本瀧寺の本堂に戴陽老人が座っている、柱に寄りかかって気楽な姿だ。
おいらは大田鎌太郎、隠居して戴陽といいます、本尊阿弥陀様はよくご存知だね。人様のお情けで生かしてもらっているまあ無頼の者だ。儒者とも俳諧師匠とも遊芸の宗匠ともつかぬ隠遁生活は肥前屋が律儀に支えてくれている。賄いの玄七、ヤエの老夫婦も良い人たちだ。住持の日林上人はおいらを寺の抱えという身分で保証してくれた、景三郎を玄七養子と名主に届出てくれた、これでおいらは郷の人別に入ることができたんだ、まったく熟慮のお人だ。
 大田の家は戦国の前から江戸に住んでいた生え抜きさ、と誇ったってただのお徒士だよ、70俵5人扶持、内職したって食えやしない。しかし、おいらの祖父は早くから人に優る才知のすぐれ者だった。幼少から絶句と律詩に馴染み南畝という号を用いた。青年になって市井の諧謔を筆にまぶして狂詩作者の寝惚先生と名乗った。青年客気で世の中に拗ねてみたのだろう、なにしろ儒教というのは四角四面だからさ。和歌もよくしたが同じ悪戯心で四方赤良と名乗り狂歌で名声を博した。山手馬鹿人という名で黄表紙を書き洒落本を刊行した。ずっと後になって大坂銅座役人の時に蜀山が銅の異名だと聞いて蜀山人という名を用いた。
 全部がモドキというものさ。能では翁という正統な舞を狂言方は三番叟というモドキにした。殺生戒で雁を食えない坊主に雁モドキを食わせるようなものだ。しかし能はしたたかだからモドキを組み入れ狂言方に間狂言をやらせたり能狂言と一番ずつ挟み込んだりしたのさ。けれど幕府はご政道が乱れるゆえに禁制だと、四角四面だ。改革が何より大切な役人たちは前代の田沼時代を蛇蝎のように嫌ったのさ。
   白河の清きに魚もすみかねて
        もとの田沼の濁り恋しき
 ご老中の白河藩主老中松平定信は大人物だから笑っていたが取りまきの小人物共はそういう風刺を徹底的に弾圧した、お上のご威光を味わってみたかったのさ。
 ところが祖父はするりと身をかわした。仲間たちは咎めを受け、自死したり罰を受けたりしているのにね。祖父は全力をふりしぼって学問吟味に臨み首席となり間一髪で処罰を免れた。白眼視する奴は多かったさ、偉大な文人がつまらぬ小役人になり下がったとね。ただ本来の大田の代々は実直で平凡な御家人ばかり、才知や出世にはほど遠いお徒士だ。曽祖父などは50年も勤めたのに華やいだのはただ一回、水泳大会で褒められた事だけだ。我が祖父はそんな家系に埋没しただけなのさ。
 しかし努力と忍従の末に祖父は大坂銅座や長崎奉行所という人のうらやむ役目につくことができた、やはり才人だったのかな。
 おいらの親父の定吉はちょうど祖父が世間にもてはやされ一世を風靡している最中に生まれた。18歳で筆算吟味を受けたがはかばかしくない、33歳にもなってやっと支配勘定見習いになった、そんな不肖の子さ、祖父はすでに64歳の老人になっていた。
 親父は心を病んでいたのだ。世間は祖父を放さなくて何日も何十日も宴会続き、昼は役所だが夜は花柳の巷だ。たまに祖父が家にいると来客が絶えない、狭い家に子どもがいる場所などない。人は祖父を褒めたたえる、偉大な父親の不甲斐ない子という目で見る。親父は身なし子同然のかわいそうな生い立ちだった。夜中に物干し台に上がって天文を見たり大声を出したりする奇行を繰り返した。  
 祖父は息子に先立たれ孫のおいらに相続の資格ができるまでは届けが出せなくてお徒士の仕事を続けた。蓑笠つけて極寒の多摩川巡視の役目などもした。
 孫のおいらは祖父が大坂銅座にいた時に生まれた、不肖な父の不肖な子さ。19歳で結婚し息子の正吉が生まれた、祖父はすでに72歳になっていた。正吉は翌々年に病気で死にその翌年に祖父も死んだ。世間は時代の文化を創った粋人の祖父を追慕した。
 天保十年二月、江戸は大火で焼け野原になった。おいらは表火消しの木っ端役人だったが働き不十分のかどでお咎めを受けた。たしかに俳諧の会が終わって遊里に流れ三日間も所在不明だったのだから仕方がない。日頃の勤めもなおざりだったからかばってくれる人もいない。それを不満に思ったのは逆恨みだったね。
 翌年、遠山金四郎景元が江戸北町奉行になった。早速、祖父の蔵書を抜き出し土産にして訪れたよ。多忙のはずなのに景元は気さくに会ってくれた。
「拙者の父景晋は貴殿のお祖父様とは旧知の仲だ」
 それは度々聞いている、遠山の屋敷には叔父であり兄でもある妙な関係の遠山景善が同居していた。それに反発する景元は放蕩無頼の生活に流れていた、つまり大変な苦労人なんだ。二人は旗本の部、御家人の部で学問吟味を受け、それぞれ首席になった。
「祖父の大田南畝殿は寛政の改革の後にはお勤めを第一にされ安泰であった。この度、老中水野越前殿がいよいよ天保の改革に乗り出される。鎌太郎殿もお役目堅固でいてください」
 景元に願ってもっとましな役につけてもらおうとした思惑は態よくかわされてしまった。そのうえ改革と聞いておいらは震えあがった、これは逃げるが勝ちだと思ったよ。御家人暮らしにはほとほと嫌気がさしている。さっさと次男の雄之丞に家督を譲って隠居してしまおう、身勝手な言い分だが理屈は通る。おいらは23才の時に祖父から家督を譲られた、息子だって同じ年になったら後を継がせてもよかろう。だからあと3年は亀の子に習って身を縮めておこうと思った。妻に先立たれ体調も悪く、これ以上、家にいても厄介者だ、看病だ食い扶持だと一家を困らせるだけだ。機を伺っていたら改革が頓挫して水野忠邦が罷免された、さて好機到来と1年前倒しで隠居した。これからは当たらずさわらずの人生を過ごせばいいのさ。
 湯治と言って家を離れた。当てがないわけではない、俳諧仲間や詩文の友はあちこちにいるし偉大な祖父の知り合いたちも何人かは存命だ。それで俳聖芭蕉を決め込んでとりあえず東海道を下った。寒くない暖かい所へ行きたい、といっても歩くのは御免だから芝の浦から便船に乗ったら浦賀についた。下田に行く舟に乗り換えようとしていたら呼び止められた。
「おや大田鎌太郎さんではありませんか。肥前屋です」
 干鰯問屋の肥前屋は俳諧もやれば狂歌も作る通人だ。
「そういう事情なら浦賀にお住まいなさいまし、蜀山人先生には長崎で大変お世話になりました、そのささやかなご恩返しをさせてもらいます」
 一間を借りて養生という名の居候生活を始めたよ。肥前屋が先生、宗匠と言って立ててくれるので地元の旦那衆が訪ねてきては句会や川柳、長唄、豊後節などに興じる。頼まれれば詩も書き、子どもにも教える。どれも得意さ素人衆を感心させるくらいの腕はある、肥前屋にも箔がつく。望み通りの屈託ない暮らしさ。いいことづくめでうかうかと十年がたった。体の調子はいっこうに良くならないが祖父は底なしに酒を飲み、父は心を患ったから自分も健康でいられるわけがないとあきらめたよ。
世の中が物騒になり異国船が日本中に現れてくる。幕府は異国船打払令を薪水給与令に改めたのでこれから一層増えるだろう。浦賀には幕府の役人、諸藩の武士、商人、知識欲にあふれる学者が諸国から出向いてくる。俳諧、和歌、書画の達人もいる。町は活気にあふれて風流人も楽に生きることができた。
 えっ景三郎のことはどうしたって?縁があったのだか無かったのだか、
実の子さえもどうとも思わない不肖戴陽様だよ、野暮なことを聞いてはいけないよ。