたい」
今度は先生が真面目な顔になった。
「科学の神様はあなたに薬を与えてくれた。他の人が使うことは神様の意思に反することです。たとえ、それが進駐軍の神様であっても」
父は受け入れて治療を始めた。薬を半分くらい使ったところで結核は敗北していった。講和条約を受け入れて終戦になったようなものだ。残りの薬は父の望みどおりに使われた。
僕は次の手紙を待っている。
父が元気になるのを待っていたように研究所の同僚から連絡があった。研究所は京都に移って再開している、ぜひ助力してほしい、父は同意した。僕もエミールと同じ立場になった、仕方ない。
まとめる荷物がないのも同じだ。皆に見送られるのは辛いことだと気づいた。エミールも同じ気持ちだったのだろう。僕は引越した。
洋二と礼子が見送ってくれた。プレゼントもキザな言葉もなかった。
「またね」
「またね」
「またね」
それだけで十分だ。手紙を待つこともできなくなった。郵便局は引越し先に転送してくれるかもしれない、しかし、待たないことも潔いのだ。
母に良い知らせが一つだけあった。戦死したと伝えられていた節子さんの夫、久保谷秀造さんが帰ってきたという。事情は分からないが、シベリアに抑留されてようやく帰還できたのだという。こういう事はその頃よくあった。節子さんがどのくらい喜んだか、想像するだけで胸が熱くなる。
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