「年の瀬だっていうのに別荘の人たちは暇なんだね」
部屋の掃除をしながらサトおばさんが言った。おばさんの家は狭い田んぼを持っているがそれだけでは食べていけない。それで社長の所でなにかと雑用を見つけて働かせてもらっている。
「お金に困らない人たちはいいね」
これも近所のステおばさんだ。子どもの頃から僕を知っているので頭があがらない。
「お高くとまって、失礼あそばせだとさ」
「昔のお侍もいばっていたけれど、今の別荘も同じだね、世の中ちっとも変わらないよ」
しかし僕は思う。別荘を持ちたければ大臣とか社長とか教授になればいいのだ。先祖から引き継がなければならない家柄とか仕事がなくなって、自分の代で家を起すことができるのが明治の時代だ。世の中を良くしようと思えば自分がやればいい。
「うちの孫娘も誰か別荘の人にもらわれないかね、そうすれば奥様のお婆様になってぜいたくできるのだけれどね」
濡れ手で泡、棚からボタモチ、たぶん江戸の人たちは身分制度で縛られていて自分の力で出世しようとする希望が持てなかったのだろう、だから何かというとタナボタをねらうのだ。それでいて庶民はのんきでいい、偉い人などになりたくないと強がって見せる。みんな自分の意思が弱いのだ。僕は会話に加わりたくなかったので忙しそうに走り回って準備していた。
「あんたタバコ代もばかにならんだろ」
サトさんは太いキセルからいっぱいにタバコを吸って気持ちよさそうに鼻から煙を出している。
「他にぜいたくはしてないよ、タバコはやめられないね」
「何がいいんだろうね、そんなもの」
ステさんは煙を手で払った。
「物を考えるときには欠かせないよ、タバコで落ち着けば我ながら良い知恵が出るんだ」
「それが煙とともにかき消えるんだろ」
「まぜっかえしてはいけないよ。わたしはね、国分(こくぶ)なんて高いタバコは吸っていない、こらん、これは長井の葉だよ」
「あそこは鯛は釣れるし、イワシもサバもいいのが上がるがタバコまで穫れるるのかい」
「バカだね、ワカメと間違っているよ、ああいう乾いた土地がタバコにはいいんだってさ、百町歩もタバコ畑があるそうだ。わたしゃ乾いた葉を自分で包丁で刻んでいるんだよ」
「あら、この前に通った時、広々とした畑に緑の葉っぱがいっぱいだから大根かと思っていたよ、それにしては葉が大きいからどれだけ太い大根かと案じていたんだよ」
「あんた長生きするよ。タバコを遠州浜松からも買いに来て、地主の長エ門さんが仲買をやって、たぶんもうかるんだね、何年か前に屋根を瓦葺にしたよ」
「あんたが吸ったタバコで瓦一枚くらいは寄進したろう」
「金持ちのどこもかしこも貧乏人のふところから出ているのさ」
ぼくの姿を見ると横を向いて小声でいった。
「貧乏人は分相応にしていればいいのにね、偉い人に寄り添えばキツネになるよ」
「相手は虫ほどにも思っていないのにさ」
さっき台所でも悪口だった。
悪口が聞こえてきたが黙っていた。
開会の時間が迫ってきた。さすがに年末のせわしさでご婦人の参加者は少なかった。しかし好奇心あふれる三令嬢はいそいそと参加してきた。相変わらず大森大佐は五分前精神の時間厳守で真っ先に席についている。三令嬢は遠くの隅っこにひっそりと座っている。
ご婦人方は男性が少ないのですっかり羽を伸ばしてしゃべっている。
「この前、巡査が来ましたわ、なんでも戸籍を調べるとか言って、うちは別荘ですと言ったら敬礼して帰りましたが、翌日、また違う人が来て同じことを聞くのです」
「あら、それは賭(か)けですのよ。あのうちの妻女はどんな出身なのか、芸者かお嬢様か田舎者かと巡査同士が賭けをしているのですよ」
「まあ失礼な」
「巡査もたいくつでしょうな、一日中立ち番をしているばかりで」
「あれで居眠りなどしていると見回りの別の巡査に見つかって叱られるそうですわ」
「罰金として月給の一割くらいを没収されるそうなの」
「よくおなかが空きませんわね」
「駐在所の裏に隠れて焼き芋を食べているのを見ました」
「それで泥棒がでても大丈夫なんですか」
「年寄りの巡査は元は侍という人も多いのでなかなか腕が立つそうです」
「大昔とったキネヅカだが、意気は光っていても腕は赤サビでしょう」
大森大佐に話し相手が現れた。
「とうとう白瀬中尉が出発しました」
遅れてきた浅利氏という元海軍中佐だ。海軍軍人も声が大きい。
「開南丸というちっぽけな船です、三本マストのスクーナーで二百トンしかない、まるでマグロ釣りだ。政府はまったく援助しないそうです」
「開南丸だと聞いて私は妙な名前だと思いまして、海難に通じるではありませんか」
大森大佐は縁起でもないことを無遠慮に言う性格だ。
「命名したのは東郷伯爵ですよ」
浅利中佐はむっとしたようだ。
「これは失言、ご内密に願います」
「それにしても今年は船の事故が多かったです。広島商船の鉄嶺丸が竹島で沈んだ時には二百名が溺死しました。それに潜水艇も沈没しました。私も知る人であります。神戸港でも大爆発、だいぶ人が死にました。原因は積荷のダイナマイトだそうですね」
僕はぞっとした。近所の人も軍港に勤めている。もちろん乗り物はないから、長柄川の上流まで行って山を越して浦郷に出る。雨の日は大変で山道はすべるのでワラジを履いてミノを着て行く。行き帰りそれぞれ二時間ずつかかる。でも土地が狭いから長男が家を継ぐと次男三男は暮らしていけないのだから仕方ない。そんな苦労をしても生活するのにやっとという給料しかもらえない。事故とか爆発とかが度々あって人が死んでいく。この人たちにとっては他人事だから平気で話していられるのだ。
「ところで中佐殿、戦艦三笠の爆発原因は秘密ですか」
「申し上げられません」
「それやこれやで秋山真之大佐は宗教に入ったそうですな。人知外という悟りまで開いたそうですな」
「水兵というものは戦争中はどんな苦労もいといません。艦長も上官も皆が辛(つら)いからです。ところが戦争が終わると、気の小さい水兵は訓練でもなんでも辛いのは自分だけ、いつも自分がいじめられていると思いこんでしまうのです」
「狭い軍艦の中では逃げ場がありませんからな、それで艦と心中ですか」
「馬鹿なことを言ってはいけません。軍の規律は厳重です」
二人の会話が途切れないので後から入ってくる客たちは独演会を聞いているようなものだった。
ようやく海野夫人が口をはさんだ。
「それにしても沈んだロシアのお船はおかしな名前をつけておりますこと、『ごみとり権助』だの『くにゃじ三郎』だの、私、話を聞いて笑ってしまいましたわ」
おっかぶせて大森大佐の無作法な声が響いた。
「こりゃ可笑しい、奥様ともあろうものが何をおっしゃる、ワッハッハ、だから女は戦争のことなどまるで分かっとらんと言うのだ」
夫人がムッとした顔で大佐をにらむ。
浅利中佐がそっと咳払いをして言った。
「奥様それはあだ名です、もちろん本当の艦名は別にあります」
「当たり前です、水兵どもが敵艦見ゆ、その名前はと言って舌をかんだら大変じゃ」
「なら本名とその意味を教えてください、さあ早く」
夫人につめよられて大佐はじりじりと退却した。陸軍大佐には軍艦のことは分からない。
さすが中佐は海軍軍人だ、陸軍を護るように敵前回頭した。
「巡洋艦『ドミトリ・ドンスコイ』はドン河の戦いで勝利したドミトリ大公の名前をつけたのです。スコイは英雄という意味です。それからクニャージというのは公爵のことで三条公や島津公と同じ位、三郎はスヴゥオロフ、アレクサンドロ・ヴァシリエヴィッチという人物の名前です」
「軍艦に人の名前をつけるのですか。沈んでしまったらその人は気分が悪いでしょうね、そのアレクサン…ドロバシ…ビチ…スボーロ公爵さんは」
「ずっと昔の人です、チビで暑がりで酒飲み、でもアルプスを越してフランス軍を打ち破った陸軍元帥」
「日本では三笠とか敷島、朝日とかきれいな名前をつけますのに、ロシア人は無骨ですこと」
最後の一言は大佐に向けられたものだ。しかし大佐は陸軍元帥の名前を聞いただけで満足していた。
「今日は太閤秀吉も食べたというポルトガル料理をお召上がりいただきます。といっても我輩が食しましたのはマカオという香港の近くの小さい町で、ここのポルトガル料理は本国よりもうまいという評判です。ポルトガル人は一握りだけしかおりませんが、いまだに植民地の支配者になっております」
「だからわしが言っておるんだ、南方に進駐する、海軍さんが行かなければ陸軍が泳いででも行きますぞ」
「ロシアには勝ったがイギリスとアメリカにはかなわないのです。軍艦が足りない」
「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門と等しいと訓話されたのは東郷大将ですぞ」
「百箇所を守るには百艦が必要です」
「攻めるだけなら一艦でいい」
「占領すれば百艦が必要になる」
「私にはなんのことかさっぱり分からん。しかし、戦争は金のかかるものです」
銀行家の須木谷氏が間に入った。
「桂太郎首相は陸軍だし海軍の山本権兵衛さんは近頃、鉄道で忙しいからどうも海軍に分が悪いようですな」
やっと料理ができた。
「ミンチーという揚げジャガイモとタマネギと挽肉いためです。バカリョウという鱈のコロッケです」
「なるほどいけますな、軍艦の献立にいれてもいいものだ」
すると大森大佐が怒鳴った。
「だいたい海軍はぜいたくだ、わしらは梅干だけの日の丸弁当を食べて戦うのに、軍艦では水兵も洋食を食っているそうだ」
ずいぶん白けた顔をして海野夫人がつぶやいた。
「この広間には珍しい料理を食べたい人と何かまわず食いつきたい人と二種類おりますことよ」
「伯父様、おやめになって」
今日も姪っ子が来ていたのだ、僕はほっとしてそちらを見た。大森大佐の姪っ子の木持千夏嬢が立ち上がった。
「これはすまん、またわしの悪い癖が出た、謝ります」
なんと大森大佐は素直な飼い犬のように千夏嬢に頭を下げる。それを千夏嬢は軽く叩いて手をハンカチでぬぐった。
「海野のおば様、それから皆さんお騒がせをしました、すみません」
大森大佐を連れて帰ろうとするのを社長があわてて止めた。
「せっかくのお料理ですからデザートまでおいでください」
「でもご迷惑では」
「とんでもない大森様は大事なお客様です」
なにごともなかったように宴会が続いた。
いたずらそうな顔をして那須野子爵が浅利中佐に言った。もちろん大森大佐にも聞こえている。
「戦艦三笠は山本権兵衛閣下が西郷従道閣下に相談し政府予算を流用して造った艦ですな。責任を追及されたら二人で切腹するだけだと西郷閣下は笑ったそうです。それくらい度胸がないと人の上には立てませんな」
「あれは非常時でした」
浅利中佐は平気な顔をしている。大森大佐は必死に口をつぐんでいる。よほど姪っ子が怖いと見える。
「お寒い季節になりましたので蛸の雑炊を召し上がっていただきます」
「なるほど蛸を食べますか、さすが日本とポルトガルは近いですな」
塩味の蛸雑炊はみんな気に入ったようだ。
「ところでベルツさんはどこへお帰りになったのですか、ポルトガルですか」
海野夫人が那須野子爵に聞いた。
「ドイツです、ポルトガルには少し遠い」
夫人くらいの女性は世界地図が分からない。
「奥様も行かれたのですね、花子さんおきれいでした。別荘でお目にかかりましたわ」
「なにしろ花のように美しいからハナコだとベルツが名前をつけたそうですよ」
「まあロマンチック、日本の男性もそうありたいですわね」
海野夫人がわざと大森大佐に言った。木持千夏嬢が笑って伯父の顔を見た。那須野子爵がとぼけて言った。
「私なんかもそうしたいと思っております」
「海軍軍人は紳士であれと言われています」
浅利中佐までが調子に乗って言った。
小久保先輩が料理の説明を始めて、今度ばかりは大森大佐を助けることになった。
「デザートはエッグタルトですが、うまくできないので牛乳プリンにいたしました」
どちらも知らない者には意味のない説明だ。
「日露戦争で値段が二割も上がりましたよ」
浅利中佐がタバコを吸った。
「キセルはやらんのですか、わしは愛用しておるが」
大森大佐はそんなところが古風だ。
「紙巻に限ります」
「それにしても岩谷煙草と村井煙草の争いは激烈でしたな」
「戦場の駆け引きそのままでした」
「我ら軍人は武器だ戦い、彼ら商人は宣伝で戦う」
「あの岩谷の赤づくめ、馬車まで真っ赤に塗りました。天狗煙草だから赤なのでしょうな。驚くなかれ税金二百万円って」
「本当にそんなに払っていたのかね」
「それも宣伝ですよ。お国のために煙草を吸えって、そうすれば俺ももうかる、それは言わない」
大森大佐も煙を吹き始めた
「これでないと煙草を吸った気がしませんが、どこも煙草盆というのを置かなくなりまして困ります」
須木谷氏も葉巻に火をつけた。
「葉巻は臭くていけないと言われますが、やめられなくて。しかし煙管は女の方には吸いづらくなりましたな、洋装ではまるで様になりません」
大森夫人が煙を手で払いながらお相手をした。
「その代わり西洋菓子がたくさんできましたからご婦人は幸せです。殿方も新しいお酒がお好みですね」
「洋装婦人と同じくらい好きです」
「平山ホテルのルイス・ユンゲさんもすてきな方ですことよ」
千夏嬢が海野夫人に言った。堀内にホテルができて二十年近くになる。もっぱら葉山に避暑に来るが外国人を泊めている。
「私、ユンゲさんの娘さんの矢島マルさんとはお友だちですわ」
「外国の方がマーサ・ヤングさんてお呼びするから異国の方だと思っていました。よく気のつくすてきな方ですわ」
「まあ宿屋といえば柳屋の方が格が上だね」
ようやく大森大佐が口をはさんだ。
「あそこは徳富蘆花君が不如帰を執筆したところだ」
「浪子さん、かわいそうな人」
千夏嬢が言うと大佐もしんみりと言った。
「あれは姑が悪い、病気になるのも人の定めだ、まったく三島という相手の男も気のきかない海軍士官だわい」
「海軍士官だけ余計でしょう」
浅利中佐が本当に気を悪くして言った。この人も徹底して身びいきなのだ。
「ただ子孫を残すのも一家一族にとって大事なことです」
千夏嬢が猛烈に抗議した。
「では女というのは子孫を残すためだけのものですか、そんなの江戸時代の話です」
「いやいや海軍はたまにしか家に帰れないので妻につきそってばかりいられないということです」
浅利中佐はかわそうとして火に油を注いだ。
「男性は仕事でも遊びでも外で好きなことをする、女性は家にいて子を育てる、それができないなら離縁だということですね」
「いやいやいやいや、男も辛いのです」
すみっこでは三令嬢がささやきあっていた。
「川島様はすべて理解しているわ」
「ならどうして浪子さんの離縁を黙っているの、川島様はお坊ちゃんで薄情よ」
「だって浪子さんは死の病いよ、宿命よ」
「違うわ、幸せだからこそ千年も万年も生きたいって言うのよ、もし不幸だったら早く死にたいと思うわ」
僕は後ろを向いているし、三人とも小さな声なので誰が話しているのか分からない。
「どんなでも人間って生きていたいんです、命への執着ってすごく大きいのよ」
「あなたのお母様はインフルエンザで亡くなったのでしたね」
「もう七回忌がすみました。お父様が継母を入れられるから私…」
「優しいお母様でしたからね、もう泣かないで、人に気づかれますことよ」
僕は小説を読んでいないので何とも言えないが、これは作り話だと思っている。川島男爵と結婚した浪子さんが結核にかかって、夫が出征中に実家に帰され、継母にいじめられてやがて死ぬというお話だ。話を聞いていると誰もが事実だと思っているようだ。
「川島様みたいな方なら結婚したい、でも浪子さんにはなりたくない、ああいう後妻の方のいない所がいいわ」
「夫を取るのか家を取るのかどちらが大事」
「両方いやよ、私は自由を取るの」
話はなお続いていたが僕は紅茶のお代わりのために歩き回らなければならなかった。
結核は上流階級の人ばかりがかかる病気ではない。長柄の本郷のおキヌさんも女工に出ていたが結核で帰されて寝たきりだ。やせてしまって始終セキをしている。滋養のある物を食べさせなさいと医者は言うが、貧乏な家だから無理な話だ。でもここにいる人たちは浪子さんに同情しても、おキヌさんなんか知ろうともしないだろう。僕は大声でそのことを叫びたかった、しかし、できなかった。
「お話し中ですが失礼します。皆さん、小雪が降ってきました。お風邪をひくといけませんから車のご用の方はお申し出ください。物語の人物はきれいに死ねますが、本当に人が死ぬのは大変なんです」
せいぜいそんなことしか言えなかった。
会は終わった。なんとなく苦い後味を残したまま僕は厨房の片付けをしていた。
「あたしも字が書けたら金持ちになったのにね」
「寺子屋には行かなかったのかい」
「福厳寺の和尚さんとこには通ったよ、でも子守奉公に行かされて、イロハだけで終わったよ」
「あたしも物覚えがいいってほめられたさ、親父が聞いて怒り出してね、女が生意気なことを言い出すと家がつぶれるって、やめさせられたよ」
なまじ学問などすると役にたたない者になる、まして女は黙って働くだけでいい、そんなことが江戸時代からずっと続いた農家の常識だった。幕府にとって都合が良い。
「明治になって天朝様がお下りになるって見物に行ったよ、藤沢までさ」
「天朝様って、ああ天皇陛下だね」
「大名行列の何倍も兵隊が来てね、下いろう下いろうって怖い声を出してさ。土下座したままだったので通り過ぎる音しか聞こえなかったよ」
「父っさんは長州征伐の行列にかりだされたそうだ。あの頃は行列が多かったからね」
「江戸と明治は服装が変わったから、行列もまったく違うもののように思えるね」
お咲さんが話を変えた。
「あんたはいくつで結婚したんだい」
「うちは親が物堅いから昔と同じように十六の年だよ、結納金が5円だった」
「今は二十だね、結納も十円だってさ。うちの娘は官員さんと結婚したいってさ、無理な話だけどね」
「家柄、ご器量ともに最下等、徴兵検査不合格だね」
「百姓同士が分相応だよ」
「ほらまた因習を言う。文明開化から四十年たってもこの有様だ。開けないね」
「だってあの頃は安らかだったよ。年貢さえ納めれば村は百姓のものだった。爺さんも婆さんも侍の姿など見たこともないと言っていたよ。産まれてから死ぬまで一度も村を出なかった人もいたよ」
「そういうのを開けないというんだよ。誰でも何でもできるのが当代だ」
「だって、おらたちは百姓しかできないし、これが一番性根にあっているんだ。立身出世したい者はするがいいさ、したくない者だっているんだよ」
お咲さんは舌打ちした黙り込んだ。真冬の寒さを肌に感じた。
コトコトと下駄の音がして、そっと戸が開いた。僕は解放された気分で戸口に走った。
「はい、どなたですか」
「ちょっと話をしてもいいかね」
顔を出したのは今回も参加してくれた伊賀野家のご隠居、富来(ふく)お婆さんだった。僕はあわてて飛び出して社長か奥さんに伝えようとしたが、お婆さんはそっと手を上下に動かしてそこに座りなさいという合図をした。小さな動きだが僕が思わず座り込んでしまったほど迫力があった。命じることに慣れている人は違うと思った。
「皇后様の夢の話は聞いておるだろう」
有名な話だ。日露戦争の最中、葉山の御用邸に滞在していた皇后様が夢をみた。白衣の武士が現れ、バルチック艦隊が来たら私が海軍を守護すると誓った。翌朝、皇后が写真を取り寄せてみると、その武士は幕末の志士、坂本龍馬だったという。それまで誰も知らなかった坂本龍馬は一躍有名人になった。
「わしはお側で仕えておったので知っているが、それは作り話だ。桂太郎さんの親分の山形有朋公あたりから出た話で、結果としてバルチック艦隊におびえていた国民を静めるために役に立った。もちろん皇后様はご存知ないし陛下も黙っておられる」
「どうして僕にそんな話をするのですか」
「わしにも分からん。ただ話したかったのだ。今日の会場で浪子さんがどうしたのこうしたのと馬鹿らしい話があって、しかしお前さんだけはまっとうだった」
不如帰の続きだったのだ。
「わしも若い頃は貧乏で子たちを何人も死なせてしまった。息子が出世したのでご隠居様などと呼ばれている。しかし、今、つきあっている人たちはまやかし者ばかりだ」
お婆さんの顔が近づいた。
「富国強兵などといって誰もがお山の大将になりたがる、男も女も我さえ良ければ他人のことなど知らんぷり。一将功なって万骨枯るとは聞いても自分が万骨の仲間だとは思わない。大和魂などというのはガキ大将の空威張りだ。そして弱い者は捨てられる、弱いのは自分の責任だといわれる。そのくせ小説だ新聞だと筆に任せて好き勝手に書いたものに感動しておる。わしは浮わついた人間が大嫌いだ。おまえもそうなってはいかんぞ」
一気に言ってすっきりして晴れやかな顔になった。
「わしはもう永くは生きられんが、こんなヤツ等の仲間だとお前が覚えてしまっては浮かばれん、正直一途、質実剛健な婆だぞ」
そう言ってふところから何か取り出した。
「これをやる、わしの形見だ」
星型の色鮮やかな模様のある勲章だ。
「これは息子がもらったものだ。金鵄勲章、功績を立てて国に尽くしたともらったが息子も死んでしまった。何の功績だ、人を殺した印だ。神も仏も許さぬことだ。お前も何かでで迷ったらわしを思い出してくれ」
「大事なものです」
「とんでもない、いくら粗末にしてもいい、大事なのは人の心だ」
僕は黙って手ぬぐいで包んで引き出しにしまった。
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