10章 1870明治3年 
        蝦夷地

一つ書き置くこと
 私事 此度蝦夷地移住之志御座候 委曲者筆紙難尽候共 天地無尽海辺広大 此生至処更天涯 妻児与我一片素心未敢差 快然之気自発 山紫水煙郷人旧交不難忘 受恩黄泉人且御坊之情不可忘 
 庚午           ケイサ、ミドリ、絵馬拝
日林上人 座下

書置きの手紙を残します
 私たち家族は蝦夷地に移住することにしました。言葉では話しきれませんが、私は見渡すかぎりの広い大地と空と海に生きようと望んでおります、そして妻も子もそれを受け入れてくれました。苦労は覚悟しておりますが、それにも増して晴れ晴れと毎日を過ごすことができそうです。
この豊かな郷で暮らしたことはいつまでもなつかしく思い出すことでしょう。上人様はじめ郷の人たちと過ごした日々を温かく心に抱いております。また亡くなった人たちへの追悼の思いも忘れることはありません。
 明治3年             ケイサ、ミドリ、絵馬拝
日林上人様


「日林上人あての手紙がどうしてこの家に残っているのか推理してごらん」
「日林さんは読んでいないということね」
「そうだよ、手紙の封が切ってなかった。景三郎一家は北海道へ移住し物語はこれで終わりです、めでたしめでたし」
「なんでなの、せっかくここまで物語につきあってきたのだから終わりの章というのがなくっちゃね」
「たとえば?」
「こんなのはどう」
 熊笹を切開いて畑をつくっているとヒグマが襲いかかる、それを絵馬が鉄砲で撃つ。
「まるで会津戦争八重の桜みたいだね」
 ではヒグマに襲われて傷ついたアイヌの少年を絵馬が助ける。やがて二人に愛がめばえる。
「なんか私生活に欲求不満があるようだね、クラの面影がまだちらついているのかい」
「なら牧場で馬を育てる、その馬が日清戦争に連れていかれて活躍するが撃たれて死ぬ、戦争反対のメッセージをこめた結末、一家はフランスに旅立っていく。
「いやはや、フランス移民も辛そうだな」
「本当はおじさんが飽きてしまったのでしょう。そして3人はいつまでも幸せに暮らしましたとごまかすのね。」
「では少しだけ物語を続けましょうか」

「俺はただの景三郎になろうと思っている、長柄村のケイサの景三郎さ、どうだろう」
「そうしよう、うれしいよ」
 ミドリがあっさり言うので景三郎の方が驚いた。
「大田なんて侍の名前は郷の人には煙ったいんだよ、おらもこそばゆい」
「いままで黙っていたが死んだ戴陽老人は俺の養い親だ。俺は本当の親を知らないし名も知らない」
「そんなことは承知していたよ、前に日林さんに聞いたんだ」
「知ってて黙っていたのか」
「別に聞きただすことではないだろ、玄七さんもヤエさんも多分、知っていたよ」
 それなのに誰も何も言わない、郷の交情というのはそういうものか。
「でも、お友だちやお役目の方は大丈夫なのかい」
「俺はただのムシュー・ケイサさ、改めて名乗ることもないないだろう」
「なら、おらもマダム・ミドリだよ、これでお似合いだろ、マドモアゼル・エマなんでかわいいじゃないか」
 景三郎はふとあの男、船を乗り回して神出鬼没だった土佐の男、坂本竜馬を思い出した。
「人の世に道なんぞ一つじゃないぜよ、道は百も千も万もある、世の中の人がなん言うたちかまわん」
 ずいぶん大胆で野放図とも見える男だったが、その言葉は真実だった。
 
「明治になって庶民もみんな姓をつけたんだね」
「いや江戸時代にだって姓を持っている庶民はたくさんいたが幕府はおおやけに名乗ることだけを制限したんだ。だから長柄村百姓角左衛門とか干鰯問屋肥前屋源兵衛とか通称で呼び合った。しかし新政府は明治8年になって平民苗字必称義務令という長たらしい名前の法律で国民全員が姓を持つように命じた」
「それはなんのためだったの」
「個人を認証したのさ、確実に税金を取るために」
「新政府の贈り物ではなかったんだね」
「翌年には廃刀令を出して武士をなくしてしまった、その不満を抑えるために士族と平民という差別をつけたがね」
「どうやって姓を考えたの」
「本家親戚の姓、名主や和尚さんにつけてもらったり自分で思いついたりなどさ。ただし徳川とか綾小路とか身分の高い人の姓は役所で受けつけなかったよ。けど役所も忙しいからずいぶんいい加減な文字をあてはめたらしい。鷹がいないから小鳥遊と書いてたかなしと読ませる洒落た名前もあるくらいだ」

    玄七もヤエもこの世にない。玄七が死んでからヤエは呆けたようになった。毎日何度も墓に参る、花を持っていく、墓に語りかける、戻っておくれ、おらと一緒に暮らすんだよ、うまいものを食わせるよ。やがて食事を取らなくなり寝たきりになった。玄七さんは死んだよ、そうだねその通りだ。しかし、また尋ねる、玄七はまだ帰ってこないよ、死んだんだよ、そうだね分かっているよ。そしてしばらくして後を追うように死んだ。
    角左衛門は大往生だった。朝起きて少し胸が痛いと訴え昼飯のあとに息を引き取った。
    日林上人は他出することが多かった。郷の人たちは国事にかかわっているのだとうわさした。慶応4年に新政府は神仏分離令を布告し仏教を弾圧し始めた。
 百姓景三郎はこれからどう生きようか。
「まず髪を切っておいで。そんなサムライ髷は似合わないよ、昔の通りの百姓髷に戻すといい」
「ザンギリにしてもいいかね」
「いいとも、恵太さんが前に訪ねてきてケイサのうわさをしていったから頼んでみよう」
「恵太って、あの寺小屋で一緒だった」
「そうだよ、半年ばかり横浜で修業していたのが帰ってきた、郷では仕事がないから製鉄所の近くで髪結い床屋をしているってさ」
 こっそりと床屋を訪ねてみた。恵太は喜んで他の客が入ってこないように入口を閉めてしまった。
「残念だよケイサ先生も散切りかい。おいらは髪結いの修業したのに近頃はみな散切りさ、マゲを結う人がなくなったよ」
「では髪結いと言えないな、カミキリかい」
「まるで虫だね、江戸にはマゲを切ってまわる妖怪がいたんだって、カミキリと呼ばれるのは御免だね」
「では髪を調える調髪はどうだ」
「長髪でいいなんて注文されると仕事にならないや。フランス語ではなんと言うのですか」
「コアンフェールかな」
「舌噛むよ、英語では」
「バーバー」
「これも駄目だね、おいらは男専門さ」
    髪結いは百文だ。

「あとのエピソードは君の想像に任せるよ、江戸幕末の物語を明治にひきずりたくないんだ」
 美帷はあからさまに不機嫌な顔をした。
「それで終わり?いままでつきあってきた登場人物はどうするの、全部消えてしまうんだよ、皆はどうなるの」
「そんなことを言っても終わりは終わりさ、終わらない物語はないんだ」
「では個別に聞くわ、クラはどうなるの」
 意外と手ごわいのに辟易した。
「書店の手代になったことまでは知っているね。すると明治になって横浜の出店を委ねられて、そこに福地源一郎が来て意気投合し、彼の新聞社に招かれて記者になるんだ、それなら読売とつながるだろう。政府の不正を暴き、金持ちを批判し、華族の自堕落を排斥してめざましく活躍する、これでどうだ」
「それは痛快ね、そうしましょう。次は女剣士のナミさんよ」
「まったく君は厳しいな」 
 今と違って一人旅で外国へは行けない。政府の使節や貿易商に同行するか留学を申請するのも難しかろう。井蔵が「居合い抜き」と言ったことがきっかけになった。そうだ海外へ進出する芸人の一座に入って公演途中で抜け出せばいい。
「それでパリに行くのさ。景三郎のフランス語が耳に残っていたのかもしれないね。さて結婚相手は留学中の日本人か現地のフランス人か迷うところだが年下であることは間違いない。それでどうだ」
「なぜ年下なの、偏見がありそうだよ」
 口が滑っただけで他意はなかった。年上に甘える、年下を慈しむ、どちらでも幸せになりそうだ。
「まったく君は筋金入りの歴女だよ。歴史にタラレバはないからな。でも物語というのはもしかしタラ、そうすレバばかりなんだよ」
「いいわ、そうしておく。スエンソンは?」
 こちらには事実がある。スエンソンは帰国して新聞コラムに「日本素描」という思い出話を連載した。それが大評判になりデンマーク人の日本理解は深まった。抜擢されて大北電信会社の責任者となり明治3年に再来日した。仕事はウラジオストック・長崎・上海間の海底電信回線を敷設することだ。やがて社長となり功績をあげて明治政府は勲二等の勲章を贈った。
「たぶん景三郎を探したと思うが会えなかったんだろう。これはしたり、また物語と歴史が混ざってしまったね」

「勇四郎さんはどうなったの」
「隠居して釣りと庭いじり、零落を気にとめないのが江戸っ子さ。自分には子がないが官員になった甥や富裕な家に嫁いだ姪が世話してくれる。運が強いというのはこういうことだろうね」
「一番幸せそうね。オジさんもそれを憧れているのでしょう、井蔵は?」
 岡田井蔵は工部省に出仕し明治17年には工場長になった。製鉄所は日本の産業革命を推し進めた。明治2年には観音崎と野島崎灯台を建築。スエンソンが浦賀灯明台は役立たずです、浜辺に焚き火が輝いているのでどれが灯台だか分らないですと笑いながら言ったことをようやく改善することができた。明治3年に管轄が工部省となり品川と城ヶ島灯台を完成。明治4年には120メートルのドックを完成し、生野銀山の求めで採掘機械を製造。明治5年には管轄が海軍省となり横須賀造船所と改名し軍艦清輝897トン40馬力を竣工した。以後も軍艦を次々に造った。
    ヴェルニーらは明治8年まで滞在したが、その時の責任者肥田浜五郎に解雇された。肥田は浦賀奉行所、遣米使節の仲間で、明治4年に造船兼製作頭となって製鉄所を造船所と改名した。明治海軍はそれまでのフランス式をイギリス式に改めてフランス人たちを排除したのだ、肥田が幕府の最後の尻拭いをしたことになる。
    もう一つの尻拭いは製鉄所建設の借金返済だ。小栗上野介はフランスに百五十万ドルを返したが残金五十万ドルが残った。パリ銀行が差し押さえを宣言しようとした直前にイギリスのオリエンタル銀行が融資した。尻拭いをしたのは大隈重信だ。
 明治11年に佐賀の中牟田倉之輔が造船所長に就任した。春山弁蔵とともに千代田形を造り、後に五稜郭の戦いでは春陽丸艦長で蟠竜丸に撃沈され重傷を負った。後に子爵になり横須賀鎮守府長官となった。
 造船所は海軍工廠と名前を変え1万人以上の工員がいた。明治40年に横須賀が市になった時の人口が6万3千人だったからその五分の一を数える。
 
「どんどん物語から離れていくね」
「こんなのもあるよ」
    明治9年、清水次郎長は静岡茶を輸出することを企画した。江戸から流入してきた幕臣たちの生活保障のためだ。交渉役に元外国奉行所通詞の矢野二郎を年棒千両で雇おうとした。しかし事業は中止になった。
「もし景三郎が頼まれていたら井蔵と人斬り以蔵を間違えた清水次郎長と手を結び勝麟太郎と協力して徳川遺臣を助けるなんておもしろい場面だろう。でもそんな展開はやめたんだ」
「いかにも漫画だものね」
「重兵衛を覚えているかい、遣欧使節に一緒に行った伊勢八の番頭さ、彼こそ明治で活躍する人だと思った。それで、こんな一場面を考えてみた。この先は重兵衛の言葉さ」
    今、時代は変わっています。代々の札差家業はなくなりました。私の本家伊勢八は大名貸しでしたから300通の借金証文があります。紙くずになってしまうでしょう。もともと伊勢八は幕府御用の人入れ稼業で財をなしました。大政奉還で幕府は天朝に服し公武合体を進めましたが、それを壊したのは外様藩の下級武士たちです。先導したのは長州です、関が原の戦いに負け領地を失いましたが家臣は残しました。その決断が今に生きたのです。尊皇攘夷の旗印で幕府を追いつめ尊皇討幕に変えました、都合よく旗印を変えたものです、勝てば官軍といいますから。
 明治を迎え武士は没落して公家が華族となり栄華を迎えています。豪農と大商人を結束させて日本を強国にしようとしています。そのために必要な莫大な資金を生糸の貿易でまかなおうとしています。
 蔵前の札差も没落し、代わりに渋沢栄一さんが米穀取引所をお作りになりました。伊勢八の本家加太様は渋沢さんとは因縁があり、二人は柳橋の芸者金八を我が物にしようと争った仲です、しかし勝負はつきましたね。
 小栗さんは郷里で官軍に斬殺され、勝さんは伯爵となって政界で活躍し、中でも桂小五郎さんは木戸孝允と名を改め明治政府の中心人物になっています。福沢諭吉さんは若者の教育に励み、あの上野の戦争で砲弾が飛んできても授業をやめなかったといいます。福地源一郎さんや栗本瀬兵衛さんは新聞社で筆を振るっています。
「なんだそれなら物語がまだ続くじゃん。明治が深くなっていくと困るのでしょう」
「火をつけられると止まらないのさ。せめて福沢諭吉の有名な痩せ我慢の説までたどりつきたいのだが」
 「痩せ我慢の説」は勝海舟と榎本武揚が新政府で活躍しているのを痛烈に皮肉った論説だ。公表されたのはずっと後だが、勝は「毀誉褒貶は歴史に委ねる」と返事をした。今から古を見るのは 古から今を見るのと少しも代わりはないというのが彼の持論だ。榎本は「今は忙しいからいずれまた」といなしてしまった。福沢諭吉は何も反論しなかった。

「分かりました、もう終わりにしましょう。私の中学生時代の最後にこんなことがありましたって覚えておきます」
「ずいぶん長いことかかってしまった。君は高校受験があったんだ。すまないことをしてしまったね」
「あらオジさん知らなかったの、私はとっくに高校生よ」
「えっ」
「推薦入学で合格しているの。他の友だちは受験勉強で必死だし、部活動はとうに終わってしまったし、やることがなくて暇だったの。だからオジさんの長話が聞けたんだ」
 狐につままれたような気分になった。
「けれど歴史がいよいよ好きになったわ、ありがとう。」
「知らなかったよ」
「情報収集力が不足だわね、でも分かっていたらもっと話が長くなったかもね、お話おもしろかったわ、アリガトウ。ただ一つだけ気になるの、ミドリのモデルはまさか私ではないでしょうね」
「思ってもみなかった」
「ミドリは景三郎より年下だけど甘えさせる人よ、たぶんオジさんの好みね。私は年上で甘えさせてくれる人がいい、その人に寄り添って幸せな気持ちでいられる人」
「歴史の中では誰だろう」
「信長よ。我がままな人で愛人を吉乃・吉法師の、と名づけるくらい所有欲の強い人だった。でも帰蝶は乗り越えたわ、美濃の姫お濃さんよ、信長の正妻になったの。たぶん最初はライバルね、そのうち相手を深く理解してきてパートナーに変わるのよ、結婚って従属ではなく信頼だから」
「ちょっと待った、君の名はミノブだね、文字を知らなかったよ」
「美惟、どうも美唯にしようとして親が書き間違えたらしい、でもミユは何人もいるからミノブで良かったわ。惟は考えるっていう意味らしい、考える美人なんて素敵でしょ。オジさんはワクチン3回打ちましたよね、私も2回やったからもうマスクはいいでしょう」
 そう言って美帷はむしりとるようにマスクを外した。思えば初めて素顔を見たのだ。見とれているとニッコリ笑った。
「サヨウナラ」

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