十五人ほどの人が二列のテーブルに座った。僕はすばやくレモンを浮かべた冷たいコップを配って歩いた。着物の婦人もおり洋装の男もいたがおおむね平均年齢は高かった。
僕らは社長のはからいで洋服を着ている。貴公子ともホテルのボーイとも見えるような服だがいささか窮屈だ。
小久保先輩は英語をひけらかして受付にクロークと書いた札を貼りつけた。
「クロークですか、ではチップを出さなければいけないかな」
最初に到着した老人がそう言って小銭をくれた。僕がとまどっていると、社長はもらっておけというようにうなずいた。なるほど、こういう文化の人たちなのかと思った。
「本日はご列席ありがとうございます」
小久保先輩は小倉の袴(はかま)に絣(かすり)の着物でいかにも書生らしく挨拶をした。鈴木社長がすみの方で心配そうに見ている。
「ご案内の通り本日はベトナムの話と料理でひとときをお過ごしいただきます」
客はまだぎごちない様子だ。若僧にしかつめらしく挨拶されてフンと鼻息を荒げる人もいた。
「ベトナムと申しますのは、清国の南の海岸沿いにある細長い暑い国でありまして、今は阮(ぐぇん)朝といって王様がおります。なかなか勇敢な人たちで、鎌倉の昔、我が国に元が攻め込んで神風にうたれて全滅しました折、時を同じくしてベトナムも攻撃されましたが見事に国を守りきったという、いわば我が国にとっては弟分であります」
「おい小久保君とやら、ベトナムは王国かね」
退役陸軍大佐だという大森氏がきつい声で叫んだ。
「はい、おおせのとおり今はフランスの植民地となって周辺の国とともに仏領インドシナといっております。しかしベトナム人たちはこのことを決して快く思っておりません。フランスが清朝との戦争に勝ったので仕方なく強いものに巻かれておるような次第です」
「我が帝国も日清戦争、日露戦争と立て続けに勝利しましたぞ、フランスなんたるものぞ、いずれベトナムにも進出します」
大森大佐は肥満した大きな体を揺すって演説をする。若僧が現地人に同情するようなことを言ったのが気に障(さわ)ったようだ。
「いや実に伊藤侯爵も暗殺されるなどとお気の毒だが、それも軍人の定め、おかげで日韓併合に加速がつきました」
大森大佐が叫ぶと銀行参与の須木谷菊蔵氏がすかさず答えた。
「この夏に正式に合併されるそうですな」「太閤秀吉の朝鮮征伐以来の快挙です」
「我が銀行もさっそく支店を出すつもりです。活気が戻るな、この不景気で東京には職がなくて田舎に帰る人が増え、人口が半分になってしまった地区もあるそうです」
「左様、国内でやっていけなくなったら外に出ることです。無敵の帝国陸海軍が応援しますぞ」
「殿方というのはどうしてそんな話に夢中になるのですかね」
会を立ち上げるのに世話を焼いてくれた海野康子夫人が取り成すように会話をさえぎってくれた。
「それよりベトナムの方たちはどんなお顔でどんな衣装を着ていられるのですか」
「ご婦人が着物の話に夢中になるとロシアよりも手強いですぞ」
世慣れた須木谷氏が軽くいなした。
「それは後ほど詳しく申し上げます、料理が運ばれましたのでご紹介します。まず最初に生春巻というものをご賞味いただきます。これは初物のキュウリをおいしくいただく料理でありまして、我輩がかの国から持ち帰りましたるライスペーパーに自分で好きな具を巻いて食べる、いわば手巻き寿司のようなものであります。キュウリだけでなくエビや豚肉を茹でたのニンジンの細切りに白髪葱を用意いたしました、甘酸っぱいニュクマムをつけてお召し上がりください。とりあえず茅部少年が見本をお示しいたします」
ようやく僕の出番になった、といっても裏方としては今までが苦労だったのだ。材料一切を準備して切り刻み、ライスペーパーを水につけて柔らかくし、形よく皿に盛る。小久保先輩は口で命令するばかりで自分は何もしない。もっとも計画性がなくて不器用なので料理を手伝ってもらうと手順がめちゃめちゃになり迷惑千番だ。ニュクマムにビネガーとパプリカを入れたドレッシングをキュウリ、エビにかける。甘酸っぱい複雑な味がさっぱりしたキュウリ、エビにぴったり合う。いかにも僕が美味しそうに食べるので皆じっと見ている。もう一つ巻いて食べようと思った時に小久保先輩が僕をにらんだ。
皆はライスペーパーを広げて具を包みこわごわと口に入れた。
「これはそもそも何だね」
大森大佐の命令口調にはさすがの先輩も歯が立たない。
「はっ、米を煮た糊をザルの上に広げて乾かしたものです。西洋人が米の紙と名づけました。かの国ではバインチャンと申します。ベトナム人は米をよく食べるのでほっそりとしております。ご婦人は腰がきゅっと締まり襟の立った純白のシャツに裾が広がったズボンをはきアオザイという上着を着ます。近頃の流行は左右に深いスリットが入っております。暑い国で汗をかく服をわざわざ着るのは大変ぜいたくなことです。後ほど実物をごらんにいれます」
「ご婦人はどんなお顔をしておりますの」
海野夫人はお節介だけに好奇心が強い。
「色黒ですが目鼻立ちがととのった凛々しい
顔です。我が国の巴御前のような女傑の伝説もございます」
明治までのお姫様は、色白く細腰、憂(うれ)いを帯びた顔立ちで深窓にいる人だった。政略により見ず知らずの所に婚(とつ)ぎ、子を産み、老いて仏門に入る人生だった。
明治になって、鹿鳴館をきっかけに、令夫人、令嬢は表に出てきた。着るものが洋装になり髪形が帽子に合うものになり、靴を履いてワルツを踊った。
華族女学校が率先して体操を取りいれた。その帰結として運動会を開いた。まず反発したのは男たちだった。あられもない、優しく淑(しと)やかな女がいなくなる、しかし富国強兵というスローガンが批判を吹き飛ばした。母が強くなければ子は育たない。障害物競走や縄跳び、綱引きをしながら令嬢たちの気持ちは揺れ動いただろう。国と学校は強い母を求め、一寸先で待つ男たちは優美で貞淑な女にプロポーズする。良妻賢母、慎み深く、夫を立て、従順で素直、嫉妬や欲望をむきだすようなことはない。
しかし、それは上流階級だけのこと、いつだってどこだって庶民は男も女も働かなければ食っていけない。日焼けしてたくましい農婦や、こまめに気配りし動き回る商家のおかみさん、貧窮する士族には質屋へ通うご内室がいる。
上流階級の女性たちは身分の違いをはっきりさせるために、いつの時代にも無為に生きる姿をしめさなければならないのだ、それも辛いことかもしれないと僕は考えていた。
「先日のハレー彗星は何事もなくて良かったですな」
とつぜん須木谷氏が割り込んできて話題を変えた。どうも女性の話につきあうのが好きではないようだ。さっきの仕返しをするように話を取り上げてしまった。
「五月十九日は仕事を休みました」
海野比羅夫氏が言った。さっきチップをくれた人だ。外交官だそうだ。
「まったく女子どもばかりでなく男までが騒ぎ立てて、空気がなくなるとか何とか馬鹿げたことを言います。外国人がどう見るか恥ずかしい限りです」
ところが海野婦人が暴露してしまう。
「あら、あなただって空気枕を買おうか迷っていらっしゃいましたよね。口にあてれば数分は持ちますと行商人に勧められてしばらく考えておられましたわ」
「備え有れば憂いなしと言います」
一同は大笑いした。
「これで世も終わりだって料亭に繰り込んだのはどなたでしたっけ」
海野夫人の追及の手はやまない。
「彗星というものがあんなに明るく輝くとは思いませんでした。ホウキ星だからうす茶色かなと思ってましたよ」
海野氏はとぼけて話をかわした。
「西郷隆盛が死んだ時には西郷星というのが現れましてな、うす赤い大きな星で気味悪いものでしたよ、もう三十年の昔になります」
海野氏に同調して大森大佐も思い出話を始めた。
「私も血気の若者で親父が止めるのも聞かず志願しましたが、ああ、あれ以来十年毎に我らは戦争をして参りましたぞ。私の耳には抜刀隊の歌がいまだに鳴り響いております」
乁 我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵で
敵の大将なるものは 古今無双の英雄で
これに従うつわものは 共に剽悍決死の士
「そういえば風呂屋の女湯に絵看板があって、たしか西郷、篠原、桐野の絵が描いてありましたわ」
と海野夫人が言い、はっと気づいて頬を赤らめたのは女湯の様子を周りに知らせるような言葉だったからだ。
夫唱婦随の逆でそつなく夫君が引き取った。
「西郷糖という飴がでましたな。それに夜になると西郷星という明るい星が輝きいて、よく見ると西郷の顔が見えるとな」
今まで控えめに座っていた那須野茂秋子爵が立ち上がった。
「怖れおおくも聖上におかれましては、征韓論が原因で西郷は下野すると、大変にみ心を悩ませられ何度となく側近に西郷の思い出話をなされたようです。明治22年の憲法発布の特赦でようやく名誉を回復するとピタッと口にのぼせられなくなった、まことに聖上はありがたいことです」
さすがに華族は皇室のうわさを知っている。
「上野にあの銅像が建ったのは明治33年、全国二万人が寄付をしました。ただし愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿は我が大山巌大将がモデルだってね」
大森大佐は陸軍のこととなると目が輝く。
海野外交官は先々を心配している。赴任地には夫人も同伴しなければならない。
「因縁の日韓併合が無事に終わればいいのですが、三国干渉のこともありますからね」
「以前と違います、日の出の勢いの我が帝国に口出しできる国などあるものか」
「それが油断というものだ」
「清国にもロシアにも勝ったのだぞ」
一挙に部屋は騒々しくなり、あわてて先輩が手を打って静粛を促した。
「次にご賞味いただくのがフォーです。かの国には名古屋名物キシメンのようなものがございまして、我輩は乾麺を持って帰りましたが我が国の物の方がおいしいので急遽、キシメンにいたしました。そもそもフォーの種類と申せば、ガーというの鶏肉、ボーというの牛肉、サオという焼きソバ、いずれもモヤシをたっぷり入れまして、さっぱりした鶏のスープに生のシュンツァイという香草を山のように入れて食します。今回これは割愛させていただきます、匂い強くて嫌だとおっしゃる方が多いようですので。だが我輩は大好きです」
うそうそ、暴露しよう。先輩は最初いやがって最後の一枚までていねいに拾って捨てていたのだ。しかし突然、好きになった。それはあの薄汚いフォー屋に麗しいグェン・ティ・ホア嬢がいたからだ。なぜかホア嬢は片言の日本語を話した。そして日本のことを知りたがった。
東京はどんな街ですか、京都や大阪とどこが違いますか。昔の武士は刀を差していたそうですが今もそうですか。日本人のお金持ちはどんな人ですか。好きな物はなんですか。
大きな黒い瞳、深いえくぼ、しなやかな指先、何よりも艶々して腰まで伸びた髪、彼女に会いたくて先輩と僕はその店で朝昼晩にフォーを食べた。いつも彼女は明治維新や日本の暮らしぶり、有名人のことなどをしきりに聞いた。
「ファン・ボイ・チャウというベトナム人を知りませんか。四角い顔をしてヒゲを生やしています」
「そんな人は日本にいっぱいいます」
「ではクォン・デ王子様は?若くてハンサムです」
先輩も僕も知らない。少し失望したようだが麗しのホア嬢はにこやかにフォーをゆでていつものようにシュンツァイを山のように乗せた。先輩はうれしそうにシュンツァイを汁に沈めて食べ尽くす。毎日細長いフォーばかり流し込んだため僕は背が伸びたような気になったものだ。
ついに破局がきた。一週間目の朝、僕らがフォーを食べていると数人の警官が路地に入ってきた。麗しのホア嬢は真っ青になって鍋の熱湯を警官に浴びせかけ向かいの家の屋根によじのぼった。僕はできるだけ警官の邪魔になるようにわざと路地をうろうろするのが精一杯だった。しかし、ホア嬢は猿よりも速く屋根から屋根へと逃げ出していった。輝くような白いアオザイ姿が目にやきついている。怒った警官はテーブルを叩き壊し、僕らを捕まえて警察署に連れて行った。しかし署長は僕らが日本人だと分かると大変に丁寧になり、事情を話してくれた。ホア嬢は祖国をフランスから独立させようとする闘士だったのだ。ベトナム人を日本に留学させて明治維新を学び同志を育てる東遊運動という活動のリーダーだった。それで日本人と親しくなり、資金や武器の援助を頼み、それでフランス軍と戦おうとしているという。それを聞いて先輩は発奮した。よし我輩が日本の窓口になる。でも、すでに大隈重信とか犬養毅などという著名人とつながりかできているらしいと署長が言う。先輩はかなり落ち込み、二度と路地の店には行かなかった。そして、その後はどこでフォーを食べても不味(まず)いと言った。
「まあ鶏ソーメンですな」
寸時、思い出にふけっている間に客の器は空になっていた。
「二日酔いにはいいかもしれん」
「どこの国にもお蕎麦があるのですね」
一同は生春巻きよりお気にめしたようだ。
「イタリアにもスパゲッティというのがございまして、元(げん)の時代にマルコポーロというイタリア人が母国に持ち帰って以来、広く食べるようになったそうです」
先輩は忘れっぽいたちなのかフォーの思い出にはふれない。
「また元の時代かね、今晩はゲンが良さそうで結構なことです」
須木谷氏が商売人の声で言う。
「元というのは蒙古でしたよね、あの辺は近頃どうなっていますか」
「なんだかボグドハーンとかいう王様が国を作ったとかいう話です」
さすが海野氏は海外に詳しい。
「もはや王国の時代は終わりです、ヨーロッパはとうに帝国の時代になっております」
ほとんどの人にも僕にもその区別が分からなかったけれど、帝国というとたいへん強そうな感じがする。
「これから食後の甘いベトナムコーヒーを供じます。左党の方には砂糖の代わりにコニャックをお入れしますがご希望の方はお手をお挙げください。おや思ったよりも多くの方が左党ですな、コーヒーも酒も強いものですからおいやになったら無理をされませんように。はい、それでははじめにご紹介しましたアオザイをご披露いたします」
うやうやしく捧げ持ってきた服を小久保先輩と二人で広げてみせた。
目の覚めるような白いアオザイに女性の唇から感嘆がもれた。
じっとなりゆきを見ていた鈴木社長がすかさず声をかけた。
「シンデレラではありませんが、どなたかぴったり体の合う方がいらっしゃいましたらこの服を差し上げましょう」
えっ、この服はかのホア嬢の思い出の品、先輩がプレゼントしようと思って誂えたのに、いざとなったら勇気が出ず、そのうちにあの騒ぎでとうとう持ち帰ってきた品物だ。何か言おうと首を伸ばした先輩の頭を鈴木社長がビシャっと叩いた。びっくりして先輩はつぶれたように小さくなった。世話になっているのだから仕方ない、この代金の出所も社長の財布からなのだ。
ご婦人の手から手へとアオザイは移っていった、ちょうど貨物船が商品を積みおろしながら港から港へと航海するように。男たちも興味深そうに服に触った、まるで服の中に若い娘がいるように。しかし商品のアオザイはどこの港にも陸揚げされなかった。この服にぴったり合うようなウエストの持ち主、この服を着て人前に出ようというような自信のあるご婦人は一人もいなかったのだ。
「あの…」
かすれた声で海野婦人が言った。
「こういう趣向とは思わなかったものですから今晩は娘を連れてきておりません。宅の娘ならぴったり合うかもしれません。サイズを教えてくださいな」
「わしの姪なら似合うじゃろうな」
大森大佐も戦場で部下に略奪を許した時のことを思い出しながら言った。
「次回も全員に公平なチャンスがあるのでしょうな」
外交官海野氏には不平等条約の苦い思い出があるので念を押す。
「アオザイはまたお持ちしましょう。次回はスマトラ国バタビアの料理です。これから回覧で日程を調整させていただきます。皆様のおいでをお待ちしております」
程良しと判断して社長は閉会にした。先輩の用意していたベトナム独立党と警官隊を相手にした手に汗握る武勇伝はとうとうお蔵入りしてしまった。おかげで僕は先輩のホラ話に赤面しないですんだ。
ぞろぞろと客は帰っていく。迎えの人力車を待たせてある客も多かった。健康のために歩くより病気になっても見栄を張りたい人が多いということだ。
皆が帰った後、不満な顔を残している先輩を見て僕はなぐさめた。
「次回はお嬢さんがたくさん来てくれますよ、アオザイの引力です」
社長も言った。
「景品を出すのはいいアイディアでした」
小久保先輩は小躍りした。若い女性を客にする、それこそ料理のしがいがあるというものだ、我輩の力量を見せてやる、そんな浮き浮きした気分が僕にも伝わってきた。古い日本の味に凝り固まった年寄りたちに食べさせるより、若い人たちに新鮮な気持ちで世界の料理を味わってもらった方がずっといい。おいしいものを作るぞ。
しかし鈴木社長は少し迷っていた。社会的影響力のある人にたくさん来てもらってこそこの会が商売につながってくる。宣伝することこそ一番の目的なのだ。しかし、実は社長にも令嬢たちに会ってみたい気持ちがあふれている。いずれ家庭に入って料理の味を握るのは若い女性たちだ、ご主人がなんと言おうとも台所の権利は女のものだ。令嬢たちに来てもらうのは良いことかもしれない。理屈はつけようだ。
「ご苦労でした小久保君、次回もお願いします。ただ最初の挨拶は私がしましょう。その方が自然です」
「料理は好評だったでしょうか」
「皆さんおそるおそる召し上がっていましたね、初めてのものを食べるのは勇気がいります。初物食べれば七十五日長生きすると次回の案内には書き入れておきましょう」
「社長はいかがでしたか」
「生春巻きはぬるっとした食感がどうもね、それから時節がら生ものはいけませんでしたね。メニューを作る時に私にも相談してください。お疲れ様です、ビールをおごりましょう。茅部君はラムネですね」
ずいぶん長い一日に思われたがラムネがキュッと胸を締め付けて疲れを押し流してくれた。ラムネは高価な飲み物だから僕も今まで二回しか飲んだことがない。ましてビールなど、一本でお米が一升も買える。鈴木社長は会が成功だったと判断したのだ。別荘の人たちの興味を引いたし次回の見込みも立った、それで僕らをねぎらってくれたのだ。さすが明治の商売人、無駄な金は遣わないし、事業がうまくいけば見合った報酬を払う。これが合理というものだと僕は感服した。
台所には暗いランプが一つだけ下がっている。僕も顔見知りの近所のオバさんたちが皿やコップを洗っていた。
僕が帰り支度をしていると声がかかった。
「書生さん、お茶あがらんかい」
先輩はなにやらモグモグ言いながらオバさんたちの顔も見ずに出ていてしまった。僕は声をかけてくれた顔見知りのオバさんと土間に下りていった。
「この前までハダシでオタマジャクシすくっていたのにね、立派になったものだね」
言葉にトゲがあるようだ、しかしオバさんというのはこんなものだと思ってニャッと笑ってみせた。
「学校でもよく勉強していたからね、うちのバカとは大違い、将来が楽しみだね」
「そりゃ茅部のおっかさんがえらいんだよ、誰かさんと違ってね」
カマドの方から声がして遠慮のない大笑いになった。
「こっちにいる方が気楽だろ、昼のお客は口に手をあてて、ホホホなんて笑う人たちだからね」
「奥方様に令夫人さ、カラスみたいなオッカァとは違うのよ」
「なにが華族様だね、お高くとまってさ」
流し場から大きな声が聞こえた。
「同じ人間さ、食って寝て…」
「おっと食べ物の前だよ、その先は言わないでおくれよ」
「あんたは昔から悪口屋さ、まるで自由党だよ」
「いや、ほめる時はほめるよ、乃木大将はえらい、伯爵の位を子どもに継がせなかったよ、さすが大人物だ」
「乃木さんは鹿児島の戦争で負けて軍旗を取られてしまったっていうぜ」
「そうとも、今度の旅順の戦争でも要塞が落とせなくて無闇に兵隊を殺してしまった、見かねた児玉大将が知恵をしぼったらすぐに陥落したそうだね」
「息子が二人とも戦死してしまったから未練がなくなったのさ。他人に家を継がせても仕方ないからね」
「私は自由党ではないよ、しかし、軍人が爵位をもらうのは戦さの功績だ、だから息子や養子が後を継ぐのはおかしいだろ、筋が通っているさね」
「ではオバさん、お公家さんならいいのかい。なんの功績もないのに子爵だ男爵だとえばっているよ」
「日本には長い歴史というものがあるからしかたないね」
「何がお公家さんの歴史だい。私の祖父さんは江戸の商家の下男(げなん)だったけれど、一つ話にしているよ。その家の娘が京都にあこがれて、お公家さんの所で働いているうちに妻にと望まれたんだってさ。たいそうな嫁入り道具を送ってね、赤ん坊ができたというので会いに行ったら所番地には壊れかかった家しかない。道ばたで日向ぼっこしている汚い爺に聞いたらあわてて中に駆け込んで、やがて『お許しが出た、通れ』と声がかかってね、おそるおそる入ったら、さっきのじじいが汚れた白い布をひっかけて座っている。キョロキョロしていると『ただいまお目通りがかなう、控えておれ』と偉そうに言ってヒモを引っ張ってスダレを上げる。すると破れた縁側に公家と娘が座っていて『こりゃ頭が高い』と叱られた。あわててお辞儀をしたらもうスダレが降りている、おかしいやら腹立たしいやらでさっさと帰ろうとするとじじいが引き止めてね、ようやく汚い座敷で娘とうちとけて赤ん坊をかわいがることができたそうだ」
「長い話だね、寄席に来たようだよ」
「つまりお公家さんも今は威張っているが、ついこの前まで貧乏暮らしをしていたってことさ」
「聞いたかい、近頃の華族様は行儀が悪いね。後藤伯爵の息子も道楽者で勘当されたそう
「北小路男爵は詐欺をしたそうだよ」
「岩倉公爵の葉山の別荘も相続税をまだ払っていないそうだよ」だ」
「海江田子爵の所はお家騒動だってよ」
「だから私の言う通り、華族がやっていけるのは偉い親父の生きている間だけさ。息子や孫がボンクラだったらたちまち没落して人に迷惑をかけるのだから世襲などしない方がいいのさ」
「オバさん声が大きいよ、集会条例違反で警察が乗り込んでくるよ」
「去年、治安警察法というのができたね、女が政治の話をすると警察に引っ張られるんだってさ」
「バカなことを言うね、皿洗いでうわさ話をしてもいけないのかい」
「しっ、理屈はどうにでもつくんだよ。桑原桑原」
「書生さん早く帰んな、オバさんたちの話につきあって警察のごやっかいになったら大変だよ」
昼には昼の話があり、夜には夜の話がある、僕は頭の中でランプの灯がチカチカまたたいているような気がして暗い外に出た。
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