元和元年  1615年

 5月に大阪夏の陣で豊臣が滅び改元が行われた。20年間続いた慶長という年号が元和と改まったが乱世はまだ終わりきっていない。
 家康は矢継ぎ早に法令を定め、江戸の町を整備するとともに、朱印状を発して貿易の促進に努めた。しかし翌年1月、鷹狩りの途中で発病し、4月17日に没した。6月には本多正信も死に、二代将軍秀忠は新しい体制を築き始めた。アダムスは時代が去っていくのを感じていた。
 
 庭でジョセフとスザンナが遊んでいる。
「コックス様が届けてくださった苗木はすっかり根付きましたよ、ほら早速実をむすんでくれています」
 ユキが七助爺さんに話しかけている。
オレンジの木、イチジクの木が艶やかに葉を広げ、ブドウの木には棚が作られている。
「あの変なイモはごめんです」
 そのイモの栽培は爺さんには難しかったようだ。引っぱりだした根には指先ほどのスジだらけのイモが情けなさそうにつながっていたという。
「コックス様は上手に栽培されて結構なイモができたそうですよ」
「ネズミに食わせろ、いまいましい」
 爺さんは自分の失敗を認めない。
「琉球から来たからリュウキュウイモ、ところが琉球では唐から来たカライモと呼んでいるようです。それにカンボジアから来たウリがカボチャ、植物も人間が勝手に名前をつけるから困っていることでしょう」
 ナギサはスザンナのヨチヨチ歩きを支えている。そしてジョセフが投げたマリを投げかえしている。
「コックス様は気のいい方ですね」
「あのお年ではるばる日本まで来るのですから大胆な方です」
「なんでも失恋して故郷にいられなくなったとか」
「おやおや、とんだ業平吾妻下りですか」
「奥方が浪費するので破産してしまったといううわさもあります」
 ナギサもこういう話は好きだ。
「金魚が好きで平戸の殿様がうらやましがったとか」
「でも商売だけは下手なようですよ」
 アダムスが湊から帰って来た。
「今日は正純殿と忠勝殿がみえられるのでご馳走を釣ってきた」
 小魚が入った網と右手には大きな鯛を下げている。
「殿様がお釣りになったのですか」
 ナギサがびっくりして聞くとアダムスは照れくさそうに答えた。
「左様、友だちの漁師が…」
 ブドウ棚の下にテーブルを置き椅子を並べた。磨きぬいたグラスを並べてワインの樽を置いた。コックスの土産だがもう半分くらいしか残っていない、今日の宴会でなくなるだろう。
 昼過ぎになってドヤドヤと人が集まった。
「これで大御所様は富士山のように抜きん出てそびえたつ、たった一つの峰になった、めでたいことだ。我らもあやかりましょう」
 正純が如才なく宴の挨拶をした。
「なぜ、あれだけ大きな大阪のお城がすぐに落ちたのですか。一年も戦いが続くと思っていました」
 ユキが聞くと忠勝がうれしそうに言った。
「正純殿の知略です。冬の陣で和睦がなった時に大坂方が堀を埋めることに同意したからだ。堀がなかったからアダムス殿も大砲を間際まで持って行って天守閣を砲撃することができたのだ」
「堀を埋めてもいいなどと大阪方はよく同意しましたね」
「それは正純殿に聞いてみなさい」
 正純が何も言わないので忠勝が笑いながら言った。
 つまり大阪はだまされた、総構え破却と言われて外堀を埋めるだけだと思ったのだ。戦いの後始末に没頭していたし呆然としている者も多かった。徳川方は昼も夜も全力で外堀を埋め立てた。焼け残りの陣屋や家がたくさんあったので工事ははかどった。厳しく警戒して人を寄せ付けず、城下の町屋や寺も壊しては外堀に投げ込み、同時に内堀を埋めてしまった。もちろん本多正純が指揮をした。
 ついに気づいた大阪方があわてて駆けつけてきた。
「和議では外堀だけと約しました」
 正純は平然と答える。
「さよう聞いております」
「今、内堀もおおかた埋められております」
「そんなことはない、調べてみましょう」
 知らんぷりして3,4日埋め続けると、また使者がくる。
「まだ内堀を埋めております。和議を破っていることを厳しく申し入れます。元に戻していただきたい」
「何、和議を破るとな、元に戻して戦さをまた始めると申すのか。これは一大事、大御所様に注進せねばならぬ」
「いや堀だけの話で…」
「黙れ、それが秀頼公の本心ならば、いつでも兵を出しましょうぞ」
 いいようにあしらっているうちに堀はすっかり埋まった。
「足軽共が勝手に埋めてしまいました、まことにおそれいる次第です。いずれ約束の通り元に戻しましょうほどに、しかし、これも万代の泰平の絆として、秀頼公にはよしなにご奏上のほどを」
 使者はあっけにとられて帰っていく。大阪城は最強の堀を失った。
 ワインはどんどん減っていく。
「一番の手柄はアダムス殿です」
 何も言おうとしないアダムスの代わりに忠勝が話した。早くろう城を終わらせる策をアダムスは提言した。
 堺や平戸の鍛冶は優れた技術を発揮してリーフデ号に勝る大砲を造っていた。平戸ではオランダ船に載せる砲を20門も鋳造した。そして慶長19年に家康は全長3メートル口径9センチ5キロの砲弾を飛ばす砲を作らせていた。サントフォールトの指導で撃ち手も熟練している。大阪城の堀端からギリギリの射程だったが一回の斉射で弾丸は天主を打ち砕いた。不幸にもそこにいた奥女中が即死した。それで天主の威容は失われ、忌まわしい場所となって士気は落ちた。
「いや忠勝殿の働きも恐れ入りましたぞ」
 忠勝は軍船を率いて大阪の河口に陣取り、水軍の襲来に備えた。大阪城が落ちた時も小舟で逃げようとした落武者をことごとく捕らえた。
「しかし島津殿は逃げ足が速かった」
「島津、伊達。戦国武将の面影はこのお二人だけだ、武略も謀略も自由自在に扱われる」
 それが家康にとっては油断のできない相手だった。
 
 屋敷に上る坂道の木陰に敷物をのべてお供の家来たちも酒宴をしていた。景丸とナギサはこちらの世話をしている。ワインは口に合わず酒を求め、忠勝が土産に持ってきた三崎の魚を焼いて食べている。
「軍兵の士気は食い物次第だ」
 歴戦の勇士らしい足軽がしゃべる。
「城の中では塩イワシと干し魚、スルメをしゃぶって味噌をなめる。俺たちにはなんでもある。ドジョウ鍋はうまかったな。おん大将もなにやらうまそうな物を食べていたぞ」 
 小田原城を包囲した秀吉は諸将を遊山でもてなし融和と交歓を図った。正純は茶の湯ではないシチュウの集いを何度も行った。アダムスのジャンクに将兵を招いて食事を振る舞った。牛肉と大豆のシチュウ、鯛、ハマグリ、エビ、カニ、明石タコ、白菜、ネギのパエリア、棒だらと米のライスコロッケ、砂糖菓子。珍しい紅毛の食べ物を船上の風に吹かれて賞味する、諸国の将と家臣たちは舌づつみを打ち、その味を領地に持ち帰った。
海にはオランダとイギリスの商館が船を出して警備する。スペインやポルトガルの商館からも陣中見舞いが次々に届く。マストの上では始終、見張りが立ち城内の様子を報告する。それまで経験したことのない戦場となった。  
「当代一の知恵者は我が殿だ」
 正純の郎党が自慢する。
「お父上の正信様だ」
「大御所様だ」
「上には上か、しかし俺は殿だけしか知らんのだ」
「太閤も知恵の塊だったぞ」
 年寄った郎党が言った。 
「知恵は鉄砲よりも勝る武器だ」
「どんな知恵だ」
「凡人にはとても及ばぬ、鳥取城のことを話してやろう」
 羽柴秀吉は信長の征西の前衛として鳥取城を攻めた。秀吉は城攻めがうまいと評判だ、たちまち包囲して孤立させてしまった。毛利の援軍は近づけない。
「しかし太閤は知恵を使った」
 城攻めのしばらく前、若狭の舟が鳥取を訪れた。越後は大飢饉で食うものがなくて人々は飢え死にしている、相場の3割増しで米を買おう。おおかたの米を買ってしまうと次の舟が来る、相場の2倍だ。貯えの米はもうなくなった。今度は3倍だ。前に売ってしまった者は悔しがり城中の貯え米も運び出して売ってしまった。大将の知らぬうちに米も麦もなくなり、そこで城攻めが始まる、びっくり仰天して戦意がなくなる。
「おそろしい知恵だ、秀吉は戦場で人を殺さぬ慈悲深い大将だと自慢するが、その何倍も飢え死にさせているんだ」
「ところがその商人はもっとすごかったぞ、その米で大もうけした」
「俺は大将にも商人にもなれぬの、いつまでたっても足軽だ」
「なら正純様の方がずっと上だ、慈悲で足軽を救ってくれた。あの堀が残っていたら足軽2万は討ち死にした、知恵者は慈悲もある」
「いずれ恩賞の沙汰があるだろう」
 
「忠勝様は駿河のお生まれですか」
 ユキが聞いた。こんなに親しくしているのに何も知らない。
「駿河…なのでしょう。祖父のいた持舟の城などは砦というか物見櫓というか小さなものでした」
 それでも忠勝はなつかしそうな表情になった。
「低い丘の上から見ると右手が海、正面が安倍川、左手に東海道が一望できる、つまり三方を見張る城です」
 目の下に小坂川が海に流れて船溜まりを作っており、左右は白砂の渚に松林が緑濃く続いている。
「丘を下った海側に水の湧く窪地があって、そこに館がありました。武田が攻めて徳川が攻めて、いつも簡単に焼き払われる小さな館、しかし構わず城兵は舟で逃げる、そんな守りのできる城でした」
 忠勝は笑った。祖父は武田に仕え父は徳川に仕えた。水軍の将として名を知られていたので武田地侍も三河地侍も一目置く、船は馬をしのぐ戦力だった。
「もし東海道を敵勢が攻めてきたら船は先回りして兵を送り道を固める。敵が敗退したら船は待ち伏せて山越えで疲れきった敵兵を捕らえる、もっとも海が荒れると何の役にもたちませんがね」
 甲斐は海の幸・塩と干魚を求め、その代償に山の幸・砂金を払った。舟は帆と櫂で舟底をこするまで川をさかのぼって荷を降ろすと、あとは飛ぶように帰っていく。品物は難儀な峠越えをいくつもして人の背に負われて甲斐に運ばれる。
「祖父の代にはそれだけだったが、三崎と浦賀に館を構えた父の代には江戸に入るすべての荷を取り締まることになりました。同じことをやっているのだが量が千倍にも万倍にも増えたということです」
「忠勝殿はその城で育ったのか」
 正純が聞く。
「いや大御所様が天正10年、城を落とし祖父は討ち死にしました、その年に私は生まれました。父は徳川に仕えるまであちこち隠れ歩き、焼き払われた館にも度々訪れたそうです。私は幼な児だったがそんな光景が目に焼きついているのでしょう」
 忠勝があまりにも懐かしそうなので正純はつい余計なことを言った。
「今は番の者が入って物見を続けているようだが、忠勝殿が宰領することもできよう」
「父が塚を立て坊主が供養してくれています。大御所様に抗した者ですからそれ以上のことは僭越(せんえつ)でしょうか」
 忠勝は思い出を大切にしたいようだ。
 宴会はいつまでも続き、暮れ方になっても話が終わらない。しかしアダムスはユキと幼子を案じた。それで忠勝は舟で三崎の役宅へ、正純は父が預かっている鎌倉の甘縄城へと帰っていった。
 
 戦勝に最も敏感なのは朝廷だった。武士の世を生き抜くために公家たちは必死の工作をする。祝賀の使節はまず駿府で家康に拝顔する、すぐにご酒が下される。
「されば光秀は悪をなしたので自ずから滅びました。天は彼を許さなかったということです」
 随員の一人、四だか五位の官人、関戸一斎と名乗る儒者が高慢に言った。貧相な薄いヒゲをなでながら公卿に似合わぬ無遠慮な大声でしゃべるのが上座の家康の耳に入った。
「正純、天海…」
 小さな声で呼ばれた二人は無表情のままの家康の目にほんのわずか面白そうな輝きがあるのを見逃さなかった。宴の肴にからかってみろという指示だ。
「ここからは無礼講にせよという有り難い仰せだ。ご一同くつろがれるがよい」
 正純が呼びかけた、すでに正使も副使も引き下がっている。駿河の国の豊かな山海の恵みが山と盛られて運び込まれた。日ごろ粗食を強いられている公家たちは、ここぞとばかりに飛びついた。思えば今川義元も戦乱続きで食うに困った京都の公家たちをこうして集めて優雅を楽しみ、ついに身を滅ぼしたのだ。権謀術数にしか生きる道のない公家たちをちやほやするのは危険なのだ。
 最初に天海が声をかけた。
「まことに光秀は因果応報、主君を討つなど言語道断」
「げに豊太閤に討たれて天下泰平」
 一斎はうれしそうに盃を干した。
「大御所様は秀頼を討ちました」
「さよう、孟子に曰く、昔、中国では夏の桀王を殷の湯王が追放しました。殷の紂王は周の武王に討たれました。いずれも大逆不善なれば、もはや王とはいえず、ただの男、それを討っても道に背きません」
 正純が笑いながら言う。
「秀頼は不善でしたか」
「秀吉公は晩年に礼節を失いました。朝鮮を攻めるなど言語道断。大明と朝鮮は礼節の国、そこに武を以って侵略するなど言語道断」
「朝鮮は自分の身を守れなかったが」
「左様、君子にオオカミが襲いかかったようなものです」
「朝鮮の民は皆が君子ですか。ほとんどの民は先祖代々、子々孫々まで奴隷同然だと聞きました、そして王と貴族だけが安逸をむさぼっている、それが君子といえようか」
「人には生まれながらの分というものがあります。積善は果報、積悪は子に及びます」
「それならば朝鮮も秀頼も討たれて当然でござる。ところで徳川将軍がもし臣下に討たれたら、それは我が主君の積悪のせいだと申されますな」
「孟子に曰く…」
 言いよどんでいるうちに正純が叱った。
「明が滅び後金が立つ、明の遺臣は再興を唱え我が国を騒がす。その心はいずれも国を私(わたくし)することです。明の朱元璋も朝鮮の李成桂も武力で国を我が物にした、皇帝というのはそういうものです。しかし、日本にはミカドがおわし常に天下の泰平と五穀豊穣を祈っておる。そして徳川将軍は天下を統一し、ミカドの祈りをかなえ、泰平の世をつくりました。ミカドの願いをかなえるのが将軍の務めです」
 さすが頭の働きの鈍い一斎もこの意味を察した。
「さればこそミカドもお喜びになって将軍宣下を下し、世の末まで徳川の栄えを祈っております」
 天海がいたわるように言った。
「公卿衆は京の朝廷でミカドをお守りになり、安穏な心で日々の祈りを全うされますよう、よろしくお願いしますぞ。まことに建武の昔、ミカド自ら武を用い天下がおおいに乱れたことを思い出します」
 後醍醐天皇の事跡は未だに根深い。南北両朝に分かれて内輪もめをした。こういう争いが古来にあったことを皆が承知している。
 正純が冷ややかに付け加えた。
「足利将軍の衰えた応仁以後にも再び天下が乱れました。信長様は天下布武を唱えて戦乱を止め、それがようやくかなえられようとした時に命を失いました。豊太閤は才略の人、日本を束ねるだけでは足りず異国にまで兵を進めましたが、これは天の許すところではなかった、鎌倉の昔に元が我が国を侵攻したのも天が許さなかった、同じことです。この大八洲には国生み以来の神々がおわします、ミカドも公家衆も日々に祈りを欠かさないでいただきたい」
 論語や孟子にこり固まった一斎はあっけにとられている。京の住民は秀吉を軽蔑し家康をあなどった。西国の武士ならともかく、粗野な風貌をした東国の武者からこんな議論をふっかけられるとは思ってもみなかったからだ。
「林大学頭殿、拙者は無学な田舎武士ゆえ間違いもござろう、正してくだされ」
 隅で几帳面な顔をした林羅山は幕府の儒者、まだ少壮の学者だ。
「朱子に曰く」
「朱子とは南宋の朱熹のことでござるか」
 一斎が戸惑って聞いた。孔子と孟子を片手間にかじったくらいの儒者では、人間の本性は理とか、仏教と道教を取り込んで静座の行を行うという鋭く尖った朱子の論は性に合わない。
 天海がにじりよって大声で言った。経を読んで鍛えた声だ。
「日本の神はすべて仏です。仏はその土地に相応しい姿で現れます、それを垂迹(すいじゃく)と申します。それゆえ八幡神を大菩薩として願をかけ、熊野の神を権現と呼んで加護を祈る、神仏は一体です。ミカドにゆかりの伊勢の天照大神は大日如来の仮の姿です」
 正純も言った。
「建武のミカドも朱子を学んだといいますが正邪の判断にえこひいきがあった。武士を不浄とみる古い公卿の思いを越えられなかったのも理の本性に及ばぬことがあったのでしょう。ミカドにはくれぐれも学問にご精進いただきたいものです」
 一斎はたまげて控えの間に逃げ込んだ。ようやく息をついてから、こんな話は理不尽だと強がりを言ったようだ。ミカドは祈るだけでよい、こう断定されたのでは公卿は狭い朝廷に閉じ込められて、この先、立身出世や豊かな生活などありえない。ならば朝廷から離れて諸侯に仕えることもできるが、その実力が自分にはあるのかどうか悩ましい。
「儒者などというのは使えないものだ、まるでハマグリだ」
 正純が言うと天海も笑った。皆も笑った。
「固く閉じこもっているということですか」
 誰かが聞く。
「なんの、固ければ褒めてやろう。ちょっと火であぶると口を開けて舌を出すということだよ」
「なるほど。拙者はドジョウのようなものだと思っておりました」
「同じようなものだの」
「ふだんは底の方に沈んでいますが、ちょっと酒を注いでみるとたちまち元気になって踊りだします」
 それも面白いと笑い声が高まった。
「何か都合のよい話をさせるには酒を飲ませて一番元気なヤツを頭領にすることです」
「好みの違いだ。わしは火であぶって口を開けさせツルリと飲み込む方がうまいと思う」
 大御所は騒ぎを聞くような聞かぬような顔をしていたが正純につぶやいた。
「羅山」
 正純に声をかけられて林羅山が平伏した。
「ハマグリとは何だと大御所様のお訊ねだ」
 大真面目な顔をして正純が問いかける。
「蜃気楼を吹くと言われます。しっかり確かめないと絵空事を説きます」
「ドジョウは何だ」
「ナマズの孫とも言われますが半端者です。ナマズはヒョウタンでは抑えきれません、地震も起こしますが、ドジョウはせいぜい柳の下、しかしいつもいると思うと時期を逸します。すくえるときにすくってしまった方が賢明かと存じます」
「まこと儒者も坊主もその仲間に加えた方がいい。坊主は葬式ができて、儒者は子どもに読み書きを教えるくらいでちょうどいい」
 天海は磊落(らいらく)だ、しかし林羅山は憤ったようだ。
「儒は経世の学問、信仰ではない。仁義礼智信の道こそ世の中の骨組みとなりましょう、天海殿のお心得違いでございます」
「いや、これから泰平の世を支えるのは忠と孝であろう、仁と礼を加えると軟弱になります、義と智と信は世を乱す、ともかく下克上などという考えを世の中から消し去らなければなりません」
 正純が自説を言う。かねがね経世の論を父の正信と交わしてきたので自信があった。
「だからこそ自己修養して理を知れば、天下は治まり秩序が維持される。私と公とは統合されるものなのです」
 正純も戦場往来した武士だから人間がいかに弱いか思い知っている。羅山が言うような自己修養など甘いものだ。
「調略を用いて裏切らせる、されば兵を損ぜず勝ちを得る、私利私欲の世の中でした。これからは、私が公に尽くす心構えを持たねばならない」
 林羅山には不満が残った。
 
 幕府は矢つぎばやに布令を出した。一国一城令により戦乱の終結を宣言し、武家諸法度、禁中公家諸法度、諸宗本山本寺諸法度により幕府のもとにすべての権力を集中させた。
 それと日を同じくして初秋の風とともにバウチスタ号が浦賀に帰ってきた。使節をアカプルコに下ろした戻り船だ。
 船腹から運び出される品物の数々に港は熱狂した。諸国商人ばかりでなく南蛮人、紅毛人の商人が集まってきた。
 景丸の兄も乗り組んでいた。この2年の異国での暮らしがこたえたのだろう弱りきっている。景丸はアダムスに願って逸見の屋敷で療養させた。
 バウチスタ号の人々は世の中がすっかり変わったことを知らなかった。豊臣家は滅び去り、それに加担した人々は姿を消した。秀忠将軍は多くのキリシタンが大阪側に加わったことを責めて禁教令を出した。宗教的というより世俗の政治的な責任追及だ。密告が奨励され全国が探索された。長い異国の滞在のうちキリシタンになった者も多かった。器用に棄教するか殉じて身を隠すか、苦悩が迫った。
 すぐにアダムスは駿府の大御所を訪ね最新の世界情勢を告げた。平戸にいたイギリス人のラーフ・コピンドール船長が同行した。
 家康はアダムスだけを引見した。すでにそこには何人かの男が打ち解けた話をしている。アダムスは話を理解しようと全身を耳にしていた。コピンドールを同席させなかったのは、正座という拷問に似た苦行をさせないための大御所の思いやりだと分かった。
「されば京都の都の鬼門にあたる北東は比叡山、北には毘沙門天を祀る鞍馬寺を配し、裏鬼門にあたる西南は石清水八幡を祀ってござります」
 だから江戸もそうしなければならないという。林羅山が話し終わると家康は半分眠っているような目を開いて周囲の者をひとわたり眺めた。本多正純も天海もまじめな顔で聞いている。
「お前たちは死んでからあともわしに仕事をさせようとするのか。死者の魂はそっとしておいて安らかに憩わせるものだ。おかしなことだなアダムス、イギリスではどうだの」
 林羅山は食いつきそうな顔でアダムスをにらんでいる。儒教の教えでいえば日本は東夷の国、それを東海の君子国とすり替えて、南蛮人、紅毛人と異文化を排斥する狭い考えの持ち主だが家康にとっては必要な人材であった。戦国往来の荒くれ武者たちは朝鮮出兵でだいぶ数が減ったが戦国武士を泰平の武士に変えていくことは困難な仕事だ。しかし仏教にはそれがまかせられない、一向一揆の苦い記憶があるからだ。もちろんキリシタンでは困る、スペインは金銀のためにいくつもの国を滅ぼし我が物とした。ここは儒教に委ねて仁義礼智信をもって武士の価値感を変えていかなければなるまい、家康はそんな思惑を持っている。
「イングランドの守護聖人はジョージ、アイルランドはパトリック、ウェールズはディビド、スコツトランドはアンドリューと申します。ジョージは騎士で竜を倒した英雄です」
「聖人と申してよいのは孔子だけです」
 羅山が低い声でおどすように言ったが、家康は話を続けるように目配せした。
「それぞれ像を作って祀り、命日を記念の日として民が祝います。国が栄え世の中が安らかなのは聖人のおかげと考えます」
 羅山がまた発言しようとするのを抑えて家康が言った。
「わしにそれをしろと言うのだな」
 今度は羅山も勢い込んで言った。
「左様でございます。鬼門には祈願寺、裏鬼門には菩提寺、北と南には神社を配し、徳川の世が万代まで続くよう鎮護するのが肝要と考えます」
「わしを祀るのか」
「日光、二荒山の地がふさわしいかと存じます」
 天海が言った。日光は江戸の北にある。二荒山はその名の通りフダラクであり補陀落は平安の昔から観音浄土だった。日光に勢力を振るっていた修験者たちは小田原北条氏とともに滅ぼされたが、日光が聖地であることに変わりはない。
「古来、天子は北を背にし南面いたします」
 羅山が調子に乗った。
「たわけ者、天子は京におられる帝のみ、わしは臣下だ」
 風水という思想が儒教と一緒に伝えられてから久しい。京都も風水に従って造られた町だ。東西南北を護る四神に応じて三方を山、南側に湖、両側に川が流れている。江戸の町も三方が山ではあるが武蔵野は広いので身近に山を感じることはない。南の海と東の利根川は風水どころか物資を運ぶ生活に欠かせない流通の場だ。
「されば大御所様は北におわし毘沙門天の化身とあがめられます」
「たわけ者、毘沙門の化身を装ったのは上杉謙信だぞ」
 今度は正純が声を挙げた。平伏する羅山を一同が冷ややかに見た。出すぎた若輩には試練を与えなければならない。羅山は八歳の時に人が太平記を読むのを聞いて覚えてしまったという秀才だ、自分でも、一度聞いたことは耳の袋にしまっておくので忘れないなどと自慢している男だ、大事を起こす前に鍛えておかなければならない。
「アダムスには守護の聖人はいるか」
 十分に沈黙の重荷を背負わせたころあいをみて家康が口を切った。
「上様ただ一人でございます」
 家康は笑い、一同は微笑んだ。
「羅山、姿形は異なっても人の心に変わりはない。思い知れよ、孔子も人として産まれたのだ、お前の思いは明国に寄りかかりすぎておる。アダムスよ、嵐になると我が国の水手どもは金比羅大明神を拝むがイギリスの水手は何に頼ろうとするのだ」
「リーフデ号はエラスムスの像を船首につけて参りました。雷除け嵐除けの聖人です。海は神秘です」
「ではわしも雷除けの役でも果たそうかの」
「大御所様の雷の方が怖くござります」
 ようやく羅山が小さな声で言ったので今度は全員が大笑いした。
 一同の前でアダムスは世界情勢を語った。
 家康が一番気にかけているのはスペインの動き、とくに伊達政宗の使節が大艦隊を引き連れて帰国するといううわさだった。
 政宗は支倉常長に書簡を託してスペイン軍艦と軍勢の派遣を依頼し。そこには奥州の王伊達政宗が皇帝の王子を擁して天下を取ると書かれていた。一昨年に病死した大久保長安が隠し持っていた莫大な金はその準備だという。カピタン・モロがスペイン王にあてた信書が見つかった。政宗はキリシタン大名を集結して秀忠を倒し、松平忠輝を将軍にして自分が後見になり覇権を握ると。
 東南アジアの状況も複雑だった。イギリス・オランダとポルトガル・スペインの対立は分裂し、どの国も相手を敵として攻撃しあっている。
しかしアダムスの報告は素っ気なかった。スペインは破産の危機に面している。フェリペ三世には貴族も国民もうんざりしている。オランダは勢いづき、ポルトガルは独立しようとしている。とても日本にまで遠征隊を送る力はない。使節はやっかい者になっているようだ。
「オランダか」
 家康が小さくつぶやいた。アダムスはハッと気づいた。この聡明な人はスペインを敵としているのではない、平和を乱すすべての侵略者に向き合っている、オランダもイギリスも奥州伊達も。深く人間というものを洞察しているのだ。
「大御所様の心の痛みが初めて分かりました。私は大御所様の目となり耳となってお助けいたします」
 家康は黙ってアダムスを見た。一同も深い思いに沈んでいる。「我が国」という狭い地域は「世界」という広い地域の中で存亡していく。豊太閤が目指した明国も世界の中では小さな地域に過ぎない。「我が国」は世界にどう立ち向かうのだろう。徳川の平和が世界に通用するのかどうか、思いもよらない話だった。
 軽い金属音が絶え間なく響いている。人を追い立てる響きだ。大御所の脇に置かれた時計が時を刻んでいる。
「わしの脈より少し早く時計は時を告げているようだ、しかし、わしは時計によって生きているのではない」
 金色に輝く四角い箱の上に半球の網がかかっていて長短の針が時刻を指している。
 アダムスは時計の裏蓋の文字を読んだ。
「ハンス・デ・エバロなる者がかの地の都マドリッドでこれを作った、1581年と記されております。我が国の暦に直すと天正9年のこと」
「本能寺の前の年か。人の命と違ってハガネの脈は絶えないのか」
「ご長寿を願っております」
「ハガネとて身を削ろう、すり切れるまでわしも働く、そなたも目と耳を働かせてくれ。シャム貿易の朱印状を出そう」
 話は打ち切られ一同は退出した。アダムスはさっそく浦賀に戻りシーアドベンチャー号の出帆準備にかかった。行き先はシャム、目的はスオウの買い付け、そして各国の動きを知ることだった。船は明国のジャンク、造船したガレオンと熟練の水主たちは手元を離れていた。船を整備し、出資者を募り、積んでいく品物を買い整える。仕事は繁多で気が抜けなかった。
 禁教令の影響は逸見の屋敷にも及んだ。キリシタンをかくまっているという密告があったのだ、たぶん療養している兄のことだ。以前の悪行を覚えている郷の誰かが通報したのだろう。しかしユキは毅然としている。もっともアダムスは大御所の信頼厚く、領民からも慕われている。親しくする本多正純は幕府中枢に大きな権力を持っており、向井忠勝は二代将軍徳川秀忠の近臣で徳川水軍を支配している。こんな人々に嫌疑をかけられる役人などいるはずがなかった。
 
 慶長20年正月21日家康は腹痛を起こして倒れた。それまでも体調はよくなかったのだが正月行事を終えて気分直しに藤枝まで鷹狩に出た。帰り道は一段と寒気がきびしくそれが障ったようだ。すぐに田中城に運ばれて休養した。そこにたまたま江戸に向かう茶屋四郎次郎が見舞いに来た。
 …茶屋の孫が来たか
 本能寺で信長が討たれた時、堺にいた家康はわずかな家来とともに一目散に逃げ帰った。その時、同行していた茶屋の祖父が道すじの土豪や浪人や百姓に持参していた大金をばら撒いて、ようやく落武者狩りからまぬがれて逃げおおせた。
 …この度もわしを助けに参ったか
 茶屋はカヤの油で揚げた鯛の唐揚げ南蛮風を自分で調理した。
 …都ではこのような物が流行っております。たいそう精がつくと申します。
 それがいけなかったのだと人々はうわさをしたが、医師たちは腹にできているしこりを診て死病だと確信していた。
 病状は一進一退したが、それでも3月には朝廷から太政大臣の宣旨を受けて勅使をもてなすことができた。
 桜の花がすっかり散るころに家康は余命を悟った。本多正純と崇伝、天海を病床に呼んだ。崇伝は長く策謀をもって家康に仕え、かの方広寺の鐘の銘『国家安康』『君臣豊楽』を手品のように弄んで豊臣滅亡をもたらした政僧、天海もまた比叡山を押さえ込み家康の意を汲んで自在に朝廷を翻弄した僧である。
「遺骸は久能山に埋葬せよ、増上寺で葬儀を行え、位牌は三河の大樹寺で祀れ、一周忌を過ぎたら日光に社を建てよ」
 そして、こうつけ加えた。江戸の将軍は親に逆らわない者だ。わしが死んだら扱いに困るだろう、さて親というのは死んでも子の面倒を見るものだな。三人はそれぞれに遺言を理解した。
 本多正純は久能山の護りを第一に思った。海に望む丘の上に古くからある寺、そして信玄の築いた城の跡、さっそく秀忠将軍に申上して社を建てることを進言した。一周忌までに日光にも社を建てなければならない、その護りを誰がするのか。宇都宮の太守は自分しかいないことを心に秘した。
 天海は日光という言葉に強く引かれた。自分の意見を容れて江戸の鎮めに日光を選んでくれた、それがうれしかった。同時にこれからの江戸の鎮めを一切任されたように思った。次代をになう秀忠将軍を補佐し、江戸を新しい都にするために、まず古くから家康に仕えてきた人々を棚上げしていかなければならないだろう。
 崇伝は臨済僧であり南禅寺の住職、増上寺、大樹寺ともに浄土宗の寺であることに気をとめた。しかし菩提寺がそうであれば仕方ない。久能山と日光は神社になる。秀吉の豊国寺は豊臣滅亡のきっかけとなった、それは自分の才覚だ、そうした昔を思い出していた。家康に仕えて黒衣の宰相と呼ばれ数々の実績をあげてきたことが誇らしく、また今の地位を満足に思いながら葬儀の段取りを考えていた。

 元和二年4月17日、家康は死んだ、七五歳だった。死の前日にこんなことをしたという。幾多の戦場を経てきた自分の愛刀を抜き放ってしみじみと見て、今、その刀で罪人を切ってこいと命じた。血塗られたままの刀を二度三度と打ち振り、切っ先を西に向け自分の棺に納めよと命じた、近習は驚いた。覇者となって東国にある身は、死してなお西国に威を示すことを願ったのか。
 しかし残された者の闘いも始まった。
 本多正純と天海、崇伝が諸事を知り取りしきった。遺体は駿河の久能山、葬儀は江戸の増上寺、位牌は三河の大樹寺に祀る、生前に聞いたとおりの処置だ。諸大名は参府無用、その通告に連署したのは本多正純、酒井忠世、安藤重信、土井利勝の4人、中で正純は10才ほども年上だった、幕府の世代交代が進んでいる。
 臨終から2日たって崇伝と天海が激しく言い争った。
「明神よろしからず」
 神号を朝廷に求めるにあたり崇伝は常識通りに「明神」と言った。鹿島・香取の大明神は武威の神である。しかし天海は絶対に同意しない。これも家康後の主導権を握る関が原、天下分け目の戦いだった。
 とまどって崇伝は息を呑んだ。
「権現こそが相応しい、のうご一同」
 居並ぶ諸将がうなずいた。それも道理で、自分たちの主君を秀吉と同じ明神として祀るのは単純に嫌だったのだ。『権現』とは文字の意味でいえば『権(仮の)』姿で現れた神、共に苦しみ戦い抜いた主君は、やはり神だったと追憶するのは心地よい。
 折に触れて天海は説いている。明神とは民を救うために姿を見せた仏のこと、一向宗の「南無阿弥陀仏」も民を救うとか言って一揆を重ねた。キリシタンも同じようなことを言っている。三河譜代の武士にとってはおぞましい思い出がある。
 権現と申すは羽黒・白山・立山・秋葉と山伏が祀っておりますが、その姿は猛き武士そのものでござる。武将たちは家康を戦場の守護神になってほしかった。
「大事のこと故、江戸の将軍のご判断を」
 崇伝にはそれだけしか言えなかった。もちろん天海は秀忠には進言しており同意も取っている。天海は初戦の勝利が諸将を固めるという戦場の教えをしっかりと身につけていた。崇伝の力は少し衰えた
 
 その数日後、家康から拝領した丸に三両引きの三浦の紋を掲げてシーアドベンチャー号が清水の湊に入った。ずっと海上にあったアダムスは家康の死をまったく知らなかった。城に入っても挨拶するべき人はもはやいない。しかし風の確かな今しか航海ができない。哀悼の気持ちだけを積んで船は出帆した。いずれ長い航海の間に癒しが訪れよう、今は思い出に泣くばかりでよい。
 家康の死に弔意を示すためにイギリス商館員が江戸に旅してきた。一同はアダムスの屋敷に泊まりユキに歓待された。
 
 出航から2年経った夏に、バウチスタ号が浦賀に帰ってきた。船首には日焼けした矢助がすっくと立ち「総帆おろせ」と号令をかけた。しかし「八尋半」と叫ぶ少年の声はすっかり大人のものとなっている。そして帆桁を走る水手の何人かは色の黒い異国人に代わっていた。舵取り九兵衛が舵輪を回し船は碇を降ろした。けれど客の中には執念深くソテロの顔があった。船にはスペイン国王の贈呈品が積まれていた。
 忠勝は浦賀でバウチスタ号の整備に尽力していた。世の中の変化に敏感な伊達政宗が、疑惑を怖れて仙台に船を戻さなかったからだ。翌年の秋、船は再びアカプルコに向けて出帆した。ソテロが強く要求したのだ。こんどは横沢将監という仙台藩の重臣が乗船し、スペイン人10人を乗せてアカプルコへ向かった。目的は支倉使節を迎えに行くこと、しかし政宗は今回も秘密の書状を託した‐奥州王なる政宗はカトリック布教と貿易の促進を求めている、その保証として重臣を送る‐どこまでも謀略に生きて執拗な政宗だった。
 そして当代一流のガレオン、バウチスタ号はこれが見納めになった。船は1年半もアカプルコに係留されて使節の帰着を待ち、またマニラに到着してからも1年半の足止めをされた。ところがそこにオランダ軍が襲撃するという情報がもたらされ、マニラ総督はバウチスタ号を買いとって艦隊に加えた。サンファン・デ・バウチスタ号はどんな名前をつけられたのか、どんな戦闘や交易に航海を重ねたのか、その後の記録はない。
 さらに2年経った夏、支倉常長と乗組員たちが別のスペイン船で長崎に着き、1ヶ月後には仙台に帰った。7年後になっていた。
 この間に幕府と政宗の関係も大きく変わっていた。豊臣は滅び、松平忠輝は勘当され蟄居となった。政宗は家康に臣従し覇権の夢を失った。禁教令が出されてキリシタンは全国で厳しく取り締まられた。
 ローマで洗礼を受けた支倉は棄教を迫られ失意のうちに2年後に死んだ。メキシコで洗礼を受けた横沢は棄教した。ソテロはマニラから同行しようとしたが許しを得られなかった。そして2年後に中国の船で薩摩に潜入したが捕らえられて火あぶりにされた、ソテロも執拗だった。スペイン王フェリペ三世は艦隊を送らず、貿易の推進もせず死んだ。伊達政宗の夢はかなえられなかった。スペインの大艦隊がまるで十字軍の再来のように日本に来航してくることはなかった。政宗が日本を支配し、朝鮮と明国を手に収め、その後にヨーロッパ諸国の植民地を奪取する。紅毛と南蛮の争いに便乗して天下を取る。しかし、使節が帰って来た元和6年には徳川幕府は海外渡航を厳しく制限し禁教を徹底していた。政宗の野心は崩壊した。その年はアダムスの死んだ年でもある。

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