当時の日本は全世界の三分の一にあたる銀を掘り出していた。ヨーロッパ諸国は明で生産した生糸を日本に運び銀を手に入れる。家康は浦賀を寄航地にして貿易の便を図るとともに、最新の鉱山技術と造船技術を移入しようとした。商人たちも競って渡海朱印状を入手し東南アジアに渡航していった。
ヨーロッパ諸国の勢力争いはいよいよ激しくなり、イギリスのジェームス一世はセーリスを使節に送り通商を求めてきた。アダムスは家康の許しを得てオランダとイギリスの商館を平戸に建てた。
伊達政宗は野心を隠しながらアダムスと向井忠勝の助力のもとに巨船サン・ファン・デ・バウチスタ号を造船した。そして家臣の支倉常長を遣欧使節に任じ、ローマに向けて出航させた。
慶長16年、スペイン人宣教師ソテロの後を追いかけるようにヌエバ・エスパニアからビスカイノが来航した。要求したことはオランダ人の追放とバテレンの入国を自由にすることだった。
向井忠勝の父の正綱は浦賀を出航するすべての商船を取締ることを命じられた。正綱は浦賀に来るスペイン商人に日本商品を委託し、その売り上げで外国商品を購入しようとした。しかしスペイン商人たちは不正を企て巨額の利益を着服した。それに気づいたビスカイノは機敏に行動し、すぐにすべてを弁済した。自分たちの処遇の一切が正綱の掌中にあることを知っていたからだ。
九月になってビスカイノは家康と秀忠から返書を受け取って帰路についたが、秘密の計画を実行した。日本の北方にあると信じられていた金銀島を発見し領有することだ。しかし、船は暴風雨に吹き流され陸奥の国に漂着した。
その日、沖合いからビスカイノが見たのは、住民が逃げていく姿だった。これまでは異国船が来れば見物人が押し寄せ、漂流船と分かればすべての品物を奪おうとする。
「なぜ我々から逃げていくのだろう」
理由はすぐに分かった。津波が押し寄せたのだ。見る間に村は水没していく。津波は三回にわたって押し寄せ、陸のすべてを流し去っていった。沖合いにいたビスカイノの船も波と波がぶつかりあう三角波にさらわれて遥か沖へ流された。
ようやく一行は湊に着くことができた。ビスカイノは「主なる神の恩寵により」と感謝の祈りを捧げた。
どの村も壊滅し住民は悲嘆にくれていた。しかしビスカイノ一行が上陸すると温かいもてなしにあった。災難に直面してなお来訪者を厚遇しようとする人情と風習だ。しかし、それをビスカイノは嘲笑した。異教徒が苦しむのは天罰だ、それはキリスト者にとって喜ぶべきことである。災いを以って異教徒を懲らしめた神を讃えよう、水夫たちに向かってそんな演説をした。宣教師たちも満面の笑みで賛同し、この知らせを聞いたらソテロ様もうれしかろうと付け加えた。
残念ながら金銀島は発見できなかった。「主なる神の恩寵」は一行には下されなかった。
石巻に人が集められた。アダムスも忠勝も伊東の船大工たちも雪の消え残る仙台にやってきた。景丸の兄も同行している。すぐに船材となる巨木が集められ、砂鉄が採掘され、雑木は炭に焼かれた。ここは造船に恵まれた土地だった。しかし人々の話す言葉が理解できない。アダムスも忠勝も土地の言葉を通訳してくれる通詞が必要だった。
「どこか外国に来たみたいです」
「日本も広うござるの」
すでに船の名前は決まっていた、サン・ファン・デ・バウティスタ号、伊達政宗がソテロと会談した日の聖人の名だという。カトリックは主なる神を敬うが、願い事はたくさんの聖人たちにする。毎日の聖人がいて、それぞれの職業の聖人がいて、聖人の名のついた教会がある。まだ作業にも入らないうちからもらった長ったらしいこの名前は不評だった。
「それにしても大仰な名だ、アダムス殿は日蓮上人号とか弘法大師丸とかに乗りたいと思いますか」
「日本にも金比羅丸とか熊野丸があります、大御所様は笑って許されるでしょう」
しかし、二人は家康に厳命を受けていた。
伊達に造る船は一隻だけ、謀反の企てありという風説に心せよ。
「船大工が八百人、鍛冶が七百人、木こりと大工が三千人、これまでの十倍の人数だ」
「その代わり船は二倍の大きさ、期日は二ヶ月だけ、大変な仕事です」
全長55メートル、幅11メートル、500トンの巨船だった。スペイン王の目を驚かせ、同盟の有利を悟らせる、伊達政宗の戦略である。
しかし、すぐに困ったことが起きた。事を起こしたのは宣教師のソテロだ。アダムスにも会おうとしない。ビスカイノに聞いても返事がない。仕方なく忠勝が参上した。
仙台城の広間には重臣たちと使者の支倉常長、ビスカイノ、ソテロが並んでいた。二人だけが椅子に座り傲慢に顔を上げている。忠勝はアダムスの作った雛形を見せて造船の行程を説明しようとした。
一目見るなりソテロは雛形を投げ捨て地団駄ふんで叫んだ。
「こんな船には私は乗らない」
ビスカイノは冷ややかにつぶやいた。
「悪魔の船だ」
忠勝が怒りを抑えて静かに言った。
「拙者もご用を命じられて江戸からはるばる参った者、ご両所の求めに応じたいと思います。訳をお聞かせください」
しかし誇り高いビスカイノは見向きもせず、ソテロは叫んだ。
「神の怒りでサン・セバスチャン号は沈んだ。あの船は悪魔の形をしていたからだ」
通詞は当惑するばかりだ。
忠勝は支倉常長と重臣たちにだけ船の概要と造船の手順を説明して退出した。
話を聞いた亥兵衛老人は激怒した。
「わしは三隻の船を造った。立派な船ばかりだった。それのどこが悪いと言うんだ」
アダムスは理由を察知したが何も言わなかった。
翌日、支倉常長と通詞の者が訪ねてきた。
「ビスカイノ殿とソテロ殿はスペインの者であります」
忠勝もすぐに二人の憎悪を理解した。アダムスの造った船はイギリス船の形をしている。
「政宗公は何と仰せですか」
「良いところを取り入れよと…」
忠勝が答える前にアダムスが平伏した。
「ご主君にこう伝えられよ、威容はスペインが勝り、航行はイギリスが勝りますと」
支倉常長は高麗にまで攻め入った武士だが船のことは知らない、アダムスの言葉が腑に落ちないようだ。
「主君に申し上げればお分かりいただけるのだろうか」
「左様、アダムスはうかつでござったと申し添えてください」
忠勝はこの返事に敬服したが亥兵衛老人の気持ちは納まらない。
「なんでそんなチグハグなものを造らなければならぬ。スペイン船は度々見たが、あんなゴテゴテした御殿女中のような船は大嫌いだ。わしの船は質実剛健な武士でありたい、海を行くサムライだ」
アダムスも忠勝も同じ気持ちだった。
「忠勝殿、いかがでござろう」
「よろしうござる、伊達殿のお心だ」
しかし亥兵衛老人は捨てゼリフを残してさっさと伊東に帰ってしまった。
「わしは嫌だ、気に染まぬ船を造って沈みでもしたら気が悪い」
アダムスも忠勝も止める言葉は持たなかった。何よりも二人の方が先に帰りたかった。
しかし造船が始まってすぐにアダムスは江戸に呼び返された。5月4日にイギリス船クローブ号が平戸に来航した。乗船しているセーリスという使節はイギリスから2年もかけて日本にたどりついたという。
セーリスは、イギリス東インド会社総裁スマイス卿から交易を進めるよう指令されてきた。
しかし上陸するといらだつ毎日だった。派手に着飾り楽隊と礼砲で行進しても日本人はこけおどしとしか見ない。航海途上の島々では効果を発揮したイギリスの威容がまるで通じない、誇り高い大使セーリスは憤懣にたえなかった。誰も自分の価値を認めてくれない。その上、ジャワから連れてきたジョンという通詞は教養のない男で、正しい言葉遣いなどまったくできない。そんな者に通訳させれば自分まで同等の人間と評価されてしまう。しかし平戸ではアダムスというイギリス人が信頼されており幕府に仕えて重要な役割を任じられている、それを聞いたセーリスは国王親書を持つ大使の肩書きでアダムスにすぐに平戸に来るように命じた。
しかしアダムスが到着するとセーリスのいらだちは頂点に達した。日本の侍の姿をしたこの男が自分よりもずっと重要人物の扱いを受けている。その上、アダムスはクローブ号の積み荷を価値がないと指摘した。香料は日本料理には使わない、スズと綿布は日本の方が安価だ、ラシャは売れない。セーリスは不快だったがアダムスに従うより仕方ない、とにかく一行11人は江戸に向けて出発した。大阪までは船、それから後は騎馬と徒歩で行く、なんの支障もなかった、アダムスがいればどんな難題も解決した。セーリスは自分がつまらないお供のように思えて妬みと反発をいよいよ強めた。
駿府城でもセーリスは騒動を起こした。国王親書を皇帝に捧げるのは大使の役割だ、そう言い放ってセーリスはつかつかと家康に近づき親書を捧げようとした。取次ぎの本多正純は舌打ちして、礼を知らない無作法者、そうつぶやくと手を伸ばして親書を奪い取り家康に捧げた。セーリスは高慢で無作法な自惚れ屋だった。
江戸では秀忠将軍が謁見した。セーリスはすぐに引き出物の甲冑と刀を身につけたいと言って大騒ぎした。
「あの者は来航が遅れた、豊太閤の頃だったらああいう振る舞いは喜ばれただろうに」
本多正信が苦い顔をして言った。正純は父の顔をじっと見ながら次の言葉を待った。
「派手好みのエセ才子、自分を値打ち以上に高く売ろうとする下賎の者だ。アダムス殿のように律儀な武士ではない」
「ジェームス王の国書とは…」
「本物かどうか分からぬ、一国の王の親書としては品位がない、まことに実のない空文、万石に満たぬ領主のへつらい状だ」
「オランダ人のうわさでは王は鼻持ちならぬ愚物だそうです」
「そうであろう、あんな者を使者に選ぶくらいだから推して知るべし」
さすがに節度あるアダムスは国王のうわさはしなかった。
アダムスは逸見の屋敷に一行を誘った。セーリスは嫌がったが、浦賀から船に乗り駿府に至る行程を示されては仕方なかった。ユキと幼子はつまらぬことに巻き込まれないように駿府に滞在させた。それがまたセーリスをいらだたせた、現地人の妻を思いっきり侮辱してやろうと思っていたからだ。
駿府では家康が親書と通商許可証を用意していた。ジョンなどに翻訳できるものではない。アダムスはユキと二人で丁寧に英文に翻訳した。それでセーリスの役目はすんだ。平戸から帰国するだけだ。
しかし平戸はまったく情けない状態だった。クローヴ号は嵐に打たれて散々に破損している。高波が倉庫を押し流し、引き揚げた積み荷は何一つ売れなかった。イギリス人水夫は好き放題をし、商館長コックスは悩んでいるばかりだ、コックスは善良で単純な人柄だった。
ようやく船は修復しセーリスは帰りを急いだ。アダムスは悩んだ、イギリスには帰りたい、しかし、航海途中で自分の命は危なくなるかもしれない、セーリスとは同行できない。
「クローブ号が出航したそうだな」
正純が精一杯の同情をこめて話しかけた。
アダムスは黙って目を伏せた。自分に対する無礼は許せなくとも同胞が去ってしまったことは寂しい、なによりも故郷が遠ざかった気がする。
「あの船では身が危なかった」
アダムスはつぶやくように答えた。航海中の司令官の権威は神に近い。自分を始末するなど簡単なことだ。
「リーフデ号の仲間はあと何人残っているのか」
「24名のうち国へ戻った者が12名、死んだ者が8名」
「ヤン・ヨーステンは元気で船に乗っているそうですね」
「上様はなぜ私を旗本にしたのでしょうか」
正純はキッと厳しい顔になった。
「商人でいたらすぐに国に帰れたのにという泣き言ですか」
はっとアダムスは緊張した。しかし、きつい言葉の中に思いやりを感じ取った。
「オランダ人はたくさんいる、その中であの者だけを召し出したらたちまち下克上が起きるだろう。ヨーステンが弾劾などされればオランダと日本の間でやっかいな問題になるかもしれない」
「私は孤独なイギリス人です」
アダムスはグローブ号のイギリス人を許せなかった。故国では鼻つまみ、それが異国の地で野放図に暴れまわる。サイモンは酒、フランシスは暴力、エヴァンズは女、そしてセーリスもいかがわしい絵を得意になって人に見せびらかすような破廉恥な男だ。平戸だから大目に見られる、江戸や浦賀でそんなことをしたら、たちまち処罰されるだろう。愚かしい小児のような母国人たち、それに較べれば自分の身の回りの人たちははるかに高潔な大人だった。
「アダムス殿はこの地にいてこそ世の中に尽くす人、私はイギリスのことは知らぬが、我が日本では貴殿の功名が称えられよう」
正純は真摯な思いで助言してくれた。大御所様は自分のなすべきことを神仏の定めと心に刻んでいる。それ故、心を切り刻まれることがあっても神仏が自分を鍛えたのだと虚心に受け止めている。
「アダムス殿がこの地にいるのも神仏の定めならば、帰国も在国も自分では決められないことと思ってください」
先日は忠勝が、在国中は手を取り合って世の中のために尽くそう、帰国となれば心から喜ぼう、そう友愛のこもった言葉をかけてくれた。イギリスにはこんなに深く分かりあう友はない。たぶん異国を放浪した不実な宿無しが帰ってきたと言って、妻と子さえも冷たく迎えるかもしれない。
正純はアダムスの苦しみを家康に伝えた。
「なすべき事をなすべき時に命をかけて行う、お前はそう言った。今、わしはお前が必要だ。それはお前が国を懐かしむことよりはるかに大きな天下の求めだ。覚悟を決めよ」
アダムスにこう伝えよ、家康は正純に言葉を託した。
しかし家康はなおもアダムスを気づかった。今、どれほどの暗闇の中にいるのか家康にはよく分かった。自分もまた闇の中にいることの多い生涯だった、信長の命令で息子信康を自害させた時、武田信玄に敗れて死を目前にした時、秀吉との確執など思い出すことがたくさんあった。帰国を断念した見返りとして何かを与えたい、アダムスが喜んで専念できること、バタビア貿易を許す朱印状を与えることに思い至った。アダムスにしばし暇を与える、当分、海に出て思う通りの航海をしてまいれ、しかしそれを下付するのはまだ早い、時期を待とう。
後になってそれを知ったアダムスは、そして正純と忠勝も家康の温情に涙を流した。
しかし、アダムスの顔は暗い。伊東の浦で造った一隻はビベロが乗って行ってしまった。一隻はビスカイノが沈めてしまった。伊達政宗はあの巨船サンファン・デ・バウチスタ号をソテロに預けるという。アダムスが造った船は去ってしまい自分はここに残されている。
逸見の屋敷に戻るとユキが待っていた。座敷には二人の子どもが眠っている。その額にキスをした。ユキはアダムスの焦燥を感じ取って黙って茶を入れた。
「あなたがいてよかった。ユキさんは世界でただ一人の人、白く輝く富士山、ミカドに愛されたカグヤ姫のような人です」
「うれしいお言葉、でも故郷には奥様と子どもがいるのでしょう」
「知っていましたか」
アダムスは落雷にあったように驚いた。たった一つだけユキに隠していた秘密だった。
「ヤン・ヨーステンさんに聞きました。あの人は嫌みな人ですね」
アダムスもそう思っていた。ヨーステンはねたんでいる、オランダの国益をかけてイギリスに対抗しているのだという表向きで、実はアダムスの幸せを嫉妬し、壊したいとさえ思っているようだ。
「では申します。私はユキさんが大好きです、しかし故郷の妻のことも思い出します。私の心は引き裂かれています」
アダムスは真面目な顔で正面を見た。ユキは白い顔にほんのわずかに笑いを浮かべた。
「私もあなたが好きです。私はあなたの故郷の奥様にはお目にかかれないでしょう。二人がならんであなたの前に座ることはできません。今は私、もし故郷に帰ったら、その時は奥様、あなたの心は引き裂かれてはおりません。それは神様もお許しになります」
嵐にゆさぶられた船が突然、風のない島影に入ったような気持ちになってアダムスはユキの顔を見た。そして正座してユキの手を取った。
「嵐の夜も凪の昼も、飢えに苦しみ渇きに怖れる日にも、私の愛はあなただけ、あなたを守り慈しみ愛します」
ユキは頬を赤く染めてアダムスの手をしっかりと握った。突然、赤ん坊が泣き始めた。ユキは笑って立ち上がり、アダムスも後に続いた。
しかし、アダムスの煩悶(はんもん)は終わらなかった。
「ずいぶんうなされておりました」
目覚めると深夜だった。ユキが額の汗をぬぐってくれた。
「お話しくだされば重荷が下ります」
ゆきが真面目な顔で自分を見ている。
「悪夢の航海でした」
十六人の部下をアフリカの土に葬った。しかし、もっと多くの部下を海に葬らなければならないことが分かっていた。食料は乏しく一握りの堅パンで四日間も過ごした。何かを口に入れたくてマストに巻いた皮までかじった。すぐに壊血病が姿を現した。のどの渇きを訴え体中がはれて歯が抜ける、もう死は隣にきている。
突然、風が吹いた。今度は凍傷が水夫の命を奪った。濡れた腕や指はよく拭かないとたちまち皮膚が凍り血が凍った。腐敗する前に枯れ枝のように切り落とさなければならない。それでも命を守った者は少なかった。
波は怒ったようにいつも逆巻き、白く輝く巨大な氷の島が迫ってくる。目に見える危険だけではない、そびえる氷塊は深く長く手足を伸ばしており乗り上げたら船は砕ける。水深を測り風をつかみ海流に気を配り、眠っている間も心は休まらなかった。
食料が尽きた。目の前の島には大きな鳥の群れがいる。しかし海は深く碇で船を停めることができない。ようやく風が凪いだ時、上陸した水夫たちは狂ったように鳥を殺し生肉を食べ血をすすった。気がつくと自分もそうしていた。あまりの浅ましさに泣きたくなった。
しかし鳥を殺したむくいはすくに返ってきた。今度は水夫たちが捕らえられて食われてしまった。島陰から丸木舟が現れ、見上げるような巨人たちが無造作にヤリで水夫に突き刺し引き裂いて血をすすった。
「あの恐ろしさ、砲弾が水夫をバラバラにするのは何度も見てきたが、食うために人を引きちぎる姿は二度と見たくない」
「しかし、あなたは試練に耐えてこうして生きていらっしゃる」
アダムスはユキの白い手を握った。
船はついに嵐の岬をぬけて南アメリカの海岸を順風で走った。食料さえあれば快適な航海だったが、ここの住民も人食いだ。食料を手に入れるためにブーニンゲン船長は五隻のボートに数十人の水夫を載せて上陸した。しかし千人の原住民が襲撃してきて全滅した。残された乗組員たちは目的地を日本に変えて出帆した。ついに24人と船の残骸が漂着した。
「あなたを生かす天の意思があったのです」
ユキは神とかデウスとかキリシタンの言葉を使わないように気をつけていた。アダムスも同じだ。迷信深くてすぐに神にすがろうと祈るスペインの船乗りたちをイギリスやオランダ人の船乗りは軽蔑している。船を造り船を操るのは人間の技だ、神のかかわるところではない、水夫たちも士官たちも祈ることより自分のやるべきことを心得ていた。アダムスも物心ついてから造船を学び、操船をして世界の海を巡った。数学と科学を学び、冷静に合理的に物を考える力を育てた。人の弱さや不甲斐なさを目の当たりにしても自分だけはそれを克服しようとしてきた。それができずに死んでいった者がたくさんいた。
「ご入用なものがありますか」
灯がともったのに気づいてナギサがふすまを開けた。
「ありがとう、何時になりますか」
ユキが静かに聞いた。
「子の刻(深夜12時)を過ぎました」
「そう、もう八点鐘になりましたか。では水夫は交代して休みます、アイアイサー」
ユキが笑って寝所に去った。
「ナギサ殿はすまぬがもう少しデッキにいて私の話を聞いてください。」
ナギサは囲炉裏の火をかきたてて鉄瓶の湯を沸かしなおした。
「私の故郷はギリンガムといいます、景色はこの地とそっくりです。すぐ隣がチャタムという大きな港で浦賀の湊に似ています。潮が引くと入り江は干潟になりカニやゴカイの穴が一面にできます。ボートは難破したように泥の上に横たわっています」
ナギサが茶を入れた。
その地にアダムスの妻と二人の子が暮らしている。姉がデリベランス、弟がジョン、それとメアリという気の強い妻。自分は日本で騎士に任じられ領主となったという手紙を何通か送ったが届いたかどうか。イギリスに帰りたい、しかし日本にいつまでもいたい、両方の気持ちが引き潮上げ潮のように寄せてくる。
「これはユキさんには言えません、ナギサさん、分かってください。私は誠実でありたいと努めています」
「殿様はこの上なく立派な方です。兄も私もタキ婆さんも七助爺さんも同じ気持ちです。岩に隠れたサザエのように殻に閉じこもらないで、イルカのように泳ぎまわってください。そんな殿様の方が好きです」
アダムスは涙を流すところを見られないように寝所に入っていった。
「殿様はお仕事でお疲れのようです」
翌朝、ナギサは心配になってタキ婆さんに相談した、なにか気晴らしをさせてあげたい。聞いていた七助爺さんがすぐに提案した。船にばかり思いがあるとオオワタツミの海の神様はよしとしてオオヤマツミの山の神様が気分を悪くされるのだ。鎌倉の八幡様に参詣したらどうか、大御所様も信心される武士の神様だ、きっとご利益があるだろうよ。それがいい私も若い頃は折に触れて参詣したものだよ、良い男にめぐり合わせてくださいってね、タキ婆さんが浮かれて言う。願いがかなったということだろう、七助爺さんは気分良さそうだ。タキ婆さんも笑って答える。最初はひどく神様を恨んだものだが、この年になると割れ鍋に……なんとか言ったね、ちょうどいいってたとえにさ。七助爺さんはムッとする、俺は継ぎ蓋かい。七助爺さんとタキ婆さんも仲の良い夫婦なのだ。
左馬は御用で江戸の屋敷にいる。子ども2人を交えて都合8人で鎌倉巡りをすることになった。七助爺さんとタキ婆さんが案内する。二人は鎌倉に住んでいたこともある。
長谷の大仏に詣でた。巨大な釈迦のブロンズ像が緑濃い谷間に座っていた。堂は朽ち果てていたが像の頭の中は広くて全員が入ることができた。建造されて480年になるという、アダムスは世界七不思議のロードス島のヘリオス像を思い出した。完成して60年後に地震で倒れたが、その後600年間もたくさんの見物人が訪れた。しかしイスラムは征服するとすぐに運んで大砲の材料にしてしまった。
ナギサが英文のイタズラ書きを見つけた、セーリス一行らしい、またアダムスは許せない思いになった。
鶴岡八幡宮が思ったよりも小さな建物なので皆は驚いた。
「戦国の時代に建物は朽ちてしまい、里見と北条がここで戦ったため焼け落ちてしまった。ようやく北条氏綱が再建したのです。さあ源頼朝公に挨拶なされよ」
七助爺さんが真っ先に堂に入る。
陽のまぶしい外から堂に入る、何も見えない、しばらくしてようやく人の大きさより二回りも小さい座像が見えた。
「小田原が滅びたあと、豊太閤は大御所様に案内させて鎌倉に来た。そしてこの像に向って言ったそうだ。なあ頼朝殿、貴公もわしも天下人になってめでたい、だが貴公は源氏の御曹司で武家の棟梁、権大納言だ。わしは無一物の草履取りから出世して太閤になった。どうじゃな」
景丸はあ然とした。
「自分が偉いと自慢したのですか」
七助爺さんは北条の残党なので秀吉が大嫌いだ。
「そうよ、豊太閤という人は冗談を上手に利用する、それは大御所様を当てこすったのだ。大御所様は源氏、今は東国を支配している、位階は内大臣だ。わしに従えと脅したのさ」
「それで大御所様はどう答えられましたか」
「されど源氏は三代で滅びました。豊太閤のお世継ぎは千代に八千代に」
七助爺さんはニヤっと笑った。戦場の顔になった。
「豊臣が滅びれば頼朝公も喜ばれるだろう」
長谷から朝比奈を越えて六浦に出た。忠勝から命じられていた水手たちが小舟を仕立てて一行を待っていた
「それがしには分かりません」
向井忠勝はかみしめるような表情で書状を正純に見せた。
「伊達陸奥守様と申すは知略の深いお方ゆえ我らなどいくら考えても分らないのだ、けっして腑に落ちたなどと思わぬ方がよかろう」
正純は含みのある言い方をして書状を読んだ。忠勝の命でガレオンに目付け格で乗り組むことになった家臣からだった。
船は最後の仕上げにかかっている。櫓が立ち、塗りも進んで偉容を増している。帆柱も帆も綱も準備ができた。
「忠勝殿も船が進水するまで月の浦にいたかったことでありましょう。浦賀にご用と急いで引き揚げましたのは残念です」
「戻ってみれば大した用事もなく、けげんな思いでござる」
正純はとうに推察していた、伊達政宗は江戸の者を身近におきたくなかったのだ、船とともに去っていく者はどうでもよい、幕府に察知されては困ることが色々ある。
正純は家康と政宗の密かな戦いを語った。
きっかけは大久保長安だ。元猿楽師、武田の家臣となり、その滅亡後、家康に仕え、幕府一二の権力者大久保忠隣が重用して大久保という姓も与えた。算用の達者で内政に明るく鉱山の運営ができた。
秀吉没後、武田の甲斐金山、北条の伊豆金山、毛利の石見銀山、新たに掘られた佐渡金山、すべてが家康のものになった。長安はおびただしい金銀を掘り出し幕府を支えた。忠隣も長安もキリシタンと強いつながりがある。長安は忠隣の力でスペインの最新の鉱山技術を導入しようとした。新大陸でおびただしい金銀を掘り起こして持ち去ったスペインだ。しかし忠隣はためらった。そこに伊達政宗が現れた。奥州にも古来からたくさんの金銀山があり長安の技術が必要だ。政宗は娘の五郎八姫(いろはひめ)を家康の六男忠輝に嫁がせていたが、その保身が野心に変わった。政宗は天下を奪う道筋を立てた。長安の金銀でスペインの欲望をかきたてる、艦隊を派遣させてスペイン軍と伊達軍が合同して幕府を倒す。ところがその長安が4月25日病死した。屋敷には驚くほど大量の金銀が隠されていた。さらに豊臣に内通する連判状が出てきて中に忠輝の名前があった。家康は笑ってとりあわなかったが伊達政宗は危機を感じ鷹狩と言って仙台に帰ってしまった。
「政宗公はソテロに信服しておるのでしょうか」
「深謀遠慮、遠くを見すえて媚びを見せておるのでしょうな」
政宗の許しを得てソテロはしきりに仙台で布教をしたが目に余る狼藉ぶりだった。寺社を壊し教えに従わぬ者を悪鬼呼ばわりする。それを政宗はとがめぬどころか、先日は城門にキリシタンこそ真実の教え、宗門が盛んになることを願っている、という高札さえ掲げさせた。
「伊達殿の望みはマカオ総督、メキシコ副王ですか」
「もっと大きな志でしょう、スペインやローマの仲間入り」
「この度の大船建造は大御所様の許しの下で、ビスカイノとソテロの帰国、通商の取り決めの相談、そう聞いております」
そんなことは口実だ、政宗が費用を惜しまずガレオンを造り家来を海に乗り出させる目的を正純は推測している。しかし騙されたふりをしている家康の思いは分からない。
書状はなおも続いている。スペイン人が40人乗る。日本各地から集まったキリシタンが百数十人乗る。難破したサンフランシスコ号の乗り組み員も乗船する。
「まるで南蛮人とキリシタンの島流しだ」
「しかしそれは陸奥守のねらいではない、大御所様の配慮であろう、いずれキリシタン弾圧が激しくなる、その前に帰してやれば命だけは助かる」
江戸では浦賀を貿易港にして堺の繁栄を奪おうとしている。それが忠勝の任務だ。しかし陸奥にも貿易拠点は作れる、ルソンから黒潮に乗れば月の浦も江戸も変わりない距離だ。そして財をなす。
「陸奥守の書簡を読みたいものだ」
「秘中の秘、ソテロがスペイン語に直したものしかないそうです」
「アダムス殿ならお分かりになるだろうが」
書状を読み終えて正純はため息をついた。
「それほど大事な使節なら伊達家の重臣を派遣すればよかろうに、支倉などと名も知れぬ者を正使にするのはなぜであろうか」
「大御所様は分かっておると言って笑われた。忠勝殿には推察できますか」
「アダムス殿のもとへ伺ってみます。景丸殿の兄からも便りがきているかもしれません」
そんな会話があって忠勝は逸見を訪れた。
景丸のもとには兄からの知らせはなかった。相変わらず無頼な暮らしをしているのか、または仕事が忙しいのか、少なくともキリシタンでないことだけは確かだ。
「船が出るのは秋の終わりころになるそうだ。黒潮と風がちょうど良い」
「では帰国するのもその季節ですね」
「2年後になろうか」
景丸とナギサの心配は兄のことだ。兄の連れてきた女人は高麗人返しの真っ先に故郷に戻ることができた、アダムスが自分の船に乗せて平戸まで送り届けてくれた。それに不服な兄は何日か暴れたが、誰も相手にしないことが分かった後は気味悪いほど静かになった。
「こうしたらどうか」
忠勝が苦い顔を上げた。
「船ができれば人がいる。兄上は技も知恵もある水手だ。水手共の束ねとして乗り組んでもらおう」
「兄が承知してくれるでしょうか」
「俺に任せればよい、海の者は海を慕う心を持っているものだ」
忠勝も秋風の気配とともにいてもいられない気分になり正純に頼んで家康に言上してもらった。浦賀の用事は済みました、船出の様子を見たいと存じます。家康は正純を通して中秋の名月に曇りがあるかを見て参れと命じた。忠勝は矢のように仙台にもどった。
夏の間中、鍛えてきた水手たちが出迎えてくれた。忠勝は水軍と朱印船、アダムスの船の水手を集めガレオンで渡海する者を募ったのだ。行って帰るのに2年はかかるだろう、留守宅に給金は払うが命の保障はできない、それでも水手たちは喜んで応じた。まだ戦乱の名残りが色濃く、一攫千金をねらう者や危険をいとわず新しいことに挑む者、日々の平凡な暮らしに飽きて荒々しいことがしたい者などがたくさんいた。忠勝は用心深く妻子ある者と悪事をした者を除いた。水手たちは忠勝を将と敬った。
次いで忠勝は伊達政宗の許しを得て、難破したサンフランシスコ号の乗組員たちに日本の水手を鍛えてもらうことにした。多額の報酬を与えられたスペイン人水夫は喜んで40人の日本人水手たちに技を伝授した。
サンフランシスコ号の船長ベニト・デ・パラシオも忠勝に親しみをもった。忠勝は自分の水軍の船頭矢助を預けた。パラシオは海の男の親愛な気持ちで、かつ異国の若者を育てることに喜びを感じて矢助に航海術を教えた。水先案内のパスケスも海図を教えてくれることになった。忠勝の部下10人いずれも士分の水手頭たちが熱心に学んだ。忠勝も同席することが多かった。操舵手のマルケスはとまどいながらも塩飽(しあく)海賊衆の舵取り九兵衛の指導者となった。ガレオンは舵輪を回す、和船は長い舵柄を押し引きする、しかし九兵衛が操舵のコツを飲み込むのに長い時間はかからなかった。
ソテロとビスカイノはそれをまったく喜ばなかった。スペインの航路に日本人が参入するのを怖れていたからだ。しかし伊達政宗の意向には逆らえなかった。
ガレオンが形を整えていくにつれて水手たちの話を聞いた賄い方や医師が志願してきた。
出航日の9月15日、月の浦には見送りやら見物やらの人たちが続々と集まってきた。あふれるばかりの人が船を見上げている。ソテロは尊大に甲板を歩き回りながら人々に自分の姿を誇示した。しかし伊達政宗の顔が見えないことにひどく腹を立てていた。
同行するスペイン人たちもソテロに遠慮しながら甲板を歩き回っていた。ある者は手すりにもたれて長い航海の不安を感じていた。おりしも紅葉の季節を迎えている美しいこの国を離れて、荒涼とした母国スペインやメキシコに帰っていく、それが本当に望ましいことなのか今さらながら反問していた。ルソンやジャワも住みよい所ではない。その地に戻る予定の人々は改めて熱帯の暑苦しい夜と動物たち、風土の病、文明からかけ離れた住民たちのことを思い出した。清々しい風を顔に受けて乗客の心は揺れている。木の香が清々しい新造のガレオンはすぐに湊を離れる、戻るすべはない。無邪気にはしゃぐ者もいたが大方はむっつりと黙り込んでいた。
船長ベニト・デ・パラシオは艦橋に立って風と波を感じている。水先案内のロレンソがすぐ後ろでじっと前方を見ている。艦橋の最前列には日本人船頭の矢助が立っている。それも伊達政宗の意向だった。日本で造った船は日本人が操る、その姿を見せなければならない、これにはソテロも逆らえない。
水手たちはことごとく持ち場について号令を待っている。緊張した時が流れた。岸で見送る人々も次第に重苦しい気持ちに落ちていった。
その時、緊張に耐えられなくなったソテロが大声で叫んだ。
「レバンタ・エル・ハチャ 碇を上げろ」
重苦しさを振り払うようにスペイン人たちも口々に叫んだ。
「レバンタ・エル・ハチャ」
やがて40人の叫び声は唱和して一つになり岸の人々にも聞こえた。なかにはそれを出航の祈りだと思ってつぶやく者もいた。
しかしパラシオは表情も変えずに前方を凝視している。パスケスも身動きしない。その様子を見て矢助も心を静めた。
スペイン人たちもやがて叫ぶのをやめた。ソテロの声が最後まで聞こえていたが、それも周囲に押しつぶされるように途絶えた。ガレオンは恐ろしいような静寂の中にあった。
その時、パラシオが静かに手を上げた。パスケスが低い声で針路を告げた。パラシオに促されて矢助は落ち着いた声で号令を下した。
「碇あげ」
号令は舵取り、水手に次々に復唱され、ろくろが回され碇が引き揚げられて水面に姿を現した。水手たちは帆柱に駆け登った。
「表の柱、一番帆揚げ、二番帆揚げ」
白い巨大な帆が空をさえぎった。
「ミヨシの柱、一番帆、二番帆揚げ」
「トモの柱、三角帆揚げ」
ガレオンに走る力が蘇った。
「舵の者、ようそろ」
「ようそろ」
九兵衛が大声で答えた。
「八尋(やひろ)半」
みよしで水深を測っている少年の甲高い声が響いた。
その時、砲手が礼砲を撃った。伊達政宗に出帆を告げる17発の轟音(ごうおん)が響き渡り、岸の人々を驚かせた。白煙が船を包んだ。順風を受けたガレオンは煙を突き抜けて滑るように入り江を出て行った。船尾楼には伊達家の九曜紋が金で彩色されている。船は美しい紅葉の岬を離れて青海原を突き進んでいく。やがて船は小さくなり九曜紋も識別できなくなった。人々は帆影が握りこぶしの大きさになりやがて小さな点になるまで見送った。
最後まで見送った忠勝はあとで正純にこんな報告をした。
「パラシオオ殿は傑物でござる、感銘いたしました。ソテロが脅してもスペイン人どもが騒いでもびくともしない。船を操るのは我らなり、客衆の口出しは受けぬと無言で押さえつけました。あの采配ならば矢助も安心、船も安心、無事にアカプルコに着くことでしょうな」
「さすがのソテロも威に伏したか」
「あの顔を見なくてすむのはせいせいいたします」
「伊達殿は見送ったか」
「姿は見せませんでした」
「どこかで大願成就を祈っていたのでござろうよ。あの船はどこまで航海していくのやら大御所様にも分からない」
「アカプルコではございませんか」
「伊達殿のねらいはローマであろうな」
「その夜の月の浦の月は晴れておりました。しかし次の日は曇り、翌日は冷たい雨が降りました。いずれ雪となりましょう」
「大御所様はどう思われることか」
「なにとぞよしなに」
翌日に忠勝はアダムスのもとを訪れた。 セーリスの置いていった葡萄酒が残っている。忠勝はうれしそうにグラスに注いで飲んだ。肉は食べるがチーズはダメだ、もっとも熱帯の航海で運ばれた樽詰チーズがおいしいわけがない。
「アダムス殿の敬愛するエリザベス女王はどんな遺言を残したかな。国と結婚すると申されたそうだな」
それは知らない。セーリスに聞いたのは女王の棺が夜中に松明の火の下で艀に運ばれて宮殿に移され、4頭立ての馬車でウエストミンスター寺院に運ばれたという。セーリスは葬儀に供奉したことを誇りにしていた。
「子のない女王が誰に国を譲ったのか」
「スコットランド王ジェームスに、それでジェームスはイングランドとスコットランドの王になりました」
「その評判は」
アダムスはセーリスが言った通りに答えた。「浪費、従兄弟を寵愛、優柔不断、宗教弾圧、王権神授、商人と結託、王妃は驕慢」
忠勝は笑って言った。
「バージン女王の後は難しいものだな」
アダムスは家康に呼び出された。天海と崇伝も呼ばれているので海外通商とキリシタンのことが話されるようだ。二人は僧侶ながら家康の助言者でライバルだった。家康が座につくまでのしばらく間、正純と忠勝は雑談している。アダムスと天海と崇伝がそれを聞いている。ユキは柱の脇に控えている。
「豊太閤はフィリピン総督に手紙を書いた。その方どもはキリシタンを説き下賎の者を引き寄せ、やがて征服を果たそうとしている。もし、わしがそれを行えば貴殿は決して許さないだろう。まるで子どものケンカを諭すような手紙です」
たぶん豊太閤という人は、絶対の権力者になっても子ども心をなくさなかった、いくら苦労を重ねても初心を忘れない覇気のあふれる人だったのだろう。それに較べれば大御所様は苦労を肥料にして早くから老成し、子ども心を持たずに成熟した磐石の人になった、そう正純は思った。
「小田原攻めの時、豊太閤は我が君を誘って山の上から城を見下ろして並んで小便をしたそうだ。徳川を三河から関東に移す命令、それを断られては困るので子ども同士のような約束にした。さすがの大御所様もあきれて何も言い返せなかったそうだ」
「なるほど知恵の回る人です」
アダムスがそう返事をしたので正純はちょっと驚いた。
「小牧長久手の戦いでは陣の前にただ一騎で駆けてきて、これでもくらえと尻を見せて立ち退いたそうだ。まったくサルと呼ばれたガキそのままでござる」
今日の会の趣旨を知っているので正純はこんな話を続けている。
静かな衣ずれの音がして一堂が平伏すると家康が座に座った。
「昔そんなこともあった。アダムス、かの国の王が聞けば、さぞ笑うであろうな」
家康から声がかかった。
「なるほど外交とはそうありたいものです。敵を笑わせることができれば和平も容易になります」
アダムスが静かに答えると家康は笑った。
「三河武士にはむずかしいことだ」
「軍事、政治、外交はそれぞれのエキスパートがしなければなりません」
「エキスパートとは何か」
正純がすぐに聞いた。主君に代わって機敏に質問するのが側近の役目だ。
「そのことに精通した熟練の者です。泰平の世になれば戦士はほんのわずかだけで十分です」
ユキの助けを受けながらアダムスはようやく返事をまとめた。
「それで武士はどうする」
正純がまた一同の質問を代行した。
「役人になって国の仕事をいたします」
「諸大名は」
「それぞれが領地を守り、泰平の礎とします、将軍は大名を監督し賞罰を課します」
「公卿は」
「ミカドに従い古来の伝統を守ります」
「農工商は」
「家業に励みます。イギリスではこうしております」
「スペインは」
「イギリスに負けてから落ち目になりました」
「ポルトガルは」
「無理をして世界へ航海させたため人口は減り、台湾もゴア、マラッカも衰え、マカオの地まであやうくなっております」
アダムスが話し過ぎていると感じて正純が話を引き取った。
「では栄えているのは、我が国とイギリスとオランダでござるか。ではキリシタンを防ぐにはどうしたらよいか」
これには困った。新教国といえども教会は権力を持っておりアジアの国々に植民地を広げようとしている。
「船乗りは嵐になってから神に祈ります、けれどふだんは忘れております」
すぐに天海がとびついた。
「泰平の世になればキリシタンは力を失うということか。所詮は死後に極楽へ行くことを願う教えゆえにな」
「キリシタンの極楽と阿弥陀の浄土は同じものでござるか」
忠勝が驚いて聞いた。天海はすまして言う。
「他力で浄土を願う者はどんな極楽に回されても嫌とはいえませんぞ」
忠勝は自分の魂が乗合舟に押し合いへし合いしている姿を想像して苦笑いした。
「イギリスとオランダは面倒を起こさぬか」
家康がさりげなく言った。しかし正義感の強いアダムスにはさりげなく答えることはできなくて黙考した。
正純がそれを見て口をはさんだ。
「信長公も秀吉殿も鋭い眼力で人を目利きしました。ザビエル殿は古来まれなる有徳のバテレン、我らも驚嘆してこの人なら諸人が帰依するだろうと思った。しかし後々のバテレンは並の人ゆえキリシタンは衰えました。異国の船が我が国に求めるものがあれば来航させよう、決して拒むものではない。しかし乗せている客には心してほしいものです」
そして正純は崇伝をうながした。
「筆を染められてはいかがでしょうか」
崇伝もそれを待ち構えている。
「先に豊太閤が禁教令を出したが、あの頃はキリシタン大名も多く、朝鮮のこともあって行き届きませんなんだ。この度はすっかり世が治まりましたのでそろそろかと存じます」
しかし家康は重い口調で言った。
「わしは信心の恐ろしさをよく知っている」
慶長元年、秀吉は二十六人のキリシタンを磔にした。信者たちはそこがキリストの処刑されたゴルゴダの丘に似ていると喜んだそうだ。それ以後もキリシタンは次々に処刑されたが死ぬことを喜びとして晴れやかに死んでいく者が多かった。それは一向一揆の時とまったく同じだ。
天海は家康の心情をくみとった。
「人が何を信じようがそれは構いません。しかしバテレンにそそのかされ騙されて己だけが正しいと言いつのる愚か者がおります。追い払うがいいでしょう」
家康の裁きは、国法をおかさない限りキリシタンは財産没収の上、追放だった。しかし、キリシタンは殉教を求めて執拗に殺されようとする。武士だけでなく町人や女子どもまで死を願う。この世を神の国にしようとするという信念があるからだ。
「あの十字架がいやです」
忠勝も歴戦の武士だ。武士にとって十字架つまり磔柱は忌まわしいものだ。武士は戦い敗れれば切腹する、それをさせない磔柱は恥辱そのものだ。磔柱を掲げるキリシタンの神の国は不可解だ。
天海は遠慮なく正純に話をふった。
「正純殿ならキリシタンをどうしますか」
「なんとか根絶やしにする方策はないものでしょうか」
「たとえ最愛の者でもそうなさるのか」
「神の他に愛する者はないなどと思っているようでは、それがしの手に余ります」
「アダムス殿はどう思われるか」
「私たちも人間です、人が互いに愛しあわなければスペイン人にもイギリス人にも子孫が増えません、夫を愛し子を愛し自分を愛しながらも、神様を愛します。バテレンは聖職者ですから結婚しない、神の他を愛してはいけないのです。日本のキリシタンはそこを間違えました」
天海も大きくうなずいた。
「わしもそう思う。坊主は五戒を守り檀家の破戒を清める、俗人はそれでこそ救われる」
正純が話の糸口を探している。
「石田三成めもお預かりしております時には悟ったようなことを言っておりました。三成もまるでキリシタンのような男でした、理屈をこねて潔癖で、口を開けば大義だ天命だと。そういえば明智光秀もそうでした」
「そうであったな利口な男だった、しかし、わしと天下を争った男を、そちまでが三成めなどと言うのか、正純よ、そちも身を誤まるなよ」
正純は固く固く平伏して叱責を受け止めていた。口調は軽く冗談のように聞こえたが、家康の厳しい目はもっと深くまで迫ってきたからだ。正純を危惧し本気で戒めてくれている、それが伝わってきた。
アダムスはかわいそうになって、黙りこんでいる忠勝に声をかけた。
「キリシタンは武士ばかりですか」
「百姓もおる、商人もおる」
「皆、同じ気持ちですか」
忠勝が言いよどむと家康が言葉をかけた。
「武士は意地で信仰する、デウスを主君として仕える。ゆえに主君の命ずることは命より重い。まこと武士の道だ」
珍しく家康が話し続けた。
「百姓商人は武士のようになりたいと願っておる。自分をいつわることを恥と思う。短いこの世の命より死後の長い幸せを念じておる」
しかし、スペイン人たちは、自分たちが貿易する場所は天主堂のある所に限ると定めている。家康は江戸にも浦賀にも天主堂を建てることを許した。しかし僧院が建て増しされ修道院が作られ布教の中心になると、またたくうちに信者が増えていった。
キリシタン禁教をどう説明するのか、日本人だけでなく諸国の人々にどんな言葉で告げるのか、知恵を絞っている。信仰と交易を切り離したい諸国の商人たち、信仰のために交易するスペイン国王と宣教師たち、信仰も交易も拒否する幕府の武士、家康は信長や秀吉のような即断即決の独裁者の心情は持たないから、自分の一存で物を決めない。多くの知恵を集めて道を探していくので時間がかかる。一同に会している人たちはそのことを十分に承知していた。
午後の日差しが地面に濃い影を落としている。左馬が水をかぶったような汗を流しながら飛び込んできた。
「景丸殿、見つけましたぞ」
ナギサがてぬぐいを絞って渡した。
「いや水を浴びましょう、船に乗ると真水がうれしい」
そんなことを言いながらもう裸になって井戸水を浴びに走った。アダムスの供をして駿河から帰ったばかりだという。
座敷に落ち着くとすぐに話し始めた。
「忠勝殿の父の正綱殿が以前、あなたに会った時、なつかしそうな、けげんそうな顔をしたという話を聞いた。老人は、あの若者は前に会ったような気がするがそんなはずはない、たぶん良く似た人なのか、そんなふうに話したそうだ」
昔の仲間に会って話しているときにそれを思い出したという。
「いや、とんでもない、そんな目で見ないでくれ、仲間は盗賊ではないよ、すっかり足を洗って商人になっている」
ざっくばらんに話した、すると探してみようと言ってくれた。
「さすがに仲間は素早い、3日たつと居場所まで分かった。京屋の景三殿という」
「確かに父は景三という名です」
用宗で海産問屋兼宿屋を開いて、甲斐に塩や干魚や貝を運んで繁盛したが、武田が滅びてから駿河に店を移したらしい。
「すると武田の手の者だったのですか」
「宿屋には歩き巫女や善光寺の坊主が泊まり、いかにも忍びの連絡をしそうな場所だったそうだ」
「それが駿河に移ったのは」
「武田滅亡の後、徳川に仕えたのだろう」
「ならば正純様に聞けば分かりますね」
「たぶん調べてくれるだろう」
「会うのはそれからにします。正純様に迷惑をかけてはいけません」
ナギサもこっくりとうなずいた。
さっそくその事をユキに話した。
「アダムス様に事情を話して同行させてもらいなさい、早い方がいい。左馬殿、駿河に船がでるのはいつですか」
「大御所様の書簡がもう将軍に届けられています。お返事をいただくとすぐに船が出ます」
その店は駿府城からはだいぶ離れた安倍川近くにあった。川を渡ればすぐに忠勝の父正綱の城がある持舟(用宗)だ。
日除けを下ろした店にはワカメやヒジキ、タイやアジ、サバの干し魚、干し貝が並んでいる。立ち止まって店の中をのぞくと景丸と同年輩の少年が出てきて愛想笑いをした。
「何をお求めですか」
景丸が口ごもるうちにナギサが言った。
「あの干し鯛を二枚」
少年はニコニコしながら手早くワラでくくって差し出した。
「今日はご主人様は」
ナギサが知り合いのように問いかけると少年は顔を曇らせた。
「以前からの胸の病が重くなって梅が島の温泉に療治に行っております」
数日たってから正純の手紙が届いた。
京屋景三は相模の生まれ、武田の諜者、武田滅亡後、大久保長安とともに徳川に仕え、甲斐、伊豆の鉱山に海産物を届けている。長安の信頼が厚かった、それが父上であろう。病が重いというので、すぐに会われた方が良かろう」
梅が島の宿で父は大事にされていた。久しい以前からの客だというとすぐに部屋に案内された。
「父上」
病んではいたが気迫のある老人が夜具から起き上がって二人の顔をじっと見た。
「おお景丸とナギサか、立派になったな、大御所様から名乗りまでいただいたと聞いたぞ。わしだって年取ったとはいえまだ遠くまで聞こえる耳を持っている、諸国の出来事はよく知っている」
父はうれしそうに言った。そして問われるまでもなく身の上話を始めた。
「わしは風間小太郎の手のうちの忍び、スッパと間違えられての、寄せ手の大将の土屋様に手厳しく尋問されたが、それを見ていた長安様はまだ大蔵と名乗っておられたが、笑って百姓じゃと助けてくれた。それから妙に長安様と気が合って、謡の問答などするようになった」
能の「箙(えびら)」は梶原源太景季の故事を仕立てた作だ。長安様は能楽師、練習している様子を見て、わしは、梅の立てようが低いようです、矢を並べたエビラに見立てた梅だから背に広く開いた方がいいと申しあげた。
すると長安様が驚いて言ったよ。
―さて、そこもとは
―源太景季ゆかりの者でござる
―ご姓名は
―梶原の親、鎌倉権五郎景正の末孫、長江の景三
そこで大笑いになって酒をくみかわした。長安様が計らって徳川御用の商人に仕立ててくれた。実は長安様の諜者であることに変わりはない。
「しかし、今回のことは長安様がぬかったな」
伊達とのつながりをつけ、陸奥の海産物を駿河でさばく仕事をした。そこに諜報が届く。
長安は松平忠輝の家老、伊達政宗に陰謀をささやいた。忠輝を将軍にして政宗が権力を握る。キリシタンを味方につけスペインの兵を頼んで江戸幕府を倒す。
「さすがに徳川家康様は傑物だ。すぐに手を打ったよ」
有馬晴信を改易し処刑した。晴信はその昔、大友宗麟と組んでローマに使節を派遣した、天正少年使節だ。領内の寺社を破壊しキリシタンの信頼を得た。伊達政宗も同じ事をしようとしている。晴信の罪を弾劾し、それで政宗に自粛させようとした。
「晴信から賄賂を取り事件を起こした本多正純の家来岡本大八だ。本多を処罰すれば大久保忠隣が権力を握り長安と政宗の思う壺だ」
病気を気遣って景丸とナギサがどう勧めても父はながえの郷に帰ろうとしない。
「ふるさとを思い出すのはよいものだ、それはまぼろしだから余計にいい。お前たちも父もまぼろしではないから思い出すことはない、けげんな顔をするな、忘れないということだよ」
そして自分が死んでもながえの郷人に知らせることは無用、墓など作るな、京屋景三は一代だけの男だとつけくわえた。
「お前たちは父の望みを大きく越している、誇らしいぞ」
二人は数日を父とともに過ごして帰った。
バウチスタ号が出帆した翌年1月、家康は大八をカブキ者として罰し、無頼のカブキ者たちを厳しく取り締まった。大八はキリシタンでもあっだったのでその処刑は火あぶりになる、それを見せしめにして禁教を強く進めた。忠隣も長安もキリシタンに近かった。長安は病死したが大久保忠隣は改易、松平忠輝は逼塞(ひっそく)を命じられた。長安の残した巻き物などは気にもとめない風だったが、この処置は伊達政宗を驚愕させた。家康は敏速で非情だった。
次の章へ゜