3章 1852嘉永5年 
     浦賀奉行所小者

「これが2番目に古い手紙だよ」
    前のは楷書の整った字だがこちらはかなり乱暴で子どもっぽい大きな字だ、おまけに塗りつぶしたり墨を垂らした跡まである。
「まずは読み下してみよう、後から解説をします」
「よろしくお願いします」
珍しく敬語で美帷が殊勝に頭を下げた。
 
一筆啓上仕候 暑熱ノ節ニ御座候得共 御尊父様マスマス御機嫌ヨロシク御座イマス
僕ハ御役目大事ニ勤メテオリマス コノ節ハ朝撃剣シ夕ベニ読書 岡田井蔵ト競ッテ練磨シテオリマス 兄弟ノ盟ヲ致シマシタ 鳳凰丸ノ事ハ愉快ニ御座候 中島殿ヲ頭領ニシテ春山殿ノオ指図デ来夏ニハ航海シマス 少年ノ過言トオ笑イデショウガ是レデ黒船退散モ容易ダト存候 奉行所ハ殊更繁多ニシテ 帰郷モ難シク御座候 暑サノミギリ用心専一ニサレマスヨウ存上候
 目出度かしく
  壬子 七月二日     景三郎
   ご尊父様 膝下       
 二白 中島殿ノ号ガ木鶏デ父上ヲ師匠トヨブ其由縁ヲ知リタク存候


拝啓
 暑い毎日が続きますが父上にはお代わりありませんか。
 私は奉行所の暮らしにすっかり慣れお役目大事に勤めるとともに、このごろは気合を入れて朝は撃剣の稽古、夜は読書で過ごしています。岡田井蔵さんとはふだんもよく気が合い練磨のときも競い合ってまるで兄弟のように暮らしています。
 なにより鳳凰丸建造のことは心が躍ります。三郎助様が頭領になり春山様が指図役でこの夏には航海をさせてくれるそうです。若い者が言い過ぎては叱られますがこれで黒船を退散させるなど容易にできそうです。だから奉行所はいよいよ忙しくなりそうなので当分、家には帰れませんが元気でやっておりますのでご心配なく。暑いころですので体を大切にお過ごしください。                                                                                   敬具
  嘉永5年 七月二日     景三郎
   ご尊父様 膝下      
追伸
 三郎助様は木鶏と呼ばれるのですね。父上を師匠と呼ぶのですね、今度その訳を聞かせてください。
 
「こんなところかな。さて何から話していこうか」
「まず名前です。中島三郎助はもう知っています。岡田井蔵とは一緒に暮らしています、春山殿ってだれですか。鳳凰丸ってなんですか。中島三郎助が木鶏っていうのはなぜですか」
「質問は適切です、お褒めします」
「もったいぶらずに教えてください、その前に中学生くらいなのにこんな立派な手紙がなぜ書けるのですか」
「それが江戸の寺小屋の実力だよ。社会生活に必要な国語力と算術は今の高校生より上だったと思うけれどな」
「なぜそんなに勉強が必要だったのですか」
「江戸時代は証文が大事でした。商人はもとより職人も農民も契約は文字に書いて印を押し文書で残しました。もちろん当然、武士もです」
「事務的な文書ね」
「昔は公家か武士だけが和歌や詩を作り日記を書きましたが、江戸では農民、商人や職人に広がりました。ながえの郷の山向こうの浅羽家という庄屋さんも膨大な日記を残しています」
「仕事の記録ですか」
「誰が何しに来たか、その日何を食べたか、何を貰い何を贈ったか、幾らかかったか、細々と書かれています。そういうのが多いようだな」
「江戸の人は筆まめね、あなどれない」
「テレビも雑誌もないから書くことが楽しみだったのかもしれないね」

お目見え
「奉行所に書き物を出さねばならない、しかし戴陽老人にはそのたしなみがございますまい」
「ああ」
 簡単すぎる言葉に三郎助は苦笑いをしたが慣れた文面で景三郎の履歴を書き始めた。
「江戸小石川…所番地など調べやしないからそれらしく書いておきます。御家人大田鎌太郎養子景三郎と」
「三郎助さんが雇う小者なのに奉行所に届けるのかい、ご丁寧だね」
「おや、その通りだ、戴陽さんがおいらに届け出ればいいだけだ」
「不詳の親が不肖の我に子を授ける、不承の意など少しもなし、拠件如(よってくだんのごとし)これでいいかい」

 沿革
「まず奉行所のことをお教えしよう」
 少し鼻にかかる声で2人を手招きして小部屋に連れて行ったのは根岸与力という奉行所一番の古手与力だ。もうマゲも結えないほど禿頭になっている。
「若い人は元気でいい、わしなどは座っているだけで大儀だよ」
浦賀奉行所は長崎や大坂、京都など全国に11ある遠国奉行の一つで元々あった下田を閉鎖して浦賀に設置した、江戸の経済が活発となり船の往来が多くなったので船改めを江戸湾の入り口で行う方が便利だからだ。やがて異国船の往来が多くなり責任が大きくなると奉行も昇格して二千石取りになった。
    奉行所には2名の奉行、与力20騎同心100人これは世襲になっている。足軽40人は地元の若者が奉公する。その他にも与力同心に仕えている若党や小者がおり景三郎はその小者だ。給金は与力が75俵、同心は20俵。江戸町奉行所では与力200俵、同心30俵をもらっているから較べればずいぶん低い。しかし船改めの際には商船も諸大名の御用船も謝礼とともに積荷の一品や土地の名物を土産に置いていくきまりがある。それを土地の商人に売ればかなりの収入になる。根岸与力はそんな余計なことも言った。
「中島三郎助さんのはからいでお前たちには格別の役目を与えない、だから早く奉行所のことを覚えるように」
それで話は終わりかと思ったら根岸予力は茶を飲みながらグチを言い始めた。
「昔は御組揚荷物というのがあってな、賄賂というほどのものではない、いわば手土産だ」
 積荷の米や油などを一俵か一樽かほんの何文だけの値段で売ってくれる。それを定価で商人に買わせればまるもうけだ。
「それが天保のご改革で一切だめになった。あの水野越前守というお方は情け知らずだ」
 武士は自らの才覚で収入を得るあてがないので収入減の恨みは深い。
「こんな役もあったぞ、舟唄役、分かるか」
 将軍家や大名の御座船が入ったときに先導して舟唄でもてなす係だ。しかし御座船などとっくに隅田川で朽ち果てている。
「封印係、これも近頃役目なしだ」
 難破船の積荷をしまっておく仕事だ。
「近頃は船が大きくなり沖を突っ走っていく、だから難波するのもはるかな大海原だ、積荷なんか流れてこない。しかし運よく助けられた人間は戻ってくる。乗せてきたのが異国船だと大変な面倒になる」
 まるで茶飲み友だちと気楽な話をしているようだった。
 筆頭与力は香山栄左衛門、次は小笠原甫三郎だ。与力は一代限りと決められていたが子どもに職を譲ったり娘と結婚したり養子になったりして親代々の職を継いでいる者が多い、香山も養子、小笠原も養子、中島三郎助は実子だった。
 景三郎は三郎助の家来なのでお目見えなどはない、しかし奉行所の狭い世界ではあっというまに皆が知って、井蔵の景三郎と二つ名前で呼ばれた。


撃剣
    木刀を振り回して木に吊るした薪を打つ訓練、2列に並べた立ち木を打って走る訓練、どれも疲れてヒジや肩が痛くなる。
「根岸肥前守様が奉行だったころは日に千本の打ちこみをされたものだ」
 担当になった同心組頭の土屋嘉兵衛が気合をかける。
「剣の修業をした者は見ただけで分かる、拙者を見よ左と右とで腕の形が違うだろう。一歩踏み出しただけで腕前が分かるものだ」
「自分より強い奴と思ったらどうするのですか」
 井蔵が真面目に聞いた。
「逃げればいい」
 土屋同心は真面目に答えた。

台場
 奉行所では砲術の訓練が行われる。
「明日は臨時に砲術調練をするから一緒に来い。お前たちのことを申し上げたら、お奉行様はちょうどいいから居眠りしている者たちにカツを入れてやれとおっしゃった」
 青山同心が2人に告げる。
浦賀の3つの台場には当番の与力と同心、足軽が配置され異国船来襲が伝えられるとともに駆けつけて準備する。
「黒船が明神崎の沖に来た、そう思って急いで走れ」
小屋をかたづけ大砲の手入れをし土壇を点検して、目付が到着するとともに煙硝、弾丸を用意する。小屋番は常駐するが訓練の日以外はのんびりしている。
2人は金井与力と青山、佐藤の同心が担当する走水台場に行くことになった。だが明日は青山同心だけが指揮するという。
「金井与力は地方掛なので明日は村の巡回に当たる、佐藤同心も与力に同行する、俺も願ったがダメだと言われた」
 かなり面倒な仕事なのだろう、なんとも情けない様子だ。
 朝早く青山同心と足軽4人と一緒に出発した。台場までは山を二つ越えなければならない。急な坂道を上って青山同心は辛そうだ、だいぶ太っている。嫌がった理由がよく分かった。台場に通じる岬の道は波が打ち寄せるので嵐の日には往来はできない。
岬の先端に山を削っただけの台場があった。大砲はムシロがかぶせて土で押さえてある。奥には幕を張った三間四方の番所があり半間四方の小屋に煙硝と弾丸が置いてある。
「天保10年に鳥居耀蔵が視察して得意顔に言ったものだよ、この番所は使い物にならん、海から撃たれたらどうする。まったく人相が悪くて偉ぶって嫌な奴だったな。おいおい、そんなことを奉行所では言うなよ、与力の小笠原様の父上は鳥居の一の子分だったんだからさ」
 小笠原甫三郎はその年に増員された与力同心の頭株で浦賀に元々いた与力同心とはしっくりしていなかった。与力も同心も御家人格だが、同心はどうがんばっても与力にはなれない。給料は倍以上違う。
大砲は先込め式なので砲車を引いて火薬と弾丸をつめなければならない。並んでいる大砲は5門、重さ4キロの鉄の玉を距離1キロほど飛ばすが、たとえ命中しても貫通などはほど遠い。甲鉄船ならお寺の鐘と同じ音がするだけだろう。台場は狭いのでわずかな人数なのにごった返す。
「ふだんは撃つまねだけだが今日は大砲1門を1回だけ試射する。若者が音にびっくりするのも訓練のうちだと与力取締上役の香山様の仰せだ」
「おやおや、なんてこった」
 足軽たちはうんざりしている。だから事前に知った2人は腹痛などを理由に休んでしまったのだ。
「馬鹿者、敵が訓練の日だけに来るか」
 そう言う青山同心もだれきっている。
「弾用意」1人が風呂敷に弾丸を包んで走ってくる。介添えが1人つく。
「口薬入れ」1人が火薬を計って紙包みにして運んでくる。受け取る者、筒口に押し込む者、棒でつき固める者と4人がかりだ。
「筒を離れろ、口火用意」 火縄を差すと回りにいた者はとんで逃げる、大砲の周りは大混乱だ。1人が点火棒で火をつける。
「放て」
 それでも音と煙は勇ましかった。
「汗で目が見えぬ、煙がチクチク刺さるようだ、異国船などご免こうむる。異国船では3人で一切をするそうだ、お前たちも休め」
青山同心はもう座り込んでいた。
「しかしこの音を聞くと気持ちがさっぱりするな。彦根や川越の連中にも聞こえただろう」
 千駄ヶ崎の台場には彦根藩、観音崎には川越藩が駐留している。
青山同心は手ぬぐいを顔にこすりつけた。黒漆で裏に金泥を塗った陣笠は異国人に「亀の甲羅」と間違えられた。足軽たちもてんでに休んでいる。
「今日はもう一発撃ってもいいというご命令だが、金井与力殿がこっそりと火薬も弾も節約するようにと申された、やれやれ、者ども後片付けにかかれ。ほれ井蔵、景三郎、見物に来たのではあるまい、大砲を戻せ。なんだ筒の掃除をしなかったって、まず濡れ雑巾で火の粉を拭くんだ、火が残っている所に火薬をつめたらどうなる、とんだ厄介払いができていいかもしれん。やれやれ疲れたよ」
 一行は持ってきた麦湯をガブガブ飲んだ。
「不平を言うわけではないがポーハッタン号の砲弾は4貫目ある、うちの4倍だ。中には命中すると爆裂する砲弾もあるという」
「それで三郎助様は大砲、軍艦が欲しいと叫んでいるのですね」
「彦根の井伊様がこれを使えとお下げ渡しになった大砲がある。これが何の役にもたたん、なにしろ造る方も撃つ方も素人で昔の軍学書しか知らない。黒船の大砲は活き物、我が台場の大砲は死に物とお奉行様まで言っておるよ。軍学者は異国を嫌う、日本は神国だから夷荻に学ぶのは恥だという。その上に節約だ。さあ今日は終わりだ、行水を浴びよう、寿命を縮めるのは御免だな」
 青山同心はさっさと家に帰っていった。しかし2人は寝てからも大砲の音が聞こえていた。

吟味役
    吟味役の高梨同心が2人に声をかけた。
「お前たちは知るまい、後学のためにこの書類を見せてやる、他言無用だぞ」
 嘉永5年2月20日と書かれている。浦賀宮下町居酒屋の市太郎が喉を突いて自殺した。名主長右衛門が下女から聞き取り奉行所に通報した。すぐに高梨与力と同心が出向いて取り調べた。
「奉行所にはそんな役目もあるんですね」
「まあ三浦で起こったことは全部ここで裁くのだ、景三郎と井蔵も悪事をするとわしが取り調べをしなくてはならん」
 夫婦ゲンカのあげくに市太郎は妻ヨネを殴りつけた。血を流して倒れたので死んだと思い、下手人になるのを怖れて自害したのだ。ケンカの原因は分からない。
「居酒屋などやっている男だ、身持ちが固いとは思わん、バクチで負けたか女道楽かそんなところだ」
「事件はたくさん起きるのですか」
「年に1、2回だな」
 難船の届けがあったので浜名主に通知を出した、廻船の水手が病気で死んだ、積荷の品質が悪くて訴訟になった、そんなことがポツポツ起きるらしい。
「ずいぶん平和ですね」
「そうでもない天保12年6月のことだ、12年ほど昔になるかな、ここで海賊を磔にかけたよ」
房総の裏で廻船が仮泊した。船頭と乗組みと名主と村人たちが船の積荷を奪おうと悪企みをした。嵐にあって難破したと偽って船を破却し積荷を売り払ったのだ。しかし浜名主の小浜平右衛門が浦賀奉行所に訴えでた。船頭他水手が18人、百姓60人が召し取られ奉行所で取り調べた結果、船頭利右衛門は浦賀で磔にかけられ名主の治兵衛は村で磔、他の水手や村人は獄門や所払いとなった。
「俺はまだここにいなかったから知らんが吟味方のご威光はかくの通りだ、そのうち定廻りの見習いをさせてやろう。与力の鈴木哲之助様に頼んでおいた、お前たち2人を同心代りに連れていく、世間の風に当ってこい」
 高梨同心は気さくに命じた。

通詞
    浦賀奉行所には英語と蘭語を話す紅毛通詞の堀達之助と立石得十郎が、中国語を話す唐通詞の頴川若平が詰めている。いずれも同心より身分が下で大工よりは上、ちょうど医者のように特別な知識と技術を持っている職人という扱いだった。
「俺もオランダ語をしゃべれるようになりますか」
 景三郎が言うと井蔵はあわてた。
「これ以上勉強させられるなんてとんでもないぞ」
「なに難しいことはありません。船と聞かれたらシップ、シップと言われたら船と思えばいい」
 堀達之助は苦労して言葉を学んだ人なので穏やかに言う。どうしてもアメリカ人に英語を教わらなければならないと決意した矢先にマクドナルドというアメリカ人が船を脱走して幕府に捕らえられ蝦夷地から長崎に送られた。それを好機として頼み込みアメリカ語を習ったのだ。
 マクドナルドという男は日本人の子孫だと思い込み、日本で暮らそうと思って脱走したという、だから日本人を仲間と思って熱心に教えてくれた。
「俺にも教えてくれますか」
 景三郎は興味を持った。
「それは結構、この先は異国人がどんどん増えてまいりましょう。通詞が増えれば私たちも楽ができます」
「俺は嫌だよ」
 井蔵がいよいよあわてる。
「お前が好きでやるなら勝手にしな、俺は黒船を走らせたいんだ」
「井蔵殿、そうは言ってもあちらの言葉を知らないと造り方も動かし方も分りませんぞ」
 堀はにこにこして二人を見ている。
「それは景三郎に聞くからいいんだ」
「他力本願と申しますな」
「一人で全部をできるはずがないや、得手不得手を助け合うのが友だちだろう」
 堀達之助は言いたかったことをぐっと飲み込んだ。助け合うのを妨げているのが身分制度だ、通詞でさえも高貴な方には話しかけられないし自分から質問することもできない。人と人をつなぐのが通詞なのに。
「これで役割が決まりましたな、この達之助もお手伝いいたしましょう」
 約束はしたものの通詞は多忙で、2人も次々に用をいいつけられち言葉を学ぶひまはなかった。

「ちょい待ち、与力と同心と通詞の身分の違いを教えてください」
 美帷が疑問を持った、ただ聞き流しているだけではないことが分ってうれしくなった。
「江戸幕府の直参の武士、つまり将軍の直接の家来は旗本・御家人さ、違いはお目見えといって将軍に会える・会えないという身分の違いだ。通詞は御家人の下だが若党中間・小者・下男よりは上とちょっと微妙だね。これは景三郎たちも知っておかなければならないことだったよ」

身分
    鈴木与力が身の回りで一番穏やかそうなので景三郎は思い切って聞いてみた。
「お奉行様はお旗本ですね」
「うんそうだ200石を頂戴されている殿様だ」
「鈴木様は与力ですね」
「おお拙者は80石2人扶持の御家人だ、ただ足高たしだかをいただいているから飢えはしないよ」
「同心の方々は」
「30俵2人扶持が決まりだよ、石高にすれば7石少しだ」
「偉くなればたくさんもらえますね。鈴木様も旗本になってお奉行様になればいいのに」
 ううん、鈴木与力は考え込んでしまった。代々の与力、代々の同心は家が継いでいる、同様に旗本と御家人も家柄が決まっていて飛び越えることはできない。
「昔、戦国の世に武田や豊臣を相手にして与力は馬に乗り同心は徒歩で戦った、それ以来の与力1200人同心8000人が幕府に仕えている。総数で旗本は5200人御家人は1万数千人いるそうだ」
 景三郎は数の多さに驚いた。
「もちろんお城で食事を作ったり鷹を飼ったり掃除をするのも御家人の役目だ。仕事がなくて無役小普請になると足高が出なくなるから暮らしは苦しいよ」
「それでも御家人がいいんですか」
 さすがの鈴木与力も少し立腹した。
「景三郎の義父も御家人で御徒だと聞いたぞ、我が家柄に誇りを持ちなさい」
「御家人株ってなんですか」
 身分制度は厳しいが百姓や町人も武士になることはできる、養子に入ればいいのだ。赤の他人でも旗本千両、御家人数百両を払えば旗本・御家人の株を買って家を継ぐことができる。浦賀奉行所にはそんな御家人はいなかったが養子で入った与力同心は多い。
「俺だからいいが、そんなことを他人に話すなよ。身分が軽くても口は重い方がいい」
 鈴木与力はそう言い残して去っていった。ようやく用を終えた井蔵が戻ってきた。
「なにかいい話を聞けたか」
「うん侍というのも難儀だな」
「何を言う、我ら侍が浦賀を守り日本を守るのだぞ」
「口が軽くては身がもてないそうだ」
「なんだと、馬鹿にするな、許さぬ」
「いや鈴木様の忠告だ、慎んで聞くといい」
 二人はじゃれあうように役所の外に駆け出していった。

廻船改め
「箱館の船が入った、調べに参る、お前たちも同行せよ」
封印役の合原与力から声がかかった。廻船改めは封印役の一つの仕事で、ふだんは下田に出張したり所内見回りを勤めている。
同心は2人、もう浜に出ているというのであわてて後を追った。沖に廻船が仮泊している、それを目指して押送舟は波を分けてすすむ、近くまで寄るとさすがに大きい。
「箱館通いの廻船だな、だいぶ傷んでいる、15年は海に出ているだろう」
千石船は150トンばかりの荷物を積み進水してから20年ほど航海する。建造費は十石あたり十両という、一航海で何百両かの利益を上げるのですぐに回収できる。
「奉行所だ」
 表に御用の提灯をかかげているので言うまでもない。
「箱館沖津屋の廻船波越丸、船頭利兵衛にございます」
「役目により積荷を改める」
 合原与力は高々と宣言して船に乗り込み証文を読み上げ同心と足軽に積み荷を調べさせた。昆布、干ニシン、干タラの俵詰めがつみかさねられて船倉の空気はむっとする。
「船方三役届けませい」
千石船は湾内にすべりこんで碇を降ろし小舟に船頭と舵取り、親爺と呼ばれる庶務賄いの三人を乗せて威勢よく船着場に向かった。
「いつ箱館を出たのかい」
 小舟の水手たちは陸の風を楽しんでいる、井蔵が愛想よくたずねた。
「ああ風が良かったので沖乗り15日で大坂に着いたさ、帰りは風待ちで1ヶ月ほどかかるがの。ただ人が足らんで15人ばっかしで走らせてきた。浦賀に手空きの水手はおらんかの、この先は難所が多いから」
 千石船はふつう18名くらいの水手を乗せる。
「宮古沖、金華山、塩屋岬、大東岬沖とこんな楽なことは珍しい」
「誰ぞのおかげじゃ金比羅様かい、ところでここじゃあ黒船を造っているそうだな」
「そうとも異国船に負けない船だ、来年には海にでるぞ」
「何石積みだ」
「ざっと2千石かな」
「大きな船だな、水手は何人じゃ」
 それは2人とも知らないのでごまかした。
「お前も乗るなら世話してやろう」
「いやご免こうむるよ、帆の扱いが難しいと聞いたぞ、それに異国まで連れて行かれたら大変だ」
 昔はムシロや竹を織った帆を揚げていた。天明5年に松左エ門という職人が木綿の太糸を織る機を工夫した。その布を2枚重ねて帆にしたので逆風でも破れぬ丈夫で扱いやすい帆ができた。おかげで舵を3倍くらい幅広にしたので、利きがよくなり速度が増した。
「公儀は2本以上の帆柱禁止だの竜骨(まぎりかわら)の禁止だのと言って500石以上の船を作らせまいとしているがの、実はこの船は1200石も積めるぞ、内緒だぞ」
「馬鹿、お役人様に何を言うだ、今のは冗談でございますよ」
「だって公儀が異国船を造るご時勢だ、廻船だって大きく速くした方がいいだろうが」
「者共、奉行所に戻るぞ」
 同心が呼びに来た、手続きが終わったようだ。もう浦賀の問屋の手代たちが浜に集まっている。蝦夷地の昆布や魚介を降ろして上方に運ぶ干鰯を積み込む手立てを講じている。
「千石船が入ると浦賀は賑わう、料理屋も手ぐすね引いているだろう」
 板子一枚下は地獄という水手たちだ、陸に上がったら命の洗濯をしたいだろう。
「あっ、それで洗濯屋というのか」
 井蔵が大声を出した。合原与力が苦笑いをしながらたしなめた。
「人前でそんなことを言うな、お前たち若い者はまだ知らんでいい」
 浦賀には船乗り相手の遊女たちがいて公儀の手前、遊郭を洗濯屋と言い習わしていた。

定廻り
 昼近くになって2人は呼び出された。
    鈴木与力はしげしげと2人を見て言った。
「まず同心見習いという風情はある。二刀差す必要もあるまい、脇差だけでよい」
 そう言って同心に命じて二振りの小刀を持ってこさせた。
 岡田井蔵が呆れたように言った。
「汚い刀ですね」
 うながされて抜いてみてまた驚いた。
「あかさびでボロボロです」
「そうじゃ、お前たちが間違っても人前で刀を抜いたりしないための用心だ」
 とかく若い者は抜きたがるので困るとつけくわえた。
「本日は西浦賀を一廻りする。参るぞ」
 与力は両刀差して紋付袴でまっすぐ前を向きあごを引いてにらみつけるように歩いていく。2人は着流しでボロ小刀を差してキョロキョロしながら後に従う。すぐに問屋の家並みに入っていく。干鰯も多いが諸国の物産を納めた蔵も並んでいる。
「どこも繁盛だ、一軒だけ改めよう」
「肥前屋さんはどちらですか」
「おや知り合いか、では顔をつなごう」
 そう言ってつかつかと店先に立った。
すぐに主人が飛び出してきた。
「これは鈴木様、よくご受来で、どうぞ奥の間へ」
 茶と菓子が出る。与力は近頃の商売の様子や諸国の噂を尋ねる。テキパキと主人が答える。町の様子、庶民の暮らしを尋ねる、近在の出来事を尋ねる。前年、下宮田で起きた強盗事件などはそこが彦根藩領なので浦賀には届けがないのだ。
「時分どきでございます。お口に合わないと存じますが粗飯をひとつ」
 2人にも贅沢な昼食が運ばれた。
「さてこちらは岡田様の弟御の井蔵殿、さてこちらは…」
「義父戴陽がお世話になっております。大田景三郎です。中島三郎助様の許で修業をしております」
「おお、戴陽様のお子、立派になられました。
将来はお役につかれることでしょう、まことに心強くございます」
 まるでお披露目に出てご馳走されたようだ。井蔵が変な目で見ているのを感じた。
「この先、異国との貿易ができるようになりましょうか」
「いかがなものかの」
「過日モリソン号の時に林述斎様は、せっかく漂流民を助けて届けた異国船を打ち払うのは仁義に反すると申されたそうです。しかし幕閣のお歴々は、漂流民をおとりにして交易の利をあげようとする不届き者たちだ、たかが水手のために国法は曲げられぬとおおせられましたそうで」
「林殿は口をつぐまれたそうだな」
 鈴木与力も知っているようだ。
「交易は双方に利があります。長崎が繁盛しても江戸からは遠い。この浦賀で異国船との交易ができれば大喜びでございます。国法と申しても、その昔に権現様は交易を進められたと伺っています」
「そう言われては飯が喉に詰まる」
 浦賀奉行所の役人としては偉大なご先祖様、徳川家康、東照大権現の名が出ては返事をしかねる。
「こんな開けた世になったのにいつまでもサザエの殻にこもった誰それ殿が」
「いやタコツボであろうよ、下世話に申す手も足も出ぬタコ坊主、いやいや、これは漁師の話だぞ」
「茹で上がる頃合まで待ちましょう、どうぞ若様方も遠慮せず召し上がってください」
 鈴木与力は帰りがけに何か包みを受け取った。定廻りが持ち帰って与力同心に分配するのだろう。
「鈴木様、洗濯屋というのにも寄ってみたいのですが」
 井蔵が言うとさすがに与力もためらった。
「役人を嫌がる場所だ、石碑だけ見せよう」
    遊女屋は浦賀と三崎にあった。船乗りと諸国の商人を客にしている。その中の大店だった江戸屋の主人が突然、発心して深本と名乗り店をやめて念仏三昧の日を送ったという、百年も前の話だ。激しく木魚と鉦を叩く騒々しい念仏だったそうだが、なぜか江戸城大奥のお女中たちが帰依したという。師匠の徳本に似た糸くずを散らしたような文字で南無阿弥陀仏と名号を刻んだ太い石の柱が立っている。
 まだ午後なので遊女屋はひっそりと店を閉めている。暗くなると灯がともり賑やかに弦歌と笑い声があふれてくる。
「さて極楽と地獄はどちらだろうな」
 鈴木与力がニヤニヤ笑った。
景三郎がムカデを売りつけた薬種屋があった。あのひどい目にあった手代の利助は元気なのか。しかし声をかけずに通り過ぎた。

 嘉永6年6月 ペリー艦隊が浦賀に現れ久里浜で国書を渡し、来年また来ると言い残した。浦賀はもとより日本中が仰天動地の有様になった。もちろん景三郎も井蔵も巻き込まれた。

「いよいよペリー艦隊が来ましたよ」
「おかげで日本は開国し明治になったのでしょう、サンキューペリーマッチなんてね」
「これが言いたかったんだねオジさんギャグ、だけどアメリカ側の事情を知ると感謝なんてしない方がいいのかもしれない」
「それは知りたいな」
「日本側は中島三郎助大活躍、奉行も老中も大困りという話になるのだが、艦隊にはハイネさんという従軍画家が乗っていてアメリカ側の記録を残している。これも面白いよ」

 持ってきた国書を幕府が久里浜で受け取るとペリーは帰っていった。しかし後始末が同じくらい大変だ。景三郎と井蔵は奉行所の書付を整理するように命じられている。退屈な仕事だ。ましてや大事件のあとで皆が脱力感に包まれている。
「こちらにきて一休みしたらどうだ」
 香山栄左衛門が声をかけてくれたのですぐに二人は隣に座った。
「黒船の中はどんな様子でしたか」
 景三郎が聞くと井蔵がいきりたった。
「お前は物見舟を漕いで黒船に行ったではないか。俺はずいぶん口惜しかったぞ、一番乗りを取られたんだ」
「だから俺は黒船までは行ったが中は知らんのだ」
 その朝、三崎から早馬で知らせが来た。当日の見張り役の当番は中島三郎助だった。
「お奉行様に知らせたか、一刻を争うぞ、かねての申し合わせ通りだ。舟を出せ、堀達之助さん頼むぞ、なに水手が足りないと、なら景三郎!船を漕げ」
 日頃せっかちな三郎助が一層、あわただしく命じた。舟を懸命に漕いでようやく先頭を行く黒船に近づくと御用と書かれた提灯を示した。いくつもの顔がのぞいてこちらを見ている。舟を舷側に着けたが巨艦の甲板は見上げるように高い。
「おおい上げろ、綱を下ろせ」
 三郎助が日本語で通詞の堀達之助がアメリカ語で大声で叫ぶと、たどたどしい日本語が返ってきた。
「あなたは誰ですか」
「浦賀奉行所だ」
「あなたはなんの役ですか」
「身分の高いもの以外には会わないというのだろう、とやかく言うのも面倒だ、奉行の次の者だと名乗ろう」
 三郎助は性急に言うので堀は驚いた。
「これは、だいそれたことを」
「危急の方便だ、早く伝えろ」
 説明すると相手は理解したようだ。
「副奉行ですか、どうぞ上がりなさい」
 綱梯子が下ろされた。三郎助は堀と一緒に高い舷側を登っていく。景三郎は水手とともに舟に残された。
 一刻ばかりたって二人は舟に戻った。飛ぶように帰る舟の中で興奮がさめない三郎助は色々なことを話した。堀は通詞らしく余計なことは話さない。景三郎が知っているのはこんなことだけだ。
 しかし井蔵は許さない。
「黒船を叩いたろう、上から見下ろす異人を見たろう、それだけで俺は十分に口惜しいのだよ」

香山栄左衛門
    二人が激しく仲違いしていることを聞いて与力取締上席の香山栄左衛門が笑って二人を呼び出した。
「若者たちよ、拙者の前ではケンカをするなよ、あれから御用が多忙でお前たちに話してやれなかったのはすまなかったな」
 年は三郎助とそれほど違わないが中島三郎助より香山栄左衛門の方が話を聞きやすい。なにしろペリー一行から香山は上品で物静か、丁重で控え目な紳士である、それに較べて三郎助は大胆、でしゃばり、しつこく、詮索好き、臆面のない厚かましい、頑固で気難しくて好感が持てない人だと言われたくらいだ。
    まずケイサが熱心に聞いた。
「アメリカ人はどんな人たちでしたか、背は高い?足軽小者たちはどんな様子、チョンマゲは、恐そう優しそう、服装は帽子は履物は」
「皆たくましくて元気だった。よく笑うし大声で話していたよ」
「お奉行様がきても平伏しないのですか」「そうだな、礼儀正しいとはいえないな、でも命令されるとすごかった、ぱっと全員が礼をしピタリと動かない、右を向いたり銃を構えたりしても少しのスキもなかった」
「偉い人たちと足軽とはどう違うのですか」
「同じような服だが金色の飾りが違った、それに態度や顔つき、威厳というものが大違いだから一目で分る」
「ヨロイやカブトはつけていないのですか」
「あんなものを着けていたら海に落ちれば溺れてしまうよ。第一、強力な大砲や鉄砲ではなんの役にもたたないだろう」
 井蔵はつまらなそうな顔をしている、機械のことや船のこと、銃や刀のことが聞きたいようだ。
「だから船や大砲がなければペリーに勝てませんね」
「いや船や大砲だけでは勝てないだろう」
「武士の魂があるぞ」
「それはどうかな」
「なにを、許さん」
「まあ待て若い者たち」
 香山栄左衛門が笑いながら止めに入った。
「偉い大将には偉い軍師がいたものだ。お前たちも文武両道を志すなら互いに学びあうとよい。末永く仲良くするがいいぞ、では井蔵の聞きたいことに答えよう」
「もちろん船と砲と機関です」
「側面には大砲の窓と大きな翼車がついていた。船上には屋形と火見櫓があってどれも真ッ白に塗ってある。船底で石炭を焚いて蒸気を立て左右の翼車を回す、それで進みたい方に行くことができる」
 そんな船を今、浦賀で造ろうとしている。
「鳳凰丸もそうなりますか」
 井蔵が聞く。
「残念ながら違う、まず船体がはるかに小さい、それに木造だ、機関がないから帆走するだけだ、洋式の竜骨が不十分だ、第一、航海ができる水手がいない」
「では戦って勝つことはできませんね」
 今度は景三郎が質問する。
「まるで無理だな。黒船の士官も水兵も実にキビキビしていて我ら奉行所の…。黒船の速きことは一時に20里を行く。我らは黒雲のような煙を追いかけもできない」
「では鳳凰丸も甲鉄にして機関をつければいいでしょう」
「実に巧妙な仕掛けだ。三郎助殿が蒸気機関から大砲、連発ピストルなどすべてを覚えてきた、我が国でも作れるか聞くといい」
「俺がその機関というのを造ります、景三郎に負けるものか」
「俺が何を造るなどと言ったことはないぞ」
「だから機関の一番乗りは俺がするのだ」
 香山栄左衛門はにこにこ笑っていた。

「やれやれ大変ね」
「前のビッドルは甘く見られたんだ。軍艦も二隻だけだし態度も穏やかだった。ペリーは司令官、校長先生、学者の顔を一緒にして権威を示したのさ。相手が強ければ卑屈になる、幕府の役人も同じだろう、ペリーは西部劇の主役になれるさ」
「黒船に乗ったガンマンか」
「イギリス軍艦は白船だった、あとから話の出る日本の軍艦は赤く塗ったのさ」
「それで強く見えると思ったの?カワイイ」
 若い娘の用語は適切だなと思った。

武士のたしなみ
「俺は大砲の撃ち方だの泥棒の詮議の仕方などは教えない」
 二人を正座させると中島三郎助は話し出した。
「それぞれに教えたがる者がいるだろう、だから俺は和歌と俳諧を教授する」
「それが与力に役立つのですか」
 すぐに井蔵が口をとがらせた。井蔵は文芸に関することは好きでない。
「そうとも、浦賀は栄華の土地だから文人も画描きも来る、野暮な役人ばかりでは話が通じまい、さて俳諧は」
 そう言ってじろりと景三郎の顔を見た。どうやら義父戴陽のことを話すのかと身構えると三郎助はニヤリと笑った。
「南畝蜀山人先生のことはおいおい話そう。今日は小林一茶のことだ」
 夕立の祈らぬ里にかかるなり
 45年ほど前、小林一茶は浦賀に二度目の訪問をした。その時にこんな俳句を詠んだ。
 夕立が降りかかり浦賀へ通りかかった、私は祈る人たちの間には入らず遠くから思いをかみしめている。そんな気持ちだろうか。一茶は専福寺へ25回忌の墓参りに来たのだ。最初に訪問したのはそれより25年前の天明元年のころだ、まだ20才の一茶は俳句の宗匠に連れられて浦賀にきた。宮井素柏 という干鰯問屋に滞在するうちに若い娘に恋をした。
 一茶は不幸な人だった。信濃のそれなりの農家に生まれたが母に死に別れ、継母に嫌われ、父親は手を焼いて江戸に奉公に出された。
 我ときて遊べや親のない雀
俳句を学んで後には一流の俳人になり故郷に錦を飾ったが、弟と争い故郷の人も敵に回して痛恨と孤独の晩年を過ごした。
 梅さけど鶯なけどひとりかな
これがまあ終(つい)の栖(すみか)か雪五尺
「それだけですか」 
 根っから興味のない井蔵が冷ややかに聞く。
「一茶はひねくれと反抗心の強い人だった。しかし温かく豊かな心を持っていた」
 雪とけて村いっぱいの子どもかな
「まだ最初の俳句につながりません」
 景三郎も面白がって聞いた。
「初恋さ」
 三郎助は少し言いにくそうに言った。その人は豊かな商家の娘だった。身分が違えばいくら結婚を望んでもかなわない。一茶は傷心を抱いて帰っていく、しかし心の中には面影を抱いている。その人は翌年に亡くなった。俗名ひさ 香誉夏月明信寿信女
「和歌や俳句は深く心に秘めたことも打ち明けられるんだ」
「三郎助様もそれがあるんですね」
 景三郎が言うと三郎助はにらんだ。
「俺は師匠だ、揚げ足を取るのでない」
二人は顔を見合わせて目で合図をした。三郎助様は思いの外に純情らしい。初恋の相手が奥方のスズさんだろうか。
「師匠の俳句を聞かせてください」
 井蔵が言ってみたが無視された。
「今度までに俳句を一句創って持って来い、いいな。忘れたではすまされんぞ」
 二人はやれやれと思った。


    雨が降ったので調練が休みになった。小屋の中で雨だれを見ているのは気が利かない、青山同心も退屈していてこんな話を始めた。
「これは聞いた話だがな、慶安のころ安房勝山に鯨組ができて醍醐新兵衛と申す者が支配し、3組数百人の水手がいたそうだ」
「くじらぐみ、ですか」
「そうだ由比正雪が乱を起こしたころだ」
 講釈で聞いたことのある名前だ。
「鯨といえば紀州太地ですね」
 井蔵が知ったかぶりをした。景三郎は紀州といえば梅干しか思いつかない。
「左様だ。ただ、かの地の鯨は網で獲る、安房では突いて獲る」
「さすが関東の漁師は勇ましいや」
 井蔵があまり無邪気に喜ぶので青山同心は苦笑した。
「太地の鯨はセミとかザトウとか言って大きいので網でからめなければ銛が打てない。こっちはツチ鯨と申してせいぜいが数間、また突かれると深く潜るので網が引き込まれてしまう、それだけの違いだ。その醍醐新兵衛がこの前、訴えてきた」
 昔話かと思ったらそうではなかった。二人はびっくりした、由比正雪の頃から生きているのか。青山同心が今度はバカにして笑った。
「代々が同じ名乗りなのだよ」
 訴状はこんな内容だ。
 近年、異国船が出没して大小かまわずに沖で鯨を獲ってしまうため、浜に寄る鯨は少なくなり漁師の迷惑この上ない。ついては攘夷を厳しく行い、異国船には我が国近辺への渡来を固く禁止し、鯨を獲ることをご法度としていただきたい。
「なるほど道理だ」
 我が国では、鯨は肉を食べ、骨を細工し、ヒゲまでも大事に使うが、異国船は油を煮出しただけであとは捨ててしまう、まことに罰当たりなことだ。数知れぬ油樽を載せているので一隻が何百もの鯨を殺しているだろう。
「それはまことの事かと吟味役が聞いたら、漂流した廻船の水手が異国の鯨取り船に助けられて帰ってきた、その者から聞いた話だと言う。土産に鯨のタレと申す珍味を持参した、俺もご相伴したが固くて噛むのに苦労した」
 上方では鯨は鍋物にしたり酢味噌で食したりするが安房では干物にする。火であぶって食べると精がつくそうだ。
「大きな干物ですね、五間(10メートル)もあるんですか」
 青山同心は今度は本気に怒った。
「まぜっかえすな、切り身を干す」
 イギリス、オランダがはるばる航海してくるのは交易のためだから多くの開港地は求めない。しかしアメリカは捕鯨船に水や食料、薪などを補給するので多くの開港地を求める。だから便利にすると多くの船がやってきて鯨を獲り尽くす。漁師たちはいよいよ難儀する。
「異国船は安房の漁師たちが獲るような小物ではなく、大きな鯨を獲るといった、ナガスなどというのは十間も十五間もあるそうだ」
 井蔵は舌なめずりして言った。
「ずいぶんたくさんタレができますね」
「ところが安房で干物にするのはツチだけでナガスは美味くないそうだ。だから獲らない、人には好みというのがある」
 しかし奉行所は困った。まさか鯨組のために攘夷を行うなどはできない。攘夷だ開国だと騒いでいる中にはこんな問題もある、もしかすると後で気がついて口惜しがることもあるだろう。改めて知りませんでしたでは済まない大きな責任があることに気づいた。幕府も朝廷もそこまでは推測できない。

鳳凰丸
    春山同心から鳳凰丸の手伝いをせよと命じられた、それを待ち望んでいたのだ。
 組み立て場から春山弁蔵の大きな声が聞こえた。船大工の棟梁長吉が隣で笑っている。ちょうど作業は休息になるようだ。
「若い衆、こちらにおいでなさい」
 長吉が腰をずらして二人を間に座らせた。
「奉行の目付になって俺たちが怠けていないか探査に参ったな、白状せい」
 春山は三郎助より4才年上だが若々しい冗談好きな同心だ。
「鳳凰丸がどのくらい出来たか見てこいと言われました」
「よし案内しよう、歩きながら話をするからしっかり覚えておけよ」
 骨組みができ始めている。側板にする木材が並んでいる。片隅には帆柱にする丸太が長く寝かせてある。清々しい木の香りがして思ったよりはるかに巨大なので驚いた。
「さあ話すぞ」
 弁蔵は頭に入っていることを次々に取り出してみせた。
「船の形、造作は黒船の形を手本にする、過日、三郎助殿がしっかりと覚えてきてくれた。 長120尺(1尺は30センチ)、幅30尺、深さ15尺、7貫目砲4門を積む予定だ」
「この長い材木は帆柱ですか」
「そうだ、最初は2本帆柱のつもりだったが、それではペリーの黒船に見劣りするとお偉い方が苦情を言われてな、3本に変更した」
「すごいですね」
「もう少し悩みを言うと、下された費用では肋材が十分に用意できない。仕方ないから和船と同じようにタナ板で補強することにした。和洋の知恵を集めた船だ」
「費用はいくらくらいですか」
「よく知らんが1万両で2隻分だそうだが実際はもっとかかるだろう。大砲も10門は積みたいのだが日本中のどこにあるのか分からない、これはお奉行様が探してくれることになっている」
「水手はどうするのですか」
「俺は船を造るだけだ、水手のことは香山殿と佐々倉殿が手配している。浦賀居廻りの14ヶ村から30人ばかり、塩飽の島々から廻船の水手を30人ばかり集める予定だそうだ。とにかく急いでおる、来年ペリーが来た時に見せつけるのだ。水戸では旭日丸、薩摩では昇平丸を造り始めた。浦賀が負けるわけにはいかぬ」
 大工の長吉がキセルから煙を吹いてうれしそうに笑った。
「おいらの爺さんは肥後細川の波奈之丸(なみなし丸)って御座船を見たと言っている。隅田川の蔵には幕府の安宅船がしまってあるってさ。造って100年目だよ。普通の船の寿命が20年、12年目ごとに大修繕しな
ければ水漏れして沈んじまうんだ」
「そうしないと船大工が食っていかれないからな」
 春山が大声で笑った。
「そうよ、船匠と木挽きの賃銭が日に3匁3分さ、同心様と違って余禄というものがないからな」
「俺たちが年に30俵、余禄を足しても大工には及ばないさ」

 美帷が口をはさんだ。
「鳳凰丸っていい名前ね、あの孔雀みたいなきれいな鳥でしょ、結婚式場で見たわ」
「そうだよ、軍艦につける名前ではないね、江戸幕府は前例主義だから徳川初期の軍船の名前を引っ張り出したのさ」
 その水軍の将が向井将監、家康と秀忠に信頼されて浦賀を与えられた。幕末まで御船奉行を務めている。
「鳳凰丸を浦賀で造ったの?」
「造ったのは船大工の長吉たちです」
「オジさんは素直でない人ね、そういうなら小田原城だって造ったのは大工さんと左官屋さんだわ」
 ぷんと怒ってにらみつけた。
「ごめん、つい中学生をからかいたくなるのが私の悪い癖でして」
「ヘッヘ、私も怒ってみせただけ、お返し」

地震


 嘉永7年11月4日朝、地震が起きた。初めはゆるい揺れが続き、郷人は不安を感じながらも迫ってくる冬の支度をしている。玄七とヤエは干し大根の見回りに行った。長柄川を見下ろす日当たりのいい田んぼには稲に代わって大根が干されている。砂地の畑は水はけがよくて、おまけに深く掘れるので大根が立派に育つ。秋口に蒔いた種がこんなに大きな大根になっているのがうれしい。
 道を下りて田んぼについた時、突然、二人は地面にたたきつけられた。立とうとしたが跳ね上げるように地面が揺れて立てない。大根を干していたハゼ木は四方に飛び散って大根が宙高く飛んだ。
 山がくずれるぞという叫び声が聞こえてさすがの戴陽も家から飛び出して川に向かった。見回すと山の中腹がくずれ大きな木が立ったまま茶色い土砂に押し流されていた。柱が倒れて茅葺の屋根が地面にめりこんだ家もある。
 玄七とヤエもようやく起き上がり大根の間に座った。空には驚くほどたくさんのカラスとトンビが鳴きながら飛びまわっている。 ゴーゴーと気味の悪い音が山を越して海から響いてきた。風の音とは違う、何か凶暴なうなり声のようだった。
 突然、川の流れが止まり、水が下から上に流れてきた。あっという間に岸辺は水に浸され川幅がいっぱいになり、流れはどんどんと
川をさかのぼっていく。それが引かぬうちに次の流れが来た。津波だ。戴陽は景三郎のことを一瞬だけ心配したが足元まで水がよせてきたのであわてて高みに逃げ出した。一番下の田んぼをおおいつくして水は止まった。そして今度は恐ろしい力であらゆる物をもぎとって引いていった。川辺の木も草も舟着き場の大石もすさまじい音を立てて海へ連れ去られてしまった。
 山仕事をしていた日林上人もようやく寺に戻ってきた。寺子屋の布川勇四郎は相変わらずのんびりと崩れた家や崖を見て回っていた。
「幸いまるでつぶれてしまったのは一軒だけだな、あとは手直しをすれば大丈夫そうだよ、地の底のナマズが暴れるというがずいぶん大きなやつだ。玄七さん食べてみるかい」
「おらはふるえて腰が抜けて気が遠くなっただ、薬になるなら食べましょうや」
 二人はのんきな会話をしている。地震はまた翌日もあった。
 景三郎が見舞いに戻ったのは翌々日だった。浦賀の船も問屋の倉も被害にあった。伊豆の戸田に入港していたロシアの黒船が沈んだといううわさも流れてきた。

フート号
 前年の途中で元号が変わり嘉永が安政になった、ペリー来航や江戸と東海の相次ぐ大地震で世の中に厭世気分が充満している、幕府も朝廷も手っ取り早い金がかからぬ対策をとった。
 安政2年になっても浦賀奉行所にも重たい気分が漂っている。
「また来たよ、今度は下田にさ」
 下田奉行所与力から移って支配調役になった合原猪三郎が三郎助の家に挨拶にきた。
「出世したね、めでたいな」
「今、兄貴のところに挨拶に行ってきた」
 兄の操蔵は父清司とともにモリソン号を砲撃し三郎助とともにペリー艦隊を接待した与力だ。
 景三郎も井蔵も奥の部屋で耳をすましている。1月末に異国船が下田に来たという。
「船はどこからだい、フランスか」
「いや、またアメリカだ。ところが今度は軍艦ではないんだ。カロライン・フート号という名前で、五百石積みくらいかな」
「黒船かい」
「帆柱二本のほっそりしたきれいな白い船だ。大砲は積んでいない。なにより驚いたのは女が3人、子どもが2人、犬2匹、子鹿1匹、ぞろぞろ降りてきて散歩を始めた」
「物見遊山の船か」
「その通り、みな着飾ってね、さすがのお奉行川路様も見とれていたよ、きれいなご婦人と子どもたちにさ」
「おやおや軍艦で脅して女で蕩かすのかい、アメリカさんも隅におけないね」
「下田の町は福の神のご来臨さ、日本土産を何百両もお買い上げで大儲け」
「何を欲しがったって」
「布・茶碗・細工物・絵、職人衆の作るものはなんでもござれだ」
「開国すると儲かるね」
「そうとも、伊勢参りの賑わいになるよ」
 景三郎と井蔵は顔を見合わせた。そうだ異国人にも家族があって男の子も女の子もいるんだ。みんな軍艦の厳つい士官と水兵しか知らなかっただけだ。
 安政元年3月、横浜で条約調印を終えたペリーはいったん下田に戻り、次に開港地になった箱館を視察してから、また下田で条約の細目を取り決めた。そして6月2日に去っていった。
 その後すぐの6月24日にはレディ・ピアース号というヨットが下田に入港した。アメリカのバローズという大富豪が民間大使になったつもりで冒険旅行をしてきた。そして7月1日に出航していった。
 10月15日にはロシアの軍艦ディアナ号が入港し日露和親条約を求めた。総督プチャーチンは前年に大坂に入港したが本国でクリミア戦争が起こり英仏が敵となったため、いったん退避してから再度、来航してきたのだ。ところが11月の安政東海地震の大津波で艦は大破した。代官江川太郎左衛門の助力で代替の船を伊豆の戸田で造っている最中だった。
 三郎助は造船の様子を見に行ったばかりだった。景三郎も井蔵も一緒に行きたかったのだが、急ぐ旅だと断られ無念の思いをかみしめた。
 三郎助はしみじみと下田奉行に同情した。
「川路聖莫(としあきら)さんもお疲れだな。ようやくプチャーチン一件の目途がついたのに」
「ところが難題、造った船が小さくて全員が乗り切れない。水兵を早く国に返してやりたいからフート号を貸してくれと言いだしたんだよ」
「貸してやればいいさ、どうせタダとは言わないんだろ」
「物見遊山が10人も乗っている、それを下田で待たせておくのか、これも面倒だがロシア総督の頼みだから仕方ない」
 というわけでフート号は160名のロシア兵と士官を乗せて箱館経由でカムチャッカまで行き、そこに停泊していたアメリカ船に一行を引き渡して4月12日に帰港した。
 待ちくたびれた遊山客を乗せて出航し箱館に着いたが箱館奉行所が下船を許さない、散々の思いで船はグアムを経由してサンフランシスコに帰った。一行の持ち帰った日本土産は元値の4倍で売れたという。目先の利いた冒険的商人、またはあわよくば取得権を得ようとした投機だったのだろう。おまけに驚くほど高額の輸送費をロシアに要求したという。
「それで一件落着ではなかったんだよ」 
 フート号は地元の商店に未払金を残して逃げたのだ。
「飛ぶ鳥が後を濁した、返済をどうするか。俺も困ったよ」
 4ヶ月もぐずぐすしているうちにハリスがアメリカ総領事として下田に到着した。
「これ幸いさ、初仕事をしてもらおう。ハリスも困ったろうよ、不名誉な仕事だから」
合原猪三郎も散々知恵をしぼって幕府の得意技を出した、商人に御用達、既得権、独占などの権利を与えて解決しようとした。
「俺がいなくなったのでハリスはまだ困っているだろうよ」
「アメリカ人もしたたかだな」
 三郎助が感心したように言うので景三郎と井蔵も一緒になって笑った。

ペリー再航
 嘉永7年(安政元年)1月16日、約束より早くペリーは再びやってきた。今回は旗艦サスケハナ号の他8隻の軍艦を率いている。幕府は大あわてだったが奉行所や庶民は戦争にはならないと予測して去年ほど騒がなかった。
 ペリーは士官教育に熱心な教育者だったので日本人の識字率の高さや寺子屋の教育目標が善い人を育てるのではなく、より善い人を目指す人を育てるのだということを大変に評価していた。それで交渉にあたる幕閣を怠け者の士官と同じように扱った。
1月25日のワシントン誕生日を各艦で盛大に祝うために祝砲を撃つことを幕府に通告した。一発四響と驚かせた大砲を千発も撃って武威を示した。到底、戦力ではかなわないことを思い知らせた。
 支配組頭の黒川嘉兵衛が交渉に当ったがペリーは同意せず交渉相手に香山栄左衛門を指定した。黒川は困って香山は病気で死んだと話したがペリーは信じなかった。
1月28日、香山は応接掛に復帰した。前と同じく久里浜で会談したいと提案し、江戸を要求するアダムスと激論した末、妥協して横浜に応接場を作ることになった。奉行所の与力も同心もほとんどが横浜に出向いたが景三郎と井蔵は留守番だった。沖のどこかに艦隊がいると思うと気が抜けない、警備や巡回で二人とも疲れ果てた。
2月10日、第一回目の会談が行われた。
 応接場には松代10万石真田信濃守を正面に林大学頭、伊沢・井戸両奉行が控え、通詞は森山と堀、応接掛は香山、中島など浦賀与力、警備は江戸町奉行所の応援で与力同心200名が待ち受けた。そこへ海兵の黒服、陸兵のカーキ服、金モールで飾った士官など500名が軍楽隊を先頭に堂々と入場した。
「なにしろ囃子を先導に整然と行列を進めたんだ。おまけに幕府のご要職が応接所に入ろうとして式台に足をかけた途端に囃子隊が演奏した。ご要職も驚いたし警護の我々も肝をつぶしたよ」
 浦賀に帰ってきた与力同心のうわさ話を景三郎も井蔵も目を丸くして聞いた。
 瓦版屋も大忙しだった。夷服船形帽のペリー、ヒゲのアダムス、眼鏡のウィリアムスなどが役者絵のように売れた。
2月12日、艦隊の帆船マセドニアン号が座礁した。弾丸を海に捨てて浮力を増し2隻の蒸気船が引っ張って離礁した。浦賀奉行所も船を出して警備や援助を行った。後日、海に沈んだ弾丸を拾いあげると一発40キロ、中には150キロもの砲弾があって奉行所の面々は驚愕した。
2月17日、2回目の会談もペリーは武威を示した。下田と箱館の開港が決められた。
2月24日、伊沢奉行はペリーの土産の品物を御披露目した。たくさん種類の農具や蒸気機関車の模型、電信機などが好奇の目とともに技術者の目で観察された。蒸気機関は陸上でも使える、電信はどこまでも電線を伸ばせばいい、明治2年には横浜東京間に電信が始まり、明治5年には鉄道が敷設された。
3月3日に日米和親条約が結ばれてペリー艦隊は帰航していった。
 日本側の責任者安部正弘は攘夷派に取り囲まれている、天皇も諸藩も多くの幕臣も攘夷にこり固まっている。一方、ベリーの後ろには武力行使しても開国を促せという議会と新聞が圧力をかけている。情報は行き交った、プチャーチンのロシア艦隊が長崎に向かっている、アメリカ商人がロシア艦隊に大量の石炭を売った、フランス船が香港から日本に向かう準備をしている。焦りと怒りが阿部老中とペリーを追い立て、2人とも健康を害していた。

鳳凰丸初航海
 嘉永6年末に鳳凰丸は進水した。それから艤装の一切を終えて試験航海に出たのは安政2年5月11日だった。ただ大砲だけは全部そろえることができず7貫目半の大筒4門、3貫目の中筒あわせて6門だけしか搭載できなかった。3貫目の中筒は昔、大坂城を攻めた時に使ったのと同型の古馴染みだ。大砲の操作は前後左右に揺れる船の上で砲弾を筒先に押し込み見計らってドンと撃つ、人間のする作業の中で一番の力仕事だろう。
本来ならば船将1 士官与力6 下士官同心28 足軽10 船頭3 水手60 医師、通詞、大工、鉄砲師、鍛冶、桶職、髪結、仕立て職 計10名が乗り組む。しかし試験ということで中島三郎助と佐々倉桐十郎が船将代理となり浦賀の与力同心が士官下士官となった。
船将部屋の入り口には鳳凰の額を飾り、船首には鳳凰の彫刻、船尾にはその尾をきらめかせている。
 景三郎と井蔵は今度も乗船できなかった。
船を見送った2人はうっとりして涙を流した、船は青い海に朱色の影を落とし白波を立てて帆走していった。
しかし三郎助の胸の中には視察に来た勝麟太郎の言葉が残っている。
「なんだ黒船に対抗して赤船にしたのか」
「おいらも嫌だったが御座船は赤く塗るのがきまりなんだそうだ」
「肋材の費用がないから和洋折衷にしたんだって」
「千石船の構造はよくできているよ」
「これでは西洋の船と名乗ることはできないな」
 勝麟太郎殿は嫉妬深いんだ、自分が一番乗りでなければすまないお人なんだ、人の功は認めない、賢いのを鼻にかける、ともかく口の悪い江戸っ子なんだから気にかけるな、そんな慰めを言う仲間もいたが、三郎助はこの怒りは消えそうにないと思っている。
安政2年2月27日、船は江戸に回航した。朝の7時に出航して午後1時に品川に着いた。3日後に阿部正弘をはじめ2人の老中、若年寄、大目付、勘定奉行など主要な幕閣が全部、乗り込んできた。接待役与力以下全員が甲板に平伏して出迎えた。小銃の発射訓練を見て一同は舟に乗り移り帰っていった。しかし阿部老中は鳳凰丸を沿海では役立つが遠洋航海は難しそうだと漏らした。勝麟太郎が入れ知恵したのだろう。
 江戸でのお披露目をすませて浦賀に帰ってくると乗組員一同は有頂天のまま次の航海を求めた。
「そうだ下田に行こう、あそこならお奉行様もダメだとは言えないだろう」
 誰言うとなく意見が決まって検分のためという名目が通った。
「お前たちの同行を許す」
 佐々倉桐太郎の許しを得て二人は手を取り合って喜んだ。鳳凰丸で下田まで航海できるんだ。
 盛秋の穏やかな日だった。ただ大工の長吉は懸念していた。
「佐々倉の旦那、西の方が湿っていますぜ、嵐が心配だよ」
「なに逆に嵐にあって船を確かめてみたいくらいだ、いずれアメリカまで行く船だ」
「馬だって乗り慣れてみなければ危ないものですぜ」
「下田の途中はいくつも風待ちの湊があります。廻船が平気で行く海を我らが怖れてどうするのです」
 春山同心はもちろん一途に行きたい気持ちだ。
船は追い手を一杯に帆にはらんで、へさきで波を切って進んだ。後に航跡が白く続いた。
「中島さん良かったね、薩摩の昇平丸や水戸の旭日丸より一足早くできてさ。竜骨にはめ込む肋材を少なくしたからだよ」
 春山に言われて三郎助も笑った。
「幕府は天文方が持っていた図面通りの二檣スループにしろと言ってきた。だが薩摩も水戸もバークを造るらしいから負けちゃあいられないや、丈を2間ほど伸ばして前2本のマストに横帆、後ろに縦帆の三檣バークにしたんだ。ペリーの黒船を見て覚えたからそんなに難しくはなかったね。千石船のように船釘でしっかり固定してあるからヤワなもんじゃあないよ」
 佐々倉も風に吹かれて気持ちよさそうだ。
「勝さんはこの船をけなしたね。浦賀でさっさと造ってしまったのがしゃくの種、その上、中島さんと俺が航海して大砲の試射までしたことがねたましくて和洋折衷のアイノコ船だとか赤く塗ったオイラン船だとか言いたい放題さ。だけど赤く塗ったのは幕府だよ、黒船に張り合って赤船だとさ。おう見てごらんマストに鳥が止まったよ」
「廻船にもよく止まります」
「捕って食おうか」
「駄目ですよ、海の神様のおつかわしです」
 風が変わって西になり少しうねりが高くなった。風上側から波が大きなフトンを盛り上げたように舷側に迫ってきた。あっというまに船が大きく傾いた。帆ゲタが釣竿のように傾いて海面に届きそうだ、長吉は黙って船体を凝視している。
 それから一日、船は大揺れとなり波が甲板を洗い流した。帆は張れず舵はきかず風に流された。与力や同心たちも立ち上がることのできない者がいる、水手たちも根を上げた。井蔵は元気でびしょぬれになりながら作業の手伝いをしているが、景三郎は船底の部屋の中で転がるだけだった。
 ようやく風が少し収まって船は生き返ったように帆を張り下田へ向かった。
 下田の大浦は下田城を回りこんだ小さな入り江で風待ちの千石船が入る湊だ。浜には運上所と長屋があり小高い丘に役宅があった。小石混じりの浦だが灯明台の左手には白砂の浜がある。小振りの船は満潮を見計らって浜に乗り上げて荷降ろしする。
その日はたくさんの船が風待ちしていて鳳凰丸が碇を降ろす余地がない、千石船何隻分の場所を取るからだ。船は寝姿山の前に広がる湾に沖どまりした。外洋に広がった浦なので風も波も静まらなかった。
 しかし乗組みたちは嵐を乗り切ったという気持ちに感動して鳳凰丸をいまさらに信頼することができた。しかし景三郎は陸に上がるまで惨めな気持ちのまま船室に転がっていた。

桂小五郎
 中島三郎助を訪ねてきた武士は長州の桂小五郎、東条礼蔵と名乗った、大工も人同行している。桂は神道無念流の達人で三郎助も名前は聞いている。藩の仕事で大森海岸の警備に当り、江川太郎左衛門の許で台場建築を学び、その後、上宮田陣屋で勤めそれが終わった今、造船術を学んで帰国したいという。師の吉田松陰の推薦でもあった。
下男として住み込ませてくれと願う。
「ご覧の通り与力の役宅というのはこんなものです。貴公らの部屋がない」
「裏に小屋がありましたが」
「物置にしております」
「そこをお貸しいただけますまいか」
 熱心な依頼に断りきれず長蔵と景三郎は2人をそこに案内した。荷物を運び出すやら掃除をするやら、身の回りの品と調度を入れ布団を運び込んでようやく2畳ほどのすき間を作った。大工2人は長吉が預かった。
 6畳の居間で家族4人若党長蔵と景三郎それに新来の武士2人が夕食を食べる、箱膳を置くだけで身動きもとれない、しかし三郎助は2人を家族団らんの中に招き入れた。
 武士2人と大工2人はあきれるほど熱心に造船を学んだ、長州大工は西国では腕達者で通っているそうだ。春山弁蔵と長吉は質問攻めにあった。気合のこもった鋭い質問にへきえきした。すべての答えを書きとめ図面を写し飽くことなく鳳凰丸に乗船して観察した。その間に三郎助と春山にアメリカ軍艦の構造や装備、操船や組織などをとことん聞こうとする。
 そんな4人を三郎助は温かく見守った。晩餐にも気を配り井蔵も毎日食事を共にした。
「小五郎氏は天下の豪傑だ、よく習っておくとよい」
 桂小五郎は言葉少なかった、沈思黙考して洞察する、争いを避けようとする、そして抱擁力があった。後に維新の動乱に際しても逃げの小五郎とあだ名がついた。
「剣の修業は大変でしたか」
 景三郎が聞いてもニッコリ笑うだけだ。そういうときには東条礼蔵が多弁になった。
「なにしろ天下の直心影流の道場破りをしたほどだ。錬兵館の塾頭だったよ」
「強くなる秘訣はなんですか」
「愚者となって努力することさ、才人は過信するからなと桂は言っておるよ」
 東条は通詞のように言う。
「長州はどんなところですね」
 三郎助の妻のスズも赤ん坊をあやしながら話に加わった。
「ええとこじゃ」
 小五郎が低く答え、スズがきょとんとすると東条が笑った。
「良い所だと申しております」
 三郎助は時折、料理屋に誘った。春山弁蔵と長吉もかならず同行した。女房子どもの前では話せないこともある。
「なあ、小五郎さん、京都は芸どころ祇園も北野の上七軒も遊べばおもしろいところだそうですね」
「長州を出て、ほんの数日京都におっただけですが、町屋の細い道を歩いていても三味線の音が聞こえてきました」
 長吉が抗弁する。
「なに江戸の町だって、この浦賀だって三味線の音はしますよ」
「諸国は流行を追って新しい歌をもてはやします。京都は古いものに価値を見出すので、歌い継がれてきた地唄が多い」
 弁蔵は浦賀っ子なので抗弁する。
「あの辛気くさい低い声で歌うやつですかい、よく退屈しないと思うね」
「灯りを暗くして地唄を聞きながら静かに酒を戴くのはまことに良いものです」
「茶碗酒をあおってパッと騒ぐがいいや、まるでお寺で飲んでいるようだ」
 三郎助もせっかちの本性を現す。
「静かに酔っていくと思いも深まっていきます。同じ上方でも大阪は陽気な酒ですが京都は違います」
「お前さん、京都は好きかい」
「たぶん性に合っているのでしょう。しっかりした古い根っこに新しい枝を挿して、まったく違った実を作ることができる、そんな気がいたします」
「つまり尊王で倒幕かい」
 三郎助が気軽に聞くと小五郎も気軽に答える。
「幕府には日本を束ねる力がもう残っておりません。根が枯れてしまった」
 三郎助の頭には黒船の脅威が染み込んでいる、小五郎は剣豪だけに自分の力を頼む気持ちがある。
「だから挿し木もできないか。と言っても江戸は日本の中心だよ、京大阪では日本全部を束ねられないだろう。幕府の代わりに長州がやってくれるのかい」
「いえ天皇(みかど)が」
「後ろ盾は長州だろ、人形遣いはさ」
「…」
「相変わらず大砲の撃ち合いだね、男同士の酒はすぐに口論さ。お待ちどう様、上州屋の梅ちゃんを連れてきましたよ。栄屋のお玉さんは風邪だって、不足でしょうが今晩は二人だけ、ササ、騒ぎ唄でも弾きましょう」
 幇間の喜八が仲を結んだ。
「ほらみろ、浦賀も粋だろ、言い過ぎたのは謝るよ、心地を直して飲んでくれ」
「私も若輩のくせに大言を吐きました、面目ない」
 2人とも諸国の分け知り、開けた人だ。
「なんだね、謝りながら酒を飲むなんてケンカの手打ちだよ、お次は都々逸」
 翌朝も早くから鳳凰丸に取り付いて調べている。4人の身分・目的・推薦状は奉行に提出し与力同心にも周知しているがあまりの熱心さに不安に思う者もいた。吉田松陰の影があることに気づかう者もいる。

遊学
 安政2年、幕府は海軍伝習所を長崎に開くことにした。勝麟太郎も海防の意見書を提出したので取締りに任じられたが一番の末席だった。勝は蘭学を少し学んだが実績はない、剣術は免許皆伝だがそれは普通のことだ。
 中島三郎助はペリー艦隊に単身で乗り込んで評判が高く、佐々倉桐太郎はビッドル艦隊一番乗りだ、鳳凰丸を造船し巡航した実績も大きい。
「桂さん、すまない」
 突然、三郎助が謝るので桂小五郎は驚いた。
「なんですか大筒一発ですね」
「おいらに長崎に行けというんだ」
 うわさ話に聞いていた。プチャーチンのロシア艦隊が長崎に入港した。老中の安部正弘も焦燥して出島のオランダ商館に頼んだ。蒸気船ならなんでもいい、何隻でもいい。士官や水兵、乗組員はどうするのか。船さえあれば日本人がなんとかする、これには商館長も呆れたが日本との関係を永続するためと思い本国に発注した。安部正弘は浦賀で造った鳳凰丸に試乗して乗組員の訓練をどうするか目算を立てた。大勢の留学は困難だから教師を招聘すればいい。適地は浦賀だったが水戸の徳川斉昭に反対された、江戸の間近に異国人を居住させたくない、攘夷にこりかたまっている。それで伝習所は長崎になった。
「おいらは与力だから同行若党一名というお定めだが断られてしまったよ」
 若党の長蔵は嫌だという、遠く長崎くんだりまで行きたくない。あてにならないたとえに長崎から強飯がくるっていうじゃないか、いくら旦那のお供でも行かれやしない。老親がいることを盾にしておゆるしを願った。
「長州から長崎はまあ数日という道のりです。確かに江戸からは遠い」
「桂さんにはずっといてほしかったのだが、おいらがいないと辛そうだからね」
 奉行所役人には警戒感が強い、他国者を取り締まる立場だからだ。三郎助が出てしまえば居づらいだろう。
「短い時間でしたが私の目はすっかり晴れました。世界へ船出していきましょう。それで若党はどうなさる。景三郎を連れて行ってはいかがですか」
「景三郎はおいらの家の者だから奉行所の帳簿に名前が載っていないのさ」
「なに造作もない、景三郎が長蔵と名乗ればいいのです、みな同じことをしています」
 三郎助は景三郎を呼んだ。
「ぜひ行ってみたいです、長崎には俺の曽祖父も勤めたと聞いています」
そうだった蜀山人大田直次郎は長崎奉行所に勤めたことがある。
 それを聞いた井蔵はうらやましくて口惜しくて怒り出した。
「俺も必ず行くぞ」
「先に行って待っているよ」
「お前に務まるなら俺にはへっちゃらだ」
佐々倉桐太郎も困っていた。若党は行きたくないといい、他藩の武士や町衆がぜひにと自薦してくる。ついに奉行所を通して幕府に確認してもらった。与力は若党、槍持ち、草履取り計3名、同心は若党、草履取りの2名であるが手当は与力同心が自分で負担することとする。
「つまり何人でも誰でもいいということか」
「お達しは鎧兜を持たない、できるだけ持ち物は少なくしろというだけだそうだ」
「なにしろ宿舎と教場が長崎西奉行所だという、浦賀奉行所よりずっと手狭だ」
三郎助は早速、戴陽老人の許しを乞いに長柄の郷まで足を運んだ。三郎助さんに任せたのだ否応ないよ、まな板の上の鯉だかドジョウだか、上手に料理してくんな、そんな返事だった。
 一同を船で長崎まで送るという通達がにわかに届いて、あわただしく旅の支度をしなければならなかった。


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