天保8年6月28日早朝、異国船出現の早馬、城ヶ島遠見番所からの知らせを受け浦賀奉行はただちに臨戦態勢を命じ見届け船を繰り出し大砲の準備を始めた。17才の中島三郎助は観音崎台場から父清司の乗る見届け船が異国船に近づくのを注視していた。雨が上がった。見届け船の報告を受けて多人数の役人が小舟を連ね異国船に乗り込んだ。アメリカ船モリソン号と分かった。船長は酒を出して歓待した。しかし幕府は江戸湾内に侵入してきたことに驚き、すぐに打ち払うよう命じた。翌日、見届け船が警告を伝え船から離れるとすぐ台場の大砲が火を噴きモリソン号の周りには水柱があがった。しかし船は三本マストの帆を大きく広げて進入してくる。ついに三十丁櫓の番船長津呂丸が漕ぎ出して、ごく近くまで寄せて大筒を発射した。武器を持たないモリソン号は反撃せず、野比沖まで退いて仮泊し、翌朝去っていった。
モリソン号は7人の漂流民を乗せていた。モリソンとはマカオで漢語訳聖書を書き上げた宣教師の名だ。古い昔にザビエルが日本語訳聖書を手がけたがマカオ教会は新しい日本語聖書による宣教を企てた。ちょうどカナダ国境で日本人漂流民3人が原住民に囚われているのを知り、毛皮と交換してマカオに連れてきた。岩吉、久吉、音吉という3人は宣教師ギュツラフの求めで聖書を日本語に翻訳した。アメリカ商人のキングが日本との通商による利益を図って資金を出し、夫婦で航海に参加した。しかし打ち払いにあい目的を達成できなかった夫妻は無念のあまり『モリソン号の日本来航記』という本を出版した。アメリカ世論は日本開国に煽りたてられた。
打ち払いの功績により恩賞の沙汰があった。見届け船で異国船に乗りこみ談判した三郎助の父清司には白銀五枚、砲弾を至近に撃ち込んだ三郎助には二枚が下された。
祝いの宴が開かれた。叔父の岡田定十郎も江戸から駆けつけて宴に連なった。武勇伝で座は盛り上がった。
「文政5年の船はサラセン号と申す不恰好な船でした。幅広のずんぐりした船体で小舟を何艘も積んでいて鯨獲りの船だそうで、そういえば嫌な匂いがしておりました。今度の船は姿が良く速そうな船でした」
「沈めてしまってはもったいないですよ」
「それよりお前の大砲がわしの見届け船に当たらないかとひやひやしておった」
「私の砲術は田付流、荻野流、もうすぐ免許皆伝です。第一、異国船の大きさに比べれば父上の船などアメンボくらいでした」
「それで長津呂丸の大筒は命中しましたか」
「まるで花火のようなもので、蚊に刺されたほどのことしかない」
「撃ち返してきませんでしたな」
「舷側に砲門がないから軍艦ではない」
「さぞ驚いたことでしょう」
「火急の用と称して、漂流した我が国の水手を乗せておった」
宴席は芸尽くしになり流行の都々逸が順回しになった。
声にあらわれ鳴く虫よりも
言わで蛍の身を焦がす
「なら私が次を」
清司が歌うと三郎助が続けた。
夢が胡蝶か胡蝶が夢か
主と朝寝の添い枕
興にのって定十郎が絵を描いた。岩にもたれて眠っている男の絵だ。
「叔父上の得意はいつも楽をしている絵姿ですね」
「荘周夢に胡蝶になるという深い哲理が見えないか」
「おや胡蝶殿のご入来だな」
叔父は娘の寿々を宴席の手伝いに連れてきていた。
「寿々殿はおいくつになる」
「15になりました」
「三郎助は…17か。いい年回りだ。なあ定十郎、かねての約束を覚えておるか」
「いや清司よ、今は後悔しておるぞ」
「なら一戦交えなければなるまい。我らはもとより海賊ゆえ略奪を習いとする」
「本人同士はどうだ」
こんな話を初めて聞いて二人は驚いた。寿々は顔を赤らめて逃げ出した。三郎助は耳元で大筒が発射したようにポカンとしている。
「ご両人、異国船のご縁だよ、浦賀の舟だから浦舟さ、この浦舟に帆を上げてと謡を聞かせよう。大筒だからといってもツツモタセではござらぬぞ」
「江戸の御家人は下世話でいかん。白銀のあるうちに結納をした方がいいだろう」
こうして三郎助と寿々の結婚が決まった。
「縁ある絵だ、進呈する」
「待て、父が賛を書いてやろう」
清司はしばらく考えてから気合を込めて句を書いた。
どちらから かよひそめけむ 春の夢
「結構な引き出物となった。相思相愛と申す、さぞ荘子も喜ぶだろうよ」
浦賀奉行所は全国に11ある遠国奉行(長崎や新潟、大坂や京都)の一つ下田奉行所を浦賀に移したもので千石取りの旗本が奉行になった。江戸の経済が活発となり江戸湾の入り口で船改めを行う必要ができたからだ。幕末には異国船往来が多く奉行所の責任が重くなると奉行は二千石取りとなった。当初は与力10騎、同心50人であったが、これも20騎100人に増員された。役人は世襲で欠員が出ると息子や親戚から補充する。報酬は低くて与力で75俵、同心は20俵、江戸町奉行の与力が200俵、同心30俵に較べてずいぶん低い。しかし余得があった。
「昔は御組揚荷物というのがあってな」
酔うと父親が愚痴のように言っていた。
「賄賂というほどのものではない、いわば手土産だが楽しみにしてはいたものだよ」
米や油など一俵一樽をほんの何文かで譲ってくれる。それを定価で商人に引き取らせれば丸儲けとなる。
「それが天保のご改革で一切だめになった。あの水野越前守というお方は情がない」
武士は自らの才覚で収入を得るあてがないから改革による収入減の恨みは深い。
「浦賀奉行所には妙な役がある、舟唄役、知っておるか」
将軍家や大名の御座船が入ったときに舟唄で先導する係だ。しかし御座船などとっくに隅田川で朽ち果てている。
「封印係、これも近頃役目なしだ」
難破船の積荷を略奪されないように確保しておく仕事だ。
「近頃は船が大きくなり沖を突っ走っていく、だから難波するのもはるかな大海原だ、積荷なんか流れてこない。しかし運よく助かった人間は戻ってくるが、それが異国船だと面倒だ」
嘉永5年、後に大老になる井伊直弼が浦賀を視察した。翌年になって佐久間象山が奉行所を訪れた。江川太郎左衛門の弟子で松代藩士、総髪で目をギョロつかせた異人だった。早速、奉行所に保管してあるオランダ献上の大砲を整備して与力同心に使用法を教えた。実はこの年に象山は勝麟太郎の妹お順と結婚していたのだ、42才と17才の夫婦、象山は勝麟太郎より一回り上で漢学もオランダ語の学識もはるかに深かった。ペリー来航時には松代藩士を率いて横浜の警備にあたったが、直後に弟子の吉田松陰がペリー艦隊に密航しようとして事件に連座し蟄居を命じられ。後に攘夷派の志士に暗殺された。
嘉永6年6月3日 遠見番所から早馬で知らせ、黒船到来、当日の見張り役は中島三郎助だった。
「お奉行様に知らせたか、一刻をあらそうぞ、かねての申し合わせ通りだ。舟を出せ、なに水手が足りないと、景三郎!船を漕げ」
日頃せっかちな三郎助が一層あわただしく命じた。舟は懸命に漕いで先頭を行く黒船に近づくと御用と書かれた提灯を示した。いくつもの顔がのぞいてこちらを見ている。舟を舷側に着けたが甲板は見上げるように高い。
「おおい上げろ、綱を下ろせ」
通詞の堀が日本語とオランダ語で叫ぶと、たどたどしい日本語が返ってきた。
「あなたは誰ですか」
「浦賀奉行所だ」
「あなたは何の役ですか」
「身分の高いもの以外には会わないというのだろう、とやかく言うのも面倒だ、奉行の次の者だと名乗ろう」
三郎助は性急に言うので堀は驚いた。
「これは、だいそれたことを」
「危急の方便だ、早く伝えろ」
説明すると相手は理解したようだ。
「副奉行ですか、どうぞ上がりなさい」
二人は少し気が落ち着いた。
巨艦の舷側に長い縄梯子が下ろされた。三郎助と堀が意を決して登っていく、景三郎は水手とともに舟に残された。
一刻ばかりたって二人は舟に戻った。飛ぶように帰る舟の中で三郎助は興奮がさめず色々なことを喋ったが堀は通詞らしく黙っている。話のあらましはこんなものだった。
甲板に立って日本語で迎えた長身の男はウィリアズといった。
「堀殿、アメリカ人も勉強しておりますな」
三郎助の言葉に堀がうなずくのを見てウィリアムズが言った。
「副奉行さん、私、浦賀は二度目です」
またも二人は驚いて相手の顔を見た。穏やかに笑いかけている丸い眼鏡をかけた目に懐かしさがあふれていて、どうやらウソやハッタリではなさそうだ。
「いつのことか」
「私、モリソン号に乗っておりました。漂流した漁師を運んできただけなのに大砲を撃たれました」
その大砲を撃ったのが三郎助で褒美の白銀までもらっている。
それ以後16年、アメリカは南北の対立が激しくなり、政府はその矛先をそらそうとして日本開国を改めて政策にしたのだ。
ウィリアムズは感慨深げだった。
ちょうどその時、少年が走ってきて敬礼し命令を伝えた。景三郎や井蔵より年下だろう、てきぱきした態度は見るからに勇敢な水兵だった。いつも長キセルを離さずのらくらしている奉行所の連中を思って三郎助は溜息をついた。軍艦、大砲ばかりでなく水兵もすっかり負けている。
一同は副官の部屋へ通された。自分が副奉行には見えないだろうなと苦笑した。
部屋の正面には大きなテーブルがあり副官コンティ大尉が立ち上がって挨拶した。山形帽をかぶり肩に大きな金のエンブレムをつけ、襟にも袖にも三本の金筋が光っている。ぴったり合った軍服、しみひとつない白いズボン、圧倒されるような貫禄だった。コンティは嵐で鍛えた深い響きのある声で話した、それを堀が通訳した。
「身分と名前を聞いております」
「浦賀奉行所副奉行、中島三郎助」
危急の時とはいえ偽称するのは気がとがめる。しかしコンティは凝視したままだ。
「渡来した訳は難船か、または水食料などを求めてのことか、その段、返答いただきたい」
三郎助は精一杯の声をはりあげて詰問したが緊張して声が裏返った、コンティに較べてはるかに貧弱だ。
返事があって話はだんだんこみいってくる。ウィリアムズの日本語と別の通詞のオランダ語と堀のオランダ語と英語が行き交う。堀が三郎助に話す言葉をウィリアムズは注意深く聞き取って堀に助言する。いよいよ緊張する堀と三郎助を心配そうにウィリアムズが見ている。
打ち払うのではなく「やわやわ」と対応して引き取らせよというのが幕府の指示だった。マリナー号、コロンバス号と立て続けに異国船が来航し、幕閣も軍艦と大砲の威力を十分に理解した。沖合いから砲撃されて江戸城が炎上する情景も想像できた。
「異国船の港は長崎でござる、ここ浦賀からは即刻引き上げ長崎に回航されたし」
コンティは笑った。三郎助の身分を察して部下を叱責する調子になった。
「突然の来航ゆえお困りだろうが、我らは帰る気持ちなど持たない。明日は奉行に会いたい。ペリー提督は大統領の代理人だから奉行より身分がはるかに上だ、そう申しております」
堀が話を伝えた。確かにその通りだ。将軍様の上使が来れば大大名だって平伏する。
コンティにうながされて一同は部屋を出た。ウィリアムズが艦を案内すると言う。ウィリアムズの隣には厳しい顔の若い男がいてウィリアムズに小声で何かを告げた。
「アドミラル・ペリーはビッドル艦長ともモリソン号のインガソル船長とも違う厳しい大将です。寝ぼけた水兵には水をかけて叩き起こす、それでも起きなければ刑罰を下す、死刑にすることもある、そう申しております」
「それは怖いが堀さん、そう申しておりますはヤメにしてくれ、どうも気がせく」
堀はうなずいた、
「あなたに大砲を見せます。あなた方の大砲はモリソン号を撃ったのと同じでしょうが、この艦はもっと威力のある最新式の大砲を積んでいます、そう…」
堀が口ごもりニャっと笑った、それでやっと三郎助も落ち着いた、とたんに相手の弱点がつかめた。
「しかし戦いが長引いて水も食料も薪もなくなったらどうするのか」
「この艦には200日分の蓄えがあります」
今度はさっきの若い男がニャッと笑った。三郎助は完敗だと思った。
「この大砲は爆裂弾を撃つのか」
「そうです、あそこに見える奉行所など一発で吹き飛ばします」
「弾込めの時間は」
「一分に二発」
若い男の目が自分に注がれている、たぶん自分を監視しているのだろうと三郎助は思った。しかし、それはハイネという画家だった。周到なペリーは画家と写真家を乗船させている。写真は光の加減が難しく動く物は撮れないが画家はいつでも絵にすることができる、ハイネは有名な細密画の名手だった、航海中のどんな場面も描きとめている。ハイネは三郎助を探索にきた士官だと見抜いていた。
甲板に出るとウィリアムズは懐かしそうに風景を指差した。
「この景色は少しも変わっていない。16年間なんの変化もない」
三郎助は素っ気なく言った。
「それが平和ということでしょう」
「眠っている間にお国はどんどん朽ちていきます。それに気づきませんか。なぜ日本は開国をいやがるのですか」
三郎助はその通りだと思った。すでに世界は変わっている。幕閣にはそれが分からない、夢見心地から抜け出そうとしない。浦島太郎のように白髪になってから初めて気づいても遅いのだ。
「たとえて言えば、着物にほころびができるとそこから裂けてしまうということか」
この説明ではウィリアムズは理解できない。通詞の堀がこちらを向いたが三郎助は必要ないと手を振った。自分はどうやら軽く見られているので大事な話はしない方がいい。さて明日は誰が交渉するのか、そんなことを考えながら帰途についた。甲板からあの若い男がじっと見ているのが不気味だった。
本堂の回廊というより縁側で戴陽老人はひなたぼっこをしていた。ペリー来航以来、浦賀を訪れる人はいよいよ多くわずらわしさが増したが、ここ長柄の本瀧寺は陽光が照っているだけだ。
川沿いの道に人影が現れて山門をくぐった。空咳が聞こえて目の前に中島三郎助が色褪せた木綿の紋服で立っている。
「泰平の眠りを醒ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず 秀逸ですね」
お辞儀がすむやいなや三郎助はそう言って戴陽老人の顔を見た。
「そんな狂歌が流行っているのかい、おいらは存知ませんよ」
戴陽はすまして返事をした。
「昔、四方赤良と名乗ったある御仁が寛政の改革の折に
世の中に蚊ほどうるさきものはなし
ぶんぶぶんぶと夜も眠れず
という狂歌でご政道を笑ったそうですな」
三郎助は相手がとぼけるとついこだわりたくなる、物事に淡白とはいえない性格だ、それで少しからんだ口調になった。
「蚊の飛ぶ音のブンブと改革の趣旨の文武を掛けただけの狂歌で趣向が薄い。赤良先生も自分の作ではないと断言していますよ」
いよいよ老人は泰然と受け流すので三郎助はさらにからみたくなった。
「おいらは四方赤良より大田蜀山人先生とお呼びしたいね、名声をあっさり捨てて武士の本領のお役を大事に務められた。しかし戴陽先生は家督を投げ出されて隠居されたのですな」
「三郎助さんは何か遺恨があってのご来臨ですかな。俳名も戯号も一代限り、御家人の家名などは紙一枚より軽いものだ」
戴陽は笑っている、三郎助は赤面した。自分の性格は分かっているのだが忌まわしい。黙りこんでいたかと思うと唐突に饒舌になる、言わでものことをしゃべってしまう。喉が熱くなって詫びようとしたが咳で言葉がつかえてしまった。
「濃い宇治茶の上喜撰とペリーの蒸気船を掛けただけの趣向、これも洒落としては稚拙だね。第一、狂歌は場の座興、得意になって世間に吹聴するものではありません」
三郎助はようやく詫び言を言い、改めて師と仰いでいる戴陽にお辞儀をした。
「こうしてご老人の前に座っていると蜀山人先生を身近に感じます」
額が広く口許が締まり頬骨のはった戴陽の顔は著名な祖父によく似ていると言われる。
「おいらは不肖の孫だよ。学問も武芸もない、お上に忠節も尽くさない。幸い息子は真面目な男だし孫も育っているので家名うんぬんはどうにかなりましょうや」
「今、そのお上がおかしくなっております。小栗様や勝さんのような元気者はいるが幕府を束ねる人がおりません」
「いやだね井伊公かい、その威が恐ろしくて世間は震えたそうだ。それがさ…」
「井伊大老が桜田門で闇討ちにあって後、幕閣のやることなすこと場当たりで、外様の大藩はすっかり幕府を見くびっています」
「織田がつき羽柴がこねし天下餅、ようやくカビが生えてきたようですな」
「先生のご心境は」
「おいらに本音を吐かせようというたくらみかい。それなら言ってきかせやしょう。身分というのがいけない、たとえてみればあの富士山のように一合目二合目と横に線を引くようなことだ。家柄だ石高だと細かく細かく線を引く。おいらの祖父はてっぺんの天子様から一合目の底の人たちまで自由につきあいましたよ、それは文芸というものが身分ではないからです。身分に縛られなければ百姓も職人も商人も、あの箱根、丹沢の連山のように背比べして峰の高さを競うようになりましょう。なかには山高きがゆえに尊からずなどと斜に構えるそんな愛嬌者がいてもいい。生まれた時は誰でも一合目、そこから歩き始めて人となる、そんな世の中なれば楽しいだろうね」
三郎助は笑い出した。
「拙者のようなゼンソク持ちの分からず屋は何をすればいいでしょうね」
戴陽は笑わずに言った。
「若い人の肥になりなさい」
「拙者はご老人のような枯骨ではございませぬぞ、青雲の志の持ち主だ」
「では艶っぽい話をしましょう。寛政十年の過去帳にこんな戒名がありました」
そう言って戴陽は懐紙を広げた。
「柔誉順恋信女享年二八、お恋さんという方だろうね、気立てのよい優しい人だったのかな、枯骨となっても面影を残す、おいらもそうありたい」
きっとなって三郎助は言い返した。
「先生は生より死を重んじるのか」
「一死が万生に値うるならばね」
「勤皇の志士は一死報国と言っております」
「国にとっては一死くらい煎餅のかけらさ」
「事が起これば死ぬまで戦う、それが武士の習いです」
「お侍様はありもせぬ戦さを請け負って威張っていなさる、ほんにええ商売じゃと吉原の遊女が言ったというさ」
「すぐに戦さが起きます。日本人同士かもしれぬ、日本人と異国人かもしれぬ」
「この寺は南無妙法蓮華経と誦して西方を浄土としておる。神には烈火がふさわしいが仏はほのかな月あかりがいいのう」
「それがご老人の浄土ですか」
「おいらにとっての極楽は湯につかる時だよ、古骨といえどぬくもりますぞ。同行しましょうや、堀内の滝の湯と申しての、少しぬるいが泡立っていい湯です」
三郎助は我に帰った。おのれ偉そうに天下を論じていても煎餅のかけらにすぎぬ、おかしくなって笑った。戴陽も笑った。
海防御用を命じられた川越藩からペリーと黒船のことを知りたいと言ってきた。適任は香山栄左エ門だが奉行は身の軽い三郎助に命じた。川越藩陣屋は芝の高輪にある。
「浦賀奉行所与力 中島三郎助殿」
触れ役が叫ぶと式台に平伏していた男が顔をあげた。
「河野松之助と申すふつつか者でございます。以後もご別懇のほどお願いいたします。ご案内をさせていただきます。」
三郎助より一回りは年上の落ち着いた人物だ。ぎごちない挨拶に三郎助はふきだしてしまった。
「大仰に花道から出てきたから、成田屋っとでも声がかかるかと思いましたよ。松之助さん、ひさしぶりです」
浦賀奉行所で水手頭を務めていた男だ。
「松之助、このたび川越藩水手差配役となり河野の姓と帯刀の許しを得ました」
「それはめでたい。お前さんの働きならそれくらいは当然だ」
「本日はお忍びで若殿様もご臨席されます」
「そうかい、それなら少し飴をなめさせた方がいいかもしれませんね」
奥の間に三十人ばかりの藩士が威儀を正して座る前で三郎助は軍艦の威力と台場構築の心得を話し始めた。最初に褒めた。
川越藩ほど進んだ考えをお持ちのところは他にない。聞けば独力でカノン砲を鋳造されるご計画のようだし、台場の配置、大砲の訓練などまことに行き届いている。諸士から足軽に至るまでお役目大事に務めております、某藩の足軽は、(ここで声を潜めて)、桜田門様のご家来とでも申しましょうか、粗暴な振る舞いをなすため村々では蛇蝎のように嫌っておりました」
それから砲台は無力だから軍艦で迎え撃つ迎撃論、造船から航海の話、諸外国の様子、貿易の利について持論を説いた。
「わが藩に海があれば即ち軍艦を乗り出すのですが、残念至極です」
若殿のお側近くらしい武士が言う。
「でも生糸がありましょう。軽くて値が張りなにより異国人の求める物産であります」
これは長崎で伝聞し、勝麟太郎に教えてもらったことだ。
「異国船が我が国に難題をつきつけるのは通商のため、かの国々は商人の支配する所でございます。されば貴藩の生糸はたちまち大砲になり軍艦になります」
「なるほどご卓見」
大兵の武士が口をはさんだ。
「異国船の乗り心地はいかがでござったか」
思わず三郎助ははずんだ大声を出した。
「おお内池武者衛門殿でござらぬか、貴殿には遅れましたが、それがし二番槍を果たしましたぞ」
ビッドル艦隊来航の時、旗艦ビンセンス号に小舟を漕ぎ寄せ無理に乗船して、船首に川越藩の旗印を掲げ一番槍と叫んだ武士だ。異国の水兵たちと酒を飲み交わし腕相撲をしておおいに名をとどろかせた豪傑だ。
「ビンセンス号より大きいそうだな」
「長さが倍、幅も五割増し、水車をつけた蒸気船でござる」
「大砲は」
「150ポンドござりました」
「水兵たちは如何」
「左様、揃いの装束で意気軒昂でござった」
「先方は酒を出したか」
傍若無人に内池は語りかけ三郎助も答えた。隅の暗がりに隠れるように座っていた若殿らしい人物が始終笑っていた。
陣屋で宴席を設けたからご同席をと乞われたが三郎助は辞去した。勝麟太郎ならたとえ飲まなくても大言壮語を吐いて座をにぎわしただろう、しかし三郎助にはそんな芸当ができなかった。
「お帰りは舟で願います」
すっかり暗くなった玄関前で松之助が寄ってきた。
「配下の押送舟です。芝の湊から、あす日の出前に舟出します。たぶん昼過ぎには浦賀に着くでしょう。今晩は品川にお泊り下さい。宿を手配してあります。ただし本陣ではございませんよ」
「松之助、いい男になったの」
「心に誠あれば顔うるわしと申します。顔が晴れやかでなければ船玉様も順風をくれません」
「俺の顔はどうだ」
「一騎当千、成田屋っ」
「世辞がうまくなったな」
1854年嘉永7年1月16比、約束どおりペリーは再来した。今回は旗艦サスケハナ号以下9隻の軍艦を率いていた。献上品は蒸気機関車の模型や電信機など、各藩はすぐに模倣品を造った。短期間のうちに日米和親条約が結ばれ、開港と最恵国待遇をペリーは勝ち取った。ベリーの後ろでは議会と新聞が睨んでいる。ペリーには焦りと怒りもあった。プチャーチンのロシア艦隊にアメリカ商人が大量の石炭を売ったが、それが長崎に向かっている。フランス軍艦も香港から日本に向かうらしい。自分自身も健康も損ねている。ペリーは本国に帰ってから3年後に死んだ。
老中安部正弘も腹背に強硬派を抱えている、最強の御三家水戸の徳川斉昭の後ろには朝廷が睨んでいる、諸藩の多数も攘夷派だった。ペリーを送って3年後に死んだ。
同じ年の5月、鳳凰丸が進水した。勝麟太郎が駆けつけてきた。
「貴公の船をまっさきに見たかったんだ。快挙です、バーク型軍艦が我が国で初めて造られたのだ」
一行は坂を下ってドックに出た。
長さ120尺幅30尺という三本マストのバークだった。前の二本に三段の横帆を広げ、後のマストに縦帆がかかっている。最初は二本マストのブリッグ型になるはずだったが三郎助はどうしても三本マストにしたかった。幕府軍艦の定めにより先端の斜帆ジブにまで墨で横縞が引かれ、船体はベンガラと朱ウルシで塗って同じく黒の横線が引かれている。船首には鳳凰像、船尾には華麗な鳳凰の尾羽が風に踊るように描きこまれている。中のマストの先端には五色の吹流しが翻り、船尾には日の丸の旗が掲げられた。七貫目半の大筒4門、三貫目の中筒6門を装備したが砲門にはまだ余裕がある。ペリー艦隊に習って、海兵のための剣付鉄砲を50丁積んでいる。
美しい船だった。かつての安宅丸という将軍の御座船があったが老朽化し、つい近頃まで無残な姿をとどめていた。目の前の船も飾り立てられ幕府の威儀を示す新しい御座船だった。船体が揺れると波に洗われた船腹の銅板がキラキラ光る。
「鳳凰丸というより花魁丸と呼ぶがいいや」
勝麟太郎は平気で悪口を言った。
「こうして飾り立てて徳川の威光を示そうとしているのだよ、三郎助さんも気の毒に、せっかく造った軍艦が花見山のようになってしまったな」
さすがに三郎助はむっとした。勝麟太郎は無責任に見た目だけを言っている。
「大型の大砲をもっと積みたい、しかし、浦賀ではこれだけしか手配ができなかったのです」
「あの朱ウルシをベンガラにすればよかったよ。その費用を横流ししてもっと大砲を用意できただろうに」
「幕府はこれで相手は震えあがると思っているのです」
「走るかい」
「順風で6ノット、間切って2ノット」
「それは速いや、廻船を抜くね」
大阪から酒を運ぶ樽廻船は順風3日で江戸に着く快速船だ。
「バークは姿がいいや。けど、だいぶ幅があるね、喫水を浅くしたのかい」
「思いがかなわぬことが多くありました」
「なぜシップ型にしなかったのかい」
「横帆の費用が莫大です。大砲も小さいからバークが適当でしょう。一切は奉行所の責任だと心得よ、公儀に迷惑をかけるな、幕府のお目付けはこう言い残しましたよ」
勝麟太郎は溜息をついた。
「幕府は妙な所で金をしぶるよ。大仕事をするときは脅して騙して金をむしり取らなければならないんだよ」
当時の千石船は1200両ほどでできたが鳳凰丸は倍以上の費用がかかった。勝麟太郎は大言壮語で人を煙に巻き誠実とは言いがたい人物だ、そういう評判をうわさに聞いている。ここで本音を話してあちこちで吹聴されては困る、それでおだやかに話を変えた。
「勝さん、私は船が好きです。風を背にすれば素直に前へ進む、風が向かいなら、だましだまし間切っていく。海と風は神秘だが船は技術です」
「これから戦争だ、たくさんの軍艦とたくさんの大砲が必要になるよ」
「私は大砲も好きです、ペリー艦隊に乗り込んだときもしっかり見てきました。人を殺すための武器ではありますが、玉薬をつめ弾丸を詰めて角度をつければその通りに飛んでいく、けっして考え込んだりしない。人を殺すのは人間です、大砲ではありません」
「はっは、評判は聞いている、ペリーは三郎助さんを隠密だと思ったそうだ。軍艦も大砲も人間が扱う、なるほど、けれどその人間が幕府にはいないので困っているんだよ」
「同じ水手ならバークにも乗れるだろう、三浦と塩飽の水手で鳳凰丸を運航せよと江戸から言ってきました。しかし、マストに登って横帆を開くなど廻船の水手たちは夢にも思ったことがありません。仕事がまるで違う、弓矢と鉄砲ほども違う」
勝麟太郎はそっぽを向いて言った。
「俺はね、旗本御家人連中は見限っている。新しいことをやってやろうという勢いのある奴を日本中から集めようとしています。おもしろい奴がたくさんいるよ」
「吉田松陰という方とお会いしました」
「すばらしく目の開けたお人だ、弟子たちにも傑物が多い。長州も右往左往しているからなあ」
勝は苦々しげな気配だった。三郎助はわざと吉田松陰の名前を出してみたのだが、それが勝麟太郎は気に入らなかったようだ。
「午後は風が強まりそうですよ」
「俺は逆風を押しわたる性質さ、順風などは性に合わない」
「旦那、船尾の漏れはマイハダ詰めて止まりやした」
大工の長吉が寄ってきた。
「ちょうどよかった、勝さん、この船を造った棟梁の長吉さんだ」
「棟梁は源蔵だ、俺は叩き大工でさぁ」
「長吉さん、一番の苦労はなんだったぇ」
弁舌に達者な勝は人をそらさぬ江戸の口調で声をかけた。
長吉はちょっと三郎助をうかがって軽くうなずくのを見て造船の一部始終を話し始めた。
「おっと立ち話では犬に小便かけられちまう、ちょいと乙な店はないのかい」
浦賀では江戸まさりと評判の料理屋の加納屋に一同は入った。
長吉は目を輝かせて話をし、勝は時々鋭い質問をしながら合いの手を打った。角の立った新鮮な刺身に勝も喜び、三郎助も警戒心を残しながら話を楽しんだ。
「三郎助さん、俺は幕府に海軍を作るために寺小屋をつくろうと考えた。異国人に知識と技術を習うんだ、長崎でやれば邪魔が入らなくてよかろう。その時は、この長吉さんもお前さんも必ず来ておくれよ。海軍は机の上ではできない。鉄と木と火薬、造る人と操る人が必要なんだよ」
三郎助は自分の不満を勝麟太郎が解決してくれるように思えた。しかし、心のどこかで勝の大風呂敷とつぶやいていた。
鳳凰丸が試験航海を終えた翌年には老中はじめ幕府要人が乗船し観閲した。船は中島三郎助と佐々倉桐太郎が運航した。上手回しで逆風の航行や大砲の射撃演習を行い要人を驚かせた。江戸っ子も大挙して見物に来た。
安政2年6月29日、かねて音信のあった熊本藩士の宮部鼎蔵が大阪からやって来た。桂小五郎と東条英庵という長州の武士が同行している。宮部は丁重に三郎助に引き合わせた。すでに船大工の勝之進と藤蔵という二人が半月前に訪れてきて棟梁の家で暮らしている。
「遠い道のりでございましたな」
三郎助が丁寧に挨拶した。東条英庵が答えた。
「面目次第もございません、痢病にかかって伏しておりました」
「大阪は水が悪いので旅人は気をつけなければいけませんね」
「イギリスだのアメリカだのと口にしますが、京大阪も遥か遠い所のように思われます」
東条英庵は気軽に話したが桂小五郎は思慮深い人なのか黙っている。
「長州はさらに遠く、長崎は地の果てです」
三郎助も長崎の話を聞きたかったが後にしようと思った。
「わが藩は下関を領し、天津、青島など南シナ海を行く世界中の船の通り道になっております。この海防の要地で泥亀のように首をひっこめていて、来た者を追い払うなどという消極的な対応では日本の身が保てません。中島先生に弟子入りをして天下世界の事情を知り、わけても洋式造船術を学んで国のために尽くしたいと願っております。いずれ、わが国の軍艦を連ねてイギリス、アメリカまで攻め込むくらいの勢いにしていこうと思っております」
東条のあまりにも一途な様子が滑稽で一同はつい笑ってしまった。娘の順が茶をいれてきた。八才の恒太郎と五才の英次郎が縁側に座って一同を見ている。ひざの上の虫カゴを見て三郎助は暗いことを思いだした。
「お師匠の松蔭先生はお変わりないか」
「獄にはおりますが意気はますます軒昂です。国防の大事を青年客気で誤るなと叱られました」
「まこと師弟ともども意気軒昂でござる」
松蔭は下田に投錨したペリー艦隊に乗りつけ、密航を願って断られ投獄されたのだ。
「私が乗り込んだのはサスケハナ号でござった。艦内の様子もはっきりと覚えている。交渉にあたったコンティやウィリアムズの顔も。ただ松蔭先生は先鋭な方ゆえに…」
ようやく桂小五郎が口を開いた。
「松蔭はわが師でございますが、今の私はもう一人の師を持ちたいと願っております」
「私は浦賀奉行所のただの与力でござる。教えることなど持っておりません。ただ共に学ぶ士は求めております」
最初は固辞した三郎助だったが、どこか片隅でいいから逗留させてほしいという彼らの熱意に負け、客分として受け入れることにした。すぐに納屋に床を張り二畳半の部屋を調えて逗留の便を図った。船大工2人は引き続き棟梁の家で、宮部鼎蔵は数日だけということなので宿屋に案内した。
「昼間は造船場で一緒に作業をしましょう。夜はアメリカから手に入れた書物を読みながら造船の理や海防の実際について共に学びましょう。図面では分からぬことも多いがね、幸い伊豆の戸田で造船が行われているのでそれを見学に参りましょう。それから江戸の薩摩屋敷に蒸気船の模型があるらしい、伝手を求めて見学しましょう」
こうして造船修業が始まった。小五郎はあくまでも弟子としての生活を送ろうとした。生まれたばかりの赤子の世話をし、やんちゃ盛りの二人の男の子の相手をした。ぜんそくを患っている三郎助のために数日おきに薬を取りにも行った。
しかし、三郎助は造船を志す仲間という気持ちで接した。家族にも出入りする人にも丁寧な言葉を使わせ、食事も必ず母屋で一緒に食べた。公務で不在の時は娘の順を給仕につけて世話をさせた。
奉行所では押し掛けの居候をこんなに丁重に扱うのを不審に思った。三郎助はこの居候はただの人ではない、いずれ私もこの方の屋敷で門番をする時がくるだろうと答えたという、そんなまことしやかな噂を聞いて三郎助は笑った。これは織田信長を斉藤道三が評して言った故事だ、おいらはマムシの道三郎助かい。
「お二人とものっけからの仕事場通いで骨がおれましたな、ささやかだが宴を開きましょう、春山さんや山本さんも誘っている」
鳳凰丸建造の与力と同心が小料理屋に集まった。何杯か酒が回ると皆がすっかり打ち解けた。
「なあ東条さん、京都は芸どころ祇園も北野の上七軒も遊べばおもしろいところだそうですね」
春山弁蔵が早くも酔った口調で話しかけた。
「長州を出て、ほんの数日京都におっただけですが、町屋の細い道を歩いていても三味線の音が聞こえてきました」
「なあに、この浦賀だって三味線の音はしていますよ」
春山は代々の同心で浦賀から離れたことがない。
「諸国は流行を追って新しい歌をもてはやしますが京都は古いものに価値を見出します、地歌も歌い継がれてきました」
東条も桂も京都が好きなようだ。
「あの辛気くさい低い声で歌うやつですかい、よく退屈しないと思うね」
「灯りを暗くして地唄を聞きながら静かに酒を戴くとまことに思いが深くなります」
「まるでお寺で飲んでいるようだね、茶碗酒をあおってパッと騒ぐがいいや」
「同じ上方でも大阪は陽気な酒ですが京都は違います」
「お前さん、京都が好きなんだね」
「たぶん性に合っているのでしょう。しっかりした古い根っこに新しい枝を挿せば、違った実が育つことでしょう」
そう言われると与力同心たちはむきになった。
「幕府の根が枯れてきたから挿し木をしろということかい」
「つまり尊王で倒幕かい」
東条も熱くなってきた。
「公武合体という策もあります。日本の中心は江戸です、京大阪では東日本は束ねらません」
三郎助も桂も黙っているが議論はだいぶ剣呑になってきた。
「それでは分割して西側を長州が幕府の代わりに治めようというのかい」
「いえ天朝様が」
「長州だろうよ、人形遣いは」
「…」
「お座敷ありがとうございます」
入ってきたのは皆にお馴染みの喜八という幇間だ。
「おや皆さんツンツンして、男同士の酒はすぐに口論さ、ササ、騒ぎ唄でもやりましょう」
「ほらみろ、これが江戸の粋よ、言い過ぎたのは謝るよ、心地を直して飲んでくれ」
春山がからっと言うと東条も謝った。
「私も若輩のくせに大言を吐きました、面目ない」
「おやまあ、喧嘩の手打ちの会ですかい、謝りながらの酒は旨くはござんすまい」
しかし8月になって三郎助は長崎海軍伝習所に出張することを命じられた。小五郎との交流は一月半だけで終わった。
維新の後、桂小五郎は明治の元勲となって木戸孝允と名を改めた。三郎助の死が伝えられると涙を流して懐旧談を話し、残された妻女に惜しみなく援助を差し伸べたという。
安政2年、幕府は海軍伝習所を長崎に開くことに決め勝麟太郎を取締りの一人に任じた。もちろん勝は一番の末席だ。剣術こそ免許皆伝だが蘭学を少し学んだばかり、しかし海防についての意見書が阿部老中の目にとまったおかげだ。
中島三郎助には実績がある。
「小者を連れて行っていいことになった、若党の長蔵は絶対に行かないと言っている、ということは景三郎、お前、行くか長崎へ」
「はい喜んで」
与力の柴田伸助も年齢を理由に辞退した。
長崎にヘデー号ファビウス艦長とスンビン号ライケン艦長が来航し、スンビン号は幕府に献上され観光丸と名づけられた。長崎奉行永井尚志は出島を見下ろす丘の上に海軍伝習所を作り、塩飽から水夫を地元から釜焚きを集めた。ライケン艦長は観光丸を使って伝習を始めた。幕臣50人他に佐賀藩士ら48人が参加した。
安政4年3月伝習を終えた一同は観光丸に乗って江戸まで航海した。22日間を要した。8月、発注したヤッパン号が到着してカッテンダイケ艦長はそのまま第二次伝習所教師団長となった。幕臣90人の中には榎本武楊もいた。続いて第三次の予定だったが、井伊大老は財政難を理由に安政6年に伝習所を閉鎖した。同年、安政の大獄が行われた。
ささいなことがきっかけとなって三郎助と勝は激しく対立した。しかし吉田松陰が仲裁をしてくれた。
「得がたい人がケンカをしては天下国家のためにならず」
吉田松陰の磐石の一言だった。
安政5年コロリという疫病が流行した。医師は異国船、異国人が往来して病原菌をもたらしたと推測し、懸命に治療したがたくさんの人が死んだ。南天と梅干を煎じて飲めばいいなどといういかがわしい風説が横行した。
浦賀にも諸国の医師が治療法を求めてやってきた。
その日、奉行所を訪れたのは上州七日市藩前田家の医官だという青年だった。城下の疫病の流行をなんとか抑えようという藩主の命を携えて訪ねてきた。三郎助が対応した。
「それで赤松殿がお使い役か」
「腕には自信がありませんが足は確かなものですから」
「江戸では大変なようですがこの浦賀にはまだ患者は出ておりません」
「そうですか、ペリーは処方を残していきませんでしたか。三郎助殿は長崎伝習所でお役を務めていらっしゃる時に様々な研究をされたと聞いております。コロリのことは何かご存知ではありませんか」
「私もオランダ人士官とか長崎蘭医とかに訪ねまわったが良い薬はないようです。ただ病人から直接に感染するので手を触れたときにはよく洗い流して予防することが大事です。病人は激しく下痢と嘔吐をしますから気をつけた方がいい。書いてもらった処方もあるのでお見せします」
ともかく旅の疲れをやすめてくださいと三郎助は我が家に誘った。赤松は目ざとく俳書や歌集を見つけた。
「三郎助殿は俳句和歌にたしなみがございますな」
「父譲りです」
「拙者も父譲り祖父譲りで和歌と狂歌をとりまぜて楽しんでおります」
「それは頼もしい」
「私の祖父は江戸の通人仲間でした、浮世絵師の喜多川歌麿などと朋友つきあいをし蜀山人先生とも懇意でした。『網雑魚』などという狂歌集を残しています。お笑い草ですが奇々羅金鶏というのが祖父の狂名でござる」
「この地には蜀山人お孫さんの大田戴陽老人が健在ですよ」
「それは奇遇、奇々羅金鶏の孫とご紹介いただけませんか。祖父は他界しておりますが父は喜ぶことでしょう」
その話を伝えると翌日に戴陽がふらりと現れた。
「金鶏さんか、名は聞いているよ。たしか喜多川歌麿が描いた百千鳥というきれいな絵本があったね、鳥尽くしの狂歌が載っていたよ、編纂したのが金鶏さんだ」
「父は銀鶏、私は孫なので銅鶏と名乗っております」
「なんと言ったっけ、金鶏さんが浦賀の景色を狂歌に詠んだね、帆柱は…」
「よく覚えていてくれました。
帆柱は海のかための棒つきか
すきまもあらぬ桐の立ち番
ここに来る間、拙者も口ずさんでおりました」
「なるほど、それはいいや、そうだ三郎助さんも仲間に入って鶏という名をもらえばいい、木鶏はいかがかい、荘子曰く、眼前のニワトリは木彫りのように動かず、物に動じることなければ恐れるものなし」
三郎助は思いがけず喜んだ。
「そいつはありがたい、末永くおつきあいいただきましょう、名前を頂戴して幸いです」
そこに肥前屋が酒と肴を丁稚に持たせてやってきた。三郎助は同席を勧めた。
「これは商売むきの話になりそうだよ」
「コロリ治療に良く効く薬種はアメリカ・イギリスにもないようです。ただ日進月歩の国ですからいずれ開発するでしょう」
「それさ、鎖国でござい皇国でございと偉ぶっていては取り残されるばかりだよ」
「医師は薬と治療法がほしいだけです」
「それで赤松殿は漢方医でありながら開国を望むわけですね」
「左様、医は仁術、病人のためになるなら」
戴陽が皮肉な表情を浮かべた。
「肥前屋さんは商いのためになるならと言いそうですね」
「戴陽先生、まぜっかえしてはいけません。朝鮮人参をご存知ですね」
赤松がたしなめたので戴陽は恐れ入った。
「高価なものだ、一本三両もしようか、親孝行な娘が身売りをして病気の父に飲ませたという話がたくさんある」
「あれがアメリカで取れるのです」
「なんと」
赤松の言葉にまず肥前屋が驚いた。
「朝鮮や清国のものだと思っておりました。我が国でも六代将軍様が奨励して信州で少しできるようになりましたが」
「我が国に届く朝鮮人参は十のうち八、九がアメリカ産だといいます」
「それはまことですか。すると長崎へは回り道をしているのか。清国や朝鮮が仲介の利を得ている、ならアメリカから直接買えばこれは安くなりますな」
「以前、わが師が急病にかかった清国人を治療した時に直接、話を聞いたそうです。自分の持っている人参は紛れもなくアメリカ産、もちろん西洋医学が進んでいるアメリカではそんなものは薬にしない。だから辺境の者が山野で取ってきたのを清国人が買い取る。近頃は野生のものが減ったので畑で作ることを始めたそうです」
「驚いた、では開国して朝鮮人参をアメリカから直接に運んできましょう」
「安い値段でね。そればかりではない、たくさんの物産が直接に浦賀に運ばれてくる。機械も布も薬もなんでもです」
「その代価は何で払いましょう、金か銀か」
「清国が我が国の干しナマコやフカヒレを喜んで買い取るように、アメリカの欲しがるものがたくさんあるでしょう。それは開国してみれば分かることです」
一同は酒を飲むのも忘れて考え込んだ。世界は広く物の価値観も異なる。アメリカでは無用の朝鮮人参が日本では小判で支払うほどの値段になる。日本の何かもアメリカでは底知れぬ価値があるのかもしれない。そんなことに気づいて肥前屋が聞いた。
「アメリカにも干鰯がありますか」
三郎助が笑って言った。
「グアノとかいう鳥の糞を掘り出して使っているようだよ」
「おやおや、では私らは鳥糞問屋になりますな」
「干鰯だって木綿の肥料にする前は誰も獲らない雑魚だったでしょう。それがこれだけ売れているのです」
「干鰯屋などやっている時代ではありませんな、もっと良い物がどんどん入ってくる。赤松様は何だと思われますか」
「私は医師ですからアメリカ医師がどう治療しているか知りたい」
「なるほど物でないのも入ってくる、手わざや方法ですね」
三郎助も勢い込んだ。
「大砲と船だ、これがなければ貿易は無事にすまんのだから」
温厚な赤松は別の心配をした。
「戦争に巻き込まれないための交渉術も大切です」
それは商売人の肥前屋にはよく分る。
「言葉が通じなくては元値を見切り言い値を値切ることもできません。言葉の技も磨かねばなりませんな」
「それぞれが持ち場でがんばるということだ。移り住む場所も増えてきそうですよ」
「戴陽先生、一番槍でいかがですか」
赤松は我関せずの顔で酒を飲んでいる戴陽にふった。
「おや厄介者にされましたな。では土産は銅鶏と木鶏とどちらがアメリカ人の好みか選んでもらってはどうかな」
「戴陽さんも洒落がきついな、もっとも難船となれば浮くのは木鶏ですね」
赤松が言うと肥前屋が苦笑した。
「船乗りに向かって縁起が悪いことを言ってはいけませんよ。ただキリシタンを手引きにして我が国をぶん取るのではないかと心配です。なんでもイギリスが清国にアヘンを売るので困った清国がそれを断ったから、しめたと戦いをしかけて広大な領地を奪ったと聞いておりますが」
赤松は考え深げに言う。
「そこが幕府のがんばりどころです。毅然とした態度で交渉してください。しかし今の幕府ではだめかもしれない。なら勤皇でもよい、国のためになるようしっかり交渉できる役人が必要です」
戴陽がまた茶化す。
「勤皇開国か、なら佐幕攘夷を唱える者もいてもいいや」
赤松は真面目に考えている。
「アメリカ人参で病気が治るならすばらしい、私は世の中が変化するのを喜びますぞ」
三郎助は懐疑派だ。
「保守頑迷で手のつけられない石頭を治す薬があればいいんだが。しかし世の憂いは病気ばかりではない。取り組む相手が異国なら思いの他の技をかけてくるだろう、赤松さんはどう思うね」
「第一が学問、敵を知り味方を知れば百戦危うからずですよ、三郎助殿」
「なるほど卓見だが勤皇には不安がある。薩摩長州の倒幕は関が原の合戦の遺恨を晴らすのが目的だというぞ」
肥前屋が庶民の歴史観を示した。
「東西はせめぎあってきました。源頼朝は東国へ、足利尊氏は西国へ、徳川はまた東国へ、そして今は西の風が強くなって朽ちた巨木を倒そうとしています、因果は巡ります。ご一同様、酒にしましょうや」
いつものように戴陽老人は縁側に座っていた。昼も夜もそこにいるのではないかと思われるほど静かな姿だった。
「ご本尊様よりも尊いお姿ですな」
三郎助はつい余計なことを言う。
「私もすっかり成仏したようで、南無妙法蓮華経」
あわててご安泰で結構ですなどと世辞を言い土産に持ってきたクサヤの干物などを差し出した。
「大島から舟が入りましたので酒の肴に」
「クサヤだけは口に入れなければ価値が分からない」
焼くときに強烈な匂いがするのでクサヤは人迷惑な食べ物だ。
「寺方では困りものでしょう、冷めてもうまいクサヤですから浜で焼かせます。ところでご老人、このごろ流行るチョボクレってのは何なんですか」
老人は右手をゆっくり上げて口元に持っていったがキセルを持っていないことに気づいて薄く笑った。ゼンソクの三郎助を気づかってタバコは吸わないことにしたのだ。
「されば山東京山先生の書き物で『教草女房気質』チョボクレの流行を書いていなさる。元は願人坊主の飯の種、時事風刺が俗受けして一文二文のお布施にあずかる目出度い唄さね。桜田門のときにも大いに流行りました。これこれ皆さん聞いてもくんねい、わっちもこのごろ井伊こと聞いたよ」
「さすが先生、博覧強記」
「論語よりも役に立つ、寛政の改革では松平定信に、天保の改革では水野忠邦に我が家はいじめられたものですよ」
「たった四杯で…」
「あれはわしではない」
老人は不愉快そうだが三郎助はニヤニヤ笑っている。
「ペリーと結んだ条約の批准のために遣米使節を送るそうです。護衛艦は咸臨丸で軍艦奉行の木村様が提督、勝さんが艦長、乗り組みに私の名前も出ているようです」
三郎助の気持ちがはずんでいるので戴陽もうれしくなった。
「ところでお目付けの小栗様というのはどういう方でしょうか、勝さんとは仲が悪いとも聞きましたが」
小栗上野介はこの時に豊後守、代々が又一を名乗る旗本の名門、武芸に優れ機略に富むという評判だった。
「なかなかこみいったいきさつがござんしてな」
たとえ下っ端でも幕臣は人事に関心が深い。お役につけば相応の扶持が加算されるから、偉くなる人には取り入らなければならない、そのために必死に情報を集める、戴陽老人はそれがいやだった。
「小栗殿は部屋住みのうちから武芸で見出され、家定将軍の使い番だったのを井伊直弼殿が引き上げられた。井伊殿も長いこと部屋住みだったのでねある時、親しく話をしたのがきっかけだそうだ」
「そういえば勝さんはオランダ語を話すので引き上げられたのでしたな」
「勝さんは貧乏旗本だが老中の阿部殿に見出されました」
「どうして二人は仲が悪いのですか」
「阿部殿を追い落としたのが井伊大老です。次の将軍を家茂様か一橋の慶喜様かで争った結果です。それに阿部殿は開国を進めたので譜代の大名はそれが気に入らない。」
三郎助は複雑な思いになった。軍艦と大砲を造らねば外国に負けるというのが自分の持論だが攘夷か開国かでは気持ちが揺れている。世間のうわさでは老中阿部伊勢守はペリーに脅されて開国したという、それが事実無根なのは現場にいた三郎助がよく知っている。では何のために大金をかけて軍艦を造るのか、そこで自分は迷ってしまうのだ。敵を撃退する武力を持たねば攘夷はできない、そのためには開国して異国人に学ばなければならない、これが矛盾だ。朝廷はわざと無理難題を言って幕府を困らせるが、その裏には薩摩と長州が、さらにその裏にイギリスがいる。だから宿敵のフランスは幕府を後押しし、オランダはあれこれ口をはさみ、ロシアが欲をむきだしにして迫ってくる。しかし今の相手はアメリカだという、どうなっているのか分らない。
「小栗様はアメリカのことをどう思われているのでしょうか」
「アメリカの宿敵はイギリスです」
「すると遣米使節の目的は薩摩、長州と組むイギリスを退治することですか」
「しかし井伊大老は攘夷論です」
また分からなくなった。攘夷論の持ち主がアメリカに使節を派遣するのはなぜか。
「私には分かりません」
戴陽老人は笑った。本心を隠して三手も四手も先を読もうとする政治というものを心底から嫌っていたからだ。
「勝さんなら分かっていますよ。ただし小栗殿の敵ですけれどね」
「どうして艦長にして同行するのですか」
「それが政治をする者の懐の深さとも人の悪さともいうものです。三郎助さんは真似せずともよろしい」
三郎助は、小栗殿なら勝麟太郎の考えについていけない自分の疑問を解いてくれるかもしれない、使節の一行になればそんな機会があるだろう。三郎助はいよいよ心が軽くなった。
しかし中島三郎助は遣米使節には選ばれなかった。
万延元年5月 遣米使節の護衛艦咸臨丸が浦賀に帰った。
三郎助は持病のゼンソクの発作が止まらず床の上に正座したまま朝を迎えた。今日は岡田井蔵がやってくるというので気持ちが高まって余計に咳がひどかったのだろう。煎じ薬の匂いがする。麻黄やヨモギなどの干からびた草や根が土瓶の中で煮詰まっていく。
女房のスズに愚痴をこぼした。
「こればかりは蘭学医の先生も薬がないと言っているよ。コレラとゼンソクには医者も泣くそうだ」
「鎌倉武士の佐奈田与一はゼンソクが災いして敵に討たれたというが、おいらもそうなるのかね」
「石橋山に佐奈田霊社があってご利益あらたかだそうですよ」
「行ってみようかね、こうやってゼイゼイやっていると皆の迷惑だ。なにをお供えすればいいんだい」
「のど笛が通るように飴がいいそうですよ。笛や尺八の楽師とか木遣りや役者の衆も参詣しています」
「舟で真鶴まで漕ぎ出せばすぐだろう」
「そんな遠くまで行かなくても森戸明神におせき稲荷がありますよ。ここも霊験あらたかだとか言います」
岡田井蔵がやってきた。
「ようやくお役御免になり帰郷が許されました」
「なにしろ大変だったね、出航前までごたごたしたそうだな」
勝麟太郎は朝陽丸を随行艦と決め幕府も承諾していたが、突然、観光丸の方が大きいからという理由で変更になった。外車船では不向きだと勝は説明したが理解されない、誰かが賛成すると他の誰かが反対するという幕臣の人間関係が原因だった。さらに、また変更になり咸臨丸になった。
木村が副使となり軍艦奉行摂津守2千石と禄高が倍になった。勝は軍艦操練所教授方頭取禄高2百俵とこれも倍になったが提督でないことに激怒した。
安政5年6月 三郎助は講武所教授となり12月に下田を視察した。父の清司は与力を辞職し次男の英次郎が与力になった。長男恒太郎は早くから台場に勤務している。
下田の役人たちが土地で一番という料理屋に招いてくれた。
「なるほど粋だねぇ」
二尺もある大きな丸皿に鯛の塩焼きが載っている。その皿の模様が藍一色で濃淡が見事に奥行きのある絵になっていた。三郎助は目を見張った。料理屋の主人が挨拶に出た。
「伊万里焼の染付鶴丸文の大皿です。昔は古伊万里などと申して藍一色だったのが色絵になり、しかし近頃、また藍に戻ってこんなものを焼くようになりました。異国の方もよく買ってくれるそうです」
主人がいくぶん声を押し殺して言うのが得意そうだ。
「おいらも長崎勤めをしたから伊万里は見ているよ」
「これは店自慢の品でして、めったなお客にはお見せしません。御用の旦那様方ですのでご賞翫いただきたいと存じまして特別にお出しした次第です」
主人の言葉に慇懃無礼な響きを感じて三郎助は頭に血が上るのを感じた。このごろ怒りやすくなったことを強く感じているのだが抑制がきかない。
「そりゃ結構なもんだ。といっても、持ち上げて叩きつけたら割れるだろう」
「ご冗談様で」
「漁師が客なら恵比寿大黒の絵にでもしておきな、鶴丸なんぞは奥山にやっちまって鹿の糞でも乗せておけばいいんだ」
上座の役人が驚いて取り成した。
「猿丸太夫で洒落たところなぞは三郎助殿のお手並みだが、この皿は白地に藍の一色、花も紅葉もなかりけりの風情で粋だよ。下田にはとびっきりの諸国の物産が集まるのさ。ご主人、恵比寿大黒はないのかい」
「実は網元さんに頼まれていたものが出来ておりまして、依頼主よりも先のお披露目ははばかり様ですが、旦那様方ですからお目にかけましょう」
またもったいをつけながら主人は奥に入っていった。皿には釣った鯛を小脇にかかえた恵比寿とそれを見て満面の笑顔の大黒が描かれている、神楽そのままだ。しもぶくれの顔と柔和な目元に気品があり一面の青海波の模様にも乱れがない。輪郭を白く残し藍で染めた中に濃く線を引いた波が幾重にも重ねられている模様は大海に船出して眺める大海原そのものだ。潮の匂いと船酔いをいっぺんに思いだした。
「まったく網元なんぞというのは傍若無人だよ、神様の顔の上に刺身を並べて食うのかい」
憎まれ口を言っているが三郎助は絵から目が離せなかった。
「染付っていうのかい、結構なものだ」
「異国では飾り物にするそうです」
「こんな良い物をこしらえる国だもの、開国すれば取られ放題だな」
「逆に高く売りつければお国のもうけになります」
「商人や職人はいいよ、売り買いで飯が食える。船にも乗れず大砲も打てない武士なんかはいよいよ無用の長物だ」
確かにこれが当節なのかもしれない、そこで問われるのはお前はどうするのかということだ、三郎助は自問した。幕府は瓦解するといううわさだ。その時、自分はどうするのか、こればかりは人様に相談できない。今はせめて気力だけを確かに持っていたい。
浜名主、長島雪操の屋敷は広々とした田んぼに囲まれている。稲穂を渡る風が気持ちよい。案内を乞う必要もない。三郎助はずかずかと庭先に入っていった。座敷に紙がのべられて雪操は絵筆をにらんでいる。
「眼光鷹のごとく、ご老人は壮健ですな」
「なにを言う、貴公より三才上なだけです」
「しかし風格といいヒゲといい老大家です」
「ヒゲ白く髪薄くなったのは坂のせいだ」
「年の坂いくつも越えた不破の関守」
「茶化してはいけません、親父の始めたあの坂の開削工事です、土地は固いし出水はあるし難儀しております」
「世人は尻こすり坂と言っておりますな、荷車の尻がつかえる、馬もいやがる急坂です」
諸民通行の便にと父六兵衛が始めた坂の切り広げを雪操が続けているが一名主には手に余る工事である、それでなんとか公儀の普請にしてもらえないかと三郎助に頼んでいた。
「いい返事はありましたか」
「この度のペリー来航から順々に海防を説いて、久里浜から野比まで海から離れた道の必要を進言しました。趣旨はもっともなれど諸事物入りが多くてといつもの返答でした」
「目先の急しか考えない、困ったことです」
「愚公山を移す、がんばりましょう」
「わしは愚公、貴公は木鶏、まったく煮ても焼いても食えませんな」
親しい二人の冗談だった。
「あの浦賀奉行の浅野様はどうしておられますか」
「井伊大老に疎まれましたが桜田門のあと北町奉行から西丸留守居になりご隠居されるといううわさも聞きました」
三郎助の父の代、雪操はこの奉行にたくさんの南画や俳画を見せてもらい、絵の心得を学んで画人となったという。
「思慮深い立派な方でした。幕府に人材がないというのはウソで、適所につかせないので今こうして泥沼になっています。木鶏殿も夜明けの刻を告げたらどうですか」
「雑木のニワトリで朽ち果てています」
「シイタケくらいは生えるでしょう」
ふと雪操は思い出す人がいた。
「シイタケといえば北斎はどうしております。ものぐさなくせにあちこちにヒョコヒョコと現れ、見かけもキノコみたいに薄汚れた老人でした。葛飾を名乗る浮世絵師ですよ。昔あの人に一喝されました、なぞるだけなら塗り絵だとね。描く絵に魂を入れることを分からせてもらいました」
「ペリーの来る4年前に亡くなっています」
「きっとそれは羽化登仙だね、生きているうちから仙人でしたから」
文久3年 三郎助は浦賀に幕府の石炭置き場を造ることを命じられた。館浦の砲台築造、大砲鋳造と次々に幕命が出る、それも片時も離れず工事を督促せよという厳命だ。機関方の岡田井蔵が運航する蒸気船が常磐炭田から石炭を運んでくる。ようやく完成すると幕府は功をねぎらい三郎助を軍艦頭取出役に昇進させた。
小栗上野介も必死だった。幕府が諸外国から買い入れた艦船は44隻、その値333万6千ドル、同様に諸藩が94隻、449万4千ドル、どれも使い古しのボロ船が多い。ついに小栗は日本が自前で蒸気船を造ることに踏み切った。かねてから一橋慶喜に食い込んでいたフランスが依頼を受け本国に伝えるとナポレオン三世はすぐにヴェルニー技師を派遣することにした。フランス公館は軍艦で江戸湾を測量し、水深が深く防御しやすい横須賀に工場設置を進言した。地形がツーロン軍港に似ていたからでもある。
製鉄所建設が決まり浦賀奉行所はてんやわんやだった。通達が昨日と今日ではもう変わる。その上、小栗はじっくり物事に取り組む人ではない。役職もめまぐるしく変わり、今はどんな役目なのか幕臣にも分からないほどだ。遣米使節でアメリカに渡った後は、外国奉行、小姓組、勘定奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、海軍奉行、その後が寄合という旗本の失職者の仲間入り。怒ってやめることもあれば変わり身の術をつかって退散してしまう時もある。無茶をするのは勝麟太郎とよく似ているが二人は相容れなかった。
実務は函館奉行所の医師だった栗本瀬兵衛が抜擢された。フランス公使ロシュの通訳で宣教師カションの親友だ。
三郎助が奉行に呼び出された。
「そちは数度の台場普請に功がある。この度、横須賀に製鉄所を建てる沙汰があり奉行所も出役を命じられた。大工、石工、鍛冶を率いてフランス人と応対しながらご用立てせよ。栗本瀬兵衛が製鉄所御用掛として下知される」
栗本はすぐに浦賀奉行所に表敬に来た。医者というより日焼けして鼻も口も大きく額の広い異相の田舎の大庄屋のような風貌の男だ。安政二年、軍艦観光丸の試乗に応募して排斥されたという経歴も聞いていた。三郎助は愛想良く話しかけた。
「栗本殿は蝦夷地にいられたそうですな」
「左様、安政5年2月、幕命により赴いてから10年間おりました」
そこで医学を教え薬草を育て産業を起こそうとした。
「寒いところと聞きました」
「カションに聞くと寒さはフランスと同じくらいだそうでござる」
「物産はいかがでござるか」
「雪こそ少ないがこことは大違いです。暮らしが立ちにくい土地だ」
「拙者にも住めましょうか」
「フランスに学ぶことです。牛を飼い小麦とジャガイモを育てパンを食べればいい。貴公は田畑を耕したことはござるか」
「庭で芋などは育てました」
「それでは蝦夷地に住むのは無理でござる」
三郎助はむっとして激しく咳き込んだ。
「ゼンソクでござるな。薬を服用しておられるか」
「これでござる」
紙に包んだ散薬を取り出すと、栗本は中身を改めて言った。
「チンピにカンゾウ、キョウニンといったところかな、こんな薬では直りませんな」
「仁のはじめは惻隠の心、人の気持ちを慮ってこそ仁者です」
ようやくセキを抑えてうめくように言ったがそんな言葉を栗本は気にも留めない。
「蒙古伝来の良いマオウを持っておる、服用しなさい、お届けします」
工事の打ち合わせは順調に進んだ。栗本にとって見本となるのはフランス式要塞の五稜郭だ、ようやく完成に近づいている。
三郎助はできるだけ地元の商人に請け負わせようとしたが、栗本は支出を抑え仕事をはかどらせるため入札で競争させようとする。2人はしばしばぶつかり、その都度、三郎助はゼンソクの発作を起こした。栗本は自分の薬が効かないことをいぶかっが、三郎助がもらったマオウを燃やしてしまうことなど知らなかった。
三郎助は勝麟太郎にも小栗上野介にも不快を感じ、それと同じくらい栗本瀬兵衛にも許せないものを感じた。知恵と努力は尊敬するが心のどこかに打算があるように思える、3人とも時代の枠を越えた近代的な合理主義者で自分のカラを脱ぎ捨てた人たちだ、それも反発の種だ。三郎助は明日もあさっても同じ自分でいて、それを生涯つらぬきたいと思っている。父も奉行所与力を終生勤めたことを自慢にした。与力や御家人など幕府にとっては雑草一本ほどの値打ちしかないのは分かっている、しかし、それが先祖と自分をつなぐ絆だから大事にしたい。分を守ることを徳だと教え込まれ、そこから抜け出すことができない。まさに立身出世と金儲け、合理性と自己主張の明治の時代がすぐそこまで来ているのに。
慶応元年1月、上海経由でヴェルニーがやって来た。すぐに横須賀に馬を走らせてきて細かい指示を出した。自分はこれからフランスに帰らなければならないが、再び来た時にすぐに建設が始められるように準備しておいてほしい。山を削り三つの入り江を埋め立て、土地をならして平らにする。敷地7万4千坪は浦賀奉行所の40倍の広さだ。ヴェルニーの年俸は一万ドル、750両になる、大旗本の禄だ。ヴェルニーはごく少数の人に会っただけであわただしく帰っていった。外国奉行柴田日向守とともにフランスに渡航したのだ。
それから半年、柴田が横浜に帰ってきた。船には建築担当の技師が同行しており大量の資材を積み込んでいる。ヴェルニーの船も追いかけて入港し、各部門の専門家と職工、医師など130名のフランス人が横須賀に着いた。
敷地は柵をめぐらしすっかり整備されていた。作業にあたる人々の長屋もできあがっており小さな西洋館がヴェルニーのために作られていた。材木や砂も集められている。
「ヴェルニーが大工の棟梁に会いたいと言っておる、同行せよ」
埠頭の測量をしていた三郎助に栗本からの使いが走って来た。すぐに三郎助は棟梁金太郎を伴って西洋館に入った。そこにはヒゲこそ生やしているもののまだ若いフランス人がいて、2人を見るとすぐに椅子から立ち上がり握手を求めてきた。
「準備万端ご苦労であった、よしなに頼むと申しておる」
栗本が通詞をすると堅苦しいが、ヴェルニーの言葉は明るく響き、まるで親しい友だちのようだった。ヴェルニーは金太郎をフランス式に抱擁して挨拶しようとしたがすぐにやめ、照れくさそうに大工のゴツゴツした手を握った。日本では抱擁されるのを嫌がると横浜で教えられたのだろう。
「それで早速だが普請の手順を相談したいとのことだ」
椅子を持ってこさせて一同はテーブルを囲み、ヴェルニーが図面を取り出した。
「大きな建物でござるの」
三郎助が驚いて言うと栗本が通訳し、ヴェルニーは人なつこい微笑と返事を返した。
「何を最初に造るかあててみなされとヴェルニーは聞いておられる」
三郎助はあまり考えずに言った。
「さればなんであろう、本陣代わりの屋敷と会所でござろうか」
「いや学校だそうだ」
施設よりも大切で時間がかかるのは人材の育成だ。まず日本人に製鉄所の一切を教えなければならない。技師というのは教師である。ヴェルニーはそう思っていた。
「私どもは小さい時分から親方の仕事を見習って覚えさせられました」
「昔はフランスもそうでした。しかし近代の文明の進歩は親方の持つ技術を越えていく。親方一人は数人しか弟子を持てない。しかし教師は毎年何百人にも教えることができます。すぐに日本もそうなります」
一同は感心して話を聞いたが金太郎は少しさびしそうな顔をした。すぐに察してヴェルニーが言った。
「フランスでも棟梁は尊敬されています。人間の器量までを学校では教えられません」
実務はテキパキと進んだ。尺とメートルの換算に慣れると棟梁は的確な数字で計ることができた。掘っ立て柱でいいのなら何本必要か、梁と羽目板はどう作る、屋根の広さは、瓦かスレートか、ヴェルニーは細かい注文をつけて職人はてきぱきと対応した。下水管を埋設する方法、日本は地震が多いから柱の数を増やしてくれ、釘の数はいくつ、カスガイをどう打つのか。金太郎は同じ大工仲間と話しているような気がしてうれしかった。
「水のサービスとはなんだ」
栗本がつぶやいてカションと相談する。やっと得心して一同に話す。
「たぶん江戸の上水のようなものでござろう。飲み水を宿舎に引けということだ」
「幸いここは湧き水があって不自由はござらん。台地の上は水がないが下にはしたたっている。もっとも百姓にとっては難儀な場所だが」
三郎助が答えたが栗本は些細なことだというように聞き流して金太郎に向かった。
「棟梁、費用の見通しはいかがだ」
「のちほどくわしく調べますが、ご公儀はいくらならよろしいと」
自分になぜ聞かないのかと三郎助はむっとして口をはさんだ。
「値切られては良い仕事ができませんぞ」
栗本は表情を強張らせた。
「貴公もせっかちだ、されど勘定方は相変わらず物惜しみをして千両ほどで片をつけろとわしに言っておる」
三郎助は勝に教えられたことを言った。
「安普請をしてフランス人に笑われたくはありません」
栗本は苦笑して三郎助をにらんだ。
費用は千二百両かかった。
フランス人と日本人の詰め所はずいぶん離れていた。もちろん幕府の役人が異国人のそばにいたくないからだ。ヴェルニーは、ならば学校ができたら自分たちが移り住んで役所代わりに使おうと提案した。栗本は役人たちのことを思って苦い顔になったが三郎助は笑って言った。
「我が国とフランスが近くなります、めでたい、栗本殿、フランス人は少しも日本人にこだわりを持ちませんのう」
それからヴェルニーは次々に出入りの商人を呼び品物の見本を持参させた。砂と砂利は横須賀の永嶋卯兵衛と公郷の永嶋庄輔、走水の飯島宗左エ門が請け負った。ヴェルニーが砂をなめるので一同は驚いた。カションが通訳する。
「川の砂でなければならない。海の砂には塩があるということだ」
「はい鍛冶職からもそう言われております」
「約束する、必ず百年は使える施設にする、孫ひ孫までが使うように、とのことだ」
武士は家名を大事にするが、商人も店の信用をなにより大事にする。だからその言葉に一同は深くうなずいた。横浜に出入りする商人は山師ばかりだ。まがい物でもなんでも押しつけて金さえ取れば勝ちだと思っている。一方で異国の商人たちも暴利をむさぼる。特に武器は高値で買わせて巨利を得る。しかし鉄砲も大砲も床の間の飾りではない。大量の武器は必ず戦争をひきおこす。そんな予感があって不安に思っていた一同は、今、ヴェルニーの誠実な言葉を聞き、自分の足が地についたような感じになって喜んだ。
ヴェルニーは運送を請け負った横須賀の和泉予兵衛に通路を案内させたが、人がようやく歩けるだけの道しかないことに仰天した。急な坂がいくつも続き雨が降ると深いぬかるみになる。フランスでは幅が十間ある石畳の道路に馬車が2台も3台も行き違っている、そしてそれが全国を結んでいる。道を整備するのは国の仕事だ、江戸防衛のため道を整備しない幕府は国の仕事をおこたっていると言った。そう聞いて予兵衛も驚いた。
「やがてお国もフランスのようになります。その時のために馬車の準備しておきなさい」
カションが通訳すると同行の役人は苦々しげな顔をした。しかし三郎助は当然のことだと思った、陸路で大砲を移動できないようで国が守れるものか。
慶応2年、1年余り務めた軍艦頭取出役を辞職した。諸事に気力がわかなかったからだ。そして暮には家督も長男恒太郎に譲った。
久しぶりにのんびりと町を散策して少し気が晴れた。浦賀は諸国の商人が行きかう盛り場だが、近頃は海岸警備の武士たちであふれている。宿屋も料理屋も繁盛し、それを聞きつけた芸人たちが満ち潮に乗ったホンダワラのようにフワフワと流れてくる。奉行所は風紀取り締まりに忙しかったが、芸人もなんとか役人とつながろうと手づるを求めて右往左往している。
三郎助にも腰を低くしてへつらってくる芸人が何人もいるが、決してそれは困ったことではない、芸人たちがもたらす情報は実に詳しく、酒席で交わされる内緒話も筒抜けなのだ。
「おや中島の旦那、良いお天気で。ご散策ですね、おともしましょう」
目ざとく寄ってきたのは軽業師の虎だった。大阪下りの早竹虎吉の一番弟子で虎平と名乗っている。虎吉は見物にあっ危ないと叫ばせる芸を見せて錦絵にもなった名人だ。
「ご見物の皆様、あっしは早竹虎平と申しやす、師匠虎吉は和唐内の虎に扮して出世しやした。幸いご当地にも国姓爺の虎退治のお芝居があるそうで、虎をご縁にごひいきの程、願い申しあげやす」
そんな口上を言って縁日、祭礼の舞台で芸を見せる愛敬者だ。国姓爺の芝居は下田奉行所が浦賀に移った時に伝えてきた芸能だ。
「旦那、あっしも洋行とやらをしてみたいと思うのですが、どんなもんでがしょうな」
慶応2年、ついに幕府は海外渡航を許可した。神奈川奉行所に申し出ると許可証を下げ渡してくれる。写真や似顔絵の代わりに体型とか顔の特徴が細かく書かれている、大きな印を押した人相書きのような証紙だ。
最初に申請してきたのは学者や商人ではなく芸人だった。
隅田川浪五郎は手妻の名人で紙をちぎり扇子であおぐとヒラヒラと飛ぶ蝶に見える、名づけて浮かれの蝶。20分も30分も飛び続けるが、ひらりと落ちればただの紙片だ。開港地で興行し異国人を驚かせた、あまりにも印象深くて「夜通し蝶の夢を見た」と書き残した人もいるほどだ。その浪五郎が慶応2年10月にニューヨークへ渡った。座頭の浜碇定吉は足の上に桶を10段も積み上げて、その上で子どもに曲芸させ、一瞬、桶を崩して自分の足の上に子どもを受け止めるという曲芸だ。曲ゴマの名人の松井菊次郎も行く。総勢20名にもなる一座が渡米した。
「それは結構なことだ、こんな小さな国にいては芸の腕があがらんだろう、行け行け」
「先立つもの、つまり銭はどのくらい持っていけばいいですかね」
「日本と同じだよ、お客方に芸を見せればご祝儀はくれるし船賃も無料さ」
「メリケンやエゲレスの船も同じでやすか」
「ボードヴィルといってな、船には舞台があり毎日、芸を見せるんだ、ペリーの艦隊だって楽隊を乗せていた。俺も酒を飲んでいる時にドガチャカやるので騒がしかったよ」
「それは修行にもなって結構で、航海は何日くらいでがしょう」
「メリケンなら30日、イギリスなら60日というところだが、お前はそんなに芸を持っているのかい」
「旦那、見損なっちゃあいけませんぜ、よちよち歩きの頃から仕込まれた芸人だよ、異人さんが青い目を白黒させるような舞台を勤めましょう。まずは傘を差して綱渡り、足にタライを乗せて回しますのは淀の水車、障子を立てて葛の葉子別れ、お賑やかに三味線の曲引きで行灯渡りはどでごんす」
「大きな声だな、大道で口上かい。でも船は揺れるぞ、船酔いというやつだ」
「だいじょうぶ、綱渡りなんぞは揺れた方が喜ばれます。カッポレも踊りますし居合い抜きやらコマ回しも見よう見まねだがご披露いたしやしょう」
「そんな元気があるなら行ってこい。踊りや曲芸なら言葉が通じなくても喜んでもらえるだろうさ」
慶応3年、ふたたび出仕の命がくだった。軍艦組出役、軍艦役勤方、上席軍艦役と役名が次々に変わった。幕府の命運を悟って幕臣たちは責任ある役につこうとしない。うっかり引き受けて幕府の道連れにされるのはご免だ、そんな保身のかたまりばかりだ。しかし三郎助は言われるままに役を受けた。セキが止まった時に感じるしんとした虚しさが、もうどうでもいいという疲労感をもたらした。
その日は軍艦役の務めとして供を連れて開港地を視察していた。
安政元年、日米和親条約が結ばれ諸外国は神奈川宿に本拠を置いた。しかし幕府は生麦事件の生々しい記憶から往来の多い東海道は避けたかった。神奈川奉行所も目の前の海に異国船が泊まるのを嫌って横浜村に波止場を作った。
東海道は品川で海を離れ川崎で六郷川を渡ると再び海辺に出る、そこに分かれ道ができた。横浜村は細長い砂州の内側に少しの漁師が住んでいる小さな村で、その先には屏風ヶ浦という断崖絶壁が続いている。
ここを埋め立てて、あっという間に商館が立ち並び、西洋人と中国人が立ち歩いている。洋行した榎本釜次郎や合原猪三郎の見た世界の景色とまったく同じだ。日本中がやがてそんな風になっていくのか、三郎助は考えながら歩いていく。
開港地一番の豪壮な建物は中居屋という店だが今は固く閉ざされている。当主重兵衛が失踪してから4年、銅御殿と呼ばれて異国人も驚かせた贅沢な店で天井にガラスをはめて金魚を泳がせている。壁には日本や西洋の絵が飾られており、客は靴のまま中に入って厚い絨毯の上を歩いた。
三郎助は撰之助と名乗っていたこの人物の「集約砲薬新書」という書物を熟読した。皆が秘伝とした火薬の調合と原料の吟味、製造の過程がくわしく書かれている。私利を捨て海防に尽くすという志に共感した三郎助は面会を求めて意気投合した。
「賞罰を正しく、自分になびかない者にも恵み深く、親しい者にも罰するべきは罰す、これを仁の堪忍といいます。えこひいきは人を誤らせる。君に仕えて身命をかえりみず、約を違えず、これを義の堪忍といいます。尽くすべき人にはとことん尽くさなければならない、信長や秀吉にはこの堪忍の心がなかったので没落したのです」
何回か日本橋にある店を訪ねた。表側では米や砂糖を商っていたが倉には火薬が積まれている。
「幕府をいかがしましょうか」
冗談めかして聞いたことがある。
「尊皇を柱として水戸様を立てることです」
「それで安泰ですか」
「今の江戸では士農工商がひっくり返って商工農士です。気力胆力ともに士は見下げられています。士が士にもどることができないなら商でも工でも皆を士にすればよい」
「すると士はどうなりますか」
「目を覚まして農工商になればいい」
その撰之助が重兵衛と名乗って商人となり横浜の生糸貿易で巨万の富を得た。他の者なら許せないが重兵衛なら愉快だった。その男が失踪した。原因は分からない。うわさでは井伊大老を撃ったピストルが重兵衛の持ち物だったという。水戸藩がかくまった、その前に彦根藩が殺した、いや攘夷派の浪士だと人々は面白がってうわさをした。庶民は他人の没落を喜ぶのだ。
攘夷のために開国する、これは是々非々ということで、是を取り非を捨てることには実力が肝要だ、これにも同感した。おまけに几帳面な性格まで三郎助とぴったりだった。
そんなことを考えていると親しげな声が聞こえた。
「中島様でございますか」
「やっ、下岡伝次郎ではないか、これは懐かしい。全国を行脚していると聞いたが横浜におったか。あの異国船グリーン号を描いた絵はよくできていた、おかげで俺もペリーの軍艦に乗り込む時、ずいぶん落ち着いていられたよ」
弘化三年、来航したアメリカのビッドル艦隊に父の清司が乗り込んだ時、下岡は絵の上手な足軽として同行し船内の様子を描き取った。下岡は元からの足軽ではなく、異国船を見たい一心で浦賀に来た若者で、その志を知って奉行所に働きかけて足軽に雇ったのが清司だった。
「もう17年の昔になります。お聞きでしょうか、私は今、写真師をしております」
「ほう名高い蓮杖先生とは貴公のことであったか」
「全楽堂という写真館を開いております。勝様もお撮りしましたよ」
「命を吸い取られるというぞ」
「ご冗談を。写真に吸い取られるくらいの命なら風にも吹き消されるでしょう。中島様は上席軍艦役だそうです、たいしたご出世で」
「いや重い役目で命をなくしそうだよ、写真よりも怖いな」
「名が千載の後までも残りますよ。ひとつお顔も千載に残しましょう。私の写真館にお寄りください」
物憂くて人にさからうのも面倒で三郎助は蓮杖のあとについていった。
洋館造りのこぎれいな写真館は繁盛しているようだった。
「師匠のウンシンが急に帰国したため一切を私が譲り受けました」
「苦労があったか」
「写真機の操作から薬の配合、現像ともかく全部、私が工夫いたしました」
「俺が鳳凰丸を造った時のようだ」
「中島様には相談相手がいる、私はまったく一人で考えました」
「なるほど。しかし悪しき相談相手も多い」
「榎本様が蝦夷地に国を作るといううわさですが、三郎助様も相乗りですか」
「薩長は腹立たしいし天子様にはご縁がない、先祖代々、禄は徳川様からいただいた」
「あなたは年に五十俵、私は五俵なのにお奉行様は二千石、同じご恩でしょうかな。みんな貧乏して食うや食わずでした」
「お奉行様だって二千石ぜんぶ食っているわけではない、俺も貴公も食うのは年に一石ほどだろう、禄の多少ではない」
「徳川様は正、他は邪ですか」
「正は双方にある。幕臣の多くは邪だ、薩長も同様だろう、俺も邪だが志は違う、身を捨てて邪を払うのが正だと心は言っている」
「真を写すので写真といいます。できあがった写真でご自分の真のお姿をご覧になってはいかがですか。進退をお決めになるのはその後の方がよろしいでしょう。三日後にお届けします」
3日たっても三郎助の気分は一向に良くならなかった、午後になって届いた写真を見て愕然とした。鏡と違って写真の自分は黙って凝視しているだけだ。その時その場の一瞬が変化しないままずっと残される。写真の中の静寂は恐ろしいほどだ。
「代は」
使いの若者がなにかを待っているのに気づいた。
「代は無用と先生から言いつかっております」
「少ないが蕎麦でも食べていけ」
心づけを渡しても若者は立とうとしない。
「口上でもあるのか」
「真が写っていたかどうか伺ってこいと言われました」
「写真だけに初心が見えたとお伝えください。帰りに蕎麦屋に寄って熱盛りでも召していけ、先生杖を捨てて生きれば真実は熊谷」
なにがなんだか分からずに若者はハイと返事をして去って行った。三郎助は熊谷尽くしで洒落たつもりが不発に終わったので苦笑した。ところが熊谷の連想で小次郎という名前が心に浮かんできた、芝居の中で身代わりになった息子の名だ。もし自分が北に向かったら親孝行な息子たちも同行するだろう、それを追い返す言葉はない。親を死なせる子になるか、子を討たせる親になるか。夫と子を失う妻を残すかもしれない。写真を前に三郎助はため息をつくばかりだった。
梅雨を前にゼンソクはいよいよ激しくなり衰弱してもはや職を続けることはできなかった。ひとまず休みをとって浦賀に帰った。 まずは菩提寺の東林寺を詣でた。三郎助は住職に写真を見せた。住職は真顔で言った。
「仏像には魂がこめられています。しばらく対座されよ。写真に吸い取られた魂を戻すことができるでしょう。そうそう水無月2日は寿女(ひさじょ)の命日でござった。小林一茶のことはご存知でしょう、書棚には冊子もあります。お退屈になったらひもとくとよいでしょう」
そういい残して住持は庫裏に戻った。
天明2年という昔、まだ20才の若者だった小林一茶はここ浦賀で好きだった女性と死に別れた。
夕立の祈らぬ里にかかる也
香誉夏月明信寿信女という戒名がこの寺に残っている。一茶は度々ここに来て懐旧の思いに沈んだという。
住職の言うとおり寺小屋の書棚には冊子がいくつも積んであった。
「おやこんなところで重兵衛殿にご面会か」
『子供教草』という冊子は中居重兵衛が書き寺子屋の教科書にした往来物だ。なにげなく表紙を開いて序文を読んだ。
いかほど家は古く系図ただしくとも、財宝豊かならざれば思う志も通らざるものなれば、なにとぞ金銀を多く蓄えられるべし。
確かにこれが当節なのかもしれない。うわさどおり幕府が瓦解する時に自分はどう考え何をするのか。せめて気力だけは確かに残しておきたいのだが、中居重兵衛と話がしたかったけれど生死も分からない。
慶応2年、秋になって西叶神社前の砂糖問屋湖幡屋の樽の中から大神宮のお札が出てきた。名古屋から始まって世の中を騒がしている「ええじゃないか」騒ぎだ。湖幡屋が奉行所に届けた時にはもう町中が大騒ぎになっていた。子どもから年寄りまでが浮かれて表に出て手振り面白く、ええじゃないか、ええじゃないかと歌って踊る。手の振りは盆踊りとも違うが歌は俗謡の節だ。
道にはお札が散らばり人々は吉兆として拾って神棚に上げた。近郷からも多くの人が浦賀にやってきて酒食を強要した、町は大混乱になった。
すぐに奉行の下知がくだり、与力と同心が騒ぎに乗り出していった。三郎助は隠居だったので関わりはないが野次馬になって愛宕山から浦賀の通りを見下ろしていた。通りには激しくほこりが舞い上がり人が右往左往している。ええじゃないかの声が騒がしく聞こえてくる。
「騒々しいこってすな」
同行した同心佐藤九蔵が眉をひそめた。
「盆と正月が来たようだ、祭礼だな。神輿の先には金棒引きがいる、これだけの騒動だ、から黒子がいるよ、町人をあおって一揆沙汰を起こして得をするのは誰だろう」
「元締めを極めるのは上の方たちですが私らはお先走りをつかまえましょう」
「あれを見な、曲者だろう」
行列のずっと先の浜辺に頬被りをした男があたりを伺っている。
「火付けをするかもしれない、ふんじばってしまったらどうだい」
「心得ました」
三郎助はふと海軍伝習所の馬鹿騒ぎを思い出した。諸藩から選抜された若者は家と藩の重しが取れたうえ、長崎の歓楽に魅了されて大はしゃぎをした。三郎助は監督元締めの勝麟太郎に苦言を呈したが、本人からして磊落で遊び好き、本気で取り締まる気はない。三郎助は心にしこりが残った。夜遊びが過ぎて教習に身の入らぬ生徒たちに異国人の教官が怒り出して規則は厳しくなった。それが不満でこっそり抜け出す者もいた。
「そうだ阿波の侍があんな踊りをしてみせていた。歌の調子も似ているな」
阿波徳島藩主は家斉将軍の22番目の息子、子どもがたくさんいすぎて養子に出す口がなくなり外様大名に出された。公武合体論者でイギリス式軍制を取り入れ、幕府の陸軍総裁に補されて大金を費やし藩の財政を破綻させた。不満を持つ藩士は地続きの土佐勤皇党に逃げ、使い走りや汚れ仕事をしていたという。
「阿波の踊りはあんな振りだったよ」
両手を顔の高さに上げて腰を落とし体をくねらせガニ股で前に進む。竹棒を叩いたり笛を吹いたりして声をそろえて叫びながら踊っていく。
「その時は大笑いでみんな一緒に踊ったもんだがな」
古くは一遍上人の始めた踊念仏、僧と俗人が一緒になってナムアミダブツと叫びながら踊り続ける。近世には跳んだりはねたりの田楽踊り、死者の精霊とが一緒に踊る盆踊り、昔から人間というのは踊りたがっている。
「よし俺も一緒に踊ってみようか、古人曰く虎穴に入らずんばという」
腰が浮いたところに九蔵が遊び人風の男を捕らえてきた。
「旦那、大神宮様のお札を持ってますぜ」
ふところから数十枚のお札が出てきた。
「きっと拾ったというのだろう、それで結構だがな、ここ浦賀は無宿人には厳しいぜ。百叩きだって真似事ではない異国仕込みの痛いやつさ、試してみるかい」
九蔵の脅しに男は目を見張った。
「誰に、という一言だけでいい、放してやるよ、誰に…誰にだ」
三郎助の迫力に負けて男はつぶやいた。
「三田の辻で、二本差しに、撒いて歩けと、おいらは浦賀、連れは小田原だ」
「五両か」
「とんでもない、二両です」
「九蔵、お奉行に報告しろ、この男も連れて行け」
「だって言えば放してくれると言ったぜ」
「今すぐにとは言ってない」
三郎助は着流し無刀のまま下駄をつっかけて踊りに加わった。楽しそうに踊っている女子どももいれば、きれいな娘を探してより添っていく若い男もいる。大口開いて叫んでいる職人の隣には目付きが悪い男がいる、スリのようだ。
「案の定、信心なんてヤツは一人もいない」
人混みにもまれながら歩いていくと嫌なことを忘れて気持ちがすっきりしてきた。両手を頭の上で振り大声を出して叫んでいるスキだらけの自分が愉快だった。
「これは気持ちが裸になる、湯に入るのと同じ効能だ」
俺にだって苦労があるさ、恨みそねみもある。金もないし第一このゼンソクだ。ええじゃないか、こういう境遇にいるのもええじゃないか。異国船が来たって大砲で脅されたって徳川様の屋台が傾いたって薩長がのさばったってええじゃないか。はっと気がついた。三田の薩摩屋敷には諸国の浪人が巣くって事あれかしと狙っている。
「うまくやりやがったな」
油っ紙に火がついたような騒ぎはしばらく続くだろう。公儀がこんな目くらましに振り回されている時に策謀家たちは何を起こそうとしているのだ。
「浦賀では勝手にさせない、鎮めてやるぜ」
しかし、これは奉行所の手に余った。船の積荷改めを強化して問屋連中を警戒させたり、諸藩士の往来を検閲したり、市中見回りを繁々と行い威圧しても効果はなかった。庶民の巨大なエネルギーを無為なことに発散させたいのは尊王派ばかりでなく幕府も同様だったからだ。庶民が余計な口出しをしたり利を求めて動いたりしては世の中が混乱する。だから庶民は、ええじゃないかと踊っていればそれでいい。庶民と一緒にええじゃないかと浮かれ回っているのもええじゃないか。そんなことを思った。
あの桂小五郎の顔を思い出した。今はどこでどんな働きをしているのか、自分のことを覚えているだろうか。
慶応2年12月に慶喜は十五代将軍に任官し、追うように孝明天皇が崩御された。
慶応3年正月に新天皇が即位されて薩摩と長州のふるまいはいよいよ横暴になった。慶喜将軍は大坂城に入り朝廷との駆け引きと開港交渉で大わらわだった。強い為政者がいてこそ民は安心して暮らしができる、井伊大老が信奉し小栗上野介が受け継いだ政策は実施されず、と言って阿部老中のように時機をとらえ果敢に判断する柔軟な思考の持ち主も姿をひそめた。将軍に進言する者は小栗上野介と勝麟太郎しかいない。もっとも将軍は才を誇り臣下の言葉は寄せつけないのだから仕方ないと世間は言っている。上、上にあらざれば、下、下にあらず、こんな風潮は浅ましいことだと三郎助は思っている。こんがらかってしまった自分の気持ちを解きほぐしてくれる戴陽老人も亡くなってもう七回忌が過ぎた。
慶応3年1月 ようやく幕府は軍艦を買いつけることを決めて小野友五郎をアメリカに派遣した。福沢諭吉も同行した。南北戦争で南軍がフランスに発注したがとうとう間に合わなかった軍艦ストーンウォール号だ。
小野は長崎伝習生、咸臨丸航海長でアメリカに行き、その後、艦長になって小笠原を調査した腕こきの船乗りだ。横須賀製鉄所にも力を尽くしている。
福沢諭吉が浦賀を訪れた。三郎助は喜んで話を聞いた。
「船の中で問題が起こりました」
福沢はもらった支度金で原書を買い込み帰ってから原価で売ると言明したのだ。しかし国益係という役人が、それを高く売って国の儲けにしろと主張する。では国が商売をするのか、そうではない国益だ、なら私が儲けさせてもらうがそれでいいのか、幕府に損をさせてはいけない、議論は沸騰した。穏健に仲裁する者もいた、こうして幕府から費用をもらい食ったり飲んだりしているのだから、その幕府をつぶしては気がすまないだろう。しかし福沢は過激だった。とんでもない、俺が横文字を知っているから幕府は用いるのだ、つまり雪駄直しが屋敷に出入りしているようなものさ、遠慮なく壊してしまえばいい、誰が壊すのか、俺はその先棒にはなりたくない。今、世の中を騒がせているのは長州と薩摩の浮浪の徒、あんな奴らに天下を任せたらどうなるんだ、誰かが叫んだ。幕府はしぶしぶ開国を行っているが本心は攘夷だから台場を作っているのだ、勝麟太郎が兵庫に造っている七輪みたいな台場か、一同は殺気だち一触即発となった。
「ハッハ、そんなことを大声で言うものですから、苦々しく聞いていた者も回りにいたのでしょう、それで謹慎です」
「でも出歩いているではないか」
「出仕は止められています。暇ができたからこんな本を書きました」
『西洋旅案内』という冊子だ。
「ソリャアどうもとんだ事だ、この忙しい世の中にお前たちが引っ込んでいるということがあるものか、すぐに出ろ」
「出ろったって出さぬもの、出られないじゃないですか」
「よろしい俺がすぐに出してやる」
三郎助は稲葉老中にかけあい、すぐに謹慎は解かれた。有能な人材は幕府に数少なかったのだ。
あれやこれやのうちに、慶応3年10月に大政奉還という不思議な出来事が起きた。慶喜将軍は朝廷に施政者の地位を返還し、諸侯の一人になって江戸幕府を終わらせることにしたのだ、諸侯が連合して政治を行う体制になる。ところが12月に入ると朝廷は王政復古を叫び、幕府を滅ぼし権力の一切を手中に収めようとした。そして薩長土肥の兵を官軍として江戸に進撃させた。
浦賀奉行所では与力も同心も事態がさっぱり理解できなかった。
「拙者は分からないよ。なぜ幕府が賊になるのさ。誰がこんなことを決めたのだ」
「建武の時に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したのと同じさ」
「では足利尊氏は薩摩かい長州かい、室町幕府ができるのかい」
「馬鹿言うなよ、天子様が親政するんだよ」
「だってまだ子どもだぜ」
「子どもだって天子様だ、ええじゃないか」
現実逃避の気分が日本中を覆っていた。
こうして浦賀奉行所も終わりとなり与力も同心も身の振り方を考えなければならなくなった。一番気楽な選択は、ええじゃないかの気分で時代に去就をあわせることだった。しかし三郎助はそれを嫌った。なんでも易きに流れる無気力、自分で判断しようとしない無責任、広く歴史に学んで将来を考えようとしない無関心、そんな気風が世の中をだめにしたのだ、怒りが収まらなかった。そして何より、三郎助は海と軍艦から離れたくなかった。
年が明けた1月、戊辰戦争が始まった。鳥羽伏見の戦いで敗北した幕府軍は大阪城に逃げ込んだ。ところが慶喜将軍は幕府軍も艦長も置き去りにして開陽丸で江戸に逃亡してしまった。撤退する幕府軍を追って3月に官軍は駿府城に迫った。陸軍総裁になっていた勝麟太郎は山岡鉄舟の仲介で西郷隆盛と会談し、江戸開城の交渉をした。4月に慶喜将軍は水戸へ去った。官軍は幕府軍艦引渡しを命じたが、榎本釜次郎は拒否し艦隊を館山沖に集結した。そこに直接、勝麟太郎が乗り込んできた。
「勝さん」
ドアを開けると日焼けはしているが相代わらずの三郎助の顔がのぞいた。
「三郎助さん、久しいの」
「談判は上首尾かい」
「お前さんの聞いておった通りだ、ドアの外からセキこむ音が聞こえてきたぜ」
「とうてい隠密にはなれないや、榎本の釜さんは気がいいから勝さんの舌先で丸め込まれるのではないかと心配して聞いておった」
「俺も幕臣だ、薩長の好き勝手にはさせないつもりだぜ」
「艦長連は血相変えていたよ、艦隊の半分を薩長に差し出せという無茶な話さ」
「四隻だけ渡せばいいんだよ」
「長いつきあいだから俺には勝さんのたくらみが分かる、連中に話してやったさ、さすがに新撰組の土方歳三は聡いね、すぐに気づいたぜ、足手まといは切り捨てろってさ」
「土方は危ないよ、一度でも人を殺したことのある者は血が煮立っているから最後は殺せばすむと思っている。官軍に返還するのは富士山、観光、翔鶴、朝陽の四隻、これが薩長への返答さ。どれも海に出るのがやっとという船ばかりだよ、長州征伐の時の幕府のお旗本同然で床の間の飾りにもならん。官軍の参謀は大原だから船の名前も知らないだろうよ」
「富士山は惜しいな、馴染みの船だ」
勝の目が光った。機敏に立ち上がり外の気配をうかがった。
「大丈夫、連中は榎本さんとガンルームにいる。榎本さんは話し始めると長い、受け答えが丁寧なんだ、勝さんのような気短かではないからさ」
「そこをつけ込まれるのさ、短兵急に過ぎるものなしだ。それで富士山を入れたわけを言おう、いいか三郎助さん、貴公が艦長になって四隻の艦隊を率いて帰順しろ」
三郎助はびっくりして目の前の勝麟太郎をしげしげと見た。この人には珍しく真面目で誠実な顔を見せている。
「新しい時代の海軍をつくる人がおらん。アメリカもイギリスも我が国をねらっている。転べば食らいつく狼だ。すこしの隙もみせられない、おやおや、これは釈迦に説法だったな、貴公もよく知っておる通りだ。ところが強面で異国人と折衝できる人がおらんのだ。同志がほしい」
あわただしく言い放つと舷側の丸窓を向いて背中を見せた。気に入らなければ切るがいいという勝麟太郎らしい意思表示だ。
「勝さん、慶喜様をどうする」
「ならば三郎助、横須賀製鉄所をどうする、フランス人のヴェルニーに造らせているがそのままフランスのものになっちまうぜ」
「俺は三浦の武士だ、三浦大介義明が俺の鑑だ」
「頼朝旗揚げの折に衣笠城で討ち死にした武者か、それがどうした」
「自分の死をもって天下に頼朝公の正義を示した。それで三浦一族のみならず関東全ての武士たちがためらいを捨てて頼朝公に従った。今、俺の相手は勝麟太郎だ」
「なんだと」
「俺は幕府に殉じて死ぬ、それが勝さんにはできまい。勝さんは自分の大きさを見ている、俺には自分の小ささが見えている。勝さんは存分に新しい時代を創れ。俺にできることは勝さんの葛藤をあの世に持って行ってやることさ、イボトリ地蔵みたいなものだ。勝さんが意地だ義理だと小汚いイボをつけていては新政府も旧幕臣も気色が悪いだろう。慶喜様にもスベスベと仕えてくれ。」
「それはありがたいが、俺たち御家人や旗本に幕府への義理なんかないぜ。人と生まれたからには自分に求められている仕事に力を尽くす、それが意地だし義理である、そう言ってくれ。今、日本という国ができかけているぞ、世界の中でも小さな国だがな」
「俺にあるのは幕府への義理だ。製鉄所も海軍も若い者がする。俺は若い者を戦場から拾いあげて次の時代の役に立たせる、それで義理が果たせる、死中に活ありだ」
「俺は三郎助さんに時代の幕開けをつきあってほしいんだよ」
「三浦大介百六つ、俺も当年48、厄払いのセリフで言おうなら、悪魔外道をひっつかみ蓬莱山と思えども北の海へポイッと、奴らに勝さんの足は引っ張らせないよ」
「頑固者だな、臨機応変ができぬ貴公に俺はよく腹を立てたものだよ」
「勝さんこそ頑固だ、自分の考えを曲げないお方だ。いつも正しいのは自分で悪いのは幕府だった、今度はそれが新政府になろうかね」
「政事を正さなければ国が滅びる、されば人も生きられない、俺の道は一筋だ」
「道理はそうだが俺は人情が大事さ」
「そこにつけこんで頼む。若い者を殺さぬように、若い者に殺させぬように、な」
「あい、かしこまった。けれどイボを取ると勝さんも別の苦労が始まるぜ」
ばたばたと靴の音が響いて軍服の男たちが部屋に入ってきた。榎本釜次郎が真ん中に立って言った。
「仲介の労に深謝します。我らは明朝、未明に出帆。4隻の軍艦は繋留したまま残します。官軍に勝殿からお渡しください」
「航海無事を祈ります」
「貴公を切りたいと刀が歯噛みしております。機会は何度もありましたが」
陸軍総監を自負する土方歳三が笑いながら前に出た。艦長連の顔を立てるために芝居でセリフを言っているのが分かった。
「前途洋々、誉れを祈りこれを進呈しましょう」
勝麟太郎はさりげなく懐からピストルを取り出し銃口を自分に向けて土方に渡した。表情を強張らせて土方が受け取ると陰に引っ込んでいた三郎助が前に出た。
「城明渡しも無事済み申した。形見の切っ先いつまで見ていてもきりがない。弓一丁わらじ一足あと濁さずに旅仕度をしましょうや」
しかし言い切らないうちにセキが出てむせた。
「俺は座頭役者にはなれないねぇ」
一同は笑って解散となった。勝麟太郎はそのまま小舟に戻って漕ぎ去っていった。
艦橋に残っている三郎助の後ろから榎本釜次郎が声をかけた。
「三郎助殿、お二人だけの時に勝さんは何を申されたか」
「若い者を殺すな、若い者に殺させるなと。釜さん、あんたも若い者のうちですよ」
「蝦夷地に新しい国をつくることについてのお考えはありましたか」
「そんなことは話しません。勝さんはもはや新政府の人だ。そして私たちも幕臣ではない。釜さんを総裁とした蝦夷共和国の人間だ」
二人は黙って船の揺れに身を任せながら黒い海面をながめていた。
5月には上野で彰義隊が敗北した。そのまま官軍は宇都宮、奥羽へと軍を進めて行った。旧式艦を引渡し身軽になった榎本艦隊は函館に向けて出航した。
「中島さんはここを守ってもらいたい」
副総裁の荒井郁之助が地図を指差した。五稜郭の要になる場所だ。
「そいつはありがたい、なんて名前だい、千代が岡、そうかい、おいらが昔、浦賀にいたころ守っていたのは千代が崎台場だよ、ただ、ここは崎ではないやな、こんなに土塁にかこまれて息がつまるようさ」
千代ヶ岡陣屋は60年前に仙台藩が建設した。エトロフ会所をロシア人が襲撃した際に幕府が出兵を命じ2000人を派兵した陣屋だ。145メートル四方に高さ3,6メートルの土塁と幅12メートルの堀を巡らしている。
「浦賀の台場に較べれば豪勢なもんだ。こちらがイセエビなら浦賀のはハサミムシだね。昔を思えば立派になったものだ。昔は黒船が敵、今は官軍が敵、これはどうにもならないや。荒井さん、これだけ尽くせば十分だよ」
荒井郁之助は黙っている。三郎助はいよいよお茶らけた様子で甲高い声を張った。
「大将が軍門に服して皇裁を仰げば二千の兵は助かるんだ、大手柄さ。ともかくおいらは死ぬ覚悟だ、ここはいい死に場所だな」
5月15日 千代ヶ岡砲台に降伏勧告
5月16日 総攻撃、三郎助父子戦死
5月17日 五稜郭降伏