慶長四年  1599年

  織田信長が暗殺され再び戦国の世に戻るかと思われた危機は羽柴秀吉によって食い止められた。すぐに秀吉は勢力を広げ、九州の島津氏を降伏させ関東の北条氏を滅ぼした。位階は太閤、姓は豊臣、天下人となった秀吉は密かに一番の敵と思っている徳川家康を関東に移し都から遠ざけた。しかし、秀吉は権力に流され自らを止めることができないままに戦乱を朝鮮に広げ明国を相手に戦った。それはやりきれない理不尽な出兵で人々には気持ちのはけ口を求めた。秀吉が没して、ようやく帰還した将兵は、家康に期待する者と反発する者の二つの勢力となった。西に住む人々は新しい文化を吸収し急進的で機敏だが、東に住む人々は重厚で武を好み保守的だ。その境界は関が原、天下分け目の戦いが起きた。
 
 木の枝が折れる音がして、ずるっと崖がくずれていった。助けを呼ぶ声が聞こえた。景丸はすぐにアケビヅルを伝って谷間に降りていった。立派な狩装束の老人が細い水流に顔をおしつけ、大きなかたまりになって倒れている。
「だいじょうぶですか」
「足をくじいたようだ、痛みがある。それよりも困ったことにマムシに噛まれてしまった」
 それは大変だ、二の腕から血が流れている。
「すぐに手当てをします」
 急いで袖を切り裂くと蛇の噛んだ二つの傷口から血が流れている。幸い牙は深くまで届いていなかったが二の腕はみるみるうちに脹れてきた。急いで小刀を抜き傷を裂いて血を吸った。この辺りの湿った谷戸にはマムシが多い、景丸は何回か治療した経験がある。手早く毒を吸い取って吐き出し水を注いでまた吸い取った。血はまだ止まらないが毒は吸い尽くしたようだ。
 崖の上にあわただしく足音が響いて男たちの声がきこえた。
「上様、どちらにおわす」
「どうなされたか」
「おう、ここだ」
 老人とは思えない力のこもった声だった。
「ご無事でござりますか、やっ曲者だ」
 たしかに小刀を持っておおいかぶさっている景丸は曲者だ、危急の時ながらおかしくなってニヤリと笑った。上様と呼ばれた老人も安心して笑った。
「うろたえるではない、命の恩人じゃ、マムシに噛まれて手当てをしてもらった、さあ手をかせ、上にあがろう」
 傷と毒でほてった腕にもう一回冷たい水を流して膏薬を塗り強く布で縛った。このあたりで山仕事をする時に必ず身につけている傷薬だ。強い痛みにウッと顔をしかめたが声は出さなかった。傷薬の効き目を感じているようだ。
「伝来の薬草です、しばらく痛みますがよく効きます」
 警戒の気持ちをまだ収めていない侍たちがにらみつけている。ふと気がついた、小刀で傷を切りひらいた時にもこの人は痛いと言わなかった。
「強いお方ですね、上様は」
 そう呼んだほうがいいと思った。
「者ども、わしは褒められたぞ、この年になっても強いと言われるのはうれしいことだ。一服、茶を喫したい。家は近くか」
「家には妹のナギサがおります。湯は沸いていると思います」
 足首のねんざは軽かったが添え木をして同じように縛った。なにしろ太った人だ。侍二肩を貸した。五人の侍と鷹匠と二羽の鷹を家に案内した。
 家康はゆっくりと辺りを見回した。草深い道の行き止まりに藁葺きの小屋がある。木と草に囲まれた日当たりのいい小さな平和な空間だった。戦場の匂いも町の匂いもしない、人の気配を森の風と陽光が消し去っている。家康は思わず深く息を吸い込んだ。
「隠れ里だな、ここはなんと申す郷じゃ」
「上様は双ツ山の尾根道を外れてケモノ道に入って長江川の源流に迷い込まれました。川沿いに下る道は荒れておりますが時折りは人が通ります。私も今日はキノコと薬草を採ってきました」
 そう言って景丸は背負いカゴの中を見せた。老人は薬草を詳しく調べた。
「屋根道は切り株だらけの開けた道だったが川の源流は深い森だったな」
「はい小田原の戦いの時に郷の木と竹をことごとく玉縄城に納めました。ただ谷は水源で守護不入の定めをいただいておりますので森が残りました」
 囲炉裏端のムシロの上に一同は座った。鉄瓶の湯はたぎっている。侍が荷物を広げて茶と茶道具を取り出し器用に茶を立てた。妹のナギサが熱い湯で絞った布を持ってきた。お付の侍がうやうやしく乾いた血をぬぐい泥を拭いた。
「名前を聞いておらなんだ」
「景丸とよばれています」
「父母は」
「父と兄は戦さから帰ってまいりません。母はこの冬に亡くなりました」
「北条の侍か」
「百姓でございます。小田原様はこの郷に槍一本の足軽を十人、その後に水手を五人割り当てました。父も竹ヤリを持って玉縄城に行きました」
「帰らなかったか」
「十人は郷に帰りましたが父はまだ帰りません。兄は高麗の戦役に水手として呼び出され、こちらもまだ帰ってきません」
「先祖はつまびらかにしておるか」
「鎌倉様の頃からこの郷に住みついておるそうです。先祖の残したものとしてはこれしかありません」
 父が大事にしていた桐の箱を取り出した。侍の一人が受け取って中の布きれを広げた。
「古いもので薄れておりますが丸に三つ柏の紋かと存じます」
「誰の紋か」
 聞かれてさっきから身の回りの世話をしている侍が答えた。
「山内土佐守一豊ですが柏の葉の形が違うようです。遠くは葛西の一族が用いておりましたが、この地とのかかわりがあるのかどうか」
「調べてみよ、鎌倉に遡(さかのぼ)る子孫かもしれぬ。それで今はどう暮らしておる」
 今度はあからさまな興味を示して聞いた。
「田と畑があります。ケモノを射ます。海からは魚と貝、山からは木の実やキノコ、恵みを受けて飢えることはありません」
「景丸と申したな、年はいくつだ」
「13才でございます。これは妹のナギサ12才です」
「よし、あと2年で元服だ。わしの命を救ってくれた礼に名前を授けよう。わしは家康、しかし元服の時には元信を名乗った。そして先立った子も信康という。いずれにしても「信」の字はゆかりじゃ。元服したら信景を名とするがよい。ここは良い鷹場だ、この隠れ里も気に入った、また参る、会おうぞ」
 一同は去っていった。身の回りの世話をしていた侍が残って教えてくれた。
「徳川三河守様から名前をいただくなど名誉なことだ。そなたの父君と兄君は気の毒なことだが、まだ帰らぬと決まったわけではない。わしは本多正純(ほんだまさずみ)と申す、なにかと助力いたしましょう」
 景丸もナギサも驚いた。北条氏が降参してはや10年、関東の地を徳川という殿様が治めていることは知っているが見るのは初めてだ。長江の郷は鎌倉の泰平寺という寺の領地で年貢はそこに納めている。ともかく郷の暮らしは殿様とはかかわりがない。
 郷人たちはうわさをしたものだ。
「北条様は開けていた、年貢も少なく、百姓の暮らしを守ってくれた殿様だ」
「小田原は異国人も多く住みついてのびのびとしていた、わしらは町に出ると浮き浮きしたものだ」
「三河というのは頑固で武ばった所らしい、暮らしは苦しくて一揆もあったそうだ」
「なんでも、太閤様のもくろみは関東で騒動を起こさせて、その責めを徳川様に負わせて改易するということらしい。肥後で佐々成政という人が同じ目にあったというぞ」
 しかし、すぐに不安は消えた。西国では高麗の戦争や関が原の戦争で重い年貢を取られ人夫に徴発されて村は散々な目にあっている。それが東国では徳川の支配のもとに平穏な暮らしをしている。
 その徳川様が郷に現れた。
「ナギサ、このことは郷の人たちには黙っていような」
「怖い目に会うのはいや」
 景丸は手にした銭の袋と脇差を桐の木箱にしまった。正純のそっと置いていった品だ。
 
 家康は鷹狩りが好きだ。体と心を鍛えるためであったが領地内を見聞する目的もあった。家康は軍事には大胆、民事には細心な指導者だった。まず農民を知り、次に町人を動かし、最後に武士を配置する、城などは後の後だ、そう思って鷹を拳に据え武蔵野を行き来していた。今日も鳥を追って鎌倉から名越を抜けて三浦へ通う尾根道で道を外れた。そこに長江の郷がひっそりと草に隠れていた。この半島の突端は戦国の時代に三浦道寸が新井城を構え、小田原北条氏に最後まで抵抗した城がある。その北条も滅びさった、家康はほっと嘆息をもらした。
 一行はゆっくりと馬を進めて桜山の坂を下り池子に入った。
「ここを越えると朝比奈の切通しに出ます。急な坂道だが鎌倉の搦め手です。六浦湊に揚げられた荷物はここを通って鎌倉に運ばれました」
 向井忠勝がそう言った、水軍の将だ。一同はしばらく歩いて馬を止めた。海宝院と書かれた石塔が立っている。
「上様、傷は痛みませぬか、少し休息いたしてください」
 本堂に入ると涼風が吹きぬけて汗が納まる。老僧がくだくだと挨拶し小僧が盆に茶碗を載せて配ってまわる。
「あいにく菓子もなくて」
 老僧はまたくだくだと話して今度は大盆に山盛りにしたビワの実を持ってきた。
「ここは我が父の一族の菩提寺でござる。この山の奥には神武寺、山続きには上様馴染みの鷹取山がございます」
 向井忠勝はこの地に詳しい。
「六浦の湊は」
 家康は忠勝に向ってぼっそりとつぶやいた。忠勝の父正綱は家康の船手奉行、江戸への入船をどう扱うか検分するのが今日の鷹狩りの目的でもあった。
「もはや鎌倉の頃の船ではありません、大船をつけるには海が浅すぎます」
「ならば三崎か」
「波と風が強すぎます、それより浦賀がよろしかろうと思います。水軍は三崎、番所は浦賀、それで壷に蓋ができましょう」
「江戸の湊は」
「隅田川から掘割を切れば城にも町にも造作なく荷物を運びこむことができます」
「正綱の屋敷もできておろう」
「安宅船の着く河岸もできております」
「三河者は海を知らぬ、駿河や相模の者に遅れをとった。わしも学ばなければならないことがたくさんあろう」
「武田水軍だった父をご家臣に加えていただいたご恩は忘れません」
「山国の武田が水軍を持つ、まことに奇妙だが、駿河を支配していた頃の武田水軍は北条にも里見にも負けなかった。わしは自分が水軍を持つことなど夢にも思わなかった」
「江戸は日本一の湊になります」
 しかし海を知らない家康はもどかしいほど不安を感じている。
 
 荒々しい声が長江の郷に響いている。戦場から帰ってきた男たちが御霊社に集っている。時勢に流されながら、どうやら沈まずに故郷に流れ着いた男たちだ。郷を出て十年、小荷駄を持って西国から陸奥まで歩いた者もいれば、槍一本かついで遠く高麗まで渡って行った者もいる。境内にムシロを敷いて五人ばかりの男が酒盛りをしている。
 郷の者たちは続々と集まってきた。親戚や知人もいるし、まだ帰らぬ人の消息を知りたい者もいる。景丸とナギサもささやかな酒の肴を持参して神社に向った。
「酒と肴があるのは極楽だ」
「陣中は飢饉だったからな、食えるものは木の根も食った。よく小商人が物売りにきたが米5升を金10枚などと途方もない値段で売ろうとするのだ」
「籠城のときなど水一杯を銀1枚で売り歩いた奴がいたな、さすがに大将が怒って斬り捨てたよ」
「食い物で儲けた金で生け捕り者を買いこんで、今度はそれを売って儲ける。あの衆は大胆で無慈悲で抜け目なかったな」
「なんだと、おぬしは高天神城にこもっておったのか。俺は三河衆の小荷駄持ちで寄せ手の兵糧をせっせと運んでおったぞ」
「なんと仇同士であったか、ハッハ」
戦場から帰った者の思い出は戦さしかない。囲炉裏端でも日当たりのいい草っ原でも、飲むものが酒でも茶でも、何度も同じ話を語って聞いて飽きない。戦場から戦場へと休むひまもなかった者たちだから、退屈な世間話などない、それを郷の者たちはむさぼるように聞いている。
「あの城が落ちたから武田勝頼の首も落ちたのだぞ」
「そうであったの、俺は落城前にさっさと逃げ出して無事であったがな」
「おぬしのような雑兵を誰が手にかけるものか、ハッハ」
 これは北条と武田の三増峠の戦いで捕らえられ、そのまま武田の足軽になって各地を転戦した男だ。足軽には敵も味方もない、命じられるままにヤリをそろえて突撃していくだけだ。もっとも運よく名のある者を刺すか、または組頭の娘と結婚でもすれば取り立てられるが、そうすると主家と運命をともにすることになる。明日のことなど考えずきままなその日暮らしをして、敵味方どこにでも渡り歩くのが足軽だった。
「桶狭間の戦いで義元が討たれ、三河の家康様は駿河へ、甲斐の武田信玄も大井川に沿って駿河へ兵を進めた、高天神の取り合いは引き分け、三方ヶ原で三河衆は大負けだ」
「あの時は徳川様もひどく落胆しての、自害しようとまで思いつめられたそうだ。逃げながら鞍の上でクソをもらしたそうな」
 こちらの男は北条が徳川に兵糧を渡した時にそのまま留め置かれ、徳川の小荷駄としてあちこちを引っぱり回されたらしい。
「小荷駄持ちにそんなことが分かるのか」
「人の口に封はできぬ。しかし徳川様は偉い方だ、その時の死神につかれたような顔を絵に描かせて今でも大事にしておられるぞ」
 しかし信玄は死んだ。鉄砲に打たれたとも病気とも言う。また高天神の取り合いが始まる、今度は武田勝頼が勝った。有頂天になった勝頼は長篠城を攻め、信長の鉄砲隊のために日本最強の騎馬軍団を全滅させてしまった。
「やはり武田を滅ぼしたのは鉄砲だな」
「あの時、わしは馬場様の隊にいた。あれは恐ろしかった。鉄砲といえばドンと鳴って間のあるものだ。ところがドンが途切れない、ドドドドと続きに続いて、みるまに死人の山だ。陣太鼓を打ち鉦を鳴らして勇ましく前進していくと前から前から弾に当たり倒れる、途切れがないのさ」
「あれは戦さではない。俺たち小荷駄は戦場の後始末をさせられた。人も馬も折り重なって死んでいる。戦う前に死んでいたのだ」
「稲富一夢などという鉄砲上手な浪人が全国に広めたというぞ。卑怯なヤツでな、石田三成が攻めた時に逃げた。おかげで細川忠興の女房のガラシア様は死んだ。忠興は怒って斬るという。家康様が髪を切らせて名前も一夢と改めて家来にしたのだそうだよ」
「そうだ鉄砲名人などというのは鳥やケモノと同じように人を殺すんだ」
「加藤清正も諸国を渡り歩く武芸者は油断がならないといって稲富を軽んじたそうだ」 
「徳川様は平気なのですか」
「徳川様ほど用心深い方はいない」
 武田、徳川と死闘した敵同士が酒を飲んで楽しそうに戦さ話をしている。
「合戦は負ければその後が大変さ、落武者になればもっと恐ろしい敵が現れる」
「そうだ落ち武者狩りだ。家を焼かれ田畑を荒らされ、家族知り合いを殺された恨みを晴らそうと土地の者が襲いかかってくる」
「人の恨みと憎しみは深いものだな。身内を殺された者は他人を殺してもよいと思うようになるのだよ」
「人とはそういうものなのかの」
「また話がそれたようだぞ、どこまで話したかな」
しかし勝頼は最後の力を尽くして高天神を守ろうとした、仕方ない意地張りだ。
「高天神城の最後の様子はどうであった。おぬしが逃げ出す前のことだ、ハッハ」
「ならば聞かせよう。高天神は二つの山が両膝のように並んでいる。敵はその真ん中、本丸と二の丸をつなぐ尾根道から攻めてきた。細い道は一兵でも守れるが逆に攻める側も一兵で足りる。敵は矢や鉄砲を避けて左右から大きく迂回して崖を登ってきた。そして尾根道に鉄ビシを撒いたので味方の兵は助けに行けない、まごまごしているうちに一気に尾根を切り崩し一つの城を二つにしてしまった」
「これはたまらん」
「降伏すれば命は助かったのだ。しかし皆が意地になって助かる命を捨ててしまった」
城兵は討って出て敗れ、家康は六百の首を追手口にさらして勝利を宣言した。武田の諸将は離反し勝頼は威信と誇りをまったく失った。そして翌年、天目山に追い詰められて自害した。
「無残なものよ」
「兵のことか、将のことか」
「どちらもよ」
「その通りだ。酒がさめたぞ、生きていればこそ酒。しかし、おぬしもおしゃべりだな」
「人に話せば、その分、気が晴れる」
 輪の外れにいた男が調子に乗って関が原の戦いの話を始めた。まだ若いのに顔つきがすっかり荒んで目が険しく光っている。
「さて関が原と申すのは…」
これからが本番だ。日はどんどん沈んでいき、焚き火に照らされ酒に酔って鬼のような赤い顔をした男たちの話はいよいよ盛んになり、郷の人たちはただ驚き呆れて話を聞いていた。
 景丸とナギサが聞きたかった話はなかった。
 
 慶長五年春の早朝、漁に出た臼杵の村人が異国船を見つけた。マストは折れ舷側は朽ちていたが、ずんぐりした船体と三本マストのガレオン船だった。けっして珍しい船ではない、たびたび堺に来航し、また戦国の世には大内氏が長門や安芸に呼び寄せていた。それに難破船が漂着するのも初めてではない。
知らせを受けた領主太田一吉はすぐに長崎奉行に連絡して救援の舟を差し向けた。ようやく歩ける者が六人、瀕死の者が十八人、そのうち三人は翌日までに息を引き取った。
長崎奉行は大阪に知らせ、五大老筆頭の徳川家康が裁許することとなった。うわさを聞いたイエズス会のバテレンたちが面会を求めてきた。そして漂着したのは海賊だから即刻、処刑するよう執拗に迫った。バテレンがなぜそんなに不安になるのか不審に思った家康は漂着船をすぐに大阪に回航するように命じた。十日ほどして入港してきたのはリーフデ号というオランダ船だった。積荷は毛織物が十七箱、サンゴ、コハク、ガラス玉などあまり値打ちのないものばかりで船体も大破している。
本多正純と向井忠勝の報告を聞くと家康はしばし黙考した。
「どんな男たちだ」
「商人風、水手風でバテレンらしい者はおりません。われらが武士に似た顔つきの者もおります。服装もボロボロですが南蛮人とは違うようです」
「役に立とうか」
 向井忠勝が黙っていられなくなり声をあげた。
「おそれながら難破・漂流した者は篤くもてなすのが海の掟、われら船に乗る者として一同を助けてやりたく存じます」
 家康は無表情のままだった。
「では忠勝に預けよう。船は江戸へ」
「それがしの率いてきた伊豆の水軍を使ってもよろしうございますか」
 正純が代わって答えた。
「伊豆の船は手元に置きたい。人は関船で運べ、船は小早2隻で曳くといい。熊野の関船1隻と小早2隻を借り受けよう。荷船も2隻、兵糧を積ませて後を追わせる。すぐに出立せよ。人目にふれぬうちに移すのだ」
    忠勝は20日ばかりかけてリーフデ号を江戸に回航した。海の者の気持ちは海の者が分かろう、いたわってとらせと言って家康は一行を三崎宝剣山の忠勝屋敷に預けた。しかし正純には抜かりなく見張るようにと厳命した。
     忠勝は元気になった乗組員たちから操船や航海術を習った。大砲の操作にも習熟した。しかし、海の知識や世界情勢を知るためには言葉が妨げになった。
 
 さわやかな秋風が吹き抜ける座敷に武士と商人、異国の男二人がささやかな宴を開いていた。
「あれは3月半ばのことであったの」
 本多正純は遠くを見る目をしている。
 夏のある日に東と西が天下をかける大戦争をしたのだ。
「漂着したのは16日、堺に入ったのは26日でございました」
 忠勝がすらすらと答えた。
 正純が思い出しても不快なのか顔をしかめた。
「検分にあたって、それがしもあまりの有様にびっくりしました。何より臭かった」
 忠勝も吐きそうな顔で言った。
「正純殿は半刻ばかり船中にいただけだ。拙者は父の命で水手共と二十日も船におった。木と皮と綱の匂い、船底の汚水の匂い、人間の垢の匂いが交じり合う、死人の匂いがこびりついている、ひどいものでした」
「まるで鬼の住む荒れ屋でござった。この正純も船倉に入ろうなどという勇気が起きませんでした」
しかしその船には家康にとって天が授けた贈り物があった。
リーフデ号は戦乱の中を航海したので重武装だった。舷側には大砲が19門、甲板に小型砲が数門、鉄弾5千発、クサリ弾3百発、小銃5百丁があった。さらに火薬樽230キロ分が残っていた。密集隊形で前進する敵兵にチェーンで結んだクサリ弾を打ち込めば大損害をもたらす。19門の大砲が火をふけば敵は恐れおののく。5百丁の新式小銃は時代遅れになりつつある東軍の装備を刷新する。そして火薬はなによりありがたい。
しかし、どんなうわさも広げてはならない。
「沙汰のあるまで牢に入れておけ。牢内では十分にいたわってやれ」
 そこが一番、安全な場所だった。
「これも上様のご運の一つでした」
 年かさの堺の商人がおっとりと言う。
「信長公が望んだ天下泰平の遺志を豊太閤は朝鮮出兵でふみにじってしまった。しかし石田三成は上様怖し憎しの一念で兵を起す、世評の通りでした。しかし上様のおかげでようやく戦さのない世が実現しました。堺の町にとりましても上様は恩人です」
「茶屋殿を上様のお伽衆にお勧めしましょう。商人の戦さは言葉でするようです」
 本多正純が茶屋と呼ばれた商人の饒舌をたしなめた。茶屋は照れ笑いをして話を変えた。
「積荷はずいぶんお役に立ちましたようで」
正純が思い出したようにしみじみと異形の男に言った。
「あの時は牢などに入れてすまぬことをした」
 脇に控えている茶屋の手代がオランダ語に通訳する。
 一座に招かれていた異国人はウィリアム・アダムスというイギリス人とヤン・ヨーステンというオランダ人でリーフデ号の航海士と船長代理だった。2人とも長い苦難の跡を残した厳しい顔をしている。
 しかしアダムスは正純の言葉に感激したようだった。そして船乗りらしくポツン、ポツンと話した。
「たとえ我が国でも降伏した兵は武器を取り上げ牢にいれます。恨みはいたしません」
 しかし、ヤン・ヨーステンはこわばった表情のままだった。
「あの牢は大変に健康に悪かった」
「船の暮らしも牢のようなものであろう」
 正純が冗談で言ったがアダムスは真面目に答えを返した。
「しかし船には希望があります。明日は陸地が見えるかもしれないという希望です」
 忠勝にはその気持ちが分かった。
「お前たちの船もそんな名前であったの」
「はい、我らのリーフデ号は愛、その他の4隻はホープ号希望、ヘローフ号信仰、トラウ号忠誠、フライデ・ボートスハップが吉兆でございます。すべて沈んでしまいました」
 正純はそういう言葉に心を動かされる。
「愛だけは流れ着いたか。愛は愛(かな)しと言い相手を守ろうとする気持ちだそうだ」
「上様のお力に守られました」
「なかなか巧みなことを言う」
 アダムスは赤面し一同は笑った。
「上様は近々江戸に戻られる、その方らをお召しになるだろう。忠勝殿、その時には船と乗組員を江戸に届けられよ」
  
 しかし、家康はリーフデ号の生き残りたちをどう扱うか深く考えていた。三河者の家臣たちに相談できることではない、隣国尾張の者でさえ余所者としてうさんくさい目で見るような偏狭な者たちだ。それにしてもバテレンたちが目の敵にしてすぐに処刑せよと何度も言ってくるのが不審だった。よほどの事情がなければそんな強談判をするはずがない。
 これからの日本が豊かになるためには貿易を進めなければならない。それは信長も秀吉も承知していた、しかし方法を間違えた。武力によって明国、高麗を征服しようとしたが失敗した。今は明、高麗だけでなくスペイン、ポルトガル、新たに現れたオランダ、イギリスなどという国と等しく貿易しなければならない。しかし家康にはその道筋が分からない。すくなくともバテレンたちは来航者をひどく怖れている。

 数日経ってからアダムスは江戸城に呼ばれた。もちろん向井忠勝が同行する。江戸城の広間は伏見に較べてはるかに質素だった。たくさんの家臣たちが同席している。古武士の風貌を持つアダムスが良い、太ったヤン・ヨーステンでは商人に見られて三河者から侮(あなど)られるという家康の配慮だった。
 先立って家康が引見した。正純と忠勝が同席した。
「面をあげよ」
 平伏していたアダムスは改めて家康の顔を見た。もちろんヨーロッパ人の顔ではない、深い思索を沈めた東洋の賢人の顔だ。その衣服は地味で、ヨーロッパで見慣れた王や貴族のような派手できらびやかなものではない。
「無事に航海を終えてまことに喜ばしい」
 通詞を待つまでもなく、アダムスはハイと答えてしっかりと顔を見た。それはムーア人のような丸い頭、丸い顔だ。あごが二重に垂れ、額も口許も深いしわが刻まれている。驚くほど大きな耳だ。引き締まった口はほんの少しの動きで相手にどんな意思も、叱責や賞賛を伝えることができそうだった。
「本日はそなたを我が家臣共に目見えさせる、怖れることはないぞ」
 その響きは王のものだった。兵を指揮する猛々しさ、民を慈しむ優しさ、敵の謀略を暴く冷たさ、家臣を心服させる思慮深さ、強い意志が感じられた。
「お前は千里の波濤を乗り越えてきた勇士だ、わしはお前を古くから知っているような気になっておる。知恵と勇気を示してくれ」
 通詞のあぶなっかしい通訳にもかかわらず、耳に響く穏やかな口調が心に染み込んでいくようだった。アダムスは少年に戻って父や船大工の親方を思い出していた。緊張が解けて親愛の気持ちがわき目頭が熱くなった。この何年もの間、忘れていた心地よい感覚だ。思わず故国の女王へ忠誠を誓った言葉が口に出た。
「我が身命を君に捧げます。死が我が身に迫るまで我は君に奉公いたします」
 最初は英語で、ふと悟ってオランダ語に直して2度言った。側に控えていた通詞が汗をかきながら訳した。
 家康は無表情だった。追従か真実か判断しているようだ。アダムスは必死の気持ちで言葉を続けた。
「君は私が仕えてきたどの王よりも貴人の相を持っております。賢明で勇気にあふれ度量深く、君と仰ぐにはこの上なきお方です。こういう王に見参することができた私は果報者です。遥かな海原を越えてやってきた甲斐がございます」
 アダムスの言葉と家康が聞き取った内容とにどのくらい相違があるのかは分からない。しかし家康もアダムスの真情に触れたと思った。そしてこの異国人が数ある家臣と同様に質朴で誠実な士であることも知った。
「目通りはこれでよい。正純、いたわってとらせ。後刻、わしも同席するほどに」
 家康は席を立った、アダムスは別室に案内された。そこにはテーブルと椅子が置かれている、懐かしいリーフデ号のものだった。ようやく落ち着きが戻ったが、アダムスは家康の目をありありと思い出した。すべてを許す、すべてを許さない神に似たまなざしだった。
 しばらく一人にしておいてくれたのは正純の思いやりらしかった。しばらくたってアダムスは忠勝に案内されて大広間へと歩みを進めた。しかし重苦しい恐怖心はすっかり吹き飛ばされていた。
宴は半ばで広間は談笑で賑やかだった。しかし忠勝がアダムスを伴って入っていくとざわめきがピタッととまり一挙手一投足を見守る鋭い目が注がれた。
「よくぞ参った、アダムス」
 家康が正純をちらっと見た。すぐに正純はアダムスに向って言った。
「貴殿の話をうかがいたい、我らには想像を絶するような話があろう」
 家康は目を細めて正純に同意した。今日は家臣に目見えをさせて、次第によっては扶持を取らせる思惑だったからだ。
「上様にお目にかかり、たいへんうれしいと申しております」
 通詞は堺の茶屋四郎次郎から派遣された若い手代だ。たくさんの武士の間に座ってこの上なく緊張している。
「馬鹿、そんなことは顔で分かるわ、お前は赤ん坊の泣き声まで通訳しようとするのか」
 忠勝に怒鳴られて通詞は肩を落とし、一同は大笑いした。しかし家康は真面目な顔をして忠勝を見た。
「これはいかん…この男では…」
 機密の相談にあたっては信用できる者が通訳しなければならないし、間違って聞き取っては取り返しのつかないことにもなるだろう。
「はい、お預かりした時から手配をしておりますが…」
「良い者がいたか」
「御意、スペイン語オランダ語とイギリス語も話す者がおりました」
「どこの者か、キリシタンか」
「馬込勘解由の娘分でございます、姉と妹」
 さすがの家康も驚いたようだ。馬込勘解由は武田の家臣、滅亡後は家康に仕えてキリシタン詮議をし、今は名主として町の治安に携わっている。
「なんと女人か」
 正純が驚いて大声を出した。
「そこには数奇な話がござるが長くなりますのでいずれの日か。父正綱はご存知の通り武田遺臣、勘解由は朋友、我らが屋敷ではその娘に通詞をさせております。姉をユキ、妹をハナと申します、気丈で賢明な者たちです、キリシタンではございません。別室で控えさせております」
「それも一興、許す、呼べ」
 家康の許しで忠勝は奥に控えていたユキを呼び出した。質素ながらも華やいだ着物を着た清楚な娘が広間に現れると居並ぶ家臣たちは驚きの目を見張った。
「さてアダムス殿、よい通詞を得られて幸いだ。さっそく身の上話をされるがよい」
 正純が浮き浮きとしてうながした。
 
 私はイギリス、ドーバー海峡の小さな町ギリンガムで生まれました。14才で造船所の徒弟になり 親方に仕込まれました。二十四才の若僧でイギリス海軍の補給艦に乗務しておりました。時に1998年、スペイン国王フェリペ二世は我がイギリスを征服せんとしてアルマダという…これはもともと艦隊のことを言いますが、スペインがトルコを破った記念に天下無双の艦隊という意味にもなりました…その艦隊でわが国に攻め寄せました。未曾有の国難に会して女王エリザベスをはじめ国民は乞食にいたるまで一致団結いたしました。
 ユキはすでに聞き知っていたのだろう、よどみなく通訳した。一同は酒も手にせず聞き入った。さきほどの手代も照れくさそうに聞いている。
「海軍というのは海賊衆のことだな」
 ユキは言葉を選びながらアダムスに告げた。日本では水軍を海賊と呼んでいる。アダムスは驚いて皆の顔を見た。
「上様はどうしてそれをご存知です。仰せの通りイギリスのアドミラルたちはドレイクにしろホーキンズにしろカリブの海で暴れまわった海賊でございます」
「その方も海賊だったのか」
 正純が警戒する顔をした。
「敵国の船と出会えば闘うのが当然、敵船を捕らえれば奪うのが当然、国王に従えば海軍、さからえば海賊、その違いはそれほど大きくありません」
「なるほど、その野蛮さゆえにイギリスが勝ったのだな」
「闘う者は必ず勝たねばなりません」
 こうなると向井忠勝が黙っていられない。水軍の将の血が騒ぐのだ。正純は目配せして聞き手を代わった。
「信長様も石山攻めでは鉄張りの大安宅船を浮かべて毛利の水軍を全滅させた」
「ほう、鉄の軍艦ですか」
「鉄砲もはねかえす、狭間から大筒を撃ちまくって見事に勝った」
「アルマダは巨艦が百三十隻、わがイギリスは二百隻、ただしどれも小型、中形艦ばかり、しかし戦闘は武器ではない兵士の勇気です、我らは勝利いたしました」
「それからどうなった」
「スペインは衰え、イギリスが栄えます」
「スペインの富はどこから来ておる」
 正純が話の向きを変えた。
「銀です、日本とメキシコの銀、マニラとアカプルコに港を持ち、ポルトガルを併合して世界中にコロニアルを持っております」
「コロニアル…」
 植民地、それがどんなものかユキには分かるのだが日本の言葉にならない。植民地の悲惨さは身にしみている。
「他人の土地に囲いを作って勝手に自分のものとする。次に、人々を奴隷にして必要な作物だけを作らせる。反抗する者は殺したり鉱山に送って死ぬまで働かせます」
「スペインは復讐しないのか」
「海軍が弱ければ攻めることができません。橋をかけるか空を飛ぶか、海の上を歩いてくるか、お好きなように」
 アダムスは珍しく大笑した。
 家康はじっと顔を見て、下品な嘲笑ではない誇り高い笑いを感じ取った。
「では次にイギリスがコロニアルを作るか」
「イギリスは商売だけをいたします、兵士たちは牛飼いですから畑仕事が苦手です」
「すると貴殿は海賊に戻るのか」
 忠勝が鋭く言った。
「海賊と申すは海のはぐれ者、飼い主を離れた犬が飢えて野良犬になったようなものです。虎オオカミのように恐れる人もいますが、自分より強い者とは決して戦いません」
 一同が食い入るように聞いているのでアダムスは話を続けなければならなかった。
「カリブの海というのが海賊の本場で、イギリス人もいればフランス人もスペイン人も入り混じっている、もちろん出会えば縄張り争いで食いつきあいます」
 なお沈黙が続いている。
「無慈悲なもので弱い船をつかまえると邪魔者は海に落とし、泳げる者は傷つけて血を流しサメの餌食にします。船乗りには甘言を弄して仲間に入れ乗組員を補充します。奪った財宝は船長が半分とり、航海士や水夫長が残りを分け、その残りを船乗りが取りますが、どこの国の軍艦に捕らえられても縛り首になる、まったく無頼の者たちです」
 それは戦国の世に諸国の領主たちがやってきたことと同じだ。
「勝たなければ明日がないという追い詰められた者共ですから命を捨てて戦います」
「それゆえイギリスは勝ったのだな」
「はい、あとはイギリスの名のもとに平和な暮らしができます」
 正純が感にたえたようにつぶやいた。
「徳川の名のもとに平和が続く。しかし貴殿はこの国で何をしようというのか」
「上様に我が命の限りお仕えいたします」
 アダムスは立ち上がって片膝を地につけ手を胸に当ててお辞儀をした。一同はそれが真実を誓う仕草であることは分かり、言葉よりも行動で現す男であることも分かった。
 アダムスは船乗りらしく酒にも強かった。家臣たちの注ぐ酒を快く飲み干し、平然と盃を重ねて皆を喜ばせた。頑(かたく)なな三河武士たちもこの異人を旧知のように親しく思った。
 ようやく宴が果てた。正純と忠勝にいざなわれて小部屋に戻った。ユキも一緒だった。
「今宵は月が美しい、昔話には良い晩だった。上様の昔話は、三方が原や姉川の合戦、夢に見るほど聞かされました。そして今晩のアダムス殿の話も夢に見そうです」
 忠勝もくつろいでいる。しかし正純はこのユキという女人の身の上の方がもっと知りたかった。
「いずれユキ殿の話も聞きましょう。アダムス殿もお疲れでしょう。忠勝殿、お客人を頼みますぞ」

  一行を送り出すとすぐに正純は家康に呼ばれた。
「いよいよ新しい世でございます」
 正純がつぶやくと家康は独り言のようにつぶやいた。
「小田原は狭い、大阪は近い、江戸は賑わう、駿府が良い」
 天下布武は実現しても油断のならぬ大名はたくさんいる。
「城は遠くから仰ぎ見られるものだ。岐阜の城は仰ぎ見ても住みたくなかったが安土や大阪は良かった、栄華そのものだ。威容に天下が伏すればおのずから民は治まる」
 そして機嫌良く正純に駿府におれとあっさり命じた。
「父、正信はどうなさいますか」
「佐渡か、佐渡は江戸だ。わしが本多正信に佐渡守の名乗りを与えた訳を知っておろう」
 つまり佐渡にはキツネがいない代わりにムジナがいるそうだ。ムジナの親分を団三郎という。佐渡を抑えるには団三郎を上回る大ムジナが必要だ。
「そういえば父上の顔はムジナによく似ております。以後、ムジナノ守と名乗るようにお勧めしましょう」
「そのおかげで甲斐は治まった、次は佐渡の金山だ、日本はまだまだ広いの。されど正純にはもっと広く遠いところを治めてもらおう」
「かしこまってございます」
「うん」
「アダムスとより近く親しくいたします」
「それでよい」
 
 数日たってアダムス一行の処置が命じられた。客分として諸家に預けられる、以後お召しの時は主人同行して御目どおりするようにと、アダムスは忠勝のもとに引き取られることになった。たぶん正純にはもっと詳しい下命があったのだろう、退出しようとする正純を家康が呼び止めた。
「吾妻鏡を読んだ」
 正純は平伏して次の言葉を待った。
「鎌倉権五郎景正が支配していた。後日に源義家に献上し村岡の地に移った。義朝が相続し頼朝が幕府を開いた」
 さて、どこのことか、鎌倉だと思うが、正純は素早く考えを巡らした。
「長江の郷だ、ああいう山に囲まれた静かな郷が三河にもたくさんある。松平、榊原、みなその地の土豪で郷の名を名乗り小さな暮らしを楽しんでいた」
 あの丸に三ツ柏の紋のことだと気づいた。
「いずれ召しだそう、そちに預ける、肩がこるの」
「天下の重荷でございます」
「必ず急いではならぬぞ、一生は重き荷を背負い遠い道を歩くようなものだ。鹿を追う猟師山を見ずとも言う」

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