8章 1865慶応元年 
     フランス語学所

一筆啓上
 せんじつはあわただしく出立し、なごりをおしむ間もなく候 ぶじによこはまにつき候 ふらんす人とのつきあいは庚申講のやふにさわがしく、わすれていたことばもすぐにおもひだし候 しばらく郷のくらしからはなれ、そもじとも身遠くなり候えども、けっしてわすれることなく、またエマ殿が息災で育つよう念じおり候
                     敬具
きのとうしのとし みどりさままいる          ケイサ
 乙丑


拝啓
 先日はあわただしく出発したので名残りをおしむ間もありませんでした。無事に横浜に着きました。フランス人と交流を始めましたがまるで郷の庚申講のように騒がしく思えます、けれど久しぶりですが忘れていた言葉も思いだしてきました。しばらく郷の暮らしから離れて、あなたとも遠くはなりましたが、決してお忘れないようにお願いしますとともに、エマ殿が健康に育つように(もちろんあなたのことも)心から願っています
                    敬具
    慶応元年              景三郎
ミドリ様         

「ラブレターね」
「君ももらったことはあるかい」
「メールでね、本命でなかったのですぐ削除した、騙しのメールにひっかかって笑われちゃったらみっともないもの」
「手紙なら大丈夫だろ」
「親が見るとうるさいでしょ」

 ミドリは手紙を何度も読んでから角左衛門に渡した。
「世の中変わっていくようだな」
「おらはケイサが心配だよ、横浜ってどんなところか知りたいね。肥前屋さんなら教えてくれるだろう」
 すぐに何枚かの横浜錦絵が届いた。新しいのと古いのが混じっています、あしからずと手紙が添えてあった。美しい色と奇抜な様子にミドリも角左衛門も驚いた。
「これはわしには分からない、日林さんに絵解きをしてもらおうか」
 日林は何度か横浜に行っているので勝手を知っている、地獄極楽図じゃよと言いながら承知してくれた。
 フナゾイの若い衆も呼んでやろうとミドリが声をかけた。まっさきに多平が身を乗り出した。
「多平は横浜に行きたいのかい」
「たぶん苦労はしても楽しいだろうね。朝から晩まで春から冬まで親や兄弟と一緒に田んぼと畑にしがみついてさ、おらは自分一人で働きたいんだよ。おらたちがいなければ日本は困るんだ」
「大きく出たね、国のことなんかおらは考えてもみないよ。おらの仕事は家のためさ」
 源治が冷やかした。
 錦絵を見ながら日林上人が絵解きをしてくれた。異国人の風俗、洋館、港に並ぶ蒸気船がどぎつい色彩で描かれている、浮世絵の景色や人物、色合いとまるで違う。安政6年に開港した時には日本人はわずか100人しかいなかったのに文久元年にはもう数万人が出入りしていた。慶応になったら輸出輸入とも1千万ドルをはるかに超えて綿・毛織物・鉄・薬品・武器・船が輸入され生糸・蚕種・茶が輸出されている。1フラン払えば封書がフランスまで届く開化の世になった。
 若い衆たちは興奮したままフナゾイに帰った。
「浮世絵師がおもしろおかしく描くんだよ、売ろうとしてさ、銭もうけさ、本当かどうか分らないよ」
「だから行って見るんだ」
「開国して貿易することが本当に日本のためになるのかい、物の値段がひどく上がったよ」
「なら公方様と天朝様側の長州薩摩が張りあっているのも日本のためかい」
「幕府が日本のためにならないから俺たちが代わりにやるって言っているよ」
「ずいぶん虫がいいように思えるね、江戸の人はそう思ってはいないらしいよ。ケイサ先生がいれば教えてくれるのにね」
 若い衆は夜更けまで話していた。

 慶応2年6月、景三郎は横浜のフランス語学所で仕事をせよと命じられた。製鉄所の一切を任されているのは柴田貞太郎だ、浦賀奉行所の頃の二人の思い出を目を細くして話した。貴公と岡田井蔵が走り回っていた頃が懐かしい、だが今はお前がいないと困るのだと言い添えた。様々な出来事を経てきた、大きな仕事を任せられる信頼を身につけた、景三郎は胸が熱くなった。
 フランス語学所に出頭するとカションが待っていた。急に通詞が必要になりました、身分のある大切なお客様です、あなたにお願いします。当時、横浜の通詞は300人もいたが片言でも覚えてしまえば商人の仲間になって金もうけをしようとする一旗組ばかりだ。双方の顔色をうかがいながら甘い汁を吸おうとする。鳥居などという18歳の通詞は、人の言動を猿真似して笑わせるのが得意なだけの貧弱な小僧だが、それを武器にして多くの顧客を持っていた。

 カションに頼まれた客はスエンソンというデンマーク海軍の士官でフランス軍艦に乗務しているという。神奈川奉行所の合原猪三郎にはこう言われた。スエンソンはデンマーク修好通商条約締結の下準備をしているらしい。身の回りの世話をしながら、それとなく条約の主旨を聞きだして、あわせて日本の事情を理解させてほしい。
 1867年慶応2年7月1日、スエンソンは横浜に上陸した。景三郎が待ち合わせ場所に選んだのはフランス海軍病院。居留地でもひときわ目立つ奇抜な総二階建ての建物、赤く塗ったベランダが帯のように一周し巨大な瓦屋根が龍のように反り返っている。、いつ崩れるのか心配で入院した者はビクビクしたという。フランス式の庭園の木陰には椅子が置かれカフェのようにくつろげる。そこにスエンソンが待っていた。
初対面の挨拶をした、きれいなフランス語だった。景三郎より5つ年下の24才、ふっくらした上品な顔立ちをしており、いかめしい制服の中身ははつらつとした若者だった。
「横浜は海から見るとまるでヨーロッパの町です、驚きました。僕はデンマークの海軍少尉です。あなたは僕の国に行ったことがありますか」
「遣欧使節で6ヶ国を回りましたがデンマークは知りません」
「美しい国です、ぜひおいでください」
父親は海軍中将だ、それは日本ではどんな身分なのか知りたがったが偉がる様子は少しもない。
「2千石くらいの旗本かな」
「父は軍人、その子の私も軍人です。あなたのお父さんも通詞なのですか」
「いや、私の義父はサムライでしたが辞めて詩人として生涯を過ごしました。私は自分で勉強してフランス語を話すようになりました」
 スエンソンは驚いた。
「素晴らしいお父上ですね、デンマークでも詩人は尊敬されています。日本は身分制度が厳格なので生まれた時の地位は一生続くと聞いていました」
「そんなことはありません、君のお父上と同じ2千石の旗本でも勝さんや合原さんは40石の御家人から出世しました、役職も地位も実力次第でどんどん変わります。もちろん生まれながらの殿様もいますがね」
「父は私が海軍軍人になったのを喜んでいます、日本でもそうですか」
「息子が同じ仕事をすれば親は安心ですね、武士は家名、商人は店、農民は田畑を子に渡せるから。職人だって自分の技を子に伝えることは喜びでしょう」
「ではあなたも詩を書きますか」
「まだ書けません。辞世の和歌までに練習しておきます」
 辞世という言葉を伝えるのに苦労した。ようやく理解するとスエンソンは驚いた。
「日本では死ぬ時に詩を残す!すごい文化です。私は日本のことを全部知りたい、あなたに会えてよかった、兄弟のように思ってください」
 景三郎は照れくさくなった。
「いつか私の妻と娘に会ってください、田舎で百姓をしています」
「それは楽しみです」
 ふとクラを思い出した、どうしているだろう、そんな連想をするとスエンソンが身近に感じられた。
「来週はナポレオン記念日です、あなたを兄として招待します、ぜひ見にきてください」
 この日に本国から叙勲の知らせがくるので士官も水兵も待ち構えている。レジオンドヌール勲章を授与された者を担ぎ上げて行進するのだという。フランス人の勲章好きは極端でレジオンドヌールの赤いリボンをつけ忘れて外出する者などいないし、どんなに寒くても外套のボタンを外して勲章を見せようとするという。夜は寝巻きにもつけている人もいるという。
牧師がテ・デゥム(主の祈り)を唱えると全員が大声で唱和し盛大な晩餐会が始まる。ワインを飲んで歌い踊り、長い航海をしてきた人たちは羽目を外して大騒ぎをする。その時は宴会の後にこっそり上陸して日本人の家に侵入し母と娘に乱暴しようとした水兵がいたのを近所の男たちが集まって惨殺してしまった。艦長も公使も不問に付したそうだ。
元治元年以来、横浜の港の見える丘に駐屯地があり青服のフランス兵が500名、赤服のイギリス兵が1000名駐留していた。仲が良くて毎日スポーツの試合ばかりする、クリケット、ボートレース、フットボール、野球、陸上競技などだ。しかし軍人クラブと商人のクラブは仲が悪く、酒場では最後に殴り合いの喧嘩をしたという。
「オヘイヨ」と挨拶してスエンソンがやってきた、おはようだ。
 フランス軍駐屯地はフランス山と呼ばれて小さい大砲こそ据えられているがイギリス軍のよりずっと小さかった。日当たりのいい芝生の斜面に二人は寝ころんでよく話した。海からの風が気持ちよく吹いてくる。港には洋風の建物がならび谷間には日本人の小さな藁屋根が密集している。
 山の頂からは稲田をへだてて丹沢・箱根の山々が連なり、富士山が大きく裾野を広げている。時折、頂から白煙が流れた。宝永の大爆発以来、頂上から水蒸気が立ち上って噴火の恐怖を呼び起こしている。その上、夜になると伊豆大島の噴煙が空が赤く染める。イタリアと似ているとスエンソンは言う。
「日本人は禿頭にして、てっぺんに髪の束を乗せています。清国人と同じなのですか」
 居留地には清国人がたくさんいて剃りあげた頭に尻尾のような弁髪を垂らしている。素晴らしい絹の長服を着て抜け目のない薄笑いを浮かべながら「かわいそうな日本人」と見下す買弁という人たちだ。
「日本では身分の違いをチョンマゲで示しています。清国人の弁髪は王朝に忠誠を尽くす印です」
 清が明を滅ぼした時、弁髪にしない者は反逆者として首を斬ったそうだ。
「チョンマゲを見ればその人の身分が分るのですか」
 そう言って景三郎の頭をしげしげと見る。
「私は武士ですが身分は低いのでこういうマゲを結っています」
「今度マゲを結うところを見せてください。ところで武士の統領のタイクンはミカドに命じられて統治しているのですか」
 スエンソンが難題を質問する。
「1500年も昔はミカドが政事を行ったのですが権力を持つ者は危険です、悲劇がいくつも起きました。やがてモノノベ、ソガという司政官、オオトモ、アヤという司令官が政事を司るようになり悲劇は家臣同士のものになりました。貴族の時代を経て武士の時代になり、徳川氏が300年の平和な統治を続けています」
 しかし京都や水戸では歴史が見直されている。過激な国学者は攘夷に同調して神国日本、洋夷斬るべしなどと叫んでいる。
「内乱にならぬといいですね」
 スエンソンは本当に日本が好きらしい。
「エンペラーとキングの違いはなんですか」
 今度は景三郎が聞いてみた。訪欧の時に理解できなかったことだ。
「フランスやプロシャの王は司政官と司令官を兼ねています、常に国民の先頭に立つ指導者です。もちろん優れた大臣たちが補佐します。スペインやイタリアは昔のまま、王は貴族に囲まれ人々の前には現れません」
「日本は古い方の体制ですね」
「王は神により王権を与えられた、百年前のヨーロッパはどこもそうでした、ミカドも同じでしょう。タイクンは闘争により権力を保持した、これはナポレオンと同じです。しかしナポレオンはフランス王を駆逐しました、そこが日本と違います」
 景三郎も権力というのがどんなものか分かるようになった。
「中国の皇帝も天によって任命されたと自称します、だから天災が起きると天が皇帝に罰を下したと判断されます、それと同じですね」
 スエンソンは続けて言う。
「デンマークにも900年前から王がいます、フレゼリク7世が亡くなられクリスティアン9世が王となっています。デンマークはヨーロッパで一番古い王国です」
「日本のミカドは文字に残っているだけで1300年の歴史があります」
「トレビアン」
 スエンソンが感嘆した。
「タイクンは天皇になることできませんが娘を結婚させるか息子の妻を天皇家から迎えれば天皇の父親になれます。家茂将軍は天皇の妹を妻に迎えミカドと連帯して統治しようとしました、公武一体といいます」
しかし兄のミカドは攘夷論者だ、開港は絶対認めないと主張している。
スエンソンも日本の歴史を勉強している。
「徳川さんは小さな領主でした。それがついにタイクンになった。知恵と幸運と良い家来たちのおかげでしょう。自分の子孫たちが国を失うのも知恵と幸運と良い家来に恵まれなければ当然のことです」
 思わず景三郎はあたりに人がいないことを確かめた。

 スエンソンとは毎日のように会った。デンマーク政府の指示を艦長も承知しているので港に係留している間の行動は自由だ。
 スエンソンが日本の料理を食べたいと言ったので街道筋の料理屋へ連れていった。
 メニューは生魚を薄く切ってソースをつけて食べる刺身と野菜の煮物、大豆の煮汁を塩化物で固めた豆腐と野菜と海藻の入ったコンソメ・味噌汁だ、ナイフとフォークとスプーンで食べながらスエンソンは呪文のような章句を唱えた。
「イォウニウォエェド ツィリヌルゥオ ウァガヨ、私の覚えた日本語です」
 つい景三郎は笑ってしまった。
「あなたの日本語は通詞が必要だ」
「日本のABCですが深い意味があるそうです、教えてください」
 どうやらスエンソンの唱えているのはイロハ歌のようだ。
「色彩は美しくてもやがて褪せていく、同じように私の生涯も永遠に続くものではない、いずれすべてに終わりがくる、まるではかなく醒める夢のようだ。これはほとんどの子どもが手習いで教わります」
「では子どもにも死ぬ準備をさせるのですか、これから育っていこうとする子どもたちに、大人たちは死ぬ時の自作の歌を準備する、不思議なことです」
 スエンソンはいよいよ驚いている。
「親も子も覚悟するのです、それが仏教の教えです」
 エマが生まれた時、景三郎も覚悟をしたのだった、子どもは天からの預かりもの、親はいっときの幸福を得るだけなのだ。
「日本人ほどよく笑う人種はないですね、悲しいときにも苦しくても怒っていても笑い顔になります。道で出会う人はみな幸せそう愉快そうです。誰も好奇心で輝いて見えます。パリの人たちはみな悲しく険しく悩ましく歩いていますよ、それも仏教の教えのおかげですか」
 笑う門には福きたる、ということわざを教えることしかできなかった。
「日本の文字は難しいですね。中国の文字と2種類のアベセ(ABC)おまけに楷書、行書、草書の3種類の筆体、口語と文語の違い、上流と下層の用語・言い方の違い、聞いてみてもまったく分りません」
 景三郎はミドリのことを思った。残していった手本を一生懸命に練習しているだろう。
機転がきき判断力のあるミドリだが文字を覚えることは苦手なようだ。書くと読むことは話すと聞くように楽々とはできない。苦労している面影を思い浮かべて胸が熱くなった。
 スエンソンはこんなことも言った。
「行灯の光は和らかくて気持ちが落ち着きます、しかし本を読んだり手紙を書いたりする時は暗すぎる。ヨーロッパだってロウソクは高価なものですから一般の家では灯心を立ててランプを使います。日本は魚油を使いますがひどい臭いだ。しかしヨーロッパの牛や羊の油だって日本人は嫌がるでしょう。都市では石油のランプとガスのランプが流行りはじめていますよ」
 油売りが色々な油を壷に入れて売り歩くのも興味深いようだった。黒いユニフォームが遠くからでも見分けられる、それが合理的だと感動していた。

 居留地には洋館が立ち並ぶ、開港のために幕府が急いで切開いた地だ、まだ埋め立て工事は続いていて日本人区が広がっていく。
常駐しているフランス船は一隻だけ、通報艦のキェンチャン号だ。これは公使が自分用に使っている。
 居留地の中心はクラブだ。朝から夜中まで異国人が集まっている。ビリヤードをする、九柱戯というボーリングをする、新聞を読む、葉巻を吸う。道路に藤椅子を出してくつろぐ、道路は縦横まっすぐなのでそこにいれば人に会える。
 しかしスエンソンはそんな怠惰な群れを軽蔑した。好奇心にかられてもっと知りたい学びたいと知識見聞を求めている。
「渡欧したときにピラミッドは見ましたか?昔の王は死んでから墓を誇りたかったのでしょうね。スフィンクスは見ましたか?王の顔と獅子の体です。日本の神社の入り口にもスフィンクスが飾ってありますね、コマイヌというが日本の犬ですか!人に忠実な番人に変わりはありません。ギリシア語で絞め殺す者という意味です、王ではなく美しい女の顔です、日本のコマイヌは少し醜い、左右で口を開くのと閉じるのと対になっている、アウン!仏教の形ですか。なぜ寺と神社が隣同士にあるのですか、カトリック教会とプロテスタント教会は絶対に並びませんよ」

 盛秋の日、鎌倉へ一泊旅行に馬を走らせた。寺々の瓦屋根に色づき始めた木々の葉が美しい。すぐに人家の藁屋根にも紅葉が散りかかるだろう。
しかしこの道の途中で文久2年にイギリス人が殺され、その先の井土ヶ谷では翌年にフランス士官が斬殺された。スエンソンは知っているだろうか。
 二人は八幡宮を拝み、大仏を見て長谷の旅館に泊まった。
「この海辺を一里歩くと私の家があります」
「ケイサの家に行ってみたい」
 いつのまにかスエンソンは景三郎をケイサと呼んでいた。
「今回はダメ、次にしましょう」
 藁葺きの小さな家や百姓姿のミドリを恥ずかしがったわけではない、郷の人たちがスエンソンの姿を見たらどう思うかが心配だったからだ。
隣の部屋には数人の田舎の商人が泊まっていた。静かにふすまを開けて、邪魔でなければ話を聞かせてもらうわけにはいかないかと言ってきた。
 初めてトージン唐人に会いました、触ってもいいですか、顔から体、手足を全部触ってみる。シャツ、ズボン、ボタンいちいち驚きの声をあげる。スエンソンはニコニコしてまるで動じなかった。
「フランス、ニッポン、同じこと」
ご馳走しますと招かれて楽しく食べた。
「フランス人と日本人は似ていますよ。皮肉とユーモアが豊かでふざけるのが好き、相手をからかっても悪意がない、温厚で親切です、僕はフランスよりも日本が好きです。もちろんデンマークが一番ですがね」
翌日は江ノ島に行き横浜に帰った。
「ああ日本の田舎は素晴らしい」
 帰る道でもスエンソンは興奮していた。 
「鎌倉への道は見事な並木と生垣が続いています。低い峠を上ると青い入り江が見える、白い帆を一杯にふくらませて船が行く。遠くの丘の中腹には絵のような寺院の建物が見えます。キラキラ光る長い尾羽の雉が足元を走りぬけます。江ノ島は半島のように見えました。そこは弁天女神を祀り、いまだに悪竜が住むと信じられています。こんな素晴らしい風景の中に暮らしていると、この国の人たちが偶像崇拝をするのもやむをえない、これは僕が思ったのではない、マーガレットさんの言葉です」
スエンソンはプロテスタントなので基督公会堂に通う、そこに数年も暮らしている牧師の妻がマーガレットだ。
「日本の女性は天使だな、少し目が吊りあがって鼻が平たいけれどね。それなのに結婚すると眉を剃り歯を黒く染めてあんなに醜くしてしまいます。たぶん天使のうちに結婚相手を見つけて、結婚した後に他の男を寄せつけないためでしょう、これもマーガレットさんに聞きました。日本の男たちは婦人に対してよく配慮して立派にふるまう、女たちはヨーロッパに較べてはるかに自由だ、家事を済ませてしまえばおしゃべりしていてもどこかあちこち歩きまわっていても誰もとがめない。ただ離婚については同意できません。僕は一人の女性と生涯を共にするつもりです」
 景三郎も深く同感した。
「マーガレットさんのところに卵売りのお婆さんがよく来るそうです、たぶん家が寒いからストーブにあたりにくるんだろうって、お婆さんは昔、旅役者だったそうです。歌ったり話したり陽気で元気でおもしろくてマーガレットさんの子どもたちも大好きです、こういう人が教会で説教してくれれば信者がもっと増えるのに残念だといっていました、日本はなぜキリスト教を禁じるのでしょうね」
 これには答えにくい、中国も朝鮮もキリスト教は禁じている、文化の侵略がすぐに軍事につながることを肌で感じていたのだろう。そっと片目をつぶってみせるとスエンソンもすぐに気づいた。
 旅の途中で会った若い娘たちが忘れられないという。
「あの娘たちは新鮮です、色白ですぐに頬を染めるういういしさ、憂いをおびた黒い瞳、形の良い手と足、まさに天使です」
 新鮮というのは清潔ですべすべして輝いている感じなのだろう、もぎたての果物だ。
 いかにも日本らしいところに連れて行ってほしいと頼まれて湯屋に行った。朝湯は客が多くてうるさいので昼の湯、スエンソンはまず真っ裸な男たちに驚いた。陽気な騒音に喜び、湯につかる快感を味わい湯から出て二階に上がった。湯上りは何かがっかりしたような気分になる、湯屋の娘が来て茶を出し菓子の箱を広げた。スエンソンはうれしそうに食べながら次々に質問した。材料は、製法は、価格は。湯屋の娘は親しく笑いながら側に座り景三郎に通訳させた。
「カフェよりずっといい」
 スエンソンはなかなか帰ろうとしない。
「あのこだわりのない自然な振る舞い、不道徳だと風呂屋を非難する人の方が好色です」
 デンマークにも豊かな自然があり季節には花々が美しく咲く。
「けれど日本人のように狂信的な自然崇拝者はいません、お茶を飲んで庭を眺める、鉢植えや盆栽を育てる、鳴く虫を飼う、季節の変化を喜ぶ、詩や歌を創る、そういうことを庶民までが大事にしています」

「僕は戦争に行くことになりました」
 スエンソンが言った。
 10月に李氏朝鮮は9名のフランス人宣教師を処刑した。それに抗議してフランスは極東艦隊に300名の駐屯兵を乗せて出撃した。
「戦争は国が決めます、軍人は国に従います。しかし、これはフランスの戦争です、デンマーク人には朝鮮で戦う大義がありません。ケイサだってフランスのために戦いますか」
 幕府も朝鮮の問題に取り組んでいた。外夷が朝鮮を我が物にしようとしていると対馬藩が申し立ててきた。調査のための軍艦と軍資金を求める、幕府は昌光丸を派遣したが対馬で停泊中に突風にあって沈没してしまった。それで交渉は頓挫したのだ。朝鮮との旧交により援助するか、またはどうするか。
 スエンソンを乗せたフランス艦隊は出航後すぐに嵐に遭い下田に避難した。そして小倉で石炭を積み込み朝鮮に進撃して10月11日には江華島を占領した。しかし朝鮮軍は多数の兵力で迎え撃ちフランス軍を包囲して撃退した。少し前の7月にはアメリカのシャーマン号が朝鮮軍を撃破したが今度は失敗だった。朝鮮王位をフランス皇帝に譲位させるという身勝手な目的は果たせなかった。

 スエンソンが出陣して景三郎は妙に寂しくなった。
製鉄所に用事もあって暮になる前に3日間だけ帰郷した。北風の吹くどんよりと暗い日で人の姿はない、何より静かすぎる。この前に家に帰ったのが稲刈りの頃だ、まだ2ヶ月しか経っていないのに不思議な世界にいるように感じた。ミドリが目を輝かせて出迎えて、すぐに赤ん坊を膝に乗せた。大きくなったので重い、夢中であやした。高い高いをするとキャッキャッと喜ぶ。トーチャン、モットモット、その様子をミドリが泣き笑いの表情で見ている。
 横浜土産はビスケットにドロップ、スエッソンのくれたデンマークの人形、ただ、その全部が場違いのように思えてくる。あまりにも郷の日常と横浜とは違う。
 日林上人に頼んで戴陽の墓にお経を上げてもらった、角左衛門も拝んでくれた。スエンソンのことを話した。
「友だちの異国人がこの郷を訪ねたいと言っています。日本の百姓はどんな暮らしをしているか自分の目で見て話を聞きたいというのです。できれば2、3日泊まってゆっくりしていきたいそうです」
 ミドリがびっくり仰天した。
「そらダメだ、おら嫌だ」
 角左衛門も渋い顔をした。
「郷の人たちも同じ気持ちだろうさ。異人はケガレていると思う者も多い、郷を騒がせたくないものだ」
 ただ日林上人はほがらかに言った。
「郷というのは大きな池のようなものでな一石投じると波紋が広がる、それが怖くてケガレなどと言うんだよ。きれいな水にはきれいな魚が住むが他の魚が入ると争いが起きて水が濁る。ずっと今のままでいたいというがそうはいかない、時代が変わるからの、郷の人も目を覚ます時じゃろう。連れてきたら寺に泊めましょう、さればケガレは消えうせようからな」
「それは分かるが少し待ってくれ。いろいろと話をして皆がいいと言ってからだよ」
 角左衛門は慎重だった。
「なに、どんな大木だって斧を右から打ち、左から打ち、何回目かには倒れます、無理をしてケガをしなければいいのじゃよ」
 日林上人に言われて角左衛門はもう目算を立て始めたようだ。
 静かな郷の暮らしに戻ると横浜のことばかり思っている。
「そうだエマに種痘をしなければな」
「それは何だい」
 エマのことと聞くとミドリは黙っていられない。
「植え疱瘡さ」
 種痘は緒方洪庵が研究して嘉永2年には日本の各地で実施されていた。
「それはダメだ、牛疱瘡をすると牛になるっていうよ」
「流言さ、疱瘡になるよりいいだろう」
「エマが牛になったら大変だ、ぜったいにお断りだよ」
 珍しくミドリが頑固に言い張るので景三郎は困惑した。佐賀では多くの人が種痘を受けていて疱瘡が流行らない、これは遣欧を共にした松木弘安から聞いた。スエンソンも日本にあばた顔が多いのを見て種痘はしていないのかと驚いた。当たり前だと思っていたことが拒否されるので景三郎は当惑した。
 ミドリの権幕が激しかったので種痘などと言えなくなった。
岡田井蔵に説得してもらおうか、そんな思いで製鉄所を訪ねると折りよく春山井蔵がいた。佐賀の中牟田倉之助に軍艦千代田形の機関を造ってもらっているので種痘のことは聞いている。
「佐久でも殿様が最初に自分のお姫様に種痘をしたそうだ、そうでなくては迷信を振り払うことはできない」
「俺はいつ病魔がエマのところにしのびこむか心配なんだよ」
「浦賀でも異国人が撒き散らしたなどと言う馬鹿者がいるらしいからな。日林さんなら説得してくれよう」
「上人は寺にいないことが多いのだ」
 難しいことだなとつぶやきながら井蔵は仕事にもどった。景三郎も横浜に戻らなければならなかった。

「エマちゃんは種痘をしたのかしら」
「牛になるなんて迷信はさすがに信じる人は少なかったけれど自分の体に妙なことをされるのは誰も嫌がるだろう」
「コロナでもワクチンを嫌がったりマスクをしなかったり大変だったね」
「それをあおるトランプみたいな政治家が支持を集めたりしたわ」
「科学的に考えるということが未だに定着していないのかな」
「オジさんはスマホ持っているの」
「一応は仕事で使っているよ」
「その言い方からいやいやなんだということが分かります、使えば楽しいのに」
「怖いというのが先なんだよ。疱瘡つまり天然痘は感染力が高いので地域全体に広がるし薬がないから自然治癒を待つだけ、致死率が高い上、回復しても大きな水泡がつぶれるから醜い跡が残る。せっかく可愛く生まれた息子や娘が恐ろしいあばた面になってしまう。夏目漱石もあばたがあってイギリス留学時のコンプレックスになっていた」
「今はないの」
「オジさんは子どもの時に種痘という予防接種をしたよ、それが1976年まで続いたが1980年にWHOが天然痘撲滅宣言をしたんだ、地球に天然痘はなくなった」
「すごい」
「昔の人が聞いたら拍手するだろうね」
「人は良い時代を創ってきたのね」
「昔は良かったなんて言うが、そんなの絶対にないよ、歴女さんや」
「オジさんはロマンがない人ね」
文久3年には横浜ホスピタルができてイギリス公館付医師のジェンキンスが日本人にも治療を行っていた。元治元年1864年にフランス海軍病院も開設され天然痘やコレラ 赤痢の治療と予防に忙しく活動していた。エマもそこで種痘を受けた。

「ハロー、ハウアーユー」
 居留地の大通りの真ん中だ。
「ケイサ先生お久しぶりです」
「おや、君は…なんだ多平じゃないか」
「相州三浦長柄郷の多平が横浜討ち入り一番乗りです」
「見違えたよ洋装で、先日、郷に帰ったがそんな話は聞かなかったな」
「先生の英語のおかげです。俺は三男だし田畑は狭いしで親父もどうしようか困っていたらしい、案外あっさり許してくれました。ただ外聞が悪いから江戸で奉公をしていることになっています」
「それで今は」
「商会の事務員、といいますが手代です。まだ小さいけれど繁盛しています、毛織物、缶詰、葉巻、帽子、ゴムの長靴まで置いてあります。先生、必要なものがあったら言ってくださいよ」
「楽しいか」
「それはもう、毎日わくわくしています」
 たちまち多平の口から言葉があふれ出た。
 洋館が立ち並ぶ、開港のために幕府が急いで切開いた地だ、まだ埋め立て工事は続いていて日本人区が広がっていく。
 海にはたくさんの軍艦・商船が浮いている。しかし桟橋がまっすぐに突き出ているので風や波の日はボートを着けることができない。波風が納まると各船は一斉にボートを出すので激しいレースが行われる。
日本人の小舟が早朝から深夜まで漕ぎ回っている。料金は天保4枚、水手はフンドシだけの真っ裸だ。
 異国人相手の大店ができている。売っているのは漆器、ブロンズ工芸、水晶細工、陶磁器が表からよく見えるように並べてある。骨董も人気が高いが玉石混交だ。買う気を見てとるとお茶とカステラが出る。「ヤスイ、ヨイシナ」片言ながら英語フランス語が通用する。ゆっくりと交渉して半値にするのが限界だ。異国人から物を買い取る店も多い。異国の物ならなんでも買い取る、江戸をはじめ日本中に売りさばいている。
「本当は異国人に雇われたかったのです。そうすれば言葉も覚えるしお給金もいい」
 けれど日本人は家事ができないからと雇ってくれない、乳母と小間使いも中国人、日本の女は身持ちが悪いと思われている、募集があるのは別当という馬の世話係だけだ。
「俺は牛や馬は嫌いです」
 確かにどこの家を訪れても案内に立つ執事は辮髪の男だ。
 夜中になると火の用心の見回りが金棒をジャラジャラ鳴らしながら歩く。
「そんなに用心しても火事がありました」
 朝、日本人区から出火してたちまち燃え広がり夜7時にまで燃え続けた。居留民は放火だと思ったらしい。イギリス人が消火のためだといって日頃、眼の敵にしているフランス病院を壊そうとしたら病院長が怒って殴りたおしたといううわさがある。しかし皆が保険に入っているので焼け太りの家も多い。
「保険って便利なものですね、俺も入ろうと思っているんですよ」
「まだ自分の店がないだろう」
「ここで働けばすぐに店くらい持てるようになりますよ」
 しかし、異国人を驚かせたのは翌日に焼跡がすっかり片付けられ、次の日にはもう大工が入って建築が始まって、たちまち元の町並みにもどったことだ。
 多平の饒舌には圧倒された、ここしばらくはフランス語を話すことが多かったのだ。元気が満ち溢れている多平の顔がうらやましく思えた。
あっ大変だ今はお使いの途中なんです、1時間も話してしまった今日はここで失礼します、これが所番地です休みの日に会ってください。ぜひ異人さんを紹介してください、何日でも案内します、親しくなりたいのです、商売ができます。もちろん長柄の家には仕送りしていますよ、ずいぶん喜ばれています。ただ郷には帰りません、こっちの方が楽しいですからね。
多平が時計を見せたのに驚いた。たぶん店のものだろう、異国人は時間にやかましい、少しでも遅れればまた日本時間だといって怒る。しかし、ここに立っているのは黒船に驚き侵略を怖れるひ弱な日本人ではない、逆にヨーロッパの街にも平気で進出していこうとする新しい日本人だった。
 
「もしかして人間違いだったらごめんなさい、あなたは江戸の大田景三郎先生ではございませんか」
 男がていねいに声をかけてきた。
「左様でございますが、あなたは」
「ああよかった天の救い、あっしは白壁町の半次でございます。いつぞやはお疑いをかけたり探索したりしてご無礼をいたしました」
 あの親分、自分を不審に思ってクラを住み込また、そのおかげで自分は江戸に慣れ長崎の日々からすっかり回復した、あの頃をいっぺんに思い出した。
「久しい対面ですが…よく私の顔を覚えていてくださいました」
「なに目明しというものは人の顔を覚える、ささいなことに気をつける、それを結びつけてあれこれ考えを巡らす仕事でやす。実のところ困り事があります、やぶから棒でなんとも虫のいいお願いですが、お手助けいただけませんでしょうか」
「親分がこう下手に持ち出されてはいやもおうもない、急ぎの用もありませんので、どこかで座ってお話をうかがいましょう」 
「何しろ知らない土地をあてもなく歩き回っておりやした。先生にお会いできたのが千載一遇盲亀の浮木だ、まるで敵討ちだね」
「牛鍋というのが流行っています、伊勢熊という居酒屋ですが親分いかがですか」
「牛ですか、図が悪いね」
「洋食も召し上がりませんよね」
 住吉町の角のウナギ屋に入った、半次親分はほっとしたようだ。
 料理をあつらえてから気がついて酒を注文した、挨拶をし直すとすぐに半次親分は話しはじめた。
「なにしろフランス公使館が神奈川奉行に申し立てましたのでそれを外国奉行が聞き取った、ところが寺域の事件なので寺社奉行に図らなければならない、その上、高輪から先は江戸の外なので代官の伊奈様の管轄だ、皆様すったもんだの末、いっそ面倒だから町奉行所で探索してくれとお鉢が回りました。あっしが同心の池田様に頼まれてはるばる横浜まで参ったという次第です」
「親分、ところで何が起きたのですか」
「違ぇねえ、これだから江戸っ子は気が短かくて間抜けだと他国者に笑われる」
 フランス軍艦の準士官ピエルという者が上陸して帰らない、音沙汰ないので脱走したのかと心配していたら3日目に泳いで帰ってきた。日本の武士に捕えられどこかの寺に閉じ込められたが戦ってようやく逃げてきたという。その証拠に肩口の刀傷や折れた剣を見せたという。
 ピエルはまだ18才、家柄が良く艦長のお気に入りの若者だ。脱走なら死刑にしなければならないと案じていたところで戦って逃げてきたのなら武勲になる。艦長はすぐに公使に伝えた。
 フランス公使は交易が順調に進んでいるのにここで事件が続いては困ると神奈川奉行所に厳重に抗議した。
 居留地は日本人ばかりではなく諸国の異人たちがごったがえしている。ここは新開地なので地元に馴染みの深い目明しや子分がいない。神奈川奉行所が統率することは難しい。
「あっしだって馴染みがいるわけでもない、どうしたもんだと歩いていたら先生に出くわしたという寸法で地獄に仏です」
 半次親分は一通りの聞き取りをしてピエルの足取りはもう調べてあった。
「軍服を着た若者です、見かけた者がたくさんいて造作なく分かりました。さすが横浜は異人に慣れているね」
 フランス商人のパーティに招かれて深酔いし、その後は町をぶらぶら歩いて、大きな神社を見物して疲れたから茶屋で休んだ。
「日本の酒は効き目がいいようです。あちらの酒は焼酎と同じでカッとなってすぐ醒める、日本の酒は口当りがいいからぐいぐい飲めて気づくとすっかり回っている」
 そう言いながら猪口を口にする半次親分の顔もずいぶん赤くなっている。ウナギはまだ焼けてこない。
「その茶屋を訪ねて茶くみの娘に聞きました、不味い茶だったね。若い異人が来なかったかい、知らないというお返事だ。婆が奥から出てきてケンカごしでまくしたてる、あっしも中っ腹になって十手をのぞかせて啖呵を切りました。おれは江戸の目明しだ、わざわざ出向いてきたんだ、なぜ隠し事をする、正直に言わねぇじゃあいけねぇよ、下手に唾を飲み込んでいると番所にしょっぴくぞ。青くなって話しましたよ。ピエルはお丸というこの娘に一目惚れしたようです。年は20を過ぎて目鼻が大きく大雑把な顔だが蓼食う虫も好き好きだね。婆が欲深い奴でピエルのふところをうかがい金回りを探って娘をそそのかした。ピエルはすっかり熱くなって娘をマリさんなどと呼んで手を握ったりしながら飲みつぶれた。暗くなってから目を覚まし真っ青になった。重罪だ死刑になる、言葉は分からなくても婆も娘も事態を察して軍艦が出航してしまうまで本牧の家にピエルを隠すことにした。ピエルは色が白く上品で目鼻立ちが良い、お丸は可愛くなって下にもおかぬもてなしです。娘といっても養い子、茶は薄いが情は濃い、婆も何枚かのドル札をもらって大喜びだ」
 だいぶ探索に苦労があったようだ、熱心に聞くと、それが親分はうれしくてまた猪口が進む。
「隠れ家に乱暴者が斬りこんできたというのは本当でした」
犯人は田舎の若者3人らしい。黒船が来たから合戦が始まるという噂が広まり遊芸よりも武芸の稽古が流行になった、もうすっかり下火になった。三人はいっぱしの侍になった気分で異人を探していたら良い鴨がとんできた。勢い込んで乱入したものの腕はなっていない、ピエルも准士官だから剣の心得がある。
「腕はなまくらでもさすがは日本刀、フランスの剣はポキンと折れやした。やっとピストルを思い出したとはピエルも間抜な奴で、バンバンと2、3発撃つと3人は魂消て逃げてしまった。ピエルは走って海に飛び込み、泳いで軍艦に戻ったという次第、艦長にそうは言えないので話をこしらえたらしいのです」
「艦長と公使館はその物語を信じたのですね、話の筋に無理はないようだ」
「調べはつきましたがさてどうしたものか。いまさら江戸に帰ってむしかえしてもゴタゴタは収まりませんや。かといって公使館に訳を話そうったってあっしは言葉がしゃべれない、クラと一緒にフランス語を習っておけばよかったと今さら悔やんでおりやす」
「そうだ、そのクラはどうしていますか」
「あっしが世話して本屋の手代になりました。フランス語が少し話せるので重宝されて、いずれ横浜に支店を出すようです。浮世絵とか絵本が大層売れているようですね」
 ようやくウナギが焼けてきた、半刻でできたのは速い方だ。
 食べながら2人は知恵をしぼった。
「お奉行様は面倒なことにかかわりたくない、諸事多発のご時勢ですから失策があると幕閣の叱責をこうむります。お奉行様の手柄は全部、与力同心の働きさ、その与力同心の功というのはあっしら手先が走り回って作るのさ。だから名奉行は部下をよく労わるお方だ、それができないお奉行は2年ばかりですぐにお役御免だ、役立たずってわけでさ」
江戸ご開府以来は目明しと呼ばれ、寛政の頃には岡っ引き、幕末は手先と変わったが、どの名前の頃にも悪い奴はいる。
「博打打ちを取り締まる手先が博打の胴元だったりしてメチャクチャだね。なにしろ給金が悪いや、月に1歩じゃあ水も呑めない。その上、お江戸には手先が380人もいるんだぜ、どうやって食っているのか分からんでしょう。吉原だけで年に1200両を献納しているんだ、それを同心の旦那が受け取り我々にも分配するのさ」
 そういえば浦賀奉行所で町廻りをした時にそんな情景を見た。
 酒がすっかり回って半次親分は腹を決めたようだ。
「おいらが公方様のお身代わりを務めやしょう」
 そういえば三郎助もペリーに副奉行だと名乗ったっけ。
「公使館と艦長にどう話しましょうか」
 それが景三郎の仕事になりそうだ。
「本当のことを言えば艦長は脱走の処罰をしなければなりません。公使だって一部始終を本国に報告しなければならない、書きものを残してはあとが面倒になりやしょう」
 ウナギは上手かったが少し胃がもたれた。
「たとえてみればこのウナギだ、頭と骨を取って火にあぶり油を落としてタレでこってり味付けしなければ食えませんや」
 親分が謎をかけたのが景三郎に分かった。
「ちょっと山椒を効かせればもっと美味くなりますよ、ロシュ公使にこんな物語をしてみましょうか」
 日本の無頼漢が懇親会を装って若い士官を茶屋に誘った。酒に眠り薬を混ぜたので士官は2日も目が覚めなかった。拉致して寺に連れ込んで縛っておいた、どうも公使を脅して身代金を取るつもりだったらしい。彼は気がつくと必死に縄を解いて、それは船乗りだからお手のものだが、雄々しく戦って男どもを切り伏せた。正当防衛ではあるが日本では人を殺せば武士でさえ罪になる、喚問されて咎められれば切腹だ。生麦でも鎌倉でも物騒な事件が続いたが、逆に異国の軍人が日本人を斬った逃げたとなると別の難題だ、経歴に傷がつきます。そうならないように配慮するのが武士の情けです。
 実はもう一つ別の物語も聞きました。町娘に恋をした若い士官が夢中のうちに3日を過ごした。もはや艦には帰れない、身を潜めるつもりでその家の婆に頼んでドル札を両替に出したが本人でなければ替えられない、とやかくもめているのを見た盗賊が後をつけ夜になって押し入った。士官は剣を振るって撃退した。熱愛する娘に結婚を約束して二人は別れていった。
「もう少し場面を創って甘いタレとぴりっとした山椒を工夫してみましょう」
「なるほど首尾よく通れば公使は安心だ、艦長もそれ以上は探索しないでしょう、そして同心の旦那に一件落着と申し上げれば詳しく説明せよなどと野暮は言いますまい。与力の殿様やお奉行様はうっかり聞いてしまうとご自分も責任を担うようになりやす。たとえ詮索好きの方がいらしても、せいぜい酒の席で笑いながら他人事のように聞いて、ほう左様かで終わりになりやしょう。半次ご苦労とウナギをご馳走になれば儲け物でさ」
 景三郎は昔は浦賀奉行所の与力、今は外国奉行になっている合原伊勢守亥三郎の顔を思い出してクスッと笑った。
「では公使の機嫌のよい時にお話してまいります。それまで親分はここに泊まって横浜見物をしてはどうですか」
「それはありがたい、もう少しここんところを見て回りたいと思っていやした、江戸に帰れば自慢になります」
「昔、クラにはずいぶん江戸を案内してもらいました、そのお返しに道案内をつけましょう、多平という若い者です。気のいい奴です、これはしたり、人物を見るのは親分の仕事でしたね」
 景三郎はまだ心にひっかかることを思い出した。
「そうだ親分、聞きたいことがもう一つあります。あの長屋の稽古所の師匠お秋さんは姉さんに巡り会えたのでしょうか」
 親分はけげんな顔をした、お秋は知っているが景三郎とどんなつながりがあるのか分からない、さて話したものか。
「お秋さんとお互いの身の上話をしました。クラは私たちがいい仲になったのではないかと疑ったものです」
「なるほど目明しの目をかすめるのはたいしたもんだ、敬服敬服。お秋は死にましたよ、 大店のご隠居だったね根岸の別宅に住んで寂しくてならないから茶飲み友だちのつもりで来てくれないかと。つまりお囲い者だが体が弱いのを承知で親子のように暮らしていましたっけ。1年ほどで亡くなっりましたが篤く看取ってもらってね、あっしも野辺の送りにつきあいました」
「姉さんという人は葬列に?」
「さてどうですかね、お秋さんと似たような人はいましたがね」
 たぶん隠居が手を尽くして探し出してくれたのだろうと思うことにした。

 まずは多平の雇い主に頼まなければなるまい、景三郎は渡された所書きを見ながら居留地を歩いた。表通りからやや引っ込んだ所に店があった。店先をのぞきこんだが多平はいない、同じくらいの年恰好の『事務員』に声をかけた。すぐに主人が出てきた。
「なにかお探しでも、おや景三郎さんですね、遣欧でお世話になった伊勢屋の重兵衛です」
 これは驚いた、遣欧で共に過ごした仲間だ。
「横浜は狭いな、知り合いばかりです」
「異国とのつながりを持つ人は皆、ここに現れます。福地さんも福沢さんもよくお見かけします。景三郎さんのうわさも聞いています。いつ店にお立ち寄りいただけるのかとお待ちしておりました」
 座敷に案内された。多平は外回りでいない。
手早く用事を頼んだ、快く承知してくれた。
「私も伊勢屋の出店を任されて1年半になります、目明しのような方が居留地で何を御覧になるのか興味深い、多平にはそちらの探索もさせましょう」
 二人は笑いあった。
「景三郎さん、各国公使というのは役人ではない商人ですよ。ロシュさんは家柄もいいし外交というのが分っておられるが他の人は自分の利益が第一で本国のことなど後回しです、しみじみ異国は商人で成り立っている国だと思います。皇帝も大臣もみんな商人の顔色をうかがいます。景三郎さん、商人が手っ取り早く大儲けするのは何か分りますか」
 絹とか美術品とか思ってみた。
「それは戦争なんです」
 戦争を起こせばたちまち巨万の儲けがある。大砲、軍艦、弾薬は高価なものだ、だから本国でも日本でも異国の商人は戦争を待っている、いや引き起こそうとしている。
「長崎のグラバーなんていうのもそんな商人です。見ていてごらんなさい、すぐに倒産しますよ。ジャーディン・マチソン商会はイギリスの東インド会社を引き継いでいますからそんな無茶はしませんようで」
 重兵衛は熱心に話した。通詞は公使と役人の間を繋ぐ、どちらかに肩入れしてしまうと互いに正しく理解しあうことができなくなる。平衡感覚というのが必要なのだ。
 再会を約して景三郎は辞去した。商人の勘の良さと探索の細かさに驚くばかりだった。そして多平に異人を紹介してくれと頼まれたのに江戸の目明しを押し付けたことを思って吹き出してしまった。しかし一攫千金の居留地は詐欺や不正が横行している。景三郎は多平がそんな誘惑に駆られることを心配していた。半次親分が居留地の悪を見つけて、それはいけないことだと多平に諭してくれればこんないい薬はない。重兵衛も公儀の目の付け所を知るだろう。
 3日後にロシュ公使は役宅に戻ってきた。横須賀製鉄所の件で小栗上野介と話がまとまりかけている。なにしろアルジェでは王様と家族づきあいしたほどの社交家だから小栗がいくら怖い顔で難しいことを言っても軽くいなしてしまうだろう。おだやかにしかし鋭い目で景三郎の2つの物語を聞いていたが最後に軽く笑った。
「景三郎さん、2つを合わせて筋をつければオペラになりますね、復活祭の余興にぜひ見たいものです」
「会所に話しておきます」
「時々きつく抗議してオヤクニンの居眠りを覚ますのも公使の仕事の一つです。日本のデテクティブ(探偵)はエフィシェイス(有能)ですね、小栗さんに言っておきましょう」
 半次親分は多平の案内で5日間横浜を見物して回った。多平は1両も心づけをもらって喜んでいた。
「多平さん、商売で肝心なことは何だと思いやすか」
「それは儲けることです」
「そう思っちゃあいけねぇ、おいらもここで異人たちを色々見たが、奴らは世界を渡り歩くヤクザ者だね」
 確かに見るからに人相が悪い、本など読んだことがない、いつもピストルを身に着けている、酒を飲めば殴りあう。
「それにさ、考えるのは女のことばかりときていらぁ」
「だって紀伊国屋文左衛門は一攫千金で大もうけしたんでしょ」
「そいつをあぶく銭というんだ、そんな商人は江戸では3代続かない」
 お客様を大事にして地道に着実に商売する、施しや奉仕を欠かさずして、それでも残ったお金は天からの預かり物として大事に活用する。
「ではどうしたら金持ちになれるのですか」
「権現様(徳川家康)は世間を知った方だから四角四面に物事を定めなかった、必ず抜け道をつくっておきやした。そこに儲ける仕掛けをつくれば濡れ手で小判をつかみ取りさ、聞けば小判と一歩金とメキシコドルを両替して小判を安く買い占めた異人は大儲けをしたというじゃないですかね」
文久の頃、開国に当って幕府は小判1両を1ドルとした、ところが銀を基準にすると金1両は銀貨12歩で4ドルになる。日本は銀が安かった。
「幕府の大しくじりさ。続けてお台場だ、悪事は身のわざわいといいますよ」
 お台場を築く莫大な費用を捻出しなければならない。勘定奉行は品位の低い一歩金を造ってそれを工賃にすることを考えた。
「これは酷いと思ったよ。案の定、物の値段がどんどん上がってみんな大弱りだ。誰かが儲けると誰かが損をするのが世の中さ。穴はいくらでもあるんだけど下手に落ちないように気をつけなくっちゃならねぇよ」

 11月24日に長崎から通信がありスエンソンが足を負傷したという。そして12月になって横浜に送り返されてきた。景三郎はすぐにフランス病院に見舞いに行ったが思いのほかに元気そうなので安心した。
 話すことはたくさんある、10月30日の横浜大火をスエンソンは聞いて早く焼け跡を見たがったが、すっかり元の通りだと聞いて驚いていた。
「なにしろ日本は火事が多いんだ、木と紙と藁の中で暮らしているから」
「ヨーロッパの石造りの家は利点もあり難点もありますね」
スエンソンが一番喜んだのは12月7日に幕府がデンマークと修好条約を結んだことだ。11番目の国でありこれが幕府最後の条約締結だった。スエンソンの願いも果たされた。
若者の回復力は強い、幸い正月の前には退院することができた。景三郎は自分のことのように喜んだ。
 
「それは本当ですか、ひどいことです、私は絶対に許しません」
初めてスエンソンが憤怒の顔で景三郎をにらみつける。
「長崎でキリスト教徒が虐殺されているそうです。神父が抗議し公使も問題にしているといいます」
 景三郎は寝耳に水だ。
「少しも知りませんでした」
「私はデンマーク国教会の信者だがこの問題ではカトリックに同調します。信仰は自由、信仰のゆえに虐殺されるなんて中世の悪夢です」
 話を聞くと慶応3年に長崎のキリシタンが摘発されて3千数百人が捕えられ牢に閉じ込められたという。
「これで日本人は野蛮な人殺しだということを世界中が知ります。せっかく開国になりこれから世界に飛び出そうとする日本人は汚名を着なければなりません。幕府は何を考えているのでしょう」
 スエンソンの怒りは静まらない。
「しかしこれは日本人の全員の問題です、幕府のせいにしては卑怯です」
 しかし一介の通詞に何ができようか。
「ケイサは止めなかった、その罪をあなたも負うのです」
 キリスト教には原罪というのがあって人間は生まれながらにその罪を負っていると聞かされた。一つの罪がすべての人に及ぶ、日本だって五人組の誰かが泥棒をすれば全員がなんらかの罰を受ける、しかしスエンソンの怒りはそんな単純なものではないようだ。

「ちょっと待って、よくわからない、隠れキリシタンなのね」
 美帷が話をさえぎった。
「江戸の初めだけだと思っていたけど幕末にもあったのね」
「浦上四番崩れといって、その前は安政、その前は天保、最後は明治になってから五番崩れがあったそうだ」
「なぜ」
徳川時代の初めに天草騒動などキリシタンと豊臣方の浪人が騒動を起こした。幕府はキリシタン禁令を掲げて異国人が宗教を通じて日本を乗っ取ろうとしていると危機感をあおった。それが今でも続いている。前例主義の役人たちは落ち度を心配する小心者ばかりだ。その反面、手柄を立てて出世したい。密告をさせて処罰をする、すべて前例通りで歴史感覚も歴史反省もあるわけがない。
「ひどい、どんな罰なの」
 指導者は斬首、信者は流罪だ。安政6年から横浜に教会が建ち神父が何人も居住して布教をしているのに禁教が続いていたのだ。
「神父さんは隠れキリシタンを知らなかったんだね」
 明治になってそれを知ったカトリック教会は隠れキリシタンを教会に迎えようとしたが彼らは入信しない。すでにキリシタンはキリスト教徒ではなかったという。
「これは宮崎賢太郎という先生のお説だよ。 キリスト教は信徒が教会で神父に導かれることを定めとしている。隠れキリシタンは江戸の初めにすべてを失い自分たちだけの信仰を守り続けた。それはキリスト教の教義から外れるし、そもそも江戸の初めに難しいキリスト教の教義を理解していた人など一握りもいなかっただろうというのだ」
 ザビエルの通詞はマカオで知り合った日本の武士アンジロウだ。日本人に唯一絶対神デウスとは何かと問われて大日如来だと翻訳した。天国パライソは極楽、聖母マリアは観音様、難しい教義を翻訳することなどできるはずがない。それで人々は宣教師を仏僧にだいぶ遅れて来た天竺宗の僧侶だと思った。戦国武将たちは寺を壊し領民を強制的に信徒にして宣教師におもねった、交易の便宜のためだ。
「それで信徒は何を祈ったのかな」
「豊作豊漁、家内安全、病気治癒、その他たくさんの現世利益さ、神社や寺で祈るのとまったく同様だ。大臼デウスは願いをかなえてくれるありがたい仏様だった。ただ一つ困ったことはキリシタンは死後に天国パライソにいく、だから仏に導かれて極楽浄土に行ったご先祖様に会えなくなることだ」
「なぜ死んでからのことが大事なの」
「ヨーロッパの騎士も日本の武士も勇敢に戦って死ねば先祖や昔の英雄に迎えられる、庶民も誠実に生きれば死後に先祖たちの待つ浄土で暮らせる。宣教師だって殉教すれば天国に行くことができる、だから派遣先を殉教の可能性の高い日本を選んだという人が多かったらしいよ」
「よく信仰を隠して2百年も続けることができたのね」
「生き残った信徒は農民か漁民ばかりだから血縁と地縁という固い結束がある、それ以外の生活はできなかったんだ。ところが現代は過疎と高齢化が進んで信仰も儀式も継続できなくなっているそうだ」
「だからといって若い人が移住して仲間入りすることなどできないですね。ところでまたスエンソンの話に戻らなくていいの」
「何を話していた忘れてしまったよ。ともかく二人は気まずく分かれて2、3日会わなかったのだと思うよ」
「また見てきたような物語ね」

 多平に会ってから景三郎はしきりに郷に帰りたくなった。長柄の郷から製鉄所に通えばミドリとエマと一緒に暮らせる。そう願い出たが上司の柴田貞太郎は承知せず別の仕事を依頼してきた。1月中頃に幕府伝習隊を教練するフランス軍事顧問団一行が横浜に着くから通詞をしてほしいというのだ。団長シャノワール参謀大尉、副団長ブリュネ砲兵大尉など士官6名下士官13名が1年契約で来日する、ロシュ公使と小栗勘定奉行の取り決めたことだった。
 クリスマスになった。スエンソンの怪我も回復した。イギリス船は砲門にヒイラギを飾り灯火を明るくして祝う。フランス船はミサだけだ。新年の祝いは陸上で盛大に飲む。砲兵の守護聖人が聖バーブ、海兵は聖モーリスだ。
 京都では孝明天皇が薨去され、慶応3年1月9日に明治天皇が即位された。そのすぐ後の1月11日に一行が到着した。早速、横浜太田に構えた陣屋で歩兵砲兵騎兵の訓練を始めた。大田陣屋はフランス語伝習所があった建物だ。
 景三郎はブリュネに付き添った。長身で厳しい口ヒゲを生やしたブリュネはメキシコで戦った勇士でレジオンドヌール勲章を授かっている。
「日本は遅れた国だが日本人は遅れてなんかいないと俺は思う。わずか数年で軍艦を乗り回しナポレオン式の陸軍を持とうとしている。確かに武士たちは軟弱だが農民はたくましい、それはナポレオンの兵士たちも同じだ、規律正しく頑強でへこたれない」
 自己紹介もそこそこにブリュネはそんなことを言った。
「オダノブナガという将軍は小銃を使いこなして密集陣で勝利した。戦略と戦術の達人だったのだろう。ナポレオンと似ているな」
 そんなことも言った。フランスの日本研究はなかなか進んでいた。
「俺も日本語を練習しているが難しい言葉だ」
 これはスエンソンも同じことを言っていたのを思い出した。
 しかしブリュネは兵の質が悪いことにいらだっていた。なにしろ伝習兵に応募したのは土地の持て余し者ばかりだ。言葉ではなく威厳と賞罰が物をいう、景三郎が通訳する必要などない。しかし景三郎は軍事顧問団の暮らしを支えなければならなかった。すでにパン屋はいくつも営業している、ワインとコーヒーも輸入量が増えた、肉は居留地の屠殺場から届けさせる。
 スエンソンは潔癖な若者だったがブリュネ一行は陸軍の歴戦の軍人だから要求が違う。パーティには婦人がいなければならないというが居留地の芸者は大忙しだ。武家屋敷には下げ重という女たちが足軽相手に商売している。重箱に少しの菓子や肴を入れて屋敷に届け足軽の相手になる、そんな仕組みを作らなければならないのか、そんなことまで考えた。

 1月初め、ローズ提督とロッシュ公使は横須賀製鉄所を訪問した。スエンソンと景三郎も同行した。軍艦も工場もすべてが日本人、士官も砲手も技手も水手も日本人だ、岡田井蔵も輝かしい表情をしている。佐十の姿もあった。

 春になると徳川慶喜は大坂城に各国公使を集めて会見すると宣言した。ロシュはすぐにキェンチャン号で大坂に行った。
3月4日にスエンソンとブリュネもローズ提督とともに兵庫に入港したがタイクンは不在だから1週間待てという。提督は急送文書を1週間後に横浜で受け取らなければならない。軍艦は横浜に帰りすぐ大坂に戻る、そんなことが当たり前の時代になったのだ。
 3月20日にタイクンは大坂に帰り謁見を告げた。一行は大坂、淀川河口に入港して25日に大坂城に登城した。大手門の左右には幕府歩兵の儀仗兵が並んでいた。大使と艦隊司令官を迎える儀礼の仕方を聞いてあわてて準備したのだろう。それがまったく猿真似で恥ずかしかったとブリュネは言う。皆が軍帽をかぶらずちょん髷をむきだしにしている。筒袖と股引の軍服は揃いになっておらずブカブカだったりツンツルテンだ。姿勢が悪く剣付鉄砲をあちこちに向けていてだらしない。その上、好奇心をむき出しにしてニヤニヤ笑ったりささやきあったりしている。こんな兵が自分の部下だったら怒り狂って即時に処罰するか自分が辞職すると憤慨した。
 しかし景三郎は居留地の謝肉祭を思い出していた。まったく破廉恥だった。最後の日をマルディグラといって水兵はロープや衣料を詰め込んだ大きな人形を作りメインマストに飾り付ける。大テントを張って提督を迎えると仮装行列が始まる。鼓手長が大仰なパフォーマンスで指揮棒を高く投げるとマーチが始まる。提督の回りを3回まわるとダンスになる。朝鮮や中国で仕入れた服、戦利品の鎧兜、航海途中の様々な国で仕入れた婦人服を来た若い水兵たちがカンカン踊りを始める。うっかり覗き込んだ日本人はたちまち引きずり込まれてしまう。どこの国でも兵というのはそういうものだと思った。
 3月27日、タイクンは私的に謁見した。 軍事顧問団の一行も招かれた。絵の得意なブリュネはタイクンの横顔をスケッチした。松平豊前守という若君はブリュネの履いているポーランド型長靴に魅了された。ブリュネはあきれたが快く贈呈するとお礼に旗本の衣服一色が贈られてきた。精悍なブリュネが着ると良く似合った。
 3月28日に公式謁見があった。登城する  西洋人がどんなに立派に振る舞っても見物している大坂人たちはかまわず爆笑した。城内は礼服と礼服が押し合って大混雑、まるで競いあっているようだ。
タイクン慶喜征夷大将軍はフランス海兵隊の訓練を謁兵した。軍楽隊を先導に200名の兵士が威儀を正しい行進した。慶喜はその後も好んで軍服を着た。
 スエンソンはようやく慶喜に会えた喜びを景三郎に語った。
「タイクン・ストツバチは立派な姿をしていた。ヨーロッパの皇帝にも劣りません」
「一ツ橋でしょう」
「これは失礼、怪我した足は治りましたが耳はまだだめなようです」
 タイクンは姿勢が正しく、時折、口がほころぶときれいな歯がのぞき人好きする顔になる。声がやさしく快い、憂愁の貴公子だ、まるで尊敬する兄のことを話すようだ。タイクンは朝鮮での戦いの様子をしきりに質問した。日本の装備している大砲と砲台の改善、軍艦の購入のことを訊ねた、その詳しい知識に皆が驚いた。
そしてスエンソンの任務はそれで終わった。大坂から長崎に渡ってしばらく滞在し5月になって横浜に戻った。
 帰るなりスエンソンは一緒に写真を撮ろうと求めた。
「日本の記念にします」
 二人は弁天通りの崖の上の写真館に向かった。
文久2年から下岡蓮杖が店を開いていて評判が高い。下岡は浦賀奉行所の大砲足軽で平根台場の受持ちだった。ビッドル艦隊来航の時にその絵を描いて認められ、足軽をやめて江戸の狩野董川の弟子になった。しかし初めて写真を見て驚きすぐに弟子を辞めて、安政3年に下田奉行所の足軽になりハリスとヒュースケンから写真術を教わった。もともとは下田の船改御番所同心の3男久之助といった。
 景三郎は話には聞いていたが訪れるのは初めてだ。
 歩きながらスエンソンは時間を惜しむように色々なことを聞いた。
「ティー・セレモニーってなんですか」
「それはフランス語ですか」
「いいえ英国公使館で聞きました。ユニークなトラディショナルなカルチュアだと聞きました」
 ようやく茶の湯だと分かったが景三郎は説明できない、日林上人なら知っているだろう、通詞はなんでも知らなければならないと痛感した。
「すみませんが私は知りません」
「謝ることはありません、ウソやゴマカシを聞かされては困ります。ケイサは正直なので僕は信頼します」
 二人は薄暗い店に入った。
「ようこそお出でで」
 異国人の顔を見ると主が奥から飛んで出てきた。下岡蓮杖だった。如才なく挨拶し茶を勧めた。景三郎も名乗りをあげスエンソンを紹介した。
「これは奇縁です、大田氏は浦賀ご奉行所の方でしたか。私は中島氏や合原氏にもお仕えしました」
 ただ世代が違う、中島氏も三郎助ではなく父親の清司だ。ここ横浜で写真師ショーヤーの下男になり写真術を学びながら、妻のアンナに日本画を教え、そのかわりに西洋画を学んだ。
「こう見えても江戸城再建の折には絵師として雇われ百両を下賜された腕ですよ」
 次にウィルソンに写真術を学び独立したが薬品・ガラス板が入手できない、ガラス切りを探し回った。
「いやいや前口上が長引きました。早速、撮らしていただきます。異国の方は扮装されるのがお好きですが、はいはいポートレートでよろしいですな」
 動いてはいけないと数分辛抱させられた。
「後日、お届けいたしますがお暇がありましたらしばらくお話でも。こんな写真はお土産にいかがでしょうか、異国の方々は娘や人物、風景がお好きで、ずいぶんお買い上げいただいています」
ところがモデルにしていた娘が病気になり、親や知り合いが写真で魂を吸い取られたと苦情を言ってきたり、キリシタンの魔術だとうわさが立ったり、攘夷の武士が押し入って道具を奪っていったり苦労が絶えない。
「近頃はようやく開けてきて日本人も写真を撮ることが多くなりました。長州戦争の時も出陣される方の写真を何枚も撮らせてもらいました」
弁天通りに店を構える161人の5人に1人が下田出身だと自慢した。小間物、荒物、絵草子を商っている。自分もさらに商売を広げてビリヤード場や牛乳屋をやってみたい、これからは乗り合い馬車が儲かりそうだなどと話した。
「とんだおしゃべりを。おい、お茶のお代りだよ」
 ふと思いついて茶の湯のことを聞いてみた。
「はあ旧弊なご趣味です。高慢な顔をして古い茶碗で泡立てた茶をありがたそうに少しだけすすって茶碗だ掛け軸だとご自慢を褒めあう、青蛙じゃあるまいし水まで褒めたりして、泰平の世の無駄事でございます」
 …と言っていますと通訳する他なかった。
 帰り際にご自慢の杖を見せてくれた。
「5尺3寸あります、レンコンの形だから蓮杖さ。私は毎朝、朝日を拝み真言九字を唱えていますから足腰が達者です」
 それも旧弊なことですねと言おうとしたがせっかくの写真に曇りがかかってしまう困るので黙っていた。 
 スエンソンは6月に上海行きの商船に乗って母国に帰っていった。景三郎は静かに見送った。
     
 軍事顧問団は熱心に活動した。ようやく歩兵と砲兵は上達したが騎兵はダメだった。旗本は騎馬で登城するので馬には慣れているが集団行動ができない。兵はダンブクロ、士官は茶ンブクロと呼ばれる軍服を着ている、相変わらず市中の評判は悪かった。
 景三郎はブリュネとともに砲兵の世話を受け持っていたが、ある日、歩兵の名簿を見て驚いた。伝習歩兵小頭香山栄左衛門と書かれている。聞くと確かに浦賀奉行所の与力だった人だという。
 伝習歩兵は外神田に屯所を構えている。昔、景三郎が住んでいた長屋にほど近い、すぐにでも会いたかったが中々機会がこなかった。

 慶応3年、栗本瀬兵衛はパリ万博徳川昭武使節団の世話係となろうとしたが認められず激怒して「幕府は連邦の一部で全権は持っていない」と論難した。その言葉を聞いてフランス政府は幕府の権力を見なおし、小栗が努力してまとめた借款600万ドルもとりやめになった。幕府の軍事力は後退して薩摩とその後ろ盾のイギリスは祝杯を上げた。
それがきっかけの一つになった、慶応3年10月14日、突然、タイクンは大政奉還を申し出た。
「それはどういうことだ」
 ブリュネの問いに景三郎は答えられなかった。
「いずれ説明があるでしょう、はっきりしているのは公儀が江戸幕府ではなくなったということです」
「ではミカドがタイクンになるのか。俺たちは私兵を訓練することになるのか。まあいい、契約は一年限りだ」
10月の末になってずいぶん久しぶりに岡田井蔵が訪ねてきた。
「お互い多忙だ、俺の相手は機関だがお前の相手は異人か」
「お前は油まみれだが俺はフランス語まみれだ、どうだフランス砲兵大尉と話してみるか」
「ご免こうむる、機関は正直だが人間は不実な奴が多い、大砲などは打ったら後先かまわず飛んでいくだけだからな」
「なにか嫌なことがあったか」
「栗本瀬兵衛だ、製鉄所御用掛では不足で、今は外国奉行兼勘定奉行兼箱館奉行だと、出世好きの偉がり屋だ。公方様や小栗殿と親しいことやロシュ公使と親密なことなどを鼻にかけて部下をゴミのように見下す」
 昔、勝麟太郎とともに鳳凰丸を見学した時に、栗本瀬兵衛が西洋船の真似をしたが中身は和船だ、きれいに着飾ったおいらん船だと悪口を言ったのを景三郎は忘れない。
「ところで浦賀にもええじゃないかが来たぞ、江戸では去年の冬頃から大神宮のお札から石地蔵までが降ったというんだ」
 10月17日、砂糖などを手広く扱う廻船問屋湖幡屋の砂糖壷に伊勢神宮のお札が入っていた。店の身代が傾きかけていたところなのでこれを吉兆と喜び赤飯を炊き町の人に酒を振る舞った。うわさが広まって11月の叶神社の祭りは大変賑わった。祭り衣装で手踊りや万灯を振って町内を騒ぎまわる。以後も寒参りと言って10人15人が裸で白鉢巻、腰に注連縄を巻いて武山不動にお参りする。まるで乞食の願人坊主の格好だ。陣屋のある大津村では女たちが男マゲになり半天股引で歌いながら、男たちはフンドシ白鉢巻で練り歩いた。
「もちろん最初のお札は湖幡屋の若い者のいたずらさ。大坂京都から江戸までの街道筋はどこもええじゃないかだ。発案したのは西国の知恵者らしい。三郎助様の見立てでは土佐や阿波に似たような踊りがあるという」
「なぜ世の中を騒がせるのだ」
「世の中をもっと騒がしくするためさ。公方様が大政奉還をしたので薩長は対抗して攘夷を討幕に変えた、それで物事全部をええじゃないかにしてしまうんだ、公方様をひっくり返すのもええじゃないか、これはただではすまない」
「それなのにお前は機関に引きこもるのか」
「そういうお前も異人の口車に乗らないように気をつけた方がいいぜ、ミドリさんが心配していたよ」
「エマも元気かい」
「ああ大丈夫だ、お前のことをお父上と呼んでいたぞ。それで思い出したがナミ殿もお前のことを心配していたぞ」
 忘れられていたわけではないらしい。
「それで近頃はどうされている」
「相変わらず世の中を憤っておる」
「お会いしたいな」
「煤掃いの手伝いに来たらどうだ、俺も来いと言われている」
 武家も町人も師走に煤掃いをする。向こう三軒に予定を知らせ、当日は暗いうちから準備をする。屋敷の若党や小者が玩具の烏帽子にヒョットコの面をつけ陣羽織で音頭をとる。下男や飯炊きが姉さん被りで白粉べったり、下女は鍋墨で顔を真っ黒にする。そんな姿で家内全員が畳を叩き煤を払う。掃除が終わると殿様・奥様・若様お祖父さんお祖母さんから下男下女まで順番に胴上げをする。日頃意地悪な者は受け止めずに落として怪我をさせたりするのが楽しみになっている、江戸っ子たちは何でも遊びにしたがる。
 景三郎は初めての見る旗本屋敷の煤掃いに呆れかえった。ナミさんも墨で顔を真っ黒に塗って楽しそうに畳を叩いている。時折、近づいて井蔵を足払いでひっくりかえしたり景三郎に当て身をくわせたりといたずらをしかけた。仕返しに胴上げの時には思いっきり高く上げてやったがさすがに武芸者、ひらりと体をひねってすっくと立った。思わず喝采してしまった。
 皆が手足顔を洗って衣服を改めると宴会が始まる。隣近所から紅白の餅、親戚からは赤飯の握り飯と煮しめが届いている。
「あの者どもは誰だ」
 坊主頭の男が派手な衣服で酒を注いでまわるのに景三郎は驚いた。井蔵は苦笑いした。
「お数奇屋坊主さ」
宴会には酌をする人が必要だ。ふつうは芸者を呼ぶのだが祝儀が高い上に宴会中に3、4回も衣服を着替えるほど気位が高いので並の旗本では声をかけられない。そこで遊芸の師匠を酌人にしてお数奇屋坊主に座持ちをさせる、それが旗本屋敷の宴会だ。
格式がやかましいので景三郎と井蔵は末席に座った。お数奇屋坊主が踊りだして座が乱れるとすぐにナミさんが二人の側に来た。景三郎は渡欧の話をし、田舎暮らしの話をし、スエンソンやブリュネのことを話した。井蔵もアメリカの話をし、軍艦のことを話した。どれもナミさんの知らない世界だ。目を輝かせて聞いている
「1866年ロッテルダムと刻んである」
 横須賀製鉄所に着いたばかりのスチームハンマーが井蔵の自慢だ。
「蒸気で圧力をかけて鉄を打ちたたく」
「鍛冶屋の槌の代りだな」
 景三郎がつぶやくと井蔵は怒った。
「あんなものはトンテントンテン子どもの遊びだ。スチームハンマーは凄いぞ、音もすごいが威力もすごい。あれこそ西洋文明だ。三郎助殿は大砲の威力に驚いたが俺はこっちに感動した。鉄をたたけばどんな物もできる。船だけではない、灯台を作る、紡績機械も作る、今まで人の手で作っていた物がみんな機械で作れるようになるのだ」
「蒸気とかスチームとかって何です」
 ナミさんが素朴な質問をする。
「ひらたく言えば湯気です。しかし隠居が頭から立てたり茶釜から吹き出すのとは規模が違う。石炭を焚いてすごい量の蒸気を釜に納めて吹きだす、その力で機関を動かすのです」
「日本でも隠居が思いつけばよかったな」
 景三郎がからかったので井蔵はむきになった。
「確かに西洋に教えてもらったのだ。しかし、これからは違うぞ。原理が分ったから後は俺が造るんだ」
 ボイラーは銅でできた四角い箱だ。そこから蒸気が出て盛んになると1分間に50回の速さでシリンダーがクランクを回す。スクリューは帆で走る時に邪魔なので上げてしまうが外車船はそれができない。咸臨丸が機関を使ったのは9昼夜分だけ、それだけでも8万4千斤50トンの石炭を積みこんだ。全部で50人の水夫と火夫がいて水夫頭は年俸は36両、若い見習いが10両だった。これは江戸の奉公人と大差ない。
「本にはもっと色々なことが書いてあるだろう。お前も本を読めばいい」
「それはお前の役目だ。俺は造る役だ」
 ナミさんは面白そうに聞いていたが、ふと言葉をはさんだ。
「確かに言葉を学べば本が読めますね」
「それだけではない、一人で異国に行って町を歩き異国の人と話ができます」
「そうですね」
 それからも二人は話を続けたがナミさんは何か考えに沈んで上の空だった。自分の知らぬ世界がたくさんある。女のくせに武芸をなどと陰口を言われてもはねかえした、女だから世界を知らぬと言われて黙っているわけにはいかない。
「異国へ行くことはできるのでしょうか」
 小さな声だった。
「異国へ行くのは国法で禁じられている。もちろん俺は使節を送るために船を動かしたがそれは主命だ。自分から行きたいと思ったのではない。言ってみれば駕籠かきや馬子と同じだ、機関を動かしているだけだからな」
「いや俺は行きたかったぞ。通詞だから気が軽いと思うなよ、俺がしくじれば使節は用を果たせないのだ。気が抜けるものではない、たとえ宴会の最中でも無理難題を伝えられるかもしれない。酔っていて分りませんなどと言ったら切腹ものだ」
「行きたいです」
 もっと小さな声だった。
 ナミさんは武芸の上達を果敢に挑んでいると思っていたが今は次の目標を模索していたのだ。景三郎は敬愛の気持ちで一杯になった。
 四斗樽を飲みつくして宴会は終わった。

 景三郎はナミさんの熱意に応じてやりたいと思った。福地源一郎に相談すればいい、手紙を書くとすぐに返事が戻った。芝居の手配師瀧ノ上寛十郎を紹介する、貴公も物好きだなと添えてあった。景三郎は自分でもそう思いながら浅草の猿若町まで訪ねて行った。
そこは小奇麗な二階家で案内を乞うと、どなたですかと豊かで深い声音が返ってきた。瀧ノ上は恰幅の良いにこやかな中年男で人をそらさぬ世慣れた人だ。
 イギリスで一番評判の高いのは紙の蝶を飛ばす手妻の芸人だそうだ。すでに何人もの芸人が公儀に内緒で海を渡っている、それは冒険とか親善とか大層なものではなく食うためだ。舞台に三味線とか鳴り物が欠かせないので女芸人も同行する、異国人は着物の女芸人にあこがれる。
「江戸で評判の早竹虎吉という軽業の名人もアメリカに行こうとしております。こっちは金が稼ぎたいというより芸自慢だね、自分の芸を見せたいんだ。異国といったって怖いことはありやせん。たとえ毛色が違っても唯の人でござんすよ、芸を見せれば皆が納得する。お芝居だって誰かが土地の言葉で説明してやれば泣かせたり笑わせたり自由自在だ」
 景三郎はナミのことを話した。
「それは元気なお嬢様ですな、そのうえお美しいとあればご見物は大喜びでしょう。剣術は免許皆伝、槍も薙刀もお上手、鎖ガマもできる、それなら座頭になれましょう、居合い抜きでアメリカ人をびっくりさせてやりましょうや。丁度、剣舞の先生が相手を探していますから声をかければ、すぐにでも異国へ稼ぎに行かれますよ」
 あんまりあっけないので景三郎はびっくりした。
「私は遣欧使節に同行しましたが大変な覚悟でした」
「それはお役が大変だからでござんしょう。芸人たちは根無し草だ、浮世の旅は慣れておりやす。腕に覚えさえあれば何も考えずに旅立っていきます。それに船で毎晩、芸を見せれば、タダ同然の船旅になる、ご祝儀もたっぷり戴けますしね、願ったりだ」
 刀は武士の魂で剣術の上達は心を磨くことだと皆が言う。それを見世物にしていいのか。
 瀧ノ上はあっさり答えた。
「ガマの油を売る時にはちょっと血を流して見せます、刀の値打ちは罪人を切って定まります。刀は道具、剣術は芸ですよ。世界にはケモノを殺す見世物があるそうですし我が国だって磔や打ち首を見物させています」
「しかし普通の人たちは殺生を心の底から嫌いますが」
「生臭坊主のアホダラ経さ、殺生戒など絵空事だ、出世欲 名誉欲、欲金欲、欲の世界です。吉原のおいらんが客の武士に言ったそうですよ。お侍はありもせぬ戦さを請け負って気楽でありんすな。蜀山人でしたかな、とんだ戯言でお耳よごしを」
 曽祖父の名前が出たので景三郎は緊張した。「たぶん山東京伝でしょう」
 今度は瀧ノ上が目を見張った、この若者を甘く見ていたことに気づいた。福地源一郎の紹介なのだから野暮のはずはない、もっと気を引き締めて対応すればよかった、とんだしくじりだ、とぼけるにこしたことはない。
「けれど、もうすぐ戦争が始まりますよ、さあお武家さんどうしまほぅ」
「ずいぶん以前からフランスとイギリスも日本で戦争をしています。武芸が大事になるかもしれません」
 瀧ノ上は真面目に話を戻した。
「武術や武道と違って武芸は一瞬の気合に人を引きずりこむ芸です。毎日の愚図々々したことや割り切れない思い、決めかねることの気の重さ、先延ばしにする不安、そういったものをスパッと切り裂いてくれる芸です。他の諸芸と同じですよ」
 ナミさんの思いとはたぶん違うだろう、ただ武術で鍛えた魂はそのまま残るだろうと思った。

 慶応3年12月9日に王政復古が布告された。西郷や大久保は討幕の密勅を受けている、王政復古を実体のあるものにするために浪士と無頼漢を集めて江戸で騒擾を起こす、その本拠が三田の薩摩屋敷だ。12月25日、老中稲葉正邦は薩摩藩邸の焼き討ちを命令した。
 軍艦回天を品川に配置し千人の兵が討ち入る、しかし主力の庄内藩は市街戦の経験がない。ブリュネは伝習隊の初仕事だと張り切って砲撃の司令官になった。
「俺はパリコミューンを鎮圧したんだ」
 訓練と違って実戦だから命令は臨機応変だ、それを景三郎が即時に通訳する。
 作戦の計画は次のように定められた。
1 地理を選び榴弾で門と窓を破壊せよ
 敵から撃たれにくい場所を選んで大砲を据え、榴弾を込めて門も塀も打 ち破れ。
2 破れたすきまをねらって散弾を撃ち込み、隠れている敵を倒せ
3 距離を正確に取るために人を走らせて目当てをつけよ、一歩が3尺だ。戦闘の前に物見を走らせ歩数を数えて門や窓が何尺離れいるかを探れ、50歩なら大砲の標準は150尺25間だ。
4 屋敷から逃げ出す敵に散弾を撃て
5 接近戦になったら砲兵も銃剣で応戦せよ。敵が間近に迫っても逃げてはならない。
 訓練を受けていても実戦の緊張感は違う、かんでふくめて説明しなければ分からない兵たちだった。
 まさか砲撃を受けると思わなかった薩摩側は一目散に逃げ出した。港でも回天が攻撃を始めた。薩摩の軍艦翔鳳丸はとっくに出港してしまい取り残された百人余りが捕えられた。
 伝習隊は初勝利を喜んだがブリュネはしぶい顔だった。
「ケイサ、これは謀略だよ、これで戦争を始めるきっかけを作ったんだ。メキシコでもパリでも戦争は小競り合いから始まった。戦闘が戦争へ導くのさ、油断できないぜ」

 伝習歩兵の士官の中に香山栄左衛門の姿を見たような気がした。しかし祝賀の宴では会えなかった。ようやく休暇が与えられたので景三郎はすぐに神田の屯所を訪ねた。教えられて屋敷の方に足を運んだ。
 香山栄左衛門は穏やかに挨拶した。すっかり老けこんでいたが温厚で丁寧な人柄はかわりなかった。400石の旗本となり殿様と呼ばれるのが窮屈だと話した。富士見宝蔵番というのは名誉職で実務は時に応じて課される。香山は陸軍の仕事に回されている。
文久2年に幕府は直属の歩兵隊を編成した。500石以上の旗本知行地から強制して兵を集め、続いて直轄地からも徴募した。旅費と給料は村の負担になった。文久3年1月に入営し半年間訓練して居留地の警備に回した。その後、天狗党討伐や長州戦争に出撃したが士気は低く脱走兵が多かった。ようやくフランス軍事顧問団の訓練によってまともな軍隊になってきたのだ。 
 語学というのは大切なものだ、香山は静かに言った、景三郎の職務も承知している。
「それにしても香山様はなぜ奉行所に残られなかったのですか」
 話が一段落して景三郎は待ちかまえていた質問をした。
「今は話をしてもよかろうかな」
 奉行所は嘉永になって増員され、与力同心にも在来組と増員組の2派ができた。香山は養子だが在来組の代表で中島三郎助の義兄弟、岡田井蔵とも血縁がある。
 増員組の代表は小笠原甫三郎、嘉永元年に出仕し砲術、数学、測量が専門で佐久間象山とも親交があった。やはり養子で義父は鳥居耀蔵の右腕と言われた小笠原貢蔵、長崎与力の時に蛮社の獄を取り調べ、当代一流の洋学者を罪に陥れた人物だ、嫌悪する人は多い。鳥居自身も浦賀奉行所を視察した時に下田丸32丁櫓、長津呂丸30丁櫓、白駒丸8丁櫓の3隻の軍船をどれも役に立たないと侮辱し厳しく叱責したのを在来組は忘れない。
「小笠原氏は洋学に詳しく先進的な考えを持つ人だったが対立に巻き込まれました。当時の役人は、今もそうだが、出世のためには人を中傷して蹴落とすことが平気な陰険な人が多かったのです」
 ペリー艦隊に香山栄左衛門が奉行と名乗り中島三郎助が副奉行と名乗って応対したことが絶好の機会となった。増員組は嫉妬し香山を陥いれようとした。
 讒言に曰く、香山はペリーと秘密の約束をした、条約を結んだら香山はアメリカの高官になるらしい。曰く、香山はたくさんの贈り物をしてお返しに色々なものを貰ったがそれを隠して自分のものにした。ニワトリ150羽、卵1000個、錦の織物5巻、椀50、キセル50、うちわ40それが香山の渡した贈り物だ。返礼はシャンパン1箱、茶を1箱、合衆国図2枚だった。それを自分のものとして持ち帰った、ご馳走も皆に分けてくれなかった。曰く、香山が奉行と名乗ったのは本心で、奉行になりたかったのだ。
「私は事前にそのことを話し、お奉行も許してくれたのです」
 対立が表面化する前に奉行は対応した。奉行が怖れたのは与力同士の不和や内紛を幕府が感知しそれを奉行の責任にすることだ。たとえ優れた部下であっても火種を放置するわけにはいかなかった。
 江戸に滞留する戸田奉行と浦賀の井戸奉行とは書簡で意見交換した。2人共に500石の旗本で身分の差がない、率直に話し合い内密に結論を出した、両者を共に異動する。
小笠原甫三郎は以前から決まっていたがペリー騒ぎで延期されていた富士見宝蔵番400石の昇進となった。そして頭角を現し翌年には評定所留役に任じられ次の年には新設された神奈川奉行所支配調役になった。横浜の治安を維持し外交や認可を行う重い任務だ。
「少し遅れて私も同じ富士見宝蔵番400石の旗本になりました。しかし、私は小笠原氏のように出世しなかった。今は幕府伝習歩兵の小頭です」
 節度を守る穏やかな態度だった。静かに茶を飲みながら人々の消息などを伝えあい、御用があるからといって景三郎の辞去をうながした。景三郎の仕事や世の中の動向、勤皇や攘夷などの話題はなにもなかった。伝習歩兵は誰を相手に戦うのか、そんなこともふれなかった。淡々と職務をこなしているだけのようだ。
「またお目にかかりたいのですが香山様はこれからどうされるのですか」
「若い人は自分の思うままにやりとげなさい。私のような老骨は朽ちていくだけです」
「三郎助様はまだ熱血のようです」
「私は分限に応じる仕事だけで十分です」

 慶応4年9月8日改元されて明治となった。さかのぼって当年1月1日からを明治元年とするというお達しがきた。新政府は体面をつくっていると誰もが思った。
 明治2年1月3日、幕府軍は鳥羽伏見で敗北した。3日後には大坂城にいたタイクンは旗艦開陽丸で艦長の榎本釜次郎も置き去りにしたまま単身脱出した。あとは目茶目茶だ。
 1月18日には美加穂丸が浦賀に入港した。そこから降りてきたのは惨憺たる有り様の幕府歩兵だった。黒い筒袖とダンブクロの軍服は汚れ破れてボロボロでヒゲも髪の毛も伸び放題、悪臭を放つ敗残兵だ。自分を恥じて隠れるように船を降りて江戸に帰ろうとする。さすがに浦賀の人々は同情して握り飯や酒を振舞い苦労をねぎらった。
あれよあれよという展開で彼らを迎えた幕府も軍事顧問団もお手上げだった、シャノワール団長もブリュネ副団長も宿舎にこもって様子を見るしかなかった。
 官軍は東上し、諸藩は震撼した。どこも勤皇派と佐幕派が争いたくさんの血が流れた。徳川御三家の尾張藩も恭順し、2月には小田原までのすべての藩が新政府に帰順した。
 ブリュネは官軍を見たくて景三郎を伴い小田原まで行った。
「あれが軍旗か」
「錦の御旗、蜀紅の錦というそうです」
「歴戦の兵だな」
 ブリュネには分かるらしい。
「異人さん、これからどうなるんだろうね」
 小田原宿の旅籠で一休みすると旅装束の男が話しかけてきた。
「きれいなもんだね錦裂れというのかい、でも切れっぱしを付けている奴の顔をご覧な、きたならしい顔だよ、サツマイモか長州の夏ミカンというところだな」
 いかにも軽はずみな江戸っ子らしい。
「あの兵たちは土佐だそうです」
 ブリュネは黙って行進を見ているので景三郎が話し相手になった。
「なるほどカツオブシか、猫がとびつくね」
「精強な軍だ、装備も良い」
 ブリュネがつぶやくので江戸っ子は何を言ったのだと景三郎に聞く。
 薩摩がイギリスから買いつけたエンフィールド銃を持っている。フランスのミニエー銃を改良した新式の銃だ。
「指揮官が厳しい」
 幕府軍は兵も兵だが指揮官はもっと惰弱だ、殿様と呼ばれている人たちだから。
「江戸は大丈夫か聞いてくんなよ」
 まるで占いを聞くように懇願する。
「市街戦となれば負けだな、伝習隊は正規戦の訓練しかしていない。それに官軍は江戸の町人を撃つことをためらわないだろう」
「おやおや江戸っ子は虫けら同様かね」
「ここ小田原まで進駐すれば官軍は万全だ。駿府からの長い海沿いの道を海軍が閉鎖し砲撃したら大混乱だったのにな」
「そうすれば勝てたかい」
「戦争が長引くだけだ。アメリカは南北で戦い日本は東西で戦っている。産業の進んでいる方が勝つ」
「それでは江戸はかなわないや、酒もなにも上方下りが上物だからな」
 ブリュネはまた苦笑いした。総力戦は市民が団結していなければ勝てるはずがない。この江戸っ子たちは自分の尺度でしか物事を計らない。
 ブリュネは帰ろうと言った。自分が指揮した薩摩藩邸の焼き討ちも相手にすっかり利用されてしまった。将軍も幕閣も優柔不断で戦略に長けていない。苦い思いで一杯なのだろう。
 しかし蜀紅の錦は美しかった。渋い紅色の地に細かい花が整然と配列されている。近くで見ると目がくらむような精密な模様なのに、離れて見れば全体が華やかで浮き立つような色合いになっている。いかにも優雅で、そんなものを軍服に飾れば朝廷の名誉を身につけて士気はいよいよ高まるだろう。まるでレジオンドヌール勲章だ、敵には知恵者がいるとブリュネは言った。

「京都は大戦争、敵は薩長で、御味方は大敗走、公方様は昨夜蒸気船で御帰城」
 ヨミウリが下駄を鳴らしてがなりたてている。薄汚い手ぬぐいをかぶった貧相な男だ。クラはどんな様子になったか、ふと想像した。
「だって一昨日の瓦版では長州は降参、薩摩は国元へ逃げたと書いてあったぜ」
 誰かが文句をつけた。
「あれが大当たりしてだいぶ儲かりましたから今度は売れなくても大丈夫、これは本当のところを書いております、ほらウワサと書いていないだろう」
 昔、クラに教えてもらったことだ。
「おいおい冗談言っちゃあいけねぇ」
 ヨミウリは正直では務まらないと景三郎は笑った。
「それで親玉は夕べ逃げ帰ったのけぇ」
 権現様贔屓らしい江戸っ子が涙をはらはらこぼす。
「上様はただ、薩長の兵はよく働くと言われただけで奥へ御入りのまま出御がないそうです、こりゃ危ないぜ」
 誰に聞いたのか、たぶん勝麟太郎だろう、ヨミウリにかかればその翌日には江戸中が知るのだ。
夜中に黒覆面の武士が押し込んで白刃を突きつける。弔い合戦をしないでどうする、このまま敵に降参か、徳川氏のために回復の戦さを起こすのだ、貴様たちも300年の御恩を知っておろう、そう迫ってご用金を千両二千両と強奪していく。奪った金で散財するので小料理屋や遊女屋は大繁盛する。 
 官軍の恐怖で金持ちたちは家族を江戸から避難させる。駕籠が十両、荷車が七両と法外な値段だ、行徳へ逃げて2ヶ月過ごして200両かかったという。熊谷へ逃げた者は中山道から来た官軍に出くわして逃げ帰ってきた。
 2月になって将軍慶喜は上野に謹慎。徳川家は駿遠2国70万石の大名となり田安亀之助が藩主となる。幕臣は農商に帰するか新政府に仕えるか、ただし駿河へ行く者は無禄の覚悟で移住せよという縁切状が届く。思いつくのは汁粉屋団子屋の安直な商売だ、古道具屋は売る品ばかりで買う者がいない。ではと金貸しを始めたが誰も返済しようとしないのでついに乞食になった。そんな話が面白おかしく広まった。

 福地源一郎は威勢がよかった。 
おいらはご免だよ、戦争なんて関が原の昔に終わったこった。人の命は重いものだから人殺しは厳罰だ、それを幕府だ官軍だと理屈をつけて殺しまくる、お芝居だって筋が通らなきゃあ客は呆れるさ。そりゃあ世界中が弱肉強食で殺しあっているよ、アメリカでも大戦争さ。だからってその尻馬に乗るのかい、おおかた馬糞の匂いがするだろうよ。武士だ直参だというヒョウタン頭のワラ細工、そんな奴らの幕府だよ、壊れたところで元の木阿弥さ、東照権現様もお見通しだ。あいにくおいらはしたいことがたくさんあってね、ポロ屋の修繕の手間取りはしたくないや。ただこのお江戸だけは大事だ、勝さんは偉いお人だから守りきろうとしているさ、その手伝いならおいらも少しはやっているよ。
 福沢諭吉も覚めていた。
 フランスで見たろう、勘定奉行というような人が普段着で机に座って山のような書類を決済していた、ドアを自分で開けて招き入れてくれたよ、それが進歩と自由なんだ。アメリカだって老中首座にあたる大統領の子を誰も知らなかったよ、すべてが一代限りなのさ、先祖代々の家柄なんてまぼろし、やがて日本もそうなるよ。人はすべて対等さ。遣欧も遣米も使節は衣冠束帯だったな、ああ恥ずかしい、皆がどこからもぐり出た未開人かとジロジロ見ていた。虎の穴に入る時は虎の姿をすればいいんだ、西洋では西洋の姿をする、それで対等さ。儒教では世の中の人の関係も親子のようにと説く、だから親分だの子分だの親戚分だのと義理で結びつく。一国も一村も大人と大人の付き合いだからつまりは他人同士さ、他人に依存せず孤立独行が本分だ。ところが武士は生産しないで百姓に寄りかかっているようなものだ。生業に従事し自らの生活の基礎を固めればいい。それが自由の気風を持つことで文明開化というものさ。今の西洋文明は進んでいるが知恵を尽くせば十数年後には日本もそうなるよ。日本は地球の上のちいさな島さ、そこに住むケシツブみたいな人間が覚悟したり悩んだり、つまらんことだよ。武士というのも形だけ、勝さんだって祖父さんが金で御家人の身分を買ったんだよ。誰だって養子になればてっとりばやくお侍だよ。それなのに徳川様にご恩があるなどとこりかたまったものさ。
 そこが景三郎の心の底にわだかまる根っこだった。大田の姓は戴陽のもの、養い子の自分は誰だか分からない。
 府川勇四郎は相変わらずのんきだった。
 上野の山に行ってきたよ。江戸っ子は火事とケンカにゃ目がないから押すな押すなの見物さ、ご贔屓の彰義隊の応援だ、砲声が響くと薩摩長州の悪口を叫ぶなんぞは意気地がないね。時々流れ弾が飛んでくるのが難だけど。
「とんだ芝居見物ですね」
「物売りも集っていて、寿司、蕎麦、おでん、てんぷらと声を張り上げている。まるでお祭りだね」
「師匠はこれからどうするのですか」
「どうしたもんかね」

 3月14日、勝麟太郎と西郷隆盛が会談して江戸開城を決めた。裏には戦乱を拡大させ貿易が混乱するのを怖れるイギリスの意思が働いたという。1ヶ月後に徳川慶喜は水戸に去っていった。
 江戸は東京となった。11月には天皇の名前で町ごとに酒とスルメが下賜された。官軍の陣では相撲が興行され、それを見物する能天気な江戸っ子が沢山集まった。
 幕臣たちの駿河移住も始まった。品川から清水までヤンシー号という船を3千両で借り切った。下甲板下等室の板敷には幕臣と家族がぎっしりつまり身動きもできない。石炭とゴミと汚水の臭いで入ったとたんに嘔吐する者がいる。便所は10箇所だけ、とても足りないので四斗樽を10数個並べ水夫が綱で引き上げて海に捨てる。船が揺れると人々は頭から汚物をかぶった。死人が数人、出産した人も数人いる。命からがらの2昼夜半の航海だった。

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