実在した太田源三郎は代々の長崎唐通詞で年齢は景三郎より年上、唐通詞は鄭(てい)幹輔とか何(が)礼之助、呉(ご)一(はじめ)など中国めいた名前の者もいるが身分は長崎地役人で武士とは身分差別され脇差しか差せない。しかし異国人が増えてきて、町人姿では侮られると訴え通訳の時だけ両刀を差すようになった。
 江戸初めの長崎の貿易相手は圧倒的に中国人が多く大陸や南海のジャンクが往来した、それで唐通詞は中国語とシャム語を話した。オランダ商館があったのでオランダ語を話す通詞もいた。幕末に異国船が来るようになったが植民地から中国人通訳を乗せてきたので相変わらずオランダ通詞も唐通詞も仕事を続けることができた。
 しかし用語の違いには困らされた。フランス艦隊司令官モランブェルを唐通詞は大仏蘭西国欽命水師提督孟海雷と記し、オランダ通詞は印度唐国一手之指揮役船将官モランタレフェルと記した。
 安政2年、長崎奉行所は英語・フランス語・ロシア語の必要を痛感して多言語学習を始めた、唐通詞も積極的に学習に参加した。停泊中のアメリカ船の宣教師兼医者に英語特訓を受けたりした。その後に英語伝習所が設立され明治に活躍した前島密や陸奥宗光らがここで学んだ。
嘉永6年ペリー来航、安政3年下田にハリス、安政2年箱館、6年横浜開港と通詞の需要が高まり、幕府は長崎通詞を引き抜いて幕臣にした。身分は30俵格の御家人だった。
    新設の神奈川奉行所の通詞不足も深刻で万延元年には太田源三郎をはじめ唐通詞3名、オランダ通詞6名を長崎から引き抜いた。英学所も設置して教授を兼務させた。しかし開港地の商人たちはすぐに片言の英語やフランス語を駆使して取引には何の支障もなかったという。
    太田源三郎は神奈川奉行所の支配翻訳方だったが、幕府が瓦解した後は明治政府の外交官僚になって活躍したという。