今回の参加者は少なく十五人だけだった。小久保先輩は完全に思い違いをしていた、参加した令嬢たちを独り占めするためには若い男が来にくい日時を設定すればいいと。しかし、若い男が来なければ令嬢たちもまた来ない。惹(ひ)き惹かれあう蝶の道行、鈴木社長もがっかりして妙な節をつけて歌ったりしている。ところが参加者の名簿を見たとたんに先輩は張り切りだした。三人の令嬢の名前があったからだ。僕には分かっている、たとえ妙齢の女性が百人来ようとも先輩にとってはその三つの名前だけで十分なのだ。なぜ三人が来てくれるのだろうか、小久保書生に惹かれているのか、とんでもない。前回、話を聞いていたら、三人は一緒に仲良く外国を旅しましょうと約束しあっていた。だから外国と関わりのあるところには必ず誘い合って行くのだ。展覧会や講演会、外国人のパーティなど情報をこまめに集めて顔を出す。だから、こんな年寄りの多い料理の会にも出席しているのだ。
最初に麗子嬢が祖父と連れ立って来た。林氏は自分の起こした貿易会社を息子に委ねるとすぐに次の事業を準備しているという辣腕家(らつわんか)だ。当然、孫娘も金箔つきの嫁入りをさせようと思っている。麗子嬢は色こそ浅黒いが細面の美人だった。
卓につくとすぐに老人は袋から薄い本を取り出して小久保先輩に見せた。
「これは今年の六月に私家版として印刷された『遠野物語』という本です。妙なことが書いてあると言って知人がくれました。小久保君の気にいるかどうか」
「珍本到来ですな、おや近頃流行の袖珍(しゅうちん)本ですか、旅行に持っていくには邪魔にならず、旅の徒然(つれづれ)は読書に限ります」
うそうそ、あの長い船旅に持って行った本がたった一冊、実用英文典なんていう古本だけ、日常、本を読んでいる姿など見たこともない。
「なにしろ書かれていることが陸奥の辺境の村で起きた出来事ばかり、それも河童だ山姥(やまんば)だと文明開化の時代に噴飯物(ふんぱんもの)です、著者は法学士柳田国男とありますが本当ですかね」
「あら、お祖父様、それは松岡国男様のことですわ」
「おや知っている人かね」
「だって…ホホホ…恥ずかしい」
すかさず先輩が口をはさむ。
「恥ずかしいような人ですか」
なんて間抜けな言葉なんだろう。
『空行く雲よ、心あらば たにの清水にことづてよ 春のかすみに催され ものを思ひて我在りと 鶯(うぐいす)がうたひし 夢がたり』
という新体詩の作者ですよ」
そしてちょうど卓に座ったばかりの智津嬢の母親に声をかけた。
「智津様のお母様、新体詩の松岡国男様をご存知ですよね」
「あら大好きな詩人ですわ。
『利根川の夜舟のうちに相見つる 香取少女はいかにしつらん
どれほどラブしたことですか ホホホ』
本荘男爵の令夫人である。小久保先輩はあっけに取られて智津嬢の色白の丸顔を見た。自分の知らない世界が目の前に広がっている。
ちょっと遅れて歌塚礼嬢が入ってきた。僕は先輩の頬がみるみる赤くなっていくのを見た。やっぱりナンバーワンはこの人なのだ。
「小久保さん、その本を拝見してもいいでしょうか」
小久保は両手で本を捧げた。
「松岡国男様はお若い頃にお隣の日陰(ひかげ)茶屋にお泊りになったこともあるのですよ」
智津嬢のご母堂がうっとりとした声音で言った。まるで共に一夜を過ごしたような感じだった。
「この本には恋だの愛だの一言も書かれておりませんぞ、熊とか狸はよく出てくるがね」
麗子嬢の祖父がニヤニヤしながら言う。
「でも松岡様のご本なら」
智津嬢の思いは深い。
「なにを言うか。男というのは脱皮しなくてはならぬものです、いつまでも同じだと思ったらいかん、常に殻を捨てて大きくなっていくのです、なあ小久保君」
「まあ、またお祖父様のお説教が」
智津嬢ご母堂の声がさっきのうっとりした声とはうってかわったきつい調子になった。
「だから殿方というものは油断ができません、智津や気をつけて相手を選びなさい」
赤かった先輩の顔が青くなった。しかし智津嬢は先輩のことなど何とも思っていないので顔などないも同然だ。
「これだけは言っておこう」
林老人は意地悪そうに笑った。
「この柳田君はついこの前まで横須賀の捕獲審検所に勤めておった。今は農政局におるそうだ。あの部署では出世は望めまい」
「まあ」
智津嬢ご母堂は溜息をついて倒れそうになった。捕獲審検所というのはロシアから奪った分捕品や密輸品の検査を行う役所で倉庫のような所で埃まみれになってネズミのように仕事をするようだ。
「松岡様、おかわいそう」
智津嬢ご母堂はあくまでも同情者だった。
いつもより少ない人数なので集まるのも早い。しかし成子嬢は本日欠席だった。連絡があったので僕がそれを一同に告げると三令嬢は顔を見合わせて意味ありげにうなずいた。これ以上、客を待たせてはいけないので厨房(ちゅうぼう)の準備が終わらないうちに開会した。
鈴木社長が挨拶をした。
「本日は旧暦仲秋の名月でありまして、お月見は清国人も盛んに行います。今夜月明人ことごとく望み 知らず秋思の誰が家にあるかを 漢詩に詠われておりますが今宵は異国の風物を思って香港の食事をお楽しみください、お帰りの頃には月も出ましょう。実は本日は葡萄酒(ぶどうしゅ)の用意がございます。本日は近藤社長が初参加くださいまして、会社から赤と白の葡萄酒をお持ちくださいました。社長これは宣伝用ですね」
すみの方に座っていた社長は大様に手を挙げてよく通る声で言った。
「フランス、イタリアはワインの国、私はいい葡萄が育つ土地を探し甲府盆地を選びました。これからも努力してまいります。酒も文明開化をいたします」
待ちかねて小久保書生がしゃしゃり出た。
「お配りしたのは本日の菜単(さいたん)、つまりメニューです。本日は飲茶(やむちゃ)を差し上げます。お酒も結構ですが、できれば良い茶もお召し上がりください。これは香片(ひょんぴょん)またの名をジャスミン茶という香りのよいお茶ですが、かの国では下品のものとされております。龍)井(ろんせい)、烏龍(うーろん)など良い茶は数知れず、その価も天にも届くほどでありますが、今晩差し上げますのは中程のものです。味比べをしながらご賞味ください。かの国にも茶道のようなセレモニーがありますが、本日は無礼講といたします。月餅(げつぺい) フカヒレスープ、エビ入り蒸し餃子、五目焼きビーフン、粽(ちまき)、エビチリソース、出来次第に卓にお持ちいたします」
厨房は戦場のような騒ぎになった。カマドの他に七輪を並べたてて料理をするのだがなかなか間に合わない。そこで小久保書生得意の演説で間を持たせることになった。もちろん三令嬢を前にして先輩がいやというはずがない。
「これなるスープはフカヒレスープ、鮫の背びれの干物を三七、二十一時間、水で煮てスープで煮て柔らかくしたものです。精力増強この上ないという皇帝、貴族、富豪の食しますもので、もちろん楊貴妃も西太后も…」言いかけて三人の令嬢に気づいてあわてた。美容健康にいいと申します」
「ここに積んでありますのは月餅と申しゴマ、クルミ、ナツメなどを餡にしました饅頭(まんじゅう)でございます。さすがの我輩も製造は難しくて横浜の懇意な店に頼み取り寄せました。お茶で舌を洗いながらご賞味ください」
台所からはまだ料理のやかましい音がする。
「我輩、香港と上海を見てまいりましたが、ご承知のように香港はイギリスのものとなり、上海も我が帝国をはじめアメリカ、ヨーロッパの租界地となっております。香港には丸の内にひけをとらない立派な建物がならんでおりますが、その地を歩むのは外国人ばかり、かの国の人は出入りを禁じられております。我が国も幕末の維新を仕損なっていたら、かくなったかという感慨を持ちました」
「君、我が大和民族がそんな無様になるというのかね」
いつのまにか卓についていた大森大佐が大声で叱った。
小久保書生はびっくりした顔になった。どうも先輩はこの老軍人が苦手だ。もしかすると祖父とか親戚の怖い誰かに似ているのかもしれない。
「いや、大森大佐殿、そうなったかもしれませんぞ」
麗子嬢の実業家の祖父が穏やかに言った。
「もし西郷隆盛なければ幕府は安泰、そして無節操にずるずると諸外国に身売りしておったことでしょう」
「何を言う、彼こそは西南戦争で弓を引いた反逆者です」
「深謀遠慮の果ての奇策です。あれで世間は収まりました」
「征韓論はつまり正しかったのですな」
「だからといってあの時、征韓論を進めていたら経済破綻、日清日露の勝利もなかったでしょう」
どうやらこの実業家は戦争景気でしこたま稼いだものとみえる。
「今は日韓併合して亡き西郷も安堵しておるでしょう」
「いや西郷先生は対等の国としておつきあいをしようとされていたのだ。日本と同じく維新を起こして韓国の国創りに手を貸そうとされていたのです」
二人は明治の典型的な頑固者で論争が飯より好き、自説は曲げない、場が白けても気にしない、自分は偉いと思っている、まさに好敵手だった。残念ながら話題転換に尽力してくれる海野夫人が今日はお休みだ。
ようやく五目焼きビーフンが出来て粽も蒸しあがった。小久保書生は手を打って静粛を求め説明した。
「この粽を包んだ蓮の葉は鎌倉の八幡宮から失敬してきました。まだ香りは失っていません。モチ米とシイタケと叉焼を入れ鶏出汁(だし)で炊いて葉に包み蒸しました。こちらのビーフンにも叉焼(ちゃーしゅう)とエビ、カマボコが入っています。お茶は気に入った葉をご注文ください。最初の一杯は捨てます。二杯目は香りを三杯目は甘みを四杯目は渋みをお楽しみください。何杯目か分からない場合は今が最高だと思って適当にお楽しみください」
「今の言葉は失礼だ、なにを生意気に、わしの舌をなまくらだと申すのか、大陸歴戦の勇士ですぞ、浴びるほど茶を飲んできた」
三人の令嬢の手前があるので先輩も負けられなかった。
「では、勝負しましょう。この極上の龍井のお茶、さあ何杯目でしょう」
「何を賭ける」
「負けた方が余興に隠し芸をする、それでどうですか」
「よし、受けた、さあ飲ませろ、やっ、これは三杯目だ、どうだ」
すかさず鈴木社長が叫んだ。
「さすが閣下、的中です、恐れ入りました」
三令嬢がはしたなくも大笑いした。先輩はヤケになって桃中軒雲右衛門の改良浪花節をうなり始めた。残念ながらここにいるのは上流階級ばかりで、寄席に行くなどという下賎(げせん)な人はおらず、浪花節を知る人がいない。
「義太夫ではないようだ」
「謡曲でもないようだ」
「うるさい、もういいからやめなさい、そんな芸は隠しておいてけっして外に出さんでくれ、臭いものに蓋だ」
「桃中軒雲右衛門の義士銘々伝より、お粗末様でした」
「まったくそうだ」
大森大佐は率直だ。
「活動写真ができたのは、そう明治三十年でしたな」
林老人がつぶやいた。
「当時は高価なもので特等席一円という」
「私は見ましたよ、でも他愛のないもので、火事から助けだす場面やニューヨークの町の様子など、なんの物語もありません」
智津嬢ご母堂は社交家だ。
「今は尾上松之助というのが流行っているそうですな」
「あら目玉の松ちゃんのことよ」
麗子嬢が口をはさむ。
「お前、わしに言わないでそんなものまで見ているのか」
林老人がびっくりする。
「ほほ、歌舞伎なんかより動きが速くて面白いことよ」
「こんなに不況なのに遊びだけは盛んだな」
大森大佐が言うとすぐに林老人が答えた。
「それは君、どこかで儲けている者がいるのだよ」
お金の話はしたくない大森大佐は聞きかじったことを言った。
「ルナパークというのは何じゃい」
「遊園地ですことよ、真ん中に大きな滝が流れていて、回転木馬もあるの。アメリカではどこの町にもこういう遊園地があるそうよ」
智津嬢ご母堂は率直だ。
「子どもの行くところではないのか」
「行ってごらんになれば面白いですわ」
僕は文化というのがその世代のもので、時代とともにめまぐるしく変わっていくことを知った。都会は変化が激しい、この静かな長柄の郷にも新しいものがどんどん入ってくる。世の中を変えるのは若い世代の仕事だ。年寄りが何を言おうとも、良いと確信したら反対を押し切っても変えていかなければならないと思った。
ようやく全部の料理が供されて宴が果てた。僕は口もきけないほど疲れて台所の敷居に座り込んだ。
オバさんたちが話していた。
「鈴木のおっかさんのナカさんが偉かったんだよ」
「あの人は芦名の呉服屋の後家さんだ」
それは聞いている。瀧屋という米や酒の店をやっていたがおもわしくなく、十年ばかり前から避暑客の間貸しをしていた。お客の村田春齢先生という学者からヨード灰の作り方を聞き、幸い菜種絞りをしていた裏庭があるのでカジメを灰にしてヨードを作り始めた。順調に儲かっていたところが、息子の泰助、つまり今の三郎助さんだが、相場にのめりこんで大穴をあけてしまった。しかし、すっかり改心した三郎助さんは明治27年、大阪の友田商店から硝石を買入れて塩化カリを作り始め鈴木製薬所を名乗った。それから帝国大学の池田菊苗先生の依頼を受けて明治42年から味の素を売り出したのだ。
「通りかかると海草を焼く煙が臭くてね、細々とやっていたのが日清戦争で当てたね」
「硝酸カリは大砲の火薬になるそうだね、戦争成金の一人だよ」
「ただナカさんも三郎助さんもいい人でね、今日のお客のような嫌味な成金とは大違い」
「あんた、清浄寺の先の工場は千坪もあるそうだよ」
「たしか、あんたの親戚も勤めていたね」
「そうだよ、叔父さんが倉庫番だし、その息子は職工だ。仲間が30人もいるとよ」
「ナカさんも苦労が報われたね、もう七回忌かい」
「田越川に工場ができた年だから、まだ5年だよ。でも本当に当てたのは味の素だね」
「美人印ってさ、あの絵がかわいいよね」
「三郎助さんは事業家さ、さわると金になる手を持っているのさ。ふだん戦争をしているのと同じだからね」
「のそのそしていては金がもうからんよ。若い者はよく聞いておきな」
なんだ今の話は僕にしていたのか、口は悪いが親切だ。
「近頃は村の寄り合いがなくなったね。神様がミカド様になったからかね」
「ありゃ。ミカド様は神様だったのかい。大日如来様の生まれ変わりかと思うていた」
「いや、ご先祖が伊勢の天照大神様じゃから神様のご子孫だよ」
「だって天照大神様は大日如来のご化身の菩薩様だって聞いたよ」
「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)なんていって神様と仏様を引き離したからね、それでお祭りもふるわなくなったさ」
「だけど宮芝居の市川団千郎は名人だよ」
「お江戸では市川団十郎と言って田舎では団千郎と名乗っているってさ」
「バカだね、団千郎はどこに行っても団千郎さ、団十郎のにせ者だよ」
一番年上のサトさんだ。
「昔は庚申のお日待ち、念仏講があったし、盆正月だ田植えだと良く集まったものだよ」
「あの味噌汁はうまかったね」
自分の家で作っている味噌を持ち寄って汁にする。漬物や煮物を一品作って会食する。
サト婆さんは味噌作りの達人と呼ばれていた。
「お婆さんの目の黒いうちに味噌作りの秘伝を教えておいとくれ」
まだ若い新家の嫁のハルさんが声をかけた。
「縁起でもない、まだ目はつぶりたくはないよ、さて帰って極楽の夢でも見よう」
ハルさんは学校に通っていたので漢字も書けるしソロバンもできる。だから若いけれど皆から一目置かれている。
「なあに、味噌なんてものはその家のタルに味がしみついているものだよ、先祖代々の味だ。そこへいくと漬物はその人の腕だよ」
「あんたの漬物はトウガラシや昆布が入っていて文明開化だね」
誰かがヨイショをするように言った。
「ここの料理なんかより、ずっと飯が進むよ、あんたのとこは米麦の按配をどうしているかい」
「あれ米4に麦6ではないのかい」
「押し麦にしたら飯炊きは楽だが嫌われてしまったよ」
丸のままの麦では炊けないので、前の晩から水に浸して柔らかくする。押し麦はつぶしてあるので混ぜるだけでいいのだ。
「新宿の兼さんのご亭主が牢屋から出てきて自慢したってさ。俺は米6の麦4の飯を食ってきたって」
「あら牢屋ではそんないいものを食べているのかい」
「汁と漬物が出て、何日かに一回は魚だそうだよ」
こんなに海が近いのに郷の人たちはあまり魚を食べない。ワカメやヒジキは常食しているが魚は贅沢だという気持ちがぬけない。
「牢屋はいいね、どうしたら入れるかい」
「我こそは社会主義だって言えばいいよ」
ハルさんの一言にみんなシンと静まり返り、なんか恐ろしいことが起きるように身をすくめた。
新聞さえ読んでいない田舎のオバさんたちまで緊張させる事件、僕も手強い敵にあったような気がして肩をいからせた。それから無言になったオバさんたちはさっさと洗い物をかたづけて帰っていった。
僕も部屋に戻ってポケットの紙を開いた。見送りの途中で智津嬢が僕を目で呼び、さりげなく渡した紙だった。暗い灯りに照らすと先輩宛の封書だった。僕は仰天して走っていって渡すと狂喜した先輩はすぐに僕を部屋から追い出した。しかし、すぐに浮かない顔をして僕のところに来た。
手紙は身の上相談だった。しかも先輩にとってはつまらない役割を依頼してきたのだ。
先週、成子嬢が兄の部屋で雑誌を読んでいると、その中に素敵な詩があったそうだ。
やはらかな君が吐息のちるぞえな
あかしやの金と赤とがちるぞえな
ほっと吐息をついたとたんに体が震えて恋というものを実感したのだそうだ。
その文は北原白秋という詩人の作品を永井荷風という人が解説しているものだった。そして成子嬢はなぜか詩人よりも解説者の方に心が傾いてしまった。兄にこっそり聞くとフランス帰りの文学者で慶応の教授、逗子に別荘があるという。とたんに会いたくて会いたくて、思い焦(こ)がれてしまったそうだ。
自分一人で会いに行くことなどはできない、といって家族には知られたくない。親友も女ばかりだから同行するのは無理だ。
「そこで我輩が従兄とか家庭教師とか適当に名乗ってボディガードを務めてくれということなんだ」
「もちろん承知するのでしょう」
「我輩は見かけによらず小心で、知らない人と話をするのは苦手なんだ」
「機会到来、この一歩で未来が開けますよ」
「どうしたものかな」
そこで、まず僕が偵察に行くことになった。田越村の対君山荘という別荘はすぐ見つかった。留守番の老人に聞くと若旦那は明後日来て二、三日滞在するという。さっそく成子嬢に知らせた。先輩はまだ度胸がすわらないようだった。
「成子嬢の手紙です」
押し頂いて部屋に持ち帰った先輩はすぐに顔を紅潮させてでてきた。
「我輩を頼りにしている。男子の本懐だ、Z旗が翻った、決戦だ」
それほどのことでもないだろう。
いよいよその日がきた。秋晴れの爽快(そうかい)な午後一時、二人は連れ立って出かけていったが帰ってきた先輩はどんなことが起きたのか何一つ言おうとせずどこかへ出かけてしまった。
机の上には半紙が乗っていて、下手な字で
…無邪気は愛すべし、無責任は憎むべし されども無邪気は無責任の一種なり
と書かれていた。家出の書置きかもしれないと不安になって鈴木社長に見せた。
「ああ小久保君も人生の深淵をのぞきこみましたね。彼の哲学がここから始まるか」
そして、その言葉は新聞でしきりに短文を書いている、毒舌家として有名な斉藤緑雨という人の警語だと教えてくれた。
「気にすることはありません、自分の極楽を探しに行っただけです。無邪気で無責任な人ですから」
僕は成子嬢を訪ねてみた。そこには三人の令嬢もいてにぎやかに話している。
壮吉永井荷風先生は洒落た洋装でラタンの椅子に座っていたそうだ。しかし不機嫌そうにこちらをギョロギョロにらむ。紅茶が出た。成子嬢は私の求めている人ではないと直感で分かったそうだ。しかし、せっかく来たのだから大胆に、先生のお作がもっと読みたいと言った。すると、これを読んでごらんと本を出してくれたのが『蛇つかひ』という気味悪い本だった。どう思いますかと聞かれて、こういう変なことは分かりませんと答えると、大人の女になりなさいとびしゃりと言われた。むっとして私は子どもですかと言い返すと、「お嬢さん」と優しく声をかけてくれたそうだ。君もそう思いますねと突然、話をふられた小久保書生は目を白黒させてアワワワワと言ったそうだ。先生も成子嬢も吹きだした。それから永井先生は打ち解けて、アメリカやフランスの様子や文学の話をしてくれた。小一時間ほど楽しく話して別荘を出たが、帰り道で成子嬢が「小久保さんのおかげです」とお礼を言った。先輩はハアと言ったきりで別れたそうだ。
成子嬢の別荘から身の回りの世話をしているおばさんが来て小久保先輩に面会を求めた。
「どこかへ出かけてしまいました。でも次の会までには戻りますよ」
「何か失礼なことがなかったかおと嬢様が心配しておられますのでな」
「いいえ、先輩はそういう役割に生まれついてきたのです、宿命だとお伝えください」
「ことずけもあるよ。これはいただいてきた本ですが、なんだか男同士の友情の話だそうです。永井先生がもっと男を研究しなさいと言ってお渡しくださったのですが、そんな本を家に置いておくのもなんですから小久保さんに差し上げますというんだよ。あんたも読んでみたらどうだね」
そう言い残してさっさと帰ってしまった。
『祝杯』と題名がついている。僕より少し年上の男の話だ、先輩には近いかもしれない。
僕は柱に寄りかかってランプを明るくして読み始めた。ずっと聞こえていた虫の声が耳に入らなくなり、物語に引き込まれていくのを感じた。欠けはじめた月が縁側に庭木の影を落とし、それが風に吹かれて揺れている。潮風が涼しかった。
ふと何だかとても寂しい気持ちになって「おおい」と声を出した。もちろん返事はない。寂しい浜で「おおい」と呼ぶと、海の死者たちがそれに答えて「おおい」と返事をする。だんだん波打ち際に近づいていき、ついに死者の仲間にされてしまう、そんな怪談を思い出した。ふだんは頼りにならない先輩でも、こういう時には懐かしくなる。これが男同士の友情なのか。
その夜、先輩は帰ってこなかった。
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