元和六年  1620年

 アダムスは平戸で病没した、57才だった。後ろ盾をなくしたイギリス商館は閉鎖された。同じ年にヤン・ヨーステンもバタビアの帰りに遭難し行方不明になった。将軍秀忠は父と同じように隠退して大御所となり三代将軍家光は禁教と鎖国を進めた。
 
 後日

 アダムスの死とともに日本とヨーロッパの結び目が失われた。
 アダムスの遺書は簡単だった。
『余が所有せる一半はイギリスにある余の愛妻、愛子に、他の一半は日本に在住せる余の愛子ジョセフおよびスザンナの両名に譲与せらるべきものなり』
 その前半だけを記した英語の遺書も残された。 
遠いイギリスの家族と今ここにいる日本の家族、どちらも同じように愛した証しだ。故郷ギリンガムの妻と子に分ける遺産2000ポンド、内訳はイギリス公館の給料5年分500ポンドとシャムやトンキン交易の収益だ。ユキと子どもたちへは旗本領の収入と屋敷、造船や斡旋の謝礼など1972両を残した。公館にかかわるものと公儀にかかわるものをきちんと区別する律儀なアダムスだった。国書を携えてきたのがセーリスでなければ、家康が帰国を承諾すれば、アダムスはイギリスに帰ることができたろう。しかし、いずれにせよ2つの家族を公平に思っていたことに違いはない、遺産がその心づくしを語っている。義理の弟アンドレアスが平戸に来航したのを幸便として遺書と金貨がギリンガムの家族のもとに運ばれていった。
 息子ジョセフは15才で元服していた。正純と忠勝の助力があったのだろう三浦の家を継ぐことができた。江戸の初めの頃は幕府の命は厳しくて、たとえ大名であっても子のなき家は取り潰されたのだ。
ジョセフは父とともに何度も航海に出ていたので、海の冒険者となることにためらわなかった。ユキの不安をよそにジャンク型の船に乗って安南貿易に出航して行った。
 しかし世の中は激しく変わった。二代将軍秀忠は父と同様に息子の家光に征夷大将軍を譲って大御所となった。寛永9年、秀忠が死ぬと家光は親政を始めた。自らが交易するより、外から朝貢してくる者を喜ぶ、家光は皇帝の気分を強めていった。それで誇り高いイギリス人より商売上手なオランダ人を優遇した。家光は祖父家康を心から尊敬していたが、生まれながらの将軍として育っていたのだ。
 イギリス商館長リチャードコックスは12月28日に江戸参府し、帰りに逸見の屋敷に寄った。ジョセフに家康から拝領した刀一振を贈り、少し遅いクリスマスプレゼントだと笑った。それはアダムスへの感謝と追悼の気持ちからだった。そしてユキに絹織物、スザンナにダマスク織りの布を贈った、商館の最後の品だ。アダムスという後ろだてを失ったイギリス商館はオランダに圧倒され、また商館員の無能や横領のため大きな損失をこうむって翌年に閉鎖された。コックスは責任を問われて本国に召還される途中、バタビアで病死した。その同じ年に、ヤン・ヨーステンもバタビアからの帰りに遭難して行方不明になった。ヨーステンは十回もシャムやトンキンに渡航し活発に交易していたが、その死とともにオランダ商館も萎縮していった。オランダは台湾に建てたゼーランディア城を明朝の遺臣に奪われ拠点を失っていた。
 寛永11年、ユキは江戸の按針屋敷で亡くなった。ジョセフは朱印状を下付されていたが、すでに2年前に交易の制限と異国人の追放、日本人の海外往来を制限する法令、いわゆる鎖国政策が発せられていた。 
 寛永13年に島原の乱が起きた。キリシタンと行き場のない浪人たちが起こした大規模な内乱だ。ジョセフは幕臣として参戦し、ジャンクを操って島原城を海から砲撃した。平野藤次郎、末次孫左衛門、角倉与一など交易商人たちの奉書船が四隻それに従った。
 乱を鎮圧するとすぐに家光はキリシタン禁止と異国人の追放を厳命した。旗本三浦按針ジョセフも冒険の望みを捨てなければならなくなった。
寛永16年、サントフォールトは妻のハナを伴ってバタビアに去っていった。ビンセント、ロメインも追放されリーフデ号の仲間は誰もいなくなった。
 旗本三浦家は外の幕臣と同様に吏僚として江戸時代をすごした。逸見の領地は後に酒井忠清のものになったが三浦の家督は明治まで続いた。
 
 家康は本多正純に5万3千石を与えるよう遺言した。しかし正純は「けっして3万石以上の大名になってはならぬ」という父の言葉を忘れず固く断った。秀忠は不快に思ったが加増を強く命じた。その後、東照宮を守護する宇都宮15万5千石を与えた。前の城主の福島正則が世継ぎを残さず死んだためだ。しかし、正純の昇進に反発する家臣は多く、また秀忠と側近たちも正純の言動をいらだちを感じることが多かった。宇都宮に移って3年後、正純は上段の間に釣り天井を仕掛け秀忠暗殺を企てたという嫌疑で失脚した。そして出羽に配流幽閉され、島原の乱の年に73才で死んだ。
 辞世の歌が残されている。
     ひだまりを恋しく思ううめもどき
             日陰の赤を見る人もなく
 正純がこんなにあからさまに心情を表したとは思えない、幽閉され衰えていく正純を冷ややかに見ていた者があざけるような気持ちで作った歌かと思われる。梅もどきという言葉にも悪意が感じられる。切れ者として一世を風靡し、大御所に可愛がられた男の末路、ついには梅にはなれなかったろうという嘲笑が感じられる。しかし、これが本当に正純の述懐だとしたら、自虐の念というより逆境に最後まで屈しまいとする強い自尊心だともいえよう。あるいは家康の側室お梅の方に恋慕を残していたのだろうか。どちらにしても家康の逝去後すぐに死んだ父正信は幸せな最期だった。
 
 秀忠は謹厳な性格で枠にはまり秩序だった組織と運営が好きだった。異国を貿易相手とは認めても文化の交流などは不要だと思っていた。そして南蛮・紅毛の両方に冷たく接した。家康が大胆に進めた発展的な経済政策を縮小し、国内生産だけによる充足を図った。そして外様の大名を次々に改易し、遺臣たちを追放して封建秩序を固めていった。
 
 向井忠勝は秀忠の船手奉行となり厚い信頼を受けた。秀忠が船に乗る時は必ず忠勝が随行した。相模・上総に6千石を領する大旗本となり、江戸に上下二つの屋敷を持ち将監を名乗った。軍船を係留する将監河岸や将監橋、海賊橋という地名が今に残っている。
 寛永9年、忠勝は三代将軍家光の命により将軍御座船1500トンの天下丸を造った。
 進水の時には船揃えを催し、たくさんの人の前にその勇姿を誇示した。
「あれを見よ、三浦一丸が先頭を進んでいる、なんと美々しい姿だろう」
 上り藤の紋をつけた二双の幡を高く掲げて、黒地に『む』の一字を記した向井将監の旗を翻し、日の丸の吹流しを長くのばして三浦一と名づけた安宅船が進む。鉄砲狭間、大筒狭間からは黒光りした銃身がのぞき、櫓の金の飾りが陽光に輝いている。大櫓がゆっくり漕がれて水面に映った船影を乱していく。
「あれは大龍丸、次に続くのが将軍家の御座船天下一丸だ」
 続いて葵の御紋の小龍丸、天地丸、小虎丸が続く。三叉の武具を船首の左右に立て、四本の幡と船首の梵天が御座船の誇りを示している。左右を上り藤の江戸丸、相模丸、小天狗丸、大一丸、国一丸、小烏丸などの安宅船が遺風堂々と進んで行く。もっと小さい快速の関船は大漣丸、小漣丸、日吉丸、小燕丸、隼丸、武蔵丸など数知れず、旗を翻し、武器をきらめかせて進んで行く。川岸には大きな歓声が響いている。
 国一丸は豊臣秀次が家康に与えた三隻の軍船のうち最も大きな船で忠勝が拝領した華麗な船だ。
「かつて織田信長様は京で大馬揃えをして、天子様や公卿衆を喜ばせたというが、この船揃えには較べようもあるまい」
「俺はルソンやシャムに渡り、異国船を数多く見てまいったが、これにはかないません」
 幕府の水軍は天下に偉容を示したが、そこにはアダムスと力を合わせて造船したガレオンの姿はなかった。今、目の前を漕いでいく軍船は千里の波頭を越える外洋船ではない。見かけは堂々としていても沿岸にしかいられない憶病な船だ。将軍も諸侯も見物の庶民たちも誇らしく見やっている水軍は、せいぜいが竹の棒でスズメを追い払うくらいの力しか持たない。
 その船揃えは忠勝の最後の晴れの場になった。
 浦賀番所は南蛮・紅毛貿易が盛んな時は朱印状改めの責務があった、そして上陸する内外の船乗りたちが文化を交流しておおいに賑わった。しかし、家康の死後に浦賀にあった商館も修道院もことごとく破壊された。忠勝の任務も密貿易の監視だけとなった。   
 忠勝は今までとは様変わりになった職務を死ぬまで続けた。昔を思い出して不本意な気持ちになることが度々あったことだろう。
 忠勝は絵師に命じて江戸名所図屏風を描かせた。数ある京都の屏風絵にひけをとらない名作だ。アムステルダムやロンドンの町並みにはるかに勝る江戸の町、平戸のカピタンたちは任期が終われば国に帰る。言葉で言い表せない江戸の繁栄の様子を本国の人たちに絵解きさせる、それはよい土産になるし、貿易を求める者たちへのいい刺激になるだろう。
忠勝はカピタンたちを招いた自分の屋敷を描き入れさせた。霊岸島の御船蔵に漕ぎ寄せる大型の船、館には自分と家族がくつろいでいる。張り巡らした幔幕には丸に下がり藤の向井の定紋が誇らしく印されている。他家の紋を勝手に印してはさわりがあろう、だから自家だけだ。
 千代田の城はすっくと立ち天守閣をいただいている。一昨年にできたばかりの三十三間堂では通し矢を放っている人がいる。
 日本橋だけでなく新橋も京橋もたくさんの人が往来している。芝には水遊びをする女子ども、築地から三十間堀へと漁舟、釣り舟、遊び舟が出ている、屋形舟には着飾った女たちと高慢な男たちが乗っている。岸には大きな風呂屋があり湯女が客に媚を売る。連なる芝居小屋では若衆歌舞伎、操り芝居、女歌舞伎が客を集めている。それを見物したカピタンもいたことだろう。浅草寺は祭礼、獅子が先導し神輿が渡り幌武者が警固している。華やかな町並みは異国の人たちを魅惑する。その先の原っぱでは抜き身を構えて男たちが果し合いをしている。つい近頃まで続いた戦乱を忘れないためであり、武士の国日本を示すことで侵略の意図をくじくためでもあった。
 1641年、寛永18年60才で向井将監忠勝は死んだ。その前年に三崎の海南神社に寿命遠大と彫った御手洗池を寄進したが、長い海の生活で痛めた体は望みをかなえてくれなかった。
 五男の正方が船手頭を継いだが、6年後に潮目を判断しそこねて御座船を座礁させるという事故を起こした。父の功と若年ゆえの未熟として罪は免れたが所領は千石を残して没収された。その地を賜ったのは家光の側近だった。その後の正方は安宅丸の修理や三崎番所の仕事など職務に励み、幕末まで向井将監の名を残すことができた。
 忠勝は息子の一人に洗礼を受けさせたという、それが早くに死去したのは殉教なのではないかと言う。6男の正興が祖父の地、持舟城跡に碑を建て祀ったのはマリア観音だったという。浦賀に程近い真福寺の地下墓所
には×型のアンドレ十字架を記した墓碑が12基もあるという。キリシタン墓碑共通の花菱紋が彫られているという。アダムスの菩提寺の浄土寺には、頭に八角宝冠、左手の上に右手を重ねる般若菩薩印を結んだ按針の守護観音が祀られている。シャムから持ち帰ったものだという。多くの伝承が残されている。
 
 家光は祖父の壮大な世界観は継承しなかったが高麗との国交は継続した。将軍の代替わり毎に朝鮮通信使が訪れるようになった。

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