関が原の戦いが終わって四年、世の中は着々と変わっていった。家康は征夷大将軍を息子の秀忠に譲った。これは豊臣秀頼に衝撃を与えた、豊臣と徳川は天下に並び立たないことが示されたのだ。家康は駿河に隠居して大御所と呼ばれるようになった。関八州から駿河、甲斐、信濃、越後まで鷹とともに狩りを楽しんでいるように見せたが、諸国の実情をつぶさに見聞していた。依然として伊達政宗は策動している、南蛮人とキリシタンは交易と布教を合わせて日本での活動の拡大を図っている。平和な世に窮迫していく浪人たちも強く戦乱を求めている。
慶長10年、徳川家康は重臣たちを江戸城に集め、自分の隠居を告げるとともに次の征夷大将軍を誰に譲るか進言を求めた。誰もが驚いたが、家康の意図を察知していた本多正信がすぐに言った。
「結城秀康様こそ、武勇にすぐれ智謀に富み、征夷大将軍としてお仕えさせていただく方と存じます」
すぐに正信とは犬猿の仲の井伊直正が反発した。
「武勇なら忠吉様でござる、関が原での目覚しい働きが目の前に浮かんでまいります」
皆が怖れる島津の軍を激しく追撃した。ただし直正の娘が正室になっている。家康はくつろいだ表情で進言を楽しんでいる、秀吉が織田信長亡き後、清洲城で必死の謀略を行った事など思い出していた。それを見て安心した他の家臣たちも二人のうちのどちらかという発言をしていった。
「なるほど武で言えばそうであろう」
家康が深くうなずいた。年長の秀忠は関が原に遅れた。真田の謀略に乗せられて無駄な城攻めをした。だから補佐役であった正信は正面から推挙できない。それは秀忠の本隊を無傷のまま残す家康の戦略であり、正信も榊原康正も言い含められていたことだが、他の家臣たちは知らない。
大久保忠隣がぼっそり言った。
「天下を治めるのは兵のことよりも五常に篤く五倫に深いお方がありがたく存じます」
「相模守は難しいことを言う、分かるように話してくれ」
家康の声の響きに安堵感があったのを感じて忠隣は声を高めて言った。
「されば仁義礼智信、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友に篤い方、秀忠様でござる」
「相模守様は我が田に水を引かれたようだ」
正信が皮肉な笑みを浮かべて言った。
忠隣も正信を嫌っている。人質だった家康を支えて艱難辛苦を共に過ごした三河譜代の家臣たちは「我らの家康様」に取り入ってくる者をうさんくさい思いで見つめている。
秀忠の正室お江の方は秀吉の養女だが織田信長の孫娘だから筋目はいい。秀忠は律儀で几帳面で、今度の戦いでは手ひどく叱られたが孝心はいよいよ増している。椿の花を愛する優雅な人柄だ。
結城秀康はかつて秀吉の人質で、まだ秀吉に心服する気持ちを残している。忠吉は関が原の戦傷が治らず政務を取れるか危ぶまれている。
「子を知る者は親にしかずと言うが、親の身として子の悪しきを見届けないのは油断である。息子の器量をよくよく見届けた上で家を譲ることが先祖に対する孝行の道である」
そう言って家康が結論を預かった。しかし、家康は駿府城に隠居し、新将軍は江戸で政務をとるということが知れ渡った。ついに世間は、豊臣秀頼が将軍となり家康がそれを補佐するという話が夢になったことを知った。これを戦乱の再来と予測した者も多かった。
日々の政務は煩雑だ。家康には気力と決断を要する事業が山積している。異国との折衝にもその一つだ。新奇を好んだ秀吉の気風を一新させなければならない。しかし、スペイン、ポルトガルに加えてオランダ、イギリス、敵味方の国々が次々に使節を送ってくる。それに対応するにはアダムスの経験と知恵が必要だ、常に身近に置いて意見を聞きたい。
アダムスは江戸城に呼び出され奏者番から申し渡された。通詞が苦労して一部始終を伝えた。旗本に取り立て逸見の地を与え三浦按針を名乗らせる。それは由緒ある名で、その昔、海を駆け巡り幕府の柱となった一族の名だ。
アダムスは一つだけ願いを言った。ひざまずいて刀の柄を額に受けさせてくれるよう、敬愛するドレイク船長が貴族に列せられた時と同じ方法で、家康は笑って許した。
「ただし、それは内輪で行おう、譜代の者がなにかとうるさいことを言うだろうからな」
正純と忠勝が同席した、緋毛氈が敷かれて儀式が行なわれた。
「されど大御所様は三浦の姓をお預かりですか」
正純が少し心配そうに聞いた。いくら徳川の世といえど他人の姓を勝手に名乗ることははばかられる。
あまりにも真剣な目で見られて家康は重い口を開いた。
「岡崎城を取り戻したときのことだ」
ずいぶん古いことを持ち出した。
桶狭間で今川義元が討ち死にすると駿河の将兵たちは一目散に逃げ帰った。大高砦を守っている家康の所にも敗兵が来て、すぐ逃げようと誘った。しかし用心深い家康は母の兄で織田方にいる水野の使者と岡崎城にいる鳥居の使者の両方がやってくるまで待った。岡崎に引きあげてもすぐに城には入らない。城代をしていた三浦上野介は襲撃を怖れて家康の目の前を逃走した。
「三浦は城を捨てた、それでわしが拾った。三浦は逃げ出した時に自分の名も置き忘れたようだ。それもわしが拾っておいた。今、それを天晴れの勇士に与える、それにな…」
少し声を低めていたずらっぽく言った。
「お万が家も三浦の一族だ。あれの兄に紀州の家老をさせている、三浦長門守為春だ」
「岡崎から逃げた三浦と申すはあの三浦でございますか」
忠勝がトンチンカンに聞くと正純が笑いながら答えた。
「まるでなぞなぞ遊びだ、そう三浦は三浦だ。三浦一族は宝治の合戦で滅びたが、三浦胤村と佐原氏が子孫を残した。その佐原の末孫が北条早雲に敗れて滅びた三浦道寸だ。胤村の末孫も各地に名を残しているが本家の三浦介は葦名盛隆が織田信長殿に願って朝廷より補任されが若死した」
駿河には三浦の末孫が勢力を残していたが今川に服し臣下となった。今川義元はそれを家康の本拠の岡崎城に入れて、家康と三河の武士を前線に追いやった。
「その三浦殿とは懇意でございます」
紀州は大阪の南の抑え、また吉野や熊野を監視する拠点だ。水軍にとっては瀬戸内海から四国、紀伊半島を制圧する拠点だ。
「大御所様の手の内には日本中の津々浦々が乗っておりますな」
「なんの世界は広いでの」
家康はとぼけたように手を広げた、しかし厳しく二人の顔を見た。
「アダムスには碇を下ろす湊が必要だ、今後アダムスの按針はそちたちがするのだ」
正純がまけずにとぼけた声を度した。
「なるほど、では、それがしは本多按針でござるか、それでは向井按針殿、三浦按針共々お引き回しのほど願います」
忠勝は正純に向って平伏した。
「正純殿、我らは三河衆に負けぬ三海の衆を名乗りまする。川と海を較べればこちらの方が広うござるぞ。アダムス殿、この山続きの先端はそれがしが守る浦賀と三崎、手を携えてこの海を宰領しましょう」
「ああ逸見、この景色は私の故郷ギリンガムを思い出します。よく似た入江と岬、私は大御所様のおかげでその地の領主になります」
「それではご祝儀に朗詠をいたします。
にぎたづに船乗りせむと月待てば
月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
正純が高らかに詠いあげた。
「誰の歌か」
家康が不審げに言った。
「古い歌でござる、額田王と申し天智と天武二人の帝に愛された才女でございます」
「なるほど、そちの望みはお梅であったの、歌になぞらえて無心をする、それは重畳」
家康が言い放ったので正純はしどろもどろに言い訳する。家康は笑った。
「たぶんその額田王とやらもお梅同様に強い女であったろう。いずれよきおりにお梅はその方につかわそう」
「滅相もないことを」
「そうそう、それから」
家康は機嫌良く言った。
「たしか天海が芦名の一族ゆえ三浦の流れを引いていると聞いたぞ。仏門に入れば姓は捨てる。これも拾っておこう。どうだ、これで三浦が三つになった、海の衆よ」
正純が目でアダムスをうながした。アダムスは改めて平伏した。
「私に何ができましょう」
家康の目が慈父のそれになった。
「千里の波涛を乗り越えたそなただ、嵐の折にも凪の折にも我が船を進めてくれ」
「大御所様は航海に出るのでございますか」
忠勝があわてた。
「大御所様はまことに海を渡るのですか」
家康は笑わなかった。
「豊太閤は朝鮮の役で何度も渡海を求められがとうとう海には出なかった。根は憶病な性質だった、わしはそれ以上に用心深い」
「大御所様、いつか航海へお連れします。海は人の心を育てます」
「それで分かった、忠勝殿の広大無辺なお心映えが。そう海の母と申すとおりで」
正純が冗談を言い、忠勝がムッとした顔になり一同が声を立てて笑った。
「そなたは三浦按針じゃ、世界の海の案内を頼もうぞ。言わでものことながらユキはいい伴侶になろう、子に恵まれ幸多き日々を暮らすがいい」
旗本になった祝いと祝言の祝いが一緒になった。江戸の忠勝の屋敷にリーフデ号の仲間と主賓の正純が招かれた。ヨーステンは来なかった。
ユキは美しい装いで式に臨んだ。正純も忠勝もうっとりとしている。雄蝶と女蝶の役は景丸とナギサだった。盃に酒を注ぐ手がふるえた。アダムスは旗本の正装だ、三浦の二引き両の紋をつけて正座している。忠勝は執拗にイギリスのキャプテンの服装をするように求めたのだがアダムスに断られた。
夫婦は一体でありたい、気持ちも装いも、そう真面目に言われると忠勝に返す言葉はなかった。
忠勝はアダムスを伴って領地となった逸見を訪れた。
海は両腕を差し伸べたような半島に抱かれて狭い湾口を外海に開いている。どちらから吹く風にも船を守ることができるし、狭い湾口にさえぎられて高波は弱められる。なによりも半島の突端に大砲を置けば、侵入する船に十字砲火をあびせることができる。
両側の斜面の落ち込みを測量すると水深は十分だ。干満の差が大きいのでドックを作れば船の修理もできる。
「いい湊になります」
「隣の金沢は鎌倉に幕府があったころからの古い港です。しかし底が浅くて接岸することができません。ここなら大丈夫ですが何しろ道が悪い」
忠勝が言った。
「舟で運べばよい、浦賀も江戸も半日の距離でしょう」
「私はこの高台に家を造ります。そして出船と入船を見張ることにします」
「そうしてくだされば私も心強い。さっそく職人を手配いたしましょう」
「ユキさんにも見てもらいたいです」
5日後の昼ころ職人に引き合わせたいという知らせが忠勝から届いた。アダムスはユキを伴って逸見に行った。景丸となぎさが迎えた。
「江戸から来るとのびのびします。山は緑、海と空は青、風は透き通っている」
ユキは大きく深呼吸をした。埃っぽく家並みばかりの江戸の町は息がつまる。
「そうそう大御所様のお言葉だと正純様がおっしゃっていました。わしは景丸とナギサが心がかりだ、若者をよろしく頼む。近頃すこし心配ごとがあるようだと。どうもお兄さんのことらしいですよ」
そうユキに言われて景丸はびっくりした。大御所様がなんでそんなことを知っているのか。
この20日ほど前に、行き方知れずだった兄が帰ってきたのだ。兄は高麗攻めのあとも水手の暮らしが楽しくて、長崎から大阪、湊から湊へと舟を漕ぎ荷物を運び、儲けた金は惜しげもなく散財して放埓(ほうらつ)に暮らしていたようだ。しかし、なんとなく故郷を思い出したので、風まかせにあちこち寄り道しながらながえの郷に帰り着いた。どこで知り合ったのか女房という女が一緒だった。色白のきつい顔をした女で口数が少ないのは日本語がうまく話せないから、高麗の人らしい。時々その国の言葉を使ったが兄は分かるようだ。郷の狭い家は兄のものとなり、景丸とナギサは住むところがなくなって福厳寺にとめてもらっている。
アダムスと忠勝と職人が話し合っている。ユキは難しい会話になるまでは呼ばれない。ナギサと二人で花を摘みはじめた。
「これがウラシマ草、ほら釣竿を持っているでしょう」
少し気味の悪い形をしたくすんだ紫色の花だ。
「ヘビのような形ですね」
「そうマムシ草ともいうの。毒はないわ。ほらこちらにもたくさん咲いている」
指差す方に群れて咲いている。
「この白い花はなんというのですか」
「これはヘビイチゴ、マムシ草のために咲いているのかしらね。だからウラシマ草と呼んだ方がいいのです」
影がさしたので顔を上げるとアダムスがのぞきこんでいた。
「ウラシマってなんですか」
釣竿を持っているような形なので浦島草、アダムスがうなずくとユキさんは竜宮と玉手箱の話も教えた。
「イギリスの話は少し違います。重い傷をおったアーサー王は湖に向かいます。一隻の舟に三人の高貴な女性が座っていてアーサー王を乗せて湖に消えます。ここに過去の王にして未来の王、アーサーが眠る、という墓が残ります。王はイギリスが危機になると生き返って国を助けるといわれています」
二人の幸せそうな様子を景丸とナギサは涙が出るような思いでながめている。兄と高麗の女はまるで幸せそうには見えないからだ。
相変わらずアダムスは多忙だったが家の暮らしは落ち着いてきた。月満ちてユキは男の子を産み、ジョセフと名づけられた。ようやく逸見(へみ)の屋敷ができたので景丸とナギサはそこに移った。ユキに連れ添ってきたタキ婆さんと七助爺さんの夫婦が共に暮らした。本当はもっと家来をたくさん置かなければならない決まりだが、三浦家は新規に立った家ということで当分の間はそれが許されている。
身の回りの世話はナギサが行い殿様のお共は景丸がする。掃除洗濯はタキ婆さん、飯炊きは七助爺さんがする。
「あの一番高い所に小さな小屋をたてましょう。晴れた日にはお茶をいただき、雨の日はそこで静かに読書をいたしましょう」
見渡す限りが鮮やかな新緑だった。筆で白い絵の具をなすったようにサクラが咲いている。その緑の色は少しずつ違っている。道がどこかに続いているのだろう、しかし豊かな木々の枝がすっかり隠してしまっている。
「どんな建物にいたしますか」
ユキが優しく聞いた。久しぶりに家でくつろいだアダムスはそっとユキの肩に左手を置いた。
「磨いた丸木を四本立てて屋根には白い貝殻を乗せましょう。壁も扉もない、真ん中に板のテーブルと椅子だけが置いてあります」
「子どもたちがよじのぼったり飛び降りたりしますよ」
「ユキさんのひざも遊び場になります」
風が吹いてサクラの花びらが飛んできた。
二人は手を広げたがユキの手にだけ花びらが止まった。しかし風は海から吹いてきた。アダムスは風の匂いをかいだ。彼は船乗りだった、ユキもそのことを思った。いくたの海の冒険を思い出しているのだ、そんな横顔をじっと見ていた。
兄が帰ったといううわさを聞いて郷の者たちが集まっている。景丸とナギサもいやいやながら輪に入った。宴会になるとすぐに武辺話が始まる。
「思えばまるで昨日のようだ」
「そうじゃの、あれは天正17年大晦日のことだったの。水手を出せという、俺は15だったが他に人がいない。仕方なく福厳寺の和尚さんが布に三ツ鱗の紋を書いて旗にして、二間の長い竹の先に小刀を結び付けて出て行ったよ。相棒は寺男の方助さ、墓掘りだけは上手だったがな」
話し出したのは北条水軍からサッサと逃げ出してきた四左という男だ。
「北条氏直様が小田原の鍛冶職頭、須藤惣右衛門様を呼び出して大筒二十丁をできるだけ早く納めるように命じたそうだ。それで浦賀の鴨居のタタラ場でも抱え大筒を二丁作ることとなった。わしら水手どもは炭を運び鉄を運び、職人衆の食べ物を運び大忙しだった」
西から上方軍が続々と攻めてきて、あっというまに町ぐるみ包囲してしまう。さあ決戦と意気込んだら敵は小田原城を見下ろす石垣山に城を築いてしまった。白壁を巡らし破風がキラキラ輝いてきれいな城だ。相模の海には酒匂川河口から早川河口まで軍船が並んでいる。赤や青や黄色の旗がひるがえり、金具がキラキラと輝き、それが海面に映ってきれいだった。
「お前たちにも見せたかったの」
「まるで遊山に行ったようだな」
あきれて叫んだのは平助という炭焼きだった。
「俺も際限なく炭を焼かされた。山半分は焼いてしまった」
「俺は普請人足に引っぱられたよ、玉縄城だ」
別の老人が話に加わる。
長江の郷は寺社領なので普請役がかからぬ定めだったが無視された。十日分の食べ物を背に、スキとモッコを担ぎ、二月の晦日までに小田原城に集まるようにと虎の朱印状という大きなハンコを押した高札が立った。「期日までに玉縄城に来ない時は郷の小代官の首を切るというんだからおだやかではなかったの」
そう言って郷の長老は首をこすった、もしかしたら小代官の身代りに首をなくしていたかもしれない。
「玉縄城は木と竹と土と縄と茅でできていた。釘も瓦もない百姓屋と変わりない」
四左が軽蔑したように言った。
「おらは小田原衆と一緒に上方の水軍と戦ってきた」
「おやおや海賊衆は上方にもいるんだの」
「爺さん、あっちが本場だ、比べられるものではない。北条は全部が時代遅れだ。俺たち水手は大筒が打てるので下田城に入れられた。そこには大筒が1丁、弾丸が69発、鉄砲が50丁、弾丸が1350発、これっぽっちで戦っても一日で終わりだ。敵方は、九鬼が志摩の鳥羽城から1500、加藤が淡路の志智城から600、来島が伊予から700、脇坂が淡路の洲本城から1300、長宗我部が土佐から2500、宇喜田が備前の岡山城から1000、そして毛利が安芸の吉田城から10000引き連れてきた」
西の水軍は駿河の江尻湊から米も武器もどんどん運んでくる。ついには着飾った女たちや太閤自慢の茶室までを舟に乗せて小田原に続々と、まるで戦さの有様ではない。ただ、ただ驚くばかりだ。
四左の話はよどみがない、たぶん何度も人に語った話なのだろう。
「こちらは漁師だ、あちらは戦争しかしない水軍だ、なにしろ顔つきが違う。鬼のような龍のような荒くれ男たちがピカピカの鎧兜、鉄砲、槍も新品ぞろい、俺たちがさぞかし間抜け面に見えたことだろうよ。水手たちも熟練だ、采配一つで自由自在に漕ぎまわる、モタモタと右左にぶれる漁師の舟とは違うんだ。戦さのない時は俺たちは海が気になってな、やれ網をかければアジが獲れるとか、鯛やカツオの一本釣りをしたいとか、魚を見れば獲りたくなり海が澄んでいれば潜りたくなる漁師たちだが、あちらは兵法だ軍略だ調練だと寸時も戦いから気を抜かない。兵は兵、百姓漁師とは別の仕事をするというのが上方勢だよ。船だってこちらみたいな使い古しのボロ舟なんかありはしない」
「それでは勝てないの」
自分のボロ舟を思い出した漁師が情けなくつぶやく。
「安宅船などはまるで城だよ、関船の立派なこと、小早船の速いこと、勝てるはずがない」
「北条様は知らなかったのかな」
「時勢が見えなかったのさ、あんなに徳川様が諌めたのにな」
「俺たち三浦と伊豆の水手たちは仕方なく毎日、魚を釣ったりタコを突いたりしてぼんやりしていたよ」
「のんきなものだな」
「どうにもならんから」
下田城といっても水軍の基地は寝場所と倉があればいいだけだ。なにせ水軍の城は船だから、ところがその船がまったく時代遅れだ。五十丁櫓の安宅船と誇ったところで太閤の水軍は大砲で武装した二百丁櫓の軍船が並んでいる。大人と子どもどころか鎧武者に素手で立ち向かうようなものだった。
「それに西国の大名は秀吉に命じられるままに諸国に移るそうだ。百姓は土地の者、大名が領民を慈しまないと、すぐに訴えられて国替えだ、まるで強いのが百姓と逆になっているんだ」
「何をとぼけた話をしているのだ」
兄が怒鳴った。昔は口が重くていつも黙りこくっていたのに、今はおそろしく雄弁になっている。
「高麗の船戦さはそんなもんではなかったぞ、話して聞かせる、覚悟はいいな」
その九鬼、加藤、来島、脇坂、長宗我部、宇喜田、毛利の水軍を高麗の水軍が散々に蹴散らした。
「亀甲船という鉄張りの鎧武者のような軍船だ、飛び移れないし登れない、それがどしどしと味方の船を押しつぶしてくる。高麗にも名将がいるわい、李舜臣。幸いなことに亀甲船は波の高い外洋には出られないから俺たちは一目散に沖に逃げたよ」
「では負け戦だな」
「豊太閤の見込みちがいさ、対馬の殿様に一杯食ったんだ。だから俺は対馬に残った、うまい話がたくさんあった、女房も買ったよ」
その連れ帰った女の人が山の中で泣いているのを景丸もナギサも見ている。
「うまい話なら俺にも教えてくれ」
四左がよだれを流しそうな顔で寄っていった。
「第一が朝鮮人参と薬種、麻、カラムシ、綿の布、虎の皮、筆に墨に紙、高値に売れよう」
「なるほど、それを何と交換するんだ」
「こちらは鉄砲、玉薬、刀にヤリ、使い古しでいいのだ。それにルソンの胡椒の粒は軽くて持ち運びにいい」
水手たちは積み荷に私物を紛らせて売っては買い儲けて帰る。一番の商売上手が対馬の殿様、米がとれない島なので生きるためには仕方ない。戦いが終わるとすぐに焼けた倭館を再建し、家康が征夷大将軍となった翌年には朝鮮使節を家康に謁見させるほど機敏に働いた。
大言壮語を吐きあっている連中も酒に酔い言葉に酔ってゴロリと寝てしまう。郷の人たちも賛嘆したり呆れたりしながら三々五々帰ってしまう。焚き火は消えるがままになって、ひっそりとタヌキやキツネが食べ残りをうかがって現れた。
もとより戦場で明日も知れぬ日々を過ごしてきた者が平穏な郷に落ち着くことは難しい。兄たちは毎晩焚き火を燃して酒を飲み、大声で話しかつ歌った。すると田畑の仕事に嫌気がさしてきた他の男たちも集まって無頼な仲間を増やしていた。戦場帰りの男たちは粗暴で、田畑の仕事はしようとせず、海で魚を突いたり、ケモノを狩ったり殺生を好んだ。郷の決まりには従わない、女子どもは姿を見ると隠れた。穏やかな郷の暮らしが脅かされている、郷の人々の気持ちも冷淡から憎悪に変わっている。
中でもキリシタンと自称する者たちは傍若無人に寺や神社を荒らしまわる。忌み日を守らず、坊さんに無礼をはたらき、郷の行事を妨害した。自分たちだけが正しい人間で、信仰を待たぬ者はケモノに等しい、だから何をしてもいい、殺しても罪にならない。たぶんキリシタンというのは名前だけで信仰など持たないカブキ者たちなのだろう。
「ちかごろ近くの村では盗賊が出ているそうだ」
「片瀬村では一家6人皆殺しだと」
「三崎では大胆に白昼押し入ったそうだ」
北条氏が支配していた頃はこの半島の山を管理する山番人が常駐していた。その山番屋敷もすっかり朽ち果てている。そこに盗賊が住みついたらしい。もっとも山番も乱暴なことにかけては山賊と変わらず、郷の人たちはずいぶんひどい目にあったものだ。
「山狩りしなければならないの」
「難儀なことだ」
忠勝様に助けを求めよう、ナギサが言った。
「あのお顔でにらみつければ盗賊など震え上がって逃げていきます」
日に焼けて厳しい顔をした忠勝は海賊の頭のように見える。
景丸が三崎に行ってこのことを訴えると忠勝も怒っている最中だった。
「三崎や片瀬の海辺を荒らす賊だ、水手がからんでいるに違いない」
「北条の残党でしょうか」
「里見の残党かもしれぬぞ、近々大御所様は鷹狩りに出られる。その時にお伝えしてみよう」
数日たって家康は鷹狩りに出た、逸見から海を遠望しながら浦賀まで、アダムスと正純と忠勝を供にして山越えをした。景丸は初めて鷹狩りを見た。大楠山の頂からは三浦の低い山々を見はるかすことができる。まん幕で囲んだ中に床几をすえて家康が休息した。景丸はさっき見た狩りの様子を思い出していた。
獲物に向かって鷹匠は大きく鷹を投げだす。鷹はすぐに翼を開いて一直線に鴨に突進していく。一瞬、もつれあって地に落ちる。
鷹匠は手早く杖で鴨の横腹を突き、鷹を左の掌に収めるとふところから小さい棒を取り出し、先端の房で鷹のくちばしや羽についた血と汚れを払い落とす。
景丸の組の鷹匠は小柄な老人だった。
「この棒はブチと申します。鷹は人間が手で触るのを嫌がります。手の脂がつくと羽がくっついてしまいますのでな」
影丸の問いに穏やかに答えてくれる。
「馬や犬と鷹は違いますか」
「同じでございます、鷹は鷹匠の嫌うものを同じように嫌います。拙者は犬が大嫌いで、犬が近寄ってくると体が震えますが、鷹といる時には気丈夫になって犬をこの杖で打つことができます。それで鷹も私も犬を恐れなくなります」
素朴なたどたどしい話し方だ、大御所様には三河以来お仕えしていると言った。
幕の前では火が起こされていた。若い鷹匠が焼けたクワの上に赤黒い鴨肉を乗せた。たちまち脂がしたたって火がパチパチとはじける。
「見事であったぞ、六郎はどこの者か」
その若い鷹匠は正純の組だった。
「我らは諏訪の神平貞直様から技を伝授しております」
諏訪大社の大祝(おおほふり)家は古代から鷹狩りの獲物を神前に供えてきた。
「織田信長様に仕えて鷹の字を許され、わが父親の家次は家鷹と名乗りました。本能寺のご不幸のあとは秀吉様にお仕えしました」
「豊太閤か」
「はい、秀吉様はあまり狩りにはお出になりませんでしたが、獲物だけは仰山に召し上がりました」
「鷹も人も同じよ」
家康がつぶやくとうれしそうに鷹匠が言った。
「御意のとおりでございます。人と鷹は同体でございます」
ようやく正純は機転を利かせた。
「なるほど殿と信長様はご一体、豊太閤は別物ということですか」
「鷹だけではないぞ、わしは、そちたちはじめ民百姓すべてと一体だと思っている。六郎、鷹を育てる機微を教えてやれ」
捕らえられた鷹はもちろん人になつかない。誇り高く己を持する鷹は犬のように人間を主とは思わない。だから人は鷹と一心同体になるまで辛抱強く接していく。
「信長様は短気だとか、人を人とも思わないとか言う者がおったが、信長様ほどその人を見抜き、その人の一番良いところを取り立ててやろうとした方はいない。同体とはそのことだ」
家康は目を細めていた。どんな苦境にあっても信長は自分を大事にしてくれた。六郎は自分の話を続けた。
「鷹はきれい好きです」
汚れをお湯できれいに洗い、折れた羽はニカワで継いで、煙で羽虫を落とす。
「鷹は鳩で飼います」
鳩の肉を叩いてツクネにして食べさせる。真っ暗な小屋の中で物音のしない深夜にそっとエサを出す。チュチュッ、チュチュッと声を聞かせる。そのあと十日ほど絶食させる。ホホッと声をかけたり壁をたたいたり歌ったりして物音に慣れさせる。しかし絶対に人の顔は見せない。何日もかけて鷹の緊張をほぐし、明るさに慣れ、外の景色に慣れてから初めて狩りを仕込んでいく。朝昼夜と鷹を拳に乗せて歩きホホッホホッと声をかけ二ヶ月くらいもすると鷹は拳の上で眠るほど信頼する。そうなれば心は通いあい、キジと鴨とサギが同時に飛び立っても鷹匠の思う獲物に飛びかかっていく。
「オオタカはこれで育ちますがワシは心が鈍くていけません」
「わしはハヤブサが好きだ」
家康は幼時から鷹狩りが好きだった。今川の人質時代には鷹が飼えなくて、モズを馴らして小鳥を狩らせたというほどだ。
「ハヤブサは仕込みが楽でございます」
すぐに人に慣れて狩をするようになるが、鷹匠の獲りたいものより自分の好きな獲物を獲ろうとする。それにナワバリがある。
「野山のハヤブサが見張っていてすぐに戦いになる。勝っても負けても戻ってこないことが多いのです」
「ハヤブサは強いのですね」
景丸は長江の郷の空を音立てて急降下するハヤブサの姿を何度も見ている。
「それは荒々しいもので、鴨でも鶴でも長い爪を首に突き立てて、落ちる時にはもう絶息させております。首をつかみそこなった時はクチバシでねじきっております」
「戦さ慣れした武士のようだの」
忠勝が感心して言った。
「大御所様、とんでもない、ハヤブサは荒ぶるだけの端武者で人の上に立つ者ではありません」
それに比べるとオオタカは羽をなでたり、話しかけたり、親身につきあうことができるので情が移る。
「アダムスの国には鷹狩りがあるか」
「はい、しかしクインもキングも馬を走らせてキツネを狩ることが好きです」
またクインか、家康は小さく舌打ちした。アダムスの望郷の思いは故郷に残してきた妻と子だけのことではない、クインに向けた思慕の念もあることに気づいていたからだ。
太陽が西にかかり始めるのを見て家康は出発を命じた。
「せっかくここまで来た帰り道、アダムス殿の新居で茶一服召されませぬか」
無言のままなのは同意のしるしだ。忠勝は従者を走らせて訪問を告げた。
「ここは良い場所だ」
家康は額に手を当てて四囲をながめた。
「まことに海と山が清々しくございます」
正純の言葉に家康は喜ばず低く鋭く呼びかけた。
「忠勝、船は」
「はい、島と入り江が波を妨げ、風は難しく吹きますゆえ、船は間切りながら進み、見張りの者は間違えなく船を見定めます」
左手は六浦湊、夏島、野島、烏帽子島と名づけられた小島が点在する。右手には大楠山を主峰とする三浦の山が裾をひいて海に続いている。正面は安房上総の半島がさえぎりまるで湖のような景観を見せている。
「あれが猿島か」
安房から渡ってきた日蓮上人を島の猿が助けたのだという。もちろん家康は日蓮のことではなく海の守りのことを思っている。
ようやく家康が椅子に座るとすばやく鷹匠が手を差し出して鷹を移した。ユキが熱い茶を盆に載せてテーブルに置いた。疫病を怖れる家康はどんな季節にも熱い茶しか飲まなかった。
ようやく葉を広げたブドウが日陰を作って涼しい風を送ってくる。テーブルにかけられた布を家康は珍しそうに指でつまんだ。アダムスに教えられた西洋の花の模様をユキが刺繍した。
「イギリスではこういう奢りをするのか」
「おごり」という言葉にけげんな顔をしたアダムスにユキが英語で、次にオランダ語で通訳した。
その様子を見ていた家康はうれしそうに笑ってアダムスに言った。
「夫婦仲良い」
ユキが笑いながら通訳するとアダムスはかしこまってお辞儀をした。
「ユキは私の半分です。これ以上に大切なものはありません」
「夫婦は一心同体とお国では言うそうです。だから私を半分と言ったのです」
ユキが説明すると家康は鋭い目をした。
「そなたイギリスに未練はないのか」
「私は一度死にました。この日本で生まれ変わったのです。私は三浦按針です、ご存知なかったのですか」
「都合の良い奴だ」
家康がむっつり言い、皆が笑った。しかし、ユキにはアダムスの心の一番深いところにあるメアリーという女性の顔が見えた。自分の夫が生きていることを知っているのだろうか、自分のもとに帰ってくることを望んでいるのだろうか、異国の夕暮れのさびしい家にたたずむ女性の姿が目に浮かんだ。
しかしアダムスは快活に答えた。
「今日の狩は上出来だとか、鷹の獲物を拝見しました」
「ここでは別の獲物をねらって来た」
「ユキは駄目です。わが妻です」
笑い声の中でぽつりと家康が言った。
「宗対馬守が参った、推察せよ」
本多正純が手早く、対馬のこと秀吉の出兵のことを説明した。
アダムスは思慮を巡らした。
「交易ですか」
「左様、朱印が欲しいと、しかしかの国が受け入れるだろうか」
「大御所様はかの国では戦いをしておりません。確かに太閤様はかの国で怨まれております。しかし、その豊臣に代わって今は徳川が幕府を開いている。大御所様はかの国に詫びを言う必要さえありません」
「そんなものか」
「祖国イギリスはスペインと戦いフランスと戦い、オランダに兵を出し、アイルランドを占領しました。もちろん負けた時もあります。しかし、時が移ればスペインと同盟しフランスを友と呼び、オランダにもアイルランドにも恩恵を与えます」
「なるほど国というのは何が起ころうとも山のように揺るがぬものなのだな」
「たぶん朝鮮国は我が国の謝罪よりも利益を求めておるのでしょう」
「さて何ぞ…」
「日本を敵にしているかぎり大明の兵は引きません」
正純も自説を述べた。
「朝鮮は腹背に敵を持つことはできません。大明も末、強国になった後金に脅かされています。朝鮮に兵がいることは後金にとって出兵の絶好の大義となりましょう。我が国と同盟すればすくなくとも海側の備えはいらなくなる。そして大明の兵も駐屯する名分がなくなる。他国の兵を留め養うには金がいります。朝鮮の負担たるや莫大なものでしょう。我が国との和平は望ましいことです」
「我らに利があるか」
「先の太閤の出兵は私欲から出たもの、弱きは滅びるという戦国の習いは通じません。かの国は文治の国ゆえ武を蔑(さげす)みます」
「東夷の国とな」
日本が朝鮮からそう呼ばれ、江戸に幕府を開いた家康が京都の朝廷からそう呼ばれる。よほど東というのは悪い方角なのだろう、家康は思った。
正純が調子にのって言った。
「党派の争い激しく面従腹背、口では仁義礼智信を言えどそれは建前、本音は利と欲の世界です」
「どこやらの国にも公家というのがおって騒ぎ立てる。武士でありながら公家の位を欲しがる者も多い。しかし公家は自分勝手に政事をして天下を好き放題にしたいだけだ」
「頼朝公はそれゆえ鎌倉に幕府を立てました。また足利将軍は幕府を我が日本の主として宋国と交易いたしました。幕府が衰えて諸国大名が勝手に交易するようになってから信義はすたれ、ただ利だけを求める交易になりました」
正純が雄弁に述べ立てるので家康は苦笑した。
「なるほどそなたは聡い。しかし何をもって和の証しとしようぞ、かの国に与えるものがあろうか」
アダムスはイギリスにも百年戦争やバラ戦争などの長い戦乱の時代があったことを思い出した。
「太閤様が連れ帰ったかの国の民を帰すのが良かろうと存じます。その民たちには詫びなければなりません。金銀を渡し、十分にいたわって帰せば、傷は癒され敵意も薄れることでしょう。イギリスもスペインと長い間、戦い続けましたが和平と決まると掌を返すように友好の国となりました」
なるほどと家康はうなずいた。しかし、かの国では職人を虐待するという、住み心地の好い日本から帰ろうとする者がどのくらいいるかとも思った。
「鎌倉に幕府があったころ元が攻めてきた。元は百年かの国を支配してついに明に滅ぼされた。明も建国してから二百三十年経った、もう長いことはあるまい。次に中原に現われるのは誰であろう」
「後金でございましょう。元と同じく騎馬の者たちだと聞いております」
「オランダ人たちもうわさしておるか」
「いち早く、何をもって貿易の利をあげられるか考えておりましょう」
「スペイン、ポルトガル人は神を先立て異国に参り、オランダ人は利を先立てて来る。それでイギリス人はどうなのじゃ」
「おのれのオナーを舳先に立てます」
「オナーとは何じゃ」
「一番槍を競う武士の心かと存じます」
「武士であれ商人であれ、勇気と冒険がなければ人に先んずることはできない。末次も角倉も一代の豪傑よ。しかし、朝鮮使節を満足させてやらねばなるまい」
「名分を好む国ゆえ随員を五百もそろえて国王代理の歓待をすれば満足かと存じます。公家と同じで誇りは高く、懐は寂しい者たちでございますから」
「江戸の将軍に任せよう。宗対馬守に仲立ちをさせよう。実は対馬守も困っている。米も満足に取れない島だ、交易の利をあげなければ食っていくことができまい」
「アダムス殿にご足労をかけて各国公館に話をつけてもらうのはいかがでしょう」
忠勝は各国の複雑な利害と確執を聞いている。
「なるほど名案」
正純は家康の表情を読み取ってさっそく賛成した。
一行はあわただしく帰路についた。
月のない静かな夜だった。景丸とナギサは入り口の部屋でぐっすり眠っていた。戸を激しく叩く音に飛び起きる、もう丑満つ刻は過ぎていよう。
「開けろ、さもないと火をつけるぞ」
殺気を感じた。こちらは5人、女が3人に老人が一人、戦えるのは景丸だけだ。
「また得体の知れない男どもが山に入ったようです。気をつけなされ、野伏かラッパかもしれません」
そう炭焼き男に言われたばかりだ。
黙って戸を開けると走りこんできたのは3人、墨を塗った真っ黒な顔に目を光らせ粗いヒゲを逆立てている、柿色の着物に同じ色の脚絆をつけ、長刀を背に負った姿は戦国のラッパだ。スラリと刀を抜いた音がする。
「家内の者をみな集めろ」
大声を聞いて飯炊きの七助爺さんとタキ 婆さんが起きてきた。上着を羽織ったユキさんも座った。
「我ら小田原の残党、再起のために軍資金を求める。危害は加えぬ、財物を出せ」
いかにも侍らしい厳しい言い方だ。しかしユキさんは落ち着いている。それで景丸も震えが止まった。
「我が主人は徳川様の旗本でござる。それをご承知か」
「いささか毛色の変わったご仁じゃと聞いておるが恨みはない」
驚いたことに七助爺さんが大声を出した。
「そちは誰の手の内だ、勾坂甚内(こうさかじんない)か」
「なんと…」
「庄司甚内も鳶沢甚内も徳川様のために働いている。ただ勾坂だけが民を脅かしている。まさに私利私欲であろう、そなたは本気で北条家再興を願っているのか」
景丸とナギサは驚いた、しかし老人は平気な顔をしている。
「つべこべとうるさい爺いだ、斬りましょうか、お頭」
「お頭などと呼ばれて恥を知れ、顔を黒く塗ってもその声は覚えているぞ、吉崎左馬」
「なんと貴様は」
「北条の家臣馬込勘解由殿の郎党七助じゃ、ここなるユキ様はそのお娘子、いい折だ、せっかく訪ねてきたのだから話をしよう、酒肴をもてなすぞ、顔を洗って参れ」
とても飯を炊いて煙にむせている老人の言葉ではなかった。それにしてもユキさんのお父上は盗賊に知り合いがあったのか。
ユキもすっかり落ち着いた。
「吉崎左馬殿と申されるか、義父とは懇意であったそうな、ぜひ昔話を聞かせてください」
盗賊はためらった。恥じているようなそぶりもあったし、他の二人の手前をつくろっているようでもあった。
「お頭、ぐずぐず言っていると夜が明けます、皆殺しはたやすいこと、さっさと片付けて逃げましょう」
景丸が刀に手をやると爺さんが抑えた。吉崎左馬も手下2人を制していた。
「恩のある人だ」
3人はうながされて奥に入った。景丸は灯をともし、ナギサが手早く盆に飯と酒と肴を載せて運んできた。深夜の宴が始まった。3人はむさぼって食い飲んだ。よほど飢えているようだ。
「奇遇と申そうか馬込殿のお娘に会おうとは思わなかった」
「幸運と申されなさい」
爺が元気よく言った。
「人迷惑な盗賊かせぎはさっさとおやめになることです」
「北条再興が我らの生きるすべてなのだ」
「そなたも北条氏政殿と同じようだ。井の中の蛙、カニは甲羅に似せて穴を作る、夜郎自大と申す」
爺は歯の抜けた口を大きく開いて笑った。
「北条の誇りを失くしたか、小田原百年の覇者の誇りだ」
いきりたつ左馬にユキはニッコリ笑った。
「それが過ちです。かたくなで苦労知らずの人ばかりでした」
「徳川の天下でいいのか」
「徳川様は北条遺臣を大事にしてくれます。私の義父も心を尽くしてお役に立っております。平和な暮らしを妨げるのはおやめになってください、北条は天下を取れなかったのです、その力もないし理想もなかった」
「馬込殿は今は何をされている」
七助爺さんが誇らしく答えた。
「最初はキリシタン牢を預かっておった。次に町の取締りになり無法や無秩序のない町を守ろうとしておる」
「…北条再興をあきらめたら…我らは何をしたらいいのか」
「皆様ご自分の甲羅に似合った仕事をされております」
左馬は目をつぶった。
「お頭…どうするんだ」
手下は怒っている。
「なんと言われても金がなければなんともなりませんぞ」
左馬が目を開いた。
「ハッハ、俺もついに進退きわまった。庄司甚内はすばしこいやつだったから家康のふところに飛び入ったが俺にはそんな芸当はできない、せいぜいが…そうだユキ殿、アダムス殿の家来にしてくれ、250石取りの旗本の家来なら甚内などに後ろ指は指させんぞ。聞けばアダムス殿は海賊だそうだ、盗賊の家来を持っても不思議はあるまい」
七助は大声で笑い、ユキも笑った。
「頭、俺は嫌だ」
「よかろう、帰って甚内に告げよ」
「俺も嫌だ、いまさら武家奉公などできん」
「ならば勝手にするがいい、縁は切るぞ。二度と会うまい。アダムス殿には侍の家臣が必要なはず、吉崎左馬之助は物頭を勤めていた者だ、良い家来を持ったと喜んでくれ」
ちなみに庄司甚内は時代を見、家康江戸入りとともに願いでて品川に一群の茶屋を建てた。江戸に入る諸国の浪人の目付けをするという理由をこじつけた。
海に突き出た山すそに波しぶきが飛んでいる東海道品川宿、その風景は草深い東国から出征する将兵にとって異界の入り口に見えた。前途に不安を感じ、故郷を思い出して感傷にひたった時、鈴が鳴る。道ぞいの木々に鈴がかかっていて、風が軽やかな音を奏でる。思わず深く息を吸い込んだ男たちを茶屋女が優しい声で呼び止める。華やかな女たちに魅了され、軍資金を使いこみ、餞別にもらった品物をねだり取られる。たくさんの兵士が往還し、甚内の商売に貢献し、かれは幕府に大金を献上した。その金は出所は武士、金は天下の回りものだ。やがて日本橋の近くに広い土地を与えられて、京都の島原、大阪の新町、長崎の丸山に較べられる傾城町、江戸の吉原になった。
鳶沢甚内は古着屋の支配となった。もちろん配下は元盗賊だ。戦乱が終わり北条や武田だけでなく諸国のスッパ、ラッパと呼ばれた忍者たちが職を失った。彼らの本業は、闇にまぎれて敵兵を殺す、忍び込み放火し財物を奪って敵陣を混乱させる、そんな仕事はもはやできない。配下は古着をかついで町の隅々まで売って歩き、鍛えられた鋭い目で犯罪を見つけた。自分は悪事をせず取り締まる側に回ったが、甚内という大親分の許で手馴れた仕事をしていたのに変わりない。
吉崎左馬がアダムスの郎党になってからながえの郷では盗賊が出現がしなくなった。郷の人々は安堵したがその理由は分からなかった。
後になってアダムスに目通りした時に左馬はこう挨拶したそうだ。
「わしは盗賊にも身を落とした男でござる」
アダムスは返事をした。
「私は海賊と言われて、あやうく首を斬られるところでした」
「並みの郎党勤めが退屈になるかもしれん」
「私も並みの旗本勤めができずに苦労しております」
「辛抱できなければやめる」
「船乗りは同じ釜の飯を食って仲間になります。左馬殿も私と共に飯を食って仲間になりましょう。嵐がきて船を守るのは船長ではない、乗り組み全員です。一人の油断が船を沈める、仲間だからこそ支えあうことができるのです」
アダムスのもとに向井忠勝が早馬で使いをよこした。
―漂流ジャンクが一隻、浦賀に入った。高麗人らしいが言葉が分からん。すぐに来てくださらぬか。
アダムスは当惑した。
「高麗の言葉は分かりません」
景丸がすぐに気づいた。
「兄の女房というテヒという女の人が高麗人です。あまり日本は言葉ができませんが、連れて行ってはいかがでしょうか」
実は景丸とナギサはなんとかしてテヒという女性を助けたいと思っていたのだ。
アダムスは同意してテヒを連れて舟を急がせた。
ジャンクは福建の交易船らしかった。嵐にあって船が沈みそうになると乗り組みの福建人は小舟に乗ってすぐに逃げてしまった。鎖で縛られた漕ぎ手の男たちは捨てられたが、船は沈まず流れ着いた。みな痛々しくやつれているのはよほど虐待されたらしい。
「この者たちには療治が必要だ。また詮議をしなければならぬこともありそうだ。このテヒという女人にしばらく滞在してもらってもいいだろうか、もてなすぞ」
忠勝の言葉に景丸は喜んで事情を話した。
「そういうことなら私がテヒを捕らえたことにしよう、この屋敷に隠しておく。アダムス殿が大御所様に進言してくださったので、いずれ高麗人は帰国ができよう。景丸殿、お預かりする。逃げた福建人共を捕らえたら三崎で獄門にする」
数日して忠勝の手紙が届いた。テヒは役に立っているようだ。
―私は北の方の育ちで、男たちは南の方の人なので言葉が少し違います。どうやら年貢が払えず逃げ出したのを海賊に捕えられて漕ぎ手の奴隷にされたようです。
女の言葉もたどたどしかった。
「されば、申していることが真か嘘か判断できない。しかし不運な者だ。慈悲をかけてもよかろう」
慶長12年、朝鮮使節はものものしい人数をそろえてやってきた。大船四隻に正使と二人の副使、その子弟が軍監となってつき従う。 通訳官と日本人の通詞が五名、漢語の通詞も五名、その他に写字官、医員、画員、楽師、護衛兵と水夫あわせて360名、宗対馬守一行を合わせて500名の行列が下関に着いた。一行はそのまま瀬戸内海に入り大阪まで航海した。使節は疑心暗鬼にかられカラにこもるヤドカリのように船から降りなかったのだ。
さすがに大阪までくると安堵したのか一行は川舟に乗り換えて京都に入った。そして東海道を長い行列をつくって歩き始めた。正副使は輿で、上・中官は馬で進む、沿道の人々は好奇の目で見物し、そのうわさが一行をはるかに追い越していった。
刻々と報告される一行の様子を家康は駿府城で聞いていた。掛川まで来たときに本多正純は進言した。
「江戸での首尾を図るため、まず大御所様が駿河でお会いになってはいかがかと」
正純は駿府から江戸まで一行を案内するように命じられていた。
「なるほど、相手がどうでるか。藤枝まで出迎えてみよ」
その夜のうちに正純は駿府に戻った。家康は深夜にもかかわらず待っていた。アダムスも座していた。
「首尾はいかがかな」
みるからに正純は憤慨していた。
「朝鮮通信使正使殿と申しますと、我らは回答使兼刷還使、貴国の信書に答え交渉をする者なりと申します、呂祐吉というのがその名です。大御所様に駿府でご挨拶をと勧めますと、我が国は両班(やんぱん)の制を取っているが武班の長といえど文班の下級の者にも及ばない。将軍と申すは武班の長、まして家康などはそれも辞めた私人に過ぎない。そちらが挨拶に来れば良いようにあしらってやろうと申します。通詞がいろいろ話しましても、我は国王代理なりとそっぽを向きます」
「夜郎自大と申すのはかの国の言葉ではなかったかな。そう怒るな、策があろう」
「一行の面目をつぶし、顔色なからしめねば江戸が困ります」
「明日の宿舎は興津の清見寺か」
海に臨む禅宗の古刹で、漢語にも朝鮮語にも通じた僧たちがいる。
「詩だの文だのを交わして一層、増長するだろう。なにか思い出をつくってやれ」
「高慢だが胆の小さい者たちです。何をやっても思い出になりましょう。アダムス殿、イギリス水軍は使節にどんな礼を行うのか」
「礼砲を打ちます。正使が大将なら17発、中将なら15発、少将なら13発、代理大使なら11発、ただの領事なら7発と決まっております」
「それはいい、そなたの船を由比の海に浮かべて礼砲を打ってくれ。驚くだろう、そしてその船はすべてわが国で造ったと言わせよう。すぐに大明にも後金にも伝わって、攻め寄せようなどという企みを捨てるだろう」
「何発にいたしましょうか」
「様子次第だ。正純は供の者に承知させておけ、我らが驚いては仕掛けにならん」
翌々朝、清見寺で接待を受けた一行は晴れ晴れとして東海道を下っていった。正純は大御所が急病でご挨拶にうかがえないと丁重に断りを入れた。正使も副使も、家康憶したなと心で思った。そして昨夜、禅僧たちと交わした詩などを思い出して優越感にひたった。それは時代遅れの旧弊なものだったが。
今日は三島に泊まるというので富士を眺めながら海沿いの松原の中をゆるゆる進んで行く。ふと目をやると遠い海原に白帆が見え、みるみるうちに大きくなって船上の号令が聞こえるほどになった。
「大御所様の船でござる。ご一行に敬意を表しご挨拶をいたします、しばしご休息を」
正純が丁重に一行を止めると、もう三本マストの船は岸の間近に寄ってきた。船首のアダムスは艦長の制服を着ている。もっとも本当のイギリス士官が見れば妙な顔をしただろう、ユキが縫ったものだ。
「大御所様の家臣、イギリス人アダムスでござる。この船も我が国で造ったものです」
正純はあくまでも丁重に言った。休息している一行は美しい船が近づいてくるのを見て喜んだ。これなら難なく釜山から下関まで航海できる、帰路はこの船を用いさせようなどと思った。
その時、太鼓がドロドロと鳴り、水手たちはマストに軽々と登っていった。船首のアダムスが剣を抜いた。刃がキラリと陽に光り、使節の一行はビクッと震えた。日本刀の切れ味はいやというほど経験している。
「我らの水軍はこうして賓客を迎えます」
正純はおかしさをこらえて重々しく言った。一行は静まり返り、船首で少年が水深を告げる声と波の音だけが聞こえている。
アダムスは後ろに控えている士官に合図をした。彼はゆっくり歩いて一番砲の砲手に発砲を命じた。白煙が見え、あとを追うように轟音が響いた。音は背後の急な崖に跳ね返って何度も反響した。呆然と立ち尽くす一行に二発目の轟音が襲いかかった。まず副使が輿から落ちて一目散に崖に向って走っていった。馬はいななき前足をあげて中官たちを振り落とした。それを合図にしたかのように一行は残らず逃げ散った。両舷18門の大砲は次々に轟音をとどろかせ白煙が海上を流れた。日本人たちは知らされていることもあって微動もしない。
正純が金扇を広げて大きく左右に振った。
供の者たちが刀や槍や握りこぶしを突き上げてときの声をあげた。
エイエイオー、戦場仕込みの激しい声だ。もう一回、金扇が翻った。砲声に競うようにときの声が三度上がった。
船上で様子を見ていたアダムスは7発で礼砲をやめ、高く掲げた刀がまたキラリと輝いた。そして深く礼をすると船はみるみる沖に遠ざかっていき滑るように江尻の湊に帰った。
正純は休息を命じ、一同は思い思いに腰を降ろした。まだ使節の一同は姿を現さない。
使節の中に傲岸で最も嫌われていた武官がいた。彼はその鬼ヒゲにかけて必死に踏みとどまろうとしたが足が震えて立っていられない。三発目の時、誰かが石つぶてを投げた。弾にあたったと思った武官は仰向けに倒れて気を失った。
正純は一行に動くな、笑うな、顔を見るなと命令した。最初にヤブの中から少年楽手がひょっこり顔を出し、走りよって通詞に尋ねた。取って返した少年はヤブに身を潜めた仲間たちに声をかけた。ようやく身分の低い者たちが戻ってきたが、中官、上官が現れるまで四半刻も待たねばならなかった。多くの者が水にはまってずぶ濡れだった、ほとんどが衣装を乱し冠を失っていた。正副使の豪華な絹の衣装も見るかげもなく破れていた。
ようやく輿に乗ると正使は通詞に命じた。
「このことを記録してはならない。日本人にもそう申し渡せ」
そのままの姿で三島まで行くほかはなかった。今日は誰一人見物人が出ていない、正純が先駆けの者に命じていたからだが、家々の障子からのぞく目は嘲笑しており、あきれかえったようなざわめきが聞こえた。その夜は客に会おうとする者は誰もいなかった。
宿舎にあてられた座敷で大御所あての書面を書き終えると、正純は小頭を呼んで石つぶてを打った者を連れて来させた。
「不届き者め、武官殿に石をぶつけたな」
「申し訳ございません」
「切腹申し付けてもいいのだが使節一行を血で汚すのも本意でない。さっさと帰れ」
「肝に銘じましてございます」
男がしょげて立ちあがると正純は大音声で言った。
「石を持ち帰れ」
小頭が黙って袋を渡した。
「おや、これは銭」
正純も小頭も大笑いした。
「お前のおかげでどれほど苦しかったか、笑いを抑えるのにな。お前も笑え」
「あの鬼ヒゲはゴロンと倒れましたな」
「出来の悪い仁王様だ、中身はハリボテさ」
「それにしてもご冗談が過ぎまする」
「あの者共、二度と威張ることはできまいぞ。これで迎えが楽になる」
「お人が悪い」
「その方、石つぶてが上手だ」
「武田の先鋒ツブテ隊におりました」
「よし、すぐに家に帰り江戸に出てこい。俺の屋敷で奉公させるぞ」
男が出て行くと正純は小頭に言った。
「あの者がいなくなって朋輩はいろいろとうわさするだろう。俺に切られたとでも言っておけ」
江尻に着いたアダムスもすぐに報告していた。家康は上機嫌だった。
「7発ですみました」
「その程度の奴輩だろう。一部始終を書いておいた、これを江戸の将軍に届けてほしい。すぐに出帆せよ」
用心深い家康はもう一通を飛脚に託した。たぶん船の方が一日以上も早く江戸に着くだろう。そうすれば秀忠にも軍艦の使い道が分かる。あやつは孝行息子だが機略に欠け、新しいものを貪欲に役立てようとする才気がない。織田信長様に学ばなかったのだ。信長様が存命なら秀吉のような失策はせず朝鮮と大明の離反を図ってかの地を領土としたかもしれない。しかし、それでは自分は天下人にはならなかった、長い間の辛い仕打ちが頭を横切って思わず顔をしかめた。小姓がすっと立って灯心をしぼり部屋が暗くなった。これも家康の節約の一つだ。帰路には必ず使節一行をここに招待して、どんな顔で挨拶をするか検分してやろう、そしてこの使節を長く続けるための策を講じよう。
使節は江戸城大広間で徳川秀忠に拝謁し、形貌勇鋭かつ肝気多しと観察した。礼だ格式だと細かい苦情を言わずに四度半の礼をした。続いて本多正信の接待で茶菓を喫した。
「隣国使節接待の態度は誠意に満ちている これは両国生霊の幸いである」
正使がそう挨拶した。正信も答えた。
「日本も幸いである。将軍もまた感悦極まりない」
そして酒宴となった。まじめな顔で受け答えている父の姿に正純はこみあげてくる笑いを抑えるのにまた苦労した。
6月14日使節は江戸を発して鎌倉を遊覧した。清見寺の禅僧たちの勧めもあったし、三百年も前に元寇という侵略行為に加担したことを思い出させるためでもあった。
駿府城では家康の招待に素直に応じて対面した。
形体壮大でその気力を観るに衰老に至らず、そんな観察を書きとめた。
本多正純も自邸で酒宴を開いて一行を招待した。
「両国すでに和好が成って、大御所も感悦しております。使節のご一行はこのことを決して疑ってはいけません。父正信と私が生きているかぎりご心配はいりません。対馬を通じて事にあたらせましょう」
家康は必死に辞退する使節に強いて、アダムスの船と他の4隻の船に乗せ駿河湾を回遊して富士山を見物させた。二度と忘れられない思い出を作るためだった。
長剣百振りと銃五百丁が土産として渡された。1300人の俘虜が返還され8隻の船が随伴した。その中には長江の郷を逃れて忠勝にかくまわれていた景丸の兄の女房テヒも難破船の漕ぎ手もいた。
「お役目大義であったと大御所様から褒美の品を頂いて参りました」
江戸の屋敷に戻ったアダムスはうれしそうに品物を広げた。拝領の刀、袴と肩衣、小判が百枚、これは通常より多いが屋敷の調度を調えるためだ、わざわざ正純が言い添えた。前に訪れた時にあまりにも殺風景なのを見かねたらしい。
「これでいいのです、船乗りの船室はもっと狭くてもっと粗末です」
家康はその言葉にうなずいたが正純は黙っていられなかった。
「奥方や若様のことを思いなされ」
そんなやりとりをアダムスは思い出した。
「これはお梅の方様からユキさんにと」
黄色地に華やかな小袖だった。白波が裾にしぶいて前と後ろに南蛮船が染め出されている。
「まあ美しい」
ユキが声に出して言うのをアダムスもうれしそうに聞いた。
「お礼をかねて江戸見物に行くことになりました。正純殿がいま評判のお国歌舞伎を見せてくれるそうです。景丸とナギサも一緒に来てください」
「陸ですか海ですか」
「皆さんが良いと言ってくれれば船で…」
景丸は何度もアダムスに供して江戸を往来したが、ナギサにとっては初めての江戸だった。桜が満開の朝、六浦の湊を船出すると、夜桜が散りかかる前に忠勝の屋敷に着いた。
翌日、忠勝に案内されて芝居小屋に行った。すでにヤン・ヨーステンが待っていた。ヤンは何度も見物を願い、その都度、異国人一人では困ると断られていたのだ。
今日は男の姿でなければならないと言われて、ユキは模様のついた肩衣と馬乗り袴を、ナギサは小袖にたっつけを着ていた。どれも景丸のとっておきの着物だ、汚されてはたまらない。ヤン・ヨーステンは南蛮装束を黒いマントでおおっている。アダムスは朱鞘の刀を差し鮮やかな旗本の姿をしている。
案内の若い者が舞台正面の席に案内してくれる。見物の衆は一行の姿にざわめいた。ユキもナギサもうっとりするほど美しいお小姓に見えたからだ。
舞台では華やかな女たちが笛と太鼓と鼓の囃しにのって踊っている。その風に乗せられて着物に焚きこめた香木の匂いがする。
「すぐに小野対馬守が舞台に上がります」
座の男が茶と菓子を勧めながら小声で言った。
「お大名ですか」
びっくりして景丸が聞くと男は吹き出した。
「出雲の阿国様です。舞台の名乗りです。お相手は村山左近様、岡本織部様、そして今日は客分で幾島丹後守様が舞台に上がります」
まるで合戦の評定のようだ。
ひときわ囃子が高まって、突然、はたと止まると見物は一斉に楽屋口を見た。金糸銀糸で刺繍された豪華な垂れ幕がさっと上がって小野対馬守こと阿国が現れた。髪を若衆髷に結い、白地に大輪の牡丹を染め蝶と獅子を刺繍した金銀紫紅の衣装に螺鈿細工を施した刀を差している。舞っていた十数人の娘をあしらいながら舞台の中央に出ると隆達小唄の一節を歌った。
雪折れ竹をそのまま垣に 誰かは切らん恋の道
続いて相手役の幾島丹後守が現れる。阿国と対になる衣装は散り掛かる桜を一面に散らした濃紺に着物に南蛮風の陣羽織を着けキラキラ輝く黄金の刀を差している。
生まれも育ちも知らぬ人の子を いとおしいは何の因果ぞの
見物衆は熱狂した。もちろん男ばかりだ。武士もいれば浪人もいる。商人も職人もいる。学者も僧も田舎から江戸見物に出てきた農民もいる。ここには身分の差などない。いつ切りつけるかも分からない恐ろしい武士たち、それ故、目が合わないように警戒し平伏して怖れかしこんでいる武士たちが、ここでは笑いあいスキだらけの姿を見せている不思議な世界だ。
ナギサはこんなに様々な男たちを身近に見たのが初めてだった。職業により生活により顔かたちが違うことに驚いていた。人を使う者、命じる者は物腰で分かる。そして顔かたちは違っても人間の性格、優しさやまじめさが顔に表れることを知った。
ユキはマニラの雑踏を思い出していた。そこには様々な国の人が歩いていた。アラビアもインドもジャワもシャムも、しかし日本人はすぐに見分けがついた。今ここに集っている男たちを見ていると逆に日本人の中にアラビアやインドやジャワやシャムの顔を見出すことができるのだ。金髪と目の青さだけをのぞけばアダムスによく似た顔立ちの男もいる。海に隔てられ言葉こそ違うが人間の源というのは一つだけなのだと思った。
アダムスは冷静に見ていたがヤン・ヨーステンは熱狂した。そして興奮してオランダ語を口ばしった。ユキは驚いてアダムスの袖を引いた。アダムスもすぐにヤンの口に指を当てて低い声で叱責した。
座の若い衆がけげんそうにこちらを向いたが周りの見物衆は舞台に熱中していた。若い衆は京都でも難波でも異国人に慣れている、なんの不安もない良き案内者だった。
一刻ほども芝居が続いてついに最後の場になった。役者たち全員が次々に舞台に出て舞い歌った。やんや、やんやの声とともに見物は高価な持ち物を舞台に投げた。刀や財布、中には着ていた着物を投げて裸になってしまう者もいる。
「あの、太夫さんがお目にかかってお礼をと申しております」
返事を聞かばこそ若い衆は先に立って橋際の茶屋に一同を招きいれた。
すぐに茶と菓子が並び、待つまもなく静かにふすまが開いて阿国が座敷に入ってきた。舞台のままの姿だった。
「あなたはキリシタンですか」
アダムスは首にかかった大きな十字架を見て驚いて言った。キリシタンが処刑される現場を見たばかりだったからだ。
「これは異国の飾り物、お目障りなら外しましょう」
澄んだやわらかい声だった。さっき舞台で使った男声とはまるで違った。
「遊女と申すは古くは巫女、伊勢神宮を定められた垂仁天皇様の皇女ヤマト姫様が斎宮になられたと聞いております」
おっとりとした響きが高貴だった。
「天照大神は女神と聞きますが仕えるのもやはり女性ですか」
アダムスの質問に阿国はすぐ答えた。
「女神には女が仕えるのが無事でよろしかろうと思います。美しい奥方と侍女にかしづかれて殿様も幸せそうです」
ユキとナギサが女であることは舞台から分かっている。しかし阿国は忠勝には声をかけなかった。招いた者でなく、招かれた客を接待するのが務めと承知しているからだ。
「紅はうつろふものぞ ツルバミの慣れにし衣(きぬ)に なほ若(し)かめやも」
阿国が口ずさむので、ユキがすぐ訊ねた。
「誰のお歌ですか」
「万葉集の大伴家持卿、遊女より妻がいいという歌です」
ユキはチラッとヤンを見てキッと言った。
「男の方は油断ができません」
「万国、同じです。阿国は殿様に一つ願いがございます。異国の歌を教えてください。異国風に装っても音曲が日本のものでは舞台が変化しません、ぜひイギリスのオランダの歌を客衆にお聞かせしたいのです」
アダムスはためらいユキは微笑んだ。忠勝はしらんぷりをしている。ヤン・ヨーステンが目を輝かせた。しかたなくユキが通訳した。
「私が教えます。楽しい歌、悲しい歌、船乗りの歌、戦いの歌、お望みの通りお歌いします。いつがよろしいか」
忠勝はヤンの歌を聞いたことがある、はっきりと調子が外れて、無骨で、野暮ったかった。それも水夫の騒ぎ歌ばかり、とても恋心を誘うような優雅なものではない。
「いずれご沙汰がござろう、時が過ぎました、ご一同お帰りの支度を」
ヤンは苦笑して立ち上がると控えていた若い役者が手を取って先に行く。阿国はアダムスとユキの顔をじっと見て、少しだけ哀しげな表情をした。この人も思い出のつらさに苦しんでいるんだ、ユキは合点して微笑みを返した。阿国は美しい眼をうるませた。二人は心が通ったことを喜んだ。しかし、忠勝とアダムスは何も気づかない。
慶長9年の夏、マニラのスペイン商船が初めて浦賀に入港して以来、江戸に向う異国船はこの湊を目指して航海してきた。堺や長崎、平戸と同様に多くの異国の商人や宣教師が浦賀に在留し、フランシスコ修道院や商館を建てた。
向井正綱は高齢だったので実際に浦賀を統括したのは忠勝だった。しかし高札場には正綱の名で貿易を保護し民事を取り締まる触れ書が立てられていた。
「アダムス様、お客人です」
浦賀の役宅には客が絶えなかったので景丸はこの一言で相手の身分を知らせることにしている。この国では相手に応じて礼儀を変える、それを仕損なうと軽蔑され、自分も相応しく扱ってもらえなくなる。アダムスは手早く着物を洋装に替えた。
黒い僧着に埋まって客人が椅子に座っていた。海を見下ろす涼しい部屋の幅広い廊下にアダムスは椅子と丸テーブルを置いていた。自分がくつろぐ時にもその方が楽だった。
「風は海から吹いてきます」
始めは英語で次にスペイン語でつぶやいてみた。お好きな言葉に合わせますよというアダムスの気遣いだった。
「そうです、私は海を越え試練に耐えました、ところがあなたは神の力を讃えていない」
無遠慮なスペイン語で修道士は答えた。フランシスコ会は浦賀に修道院を建てようと大御所様に願いでている。それで派遣されてきたバテレンらしい。
「あなたのご用向きは」
アダムスは穏やかに言った。今日はできるだけ早く逸見の屋敷に帰りたい。ユキは体調が悪いと訴えて伏せている。様子によっては医師と相談しなければならない。
「お前に悔い改めてもらうことだ」
ジュアン・デ・マドリードと名乗る修道士が恫喝(どうかつ)した。神のお告げだ、もし自分が奇跡を起こすのを見たらお前はカトリックに改宗しなければならない。長い航海の末たどりついた異国での布教に神経を痛める者は多い。それが修道士だと狂信者となる。
「よしなさい、恥をかくだけだ、あなたの恥はこの国にいる異国人の恥でもある」
「神を恐れぬ者め、私は神から三つの奇跡を行う許しを得た」
森を移す、太陽の動きを止める、海を歩く、どれがいいかはお前に任せようと言う。アダムスは笑うこともできずに景丸を呼んだ。
「景丸よ、このお方が奇跡を起こすと言っておられる。日本人ならどれを望むか」
「その黒い服で海の上を歩いてみせたらさぞ見物は驚くことでしょう。森を移すと土地の持ち主は困ります。太陽が止まるとこの日本だけでなく世界の人が驚きます」
景丸が笑いをこらえて言った。
「では明後日の正午、約束しましたぞ」
よせばいいのにジュアン修道士は浦賀の町を叫んで歩いた。明日は奇跡の日だ、通訳してもらった人々は呆れた。そしてこの上ない見世物だと思った。
もちろん海の上は歩けなかった。
神父のトリツクは木の十字架、それに乗って歩き渡ろうとしたらしい。
翌日、忠勝がガレオン按針丸で浦賀に入った。そしてアダムスとともに神父を訪ねた。
「奇跡が起きなかったのは残念なり」
忠勝はサザエのように謹厳に声をかけた。
神父はひどい風邪、高熱で赤い顔を見せた。そしてつぶれた声で返事をした。
「あなた方の信仰が深ければ私は歩いたはずだ。信じない人の前に奇跡は起きない」
皆が大笑いした。すぐに神父の姿は浦賀から消えていた。後日、風説が聞こえてきた。マニラに帰った神父を土地の信者は歓迎し奇跡の人と称えたそうだ。しかしフランシスコ会は彼を許さず投獄したという。
初秋の頃、忠勝は家康の命で淡路へ航海していた。任務は西国諸大名から5百石積以上の軍船をことごとく没収すること、関が原で東軍についた九鬼守隆、久永重勝らの海賊大名が従った。
それは将来予測される大阪方との戦乱を未然に防ぐ策である。大阪、元の石山本願寺があれほど長く織田信長に抵抗できたのは海からの補給があったからだ。船がなければ包囲された城は孤立する。紀伊や瀬戸内の海賊にはもはや徳川を拒否する気持ちがなかったので安宅船も関船も支障なく江戸湾と駿河湾に回漕された。そしてたくさんの老練の水手たちが従ってきた。忠勝は船手奉行となり日本の水軍を掌握した。
本多正信が浦賀を訪れた、正純がムジナ殿と呼んでいる父親だ。忠勝とアダムスに案内させて浦賀の町を巡り歩いた。強健な老人だった、ようやく茶屋で一服した。
「かのジェズスと申す者は中々の豪胆でな、豊太閤がマニラに追放したのだが、舞い戻って来おった」
「大御所様はなんと言われましたか」
「その方の望みは何かと聞いたよ、しばらくためらっておったが、私は神の教えを伝えに来た者ですと言った。大御所様は江戸に天主堂を作るのを許された」
ジェズスはマニラのグスマン総督と話しあっていた。マニラと江戸を直接に結ぶ、浦賀の湊にスペインのガレオンが入りアカプルコの湊に日本のガレオンが入る、共に江戸とマニラとアカプルコを航海する。しかし総督は喜ばなかった、日本の利益が大きすぎる。
「ジェズスめは行ったり来たりしておったが一向に話がはかどらぬ、そこにアダムスが来た。びっくり仰天しての、イギリスとオランダを締め出そうとして大御所様に再三処刑するように言ってきた。無理がたたって倒れたよ。坊主は方便を言う、キリシタンも同じだ、都合の良いように話を作る。わしも時には騙されてみせるが嫌な気分が残るよ」
「私は船乗りです。卑しい心は風と波が洗い流してしまいました」
「言わずともよい、わしには分かる」
「そちの故国も島国だ、海から来る敵を撃ち破った雄々しい武士の国だ。我が国も鎌倉の昔、元を撃退した。今はスペイン人だが、この先もあろう、お前の国とも戦わなければならなくなるかもしれぬぞ」
正信はニヤリと笑った、それは底知れぬ不気味なもので、女王エリザベスとも提督ドレイクとも共通する人間性の恐ろしさだ。思わずアダムスは下っ端水兵のようにアイアイサーと答えそうになった。
「スペイン・ポルトガルを外様としイギリス・オランダを親藩として、お前の機略を試みてみてはどうか、商館設立が必要ならばそれも許すと大御所様はおおせになっている」
「ありがとうございます」
アダムスにはそれだけしか言えなかった。
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