春うららのフィリピン料理

「天勝だよ、なにしろ美人だ」
 ひさしぶりに東京に出た先輩は見聞したことを話したくてしかたないようだ。
「芝居は団十郎と菊五郎、建物は凌雲閣の十三階建ては日本一の高さだ」
 先輩は思いついたことをそのまま言うので整理して聞くのが大変だ。
「しかし、なんといっても奇術は天勝、なにしろハイと声をかけると体中から水を吹き出るんだ」
 なんでもきらきら輝くドレスを着て日本人とは思えぬ雰囲気で不思議な奇術を見せる。
「あの伊藤公爵でさえもぞっこんだったのを見事に振ったというからな」
 別に先輩が天勝にほれられたわけでもないのにうれしそうだ。
「洋行帰りはやはり違うよ。俺はうれしくなってしまったよ」
 あちらはアメリカ、ヨーロッパに4年もいた洋行で僕らとは月とスッポンほども違うのに先輩は洋行仲間だと思っている。
「天勝の奇術を見れば日本人も世界の一等国の仲間入りだ、日露戦争も勝ったし」
 その口調から物の大小をわきまえない腰が浮いている人物であると感じられる、いつものことだ。
 実は小久保書生はインド料理のいきさつを話して、これで会を終わらせたいと言ったのだ。それを聞いた鈴木社長はもう一回やりましょうと明るく言った。叱られるとばかり思っていた先輩は驚いて社長の顔を見た。
「小久保君、別荘の人たちを甘く見てはいけません。皆さん功なり名を遂げた人たちです。たとえ会費を払ったからといっても、席を自分から立って帰ることが失礼だということくらいは分かっています。次の会を開かないと、逆にこちらの方が恨んでいるように思われてしまいます。たとえあなたに不満が残ったとしても私はお客様の気持ちの方を大事にします。前のことなどすっかり忘れた顔をして料理を作り、話をしてください」
 余裕たっぷりに言われて、先輩は気まずそうにうなずいた。僕は社長と書生では人間の大きさがまるで違うことが分かった。いい勉強をした。
「それで開催日の設定ですが、イギリスのジョージ五世陛下戴冠式が二月十四日です。東伏見宮に東郷大将も随行されるので、名士方は壮行会やら祝賀会で当分の間忙しいでしょう。一週間たてば落ち着きます。十九日の日曜日にいたしましょう。今回はフィリピンのタガログ料理でしたね。さっそく回覧しますから腕をふるってください」
 社長の言葉通り二十人ほどの人が何食わぬ顔で申し込んできた。僕は鶏肉と牛肉を予約するために逗子に行った。でっぷり太って食べたらさぞおいしいだろうなと思わせる肉屋の北村おじさんが注文を書き付けた。
「書生さんのところは繁盛していていいね」
「旭屋さんも大繁盛でしょう」
「海軍さんからの注文が多くてね、藤沢から肉を運ぶんだが、量がふえてしまって大変だ。荷車で引いていたが衛生的でないから運送屋に頼んでいるよ、こうなると自動車がほしいね」
「別荘には何台もありますね」
「なんでもT型フォードという最新式の車ができたそうだよ、それに比べれば国産のガタクリ号なんかはオモチャだってさ」
「でも僕の叔父さんは人力車を引っ張っているから自動車が多くなると困るな」
「その時は自動車の運転手になればいいさ、逗子駅前かい」
「はい、人力車が何十台もならんでいるから競争が大変だって、葉山は道は平らだから引きやすいって言ってますよ」
「横須賀には乗り合い馬車があるけれどね、こちらは道が狭いからな、いつもお世話さま、これ食べるといいよ」
 夫婦饅頭をくれた。二つくっついたお饅頭、浪子と武夫の夫婦だそうだ。
 それから萩原牛乳屋でバターを買い、テーブルに飾る花も買って帰った。
 会の日は朝から小雪がぱらついて寒くなった。僕は受け付けにいて近頃流行のトンビという男の外套や道行きという女のコートを預かっていた。どれも高価なものだ。
「伯爵になったのは東郷大将の方が早い、九月二一日のことです。乃木大将はそれから十日ばかり遅れて伯爵になりました」
 壮行会のうわさでもちきりだ。
「軍事参議官になったのは乃木が明治三九年、東郷は明治四二年だ、乃木の方が早い」
「軍事参議官になるというのは現役を引退するということだ、これは遅い方がいいのだ」
 例によって大森大佐の声は大きい。
「鎌倉御用邸と葉山御用邸とどちらが駅から遠いだろうか、陛下にはご不便をおかけしますな」
「同じくらいですかね、しかし葉山はなにしろ海のそばですから雨風の日は大変です」
 半場教授は自分が不便に思っていることを陛下にかぶせて言い立てる。
「だからトンネルを作ればいいと提案しておるところです。桜山と仙元山と両方を突っ切れば遠回りしないですみます」
「なるほど行幸道路ですな」
 古津社長は費用対効果を計算しはじめた。
「そうなると一色村より長柄村の方がはるかに駅に近くなります、茅部君も山を越えなくて駅に出られるようになりますぞ、買い物にも医者に行くにも便利になる」
 皿を運んできた僕に海野氏が声をかけてくれた。前回は激しく先輩と言い争った。フランスに滞在していたのでイギリスが嫌い、それで植民地のインドが嫌い、だからカレーが嫌いという三段論法ヤツ当たりだと三令嬢から聞いている。
 なるほどトンネルができれば長柄から逗子へは平地で行けるようになる。桜山の山道を上って下って行かなくてもよい。雨の日にカサをさしたまま平気で行かれるようになる。今はトンネルなんて簡単に掘れる時代だ。それは便利になる、そんなことを思っていたら料理ができたと先輩にどなられて、あわてて厨房に走った。
 先輩がぎごちなく説明を始めた。まだ、わだかまりを残しているようだ。
「こちらはカレカレという牛肉の南京豆煮込みです。こちらはチキンアドボという酸っぱい煮込みです。季節がら温かい食べ物をと思い用意しました」
 老人方は美味いともまずいとも言わずにもくもくと食べている。うっかり変なことを言って前回のような事態を引き起こしたくないのかもしれない。
 先輩に元気のないのは三令嬢がまだ来ていないからでもあるようだ。
「一昨年、横須賀線という名前になりましたが列車が早くなりましたですこと」
 海野夫人が沈黙を破ってくれた。
「直通で東京から一時間半です」
 半場教授は毎日、電車で通勤している。
「ところで鉄道院総裁の後藤新平さんはがんばっておられますか」
 後藤さんは別荘仲間だ。
「狭い日本に鉄道を敷くだけでも大変なのに満州の権益を巡って争っているようですよ」
 さすが銀行頭取の数奇屋氏は経済に詳しい。きっと細かい数字がくるくると頭の中で回転しているのだろう。
「東海道線もどんどん複線が延びています、早く横須賀線にも手をつけてもらいたいものですわね」
 数奇屋夫人はお芝居を見に東京に行くのだ。この三月には帝国劇場という西洋式の芝居小屋ができるとうれしそうに言っていた。御霊神社のお祭りには芝居が出て旅回りの一座が歌舞伎を見せてくれる。西洋の芝居というのはどんなものだろう。見てみたい気持ちになった。
「列車の本数がだいぶ増えましたな」
 半場教授がつぶやくと待ってましたとばかりに大森大佐が叫んだ。
「それは戦争で大陸に送った機関車がどんどん戻っているからだよ、手柄をたてた機関車たちの凱旋だ、讃えてやらねばなるまいな」
「四百両以上も出征していたそうですな」
 数奇屋氏が言うと夫人が聞いた。
「あなたテンダー型とタンク型の違いが分かりますか、テンダーというのは石炭と水を積む貨車を引いているんですよ」
 うれしそうに説明する数奇屋夫人は実は隠れ鉄道ファンなのかもしれない。
「夏は暑いが冬は暖かい仕事だね」
「ボイラーの圧力を出発の時に最大にするのがとても難儀だと伺いましたわ」
「ほう機関士にかい」
「あらいやだ、後藤新平大臣にですよ」
 夫婦の仲はむつまじい。 
「大師電気鉄道とかいうのが品川から神奈川まで電車を通らせておるそうですな」
 半場教授が言うとすかさず数奇屋夫人が答えた。
「京浜電気鉄道ですわ、いずれこちらの方にも線路を敷くかもしれませんわ。浦賀の造船所が通勤に不便ですからね」
「横須賀から浦賀までは行きませんか」
「山が多くて走らせにくいようですわ。それに軍港というのは終点にあった方がいいでしょう。そうそう東京鉄道はもうすぐ市が買い取るようですよ」
「ご静粛に」
 デザートが出て先輩が話し始めた。
「フィリピンはカトリックの国でありまして、東郷閣下が出発した二月十四日は聖バレンタインの祝日で女が好きな男に菓子を贈るという行事があります。なにぶん暑い国ですので氷菓子が多く今日の寒さにはまことに不向きですが、これも話の種とおぼしめしハロハロという蜜豆をお召し上がりください」
「冷たくておいしいわ」
 いつのまにかすみっこに座っていた三令嬢がうれしそうに言った。先輩も僕もこの声は聞きのがさない。
「ひな祭りはこのお菓子でお祝いしましょうよ」
「白酒にも合いそうですわ」
 三令嬢はたちまち食べてしまった。おしとやかなお嬢様とかつつましい女性とかいう日本の伝統は大政奉還とともにすっかり消滅してしまったらしい。
「我輩が出前をいたしましょうか」
 すぐに先輩がしゃしゃりでる。
「大丈夫、これくらいは作れます」
 にべもなく拒否されて先輩は真っ赤になった。もちろん三令嬢と親しくしたい下心が顔にあふれているのだから、その罪が現れたということだ。
「淡島神社のお祭りをご存知ですか」
 僕は思い切って言ってみた。
「小さい舟に人形をたくさん乗せて沖に流すのです。すごくきれいで、なんとなく哀れで良いお祭りです」
「いつ、どこで」
「三月三日、芦名の浜です」
 三人はなにやらヒソヒソと話していたが麗子嬢が代表して返事をくれた。
「行ってみます。私たちもっと日本を知らなければならないと話し合ったのです。外国の方に日本の良さが話せませんからね。人力車を二台借りてくださいな、婆やが着いて来ると思いますから」
 どうやら僕の分の人力車はなさそうだ。走ってついて来いということだろう。当然、先輩もついてくるだろう。
 ふと淡島神社に若い令嬢を連れて行って失礼にならないかと心配になった。
「念のために言っておきますが淡島様は安産の神様です。底抜けビシャクというのが置いてあって、赤ちゃんが無事産まれることを願う人がお参りします」
 令嬢たちは興味を示した。
「へぇ、そんな神様があったのですか」
「住吉明神の奥様と言われています」
「へぇ、神様も結婚するんですか」
「ご自分が腰の病気だったので女の人の苦しみを和らげてやろうと思ったのだそうです」
「へぇ、病気にもなるの、私は神様といえば伊勢神宮だけだと思っていました、ぜひ行きましょう、そして私たちの悩みも聞いてもらいましょう」
 お金持ちで身分も高いお嬢様たちにどんな悩みがあるのだろう、僕には見当がつかなかったが話はまとまった。
 今日はもう一つ趣向があったのだ。そろそろ帰ろうとして立ち上がりかけた客を鈴木社長が制してくれた。
「今日は皆さんにお聞かせしたいと思って珍しいものを持ってきました」
 どっこいしょと2人の男が抱えて持ってきたのはニスを塗った木箱だった。最初は立派な時計だなと思った。僕の背丈よりも大きい。マホガニー色というのだろう木肌が艶々とニスで光った高い箱の正面にガラスがはめられている。ちょっと見には仏壇にも見える。茅部の本家には巨大な仏壇がある。金箔で飾られて薄暗い仏間の中でもキラキラ輝いている。荘重で華麗、まさにお金持ちを自己主張している。仏壇は嫌いだ。しかし、この箱は奥深い落ち着きが感じられた。
「オルゴールですね」
 令嬢がひかえめに小さな声で言った。知らないことまで大声で言う先輩はいかにも下品だ。
「本場のイギリスやアメリカではミュージックボックスといいますぞ、向こうに行った時にはオルゴールでは通じません」
「あらお祖父さま、外国へ行ってもいいというお許しですのね」
「そんなことは言っとらん。言葉は正確にと注意しただけだ」
「オランダ語でオルゲル、手回しオルガンです。幕末に混同しました」
 先輩が余計な口出しをした。
「君もつまらんことを知っておる」
「言葉は正確にとのご注意でしたから」
「分かった。もういい。お前たちもあっちへ行きなさい」
 礼嬢がすかさず逆襲した。
「ああ良かった、外国へ行けとおっしゃっいるのね」
「…」
 しかし聞いている人たちは大笑いした。
 先輩が脇のハンドルを回し始めた。金属のきしる音が聞こえた。
「さあゼンマイを巻きました。お嬢様、このコインを入れてください」
 社長はそう言って近頃あまり見なくなった2銭の銅貨を取り出した。
「50銭の銀貨でも大丈夫です」
 先輩は笑いながら言ったが2銭と50銭では価値が違う。ようやく小遣いをもらって大福を買って2銭で2個、50銭あれば25個だ。誰がそんなに食べるのだ。
 突然、円盤が回り始めた。西洋音楽が流れてきた。色々の楽器がいっぺんに演奏しているようだ。心が浮き立つような明るい曲だ。踊りたくなるような軽快な音楽だ。
「これはプロシャの宴会で好まれておる音楽でございます」
 先輩が言った。
「我が国では三味線を弾いて都々逸だ小唄だと酔っ払いが通人ぶって唄いますが、かの国では楽隊が演奏したくさんの人が踊りあって楽しく酒を飲みます」
「静かな音楽にしてくださらないこと」
 先輩はハイと答えて下のボックスの扉を開けた。ぎっしりと円盤が立てかけてある。手早くを一つを抜き出して正面の円盤と取り替えた。
「これはセレナーデという曲です」
「今度はあなたが入れてごらんなさいな」
 僕は手渡された硬貨をおそるおそる穴に入れた。カランという固い音がして、再び円盤が回り始めた。静かでいて、うっとりするような甘いものが心に湧き出てきた。とたんに心に衝動が走って、こうしてはいられない自分の時間は長くないんだという激しく狂おしい気持ちになった。思わず立ち上がろうとするのを必死でこらえた。
 あわてて辺りを見ると、客たちは目をつぶったり、どこか遠くを見るようなあいまいな表情をしている。ただ麗子嬢だけがじっと僕を見て、その気持ち分かりますというように会釈してくれた。思わず抱きつきたくなるほどうれしくなった。
 オルゴールは鋭い金属の音を立てて曲を奏でた。金色の真鍮のドラムにクギが打たれていてクシの歯のように並んだ金属板をはじいて音を出す。そんな仕掛けだ。
 今、聞こえているのは「アニーローリー」というスコットランドの曲だそうだ。そういう名前の美しい娘がいて、親が無理に結婚させたため失恋した男たちが作った歌だという。どこの国にもあるありふれた話だが、悲しくてきれいな曲だ。
 次が「エリーゼのために」ベートーベンという作曲家が作った曲だ。これも好きだった人と楽しい時をすごした思い出の曲だそうだ。
「しんみりした曲は心に響きますわね」
「人の気持ちというのは世界中、すこしも変わりません、男が女性を大切にする気持ち。しかし女性はためらいなく忘れますな、結婚したり子育てしたりして」
 その場にいる女性が一斉に先輩をにらんだので先輩はトカゲのように逃げだした。
 その晩、オルゴールは社長が預かった。暗くなってから重くて大事なものを運びたくない、明日取りにこさせますといって置いていったのだ。大事なものを預かるのは迷惑だったが仕方ない、布をかぶせて座敷に置いたままだった。
 ようやく後片付けが終わってお手伝いの人にもお茶を飲むゆとりができた。
「せっかくだから皆にも聞かせてあげましょう」
 そのために社長はわざわざオルゴールを置いていったんだ。それが分かってうれしくなった。
 昼間よりも風が冷たく、オルゴールのキンキンいう音もひどく冷たく聞こえた。明るいテーブルでおいしいものを食べる着飾った人たちはもういない。この暗い灯のもとで聞いているのは色も模様もはっきりしない汚れて古びた着物を着て表情をなくすほど疲れた人たちだ。1曲終わるたびに僕がゼンマイを巻くとハンドルも疲れたようなきしんだ音を立てた。
 スコットランドともオーストリアともまるで関わりのない、金髪の娘や貴族の屋敷など想像もできないだろう。しかし、片思いの苦しさや失恋の痛みは知っている。生きていることを心から喜び、死者に対しては頭を垂れて哀悼する。
 その夜はキンキンなる音が頭から離れずなかなか眠れなかった。
 
 おひな様の笑顔のような温かい朝だった。 早めに昼食を済ませて出発するのだと思ったら、先輩はお弁当を用意して景色のいい所でみんなで食べることに決めていた。朝から弁当作りなどごめんだと思ったら、日陰茶屋に頼んできれいな重箱を調えてもらうのだという。それならいい。
 いかにも春らしい暖かい朝だった。社長の家の前に二台の人力車がやってきた、僕が頼んだ叔父さんと仲間の人、とてもうれしそうだ。おまけに新しい法被を着ている。まったく大人の男というのもだらしがない、令嬢と言われてホクホク喜んでいる。これでも二人は日露戦争で勇敢に戦ったという、笑ってしまう。
「なにしろ俺たちの車はゴムの車輪だから乗り心地がいいんだよ」
「そうとも、逗子に何十台人力車があろうとも俺たちのが一番だ」
「お嬢様にはご不便はかけないよ」
 僕に自慢してみせてもしかたない。僕は知っている、人力車夫の生活はその日暮らし、客が乗らなければ収入がない。逗子の駅から田越川を渡って森戸までの半里ばかりでせいぜい三十銭ほどかせぐが、うち三割は親方に渡さなければならない。雨降りの日にはもうかるが、その分、体を痛める。若いうちはともかく年を取っても他にできることがなければ、いつまでも車を引き続けなければならない。ところが、そんな車を追い越していくのを叔父たちは自慢にしている。将来をまったく考えていない。僕は心配している。
 三令嬢が連れ立って来た。いつものおすましの格好とは違い、海老茶袴に革靴を履いてきた。髪の毛も束ねて高く結んでいる。お化粧をしていないので若々しい。さっそうと人力車に乗り込むと、叔父さんもエイホウと一声かけてさっそうと走り出す。先輩と僕もモサモサと走り出した。
 森戸神社をすぎて真名瀬の浦を通り三ヶ岡の山の木々の芽吹きを喜び、宮様の屋敷を見ながら御用邸に出た。叔父と仲間は直立不動で敬礼する、元兵士の習性だ。三令嬢は優雅に拝をした。先輩と僕は息を切らしてハアハアしていたので何回もお辞儀をしているように見えたろう。
 急坂を上がると長者ヶ崎の芝生だ。そこに毛氈(もうせん)を敷いて食事をした。
「うわあ、きれい」
 さすがに料理屋の弁当は華やかに盛られていておいしそうだ。これを見れば僕らの料理がいかに素人くさいかよく分かる。なんだか恥ずかしくなって顔が赤くなった。
「白酒めしあがれ」
 飲むと甘くてツンとくる。正月におとそをいただいた時も顔が熱くなったが、同じ心地がした。
「白酒はけっこう酔いますよ」
 付き添いの婆やさんが忠告をしてくれた。しかし白酒に酔ったと思われる方が気が楽だ、僕はこの雰囲気に酔っているのだ。
「きれいな口取りのカマボコ」
「だし巻きタマゴもいいお味ですこと」
 実を言うと僕はこんな結構な日本料理を食べたことはない。たぶん先輩も同じだろう。彩りといい形といい凝(こ)っていて上品で申し分ない。
「ここが泉鏡花先生のお作の『草迷宮』の舞台なのね」
 智津嬢が小さな声で言った。まるでお化けに聞かれるのを怖がるようだった。先輩は知らない、僕は知っている。病気で逗子に滞在していた泉鏡花はこの地を舞台にした不思議な話を創った。主人公は僕より少し年上の少年明(あきら)、亡くなった母が歌っていた手まり歌の歌詞を知りたくて旅をしている。秋谷の庄屋はここに別荘を建てたが魔界の者が住み着いて怪奇な出来事が続く。社長の本棚にあった本だがあまり言葉が難しくてここまでしか読んでいない。令嬢たちはひっそりと話している。
「お母さんって…そんなに慕わしいものですの、美しいお母さんなんて想像もできない」
「泉鏡花先生のお作にはいつも美しい女人が登場いたしますことよ」
「でもそれが必ず幻とか妖怪なのよ」
「あの世はこの世とくっついているそうよ」
「このお話はもう終わり、なんだか背すじがゾクゾクしますわ」
 春のおっとりとした日差しをあびて食べたり話したり笑ったりした。時間は無情にすぎていく。
「皆さん、あまりのんびりしていると人形の舟が出てしまいます」
 本当はこんなことを言いたくなかった。祭り見物などよりずっとここにいたかった。けれど仕方がない。
 それから三崎街道に入り立石を過ぎて秋谷の坂を越えもう一つ坂を上ったところが芦名の村だ。神社までは下り道になる。
 淡島神社にはかなりの人が集まっていた。人力車を乗り入れると、あからさまな好奇心で迎えられたが三令嬢はまったく気にせず石段を登っていった。
 ちょうど神事が終わって舟が社殿を出るところだった。人形を乗せた舟は神主と巫女に先導され、紋付袴に威儀を正した氏子の人たちに担がれて浜に向かう。舟にならべられたたくさんの人形が無心に前を見つめている。麗子嬢に良く似た顔の人形もあった。ついふりかえって見るとニッコリ笑みを返してくれた。胸がドキドキした。
 舟は浜につくと青竹を立てた祭場でもう一回神主の祝詞を受け、三隻の手漕ぎの舟に曳かれて海へと出て行く。沖へ流れる潮に乗ってふたたび帰らぬ航海へと出る。人々は静かに人形たちを見送る。
 泣いている人もいた。三令嬢はポツリポツリとつぶやいていた。
「もう帰らないのね」
 麗子嬢が静かに言った。
「無邪気な顔をしたままでね」
 智津嬢の低い声が聞こえた。
「お人形さんたちの旅立ちね」
 礼嬢は遠くを見ているようだった。
 永遠に人の世に戻ることはないかわいそうな人形たち。こうやって海に流すなんて人間って情けの薄いものなのだと僕も思った。
 先輩はぼんやりと海を見ている。しかし、考えていることは三令嬢とは違う。僕には分かる、一緒に航海をしたからだろう。
 船出する時の気持ちの高ぶり、これから未知の出会いがあるのだ。知らない世界で冒険をして大きな宝を探し出すのだ。しかし旅が終わって船が港を目指す時のあのさびしさ。なにか取り返しのつかないものを忘れてきたような切なさ、それを僕らは経験した。
 あの人形たちは行くだけで帰ってこない。船出の時の燃えるような気持ちのまま最後を迎えることができる。
 やがて神主が海に背を向け、取り残された人形のような、きれいな巫女さんを伴って神社に帰った。祭りは終わった。
 ぞろぞろと帰る人に逆らって皆はふたたび神社にもどった。もう氏子の人たちが後片付けを始めている。
「なにかしら」
 令嬢が指さしたのは祭りのときだけ社頭に飾られる金精様だった。
「あれに触れると元気な赤ちゃんを授かるといわれています」
 氏子の人が答えてくれた。
 智津嬢がこわごわ触った。
「学校を卒業したら、あなたは許婚(いいなずけ)と結婚する約束ですものね。そうなると私たち三人の夢も終わりね」
 麗子嬢がさびしそうに言う。
「私は世界を見たいな、結婚して家に閉じ込められるなんていやだわ」
 智津嬢はハンカチで手をふいた。
「夢はいつまでも持ち続けましょうよ」
「いい赤ちゃんを授かりますように」
 そう言って礼嬢は何回も金精様をなでた。
「だっていつかは結婚して子どもを産むのよ、そういう人生もあっていいと思うわ」
 麗子嬢は黙っていた。礼嬢はうながした。
「あなたも触れておきなさいよ」
「いやよ、触ってしまえば、最後にはあの人形のように流されていくのよ、自分は舟に乗りたくなくても他人に乗せられてしまうの。舟に乗らなければならないなら私は自分の意思で乗って、自分で漕いで海を渡るわ」
 智津嬢がそっと肩を抱いた。
「お祖父様が悲しがるわ、あなたが行ってしまうとね」
「でも私は思い通りに生きたいの、閉じ込められて生きるのはいやよ、かわいそうな私のお母様」
「では、そう神様にお願いしなさいな」
「いやよ、私は神様にはお任せしません」
 礼嬢は社前の紅梅の花を見ている。そして花を一つ取ると匂いをかいだ。
「いい香りね。人の愛でてくれる時があるのよ、時を失うのは残念なことよ」
 麗子嬢はなおも言い張った。
「咲くのは私、だから散らないわ。一生が花盛りよ、人の一生は春夏秋冬ではありません、花が咲き実を結び葉を落として枯れ果てるなんてごめんだわ」
 気がつくと先輩がいなかった。たぶん独りになって思い出にひたっていかったのだろう。僕は石段の下で待っていた婆やを手で呼んだ。三人は気配に気づいて黙って石段を下り人力車に乗った。もう誰も話さなかった。
 叔父は景気よくエイホウと叫んで走り出した。僕は先輩のことを気にしながらモサモサと走った。風が冷たかった。さっきまでの青空はすっかり雪雲でおおわれている。
 僕のたもとにも紅梅が入っている。今日一日の思い出にしようと折ったものだ。しかし、こんなに切ない思い出になろうとは想像もしなかった。苦労なんかないと思っていた令嬢たちも自分の悩みや苦しみを抱えているのだ。なんだかほっとした気分になった。
 そんなことを知らない叔父と仲間は強いところを見せようと休まずに走り続けた。
 海には白波が立ち始めていた。

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