オランダ商館が平戸に設立されることになって旧教国スペイン、ポルトガル(南蛮)と新教国オランダ、イギリス(紅毛)の争いはいよいよ激しくなった。マニラでは日本人が騒乱を起こし掃討され、その報復に有馬晴信は長崎でポルトガル船マード・レデウス号を撃沈した。そんな折、スペイン船サン・フランシスコ号が安房で遭難し、ドン・ロドリゴ・ビベロが家康、秀忠に謁見した。薩摩は幕府に申し出て異国船渡来の備えの必要を説き琉球を征服した。
夜話の茶を進ぜる、忠勝とともに参られよ、正純から手紙がきた。軽い誘いには重い中身があることが多い、アダムスとユキはあれこれ憶測しながら駿府城の控えの間に入った。
このごろではアダムスは日本語に上達した。かなり難しい言葉も操るようになった。しかし、ユキにはいつも側にいてもらいたかった。伝えられる言葉の奥には真意が隠れていることが多かったし、アダムスも微妙な感情をユキに相談することができた。
「アダムス殿はエリザベス女王を慕っておる、ユキ殿はその身代りだ」
正純に笑われたこともある。そして景丸もイギリスの言葉にかなり上達していた。アダムスとユキが難しい問題を人前で語り合っている、それがイギリスの言葉なので聞いている者には分からない、そんな会話に景丸も加わることができるようになった。
三人は招かれるままに茶室に入った。にじり口という狭い戸をすりぬけると畳敷きの小部屋があった。三人が肩を寄せ合って座った。静寂におされて固まった空気を無理やり飲み込むような奇妙な感じだった。
「アダムス殿、扇を前に置きなされ」
忠勝が小声で言った。前に説明されたが忘れていた。閉じた扇を自分のひざの前に置いた。忠勝がそっと手をのばして向きを変えた。自分がとても無作法な者に思えて顔が熱くなった。ただ扇の向きを間違えただけなのにこんなに恥ずかしくなるのはなぜだろう。どん困難にあっても恐れず真正面から挑んできた自分がこんな狭い部屋のとるにたらない儀式で心を揺るがしている、これは妙だ。
主人の座には正純が座っている。とても真剣な様子は、まるで戦場に臨むようだった。そして強い筋肉は刀をひらめかせるように少しのたわみもなく器を取り茶を立てる。香り高い茶が供され、三人が順に茶をすすった。
一同は無心。濃い茶がのどを通るとき安心が生まれた。幼いころから友であったかのような心になった。アダムスの緩(ゆる)みを感じ取って正純がほんのわずかの表情を見せた。アダムスはうれしくて立ち上がって握手を交わしたい気持ちを抑えるのが大変だった。
正純が言った。
「大御所様が話しておられました。太閤はおのれが中心にいる茶室を作り、それが黄金。利休居士はおのれの中にある茶室に人を招きいれ、それが小庵」
「アダムス殿にはご理解が難しくはございませんか」
ユキが長々と通訳しているのを聞いて忠勝が微笑んだ。あれこれと例をあげ、物の見方、考え方までを細かく説明しなければこの意味は伝えられない。しかし、アダムスは別のことを考えていた。
「大御所様はどちらのお考えですか」
正純は真面目に答えた。
「大御所様のことはおそれ多い。拙者のことを申します。一切空は人間にあらず、欲を是とするのも潔からず。古田織部は『へうげ(ひょうげ)』と言いました。軽い心です。死生は天命、そうありたい」
忠勝がつぶやいた。
「数知れぬ戦場の一番槍、味方の誉れ敵のおののき、私もそうありたい」
また長いユキの通訳がある。
「結構なお手前でござった」
「別室に食事が容易してあります」
一同が奥の部屋に入るとそこに家康が待っていた。
「茶を飲んだか」
力のこもった低い声だった。アダムスは全身に震えが走った、いよいよ本題だ。
「私は嵐の中の船を思っていました。ロープもマストもキールもそれぞれの役目を果たすので船乗りの心は安心です。同じ力がすべてにみなぎって船は壊れずにすみます。私たちはうれしくなって歌を歌います。嵐の中に太陽を運んできます、そんな気持ちになりました」
「アダムス殿もイギリスで座禅を修行したようだ。これは難しい」
正純が微笑しながら言った。
「茶は居住まいを正す場だ。おのれを厳しく律すれば、徳自(おの)ずと高まり、慈愛があふれてくる、そんな美しき身仕舞いでいたい。言葉はいたらないものだ、姿が物語る」
家康がつぶやきユキの通訳を待った。アダムスには十分には理解できなかったが、さっきあたたかな気持ちになったことだろうと思った。
「さて話だが…リベロが来た、マニラのスペイン総督だと言っておる…巴が4つになりそうだ。」
前年のことだ。マードレ・デ・デウス号というポルトガル船が長崎に入港した。年1回だけのマカオの貿易船で2百トンの絹布と多量の銀塊を積んできた。
そこにやっかいな問題が起きた。船長のペッソアはマカオの前総督で、つい半年前に日本人の騒動を鎮圧して大勢を殺害した。わずかに生き残った日本人が告発している。そのうえペッソアは長崎奉行の積荷点検を拒否し船にたてこもった。有馬晴信は攻撃をしかけ船を捕獲しようとした。数日の戦闘で有馬側にも多大な犠牲があったが、ついにペッソアは火薬庫に火をつけて自沈してしまった。ポルトガル商館は財政危機となった。
今年になって7月にアダムスはオランダ人スペックスを家康に謁見させ、オランダ商館設立の許可を受けた。
ポルトガルは憎悪した、もともとが敵同士だ。日本を巻き込んで三つ巴の紛争になりかねない。
忠勝が思わず声に出した。
「厄介な、そこにスペインも加わりますか」ビベロが滞在して紛争に介入すれば四つ巴になってしまう。
正純がさっきとは違う沈んだ声で言った。
「書簡を交わしてメキシコとの中継ぎを浦賀でさせようとした。平戸、長崎は遠い。ところが難破してサンフランシスコ号とか申す乗船は上総に漂着し、もはや水に浮くことができないそうだ。もう一隻は豊後に流れ着いた」
ビベロをすぐに帰さなければならない、礼篤く歓待して送り帰す。
「私に命じられることは」
「その方の船を与えよ、メキシコ渡海はできよう」
家康もアダムスがその120トンのガレオンを我が子のように思っていることは知っている。
「船はどこに係留してあるのか」
「浦賀にございます」
「すぐに伊東に回航して準備せよ」
「かしこまりました」
忠勝が何か言いかけるのを正純が押さえた。アダムスは平然と平伏して退出した。
「忠勝殿、大御所様はまた船を造るお考えです。もっと大きい船を造らせろと」
「…なるほどアダムス殿にはそれが分かったのですか」
家康は上機嫌で一同の退出を許すと、正純にお梅の所に挨拶していけと命じた。一番年の若い側室お梅の方はまだ16才、孫娘に等しい。老松のまわりには姫小松を植えるものだ、家康はそう言って身近におき肩をもませたり給仕をさせたりしている。だから、お梅の方はなんの屈託もなく正純やアダムスと話をする。
「正純様は楽しいお方、忠勝様はまるでサザエのように愛想がない、アダムス様は良いお方です、頼もしくて優しくて」
あどけない口調で話すのを家康は目を細めて聞いている。もはや還暦を過ぎて側室たちの身の振り方も考えておこうとしている、何事にも心配りを忘れない家康だった。
「その女王様と申されるのはどんなお方ですか、お姫様や若様はどんな着物を着ているのですか」
「お方様はご存じないのか、エリザベス様は独り身です。イギリス国と結婚したと申しておられるそうです。のう正純殿」
忠勝が無骨に言う。
「太古に我が国にもヒミコという国と結婚した女王がおりましたが」
正純はちらっと学識を見せた、女人の前で見栄を張り忠勝に差をつけようとしたのだ。
「女人の衣装は南蛮も紅毛もさほど変わりません。首には細かいヒダの飾り、胴着と長いガウンにも、髪にも指にもたくさんの宝石の飾りがついております」
正純が絵に見た姿を話して聞かせる。
「私も一度は着てみたいものです、似合いましょうかアダムス殿」
諸国、風習は変わっても女人のお洒落好きには変わりない、アダムスは笑った。
「先日ビベロというスペイン人が参りましたが、あの装束をご覧になりましたか」
「羽のついた黒い大きい帽子、金の模様と房のついた緑の上着、赤の黒の縞の短い袴、紫のビロードのマント、足には白くて薄い肌着をつけていました」
ちらっと見ただけなのによく覚えている、これが女人だ、一同はほっと微笑した。
「武者たちも戦場で敵の装束を忘れません、首打った後に申し立てるためにです」
「忠勝殿はいつでも戦場にいるようですね」
「お方様と太刀打ちすれば見事に私は討ち取られますでしょう」
せいいっぱいの忠勝の追従だ。
「女王様は亡くなりました」
アダムスが切なそうに言った。
「上様が征夷大将軍になられた頃のことです。オランダ人が教えてくれました」
「それはお心落としで…辛いことを思い出させて…許してください」
お梅の方が手をついて謝った。正純はその姿をじっと見ている。
「もう一度エリザベス女王様にお声をかけていただきたかった、女王様のいないイギリスは空っぽです」
「我らとて大御所様を失えば心が空っぽになるでしょう」
「正純殿、とんだ話をおっしゃるな」
忠勝に制せられて正純はあわてた。しかし今度はお梅がじっと正純を見つめている。
「結婚しない、子を持たない、国のためだけに務めた方、偉い女王様でしたね」
「そして世継ぎは」
「ジェームスという甥御が王になりました」
評判のよくない人物だとオランダ人は話していた。アダムスの帰国の意志はなえていた、前途の航海が耐えられなく辛いものに思われた。
「ユキ殿はオランダ衣装をお持ちでなかったか、お梅様にご覧に入れたらいかがか」
忠勝が話題を変えてくれた。
「そうだ、それがいい、お似合いになることだろう、上様にもご覧に入れよう」
「さっそく帰りましたらば…」
誰よりも正純がいそいそとしていた。
景丸は城の供待ちの部屋で待っていた。夜なので忠勝の供が3名いるだけだった。二人は若い郎党、もう一人は波に洗われ潮風に吹かれたた根株のような老人だった。
「スペイン人というのは一向宗と同じ狂信者だよ。俺は若いころ石山本願寺攻めに加わった。門徒たちは進めば極楽、退けば地獄と叫んで死ぬのを怖がらない。あいつらの目付きを見ているとそれを思い出す」
老人は海の男、幼少の忠勝に付き添って鍛えあげた頑固者だという。
「スペインのフェリペ王は修道院で暮らしているそうです」
あとの二人は新規召し仕えの侍、大御所様は北条遺臣を禄高に応じて分配した。
「パードレは禁欲だ、仏教の坊主とは違うと信者をひきつけておるが真実の聖人とは思えない、金にも物にも執着するし、功名争いが大変だ、第一、戦争が大好きだ」
「あいつらは何を手柄にするんだろう」
たいがいの武士は一度浪人をすると心がめげて気が練れるという。三河譜代の武士は浪人をしないので思う存分頑迷なのだと正純が言っていた。
「信者を増やして教会をたくさん建てれば上役に褒められるし、本国に帰れば出世するそうだ」
「でも、はるばる日本にまで来るというのだからえりすぐりの者だろう」
「ならばいっそう危ういの、知恵を振るって騒動を起こすぞ、桑原桑原」
「アダムス殿がいれば心強いと忠勝様も申されている」
景丸は年若なので話を聞いているだけにした。
「悪いのはスペイン・ポルトガルの南蛮人だ、イギリス・オランダの紅毛人は我が仲間だ」
「しかし見た目で区別がつかないのは困りものだの」
「日本人と高麗、明国の者との区別もつかないそうですよ」
「話してみれば言葉が違う。景丸殿は異国の言葉に堪能になったそうだ。分かりますか」
このところ皆が景丸にていねいな言葉で話すようになった。自分から語ったことはないが、誰かが聞きつけて景丸は家康から元服の名を与えられたということが広まったからだろう、だから無礼な振る舞いをしては大御所様にすまない。
「私の父は小田原の戦いに出てまだ帰りません。何かご存知のことがありますか」
「お名前は何とおっしゃる、何、足軽…殿か、家臣ならばご家老が記しておるが…」
「戦場と申すはよほどの友も敵に見える修羅の世界でござるからの」
そこへ一同が退出するという知らせが届いた。供の者たちはあわてて立ち上がって支度をした。
正純と忠勝とアダムスはまだ話し足りないようだ。
「ところで琉球はどうなったか」
正純がアダムスに聞く。
「船乗りたちは中継ぎの港にしたいと言っております。ポルトガル人は台湾を追われたので新たなコロニアルを求めています」
「島津が征服したいと言ってきた。はるか海原の島国なれば兵と兵糧の運搬が大変だ」
忠勝は水軍を心配する。
「琉球は王国なれど武備は弱い。ポルトガルに隙をつかれぬように日本の兵を置いておくのが得策であろう」
しかし正純は幕府がかかわるのを嫌がっている。話が元に戻った。
「さて、ビベロとともに誰をいかせようか、大御所様のご家来だと正式な通商の使節になる」
「スペインが強引に約定を求めるとあとの障りになります。貿易の瀬踏みなら利にさとい商人の方がしたたかでしょう」
「なるほどもっともだ。ところで船には使節三十人が乗らなければならぬ。アダムス殿のガレオンは何人乗りだったか」
「船客なら五十人、ただ水夫が百人おらねば船が操れません」
「今から始めたら船はいつ出帆できるか」
「風待ちして夏には」
「よし、忠勝殿ご助力を頼む」
後にビベロはその船にサン・ブエナ・ヴェンチュラ(幸運な聖人)という名をつけた。
アダムスは浦賀に直行したがユキは逸見屋敷に戻った。そしてジョセフを連れ、ナギサはスザンナを抱いて逸見の湊から小舟に乗って浦賀にやってきた。
忠勝が水手を手配し、船大工に指示書を書きあわただしく十数日が経った。
子どもたちを少しも早く海に慣れさせることがアダムスの希望だった。それが実現した。浦賀から伊東まで、わずかの航海だが幼児と景丸、ナギサを乗せてガレオンは出航した。
正面には富士山、何日か前に降った初雪で頂きを白く輝かせている。雲ひとつない秋晴れの日だった。江ノ島から茅ヶ崎、平塚、国府津と松林が続いている。東海道の道は今朝もたくさんの人が往来して埃にまみれていることだろう。そして沖を走るこの船を画のように見ていることだろう。深く青い海に白い波を立ててすべっていく船が誇らしくて景丸はへさきで風にあたっていた。
忠勝が脇に立って笑いながら言った。
「そなたは良いが妹子は良くなさそうだぞ」
はっと気がついて船室に行くとナギサがスザンナを抱えて倒れこんでいる。ユキとジュセフは船尾で白波を見て海を楽しんでいる。
「小舟と大船では揺れ方がちがうから、1日の辛抱さ、寝ているより仕方ない」
「梅干をあげましょう」
忠勝が同情してくれたがナギサは青い顔を横にふった。
「ジョセフ様は父君の血をひいている」
景丸が声をかけるとジョセフはうれしそうに走ってきた。
「船に乗って海を渡るんだ。お父様の国にも行くんだ」
へさきの波の音、船板のきしむ音、帆と綱が風にはためく音だけが聞こえる。忠勝も海と空を見ながら何か思い出しているようだった。
「大筒の音も雄叫びの声も聞こえない、泰平の世はありがたい」
「戦さがなくては功名を立てられませんね」
「それでも戦さのない方がいい」
ただの武士なら憶病者とばかにされるだろう、しかし忠勝は歴戦の勇士だ。この相模の海では北条と戦い、朝鮮の海にまで出て戦った強者だ。
伊東には船匠の亥兵衛老人が待っていてくれた。
「おお可愛いお子様だ。アダムス殿に似て凛々しく、ユキ様に似て気品がある。ささ旅の疲れは湯が癒してくれます。一風呂浴びなされ」
午後の明るい陽が差し込んで湯がキラキラと光っている。土地の人もまだ来ない、少し離れた女ばかりの湯の方から歓声が聞こえてくる。
アダムスも忠勝も目の回るほど忙しそうだ。船は船匠、水手は水手頭、それぞれの持分で奮闘している。アダムスは現場を鋭く観察し、忠勝は奉行の雑事をすべてこなさなくてはならない。留守宅の仕事もある。
ユキは子どもたちを連れて帰ることになった。景丸とナギサも同行する。箱根を越える4日の旅だ。誰よりもナギサが喜んだ。
風が木の梢を吹いていく。物音におびえて乳首を離さなかったベスがようやく眠った。ユキは立って夜なべ仕事でワラジを編んでいるナギサのそばに座った。
「ユキ様はどうして異国の言葉が話せるのですか」
前から聞こうと思っていたことをナギサは尋ねた。
「小さい頃、父と共に異国に渡りました」
一緒にワラジを作りながらユキが答えた。
「でも、ユキ様は日本橋の名主、馬込様の娘と聞きましたが」
「それは長いお話、ワラジが十ほどもできますよ」
ユキが覚えているのは焼け落ちる城から逃げて船に乗り、長い航海のあと南国で暮らしたことだ。父は戦い敗れて私たち三姉妹を異国に連れてきた。その地に暮らして領主の客分となり武術を教えた。父は無口で私たちともあまり話さなかった、大事な秘密がもれてしまうのを恐れていたのかも知れない。
「本当の父なのか、それとも父に仕えていた武士なのかも分かりません。しかし私たちには優しく温かい父でした。私はユキ、次の妹はツキ、一番下の妹はハナという名前でした。一家は異国にありながら楽しく暮らしていましたが、私が十三才になった時、父は熱病で亡くなりました」
そこは他に日本人の住んでいない所だった。親しくしていたイギリス人の商人家族が見かねて私たちを引き取ってくれた。私たちはイギリスの言葉が話せるようになった。それから三年たって、義父となったイギリス商人は日本との貿易を企てて慶長九年の茶屋朱印船に姉妹を連れて乗りこんだ。
「私たち姉妹は男の子の服装をしていました。短い刀を差し日焼けして乱暴な言い方をしました。女を船に乗せるのをいやがる人が多かったし、男でいた方が身が守れると考えたのです」
ところが船は何日目かに嵐に出くわし、激しく揺れて中の妹のツキが波にさらわれてしまった。それを助けようとしたイギリス人の義父も海に流されて行方知れずとなった。船は航海を続けて平戸に着いたが、二人だけ残されたユキとハナは行く所がなくて途方にくれた。
「すると、船主の茶屋四郎次郎様が引き取って自分の屋敷に住まわせてくれました。私たちが女の姿に戻るとたいへんびっくりされました。そしてアダムス様に引き合わせて身の回りの世話をするように頼まれました」
家康の命で江戸に行くアダムス一行に仕えて供をする者が求められていた。しかし日本の女たちは異国人の世話をすることを嫌がって誰も引き受けようとしない。困っていた茶屋にとって異国帰りの二人はちょうどよかった。そしてアダムスもユキとハナがイギリスの言葉を話すのを知ってたいへん喜んだ。それから二人はイギリスの言葉を学び、アダムスに日本の言葉を教えた。
半年ばかりのうちにアダムスの日本語はたいへん上達し日常会話ができるようになった。それを聞いた家康は二人の素性を調べるよう本多正純に命じた。キリシタン禁制の時代に異国人とその国の言葉で話す娘にどんなうわさが立つか分からない。家康は用心深かった。
「それで私たち姉妹は日本橋伝馬町の名主、馬込勘解由様の義理の娘となりました」
ナギサにはもっと聞きたいことがあった。「それで、アダムス様と夫婦になられたのですか」
「妹は早くにサントフォールト様と結ばれました。しかしアダムス様は堅くご自身を戒めておりました。ふるさとには奥様と子どもがいます。だから重ねて結婚することはできない、天の罰をこうむると。しかし大御所様はアダムス様をたいへん大事にされました。旗本にして領地も与えてくれました。そして、こう命じられました。ユキを妻とせよ、ならば二人の気持ちは一つとなる、余も心を安んじて話ができる。ようやく、アダムス様も決心しました。ある日、ついに私の手を取って美しい指輪をはめて言いました、妻と子の許しがあった、今から死ぬまで夫婦となる。私は涙を流しアダムス様も目を濡らしていました。ナギサさん、按針様をどう思いますか」
「日本のお侍よりずっと雄々しくて優しくて、私にまで丁寧にしてくれます。イギリスの武士というのはとても女を大事にするのですね」
「シュバリィという武士の掟があるそうです」
「殿様は立派なお顔立ちですね」
「あなたもそう思いますか」
「えっ」
二人は笑いあった。
「きっと、このワラジをはく時にはアダムス様の足がむずむずすることでしょう」
父が死んだ後、領主の部下が襲ってきて、着の身着のままで逃げだしたことをナギサには言わなかった。単身で来ているオランダやポルトガルの商人たちもケモノのように姉妹をねらった。日本の朱印船も姉妹が乗ればたちまち人買いに売り渡すだろう。この時代に女でいることは不幸な目にあうことが多い。この少女も父母を失い何度も危ういことがあったのではないか、ユキは自分が受けた情けを人に与えることができる幸せを感じていた。
「景丸も立派な顔立ちです、ナギサ殿もお美しくなることでしょう」
ナギサが顔を赤らめたのでユキはほのぼのとした気持ちになった。
「少し疲れました。お茶にしましょう」
最初、アダムスはユキがキリシタンではないかと心配していた。日本の弾圧が怖かった。十年ほど前には二十六聖人殉教というヨーロッパにまで伝わる凄惨(せいさん)な事件があった。今後、禁教はいよいよ激しくなるだろう。スペインはそれに反発していよいよ攻勢を強めるだろう、そこでイギリスの出番になる。そんな展望を持っていた。しかしユキは信仰のことは何も言わなかった。異国に置いてきてしまったように見えた。アダムスは船乗りの常として信仰心は篤(あつ)いが、その信じるイギリス国教は合理的な教えだった。迷信や旧習にこだわらない。アダムスは多忙の上、体を休めることを嫌う船乗り気質の持ち主だ。いずれ自分から話をすることもあるだろう、さっぱりと割り切ることができた。
「だいぶ夜も更けました。こんな話を聞いたので寝苦しい晩になるかもしれませんよ」
アダムスはクモを見ていた。小さな緑色のクモが蒔絵の箱の上を動いている。ふっと息を吹きかけると手足を伸ばしぴったりと箱にへばりついて姿を隠したつもりになっている。じっと見ていると動かない。よそ見をするとすぐに手足を縮めて歩き出そうとする。また見る、また止まる。きっと見るときに目から気配が流れてクモは感じ取るのだろう。触れることはないのにクモは感じる。
大御所様から帰国の許しが出た。しかしアダムスとヤン・ヨーステンは残ることを選んだ。リーフデ号の乗組員たちは喜んで逸見に集まり別れの宴を行った。アダムスは感じ取っていた、自分が日本に留まる決意を持ったので帰国の許可が出たのだと。それぞれの知識と技術はすべて吸収したので、いつ帰国させても良かったが、アダムスの心の動揺だけを怖れている。永住の気持ちが揺らがないことを確信するまでは他の乗組員たちを帰国させようとしなかったのだと。
正純や忠勝も大御所様をいつも感じている。大御所様も一同を感じ取っている。声もかけず見もせずに、クモよりもっと気を研ぎすませ、時には眠ったふりをして、一同の心をよんでいる。指を動かしただけで大名をひねりつぶしてしまうほどの力を大御所様は身につけている。その恐ろしい凝視を避けようと身を縮めている者もいる。
ふとおかしくなって笑った。もし面前に大御所様がいたら穏やかな顔に鷹の目で自分を見すえたことだろう。
いつものように控えの間に登城すると向井忠勝がそばに来てささやいた。
「アダムス殿、明後日は八朔祭りゆえ何事か祝いをなして客を招くとよい、かく申すは八朔にかこつけて貴殿とお話ししたく」
アダムスは初めて聞いた「八朔」という言葉に困惑した。
「なんの祭りでござろう」
「大御所様江戸入りのめでたい日でござる。武家は武具馬具を飾り、武術をたしなんだりして幕府の末永い安泰を祈願いたす」
「八朔には郷でも祭りをいたします。獅子舞を出します」
景丸が言った。
「おお、それそれ、八朔のことについては思い出すことがある」
いつのまにかそばに来ていた本多正純が笑って言った。
「ちょうど関が原の翌年だ」
正純は昔話を始めた。
さすがの本多正信も病床につくことが多くなった。ある日、家康は見舞ってから正純にこう言った。
「親父殿もずいぶん悪相になったの」
「お目障りになりましたか、多忙で鏡を見る暇がないのでございましょう、しかと申しておきます」
「なになに褒めたのだ。ああいう顔の方が諸大名につけこまれなくてよい。朝廷向きには榊原、のっぺりした顔で他愛なく愛想をふりまいておればいい」
「ありがたき幸せ、父も喜びましょう」
「いや言うなよ。わしの言葉にとまどって命を縮めるといけないから」
家康は、懐刀として長い間、謀略を廻らしてきた本多正信をも自分との間合いを図って接してきた。敵にしてみれば相手の度量が初めて分かる、役立たずの味方よりも、一旦は敵になって自分を苦しめた男の方が良い働きをするものだ、家康はそう思っていた。
親しげな家康の言葉に正純は踏み込んでみることにした。
「信長様は佐久間信盛を放逐するときにわざと古い過ちを並べ立てたそうです。世人は本願寺攻めの失態と知っていたが、それを信長様に言われたら腹を切らなければならない。だからわざと古いことを言って命を助けたのだそうです。明智光秀はそうした信長様の気遣いを理解できなかったようです」
家康は正純が誰のことを言っているのか思案しながら話を戻した。衆人の前では絶対に心を開けっぴろげにしないのが家康だ。
「江戸入りの日を末永く人に覚えさせておく策があるか」
問われて正純はすぐに答えた。
「さらば、この日葉月一日は八朔と申し、百姓は古くから稲の実り、田の実の祝いをしてまいりました。鎌倉の時代には武士も祝いの日といたしております」
「なるほど武士だけでなく百姓も祝う日ならば、今後もないがしろにすることはないだろう。わしは武士を統率する、だが、百姓はおのれの了見で働いてもらわなければ米は作れぬ。百姓に祝ってもらってこそ幕府は安泰だ」
「おおせの通り、秀吉は商人には始終、目を向けていましたが、百姓は検地で締め付けておけばいいと思っていました」
「百姓は一日中、田で働いているので一つの事を思い続けるものだ。そこに一向宗は付け込んだ。来世の安穏、南無阿弥陀仏などと申して百姓の一念を凝り固まらせた。死よりも仏罰を怖れるなどと狂気の沙汰だ。生きてこそ開けることがあろうに」
正信は昔、一向一揆に与して家康に無念の爪をかませたことを思い出してひやりとした。さっきの踏み込みにもうしっぺ返しがきた。この方は絶対に忘れない、きっとあれこれを思い出して爪をかみながら眠れない夜を過ごすことがあるのだろう。
「禅は武士の信仰、戦場で勝敗の一瞬を判ずる胆力を育てます」
「同じ念仏でも一念を踊りに向わせる時宗はよいな。ハレの日に大いに踊ってこそケの日をしのぐことができようから」
「南無妙法蓮華経の日蓮宗はいかがです」
「陰謀をめぐらすほどの落ち着きはなさそうだ」
アダムスには正純の話は半分も理解できなかったろう、しかし大事なことだと受け止めて居住まいを正した。
「忠勝殿、正純殿、ご招待いたします、お出でいただけますか、我が故郷ではパーティと申します。ただご両所ともに祝いの日は多忙と存じますので、2日後、8月3日の午餐ではいかがでございましょう」
「なるほど鉢払いとなる、承知つかまつったが正純殿はご多忙だろう」
「いや、たまにはイギリスのご馳走を食べるのも養生のうちだ。拙者も話したいことがある、くれぐれも我らだけの集まりにしていただこう、またユキ殿にもお目にかかりたく」
「そなたには大御所様お勧めのお梅の方様がおられましょう」
忠勝がからかうと正純はあわてた。
「大御所様の一人合点だ。お梅の方様はそれがしには…」
「雪の枝に梅の花が咲くのも良い風情で」
正純がからかわれていることだけは分かってアダムスは話を終わらせてやろうとした。
「ではハッサクのバーティ、準備にハッソクとりかかりましょう」
「アダムス殿は洒落まで申される」
皆が笑いあった。
よく晴れた日、西風がさわやかだった。
アダムスは床の間に掛け軸の代わりにリーフデ号の海図を飾った。ユキが花を生けて香を焚いた。それは南の国の香りがした。
「このミカンを大御所様から頂戴した。土産に持参した、どうだ」
正純が大事そうに枝についたままのミカンを取り出した。アダムスと忠勝が一つずつ食べた。
「忠勝殿、何か気づかぬか」
「たいへん甘いミカンです。あっ、種がない」
「これをアダムスの庭で育ててみよと賜ってきました。種のない実がどうやって芽をだしますかと伺ったら、お前は百姓の智恵を知らない。景丸には分かるだろうと申された。お分かりになるか」
「はい、枝を土に差して芽をふかせます」
「なるほど、それもいいがもっと確かな技があるそうだ」
庭師はそれを秘伝と言っていたが大御所様に叱られたそうだ。
「それがいけない、どんなにすぐれた技でも人に伝えなければ滅びてしまう。もし、わしがそちを成敗したらどうなる」
タチバナの木を根こぎにして畑に植え、すっかり土になじんだら根を残して木を切りそこに枝を差す。固く縛って時を待てば根はタチバナ、実はミカンになる。枝の切り方と差し方に技がある。
「ちょうど頃合のタチバナの木があります。あれを親にして養子を取りましょう」
景丸が喜んで礼を言うと正純は落ち着かない表情で言った。
「まるでお公家さまだ。根はすっぱくても代々の名門家、そこに武士町人の娘を継いで花も実もある子孫をふやそうとする」
「お梅様のことですか」
カンのいいユキが応えた。正純は真っ赤になって打ち消した。
「大御所様のご側室を酸っぱいなどと言ったら首がとぶ」
「美しい奥方、凛々しい殿、お似合いの夫婦ではございませんか」
「今の言葉はすっかりユキ殿に返上しましょう。まさにお似合いの夫婦ではないか」
ユキが顔を赤く染めて台所に逃げていった。忠勝が笑いアダムスが正純をにらむふうをした。ナギサが酒を温め座敷に運んだ。
「景丸もナギサも一緒に食べましょう」
皿には山に積まれた里イモが乗っている。ユキにすすめられてクシを刺しミソをつけて食べ始める。
「あとから料理がでます。お茶席のように緊張しないでください」
アダムスは真面目な顔をして言った。
「まず八朔のパーティの初めに余興としてイギリスの歌を歌います」
アダムスは古いギターを取り出してきた。
「これはリーフデ号の形見、だが私は楽器が上手ではなかった」
そう言いながら弦を指で弾いた。
「音階を調整することさえできない」
ユキは笑って手を伸ばした。
「私が弾きましょう」
アダムスは喜んだ。
「妻というのは海賊のチェストと似ている、思いもかけない宝物が隠されている。船乗りの歌も知っていますか」
「いくつかは」
「イギリスの歌は」
「よく歌いましたわ」
あの南国のイギリス人の家では、週末になると小さな庭に椅子を持ち出して、金髪の少年と少女、黒い髪の三姉妹が歌う。母が焼けたビスケットとお茶をテーブルに載せ、父はパイプをくゆらせながら笑っている。そこにはユキたち三姉妹もいた。
アダムスもじっと思い出にひたっていたが、突然、低い声で歌い始めた。
Alas, my love,you do me wrong, To cast me off discourteously.
Alas、愛しきそなた むごたらしくも
我が思いを 情なく投げ捨てし人よ
「グリーンスリーブス」
ユキはつぶやいてギターの弦を弾いた。
For I have loved you for so long,Delighting in your company.
我は久しき間 そなたを慕った かたわらにいるだけで歓びだった
Greensleeves was all my joy Greensleeves was my delight,
Greensleeves was my heart of gold, And who but my lady greensleeves.
二人は声をあわせて歌った。ナギサも一生懸命に聞き取って歌おうとする。
「これは古い歌ではないが北の地方から広まってロンドンでも歌われていた。私はギリンガムの町を思い出す」
そこは入り江に山が迫った小さな町だった。隣のチャタムには大きな港があり、軍艦や商船が出入りする。ギリンガムは海が浅く、汐が引くと干潟になった。取り残されたカニや小魚を求めて海鳥たちが集まった。岸につながれた小舟も昼寝するように次の引き潮まで船腹をさらしていた。村人はすべて海の仕事をしていた。漁師もいたがチャタムで働く職人の方が多かった。船を造り船を修理し船に乗り組んで海を渡っていく。女と子どもだけの家庭が多かった。
ユキも思い出していた。妹のツキは海に沈んだ。そしてあのイギリス人の家族も父親をなくした。少年と少女は無事に大人になったのだろうか。さびしく故国に帰ったのだろうか。ユキは涙ぐんだ。そしてようやくのように気づいた。ここにも父を失った家庭がある。妻はメアリ、娘はデリヴァレンス、息子はジョンと言う名だとユキは聞いていた。アダムスは領主になったことを手紙に書いた。手紙は船から船へと手渡されてイギリスに届けられる。それが届いた時にはじめてアダムスが異境に生きて暮らしていることを家族は知る。夫であり父である人が生きていることはうれしく、しかし、会えないことは何倍のさびしさで心を満たすだろう。自分の心のやすらぎは、その代償として遠い国の人たちの心を波立たせている。
「どんな歌なんでしょう」
景丸が独り言を言った。ようやくアダムスとユキの思いはここに戻った。
「旅立って行った男を待つ娘の気持ちです。戦いに出たか、海に出たか、男は娘の所を去ったのです」
「かわいそうな娘さん、許しあった仲だったのですよ」
二人は自分のことのように話した。ナギサが涙をこぼしながら独り言をつぶやいた。
「母さんもそうだったわ」
ユキは初めて身近にいる二人の生まれも育ちも何も知らなかったことに気づいた。
「いや異国の歌で涙が出るとはなんということだ」
正純が目を赤くしていた。
「私は子どもたちのことを思っていました。海の上で戦場でいつ果てるかもしれない、父を失った子どもの哀れさ、私はそのことに気づきました」
忠勝も涙している。もう何人か子を持つ親だった。
「とんだことを、パーティが台無しですね」
ユキが言うと正純は真面目に答えた。
「いや感謝します、久しぶりに人に戻りました。武人は木石ではならない、風雅と人情をわきまえた優しい者でありたいと。お梅の方様にも聞いてほしい歌でした」
アダムスがいたずらっぽく言った。
「明日にでも」
正純があわてた。
半月が遠慮がちに照っていた。
ユキは先に立って寝室に入った。アダムスはベッドで寝る、ユキは子どもに添い寝するうちにベッドから落ちて以来、畳の上に布団を敷いて寝る。
すぐにジョセフもリサも寝ついてしまった。秋が深まって虫の音も途切れ途切れになっている。少し欠けた月がかかっていた。
「前の満月の夜は旅に出ていましたね。きっと船のマストから月を見ていたのでしょう」
ユキがアダムスにうっとりと言う。
「今夜、あなたは私と家におります。ふたりで月を愛でましょう。悲しい涙は皆で分かち合えば心が温かくなります」
慶長15年6月13日ガレオン按針丸は江戸を出帆し9月11日カリフォルニア、マタンチェルに到着した。正使はフライ・フロス・ムニョス、貴賓客ロドリゴを無事送り届けた。商人の末広玄清や田中藤助が同行した。もう一人の歓迎できない貴賓客ソテロは病気といって乗船しなかった。
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