ながえの郷の戸数は68、400人余りが住み330石の米を産した。米1石が1人1年分の食料だがその半分は年貢に納める。郷人はアワ・ヒエ・キビ・イモを食べ、祭りや行事のハレの日だけ米を食べた。それは日本中どこでも同じだ。
浦賀に出る道は長江川の川口で三崎道と分かれて、上山口、木古庭、衣笠と山道を越える。金沢の浦から田浦、横須賀、大津の浜に出て馬掘の坂を越える道もある。鎌倉から名越の切通しを通り田浦に出る道もあるがどこも急坂で旅人は難儀した。舟の便もあった。
世の中がにわかに物騒になったのは天明の大飢饉からだ。困窮した農民が都市に流れ込み、無宿者や悪党が横行した。幕府は取り締まりを強化し度々お触書を出した。脅威は海からもやってきた。異国の船は遠い長崎ばかりではなく、諸国の目の前の海に威容を現した。
浦賀へ通じるすべての道をあわただしく人が通った。今まで見たこともない九州、西国、東北から集まった警備の武士だけでなく、勤皇、佐幕、開国、攘夷の壮士たちが目を肩を怒らせ殺気だって往来していく。ついに江戸時代の終わりが始まった。立ち騒ぐ人の動きと大砲の音が戦さの響きを奏でた。文化文政という居心地のいい時代に溜まった塵を払拭しようと天保の改革が試みられたがあっさり挫折し、追い立てられるような焦燥の時代が始まる。幕府も武士も困窮した。泰平の眠りの枕から離れようとしない人、今こそと立ち上がった人、摩擦はいらだちとなりわずらわしいことが日々増えていく。何が始まってどんな終わりになるのかを誰にも予測できない。 ながえの郷にも大きな影響があった。幕府重役や諸国の大名たちの視察が繰り返され助郷とその手伝いが重くのしかかってくる、ついに騒動まで起こった。海辺の村々には住居調査があり、畳数とか風呂の有無、何人の侍を泊めることができるかなどを名主が書き上げると、いずれ粗相のないようにときつく言いわたされた。
葬式、仏事も 嘉永3年、再び厳しい規制を言い渡された。長脇差し禁止、若い者が歌舞伎・手踊り・操り芝居・相撲をするのを禁止、婚礼は一汁一菜、酒は少量だけ、晴れ着に絹を着ていいのは村役人だけ、葬式、仏事も一汁一菜で酒は禁止。ようやく郷の人たちも時代の変化に気づいた。
その3年後にペリーが来た