長柄川も田越川も関東大震災の隆起で浅くなり、そこに堤を作って川幅を狭め、畑や宅地が広がっていった。しかし戦争はすべての活動を停滞させ、多くの人の命を奪った。長柄の郷でも、大切な人を失った人ばかりでなく全部の人が辛い苦しい生活を送っていた。出征と軍需工場への徴用で男たちは一家から引き離され、満蒙開拓団の募集に心を動かす人もいた。農家でも供出が強制され食糧難だった。収穫した米もイモも江戸時代よりひどい率で国に治めなければならなかった。金属の供出、布の供出、余分な物を持たない家では買ってまで供出しなければならない。スパイとか非国民とか決め付けられてしまうと生活できないからだ。
その戦争が終わった。何がなんだか分からないうちに日本は民主国家になり、占領軍が横須賀にも逗子にも厚木にも進駐し、鬼畜米英と叫んでいた人たちがウエルカムと言うようになった。戦争中よりも激しい飢えが襲ってきた。無事に戦地から戻った人たちは復興を合言葉にした。世の中には新しい価値感、新しい思想が渦巻いて、人々を混乱させた。
しかし平和だけはありがたかった。それなのに、相変わらず男たちは軍歌を歌い、少年たちは母艦水雷などという遊びをし、軍艦の名前を知っていることを自慢した。意外と変化しないものも多かったのだ。
京浜急行は逗子線を延長して、長柄十字路駅、元町駅か森戸駅を作ろうとしたらしいが断念した、理由の一つは御用邸の前を通れないということだとうわさされている。
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