客は新聞の探訪記者、旧知の幕臣の紹介で訪ねてきたらしい。
「幕末の思い出を語れって、ずいぶん年寄り扱いさね、だけど若年寄といったって若くはないんだぜ」
 勝はぞんざいで歯切れのいい江戸っ子口調で言った。今しきりに考えていたことの続きから話しはじめたようだ。
「ついこの前、文政の9年に若年寄から老中になった植村家長なんか御年72才だ、棺桶に片足どころか腰まで入っていらあ。それも若年寄を25年も務めたご褒美の昇進だってさ、ご苦労様なこったよ」
 そんな老中を相手にしなければならなかった勝の苦々しい思いがにじんでいる。
「植村様には弟さんがいなさってな、おっと下世話の噂話だ、笑って聞き流しておくれ」
 高取藩主だった長兄が急死して植村家長の弟の家利が植村家を継いだ。
「跡継ぎがいないとお家は断絶さ、それで兄の養子になるという手を使ったのさ」
弟に飛び越えられた家長は面白くなかったろう。ところが植村家利は奏者番になってすぐに死んでしまった。
「こともあろうに遊女と心中、川に飛び込んだってさ。江戸家老は仰天して病死と報告、すぐに家長を死んだ弟の養子にした。まったく幕府の規則なんてものは抜け道だらけだ。その筋さえうまく通せば一切がお構いなしなんだよ」
 それから家長は奏者番、寺社奉行と出世コースを勤めた。
「弟の負い目があるから謹厳実直、上にも下にも左様ごもっともと言うだけさ、後ろ指を差されたらたまらないからね」
 暮らしにも節制して、長生きをしてついに老中になった。
「十一代(家斉)様のご治世は長かったから、俺も数えてみたら27人も老中がいた。みんな何もしないことを良しとする人ばかりさ。それが十二代様になって水野が張り切って天保の改革を始めた。それで原因で幕府も日本もガタガタになっちまったね」
 水野忠邦にも言い分はあろう、しかし出世をしたい男ではあったようだ。同族の老中の水野忠成に取り入り接待して、その死とともに老中入りした。
「十一代様は贅沢好きの英雄だから色を好んだよ。幕府の金蔵は空になり規律は乱れ、市中の不満は爆発した、大塩平八郎は大坂で乱を起こすしモリソン号は来るし散々だ。それにしても水野はしくじったね、贅沢禁止、倹約強制はいいとしても上知令はいけなかった」
 江戸、大阪周辺の大名旗本領を幕府直轄にする、もちろん替地を与えるのだが、まさに役人の机上から出た策だった。
「同じ石高だといっても豊かな土地を取られろくに作物も採れない所をもらってどうしろというんだい。それに大名旗本が領地の町人にどれくらい借金をしているのか役人は知らないんだ。ボロがはみ出た古着と同じで、うっかり動くと袖も裾も破れちまう」
 そこに登場したのが阿部正弘、弱冠25才、感応寺の事件を解決し大奥の支持を受けて権力争いに勝ちぬき老中を一新させて首座になった。そこにペリーが来た。
「俺が世に出るきっかけさ。しかし阿部老中が頼みとした十二代家斉様はその後すぐに亡くなった。あとは十三代家慶様だがこれは相談もできない。なにしろ何を聞いても「そうせい」というだけのそうせい公さ。阿部は国難を乗り切る策を緒大名、旗本御家人、町人にまで献じさせたんだ、国中に危機感を持たせて結束しようとしたんだろう、懐柔したのかもしれないな」
 弘化元年1844オランダ国王ウィレムは信書をおくって1842年のアヘン戦争でイギリスが勝利したから、すぐに日本進出を図るだろうと伝えてきた。幕府は前例がないと封も切らずに突き返した。嘉永5年、スンビン号で来日した新任オランダ商館クルチェスは長崎奉行に同じ信書を提出した。そして第二信としてペリー艦隊の来航を予報した、要求は三港開港と石炭貯蔵所設置を設置すること。阿部は幕閣に内容を伝えたので幕閣も奉行所も交渉の基本方針を固めることができた。
 ペリーが来航して親書を受け取ると阿部は水戸斉昭や島津斉彬と連携し品川台場、長崎伝習所、講武所、軍艦購入を次々に行ったが安政2年に老中首座を辞し安政4年病死した。嘉永7年、ペリーは再来航し日米和親条約を結び、イギリス、ロシア、オランダとも条約を結んで横浜、下田、函館を開港した。
「振り子は揺れるもんだよ。この先どうしようかと俺は固唾を飲んだ」
 安政5年に国難に際して先例に従い大老を置くことになった、15年ぶりだ、井伊直弼が任じられた。
「すごい威厳だったな、幕閣は震え上がった。すぐに水戸公を謹慎にして尾張公を隠居させ家茂様を将軍にした。尊皇攘夷の志士たちを投獄処刑したので帝は激怒した。その翌年、安政7年桃の節句の朝、桜田門外で首を取られてしまった。また振り子が揺れたんだ、あとはもう駄目。井伊大老が蜂の巣を突っついてしまったから飛び回るやら刺しまくるやら日本中がてんやわんやさ。しかし井伊は一つだけ良いことをした、日米和親条約に調印したのさ」
 一息ついて勝海舟が茶を飲むと探訪記者はちょっと茶目な表情で勝の顔を見た。
「こんな話を遣米当時の水夫から聞いてきました。昔話ですから怒っては困りますよ」
 勝艦長は航海中ほとんど部屋からでてこなかったし、出てくれば怒鳴り散らすし、あんな嫌なやつはない。とうとうしまいにはボートを下ろせ俺は帰るってさ、あの大海の中でそんなことを言うのだ。
「よっぽど不満がおありだったようですね」
「ふん、たぶん船酔いに強い奴だろうさ」
「水夫なんてのは面白おかしくホラを吹くものですからね」
「木村提督はウロウロしている、水手どもは動かん、アメリカ人は馬鹿にする、船は大揺れだ、さすがの俺もカンシャク玉を撃ち尽くして船室に籠城していたのさ。ブルックというのはできる奴だから口よりも先に動いてしまう船乗り気質の持ち主だ。最初は強面でね、水手たちが火鉢をかかえて一服していると怒鳴りつける、のんびり茶を飲んでいると追い立てる、まるで鬼のようだ。けれど帰りの航海で日本人だけになった時によく分かったよ。船が無事に進んで行くためには水手も航海士も一人も気を抜いてはいけない。気を配り気をそろえてエイヤエイヤと押し出す、寝ていても航海から離れてはならない、それを思い知ったよ。ブルックが士官と水手を一人前に仕立ててくれたんだな。サンフランシスコで別れるとき木村提督は千両箱を開いて、好きなだけ取ってくれと言ったそうだ。ところがブルックは、私は自分の仕事をしただけだと言って一銭も取らなかった、偉い奴だったね。三郎助ならブルックと気があっただろうさ、木村提督だって俺より三郎助の方が好きだったからな」
 探訪記者は勝がまだ話し足りない様子なのに気づいた。
「なによりも通詞の中浜万次郎には苦労させたよ。ブルックが口早に話すから木村も俺も一言も分からない。万次郎もそのまま訳せば角が立つから、やんわりと飲み込めるような言葉にする。次にブルックに言って聞かせる、あっちも根っからの海の男だからグズグズ言うのが大嫌いだ。だけど万次郎は学問があるからブルックも信頼していたさ。水夫から航海士にまでなった奴だ、水夫どもにも役付きにも丁寧だった。背が低くてがっしりしていかにも土佐の浜育ち、千里の波濤をものともせぬ豪傑だったよ」
「ついでに木村摂津守の寸評を一つ」
「木村は千石取りのお旗本らしく上品で鷹揚で用心深かった。生まれの違いってのは争えないや」
「勝先生の父上とおっしゃる方は梁山泊の豪傑みたいだったそうですね」
 勝の祖父は根っからの侍ではなく、金貸しから大地主になった盲人で金の力で株を買い武士になったという。だから、まあ付き合いづらい人だったろう。父は勝小吉、これも遊侠無頼で芝居に出てくるような人だった。
「勝先生は諸葛孔明みたいな人だといいますよ」
「知恵を振るって手は汚さないタチだというのかい、確かに俺は泥まみれにはならなかったがね。幕府も末になると妙な奴がたくさん出てきたよ」
 以前は夢にも思わなかった松前藩の殿様が老中になり海陸軍総奉行を兼ね刀も持たずにピストルだけ持って登城したり、稲葉老中が同族の稲葉若年寄にバカと言われて引き下がったりした。
十五代慶喜は23才の松平定昭を老中上座にして大政奉還を行った。幕府最後の老中は若年寄にバカと言われたあの稲葉正邦だ。慶喜が寛永寺に謹慎した後も残務処理をして2月21日お役ご免になったという。すでに官軍は京都を進発していた。
「ちょうど俺は新撰組を追い出すのに策を練っていた最中だ。近藤勇かい、甲陽鎮撫隊と言って軍資金を渡し甲斐守任官だとおだてたよ、見事に大敗した。それから7日も過ぎた頃に西郷隆盛と品川で会ったんだ、その翌日に五箇条の御誓文というのが発せられた。あわただしかったな」
 幕府に代わって明治新政府が発足した。
「幕府の役人というものは、すべて将軍を主としその意向に従って動くものなんだが大名は違うよ。一応臣下にはなっているが自分の国を持っていて、いわば独立国さ。だから大老だって徳川一門と譜代大名は処罰できるが、外様大名のことは将軍に取り次いで裁可してもらわなければならない。徳川も将軍をしているから天下の大名に号令を下せるので、薩摩や伊達が将軍になったら従わなければならない。だから慶喜は大政奉還して駿河の大名となって改めて国政の中心に居座ろうとしたのさ」
 ふと西郷隆盛のことを思い出したらしい。
「西郷は偉人だよ、難しいことを全部任されてしまうからね。初めて会ったときに、俺は早くから島津斉彬様とは懇意だよときさくに語りかけたんだ」
「知っており申す」
 初めて長崎から咸臨丸で薩摩を訪れた時にカッテンディーケ団長を連れて行った。
 島津斉彬は大歓迎し、砲台について薩摩試作の蒸気船について助言を求め、また鉄砲発注について口ぞえを頼んだ。
「斉彬様は俺のことを気にかけてくれてね、伊勢に話しておく、伊勢に頼んだとね、俺は伊勢というのが誰か知らなかった、なんのことはない老中の安部伊勢守正弘さ」
 上海ではアロー号事件が起き、インドではセポイの大反乱が起きていた。
 部屋は静まり返っている。探訪記者は嘆息した。
「榎本さんも出獄できて良かったですね」
「榎本も大鳥も昔は俺を殺そうとした連中だよ、今になって頭をさげて俺のところにくるのがおかしいや。俺は皆さん偉くなりましたと言っておくのさ」
 記者は蝦夷共和国副総裁だった荒井郁之助の名を出してみた。
「ああ荒井さんは家柄がいいんだよ、お代官様の息子だ」
 ペリー来航の折は18才、軍艦教授所は父の従兄弟の矢田掘恵蔵が頭取で幾何や代数に精通した。翌年には教授所改め操練所の教授になった。遣米使節に同行した成瀬善四郎は荒井の叔父で「米国海岸測量報告書」という本を土産にした。福沢諭吉もオランダ語の時代は終わった、これからは英語だと皆がびっくりするくらい英語の本を買いあさってきたそうだが荒井も目がさめて英語の勉強を始めた。出世は早かった、翌年には蟠龍丸の船将心得、その冬には小笠原長行を乗せて千秋丸で小笠原島の測量に行く。なにしろアメリカ人が住み着いて自分のものにしようとしているから早く日本人を住ませて領土を守らなければならなかった。帰るとすぐに順動丸の船将になった。これは勝が15万ドル幕府に出させてイギリスから買った外輪蒸気船だ。勝はこの船で将軍上洛を海路にすると建白し、結局、将軍は行きに陸路、帰りに海路を使った。以後、幕閣は海路で移動するのが流行になり勝の面目が立った。その後、軍艦操練所頭取となり陸に上がって歩兵頭並、戊辰戦争の時には軍艦頭、海軍奉行。勝が陸軍総裁で西郷隆盛と談判して江戸城明け渡しに忙しかった時に蝦夷地に逃げてしまった。
「もちろん俺は軍艦も引き渡せと言ったよ、早く戦争を切り上げないとイギリス・フランス・アメリカ・ロシアにつけいるすきを与えてしまうからさ。それが怖いほど分かっていたのはイギリス艦隊と戦った薩摩、四国連合艦隊と戦った長州と俺だけだった。荒井も榎本も世界の大局というものを見誤っていたね、蝦夷地を従えてロシアに対抗するといっても独立して守りきれるものではない。やはり武士の意地とか江戸っ子の気負いだけだったのだろうよ」
「そうそうこの前、川井亮平という人に会いましたよ、勝先生とはお親しかったそうですな」
 探訪記者はよほど探索してきたらしい。
「川井さんは今どこだい」
「上野山下で天ぷら屋台を出しています。すっぱり市井に生きるんだと胸を張っていました。先生、行ってごらんなさい」
「天ぷらを食いにかい」
「サツマイモの天ぷらが評判で、皆がうまいと言っています」
「サツマを切って油で揚げてお仕置きかね、これはいいや、ついでに夏ミカンも切り売りして食わせれば胸がやけずに丁度いいや」
 御家人は切り米40俵、幕府の頃だって内職しなければ食べていかれない。傘張りや玩具作りが本業に近い。維新後、天ぷら屋になっても抵抗感はない。
 川井亮平は勝に見出されて、天障院お側仕えのお女中春野の薩摩下向の供をし薩摩藩の内情を探索した。そして島津斉彬急死の後に弟の久光は藩主になれないと勝に断言した。島津家は幕府のようにとんでもない遠方から養子を取ったり、姫に名前だけの縁組みをさせ婿を作ったりしない。西郷と大久保の実力についても詳しく知った。その後も天障院とは親しく接して江戸城明け渡しの時にもおおいに助力を受けた。
 大奥をどう納得させるか、これが維新の難題だった。江戸城を明け渡すのだから大奥を残すわけにはいかない。奉公している女中たちには大金を渡して親元に帰した、側室たちは将軍に判断してもらうしかない。
「幸いにおいらは子どもの時に大奥に仕えていたことがある、だから大概のことは知っていた。天祥院様は薩摩のお方だ、和宮も賢明なお方だ、金はかかったが案外うまくいったよ。ところが西郷は薩摩の大奥、とは言わない大奥は江戸城だけだが、失敗して、泣かれるやら怒られるやら大変な目にあったと苦笑していたよ」
 勝は子どものころ将軍世子の遊び相手を勤めていた。
「勝先生はまだ薩長がお嫌いですか」
「みんな大名題の荒事師ばかりさ、較べて江戸は大根役者ぞろい、さすがの贔屓もあきれたよ、貫禄が違ったね」
「勝先生はこれからも重荷ですね」
「徳川様の末を守るのさ、俺もずいぶん引っかき回したからね」
「榎本さんが牢獄で殺されていたら江戸っ子は黙っていなかったでしょうね」
「死なせないよ、おいらは閻魔様とも懇意な仲だ。ここで豪傑が出てこなければ幕が引けないよ」
「中島三郎助さんは一足先に亡くなりましたよ」
「ああ、三郎助さんは真面目な人だったよ。だが理屈っぽくて、ずいぶん口喧嘩をしたな。後で聞いたら萩の吉田松陰まで俺たちのことを心配していたそうだ、仲間割れして天下を覆すのではないかとさ。買い被ったものだよ」
「長崎伝習所は大変だったそうですね」
「ここで頑張っておかなければ俺の言うことを聞く者はいなくなる、それで気張ったのさ。そんなことを承知していながら三郎助は自分の筋を通そうとする。ふだん冗談を言っている時はいい奴だが、お役目となるとテコでも動かない、つまり強情っぱりなんだよ。しかし俺も三郎助に学ばせてもらった、そのおかげで同じ手で素人どもをキリキリ舞いさせてやったよ」
 三郎助が一心込めて造った鳳凰丸を勝は視察した。
「鳳凰丸は失敗作だったさ。設計より一回りも大きな船を造ってしまった。もちろん間違いではなく大きな船を造りたい一心だったんだ。浦賀奉行所と幕閣のやりとりは因循姑息そのものだ、前に造った蒼隼丸だってこんな異様な船は皇国にそぐわぬなどと無知蒙昧な言葉を吐くほどだ。ともかく造ってしまえと蛮勇を発揮して邪魔の入らぬうちに、それも予算の範囲内で無理に無理を重ねた。だから鳳凰丸は船体強度と航行性を損ねてしまったのさ。どうやら巡検はすませたが航海には出せず繋留した。俺も鳳凰丸をなぜ使わないのか疑問に思っていたから、そのことを聞いたら三郎助め恐ろしい顔をした。それですっかり察しがついたんだ。それなら一本取れるとカサにかかって攻めていく、それが俺のやり口だよ。あれだこれだと言い立てて軍艦や航海のことを聞き出したので俺もだいぶ船が分かってきた。鳳凰丸は後で手を入れたから良い船になった。薩摩が競争で昌平丸を造っていたから苦い思いもあったろう、三郎助も意固地になっていたさ」
 浦賀奉行所でも勝の評判は悪かった。ハマグリなら蜃気楼も出そうがホラガイはうるさいだけだと悪口ばっかりだ。たまりかねて三郎助が言ったよ。乗組みの気がそろい各々が自分の役目を果たさなければ船は進まんのです。勝さんは船頭の役目だ、皆の気を束ねて下さい。そのために規律があり賞罰があります。
「真面目に固いことを言うからさ、茶化してやった。そんなことは俺でなく老中に教えてやりなとね」
すると三郎助はいきりたったね、癇癪玉を爆発させた。俺も癇癪持ちだが三郎助のも中々だ。俺はわざと下手に出たよ。
「左様です、なにより人が大事です。軍艦も大砲も道具にすぎません。世の中は人で持つのです。おっしゃることはごもっとも」
「だから勝さん、あなたが勝負してくれと言うのです。あなたは士官と水手の頭だ」
「俺は自分にとって不足のない相手としか勝負せん、そのために常に鋭気を尖らせておくのだ」
「私も天然理心流、北辰一刀流で目録を受けておりますぞ」
「俺は直心影流だ、いつでも相手になる」
「船内で刀を抜くことは固い法度です、イギリスでもオランダでも死罪になります」
「何やかやと、このゼンソク持ちめ」
「なんだ、このカンシャク持ち」
 しまいには笑いあうのだが皆ヒヤヒヤしていたよ。遣米使節の時も本当は自分が咸臨丸でアメリカに行きたかったのだ。しかし俺を立てて降りてくれたのさ。自分にはゼンソクの持病があって皆様の迷惑になるからと言ってな、公私をわきまえた清廉な武士だったが、それがよかったのかどうかは分らんがね」
 懐旧の思いが勝の顔にあふれていた。
「勝先生が一番苦しかったのはどの時期ですか」
 探訪記者が無遠慮に聞く。
「ふふん、いつでも苦しかったなどと言ったら嘲笑うだろうな、そうだなコレラは苦しかったぞ」
 文久2年7月に勝は軍艦操練所の頭取になった。念願がかない日本の海軍を育てることができる。さてと腕まくりした8月にコレラに感染した。ふつうは数日のうちに死ぬ病気だ、勝も生死の間をさまよった。なんとしても激しい下痢を止めなければならない、勝は熱湯を体内に注ぎ込むという荒療治を自ら行い奇跡的に平癒した。8月末に生麦事件が起き、勝は軍艦奉行並に任じられた、病後の療養などない。その間に木村摂津守らの手によって幕府海軍の原案が作られた。軍艦370隻、将兵6万人余、運送船は別に造るという大規模な計画だった。勝は猛反対した、こんな壮大な計画では火急の今に間に合わない。実現まで500年かかるぞと毒づいた。しかし計画は改まらなかった。
「そこで俺は味方を増やすことにしたよ」
 まず老中小笠原長行を順動丸に乗せて大坂に航海した。小笠原は取り急ぎ生麦事件の後始末をしなければならなかった。翌年家茂将軍を大坂まで送り迎えした。前例をつくれば幕閣は我も我もと船に乗る。7月2日に薩英戦争が起きた。薩摩は朝廷に大勝利と報告したが被害は大きかった。いよいよ海軍の重みは増した。
「もはや誰一人として軍艦購入に口出しする者はいなくなったさ」
「さすが勝先生、大御所徳川家康様のように逆境の時にこそ勝利を収めるのですね」
「焼け太りともいうが棚からボタモチではないんだよ」
「では勝先生が一番うれしかったのはどの時ですか」
「こうやって訪ねてきた若い人と話をすることさ」
 思わず記者の口元がほころんだ。勝は見逃さなかった。
「初めて坂本龍馬が訪ねてきた時に、西郷隆盛は大きくたたけば大きく鳴り、小さくたたけば小さく鳴る英雄だと言った、俺もそうだと言った。ひどい殺気だから俺を殺しに来たな、いいだろう、議論の後に殺せばいいと一喝した。しばらく話すうちに納得して後は家来同然になり俺の身辺警固までしてくれた。元気な奴だったが殺されてしまった、薩摩のしわざさ、竜馬に活躍されては倒幕ができないからだ。だが薩と長を縁組みさせた手柄は大きいよ、結納は軍艦と武器さ、長州は薩摩経由でイギリスから買いつけることができた、幕府は圧倒されたよ」
 なぜ長州は討幕に邁進したのでしょうか、記者は聞いてみた。
「長州は権現様(徳川家康)に恨みがあるんだ。太閤秀吉は中国大返しの時の恩義を守って毛利家を優遇した。しかし権現様は関が原でも大坂の陣でも毛利をだましたんだ。その上、所領120万石を25万石に減らしてしまった」
 毛利は正月に「旗挙げ」という行事をした。家老が今年は旗挙げをなさいますかと聞くと殿様はまだ待てと答える、討幕の旗挙げだ。
「毛利は家臣を浪人にさせなかったので、それまでの120万石分を25万石でまかなわなければならない、無酬になった家臣もいる。そこで下関に倉庫を作り北前船の積荷を預かることを始めた。ここで荷を積み替えれば船の航路は3分の2ですむ。倉庫料だけでは儲からないから交易の費用を貸し付けて利息を取るようになった。ようやく幕末になって備蓄ができた。1人千両の費用をだして5人の藩士をイギリスに留学させた、攘夷の最中だぜ。藩論は公武合体から尊皇攘夷、幕府恭順、尊皇討幕と状況に応じて機敏に変節した。
「もちろん薩摩も国是が討幕だよ。関が原から撤退した苦労話を泣きながら話し泣きながら聞く行事を未だにやっているそうだ、これも川井に聞いたよ」
 薩摩も貧しい土地だが、太閤秀吉の時代に琉球を支配して砂糖の生産と中継ぎ貿易の利益を手に入れた。清朝と琉球と幕府の間を取り持つ苦労をしたので交渉術が上手になった。薩英戦争の賠償金を幕府に払わせ、その金でイギリスから銃砲弾薬を輸入する。商社も薩摩も儲ける。幕府はそのカラクリに気づかない。パークスと寺島宗則の共同謀議だ。パークスは15才で広東の通詞となりアヘン戦争を経験しイギリスの砲艦外交を熟知している。
 少し勝海舟流のホラの匂いがしてきた。探訪記者は潮時だと思った。
「ずいぶん長いこと話をうかがいました。ありがとうございます」
「どうだい今日の俺は大きく鳴ったかい」
「日本の隅々にまで響き渡りました」
「叩き手がよかったのさ」
 記者は得々として帰っていった。勝海舟はニヤリと笑って思索に戻った。