ながえの郷は相変わらず静かで平和だった。しかし、ここを取り巻く地域は大きく変わった。湘南から鎌倉、逗子、葉山の海岸は別荘と海水浴で賑わっている。長浦、追浜、横須賀の海岸は軍艦が並び、軍人と軍需工場の職工であふれている。郷の男たちは東の工場へ行き、女たちは西へ出て別荘や商店などで仕事をする人が増えていた。しかし、どこへ行くにも山を越える細い道しかなかった。
この時代は、封建の古い社会を一新した文明開化の明治時代が終わりを迎えていた。最初は国内で、次に国外で勝利し続けた英雄・豪傑たちの夢も醒めかかり、激しく緊張した後の疲れとむなしいような気分が世の中にただよい始めていた。日露戦争以後、日本人のプライドは高くなって世界の一等国だと思うようになった。優れた者は劣った者に何をしてもいいというような気持ちさえ持ち始めた。
鈴木三郎助は9才で父に死に別れ、母の「なか」に育てられた。18才で結婚し米や酒を売っていたが相場に失敗した。困窮の中で海藻のカジメからヨードを取る仕事を始めた、それは硝酸の材料になる。明治38年夏、部屋を貸していた東大教授の池田菊苗博士にグルタミンのことを教わり「味の素」の製造を始め42年には販売を始めた。
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