6章 1862文久2年
       遣欧使節 

僕儀遣欧遊歴本日無事浦賀着船仕候間 御安意可被下候 肥前屋ノ急報ニヨリ父上御病気トノ事別段御起居如何 江戸滞留仕候後危急帰郷仕候 御病御用心専一奉存候 一筆飛走
 癸亥           景三郎
尊大人様

 私は遣欧使節の一員として旅に出ておりましたが、本日、無事に浦賀港に着船いたしました。まずはご安堵いただきたいと存じます。肥前屋が父上ご病気と知らせてくれたので取り急ぎ手紙をしたためます、ご様態はいかがですか。船はそのまま横浜に行き江戸で御用を勤めて終わり次第、父上のもとに帰ります。
まずはとりあえず帰国のお知らせだけ。くれくれもご病気の治療に専念してください。急ぎしたためます。
 文久3年       景三郎
父上様
                       
「遣欧使節って何なの」
「咸臨丸の遣米使節は有名だけれど、翌年に幕府はヨーロッパに使節を送った。安政5年までに5ヶ国と修好通商条約を結んでいてアメリカとは批准したが残りの英仏蘭露とはまだ批准していなかったんだ」
「なぜすぐに批准しなかったのかしら」
「開港を遅らせたかったんだ、江戸・大坂・兵庫・新潟の五つの港で貿易をすることになった攘夷が盛んで井伊大老まで暗殺される始末だ。諸国の駐日公使も政情不安なので批准を急がなかったがアメリカのハリス公使だけは熱心だった。アメリカは南北戦争の前でせっかちになっていたのかな」
「同じ人が行ったの」
「幕府は疑り深いからほとんどが初めの人だ、2度目は福沢諭吉他5名だけ。外国奉行や勘定奉行をリーダーにして総計36名、文久2年1月に長崎を出航し12月に江戸に戻った。往路がイギリス軍艦、帰路がフランス軍艦と役割分担したんだ」
「成果はあったの」
「出航後の日本は攘夷で大変、安藤老中が襲撃され薩摩藩が生麦事件を起こし長州藩士がイギリス公使館を焼き討ちした。帰国後には薩英戦争が起こり、長州下関が四ヶ国連合艦隊に砲撃された」
「それでは使節が何を言っても無駄ね」
「その通り、しかし一行はたくさんのことを学んで帰ってきた」

 1年ぶりに畳の上を歩いた、使節団は帰国の報告をすませ、それぞれ目付に「存知よりのところ」を申し立て、それを書き役が記してまとめあげるとお役御免になった。「格別の思し召し」で道中奉行が帰路の手配をしてくれたので一同の思いは一気に故郷に飛んだ。景三郎も神奈川奉行所に戻ることになったがしばらくの休暇を願った。義父戴陽を介護したいから、しかし雑事が多い役所では自分の勉強ができないからでもあった。国許へ帰る人も多いがこの時勢では再び会うことができるかどうかわからない。使節に同行した伊勢屋番頭長兵衛が如才なく気の合う人々に声をかけて送別の宴を開くことができた。下げ渡されたご褒美で皆のふところは豊かだ。
「料理屋といえば山谷の八百膳ですかな」
「格式が高くて少し窮屈だ、なにしろ芸者幇間を呼ばなければならんのでちと荷が重い」
「花見頃なら王子の扇屋なんだが」
 皆1年ぶりの江戸に浮き浮きしている。
「やはり存知よりの処がよろしいようで、松本楼ですか」
 長兵衛はニコニコ笑った。
同心斎藤大之進は松本楼の主人松本金兵衛の弟だった。松本楼は大きな料理屋で勝麟太郎も土佐の太守山内容堂も顧客に名を連ねている。
 そんなわけで松本楼の座敷には10数名の団員が集まっていた。ところが斎藤大之進は不参加だった。一同に肩を凝らせないためか、または兄の下では飲みたくないのか、長兵衛はしくじったのかなと後悔した。
「往路のヘイ艦長には迷惑をかけましたね。アメリカ人とイギリス人は違うと諭吉さんもよく言っていました」
 重兵衛が福地源一郎に盃をさしながら言った。源一郎は一行の中でも最年少の1人、まだ21才になったばかりだが長崎伝習所や英語の森山塾で学んだ俊才だ、景三郎も親しく思っている。
「僕が驚いたのは規律に厳格なことです。艦長が駄目と言えば絶対に駄目、見習うべきところです、幕府のように形ばかりではない、」
 源一郎はよくわがままを言って艦長にも目付にも叱られていた。
 アメリカは体制維持か変革かの内乱南北戦争の2年目で、いずれ英米戦争に発展するかもしれない軍隊の規律維持は厳重だったのだ。
「私などは商人マゲを結っていますから、どう扱うか先様も迷ったようですがついに中甲板には出られませんでした」
 長兵衛が苦笑いして言うと少し年上の松木弘安という翻訳方の医師も頭を突き出した。
「私も同様です、医者の息子はミスターとは呼んでもサーとは呼びません、サーは大使他の四人のお方だけだ、イギリスはわが国と似たところがあります」
 面長の控え目な人物だ、オランダ語に見切りをつけて蕃書調所に籍を置きながら私塾でイギリス語を学んだという。
 景三郎はもっぱら聞く方に回っている。
「往路、遠州沖の嵐はひどいものでした、うわさには聞いておりましたが船酔いというものを初めて知りました、まだ長崎にも着いていないのにこのざまとは情けなかった」
 重兵衛が吐きそうな顔で言う。
「僕も必ず船酔いの薬を研究しようと固く誓ったものだよ、でも陸に上がるとすっかり忘れてしまってさ」
 景三郎とともに蕃所調所教授手伝いをしていた蘭学者で医者の箕作秋坪という若者だ。
「医者というのは薄情なものさ」
 源一郎が松木と箕作を冷やかしたが実は源一郎の実家も医師なのだ。
「皆さんにはおひまもあったろうが拙者などは朝夕の飯の支度で働きづめ、杉殿の分まではたらきましたぞ」
岡鹿之助という佐賀藩士が恨み言をいう。賄方として一行にもぐりこんだ武士だが役割分担には過不足があったようだ。
「貴公は器用だから飯の炊きようを心得ていたが拙者などに作らせたら船酔いの前に腹痛で松木殿の世話になっていたろう」
 杉孫七郎は長州藩士、賄方並小使という資格で同行したが日本に戻れば立派な藩士で一同の誰よりも身分は上だ。
「杉氏は詩人でござったな、道中の詩を聞きたいものだ、感慨を新たにしましょう」
 松木は世故にたけた勧め上手だ。
「さればさ、こんな詩でござる」
水村山郭淡烟霞 処々停車近酒家
此地春光亦駘蕩 東風開遍万桜花
アジアからインド洋を抜けスエズからカイロへ、船を乗り換えてマルセーユに上陸し汽車でリヨンに向かった、あの時だ。
「思い出します、海の上、砂漠、また海と、ずっと足が地につきませんでした」
 これには重兵衛も松木弘安もうっとりと情景を思い出している。
「あれは桃の花だったな、異国に桃源郷を見た思いがする」
 しかし福地はかすかに冷笑を浮かべて景三郎だけに小声で言った。
「僕にはウグイスの声が聞こえませんでしたな、江南ではないからか」 
『江南春』という杜牧の詩は景三郎に馴染みの深い唐詩だ。義父の戴陽が好きで口ずさむのを何回となく聞いている。確かに孫七郎の詩は趣向も語句も似ている。せっかくの趣向に水をさすなと景三郎は小さくにらんでみせた。解釈が通じたことを知り源一郎も鼻をつまんでみせた。景三郎が杉孫七郎に気をつかってとりなした。
「ペリーも日本人の文才に驚いておりました。清朝と同じだと思ってはいけない。寺子屋では善い人を育てるのではなく、より善い人を目指す人を育てている。そう言って日本人を褒めたそうです」
 しかしペリーの洞察したことは黙っていた。日本には二人の皇帝がいる。一人は宗教的なミカドで原理的なものを、もう一人は世俗的なタイクンで実務的なものを扱う。二人制というのはタイクンの政府でも基盤となっている。そう言って日本の遅れた政体を批判しているのだ。
「道中はまずまずよろしかったが使節の首尾はうまくいきませんでした」
 松木は情けなさそうだ。
 フランスはナポレオン三世全盛、一行をルーブルホテルに泊めて圧倒的な文化の違いを見せつけ、関税など様々な案件をやつぎばやに要求して通詞と使節を翻弄した。しかし随員たちには動植物園に招待し気球を見せ、大病院と武器工場、劇場を見せておおいに文化を賞賛させた。
 逆にイギリスは一行を冷淡に扱った。アジアの植民地経営に熟達している上、攘夷に揺れる使節の足元を見すかしていた。ちょうど開催中の万国博覧会で日本が出品したのが未開国なみのがらくたばかりだったのも逆風だった。しかし日本公使オールコックの尽力でロンドン覚書の中に幕府の立場を受容する内容を盛り込み、これから訪問する各国に基盤をつくることができた。一行は港湾施設を見、軍事工場を見、テムズトンネルを見、学校を見、天文台を見た。大英博物館も見学した。
次のオランダでは大歓迎を受けた。正使の答辞を日本の通詞が見事なオランダ語に訳したからでもある。王室ヨット、王室専用列車に一同は喜び、官民あわせた歓迎に一行は久々にくつろいだ。軍事工場や印刷所を見、聾唖盲学校で感動したりした。議会制度を問いただし、オランダ国王に謁見した。しかし開港延期の交渉は何一つ受け入れられなかった。
 ベルリンには汽車で入った。ヴィルヘルム一世は交渉にまったく応じなかった。そして皇帝自ら1万の騎兵歩兵を指揮してみせて軍事国家ということを誇示した。
 次に汽車でロシアに入り船に乗り換えてペテルブルグに向かった。アレクサンドル二世は開明的だがロシア革命の原因となった人物だ。応接に当たって食事も部屋の調度も小物もすべて日本風にあつらえた。ようやく福沢諭吉がそのわけをつきとめた。日本人が住んでいる、ウラジミル・オシオヴィッチ・ヤマトフこと橘耕斎、元掛川藩士。沈没したディアナ号の代替を戸田で造船した時、プチャーチンに求められて地図や節用集を渡したのが露見してロシアに逃亡していたのだ。皇帝は謁見して国書を受領したが樺太境界や最恵国待遇などの扱いは難航し成果はまったくなかった。一行はガラス工場や磁器工場、鉱山学校、病院では手術を見、冷凍マンモスまで見て感動した。それで帰路になった。
 帰路、プロシャは費用を惜しんでホテルに2泊だけ泊めなかった。一行はフランスに10数日滞在してフランス船に乗った。
 途中、ポルトガルに寄り国王を表敬し、地中海では大嵐にあい、カイロを経由して日本に向かった。
「帰りのフランスの船はひどかったな」
 松木弘安が憤慨冷めやらぬ表情で言う。
「私ども下甲板の者は食べ物もろくろくもらえません、まるで囚人のようでした」
 重兵衛も怒っている。地中海では朝食がパンと粥だけ、それも14人にコップ1つを与えられてそれで食えという、昼夜は絶食だ。ラン号と言う古い兵員輸送艦で船足は遅い。乗り換えたウーロープ号もそれに輪をかけた老朽艦だった、相変わらず食事も住環境も悪い。フランス海軍は使節団を厄介者だと思ったようだ。そんな船で嵐にあい命からがらインドに着いた時に伝えられたニュースが生麦事件と参勤交代の廃止だった。一同は動乱を予感した。
「杉氏、まだ詩がござろう」
 松木が如才なくうながすと重兵衛も商人らしく世辞を言う。
「ご披露たまわりたいものでございます」
「これはベルリンで創りました」
        客夢驚時夜正深 車声已歇燭光沈 
        家山万里無消息 満地秋風滞伯林
「しみじみと故郷のことを思い出しました」
 また源一郎が小さい声で景三郎につぶやく。
「客心驚落木 夜座聴秋風」
 これも戴陽が好きだった詩だ。これも同じような趣向だ、旅にあって浅い眠りから醒め、過去を思い未来を案じる、景三郎はすらすらと続きを言った。
「朝日看容鬢 生涯在鏡中」
 源一郎が少し驚いた。
「君がこれほどの文人だったとは、僕は竹林の仲間を得ました、恐れ入りました」
 深々とお辞儀をする源一郎を松木が見とがめた。
「福地君、どうしたんだ」
「いやなに、満地秋風滞伯林の夜が、からっ風吹きすさぶ江戸に変わったので胸がつまったのでしょう。まさに詩成れば鬼神を泣かすとか」
 景三郎は苦笑して狂歌を思い出した。
「歌詠みは下手こそよけれ天地の動き出してはたまるものかは」
「おや宿屋飯盛だね、君は和漢の才を越えていまやフランスにまで手を延ばしている」
 福地は褒め上手で、そしてうっかり乗せられると冷水を浴びせかける曲者らしい、景三郎はあわてて酒を注いだ。
「あの松木という人はお由羅の方に召しだされ島津斉彬に江戸遊学を命じられた才人だよ。ただお由羅は自分の子の久光を藩主にしたくて陰謀を企て斉彬派を大弾圧した。だから西郷も大久保もお由羅を未だに憎んでいる。関わりのある松木さんはああやって目立たないように努めているんだ」
 ことの次第は分からない、ただお由羅は江戸生まれで八百屋とも大工ともいう。水道の水で産湯をつかった江戸娘がそんな根性悪をするとも思えない。松木は後々までお由羅に恩義と親しみを持っていた。
 食べて飲んで別れを惜しんで会は終わりとなった。
「ここに人集まり去っていく前途を知らず」
 やはり杉孫七郎は感傷的な詩人らしい。

「それでこの人たちはその後どうなったの」
「もちろん調べておきましたよ、歴史の激流をそれぞれは必死に生きました」
福沢諭吉はその後の使節にも同行し外国の様々な知識や制度を日本に出現させた。卓越した教育者で官軍と彰義隊が上野の山で激戦しているときにも悠々として英語を教えていたという。葉山の相福寺裏に別荘を建て、寺のケヤキの木が立派だと喜んでいたというよ。
福地源一郎は旗本に取り立てられたが維新後は反権力の立場を貫くジャーナリストになり次々に新聞を刊行した。福地桜痴の名で政治小説を書き、劇作家として新しい歌舞伎脚本を書いたりして池之端の御前と言われ庶民に愛された。
松木弘安は後に寺島宗則と名乗り外務卿、文部卿などを歴任、特に神奈川県令の時に電気通信事業を推進したので電気通信の父と呼ばれている。伯爵を授かった。
杉孫七郎は帰国後、長州藩の主要な役を歴任し維新後は子爵となった。秋田県令や宮内大輔などを務めた。
 岡鹿之助は故郷の佐賀に戻った。その子息の岡鬼太郎は劇評家、孫の岡鹿之助は画家となった。鬼太郎は歌舞伎から寄席までの大衆芸能を批評し、鹿之助は美しい幻想的な洋画を描いて文化勲章を受けた。
ウラジミル・オシオヴィッチ・ヤマトフこと橘耕斎は帰国して江戸に住んだ。明治18年亡くなり芝白金の順正寺に葬られた。


「すごいな、みんながんばっている」
「正使竹内下野守は閑職においやられた。副使松平石見守は老中になったが何の功績も挙げなかった。監察京極能登守はカラフト国境問題で判断をあやまり外交史に禍誤を残した」
「偉い人たちは役に立たなかったんだね」
「ただナンバー4の組頭柴田貞太郎は外国奉行になり生麦事件を処理し、横須賀製鉄所建設準備のために再度フランスに渡り兵庫開港問題に取り組み大活躍した。しかし維新後は上総にひっこんでしまった」
「なぜ明治になってがんばらなかったの」
「武士の意地だろうね、幕府だけが大切で日本をどうするかという気持ちがない、薩長に盗られたのが憎い、だから潔く身を引く」
「自己中だね、エゴイスト」
「けれど濁った心ではないね」
「それでいいとは思わないわ」

    景三郎は神奈川奉行所に帰朝の挨拶をした。実務責任を負う調役は元浦賀与力の小笠原甫三郎と合原猪三郎だった。
すべてが新しい業務ばかりなので二人とも目の回る忙しさだった。
「この前はイギリス公使のオールコックが死んだ水兵の墓地を求めてきた。あちらは墓標に十字架を立てるそうだ、寺社奉行は許さないと言っている、どうしたものか。詳しく説明して納得させることができぬのだよ」
 合原は景三郎を相手にグチを言う。
「商人というものは金の一念だ、それは日本人も異国人も同じさ。騙された、損をしたと両方がうるさいほど言ってくる。そのくせ儲かれば後は野となれ山となれだ」
 一攫千金を求める者たちばかりだから当然だ。
「蒸気船の修理は日本人でもできるようになった。ただ異国人は疑い深いので作業の一部始終を奉行所が見張っていろという。どうやらアジアの諸国で修理をすると怠けたり器具を盗んだりするかららしい。何分にも言葉が通じないというものはまことに困る」
 そう言ってじっと見る。景三郎は思い切って言った。
「しばらく郷に帰らせてください。義父の看病をしてやりたいのです」
「ほう、それは親孝行だから仕方あるまい。だが、こちらもテンテコマイの最中だ通詞がいなくては何もできない、父君には申し訳ないがすぐ帰ってほしいのだ、そこは頼むぞ」
 景三郎はこれ以上に引き止められないうちにと早々に奉行所を後にした。
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