関が原の大戦争が終わり徳川家康は唯一人の権力者になった。朝廷は征夷大将軍の位を与え江戸が政治の中心になった。家康は平和を目指した。武力による支配から儒教による教化、領地の収益より交易による繁栄を求めた。しかし植民地獲得の争いは東アジアまで迫っている。そして日本でもスペイン・ポルトガルのキリスト教旧教勢力南蛮人とオランダ・イギリスの新教勢力紅毛人の対立が生まれてえた。アダムスは家康に世界情勢を説き造船を勧めた。そして伊東で2隻のガレオン船を進水させた。
「おおアダムス殿、大手柄だったの」
本多正純がまず祝いを述べた。家康も大きくうなずいた。関が原の合戦は開始とともに激戦になった。東軍は主力の徳川秀忠軍が到着せず劣勢だ。家康は西軍大名に必死の調略を行っていた。
松尾山に陣取る小早川秀秋は早くに徳川に組することを誓っていながら参戦しようとしない。
「あの小せがれめ、洞ヶ峠の筒井順慶にならっているのか。憎い奴だ」
さすがの徳川家康も焦れた。
「あやつは胆が小さい、脅して穴から飛びださせよ」
本多正純がすぐに応じた。
「かしこまりました。では百ばかりの兵で本陣に討ちかからせましょう」
「それでは手ぬるい、大筒を撃たせよ、あの本陣脇の松の木を吹き飛ばせば穴グマも目を覚ますだろう」
正純は砲手と足軽に9ポンド砲を2門、小早川の本陣を見上げる平地に運ばせた、リーフデ号の大砲だ。アダムスの指導を受けた砲手たちは初陣の時を迎えて勇み立っている。手際よく火薬と弾丸を詰めると間髪をおかずに点火した。
2門は重なり合って轟音を発し、さすがの戦場の叫喚も圧して響き渡った。一発はねらい通り本陣脇の松の木を砕き倒し、一発は土煙を本陣に浴びせかけた。小早川勢は激しく動揺し旗が左右に揺れ動いている。
「もう一発、用意ができ次第すぐに発射せよ」
言い終わる間もなく大砲は火を吹いた。
使い番の武者が転がるように正純のもとに馬を走らせてきた。
「ご約定の通り小早川勢は全軍をあげて西軍に討ちかかります。どうぞ内府様におとりなしの程をよろしくお願いいたします」
松尾山の軍勢は大谷吉継の部隊に奔流のように突進し、あっというまにすべてを飲み込み、次いで宇喜多秀家に迫り、その奥に陣取る小西行長を震え上がらせた。島津の陣は撤退を始め、関が原の会戦は終わりを迎えた。
「大御所様にはつつがなくご凱旋で私にとっても大変うれしいかぎりです」
少しあぶなっかしい日本語でアダムスは挨拶した。家康は子どもを見るような目でその言葉を聞いていた。正純が冷やかした。
「だいぶ言葉がうまくなったな。ユキ殿は良い師匠だ。それで何か祝いの品でも献上しにまいったのか」
「私の持っているすべての物は大御所様のものです。私の持ち物はすべて海に奪われてしまいました。しかし、命だけは海が返してくれました。しかし、初めて大御所様にお会いしたときにその命は差し上げました。今の私には大切なものは何もありません」
アダムスが真面目に答え、ユキが真面目に通訳した。
「何を申す、そなたにはユキ殿という大切な方があるではないか」
正純の言葉に忠勝も深く同意する。二人ともまだ独身だった。
「これは私の命よりも大切な宝物、私がこのように大御所様とお話しできるのもユキさんのおかげです」
さすがにユキは真っ赤になって通訳した。
「左様、ヤン・ヨーステンは未だに通詞なしでは話ができん。アダムスはよい宝をお持ちだ」
すると正純が口をはさんだ。
「しかし我らはユキと呼び捨てたり、せいぜいおユキ殿と親しむくらいだ。ユキさんと呼ぶのはイギリスの流儀なのか」
「はい、女人には尊敬と敬愛の心を言葉に表さなければなりません。」
「イギリスの騎士というものは礼儀を知る、言葉も剣と同じように上手に扱うものとみえる。練達の士だな。今日は上様のお共で鷹狩りに参る。貴殿は初めてか」
「私の国の貴族も鷹狩りをします、しかし私は船乗りなので鷹狩りは初めてです」
もちろん遊山のために連れて行くのではない、そのことはアダムスも承知している。
一行は長江の郷にやってきた。
一刻後に上様がお成りになる、一行は十人だ、湯を沸かしておけ、あたりを見苦しくないように、郷人どもには一切知らせるなと言い渡して使い番の侍は戻っていった。ナギサが釜を洗って湯を沸かし始めた。景丸は手早く部屋を片付け、塵を掃きだして土間に水を打った。
「アヤメが咲き始めています」
ナギサは沢に降りていって鮮やかな紫の花をいく本か戸口の桶に挿した。
「俺たちも何か食べておこう」
流し込むように粟飯を食べる終わるとナギサが言った。
「筍を焼いて食べていただきましょう」
「いいな、俺が掘ってくる、お前、顔と手足を洗って、さっぱりしたものに着替えておけよ、俺も帰ったらそうする」
しかし遅かった。筍をかかえて家に戻るとすでに一行が到着していた。景丸は泥まみれのまま上様に挨拶して筍をカマドで焼いた。ナギサは母の残してくれた着物を着て澄まして給仕をしている。妹なのに自分よりも大人に見えるので景丸は少し驚いた。そしてもう一人華やかな若い娘がいるのにも驚かされた。
焼いた筍をみんな喜んで食べた。この殿様は日ごろから粗食らしい。
「わしは今川の人質だったが、時には野駆けをしたものだ」
「父から聞いております、腹が減って筍を食べたり鮎を捕ったり畑の大根を盗んだり、ご苦労の日々でした」
正純がわざとしんみりと冗談を言った。
「今も苦労はしておるわい」
景丸はそこにもう一人変わった人物がいるのに気づいた。他の侍と同じ鷹狩りの装束をつけているが立派なヒゲが金色をしている。背も鼻も高く鋭い目が青く光っている。そして間延びした口調で答えた。
「相手が世界中になると、もっと大変です。それがキングのデュウティです」
分からない言葉がある、皆がそばに控えていたユキの顔を見る。ユキは聞こえないふりをして通訳しなかった。家臣としては大変な失礼にあたる言葉だ。
家康は重々しく言った。
「この山を越えていけば二刻ばかりで浦賀に着く、いずれ堺のように繁栄しよう。忠勝はアダムスに地形と海の深さを検分させ、入船出船の航路を定めよ」
忠勝は平伏した。
「そのために土地の者の助力が必要だろう。アダムス、この者たちを召しかかえよ」
景丸もナギサも突然の向かい風を受けたようにびっくりした。
「この二人は五百年の昔にこの海を支配していた一族の末裔だ。わしが信景という元服の名乗りを与えてある」
以前に見せた古い布は旗印で、鎌倉権五郎景正の紋だった、この長江の郷の御霊社の祖神、景丸はその一族の末らしい。
「鎌倉権五郎は物語や能で名高い荒武者だ。あやかりたいものだ」
正純はうれしそうに言った。しかし家康はアダムスの顔から目を離さなかった。
「アダムスよ、今、この地を領しているのはわしだ。我が海を固め広げよ。この景丸はわしの命を助けた。ナギサともどもに大切にしてくれ」
景丸は思わず「それはムリです」と叫んだ。 こんな隠れ里でのんびり暮らしている自分が世の中に出ることなどできはしない。
「上様、無理な役目は身を滅ぼします」
アダムスは少年の明るい声を聞いて喜んだ。イギリス軍艦にはヤング・ジェントルマンと呼ばれる士官候補生が乗っている、それを思い出したからだ。
「あなたはたぶん私の半分の年にもならない。若者は風と波で鍛えられなければならない。やがて若木は育ち老木は枯れる」
ユキが通訳する。アダムスは自分の年齢を指折って数えてみせた。景丸は異国人のおどけた仕草にまた驚いた。
「ありがたくお受けしろ」
正純がしっかりとした口調で言う。景丸も覚悟するよりしかたない。
「不束者と承知ならご奉公いたします」
家康が脇差をすっと差し出すと正純が受け取って捧げ持った。
「景丸殿、元服の祝いをすませていなかった。上様からは差し添え一振り、それがしからは時服一領、といっても出先であることゆえ口約束だけだがな」
「それがしが書き留めておきましょう」
そう言って忠勝は白扇を差し出した。
思いもよらぬ展開にどぎまぎしているとユキが優しく言った。
「ご一同様、まずアダムス様にお言葉を願いましょう」
アダムスは固い表情のままで景丸とナギサに言った。
「いく久しう、サザレイシノイワオトナリテコケノムスマデ」
異国の言葉ではないことに気づくまでに時間がかかった。そして皆は爆笑した。
「よしめでたい、ご酒を下される」
正純が言って盃をもって景丸に差し出す。少しなめてみて甘いのに気づいた。
「ナギサ殿にもさしましょう」
不審な表情の二人に正純は笑って言った。
「これは甘酒、鷹狩りに酒は禁物だ」
一行は早々に浦賀を目指して歩を進めていった。ご奉公の初めといって景丸も先頭をきって道案内をした。
浦賀から南を目指す。黒潮という速い流れに逆らって30海里、半島を回りこむと伊東の港がある、分かりやすい航路だ。
アダムスはリーフデ号を回航した時の事を思い出していた。堺から江戸へ、恐ろしい日々だった。船は今にも沈みそうで休みなくポンプで漏水をくみ出した。それよりも江戸に着くとどんな処置を受けるのか分からない、せっかく命がけでたどりついた日本であっさりと命を落とすかもしれない。
今、リーフデ号の乗組員たちは満ち足りた生活を送っている。バテレンは相変わらず処刑を求めているがそれは絶対に実現しないことが確信できた。それどころかスペインやポルトガルに取って代わる者として期待をされている。いずれ交易を許され財産を作る見込みさえ生まれている。
しかし安逸の中でアダムスだけは恩恵を心に刻んでいた。家康に尽くしたいが何をすればいいのか、しかし家康はすでに目的を持っていた。
「船を造ってくれ、ガレオンだ」
スペイン人は何よりそれを怖れている。日本人がガレオンを造り自由に太平洋に乗り出すとスペイン植民地は脅かされる。かつて豊太閤はマニラのスペイン総督に降伏せよと通知を送ってきた。メキシコさえも危なくなってくる。
「そなたのイギリス同様、日本も海の国だ。海を守り、海によって守られている」
アダムスは喜んだ。リーフデ号の乗組員にも恩返しをさせることができる。そして向井忠勝はそれ以上に喜んだ。ガレオンが幕府の水軍に加わる、いずれガレオンだけの艦隊ができる、夢のようだ。
江戸に近くガレオンを造る湊は伊東がふさわしい。ここは昔から造船が行われている。背後の山々は船材と炭材を育て、川は砂鉄を、充填に使う樹皮マイハダも採れる。忠勝が一切を手配し、北条の時代の船番所を修復して一行の宿舎ができていた。
アダムスは伊東にエーゲ海やイオニア海の町を感じた。緑濃い山々が海に迫って沖には小さな島が浮かんでいる。陽射しは暖かく。要塞も兵舎もない平和な郷だった。
アダムスのかたわらには常にユキがいた。内密な相談に他国の通詞は入れられない。といって三河には異国の言葉を話すようなさばけた者はいない。アダムスは英語とオランダ語で話し、ユキは何度も聞き返しながら日本語で話した。二人の固い契りは見ているだけで分かり、疑い深い本多正信でさえも安心していた。
山から急傾斜を下ってくる松川もここまでくると浅瀬を作っている。海岸には防砂の松が黒々と続いている。
湊には2、3隻の和舟が浮かんでいるだけだった。一同は船大工の頭の家を訪れた。
ピーター・ヤンツは無愛想だが気のいい船匠だ。リーフデ号でも黙々と仕事をしていた。
「なぜキール(竜骨)をつけないんだ、なぜフラット(甲板)をつけないんだ」
ヤンツが船大工の前でつぶやく、アダムスも長いこと同じことを思っていた。
「キールがあれば波切りがいいし船が強くなる。水密甲板があれば嵐でも安心だ」
ユキに通訳されて作りかけの和船のふなばたを軽く叩いていた老人が顔をあげてアダムスに笑いかけた。亥兵衛と名乗った、その声は元気いっぱいだった。
「あなた様の生まれ在所も干潟だと聞きましたぞ。この国にも湊はあまたありますが、渡海船の入る湊は少なくて、せいぜいが難波、博多、長崎、下田、浦賀だけ、江戸にも船は入れられますまい」
キールをつけると喫水が深くなる。
「それに和船にもキールはついております、カワラと呼んでおりますがの」
造りかけの船を指差した。厚さ一尺幅五尺もある板を敷いて両側に三段に板を立てて舷側をつくる。梁を入れて補強する。しかし平底だ。
「浅い入り江に荷物を上げ下ろしするためです。それに北国では冬の間は陸揚げして雪囲いをしておくのです」
アダムスもヤンツも驚いた。一度、進水させた船は二度と陸にもどらない、たとえドック入りしても海から離れないものなのに、ここでは馬車のように囲いの中にしまっておくという。
「なんと幸せな船たちよ」
老人は笑った。
「ジャワ、アンナンに向かう船はジャンクをもとに南蛮船の良さを取り入れて作ります。しかし日本で廻船に使うには不便です」
ユキは一生懸命通訳するのだが専門用語にはどうしようもない。老人は実物を指差し、地面に絵を描いて親切に教えてくれる。職人は仕事が分かる者を大事にするのだ。
「あの安宅船はどうして船首が二つに分かれているのですか」
アダムスは江戸で忠勝に見せてもらった軍船を思い出して言った。
「あれは明国のジャンク船の形です。古く元の時代も、もっと古く宋も唐も同じ形でした。船板をあまり曲げずにすむので作りやすい」
「波が切れないので船足が遅いでしょう」
「安宅船は速く進むものではありません」
「関船はどうですか」
「あれは一本ミヨシと四十丁の櫓を持っています。速くて小回りがきかなければ戦いはできません」
「なぜ太閤の水軍は負けたのでしょう」
「太閤には荷船と軍船の区別がつかなかったからです。かの国の李舜臣将軍は戦う目的だけの亀甲船を作りました。高麗の浦は干満の差が大きい、そこを漕ぎまわって、身動きがとれない荷船を焼き払ってしまいました」
「入り組んだ浦だったのですね」
「左様です。太閤の水軍は兵と荷を運ぶだけ、海賊禁止令以後は舟の戦さがなくなりましたから」
「戦いがないと兵は弱くなる…」
「太閤は朝鮮を攻めようと千隻の船を建造しました。日本中の船匠が自分の在所で船を作り名護屋に送りました。図面通り同じ形の五百石積みの船を千隻。軍艦も商船も船に違いはありません。戦さが終わって戻ってきた船はそのまま廻船になりました」
それならば指示通りに巧みに製材する技術が磨かれているだろう、アダムスはほっとした。
「アダムス殿はいずれだ」
「湯でございます」
「異国人は湯が好きか」
「いえアダムス様だけでございます。なんでも江戸で湯の良さを知って一日一度、二度も三度も湯に入られます」
「では拙者も入ってこよう、湯帷子を貸してくれぬか」
忠勝は気軽に湯小屋に歩いていった。朝の喧騒はすっかりなくなって道はがらんとしている。昼前から湯小屋に入る人もいないようで湯船の中の人影は一つだった。
「アダムス殿、入るぞ」
「今日は少し熱うござる。湯がしみます」
伊東の湯は無臭、少しだけ塩の味がする。あちこちで湧き出しているがそれぞれ少しずつ違うように感じる。アダムスは船造りの場に近い松川の湯小屋が好きだった。
「ここは風流な場所だ」
「海からの風が吹きます」
「それもあるが昔、頼朝公が…」
いかつい顔をして無口な忠勝も湯の中ではおしゃべりになる。大はしゃぎで話し始めた。しかし、さすがのユキも風呂の中までは通訳できない。茶屋の手代があわてて一緒に入ってきたが、たぶん半分も理解できないだろう。
頼朝が若者だったころ、この地を支配する伊東祐親の娘八重姫といい仲になって子ができた。京都から帰ってきた祐親は平家の手前、二人の仲を割き、子を松川でおぼれさせた。従兄弟の工藤祐経が祐親の子祐泰を殺し、その子の曽我兄弟が仇討ちをして祐経を殺すという荒々しい武士の話だ。
「それが風流ですか」
「今度、江戸で芝居を見せましょう。舞台で見れば曽我兄弟も頼朝公もとても風流だ」
「私の国にもシェークスピアという役者がいて芝居を演じております」
「ほう、それはどんな芝居だ」
「昔の王『ヘンリー六世』という薔薇の戦いの話や『ヴェニスの商人』という裁きの話です。難問を見事に解決します」
故国のキーリング提督は芝居好きで水兵たちを役者にしてシェークスピアを演じさせる、それが長い航海の楽しみだとアダムスは聞いている。
「宋国の頃にも包公という名判官がいて話の種になっておる」
「どこの国にもありましょう」
「それよりも歌舞伎踊りの方がいい」
江戸の日本橋近くで出雲から出た阿国という女が一座を組んで歌舞伎踊りを始めた。着飾った女たちが舞台に並び三味線を弾き、男姿をした阿国たちが妖しい芝居をする。
「私は見ました。この世と思えないほど美しかった。天国のまぼろしでした」
アダムスがうっとりとして言う。
「この地の者たちも見たがっております。いずれ舞台もできるでしょう」
忠勝が笑いながら言った。
「船とどちらが先になるのか」
湯から出て、ようやく造船の話になった。
「ドックをどこに置けばよいか」
アダムスは紙を出してイギリスの造船の手順を書き出した。専門用語が英語で書く加えられていく。一枚一枚と書かれていく絵と文字を忠勝はすぐに写し取っていった。その手際のよさに今度はアダムスの方が驚いた。
「忠勝殿は絵描きであろうか」
「壁の落書きが得意であった」
絵と手真似で船はどんどん造られていきついに完成して進水した。書き写された紙には英語にカタカナが添えられていた。
「軽い木とよく切れる刃物をください、モデルシップを作ります」
「雛型ということであろう、図面を作る道具もいろう、明日には届けさせる」
翌日、忠勝は直接に宮大工や仏具師を訪れ、木質や道具の用途を説明して材木商、刃物屋に同行させた。大き目の紙、定規、ぶん回し、図面を書くのに必要なものを吟味してそろえてアダムスの家に持ち込んだ。忠勝は利発で機転がきく、長い航海でなにより必要なのは忍耐と希望、智恵と思いやり、明朗快活な精神だ、あなたはいい船乗りになる、アダムスはそう告げてやりたくなった。
亥兵衛老人も配下の若い者を連れてやってくる。アダムスはこれから造る船の雛型を見せた。竜骨の形、舵の構造、帆と帆柱と索具の違い。水密甲板をつけなければ大洋は渡り切れない、船首楼と船尾楼は船室だが海戦の矢倉でもあること。
亥兵衛老人が細かい質問をした。ユキは懸命に通訳した。言い間違い聞き間違いが取り返しのつかないことになるかもしれない。海に出れば船は全員の命を預かる。
老人はアダムスを優れた知識と技能を持つ者と認め、棟梁として迎え入れた。船は海に浮かび風を受けて走り、それを人が操る、その道理は和船もガレオンも変わりない。ここの船大工たちはそれに自分の工夫を加えて作業をすすめるので仕事がはかどる。
渾身の作業が続いてようやく仕事が一段落した。なによりも駿府にいる家康を喜ばせたい、手紙ならユキが代筆して毎日のように出しているが、アダムスは自分が直接に話したい誇らしい気持ちでいっぱいだった。
駿府城の家康はいつもくつろいでいるように見えた。明るい陽光、温かい湿った風は人を穏やかな気持ちにする。今川氏真はそんな気候に溺れて時代に生き残ることができなかったのだと家臣を戒めているが、そんな時も家康は穏やかな表情をくずさない。おおらかで健康な姿に正純はじめ家臣たちの心も安らいだ。
報告が終わっても家康はアダムスを退出させなかった。
「イギリスはスペインに勝ったという」
家康は声を低くしてアダムスに聞いた。
「アルマダの話は聞いた。なぜ負けたのか、油断があったのか」
正純がすぐに言った。
「武田の騎馬隊も天下一でしたが信長様と公方様の鉄砲隊の前で木の葉のように吹き飛ばされました」
家康は顔をしかめた。思い出したくない情景だったのだろう、立派な武士とたくましい馬が一つの弾丸で崩れ落ちる、あたりは血の海だ、恐ろしい情景だ。
「嵐が幸いしてくれました」
「なんと神風か」
忠勝が驚いた声をあげた。
「我が国も元寇の折、嵐で敵船はすべて海に沈んだ。イギリスにも神風が吹いたのか」
アダムスは笑った。
「神を信じる心はスペイン人の方が強かったかもしれません。昔、ギリシャにペルシャの大軍が攻め寄せたときにも嵐が吹いて船が沈みペルシャ軍は全滅したそうです。勝った方は神のおかげと思い、負けた方は神に見放されたと思う、たとえ信じる神が違ってもです」
忠勝は興奮して船戦さのことを聞きたがった、ユキは分からない言葉に苦労した。
「我らの提督ドレイクは世界を一周しスペインの黄金を奪い取って帰りました」
「海賊だな」
「いやプライバティールといいます」
その違いがユキにも説明できない。つまり「ひそかに」とか「おおやけではない」とか「己の」とかいう言葉と近いのだとしか言えない。
「つまり海の野武士のようなものでありましょう」
正純は察しがいい。
「スペインは怒る、エリザベスは喜んでドレイクを旗本にする。スペイン王フェリペは昔のメアリ女王との結婚を持ち出してイギリス王の位を求めました」
「そんなことはどうでもいいから早く戦いの話をしてくだされ、じりじりしますぞ」
忠勝が叫ぶ。海の男は気が短い。
「敵のアルマダは130隻、2万人の兵を乗せ大砲が2630門、三日月形の陣営で帆を一杯に張って進んできました」
「なるほど鶴翼の陣ですな。最も大きいのはどのくらいの船でした」
「ガレオンは千トン、砲百門」
「そして大将は」
「シドニア大公、王の命令を聞いて、船酔いするからと言って何度も断った人物です」
「なんでそんな人を選んだのか」
「王は家柄で選びます」
忠勝は豪傑笑いをした。
「大将がお飾りでは勝てるはずもない」
そっと家康の方を見た正純は小声でつぶやいた。
「戦いさえなくなればお飾りの大将の方が役にたちましょう」
家康は薄目をあけて正純を見たが何も言わなかった。
「我らはプリマス沖で迎え撃ちサンサルバドル号を炎上させたくさんの金貨を奪いました。我がドレイクは敵の提督の一人を捕まえた。ついでカレー沖では火船を放って敵を散り散りにしました。フランドル沖では舷を接する砲撃戦となり我らは敵を圧倒しました。その後に嵐となり、スペイン船は次々に沈んでいきました。陸に打ち上げられた兵隊はたちまち捕らえられました」
「貴殿はどこにいたのか」
忠勝は夢中だった。
「私は小砲を積んだ運送船のキャプテンでした。海に落ちた船乗りを助けたり身動きがとれなくなった船を引いたりしました」
「貴殿の大砲はどのくらいの威力だ」
「私の砲は一貫目ほどの弾丸を50間ほど飛ばします。一寸ほどの厚さの板なら砕きます。戦艦に載せる砲はその三倍くらいの威力があります」
「なんとしても手に入れたい。上様、ぜひお買い上げを願います」
家康が静かに言った。
「忠勝が所望するのはイギリスの砲だ。スペインの砲はどのような具合だ」
「スペインは船と船をぶつけて兵が戦う戦法を取ります。大砲は船を沈めるためでなく敵兵を倒すためです。我がイギリスは巧みに操船して敵を寄せ付けませんでした」
ユキは男たちの話に疲れた。
忠勝の父の向井政綱が伊東を訪れた。幕府のお船手奉行、歴戦の海将、北条攻めの時には、豊臣秀次が家康に贈った国一丸に乗って西伊豆の田子城を落とした。しかし、健康には勝てない、長年の海の暮らしで節々を痛め杖をついている。田子攻めの時に斬られて右腕が不自由だ。
さっそく船を検分して木の香を胸一杯吸い込んだ。船底から甲板、マスト、策具を専門家の目で調べ、八分通りできあがっているのを知った。
「アダムス殿、船には水手(かこ)が必要ですぞ」
「父上、ぬかりはありません」
白木の船は陽にまぶしく光っているのを目を細めて見上げていた忠勝が言った。
「願い出たこの地の若者を五十人ほど調練しております」
「三島のお代官は知っておるの」
「江戸築城の石船がこの湊より通いました。その者たちは未だに海から離れがたくて」
「わしも海に出るとせいせいする。板子一枚下は底知れぬ深さだが、それがまたいい」
「わが国の言葉だけではガレオンは操れません、かの国の言葉も時おり混じりますがそれで良いでしょうか」
「朱印船のジャンクも訳の分からぬ言葉で命令しておるぞ、ただ舟歌だけは我が国の言葉で聞きたいものだの」
景丸が酒を運んで一同にふるまった。
「正綱様お土産のご酒でございます」
正綱はその声を聞き顔を見て、ふと何か言いそうになったが首をかすかに振って何も言わなかった。
「持舟の殿様、お久しうございます」
亥兵衛老人がなつかしそうな顔を見せた。
「なんと亥兵衛殿、そなたが宰領してくれたのか」
「殿様こそご息災でご出世と承り、わしの親父にも聞かせてやりたかったものです」
「ささ、思い出そう、話そう、ああ知る人がいることは、こんなにうれしいことか」
船体は出来上がり、帆柱も帆ゲタも調えられた。船大工たちは自分の腕の良さを誇り、水手たちは海へ乗り出す日が間近なのを喜んだ。
「いよいよラウンチング・セレモニーじゃ、酒が飲めるぞ」
「また知ったかぶりの面倒な言葉を使いおって、それはなんだ」
「ヤンツ殿が言っておった。船下ろしの祭りだそうだ」
一日の仕事が終わると武士も工人も小屋の外に座って、あざやかな茜色から紫色へと変わってく水平線をながめている、気のやすらぐひと時だった。もちろん茶碗には酒が充たされている。
「ほうガレオンも船下ろしをするのか。奥方様もおいでになるのか」
「まだ奥方ではない、許婚だそうだ、しかし、それがどうした」
「わしの村では船下ろしの日には奥方を海へ投げ込む習慣だ」
「それは乱暴な、髪の毛をいただいて船玉様に封じ込めるだけでいいだろうが」
「船玉様は海に入るお供がほしいのよ」
「アダムス様が何と言うかだな。ことのほかに女人を大事にする国風だそうだからの」
ユキは招かれて5日前から伊東に滞在していた。もちろん景丸も同行している。この5日間、忙しく船下ろしの準備をしてきた。昨日は江戸の役人が到着し、駿河代官の船も着いた。アダムスの希望で、役人ばかりでなく土地の漁民や農民も招いた盛大な宴会が予定されている。子どもたちは船から投げる菓子や餅を拾うのを楽しみにしている。そんな準備で忙しかった。
午後には芸人たちがやってきた。この国には祭りと聞くとすかさずやってくる芸人たちがいる。さっそく農家を宿にして色鮮やかな衣装に着替え笛太鼓を奏でて客を誘った。
僧侶や神主も招待されている。アダムスがキリシタンと疑われるのを防ぐため忠勝は用心深く、何かにつけて神社や寺に関係を持とうとしているのだ。
船は足場から垂らしたムシロで覆われている。足軽が昼夜、2人ずつ番をしている。北条の残党やずっと昔の武田のはぐれ者まで、徳川に恨みを持つ海の男がいないわけではない。しかし、それよりもやじ馬たちが船を見たがり触りたがるのを防ぐ、そんな苦労もようやく終わりになる。
アダムスが船に登っていくと声がかかって船室からピーター・ヤンツが顔を見せた。
「ようやく一仕事が終わるな」
アダムスは口ヒゲをひねって答えた。
「無事に航海ができれば次の仕事が舞い込むだろう」
「やはり俺は船を造っているのが一番だ、毎晩いい夢を見ていたよ」
ヤンツはリーフデ号の生き残りの中で年長だった。
「この国の木は柔らかいから大口径の大砲を間近で撃たれたらかなり危ないが、水には強いし柔軟なので嵐には強いだろう」
「塗料には困ったな」
「ワニスがないから桐の油というのにウルシを混ぜたり墨を混ぜたりしたから黒っぽくなってしまった。しかし銅板はいいものを貼った。この船でどこへ行くのだ」
「まずは江戸、公方様にお目にかける」
「オランダに帰るには小さすぎるぞ」
「コロンブスだってこんなものだった、しかし、すぐにもっと大きな船を造るように言われるだろう」
「おれはオランダには帰らない」
「おれはイギリスに帰りたい」
ユキがそばにいないことを確認してアダムスは言った。明るい月が出ていた。
「明日は晴れだ」
翌日は願い通りの晴天だった。
村から笛や太鼓の音が聞こえる。早くも芸人たちが祭りを始めたらしい。人々が集まるころにはムシロがすっかり取り除かれ船がツヤツヤと陽に照らされていた。竜骨に支えられた優雅な曲線の船腹は、平たい船底と板を組み合わせた直線の船体しか知らない人々を驚かせた。
忠勝が奉行として演説した。なにやら難しい漢語を使って船の尊さを述べたらしい。ユキも通訳できなかった。アダムスの番になった。大声で一言だけ、皆さん、ありがとう、船に代わってお礼を言います、これは皆を驚かせた。しかし船大工たちは喜んだ。菓子と餅が投げられ、子どもばかりでなく大人が大挙して拾いあう、その砂ぼこりがようやく静まると、順にクサビが外され船は静かに滑っていき、水しぶきを立てて松川に浮かんだ。波紋が幾重にも岸を洗った。式は終わり宴会が始まった。ユキは水に投げ込まれずにすんだ。
さっきまで船を覆っていたムシロが一面に敷かれ、人々は車座に座ってサカナを突っつき始める。この2、3日で伊東で獲れた魚は全部ここに並んでいる。刺身、煮て焼いて、塩漬け酢漬け、干魚まで山盛りになっている。すぐに酒が壷で桶で運ばれてくる。
招かれた芸人たちが歌い始める、最初は御世を讃える歌だ。
乁 君が代は千代にやちよに、さざれ石のいわおとなりて苔のむすまで
次に船を讃える、次に造り手を讃える、次に、次に、歌は終わらない。広場の真ん中で踊りが始まった。歌はいっそう早調子になっていく。もう堅苦しい歌などない、みんな恋の歌だ、さきほどの 乁 君が代は…の歌も恋の歌だったのだ。
ユキは顔を赤らめながらアダムスに意味を通訳した。
乁 縁さへあらば またもめぐりあおうか 命にさだめないほどに
あなたと会うことができたのは神様の定めです、また会うことができるか、命というのは明日をもしれないものなのです。
乁 月夜のからすはほれてなく 我もからすか、そなたにほれてなく
月夜にカラスが鳴くのは好きな相手がいるからです。私もカラスなのかもしれない、あなたが好きで、こっそり泣いているのです
太鼓がドンと鳴る。鉦がカンカンと受ける。ササラがシュシュと鋭い音を立てる。ツヅミがポンスポポンとのんびりした音を出す。見物の心は湯がわくようにたぎってきた。
真ん中に赤や黄色の花飾りをいっぱいにつけた大きな傘がゆっくりと回っている。カルサンという南蛮風の袴をつけキンキラの衣装の男が長刀を振り回しながら踊りの輪を広げたり縮めたりしている。赤い着物の裾をまくって奇妙な白いトンガリ帽子の女たちが笛やササラや鼓を鳴らしながら足拍子をして輪踊りをする。
太鼓が二つ、とびっきり派手な衣装に舞楽のかぶとを着けた童子が打っている。シャグマという長い髪の毛のカツラをつけ金の袴、銀の袴の稚児たちは飛び上がり低く伏せて太鼓を打つ。
「無礼講じゃ無礼講じゃ」
長刀男が叫ぶと待ち構えていたようにムシロに座っていた男も女も立ち上がって踊り始めた。長刀男はアダムスとユキを誘って真ん中に連れ出すと、稚児のシャグマを二人に被せて太鼓を打たせた。一座の者がどっと笑う。
「いい宴だ」
忠勝が驚いて振り向くと本多正純が立っていた。
「皆が船のことを忘れてしまったので乗り込んでゆっくり見せてもらった。江戸にはいつ着くのか」
「左様、これから帆柱を立てて綱を引き、水手どもに慣れさせて、一ヶ月。風待ちをするともう少しかかりましょう」
「上様に征夷大将軍の宣旨が下される。それまでに江戸に着くといいのだが」
「それはめでたいことです。必ず間に合うようにいたします」
正純はたちまち羽織も袴も脱いで、笠も刀も景丸に渡すと踊りの輪に飛び込んでいった。
「この歌と踊りは何というのですか」
いかにも楽しそうに手を打っている忠勝に景丸が聞く。
「風流踊りだ。豊太閤が流行らせた。信長公もお好きだった。泉州堺の高三隆達という坊主が名人だ。勝手に弟子を名乗る者が江戸にまで入りこんだ。アダムス殿もユキ殿もお疲れのようだ。小屋に入れてやろう。景丸、お呼びしてまいれ」
外があまりにも明るいので小屋に入ると何も見えなかった。楽器が奏でられ低い声で誰かが歌っている。ユキが聞いた。
「これは琵琶でも琴でもありません、初めて聞きます」
歌がパタッと止まり老人の優しい声が聞こえた。アダムスも入ってきた。
「三線、口の悪い者は蛇の皮を張るので蛇皮線などと言います」
老人は三線を弾きながら低い声で歌った。
乁 生まるるもそだちも知らぬ人の子を
いとおしいは何の因果ぞの
ユキが通訳する。
どこで生まれたのか、どこで育ったのか、私はあなたのことをまったく知りませんが、どうしてこんなに好きになってしまったのでしょう。生まれる前から決まっていたことなのですね。
ユキはいよいよ不思議な気持ちになってきた。歌の言葉を伝えているのか、自分の気持ちを話しているのか分からなくなった。
アダムスはじっとユキの顔を見ていたが真面目な瞳にフッと苦しむような影が差した。景丸はそれを見たが黙って心にしまった。
「上様は江戸だ。少しも早くお見せしたい」
一同の気持ちを代弁して正純が言った。
「出航には吉日があろうか」
「風の良い日が吉日」
忠勝も勇み立っている。
「明日は良い、3日はもつだろう」
「待ってください、まだ船荷が調っていません」
忙しく準備が進んでいよいよ出航になった。2隻の小早舟に引かれて船はたちまち沖へ出た。横帆がバタバタと音を立てて広がり、続いてロープが引かれて三角帆がいっぱいに上がった。順風を受けて船首が心地よく白波を切る。木の香も潮の香も清々しい、一同は陶然として喜びをかみしめていた。
「ハッハッハ愉快だ愉快だ」
忠勝が大声で叫び、正純が応じた。
「初めて水手どもの心が分かった。こうあればこそ辛く危ない海に出ていかれるのだな」
アダムスは微笑みながらも黙っていた。何度このように船出したことか、何度も嵐と飢餓と戦闘で命を失いかけたことか、この航海などは児戯に等しい。
「久しぶりにアダムス殿のカピタン装束を見ました」
今日は晴れの門出なのでアダムスは航海士の正装を身につけている。リーフデ号のボロボロの服をユキが採寸し新しい布で仕立ててくれたものだ。
「さすがにアダムス殿はお似合いだ。もっとも普段の裃姿も堂にいっていますぞ。マゲもお顔立ちによく合いますぞ」
正純はアダムスが自分たちと同じ服装で、なによりマゲを結っているのがうれしい。細く鋭いあごと高い鼻、奥まった青い瞳は歴戦の勇士の顔だ、それが好ましい。
「アダムス殿はなぜ我らと同じ風俗になりましたか」
忠勝が聞いた。
「キリシタン・バテレンは頭のてっぺんだけを剃っている。他の商人や船乗りたちは戦場にあるように蓬髪だ。いずれもマゲを結う我らのようなたしなみがない」
「忠勝殿、彼らとて本国にあれば服装の髪も整えておるのだ。ここは異国なればぞんざいに過ごしておるのであろう」
正純に言われて忠勝は照れた顔になった。
「それにしてもアダムス殿はよく我らの仲間になってくださいました。やはりユキ殿のお志ですかな」
順風に吹かれて船上は平和だった。伊東の水手たちも良い船乗りだった。一同はのんびりと船首の風にあたっていた。
「されば、我が敵フランスの言葉には男と女がございます」
「なんじゃそれは」
アダムスの言葉に正純が妙な大声で応じた。船に乗ると皆が大声になるものらしい。
「つまり、このような大きな船は男、あのような小さな舟は女、それがしが越えてきた千里の海は男、この入り江のような小さな海は女でござる」
船端に寄りかかったアダムスは威厳をいっぱいに体から発している海の男の姿に戻っていた。
「さてその区別はどうつけるのか」
「言葉の前にルとつけるのが男、ラとつけるのが女でござる」
「すべての言葉がそうなのか」
「左様、ただ区別がつかないものもあるそうです」
ここでようやく一同は笑った。
「この話とマゲとがどう関わるのか」
正純が話を戻した。
「激しく厳しい男の海を航海してきた男の船は風も波もない女の海に入ります。そこには女の波除があり砂浜があります。そこは憩いの地です」
「アダムス殿は歌詠みでありますな」
忠勝が感心したようにつぶやいた。
「私はユキさんのもとで憩いを見つけました。だからユキさんと同じ姿になりました。私の子どもたちも同じ姿で同じ言葉を話させます。そして一緒に暮らします」
しかし故郷ギリンガムには別の家があり妻と子どもたちがイギリスの暮らしをしている。今それを思い出すと寂しくなる。
「ヤン・ヨーステンはオランダ風俗のままだがアダムス殿はどう思われる」
忠勝は未だにヨーステンが好きになれない。高潔でいかにも武士の風格を漂わせるアダムスに較べると、ずいぶん濁っている気がするのだ。そういう気持ちを早く改めて、良いところを見出したいと正直に思っている。
「私は上様の家臣として皆と同じようにお仕えしたい。しかしヨーステンは自分にしかできないことがあると思わせたいのです、それを上様と契約して高く売りたい、私とヨーステンは同じことしかできないのに。ヨーステンは誇らしく外見を飾ろうとし、私は心の内で誇らしく思うだけです」
正純が感嘆して声をあげた。
「なるほど上様のお心の通りだ、麦飯を食い粗末な着物を着て天下を治めるお心だ」
「そうだ忘れておった。船には旗印がなくてはなりませんぞ」
向井忠勝が言った。
「敵を怖れさせ味方を奮い立たせる旗印だ」
忠勝は黒地に白抜きでひらがなの「む」の字を旗印として父親から受け継いでいる。しかし、まだ御座船に掲げる許しは得ていない。
「アダムス殿の紋は何と」
イギリスでも貴族は紋を持っているがアダムスのような庶民にはない。
「上様のお許しを得ていません」
「私の紋をお使いになりませんか。丸に三つ柏です」
景丸が言った。古く長江の領主が使っていた紋だと教えられて誇りに思っていたのだ。
「紋は優雅な方がいい。上様がこんな話をされていた」
関が原の軍陣で家康は、旗にムカデの絵などを描いて豪傑ぶりを誇る侍がいるが本当にムカデは強いと思うかと聞いた。近臣たちはしばらく考えたが、ようやく正純が答えた。
「武田信玄は使い番にムカデの旗を描かせ、絶対に後には引かないという印にしたそうです、それにあやかってのことでしょうか。確かにムカデは怖いが、人間が踏みつぶせばそれで終わりです」
安心して近臣は口々に言い始めた。ムカデをニワトリは平気で食べてしまう。たくさんのアリにたかられたらひとたまりもない。
「ではアリをわしの旗印にしようかの」
皆は顔を見合わせた。アリの旗を掲げれば敵も味方も笑うだろう。
「上様の厭離穢土(おんりえど)の旗は一向一揆に打ち勝った印でございましょう」
正純が話題を変えようとした。しかし家康は話にこだわった。
「一揆の衆はおのれの手柄を求めない、だから旗指物や兜の飾りは無用だと言った、ただアリのように群がって大将でも雑兵でも構わずに殺すだけなのだ」
「頼朝公の時代には名乗りをあげての一騎打ち、さぞ晴れがましい戦さでございましたでしょう」
正純がおっとりと言った。
「わしも一揆の者たちを理解できなかった。それでお前の親父殿に聞いたのだ」
正純は居心地悪そうに体をずらした。本多正信は一揆方の侍大将だった。ある時などは家康を追いつめてあわやという思いをさせたこともある。三河以来の旧臣には一揆側だった者が多いが家康はすべてを許して元通りに召し使った。しかし用心深い家康は織田信長に遠慮して本能寺の変までそのことを隠していた。その後は武田や北条の旧臣たちも次々に家来にしていった。
「厭離穢土と欣求浄土(ごんぐじょうど)はどちらが真情であるか、ムジナの親父殿は即答した、人に向っては厭離穢土、己のためには欣求浄土。それなら一揆の者はわしの家来に戻れると思ったよ」
アダムスが笑っていった。
「船乗りはアリやムカデの絵を好みません。あのおぞましいガレーを思い出すからです」
一昔前まではガレーが地中海の主力艦だった。イタリアもスペインもトルコも飾り立てた巨大なガレーを自分の港に浮かべたが、百もあるオールを漕ぐのは敵の捕虜と罪人だ。ガレーに近寄ると鎖で縛られた漕ぎ手たちの強烈な悪臭が鼻をついた。船乗りたちは運命に脅えてガレーを怖れた。
「景丸の旗をお借りしましょう」
「まだ大変なことを忘れていた」
「貴殿があまり急がすからだ」
謹厳な忠勝があわて、いつも落ち着きがないと叱られる正純が悠然としているのも、海の上は普段と違う世界だからだろう。
「この船には名前がついていない」
「赤ん坊だってお七夜までは名無しでございますよ」
ユキは男たちが子どもにもどってしまったような気がしている。
「アダムス殿、名づけられよ」
名前は一つしかない、リーフデ号だ、イギリスならリーフデ二世号で通用しようが…。しかしリーフデで来た、リーフデ二世で帰る、そう思われるのは辛い。上様はその名を好まないだろう、アダムスの望郷の気持ちをかきたてる名前だからだ、それは正純も知っている。第一、日本の船に外国の名前をつけるのは奇妙ではないか。正純はアダムスのためらいを受け止めた。
「アダムス号がよろしいぞ、リーフデはすでにあった船、そこにアダムス殿が乗られた。今度はアダムス殿が造った新造船、ご自分の名前を与えられよ」
しかし、これには忠勝が反対した。
「我が国の船には人の名前をつける習慣はござらぬ。船は必ず壊れたり沈んだりするもの、その人の名を惜しまねばなりません」
「では按針丸だ、この船で世界へ連れて行ってもらおう」
アダムスの心の陰りも風と波が吹き飛ばしていった。船は江戸に回航された。航海の間中、ずっと風は良く浪は穏やかだった。
船は浦賀に仮泊し夜明けとともに出帆して、隅田川をさかのぼり夕刻までに浅草に接岸した。家康は大変に喜び、翌日には乗船して海から江戸を眺めた。数日間のうちにたくさんの武士や町人が船を見物した。これまでは異国から迎えるだけだったガレオンを、日本が世界に送り出すことになった、それが新たな感動だ。
「ご大任ご苦労でござる」
向井政綱がアダムスを訪れた。
「そなたの家を探しておいた、いずれ上様に願いでて屋敷を拝領しよう。忠勝の近くだ」
「よしなに」
「そんな言葉も覚えられたか、忠勝から話は聞いておったが。では早速に案内申し上げよう、ユキ殿も景丸もご同行なさい」
船手奉行の屋敷で祝いの宴が行われた。ヤンツは船に残る、忠勝が同行を強く勧めるとアダムスが答えた。
「就役中の船には必ず士官を残すのが定めです」
ヤンツも喜んで船に残った、日本の宴は正座しなければならない。
酒が一巡してくつろいだ気分になると主人役の向井正綱がアダムスに聞いた。
「そちの国のことを聞かせてもらおう、天下を治めておるのはどのような者だ」
「エリザベスと申すクインでござる」
クインという言葉が日本語になくて、ユキは少しとまどった。
「かの国では女のミカドをいただいている由にござります」
ユキが興奮気味に言うと一同は耳をそばだてた。正純がすぐに聞き返した。
「ではかのスペインとの大いなる戦いを指揮したのもその女帝か」
「さよう、クイン・エリザベスはただ一人ですべてを担い、イギリスの旗を世界になびかせております」
これは一同を警戒させる言葉だと気づいたアダムスは言い足した。
「イギリスの敵はスペインとフランス、いずれもカトリックの国です」
正純が察して話を進めてくれた。
「わが国でもいにしえには女帝があったと聞いておる。しかしエリザベス女帝には夫がおりましょう」
「バージン王と名乗って独り身でござる」
あぜんとして一同は顔を見合わせた。
「はるか昔にはヒミコと申す呪術に巧みな女がこの国を治めていたという。また神功皇后様は三韓征伐したという、まさに同じだ」
正純はおそろしいことだという表情を隠さなかった。
「どうしてその女帝が国を治めることになったのか聞かせてくれ」
アダムスはユキの助けを借りながら祖国の歴史を話し始めた。
父王のヘンリー八世はエリザベスの母と結婚するために、離婚を禁じるカトリックを捨ててイギリス国教を立てた。
「カトリックの結婚というのはそれほどの重さを持っているのか」
忠勝がびっくりすると正純が悠然と答えた。
「細川ガラシャ殿がそうでしたな」
「そんなに簡単に一派を立てられるものなのだろうか」
「本願寺一向宗も元は浄土宗、身軽に新宗と名乗って独立した」
正純は知識をひけらかす癖がある。
ヘンリー王はそうまでして結婚したエリザベスの母を処刑し、次の妻をめとった。都合死ぬまでに六人の妻を持った。
「人倫にもとります」
「イギリス国教とはそういう宗派なのか」
ヘンリーが死ぬと弟のエドワードが9才で王になったが15才で死んだ。父から移された梅毒が原因だった。
「まことに因果応報という」
「我が国にも伝わった、南蛮船がもたらした害毒の一つだ」
そして姉のメアリーが王になりエリザベスは憎しみの対象になった。
37才のメアリーは、王位継承権を持つ20才の妹、聡明で気品があり輝くような妹を敵とみたのだ。イギリスはどん底だった。フランスやスペインに圧倒されて貿易を妨げられている。もっともイギリスが売ることのできるものは錫や羊毛や石炭だけだが。クィーン・メアリーはスペイン王のフェリペ二世と結婚して国力を高めようとした。そのためにはカトリックに戻らなければならない。
「それはうわさなのか真実か」
たまりかねたように忠勝が叫んだ。
「その方ごとき船乗りがなんでそんなことを知っている」
アダムスは真面目な顔になった。
「船乗りというものは何十日も何百日も海に浮かんでおります。同じ話を何度も何度もくりかえしているうちに、様々なことを思い出し、結びつけ、真実というものに迫っていきます。船にはスペイン人もフランス人もオランダ人も乗っております。船乗りは話を深く広く考えることができます」
敵のスペイン王フェリペがイギリス王になろうとしている。イギリス国教はカトリックに寛容だったがカトリックは他宗派を弾圧する。スペインでは火あぶりにし、フランスでは断頭する。事実メアリーが結婚しフェリペがロンドンにやってくるとあっというまに三百人が火あぶりになった。
「エリザベス様はどうしていられたのですか」
怖い話にユキがふるえながら聞いた。
「最初はロンドン塔という牢屋に閉じ込められ、次にウッドストックという田舎の城に閉じ込められました」
スペイン王フェリペはフランスと戦っている。そこで、フランス皇太子はスコットランド女王のメアリーと結婚してイギリスの王位継承権を持った。スコットランド・アイルランド・フランス・イギリスが一つになってスペインと戦おうとした。
「わけがわからん、スコットランドとはなんだ、また別のメアリー女王が出てきたぞ」
忠勝が大声でさえぎった。
「イギリスの地続きの北がスコットランド、隣の島がアイルランドです。ローマ人の時代から戦い続けている仲です。スコットランドのメアリーは若死にしたエドワードの婚約者です。イギリスのメアリーの義理の妹です」
「なるほど結婚すれば敵とはいえ親戚同士だ。たとえ義理でも親子兄弟になります」
正純はちらっと家康の顔を思い出した。
「つまり豊太閤の一人息子に千姫様が嫁いだから、大阪が征夷大将軍の位を求めるようなことですな。それでエリザベス殿はどうなすったか」
「イギリスのメアリー女王はフェリペの子どもを宿したとも言われましたが病気で死にました。死ぬ三日前にエリザベスを自分の後の女王に指名しました」
「ならエリザベス様は好きな男の方と結婚できましたのに」
ユキの心がうかがえた。
エリザベスと結婚すればイギリス王になれる。フランス王子フランソワもスペイン王フェリペもオーストリア大公も結婚相手となろうとしたがイギリス人はこれ以上、外国人の名前は聞きたくなかった。
「私たちはクイン・エリザベスを誇りに思っています。輝くほどに美しく聡明でこの上なく気高い我が女王」
またも言い過ぎたと感じてアダムスは深くおじぎをして言い足した。
「されど今の私には公方様に増して尊いお方はおりません。私の命は公方様からいただいたものです」
正綱が深くうなずいた。武田滅亡の時に死を覚悟して身を隠した正綱を、家康はわざわざ探し出し徳川水軍の将に任じてくれた。家康に命を救われた武田遺臣は数多い。
アダムスは話を続けた。
「エリザベスは左手の薬指にはめた指輪を高くかざして静かに言いました。この指輪は結婚のしるしです、私の夫はイギリスです、私はイギリスと結婚しました」
しかしユキは女王の失意を感じ取っていた。幸せな王、幸せな女王など世の中にいない。戦乱だけでなく、心の中でも戦い続けるのが王の定め、そんな一生を送る人に心の幸せはあるのだろうか。
家康はすぐさま次の船を造ることを命じた。一回り大きく造るがよい、一同は伊東に帰り造船に取り掛かった。すっかり技術を覚えた船大工たちはそれほど苦労しなかった。
「北条の油断は海にあった。里見が衰えてから水軍にかける金を減らして、伊勢海賊や熊野船を雇うようになった。もちろん水手も船もだ」
亥兵衛老人は愚痴った、どうやら北条水軍の思い出が深いようだ。
「船造りの技術は経験と勘だ、なにより造り続けなくてはならない。金を出さなければ船大工も水手も出て行ってしまう。北条水軍は雇われ者ばかりになった」
そして包囲が始まる前にさっさと逃げてしまった。
「海を守るには金がいる。武田信玄は、人は石垣、人は城と言ったが、わしに言わせれば、海は石垣、船は城だ」
アダムスは我が意を得た顔になった。
「イギリスも同じです。水軍こそがイギリスの守り、船がイギリスに富をもたらします」
正純はじっと聞いている、思いもよらないことだった。三河者たちは堺の商人たちが異国に行くのを無用の品を買い込む無駄なことだと思っている。むしろ早くやめさせて質素倹約をさせた方が国のためと思っている。家康様にこのことを伝えてご判断いただかなければならない、そう心に刻んだ。
そして翌年には120トンのガレオン船が進水し浦賀に回航した。
アダムスは沿岸の測量をすることにした。異国船来航を監視するためには寄港地を管理しておかなければならない。もちろんユキは同行する、景丸は志願しナギサは遠慮した。忠勝も行く、下田の水手たちを鍛える良い機会だったし、何よりも海に出たいという気持ちが高まっていた。正純はご用繁忙で止められた、いくぶんほっとしながら浦賀まで送りに来た。
航海はあっけなかった。小舟に引かれて浦賀の入り江を出ると、船改めの番所の前を走り抜け、州崎に集う漁舟の見送りを受けて安房の岬に向かい、伊豆大島を弓手に見て順風に一杯の帆を掲げた。真っ白な帆だった。
ヤンツを含めて5名のリーフデ号の仲間が水手を指揮した。しかし正綱は裏切りを心配した、船を乗っ取られてイギリスに向うかもしれない。アダムスを心から信頼する忠勝は一笑したが父の強い勧めで鉄砲や武器を錠のかかる戸棚にしまった。
富士山には厚く雪がかかっている。大山と足柄山が鋭く山頂を突き出している。それから、いかにも山塊を盛り上げた箱根山、高原が長く伸びて最後をしめくくるように天城山がそびえたつ。ガレオンはたとえ120トンであっても海と空の間に漂う玩具にすぎなかった。
箱根路をわが越えくれば
伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
忠勝が小声でつぶやくのをアダムスは聞き逃さなかった。
「それは何ですか」
「鎌倉の頃、実朝将軍が詠んだ歌だ」
「日本のゼネラルは歌を作りますか」
詩を作るイギリスの武将は思い出せない。
「我が国では歌を作ることは刀の技より尊ばれる」
忠勝が誇らしそうに言うとアダムスは悲しそうになった。
「この国のカルチュアが分かりません。男も女も農民も武士も詩を作る、それなのに一回の合戦で一万二千人も戦死者の出る大戦争をする。我が国の詩人は人の喜びや悲しみを歌い人の心を癒します」
誰もが黙っていた。戦乱のない世の中を創るために戦って死ぬ者は尊い。それが自分だったら、冷静に客観的に自分を見つめる方法が歌であり茶の湯なのだろう。
「アダムス殿、落ち着いたら茶の湯にお招きいたす」
「芝居といい茶の湯といい、ずっと楽しみに待っております。順風と日和の恵みを受けておれば」
謹厳な忠勝はアダムスにからかわれたとは思っていなかった。
下田の湊に入るのは寝姿山という小高い山を目印にすればよい。船は松の生えた小島が点在する景色のよい入り江に入った。黒潮の速い流れに逆らって進んで行くので時間がかかった。
「アダムス殿、ここにも良い湯が沸いておりますぞ」
忠勝が冷やかしたが温泉を知らぬ景丸はとまどった。それより父と兄がいたかもしれない水軍城を見てみたかった。
寝姿山のふもと、川に沿った所に城があったという。水軍の城は船だ、陸には寝場所と倉があればいい。
「俺はここで戦った、いやな思い出だ。正綱殿の武田水軍は強かった」
年のいった水手が懐かしそうに小手をかざした。風光明媚な景色に血なまぐさい戦いなど想像できない。アダムスもいぶかしそうに聞いた。
「武田の本拠は山の中と聞いています」
「それゆえ塩にも困り、鉄砲・弾丸・硝煙にも困りました。そこで川沿いに城を造り御前崎までを領地にしました」
甲斐の金山を資金にしている武田水軍は強力だった。忠勝の祖父がその主将の一人で、用宗にその頃は持舟という名の城を持っていた。
「御前崎に湊を持ち、北条は下田を押さえとしました。安房の里見も北条の敵。我ら水軍はあちこちで戦いました」
忠勝が静かにつぶやいた。
「武田が滅びてから下田も無用になったが、小田原攻めの時、再び守りの地になった」
その時には北条水軍は時代遅れの無力な水軍になっていた。五十丁櫓の安宅船だと誇ってみても太閤の水軍には大砲で武装した二百丁櫓の軍船があった。大人と子どもどころか鎧武者に素手で立ち向かうようなものだった。下田城主の清水康秀は籠城し、北条水軍の梶原景宗は西伊豆に移動した。下田の港外を太閤の軍船は物見遊山をするように悠々と通過していった。
「港を閉塞する必要もなかったと」
イカリを下ろしモヤイを結ぶと船は眠ったように動かなくなった。小波さえも立っていない。一同は小舟に分乗して河岸に上がった。
「ささ、湯にご案内しましょう」
景丸は陸に上がってようやく歩くということがどんなに気持ちよいかを実感した。
翌朝も順風だった。夜明けとともに出帆した。ユキと景丸は足と胃が重かった。
半島の先端は鮫の歯のように鋭い岩が連立する石廊崎だ。どんなに海が穏やかでもここにだけは白い波が砕けている。
「デビルの牙」
リーフデ号の舵手だった男がオランダ語でいった。昨日通り過ぎた真鶴岬の三本の尖った岩にも同じ呼び名をつけた。アダムスがそっと叱責した。キリシタンと疑われてはやっかいだ、乗組員全員を無事に故国へ帰すことがアダムスの念願だった。
右舷前方の富士山が船首方向に移った。秀麗な左右対称の長い裾野を引いている。帆柱がきしんで、風が変わってそれまで追い風を受けていた帆がバタバタと音を立てた。船体が傾いて物の擦れる音が聞こえた。
「あれは火山です。それもとびっきり威勢のいいやつだ。ほらご覧なさい、砕け散った古い火山が見えるでしょう。まるで打ち倒した兄を冷ややかに眺める弟のようだ。あの点々と続く島も火山です。兄王の家臣たちという様子ですね」
言われてみると山頂の火口から薄い煙がでているような気がした。
ヤンツが船倉から顔を出した。新造船の木の香に包まれていかにも幸せそうだった。
弟と呼ばれた愛鷹山は無残に切れ切れになった峰を並べている。家臣たちの七つの島は水蒸気に隠れている。
午後の陽は序々に褪せていった。太陽はどんどん空から遠ざかっていき山の陰に夜の宿りを求めていく。筋雲が富士山にかかってきた。駿府へ送る荷物を待って出航を遅らせたため夜までに清水の湊に着かない。沼津に入るか沖に停泊するか、アダムスにとっては何の不思議もないことだったがユキも景丸も恐れおののいた。この不安な海の上に一夜を明かすことは恐怖そのものだった。
おまけに水手たちは怪談が好きだった。海坊主や磯女、深い海の底からヌッと現れて船をまたいでいく怪物もいたし、海面に細い手を出して柄杓を求める幽霊もいた。
仕方なく通訳していたユキはすぐに悲鳴をあげて船倉に逃げこんだ。ところが甲板で大声で話す怖い話は船倉にも容赦なく聞こえてくる。悲鳴がとぎれないのを見かねて忠勝が怪談の禁止を申し渡した。
一座の中から肩幅の広い頑丈そうな、頬骨の突き出た顔は赤黒く日焼けした海賊そのものという男が出てきて話し始めた。
「さよう、ブングイ峠とか申しました」
武田攻めの時には天竜川をさかのぼって物資を運んだ三造という男だ。
「船乗りの習いというがお前の声は大きすぎる、ほらみろ盃の酒に波が立った」
忠勝はきさくに腰をずらして男の席をこしらえた。
「俺はこの前の戦さで諏訪まで行きやした。別に命じられたわけではありませんが、武田が滅びるのをこの目で見たいと思いましてな、米俵を背負って織田様の軍勢と秋葉街道をいきました」
「そうだった、お前の父も兄も武田の兵に殺されたのだったな」
鬼そのものの三造がしんみりした。
「はい、俺の一族は大井川の川根で舟を預かっておりました。高天神攻めの時、暗いうちに武田の軍兵にたたき起こされて舟で島田まで送れという、着くとトンポ返りで何回も往復し兵も兵糧もたくさん運びました。それなのに城が落ちると、もはや無用だと殺されました」
「通夜でもあるまいし湿っぽい話はするな。第一、そのブングイ峠がどうしたと」
忠勝にどなられて三造は照れくさそうに笑ったが、真面目な顔をアダムスに向けた。
「のうアダムス殿、羅針盤というのはムチャクチャになることがありますかいな」
「どういうことですか」
忠勝も興味をひかれて身を乗り出した。
三造はこういう話をした。連れになった従軍の僧が日没に西方浄土に向って経をよむ。雨や曇りでは日没が見えないし、山道に入っては西も東も分からない。それでも頑固に西に向おうとする。三造は南蛮渡りの磁石を貸してやった。
茶屋の手代がようやく通訳した。
「おおムスリムも同じです、旅をする時は、メッカを指す磁石を常に持って行きます」
「ムスリムとは何だ、メッカとはなんだ。キリシタンの仲間か」
「いや我らの第一の敵でござる。もはや千年も戦い続けております」
今度は忠勝が驚きの声をあげた。キリシタンでさえ厄介なのに、そのムスリムまでやって来たらどうなるのだろう。
「ムスリムは船に乗るのか」
不安そうに聞くとアダムスも困ったように答えた。
「アラビアからジャワまではムスリムの海でござる。商船も海賊もあふれています。つい百年前まで地中海もムスリムのものだった。それをスペインが破りました」
「なんと世界は広いの」
「海はすべてをつないでおります」
三造がまた大声を発した。
「ブングイ峠じゃ」
もう一人変わり者の足軽がいて、北枕をひどくいやがる。だから僧が西を向いて祈るのを見ていてその方に足を向けて寝ようとする。僧は尊い西方に足を向けるなど罰当たりめといって怒る、仲間は笑う、毎晩そんなことをしていた。
「ヒョウ峠は怖ろしかった」
熱心に聞いていた別の水手が怒鳴った。
「なんじゃブングイ峠ではないのか」
なんでもヒョウ峠は川から離れて山にかかる最初の難所でオオカミの名所だ。
「夕暮れともなると峰から峰へと鳴き交わす、その声の怖いこと」
「鮫より海坊主より怖いか」
「声がまず怖い。大勢で火を焚いておりますが、その輪から離れて小便に出たヤツが戻ってこない、もう食われています」
長篠で鉄砲に撃ちのめされた武田軍は重宝の旗まで捨てて一目散に逃げた。追っ手の恐怖と空腹、逃げる武田を信長も家康も追わなかった。山また山を越える秋葉街道は落ち武者狩りと「大口の真神」オオカミが昼も夜も目を光らせていた。
「さぞ武田は怖かっただろうな」
忠勝がポツリと言った。
「手負いの者が血を流して行く、その匂いでオオカミがどのくらい集まったものか、身震いします」
三造は本当に身震いした。
「では、どのくらい怖いか、わしがオオカミの声を真似してみせますべ」
止める間もなく水手は大声を出した。
「ウォーンウォーン、ウーウー」
賑やかな談笑はピタッと静まって、中には刀を手にする者もいた。船倉の中で悲鳴があがった。
「いやブングイ峠のことだ」
忠勝があわてて話を戻した。
ヒョウ峠を下り、這って上るような地蔵峠を越え、一隊はブングイ峠に野営した。もちろん見張りを立て火を焚いて万全の備えをした。幸いにオオカミの声は聞こえなかったが、僧の悲鳴が響き渡った。駆け寄ると僧は青ざめて羅針儀をのぞいている。
「怨霊だ、われらを囲んでいる」
羅針儀の針はどこにも止まらずグルグルと回り続けている。僧は四方八方に経を唱え、北枕の足軽は立ったまま夜を明かした。
「その後はどうでした」
アダムスは静かに聞いた。
「ブングイ峠を下ると元にもどりました」
アダムスは落ち着いて言った。
「年寄りの船乗りから磁石の島という話を聞きました、同じように羅針盤がぐるぐる回って船を難破させる。そんな不思議なところが日本の山の中にもあるんですね」
幸い船倉の中では悲鳴が寝息に変わったようだ。船は三保の岬に抱かれた清水の湾に入って仮泊した。
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