郷は何事もない静かな暮らしが続いた。右近の家でも祖母と母の念仏を唱える時間が少し長くなっただけだ。毎日、同じように田んぼと畑とヤギとニワトリの世話をする。右近は何か大切なものが失われていくような気がしていてもたってもいられなかった。草庵の裏山に登れば富士山が見える。しかし遠くから見ているだけの自分に富士山は何の関わりも示してくれない。東海道を歩いていった時には、自分をにらみつけ、いとおしみ、抱きかかえてくれる富士だった。吉原について全身を現したときには神々しさに思わず礼拝してしまった。富士は優しくうなずいてくれたように思った。
また旅に出たい、今度は京まで、お師匠様は何度も往還した。遠くみちのくの果てまで行った。僧形の旅人がどこまでも続く一本道を歩いていく、日が照り、小雨が吹きつけ、朝になり夕になり、遠山に雲が浮かび、海浜では怒涛が響く。その姿が自分だった。
クワを投げ捨てて飛び出していく自分を思った。しかし家からは離れられない。じりじりと焦るような気分になり、大声で叫びたくなる。右近はその気持ちを静めるために五七五を求め、七七を考えた。
祖母と母が不思議そうに右近の顔を見ることもあった。そんな時、自分がながえの郷と離れていくような気がした。
宗長は帰ってこない。
新井城が落ち三浦道寸が滅びるとすぐに新しい領主が乗り込んできた。葉山は宮川左近将監、山口は富塚善四郎が所領した。長江村は大平寺の所領となって年貢を納めることになった。
「お寺様なら酷い取立てはなさらないだろうよ、まずよかった」
そんな話に世間を知っている長老は顔をしかめた。
「とんでもない、寺侍というのはあこぎなものだ。お侍には殿様というものがおって無理難題を訴えることができるが、お寺様にはそれがない、困ったものだ」
しかし村人たちは時代が変わったことに喜んでいた。
「大平寺は足利様のご息女を迎えている鎌倉第一の尼寺だそうだ。さっそくご挨拶にうかがうべぇ」
「豆の出来もいいし栗もよく実がついた、お土産にしてお目どおりを願うべぇ」
八丈島から下田に戻った朝比奈円明は補給が終わるとすぐに軍船を25隻そろえて江ノ島に襲来した。とてもかなわぬと見た三崎十人衆は手元の小早船を里見海賊の許に隠した。
たちまち湊は制圧され、早雲は役所を三崎と菊名、野島の三箇所に置き支配体制を調えた。三崎は下田と連携して伊豆と相模の海の目配りをし、野島は金沢の湊から安房と上総を見張る。菊名は金田の湊で産物の中継ぎをしながら船の出入りをおさえる、ついに早雲は海も支配した。駿河の梶原が三崎から菊名にかけて所領を持ち、氏綱家臣の山中彦十郎に指図をあおぐ。けれど賢明にも早雲は各湊の水手頭は変えなかった。三崎の永嶋、菊名の松原、野島の伊東の一族が任じられた。
しかし里見のもとから戻ってきた小早船はすべて早雲の所有となり、下田の水手たちが船頭になった。それが不満の者は海を捨て陸に上がり百姓となった。まだ三崎の水手たちは新井城の攻防戦に負けた自分たちを不甲斐なく思っていた。
逆に若者たちは意気があがった。世代が交代して自分たちの出番が来たことを喜んだ。老人たちが亡き人を供養して涙をふいている間に若者は新しい水手頭のもとに集まった。
浦賀の鴨居の多々良浜の鋳物師たちも喜んだ。伊豆の鉱山から金や銅が入りやすくなり、また上方の進んだ技法を取り入れて腕を上げることができるからだ。
新井城が落ちてからちょうど3年目、永正16年の8月15日に早雲は没した。三崎で舟遊びをして帰ってから発病したという。宗長は越前一乗谷の朝倉館から京を旅していたので葬儀には間に合わなかった。まず韮山で焼香をし4日ほど後に小田原に着いた。城は普請されて木の香も清々しかった。
広間に通された宗長はそこで氏綱に挨拶した。身近に小姓を一人控えさせているだけで誰もいない。そのさびしげな様子に宗長ははっとした。
「こんな時に宗長殿とお話しできるのはうれしいことだ。長く滞在してほしい」
「3日ほどごやっかいになりましたらお暇いたします。駿河の殿にも許しを得て旅に出ようと思っております」
氏綱はがっかりしたようだ。
「いずこへ参られるのか、それにしても今川氏親殿はよくそれを許された」
父の早雲に似て洞察の深い氏綱だが少し驚いた。今までずっと氏親に仕えて甲斐の武田信虎が画策する駿河侵攻をおさえてきたのは宗長だ、その宗長がいなくなればすぐに武田は進出し、また小田原は援軍を出さなければならない。今川は氏綱にとってまだ主筋だったのだ。
「太原雪斎(たいげんせっさい)殿と申す方が建仁寺から戻られたので私のお役目も終わりました。坊主が何人も城にいるのは縁起が悪い」
「確かに宗長殿は僧形でござったが連歌の師匠だ。得がたい人である。ところで雪斎殿と申すはどなたでござるか」
「庵原(いはら)氏のお子です」
「ならば母という人は駿河海賊衆の興津氏の娘ですな、存じております。聡明なお子がいて禅僧になっているという話だ。それで宗長殿はどちらへ行かれるのか」
「伊勢から山城へ、大徳寺で一休和尚と宗祇様の年忌の準備しようと思います」
「それは残念な、ゆるりと連歌の手ほどきしてもらいたかった」
「なんの、氏綱様は小田原の主、関八州を切りしたがえる時でございましょうに」
「身には過ぎたことだ。親父殿のように生死を分けた同志もおりません」
早雲を支えた七人の同志も半ばは幽冥を隔てている。諸国の大名に名前を知られ京にも知人が多い宗長は大事な人物だ。それを遠くに行かしてしまうのは何としても惜しい、それを許す今川氏親の気が知れない。しかし宗長は淡々と言った。
「雪斎殿は芳菊殿をお手元に置いて教えられるそうです。こんな気丈夫なことはありません、今川は安泰でしょう」
芳菊は後に還俗して家督争いに勝ち抜き今川義元と名乗った。その後に雪斎は三河の人質松平竹千代を育てた、徳川家康である。
実は宗長はもう一人の逸材を見出していた。
三井寺で勝蔵坊という連歌に熱心な若い僧と清談をした。その勧めで塔頭の一つ上光院に兵部卿という僧を訪ねた。早雲の三男で箱根別当の稚児をしていたが、三年前に三井寺で得度して兵部卿と呼ばれた。後に還俗して北条長綱と名乗り、再び出家して幻庵というとなった。四代の領主に仕え、幻庵あって北条は磐石と言われた人物だ。
しかし父早雲を失った氏綱は相談したいことが山積していたが時間がない。小姓が酒と肴を運んでくると手ずから酒を注ぎながら氏綱は核心を問うた。
「天下の計を聞かせてください」
「世間では偉大な父に不肖の子と申しますが氏綱殿は英邁(えいまい)な生まれ、早く父君の名から離れるとよいかと存じます」
「それはつまり…」
「姓も変わる、城も変わる、世人は早雲殿を忘れます、氏綱殿こそが初代になる、それがまた孝行になりましょう」
「今川、上杉、武田、里見は」
「守勢から攻勢、利を見て守勢、油断があれば攻勢、なんの遠慮もありません」
「私の周りは敵ばかりだ」
「ならば私が普請のお祝いと旅の置土産に強い味方を差し上げましょう」
そう言って宗長は矢立を出すと懐紙に二文字を書いて小姓に渡した。
「これは」
「これを名乗れば馳せ参じる諸将は百倍になります」
そこには『北条』と書かれていた。
「関八州は頼朝公恩顧の地。足利、新田に従い北条を討った武者の末たちもこの乱世に疲れております。殿は相模の国を取られて三浦氏を滅ぼした。武田も上杉も元は源氏の御家人、ならば殿が北条を名乗って皆を従えるのは理でございましょう」
管領だ公方だと名だけで実のない足利の世を踏みにじって、自らの手で幕府を立て世の中を旧に復すための名乗りであったが、宗長はそこまでは言わなかった。
「親父殿は伊勢を名乗った。僭上(せんじょう)の沙汰と世の笑いを招かぬか」
「所領を勝ち取る武者が氏姓を奪ったとて世間はなんとも思いません。豪傑にはふさわしい名前があります。魚でさえ大きくなるにつれて名前が替わります」
「宗長殿になら釣り上げられてもよい」
「ついでに北条の三つ鱗の紋も頂戴するとよい、江ノ島神社にちなむ文武の紋です、水軍衆も喜びましょう」
「鎌倉に移れとも申されるか」
「小田原は湊もあり守りよいところです」
「かつての北条は義の字を代々の名乗りに入れたが私は子孫に氏を名乗らせたい。今川殿にあやかって、これはどうかな」
「駿河は守りにくい土地です…」
口をにごしたのは今川に対する何かの思いがあるのだろうと氏綱は察した。
「名付け親殿に今後の後見は頼めまいか」
「私は連歌師でござる、連歌の会をお開きくださればいつでも参上いたします」
未練を残して氏綱は杯をおさめた。
「雪斎あるかぎり箱根から西は安泰です。関東の地は広く諸将を束ねる者はおりません。水は弱きところから穴をうがちすぐに土手を崩します。関八州の兵は将の将を求めております」
「書状を送ったら返事をいただけるか」
「旅の先々に寺があります」
長江の郷に宗長が戻った。右近は天にも昇るほど喜んだ、帰りを待ちかねていたのだ。宗長は福厳寺に詣で、前年に亡くなった惣兵衛の墓に回向をした。それから数日滞在して何事か話して右近に決意をうながした。そして京に上るといって去っていった。
1ヶ月ほどたって福厳寺に宗長の手紙が届いた。庵主は右近を呼んで遠まわしに話をすすめたが右近の思いはもう固まっていた。その場で父と兄に来てもらい事情を話した。
「駿河の朝比奈泰能殿が俺を身近におき兄弟分になってほしいと言ってきました。武士になり今川のお館に仕えてほしいと言うのです。宗長様の添え書きもいただきました。駿河はお師匠様の柴屋軒もほど近く、教えを受けることができます。父上兄上には今はご恩返しができませんが、世に出たら必ず孝行いたしますので、今、駿河に行かせていただきとう存じます」
二人は驚いたが右近の言葉に打たれた。宗長殿が見守ってくれるなら何の不安もない。武士になり手柄を立て立派な身分になってくれるのはうれしいことだ。
「お前はそういう世渡りをするヤツだよ。小さい時から賢くてすばしっこかった。俺はうれしいな、遠くへ離れてしまうのが寂しいが俺のことは思い出してくれるよな」
まず兄が祝ってくれた。
「母さんも喜んでくれるだろう。偉い侍になればそれでよし、嫌になったら帰ってくることだ、この郷はずっと変わりないよ」
父はそわそわしている、どう言ったものか考えあぐんでいるようだ。庵主が助け舟を出してくれた。
「この右近殿はたしか惣兵衛殿の貰い子でありましたね、そんな話を聞いております」
右近は驚いた、以前から郷の人にささやかれて半信半疑ながら、そんなこともあろうかと思っていた。それはそれでよいと決心していた。しかし、なぜ庵主が知っているのか、宗長も知っていたのか。
「実はその話は惣兵衛様から聞いておりました。宗長殿にも話されたようで、それでこのようにはからいましたのでしょう。縁を切るということではない、縁を深めると思ってください」
庵主がおだやか言ったがまだ父はそわそわしている。
「きっと母も女房も泣くでしょう、どう言ったものやら」
「全部、お話しなされ」
庵主が強く言った。
「辛い話をするときは言葉が少ないほうがよい、心で語りかければよいのです」
庵主は宗長が郷に戻らないことを察し、右近に草庵を片付けるように言った。
もちろん草庵はきちんと整理されていたが囲炉裏の炉縁にソという刻みがあるのを見つけた。床板が動くようなのでそっと上げてみると油紙の包みがあった。ていねいにほどいてみると武士の直垂に小刀が添えられていた。それに砂金の袋が一つ。
右近は日を置かずに旅立って行った。
八丈島からも戦乱が去った。道寸と早雲の争いも島人にとっては年貢を納める相手の違いだけだった。早雲は賢明にもその年貢を安くしたくさんの米や布を島人に与えた。島は平穏になった。しかし、その早雲が死ぬと、後を追うように朝比奈円明も死んだ。
平和になった島だが時折は事件もあった。
八郎次郎は式部と改名し車ヶ坂の人塚を崩し砦にした。続いて岩崎ヶ原の人塚も田にしようとしたが事変が起きた。山が噴火し御神火を上げたのだ。島人はタタリだといって怯えた。式部は息子の予次郎を島に呼び寄せ後を継がせて死んだが予次郎も短命だった。式部の弟の八郎三郎が後を継いで代官となった。
中村亦次郎という代官役が朝沼七郎左衛門 という船頭とともに来島した。その時、初めて馬が八丈島に上陸した。その後しばらくして八郎三郎も死んだ。
大徳寺の法要をすますと宗長は駿河に戻り吐月峰と名づけた柴屋軒に住んで風雅を楽しんだ。ようやく自分の下に帰ってきた夫を老妻は大切に迎えた。子たちはそれぞれ家を出て老妻と二人の暮らしだった。吐月峰は東海道の難所の一つ宇津ノ谷峠の上り口だった。東海道を旅する風流人は必ず庵に寄り歓談し、時には歌を詠んだ。
五月雨は岩の雫(しずく)をはいいづる
かたつぶりをぞ訪う人にする
梅雨の長雨に旅人は途絶え、外にも出ることもできなくて、長い日、かたつむりがゆっくり動くのを見ているだけだ。わが家の客人かたつむり殿 そんな歌を記すような穏やかな日だった。
もちろん右近は頻繁に柴屋軒を訪れた、右近は朝比奈の姓をもらい義兄弟となった泰能とともに戦場に出た。泰能は軍の駆け引きに勝れていた。右近を脇に置いていくつもの合戦に勝利した。
やがて掛川城を任されて駿河の西の護りを固めた。
三河の松平清康が若く死ぬと今川義元は後ろ盾になり息子の松平竹千代を駿河に引き取った。三河の衆は人質に取られたと不満を持った。そこに尾張の織田信秀が攻め入った。すぐに朝比奈泰能は掛川勢を率いて迎え撃った。三河の小豆坂で合戦が行われ、伏兵を配した泰能は織田勢に奇襲をかけて散々に打ち破り勝利した。
しかし疑心の強い義元は部将の勝利にあまり喜ばなかった。義元の自負は京に出て公方となり天下を治めること、それを自力でやりとげることだった。
朝比奈泰以も折にふれて物品を宗長に贈った。ある日、歓談の折にこんな話をした。
長田四郎親重という武士が重い病いで勤めを離れ、貧困の余り刀も手放し、ついに妻子と離別した。長田は五日間断食した後に観音堂に詣で、家に戻って囲炉裏の自在鍵で首を吊った。人は恥さらしだと嘲笑した。
話を聞いた宗長は深く哀れんで六句の追悼歌を贈った。
名残なく露の命のかけどころ
別るるはては南無阿弥陀仏
むべもこそ思い入りけめともかくも
かなはぬはての南無阿弥陀仏
朝顔の露の命の秋を経て
風をも待たず南無阿弥陀仏
三つ瀬川渡る水(み)棹(さお)にかけゆかん
身馴れ衣も南無阿弥陀仏
たらちねの心やまたも立ち返り
哀れかくべき南無阿弥陀仏
ふればかく憂きことをしも見つ聞きつ
命長さの南無阿弥陀仏
朝比奈泰以は深く感じ入って帰った。
駿河に正親町三条実望とその子が滞在した。貧窮した都の公家たちは居心地の良い駿河を訪ねて滞在することが多かった。今川氏親は百首連歌の会を開き、朝比奈泰以と宗長を招いた。
それからしばらくして宗長は没した、八十五才だった。
永禄3年、今川義元は上洛の兵を従え尾張に向かった。朝比奈泰能は先鋒として鷲津城の織田信平を囲んだ。そこに予想外のことが起きた。桶狭間の窪地で織田信長の奇襲にあって、あっけなく義元は首を失った。今川の兵たちは駿河に逃げ帰り、松平竹千代改め元康は岡崎城主に戻り今川のくびきから解放された。そして徳川家康と改名した。
義元の死後、駿河は武田と徳川と北条に分断された。
武田信虎は婿となった今川義元を訪れた後に息子の信玄に裏切られ、そのまま追放処分となってしまった。信玄の兵は富士川、大井川を下って御前崎に至り駿河を分断した。駿河の水軍はそのまま武田の水軍となり、北条水軍と戦い、武田が滅びた後は徳川家康の水軍になった。
武田を滅ぼした織田信長は有頂天の中で論功行賞を行った。朝比奈右近と名乗る老将も功をねぎらわれた。
「そちが武田方にいたらばこの勝利はなかった、柵木一万本、よく舟で届けてくれた」
「拙者もご命令に驚きましたが、ああいう策であったとは思いもよらず」
信長は大笑した。
「そう、その策よその柵よ、武田に数えさせたくなかったでの。褒美(ほうび)をつかわそう、望みを申せ」
「永禄の昔、主君今川氏真は信玄に追われて我が掛川城でお守りました。しかし自分の身に代えて我ら臣下の命をお守りくださいました。憎い武田を滅ぼすお味方ができまして喜んでおります。末永く忠節を誓います」
老将はひざまずいて深くあいさつした。そしてほどよい間で信長の顔に笑いかけた。
「ただ一つだけ願いは、三浦の名をお許しください」
「ほう三浦か、鎌倉の時代の名族だったな、その方が名をつぐのか」
「いえ、後日、葦名盛隆(あしなもりたか)という者が参上いたします」
「名にふさわしい者か」
「功なければ名を取り上げるべく」
「あい分かった、時節を見て目通りいたそう。その願いのわけだけは申せ」
「我が父と祖父が永正の昔の合戦で三浦道寸殿を助けることができなかったのを死ぬまで苦にしておりました。せめてもの追善供養」
信長は真面目な顔になった。
「この乱暴者の俺も父は大切だった。誇らしい子孫を持ったと思っておろうぞ」
次に功を賞される者がじりじりと待っている、老将はすばやく退いた。
それからしばらくして長江の郷に数人の武士が馬を連ねてやってきて、そのまま福厳寺に入った。武士たちはきらびやかな装束を着けていたが、主人とみえる老人は郷の人と変わらない質素な出で立ちだ、年はもう60歳になろうか。
ひとしきり読経がすむと墓に案内された。知らせを受けた何人かの郷人が集まっていた。
「福厳寺のご住職と手紙のやりとりはござった。郷の人には兄の野辺送りをしていただき喜んでおりまする」
一同に頭を下げた。右近がたいした殿様になったと聞いていた郷の人たちはあわててお辞儀を返した。
「この年寄りかい、わしらと変わらんのう」
「あの立派なお侍だとばかり思っただがな」
郷人たちはいぶかった。
「本当にあなたがお殿様なのか、あのお侍がご家来なのか」
「聞いてみてはどうかな」
数人の侍は一斉に平伏した。郷人はびっくり仰天して同じように平伏した。
それを見て右近は微笑んだ。
「ふるさとに錦を飾るのは無用な見栄でござる、郷の者として帰りたかったのだ」
郷の長老があわてて挨拶した。
「では、やはりあなたが朝比奈様でありましたか。よくぞお帰りで。兄御は子を成さずに死にましたので、家にはご親戚の甥御が住んでおります。いつでもお引渡しさせます」
朝比奈右近は福厳寺の客間で茶をもてなされた。同席した甥は緊張して身動きもできない。福厳寺は鎌倉尼五山第一の太平寺の隠居寺になっている。それがゆえに今は大事件に巻き込まれていた。
「それは大変でございましたな」
右近がなぐさめると小さく座っている住職の昌文尼がうなずいた。
「もう4年も前になります。青岳尼様もさぞ驚かれたことでしょう」
里見義弘が水軍を率いて鎌倉を襲い火をかけた。そして、あらぬことか太平寺住職の青岳尼を奪取して安房へ逃げた。
「うわさ話は面白おかしい、連れて逃げてくれと尼が願ったのだといいますが」
父の小弓公方足利義明が敗死して、姉娘は太平寺に入り青岳尼、妹娘は東慶寺で旭山尼となった。義弘とは小弓御所で顔見知りの仲だ。
「そんな戯(たわむ)れを、青岳尼様は信心深いお方です。無法な海賊に奪われて、さぞご傷心でございましょう」
還俗(げんぞく)を強いられて妻になったという。
「それで由緒正しい寺が一つなくなりました」
小田原の当主は氏綱の子の北条氏康だった早雲、氏綱に優るとも劣らぬ武略の武将だ。
里見が小弓公方の娘を妻とすれば、名分を得て関東の覇者になれる。氏康は激怒して太平寺を廃絶し、本尊を妹の旭山尼が住持する東慶寺に移した。それでも納まらず太平寺本堂を円覚寺に移し太平寺は跡形もなく壊されてしまった。
「福厳寺も困窮しております」
「お手助けできましょうか」
「円覚寺様にお助けいただければよいのですが」
「三浦道寸殿も北条早雲殿もそして我が師匠の宗長も円覚寺にとっては大事な方でした。話は聞いてくれましょう」
宗長は円覚寺の塔頭、天源院が知行を失ったことを知り、領主となっていた上杉朝良に返還を求めた。朝良は連歌三百韻を詠むことを求め、その礼として知行を返還していた。
道寸は同じく塔頭の寿徳庵を再興し太刀一振を寄進し、今に寺宝として残っている。
早雲も円覚寺には恩顧の武将だ。
「なにとぞよしなに」
右近は、ユイという娘がおりましたな、と心の中でつぶやいた。それは口には出なかった。郷の誰かと結ばれ、子をなし、幸せに老いていく女人の姿が見えた。たぶん自分のことは覚えていてくれるだろう。だからといって会って言葉を交わすことに幸せはない。昔、化粧坂の婆と宗長は親しくうれしく時を過ごしたが自分にはそんな喜びはないだろうと思った。
「気づかぬうちに時が移りました。甥御殿、供養を末代願いますぞ」
一行は帰っていった。かなりの砂金が寺と甥に残された。
後に旧太平寺領のうち長江の40貫文が福厳寺分として納められるようになった。
何人かの郷人は別れに臨んで右近が口ずさんだ歌を耳に残した。
あまり言葉のかけたさに
あれ見さいのう空ゆく雲のはやさよ
それは右近が好んで歌う一節だった。男と女の別れなのか、親が子に呼びかけたのか、弟子と師匠のある朝の会話か、または死者を悼む生者の手向けなのか、静かに節をつけて歌った。
右近のもとには書き物が残った。宗長が宿賃の役に立つと笑って言っていた最後の冊子だ。閑吟集と表書きがある。あの武田に包囲された今川を宗長が助け出したすぐ後の日付はあるが、いくつもの添削が記されていて、最後まで宗長が大切に書き改めていたことが分かる。右近はそれを柴屋軒で書き写し定本として残した。その写本の一冊を身につけて旅をしていた。
右近が再び郷に帰ることはなかった。
ずっと時代は下がって徳川吉宗が将軍になる少し前、長江の郷人の荒井高保という者が道寸直筆の庭訓折本を寄進した。たぶん太平寺が破却された時に福厳寺にもたらされた物だろう。あるいは宗長が置き土産にした物なのかもしれない。円覚寺は所縁の寺だ。
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