セミ時雨きくバタビア料理

 海までくだる川沿いの細道は春から秋までは草におおわれ、ハエやヤブ蚊が飛び回っている。雨のあとは足がしずむほどぬかるんだ。昔は舟が通ったという川も何度かの地震で底があがり、また土地を開いて田畑にしたので水の流れは草むらの中にかくれてしまった。
 その川の名も森戸の磯で海に出るので今では森戸川という。長柄村といっても、ここに入るためには山を越えなければならない。細道を上りつめ桜山から下をのぞくと田畑の間にところどころ庭木があって茅葺屋根が見える。こんもりとした森は福厳寺だ。日当たりのいい谷に向かって下って行くと御霊神社の脇へ出る。山を背にして家々は低い石垣で囲まれ、縁先は畑になっている。夏なら瓜や茄子や枝豆が、冬には大根の葉が日に輝いている。菜の花があたりを黄色く照らしたり、トウガラシの赤い実がチラチラ光っている季節もある。採れた物を外に出すには山道を越えて運ぶしかなかった。少しの野菜を逗子に出す時は人が負い、米や大根などは荷ごしらえして馬に載せて馬方が引いていった。村の生活に欠かせない物もそうやって運びこまれた。
 川が直角に曲がる所に小さな店があって雑貨から薬や菓子まで売っている。四方からの山道が交差する辻になっていた。
「ここのところ冬が暖かいのはありがたいが夏の暑さには閉口しますな」
 鈴木社長はパナマの帽子をかぶり開襟シャツに白い麻のズボンをはいてとびっきりのお洒落をしている。
「セミの鳴き始めるのが早くなりました」
 小久保書生がのんびり答えた。僕は白い半そでシャツに半ズボンをはいて少しドキドキしている。今回のお客には若い令嬢がいるので始まる時間を昼前にしている。ところが小久保書生はそんなことをすっかり忘れて、相変わらずの単(ひとえ)の絣(かすり)の着物に兵児帯(へこおび)をだらしなく巻きつけている。
「そうだ蚊取り線香をたかなくては」
 鈴木社長があわただしく奥に入っていき皿の上に渦巻き線香をのせて火をつけた。
「除虫菊と聞いて、女中のお菊さんと間違えたあわて者がいるそうです。しかし文明開化のおかげで便利なものが増えました」
 先輩は高慢そうな顔をした。
「台所で仕事をしていても蚊に刺されないなどは夢のようですな」
 嘘、嘘、自分は出たり入ったりして命令するだけで立ち仕事など全然しないのだ。
「ところで小久保君、今回は我が社の製品の威力を見せつける場面がほしいものですな」
「その工夫はできています、今回のスープには皆さんの見ている前で味の素を入れます。まず、元のスーブを飲んでもらって、その後で皆さんの目の前で入れてみせれば味の違いがよく分かると思います」
「なるほど君は知恵者だ」
「諸葛孔明、竹中半兵衛、生まれ変わって小久保良平と言われております」

 足音が聞こえて最初のお客がやってきた。海野夫人と麗子嬢だ。二人は鮮やかな朝顔のそろいの浴衣を着てほんのり化粧をしている。その令嬢の姿を見て小久保先輩は棒立ちになった。
 あわてて部屋に戻って着替えようにも、すでに次の客がやってきている。先輩は焦ったが客は途切れない。とうとう会が始まる時間になってしまった。
 四十人ほどの客が襖も障子も取り払い風通しを良くした座敷に座った。盛況のため椅子と卓が足りなくなり隣の料理屋の日陰茶屋さんから借りてきたので卓ごとに段差がある。風がよく通って風鈴がチリンチリンと鳴っている。前回と違って客は静かに開会を待っている。さすがに若い女性が多いと男は緊張するものだ。そのことを僕は小さい声で先輩に言ったが、それ以上に緊張している先輩の耳には入らない。どうやら震えているようだ。座敷にはご婦人の手にした扇子の動きにつれて化粧品と香水の匂いが入り混じって流れてくる。僕はこの匂いが苦手だ。
 鈴木社長が謝辞を述べて小久保書生を促した。正面に立った先輩はブルブル震えていた。
「バタビアと申すのはインドネシアの島々の一つの町でありまして、赤道直下の暑い国であります。我が戦国時代にはジャガタラと呼ばれ、ジャガ芋の語源になりジャガタラお春の悲しい物語を残しました。深いジャングルにはなにやら恐ろしい動物が住んでいるという噂があります。男はクリスというギザギサの短剣を離さず、女は高く髪を結ってたいへんお洒落をしています」
 こんなマクラをふって料理を説明するはずだったのがモゴモゴ言うだけで何も聞き取れない。第一、着物がみすぼらしくて髪がぼさぼさだ。澄ました令嬢方が冷たい視線を送ってきた。鈴木社長はニヤニヤしながら成り行きを見ていたが僕に代わるようにうながした。先輩が練習しているのを毎日聞いていたのですっかり覚えている。話し始めると、へぇ、なるほどという声があちこちに起こったので僕は自信を持った。
 ようやく食事になった。
「まずはスープを召し上がれ」
 今日は客が多いので手伝いの女の人たちと一緒にスープを配る。本職の配膳係りはさすがに優雅にスープ皿を置いていく。
「ソト・アヤムと申す鶏のスープです。まずはご賞味ください」
 先輩が説明する、さっき裏に駆けこんで水を浴び、ようやく落ち着きをとりもどしたのだ。
「なんじゃこれは。味がうすいの」
 大声が聞こえた。前回で懲りてもう来ないと思った大森大佐がまた来ていた。今日はちゃんと姪っ子を連れて来た。
「本当にこういうものなんじゃろか」
「では私と茅部少年が皆さんのところに伺って味を調えます、しばしお待ちください」
 さあ、これからが手品だ。僕も浮き浮きとして小さなガラス瓶から耳かきで味の素をスープに入れてまわった。入れたそばからつぶやく声が聞こえてくる。
「ほう、なるほど」
「すっかり美味しくなりました」
 その声に刺激されて待ちかねていた人が自分の番になると競うように歓声をあげた。
「ずいぶん違う、これはすごい」
 鈴木社長はもう笑いが抑えられなくなって後ろを向いた。小久保書生はさっきの狼狽(ろうばい)ぶりなど忘れ去ったように居並ぶ令嬢の顔をしげしげと見ながら卓から卓へ歩いていった。
「なるほど、これですか」
 海野比羅夫氏がつぶやいた。
「鈴木君、なかなかやるじゃないか」
「さっそく宅でも料理人に言いつけますわ」
 海野夫人が如才(じょさい)なく言った。
「ありがとうございます、今日は皆様にお土産として一瓶ずつ進呈いたします」
 手品の成功に気をよくした先輩が偉そうに料理の説明をした。
「次にご賞味いただくのは挽肉と春雨の揚げ春巻き、前回の生春巻きとは違った味でございます。高温の油で揚げておりますので衛生にもよろしい。これは我が国のテンプラと同じようにどの地方でも食べております。それから、こちらはサテと申します焼き鳥ではございます。タレに南京豆ソースを使い食味のよい肴(さかな)です。紳士方、淑女の皆様、ビールが冷えておりますのでご遠慮なく茅部君にお申しつけください。大皿はナシゴレンと申します炒飯です、小皿に取り分けてお召し上がりください」
 僕はかいがいしくビールを配り、ナシゴレンを小皿によそって回った。栓(せん)が抜かれると場が一気に賑(にぎ)やかになった。
「とうとうやりました。日韓併合、これで帝国も万々歳じゃ」
 大森大佐はいきりたっている。
「左様、大韓帝国などと言っておりますが、いわば維新前の我が国同然、一気に近代化するために我が国か力を貸すのです」
 海野氏は抜け目がない。たぶん何か利益を得る話があるのだろう。
「あのかわいい皇太子さんはどうなるの」
 麗子嬢は優しい。ウン皇太子はまだ14才、三年前に来日して留学している、スンジュン皇帝の弟だ。
「立派な殿下です、賢く勇敢で。兄君は病気がちなそうですから、いずれ後を継ぎましょう」
 那須野茂秋子爵は宮中に詳しい。
「天皇皇后両陛下におかれましても大変なお可愛がりようで、実のお孫様よりも大切にされているようです」
「ご両親のもとを離れてお寂しいでしょうね」
「いやいや宮中ではそれが当たり前です。陛下も皇太子殿下もそうでした」
「まあ、お父様、私もそうしてもいいこと」
 麗子嬢が大胆なことを言った。
「嫁入り前の娘が何を言うか」
 海野氏はあわてたが夫人は平気だった。
「そうなさいませ、洋行がよろしいわ、大山巌公爵も自宅では奥様と英語で話されているそうですわよ」
 海野氏が話題を変えた。
「それはそうと夏目漱石先生のお具合が悪いようですな」
 「朝日新聞の『門』という小説、あれは身につまされます」
 那須野子爵も同じように胃が弱いようだ。
「あなたもあの宗助とかいう主人公と同じようなことをなさろうとしたのですか」
 子爵の隣のご婦人がからかった。これは親友の妻を奪って結婚した男が苦しむ小説だと社長が先輩に話しているのが聞こえた。
「いや、万理姉さん、男にはそんなことが時折、いや父母未生以前にはあるものです」
 子爵が閉口して訳の分からないことを言う。
「殿方というのは仕方ないものですね」
「私は『白樺』を読んでおりますわ、素敵な世界が描かれていますの」
 今回も海野康子夫人は世話を焼いてくれる。
「清々しくて、若々しくて」
 かたわらに座っていた林家の麗子嬢が口をはさむ。
「志賀直哉先生の『網走まで』って印象深いお作ですこと、優しい目で女性を見ていてくれますわ」
 小久保先輩はしゃしゃり出たかったが小説を読んでいないので仕方ない。
「私も大好きですこと、どんな方なのかしらお目にかかりたいようですわ」
 これは林麗子嬢の親友の本荘智津嬢、すぐに隣の席の歌塚礼嬢が答えた。
「内村鑑三様のお弟子さんだそうですわ」
「内村牧師様はここ葉山の教会でも演説なさった方ですわ」
「なに内村鑑三だと、こんどの戦争では非戦論などを唱えおったけしからんやつだ」
 大森大佐の耳に入ってしまった。
「しかし兵役拒否した弟子を諌(いさ)めて戦場に送ったそうですから、まんざら皇国をないがしろにするわけではなさそうです。第一、伊藤博文公でさえも日露戦うべからずという論を最後まで主張していましたよ」
 子爵が口をはさんで穏やかに収める。
「それよりもこのエビセンベイ、ビールにぴったりあうのが不思議ですな。これもバタビアのものですか」
 そうですと僕が答えると三令嬢が笑顔を向けてくれた。先輩は正面に立っていたので三人の顔を見ていない。だから僕は余計にうれしかった。
 いよいよ食事が終わりに近づいた。
「食後の甘味にタピオカココナッツミルクというものをご用意しております。その前に社長の鈴木がご挨拶いたします」
 趣向が成功したので社長は上機嫌だった。
「皆様、ご堪能いただけましたことと存じます。さて前回お預けになっております越南国のアオザイに加えて、本日はジャワのバティックもご覧にいれます」
 拍手が起こった。
「このバティックと申すはジャワ更紗(さらさ)、ロウケツ染めであります。小さな壷にロウを溶かしておいて我が国のキセルのようなもので汲み取り、広げた布に模様を描きます。全体を草木の染料で染めた後、湯にくぐらせるとこのような布になります。村々には決まった模様があるようで土地の人は布がどこの産かすぐに分かるといいます」
 鈴木社長が縁日で古着を売るような口調で言い立てた。僕はあの暑い午後を思い出した。ヤシの葉をかぶせた小屋の中で僕より年下の女の子たちが仕事をしている。溶けたロウの匂いと熱気、釜には熱湯がたぎっている。女の子たちは僕を見てニッコリ微笑んだが疲れた顔をしていた。汗と疲労の中で美しい布ができていく。
「幅と丈が短いので着物にはなりませんが洋装とかテーブルクロスとかベツドカバーなどにはよろしいかと存じます。アオザイは服がぴったり合った方という決まりでしたので、こちらはクジ取りにしたいと存じます。最後にお配りする瓦煎餅に当たり籤を入れておきました。これはフォーチュンクッキーと申しまして清国人が宴席で好みますアテモノです。中には鶴岡八幡宮より頂いたおみくじを入れておきました。大吉を取った方に進呈いたすことにします」
 白いアオザイは手から手へ回ってついに止まった。可児姉妹の妹、十二才になる迦羅子嬢、大きい目をした西洋人形のような少女だ。早速みんなに促されて奥に入って着替えをしてきた。ズボン丈が長すぎて折り返してあるがアオザイがぴったり合った。
 とつぜん僕は暑いバタビアの朝を思い出した。なにかの花が甘く香り、忙しく人々が歩き回る路地裏にその国の少女がたたずんでいて、通りかかった僕にジャスミンの花をくれた。僕は恥ずかしくてお礼を言うことができなかった。あの少女と言葉を交わさなかったことが悔やまれる。少女の指は長くしなやかだった。
 迦羅子嬢はすまして全員の間をお披露目して回り、平気な顔でデザートを食べた。この度胸、将来が楽しみだ。
 すっかり先輩を忘れていた。広間に見当たらないところを見ると奥にいるのだろう。ホア嬢の思い出か、またはバタビアの宿屋の娘デウィスプロボ嬢か、たぶん影絵芝居に連れて行ってくれたデウィスプロボ嬢のことを思い出しているのだろう。
 ゆらゆら揺れるヤシ油の灯に照らされて影絵が一晩中続いていた。大きな髪飾りをつけ鋭く切れ長な目、鼻筋の通った美女スプロボは、英雄アルジュノにあまたの危機を救われる。先輩は、我こそアルジュノなりというように肩をいからせて影絵に見入っていた。言葉が分からなくても怪物と美女と英雄の区別はできる。デウィスプロボ嬢は登場する人物の名前と物語を熱心に教えてくれる。それはジャワ語だからまったく理解できないが、優しく耳に響く言葉と髪に飾った花の香りの芳しさだけで十分だった。最後にニゥオトカウォチェという名前の怪物が倒されて観客は歓声をあげる。ほっとして僕はデウィスプロボ嬢の顔を見る。僕と彼女はしっかり手を握っていた。なぜなら先輩の両手はバナナの葉に包まれた食べ物を離すことがなかったからだ。
 そんな思い出にふけっていると奥から先輩が出てきた。クリスを背に差しバティックを着てバタビアの男になりきっている。
「食後の腹ごなしに我輩の冒険談を一つお聞かせいたします」
 残念ながら広間の喧騒は先輩の声をかきけしている。社長までも話の渦に飲み込まれている。
 あの夕方、二人はあてどもなく路地を歩いていた。もちろん先輩がきれいな娘を見たいと誘ったからだ。角々を曲がっていくうちにだんだん路地の深みにはまっていくのが分かる。洗濯物は粗末になり、たたずんで見送る子どもや老人の顔がきつくなっていく。
 ついに道は行き止まりになった。それを待っていたように男が三人、道をふさいでゆっくりこちらに来る。危険を察して僕らはそばの家の戸を押し開けて飛び込むと一気に三階まで駆け上がった。そしてベランダに出ると隣の家の窓にとびこんでようやく外に出た。そこは広い野原だった。後ろからはギャングが追いすがってくる。オランダ軍の兵隊たちまで追って来た。ついに絶体絶命になった時に、先輩は剣道五段、柔道三段、空手四段の腕を発揮した。
 嘘、嘘、先輩は突然ゴリラの真似を始めたのだ。ワツホワッホと叫びながら胸を叩いてガニ股で踊り狂う。かの地にはゴリラはいないが、オラン・ウータンという大猿がいる。兵隊もギャングも最初はびっくりしたようだが、すぐに呆れ果てて笑いだした。それどころか草地に座って見物し、最後には小銭まで投げてくれた。ばかばかしい一幕だった。
「我輩はこのクリスでたちまち三人を切り伏せましたがポッキリ折れた、習い覚えた柔道で五人を投げ飛ばし、相手がひるむ所に走りこんで当身をくらわせ空手を用い、敵の放つピストルの弾をひらりとよけて」
 誰一人聞いていないホラ話はみじめだ。
 ようやく社長が気づいて皆に声をかけた。
「小久保君が武勇伝を話しております。皆さん聞かせてもらおうではありませんか」
 皆が一斉に振り返ったが、時すでに遅く話は終わりだった。
「そういう訳で我輩は無事に帰ったのであります」
 まったく何事もなく喧騒が戻った。
「迦羅子さんおきれいですこと、まるで天女様のよう」
 海野夫人が感に堪えたように言う。
「可哀想な孝女白菊さんもお美しかったそうですわ」
 前の戦争で行方不明になった父を慕う少女の物語が歌になりおおいに流行った。夫人くらいの年の女性には思い出深いようだ。
「そうだ皆さん、お歌を歌いましょうよ、孝女白菊の歌」
  〽(うた) おりしもひとり門を出て、父を待つなる少女あり。年は十
  四の春あさく、色香ふくめるそのさまは梅か桜かわからねども、末た   
  もしく見えにけり
 皆がしんみりと合唱した。
 次は「美しき天然の曲」がいいわ。でも楽器がないと歌いにくいわね。大丈夫、私の合図で、ひのふのみ
 次は「荒城の月」はどうかしら。
 なんといっても「真白き富士の嶺」ですことよ、私もいまだに涙がとまりません。
 ずいぶんしんみりしてしまいましたこと。「はいから節」なんてご存知かしら、陽気でいいですわ、チャンチャンチャンと。
 結局、歌の名前を言った人が歌い出して皆が唱和する。海野夫人は真ん中に立って指揮者のように手を振った。日頃お澄まししているご婦人が大きく口をあけて元気に歌い、ふだんは活発な令嬢が頬を染めて恥ずかしそうに歌う。僕らはあっけにとられて眺めていた。
 歌合戦が続くうちにあたりはうす暗くなった。おひらきの時間だ。フォーチュンクッキーが配られた。予想通りに海野夫人が大吉を取ってバティックをせしめ、意気揚々と引き揚げていった。

 お見送りをしていると林麗子嬢が僕に近づいて小声で言った。
「お願いがあるの。私たち海水浴というのを経験してみたいわ、まだ海に入ったことがないのよ。八日はどの家でも親が出かけてしまい留守になるから都合がいいわ。みんなでこっそりと海水浴をしてみようと計画したの。協力してくださるかしら」
「もちろんです」
「では後ほど手紙を差し上げるわ」
 僕は先輩を誘おうか少し迷ったが、やはり恩を受けているのでこのことを話すことにしたが先輩が見つからない。僕は流し場を通り抜けて奥の方まで行ってみた。流し場ではオバさんたちが皿やコップを洗っている。僕を見るとあてつけのように言う。
「こんなもの食べてうまいのかね」
 厨房では悪口が続いている。
「ああ口がおごった別荘さんたちだから時々妙なものを食べたくなるのさ」
「まるで胃がやけたネコが苦い草を食べるみたいだね」
「バチ当たりめ、給金をくれている人たちだよ、イヌ、ネコと同じにしてはいけないよ」
「日本にはもっとうまいものがあるのにね」
「テンプラなら毎晩でもいいよ」
「ボタモチを百個も食べてみたいね」
「わたしはウナギだね」
「おばさんはウナギを食べたことがあるのかい」
「ああ、十五年くらい前だったかね、客が食べ残したのをお前食えっていわれてさ。いくら世の中が変わってもウナギの味は変わらないだろうよ」
「新聞に出てたけど日韓併合ってなんだい」
「おや、あんたの家は新聞を取っているのかい」
「馬鹿いっちゃいやだよ、一部が一銭五厘だよ、ボタモチが食える値段だね。号外をただでもらったのさ」
「なんでも朝鮮を分捕ったってことらしいよ、太閤さん以来の出来事だってさ」
「戦争に勝ってよかったね、勝てば官軍さ」
「でも分捕られた国の人は大変だね。いくらイギリスが強いっていっても日本が分捕られたらたまらないよ」
「けれど物の値段が安くなれば結構さ」
「その朝鮮の人たちは税金が高くなるだろ」
「わたしらだって政府に分捕られているようなものだからね」
「そうだよ、兵隊を出せとか、塩もタバコも酒も専売になるし、戦争はいやだよ」
「勝ったからいいようなものの、負ければ日本も朝鮮と同じ目にあうところだ」
「日本が負けるはずがないだろ」
「馬鹿だね、そう言って江戸の公方様が負けて京都の天朝様が日本を取ったのだよ」
「戦争ったってケンカの一種だから体が小さくてもケンカ慣れしている方が勝つんだよ」
「今でこそ侯爵だ伯爵だと言っているが昔を思えばチャンチャラおかしい、みんな悪党ばかりさ」
「知っているかい、厚木の陣屋を焼き討ちしたのは薩摩の連中だよ」
「へぇ火付け強盗かい、罪が重いね」
「講釈を聞いたのさ。ころは慶応3年の秋も深まる神無月、江戸幕府最後になります15代将軍徳川慶喜は大政奉還しました、それは何事かと申しますと、昔、徳川家康が朝廷から与えられました征夷代将軍の位をすっぱり返してしまいまして、イギリスにならった貴族院を開こうとした。さすれば四百万石を領する日本一の徳川家は当然ながら元首になる。しかし、それでは今までと変わりないと薩摩、長州は一途に武力倒幕を考えます。けんかにはきっかけが肝心だ、なにかと幕府にいやがらせをして挑発します。下野国の流山で挙兵、甲斐国の甲府城を攻撃、相模の国の荻野山中陣屋を襲撃する。下野と甲斐では失敗しましたが、荻野では見事に成功し、山中陣屋は焼け落ちました。
 荻野のばくち打ち鈴木佐吉親分が同郷の勤皇の志士石井道三の願いに一肌脱いで武器、弾薬を預かります。
 江戸の三田にあった薩摩藩邸では時至れりと七人の襲撃隊を出しまして、極月14日、元禄の昔、赤穂浪士が討ち入りした晩に相模国鶴間村の寺を焼きます。翌15日には折からの雨の中、厚木の渡しを越えて同志と合流して総勢三十数名、夕刻には妻田村永野家に押し入って軍資金を調達、つまり強盗をします。ついで荻野新宿の七沢石屋の息子を斬り殺し、夜の十時に陣屋を襲撃、金や武器諸道具を略奪して放火します。奉行役の三浦正太郎は手傷を負って数日後に死亡します。この時、藩医の二男だった天野政立十四歳は一部始終を目撃し、後に相模自由党員となって薩長政府を激しく糾弾しましたが、これはまた後日の話。
「長い話だね、最初の方は忘れちまったよ」
「あんたは講釈の師匠になれるよ」
「薩摩長州はずるがしこいね、幕府はマヌケだったね」
「つまりけんかも戦争も同じで先手必勝、うっかりのせられると勝ち目はないということだね」
「今度のロシアとの戦争もそうだったよ」
「また長話かい、夜が明けちまう、帰るよ、サヨナラ」
 たしかに戦争なんてそんなものだ、僕はおばさんに聞いてみた。
「その相模自由党はどうなったの」
「いずれそのうちに教えるよ、さあカギを閉めるよ」
 たぶん知らないのだろう素っ気なかった。
 
 翌日、部屋に手紙が投げ込まれていた。たぶん牛乳屋の小僧が届けたらしい、人目にふれたくないのですぐに先輩に渡した。先輩は天にも昇るほど喜んだ。
「そうか、よく知らせてくれた。すぐにご婦人用の海水着を注文しよう。そうだ浜茶屋を一軒借り切って、軽食・飲み物も用意しなければならない。ボートもあった方がいい、一艘借りておこう。よし、さっそく準備だ」
「それはそうと先輩は泳げるんですか」
 航海の時にはカナヅチだと聞いた。
「いや当日までまだ六日ある。日本男子に不可能はない。当日はイルカのように泳いでみせる。令嬢たちをうっとりさせよう」
 それから毎日、先輩は朝から夜まで浜にいて真っ黒に日焼けした。長い髪は邪魔だと坊主にしてしまった。ついに特訓の甲斐あってダボハゼほどには泳げるようになった。そして得意顔で僕に言った。人間は海から進化したのだ、海は故郷だ。ああ松原遠く消ゆる所、朝の海、昼の海、夜の海、海は世界につながっているのだ。俺の未来もそこにある。
 残念ながら八月八日は暴風雨になった。先輩は朝から部屋の中に引きこもって天を怨んでいた。
 僕はカッパを羽織って海に出てみた。砂に雨粒があたって不満そうな音を立てている。誰もいないと思っていたのに波打ち際に男がかがんでいる。さびしそうな疲れた姿をしている。あれ先輩が先回りしたのかと思って駆け寄ってみた。肥桶(こえおけ)を洗っていたのだ。

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