そのころの長柄

 ながえの郷は平穏な日々を過ごしていた。年貢は40貫文だった。
 しかし、日本も世界も激動している。マニラとメキシコを拠点にしたスペインと、インドから台湾までに商館を置くポルトガル、後発の新教国オランダ、イギリスが激しく植民地獲得戦争を続けていた。秀吉の死後、家康は内戦を収めて江戸に幕府を開くが対外交渉に苦慮していた。関が原の戦いの直前に九州に漂着したリーフデ号乗り組みのウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンはこの上ない人材だった。家康はアダムスを旗本に取り立て、ながえの郷の山続きの逸見に250石の領地と水先案内を意味する按針の名、それにふさわしい三浦の姓を与えた。アダムスは航海と造船、外交で幕府を支えた。
 
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