第5章 落城

 7月、ついに新井城は落ちた。明日が最後という晩に道寸は別れの宴を開いた。安房に渡り再起を図ってほしいという声もあったが道寸はぴしゃりと断った。義意が名残りの舞を舞った。
   君が代は千代に八千代によしやただ
         うつつのうちの夢のたはふれ
 繰り返し歌いながら舞った。夜明けとともに城門を開き、道寸をはじめ城兵はすべて討ち死にした。ほんの何人かだけ城に残っていた女は海に身を投げた。あらかたの将兵が倒れた時、たったひとりで荒次郎義意が現れた。分厚い鎧に身を包み、背丈の倍もある棒を持っている。そして、たじろぐ雑兵を片っ端からなぎはらった。白樫(しらかし)の棒は八角に削って筋金を入れ、鉄の鋲(びょう)を打ってある、撃たれた者は体が砕け吹き飛ばされた。その姿は地獄の鬼のようだった。
 あの世への露払いをせよとばかり散々に敵を倒して、大笑した義意は自らの首を切り落とした。
 
 まだ焼け跡がくすぶっている城を遠くに見て、三崎の地で戦勝の酒宴が始まった。早雲のまわりには疲労の色こそ濃かったが晴れやかな顔をした武将たちが居並んだ。大盃がいくつも廻され、ようやくこわばりが解けて座はくつろいだ。眼光鋭く一座を見ていた早雲が戦場往来のよく通る声で一同に語りかけた。
「三浦は古来の名族といえど道寸入道は扇谷上杉の子である。かの一族は権謀を事とし世に戦乱をもたらし民のわずらいは計り知れない。永享の時、祖父時高は鎌倉留守警固に任じられながら幕府方に寝返り持氏公を破滅させた。これがもとで享徳の乱が起こり鎌倉府は滅びた。それから月日を経て、太田道灌が謀殺され長享の乱が起きると、実家の扇谷を裏切って道寸は山内の側についた。わしが京都の将軍家の命を受け暴虐きわまる足利茶々丸を討とうとした時にも道寸は兵を出して庇護(ひご)しようとした。これはすべておのれの欲と権謀からである。しかし、ついに天の許さぬところとなり滅びの日を迎えた。ここは道寸の祖父時高の最後の地でもあり、今は三浦武士の滅亡の地となった。以後、関東の民は末永く平穏に暮らすことができよう」
 諸将は勝どきを挙げた。
「それにしても道寸めは戦さも歌も下手でござる。こんな辞世があるものか」
 早雲の側近くに座っていた無骨な大道寺が一同に披露した。
    討つ者も討たるる者もかわらけよ
          くだけてのちはもとのつちくれ
「拙(つた)ない歌だ。まったく花鳥風月の道の手ほどきなど受けていないようだ。道寸の師匠、今は亡き東常縁(とうのつねより)殿が聞いたら、さぞかし嘆かれることだろう」
「逆上されたようだな。いずれは死んでしまう我が身をなげやりな思いで見ているようでござる。我らに追い詰められ、よほど悔しかったのでござろう」
「それに比べれば大田道灌殿はさすがに歌詠みの名が高いだけあって辞世も良い。
    かかる時さこそ命の惜しからめ
         かねてなき身と思い知らずば
忠を貫く武士の真情があふれておるな」
 武将たちは敗者を口々にののしった。早雲は黙っていたが、ひとしきり座がにぎわってから笑いが途絶えた時に宗長に語りかけた。宗長は正月を有馬で過ごし京都にいたのだが、新井城陥落間近と聞いて、急いで早雲の陣にやって来たのだ。
「宗長殿はどう思われるか」
 武将たちが全員、宗長を見た。戦場の気迫が突き刺さった。
「これは歌ではござらん」
「ほう辞世ではないと言われるのか」
 さっき嘲笑した武士がすごみをきかせて言った。敵対する者は殺すのが戦場の習いだ。しかし早雲の片頬がゆるんだ、よく分かっておるという気配だ。
「これはお経でござる」
 爆笑が起こった。さっきの武士などは涙を流して笑いこけ、良くぞ言ったと宗長の手を握った。
「はっは、まことにこれはわけの分からんお経でござる」
「いや私はそう申してはおらん」
「なんと」
 再び緊張が走る。早雲は笑いだした。宗長はいつもどおりの穏やかな口調で話した。
「道寸殿は歌詠みの喝采をあびようとしてこの辞世を詠んだのではない、公卿や坊主の歌とは違います。これは敵味方の死んでいった兵どもに教え諭したのでござる、みな土くれに戻れとな。勝つも負けるも時の運、ただ一つのかわらけが割れるほどのことにすぎない。末代までの恨みなど持ってこの世に気を残すな、討つも討たれるも武士の習いだ。くだけたかわらけなら再び土にもどることができようと死者たちに引導を渡したのだ」
 座が静まった。早雲が話した。
「小机はまず手習いの初めにて
  いろはにほへとちりぢりにせん
 わしはこの歌が好きだ。戦さとはこう有りたい、死ぬは一定、生きるも一定、ただただ後生など願わずに戦う、憎さもない恨めしさもない、敵も味方もない、ただ戦うだけだ。それが乱世の武士だ」
 死地から出て死地に入るのが武士の凄さだ。
 酒宴が果てて武将たちは静かな気持ちで死者を弔うことができた。これは武士ばかりでない、土を耕す人も海で漁をする人も怨霊におびえたり亡魂に悩まされたりすることはない、そのはずだった。
 しかしうわさ好きな者たちは恐ろしい話を伝えた。夜中に雄叫びが聞こえる、刃の音や馬が疾走する音は聞こえる。入り江には青い火が浮かび、武者たちが水の上を歩いてくる。そんな話がささやかれた。城の焼け跡は放って置かれ、今は木々が茂り入り江に覆いかぶさって昼でも暗い。袋のように口が狭い入り江には波が入り込まず風が吹いてもさざなみ一つたたない。落城の時に流れこんだ血で今も赤黒くよどんでいる。

 数日たって早雲は軍勢とともに小田原に引き返し、同行した宗長は西の谷の草庵に戻ってきた。
 草庵はきれいに片付けられており、知らせを聞いた右近が走ってきた。
「またしばらくお世話になります」
 旅の話も聞きたいし新井城のことも聞きたい。
「お師匠様、俺はこんな話を聞きました、本当でしょうか」
 城跡に近寄ると呪われる。かの入り江の魚は死者をついばんでいるので漁師は獲らない。 さらされたままの義意の首は、目がさかさまに裂け、歯をくいしばり、針金のような髭をプルプルふるわせている。
「城が落ちたのは文月十一日、すぐに嵐が来て入り江はすっかり清められた。まるで戦さなどなかったように透き通った水を湛えておる。しかし人々の記憶は消せないということだろうの」
 おそるおそる遠くから落城の様を見ていた人々の耳からは、武者たちの叫びと刃物を打ち合う響きが離れていかない。燃え上がる火と勝ち誇る武者たちの目の異様な輝きが忘れられない。死者を弔ったのも村人だった。日頃、声を掛け合った親しい武者たちは首こそ失われていても誰だか分かった。身ぐるみ奪われ裸にされた武者たちの体には深い傷が残っていてそれが痛ましかった。
「村人たちはなによりも夜を恐れているということです。夕暮れが近づくと固く戸を閉ざし灯を消して家族は一部屋で震えています。遠く知る辺の家に宿を借りて逃げ出す人も多いそうです。旦那寺の坊さんに供養を頼んだけれど、村人とともに読経することは引き受けても、通夜をして死者の冥福を祈ることは態よく断られたといいます」
 伝聞はまたたくうちに広まっていく。
「この時勢にはどこにでもある話だ。城が滅ぼされ町が焼き尽くされ、たくさんの人が殺されるのが日常の世の中だ。死者の無念の魂はどこにもあふれておる」
「しかし、首のない武者が燃え盛る海から現れて城に登り旗を立て、矢が飛び交いヤリが閃いたそうです」
「まことしやかに話すのは、人をこわがらせて自分の不安をまぎらわせているだけだ」
 それは城を攻め落とした側の武者たちも同じ思いだ。
「豪胆な武者が、それならば拙者が検分しようと願いでたのを早雲様は許さなかったということです。捨ておけ、亡霊が出るならわしの所に見参せよと言ったと聞いています」
「だいぶ早雲殿に都合のいい話にできている。残敵もおり夜盗も徘徊している、家来の身の上が案じられるし、そんなことをして殺されでもしたらいっそう話をあおることになる。それを嫌われたのだろう」
「三崎十人衆が供養を願い出ると、早雲様は我らが滅ぼしたのだ、お門違いだと叱ったそうですね」
「鎌倉の由緒正しい寺社でさえ戦乱で荒れ放題で住持さえいないありさまだ。ろくな供養も受けられまい。それよりも道寸殿の辞世の歌を口ずさむがいい、その方が効き目があろうよ。人は必ず死を迎える。誰だって土くれにすぎない。武士も百姓も死んで同じ土に戻る、優しい心でそう念じることが一番の供養になろうよ」
 右近の心に熱いものが湧いてきた。宗長は続けて言った。
「武士は戦さを忘れ、百姓は仕事を楽しむ、人が優しい心で静かに暮らす、そんな世の中がきっとくる」
 右近は感動してすぐに問いかけた。
「それはいつでしょうか」
「それは分からぬ、わしの命もそれを見届けるまで持たないだろう。子や児や孫か、もっとあとか」
「まるで極楽が現れるようですね」
「左様じゃな、末世が終り弥勒(みろく)菩薩の世の中になる、寺の言葉で言えばそうなる」
「すでに死んでしまった者はそれで報われるのでしょうか」
「だから恨みを残すな、生きている者を脅かすなと言っておるのさ。幽明、所を違えればあいかかわることはない」
 俺にはよく分からなかったが師匠の心境がすみきっていることだけは感じ取れた。
 
 しかし浜では物騒なことが続いている。とうとう三浦水軍が海賊となったらしい。
 ある午後、真部(まなべ)吉之介という早雲の家臣が宗長の草庵を訪ねてきた。
「昨晩も早川の津で風待ちをしていた荷船が海賊に襲われ、積荷の兵糧と金銀が奪われました」
 これから三崎に行くという。
「その前の深夜には、こともあろうに野島の湊で早雲殿の小早船が乗り込まれて武器と酒樽を奪われております。また六浦から片瀬へ玉縄城の米を運んでいた荷船がどこかの浦に引き込まれたらしく、まだ見つからない。江ノ島を警固していた小舟が鎌倉の稲村ガ崎に打ち捨てられており、水手も武器も見当たらない、早雲殿は苦い顔をしておられる。どうしたらよいか私には見当がつきません」
 どうやらその武士は宗長のところに相談に来たらしい。
 道寸は滅びても三崎十人衆の水軍は相模の海で跳梁している。陸の戦さと海の戦さは違うのだということを思い知らせてやりたい一心だ。房州の里見海賊も小弓御所を後ろ盾にして攻め寄せる機会をうかがっている。あるいは執拗に攻撃しているのは里見海賊の小手調べなのかもしれない。
 玉縄城は北からの備えはできているが金沢湊と片瀬川を遡ってくる兵に攻められると孤立してしまう。
「連歌師などと申すは諸国を自由自在に往来し、上は天子様から下は乞食まで、何人も友とするものでござる。それ歌は天地をうごかし、目に見えぬ鬼神をもあはれとおもはせ、猛き武士の心をもなぐさむるものと言うではござらぬか」
 聞いていて右近はかわいそうになった。切羽詰って相談に来た者を手のひらの上でころがすように訳の分からないことをいっ混乱させる、お師匠様の悪いくせがでた、自分も以前そんな目にあったのだ。
「私は早雲様から宗長殿を頼りにせよと申されたのでここに来た。出来ないのなら断るがいいでしょう、訳のわからんことを言ってくださるな」
 そしられたように感じた真部は叫んだ。
「私が橋渡しをしてみましょうか」
 宗長があっさり言った。
「宗長殿には知る辺がおられるのか」
 拍子抜けした真部は本当のことを言った。実は三崎湊を手中に収めるよう早雲に命じられてきた。しかし水軍を束ねた経験がない。第一、自分は武士ではなく伊豆の黄瀬川沿いにある問丸(といまる)の息子だ。
「武を用いずに事を収めたい、宗長殿、策があるなら聞かせてもらいたいのです」
 宗長は穏やかに言った。
「いまさらわしなどに策を聞かずとも早雲殿にはよく分かっておられる、それだから真部殿をこの役につけたのです。理を説いて利で誘えば水軍は動くもの、そう早雲殿は申されていた」
 宗長は落城の宴会で早雲とこんな話を交わしていた。
「三浦は天命で滅びた。わしは三浦水軍と我が伊豆水軍を合わせて、いずれ里見も誘い、駿河から常陸までの海を任せることにしたい。西の熊野、瀬戸内の水軍と勢いを競って、関東のをすべて支配する水軍としよう」
「早雲殿のふところは広い、遠江、駿河から陸奥までを見据えておられるか」
「連歌師殿の望みは歌枕を訪ねて陸奥まで行くことではないのかな」
「すべてが早雲殿の領地になれば我らは安心して旅ができます」
「さて水軍だが、理と利が調えば話ができよう。誰を遣わそうか」
「武士は戦勝に高ぶっております。武を用いることのない方がよろしかろうと。ただ、お言葉の裏づけとして一筆いただければ百万の軍より心強くござる」
 真部は一層驚いて聞いている。右近も武将の深謀遠慮に感嘆し、連歌師の大胆を改めて知った。 
「そういうわけで真部殿はこの地に参ったのです。私も尽力しますからお覚悟なさい。ただ早雲殿はそう申されるが私は理と利では不足だと思う、人は最後に情で動きます」
 宗長は右近に頼んで惣兵衛を招き一部始終を話した。惣兵衛も憂慮していたのだ。早雲の水軍は力をつけた、負けは見えている、戦いたくない。
 
 三崎十人衆はまず置いて、相模側の各湊の頭たちを先に説得することになった。回状が出され15日の深夜に福厳寺で会合を開くことが伝えられた。月明かりの中を小舟に乗った十人の水手頭が長江川を遡(さかのぼ)って集まってくる。
 顔ぶれはいつも変わらない、八丈島までも漕ぎ渡った大胆な海の男たちだ。中には小田原の水軍を手玉に取って得意そうな表情をしている者もいる。すぐに酒が振舞われ、たくましい男たちは車座に座った。武士のようなかた苦しい作法はない、木の椀でもどんぶりでも何にでも酒を自分で注いで飲む。
 惣兵衛が場を仕切った。
「面々おそろいだの。この宗長殿がわしらに話があるそうだ。小田原の使者の真部殿を伴っておる。我らに困り果てて和睦を言ってきた。次第は宗長殿から聞かれよ」
 宗長を見知っている者が何人かうなずいて挨拶した。
「わしの見知らぬ舟人殿もござる、連歌師の宗長と申す。縁あって長江の惣兵衛殿と親しくさせてもらっておる。また連歌の付き合いで亡き道寸殿とも早雲殿とも昵懇(じっこん)です」
「名乗りをいただいたので皆々も名乗るとよい」
 森戸の新左、秋谷の与兵、佐島の富、長井の兵太、和田の甚三、三戸の亀五、立岩の大八、久留和の次郎、長浜の高、小坪の矢七。
「相模の海のこちら側にいる者だけ集まった。三崎十人衆と菊名や久比里、浦賀、鴨居、走水の衆にはまだ事が漏れないようにしたい」
 そう惣兵衛がまとめた。すこし酒の回った森戸の新左と長井の兵太という頭立った荒くれ男が口々に言った。
「宗長殿、長い話は嫌いだ。坊主の説教はせんでくれ」
「聞けば連歌師というものは五七五七七で苦労すると聞く。今夜も短かく頼むぞ」
 宗長はニコニコ笑って本尊阿弥陀仏の前に立った。
「さよう、わしは連歌師だが小歌、田楽歌も得意じゃ。せっかくの酒宴を野暮な話で始めたくない。まずはお肴(さかな)つかまつろう」
「いちだんと座興だ。歌を所望しよう」
 長江の惣兵衛がすかさずに受けてくれた。宗長は扇を取って拍子をつけながら歌った。
  乀 人の心と堅田の網とは、夜こそ引きよけれ、
           夜こそよけれ、昼は人目のしげければ
「なるほどもっとも」
 和田の甚三と名乗った六尺豊かな大男が感にたえたように言った。
「和田の、何に感心しているんじゃ」
 隣に座った三戸の亀五というやせた男が大声で言ったので皆が笑った。
「わしの三崎の女を知っていようが、なかなかわしになびいてこんでな、女人の心も地引の網も夜は引きやすい、暗くなったら気を惹(ひ)いてくれと。この歌をきかせてやったら心もうちとけ帯もゆるもうがな、宗長殿とやらは中々隅におけない坊主だ、もう一つやってくれ」
  乀 人買い舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を
            ただ静かに漕げよ 船頭殿
「それはわしだって人買い商人を乗せたこともある、あれは因果なことだった、涙も枯れ果てて死なせてくれと頼まれもした、泣き叫ぶ女よりも静かに座っている女の方が情が移った、わしに後生を願った、船頭風情にのう」
 今度は三戸の亀五がつぶやいた。くすんと鼻をすする音がした。
「俺にも歌わせろ」
 声自慢らしい久留和の次郎が立ち上がる。
   鎌倉の御所のお庭で 十三になる子がお酌に立つ                
   酒よりも肴よりも 十三になる子が目につかば 
   連れてござれよ おなごは出雲のご縁じゃもの
「今度は俺だ」
 三戸の亀五は三崎十人衆の支配を受けている。しかし時勢を見る目がありこちらに加わっている。
「舟歌だ 初春の鎧くどき」
   初春の靭 緋縅の着背長は 小桜縅となりにける              
   靭また夏は卯の花の 垣根の水に洗い革……」
 やめだやめだ、誰かが叫んだ。声が大きすぎてうるさい、酒がまずくなるぞ。確かに舟を漕ぎ出す歌だからできるだけ遠くまで聞こえなければならない。  
 宗長が尺八を吹いて座を静め、静かに歌いだした。
 乀 げにや眺むれば、月のみ満てる塩釜の、うら淋しくも荒れ果つる、           
   後の世までも汐じみて、老の波も帰るやらん、あら昔恋しや、
   恋しや恋しやと慕へども願へども、甲斐も渚の浦千鳥、
   音をのみ哭くばかりなり、哭くばかりなり
「お前方はまだ若いが、わしの年になると行く末を思って目覚める朝もあるわい」
 長江の惣兵衛のしみじみとした言葉にうなずく者がいた。惣兵衛が重ねて言った。
「宗長殿、坊主が船頭を泣かせてどうするのだ。板子一枚下は地獄か極楽か、坊主の了見を教えてくれ」
 乀 世間は霰(あられ)よのう、笹の葉の上のさらさらさっと降るのう
「なるほど生まれて死ぬるも霰一粒かの」
「そうじゃ思い出した、わしらは評定に来たのだ。宗長殿の肴が良すぎてすっかり忘れておったわ」
「さて何でも言ってくれ、良いようにするからの、宗長殿なら安心だ、なあ舟の衆」
 森戸の新左が杯を置いて一同を見回した。緊張と期待の目が集まった。
「風待ち潮待ち、時分が調い申した。早雲殿は三浦を親船として伊豆、里見を合力させ、伊豆から陸奥の沖まで海賊免許を与えるという」
「結構な話だ。しかし恩顧の道寸殿の菩提(ぼだい)はどう弔う」
 新左がいずまいを正した。
「合戦は武者の習い、亡き道寸殿は土にもどった。良き歌を残してくれました」
 前と同じく土くれの歌を聞かせた。
「海賊免許などわしはいらん、水軍に取り立てられんでよい、わしは戦さにはもう出ん。ここまで楽しく世を送った、ご一同様に礼を言う」
 森戸の新左が悲痛な声を出した。長江の惣兵衛が静かにそれを抑えて宗長に聞いた。
「戦さはこれで終わりか」
「安房、上総の里見が降れば海の戦さは終わりです。両上杉も早雲殿の許では策謀することができません、やがて関東の陸の戦さも去ることでしょう」
「そう聞くと一層、後世がおそろしい。われらは魚を捕り殺生の毎日を過ごしてきた」
「うちの寺の坊主がいつも地獄に落ちるぞと脅かすんだよ」
 和田の甚三が悲痛な声で言った。
「私の師匠の一休和尚はこう歌っております。
  南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ
      どうじゃこうじゃというが愚かじゃ 
一所懸命の者には地獄も極楽もありません。それこそ道寸殿の諭(さと)しでござる」
 半信半疑の顔が並んだ。宗長は話を続けた。
「ある由緒正しい寺の絵馬堂に立派な額がならんでおった。坊主は、この寺の観音様は霊験あらたかだから、大嵐で難波しそうになった船を助けてくれる、船乗りたちがお礼に額を寄進したのだという」
 嵐の恐ろしさを心底知っている男たちはしげしげと宗長の額を見た。
「では、いくら信心深くても観音様のお力が足りなくて難破してしまった船乗りの額はどこに飾ってあるんですか、私が聞くと坊主は黙ってしまったよ」
 荒くれ男たちが大笑いした。
「海の衆、坊主に頼むな、おのれを助けるのはおのれだけじゃよ、観音様もご承知だ」
「なるほど心が鎮(しず)まった。それで返事はいつまでに」
 和田の甚三が聞くと三戸の亀五が押しかぶせて言った。
「この場で決めよう、宗長殿の言うとおりだ、小田原と和睦だ、戦さがなくなるならそれでよい。われらは穏やかに暮らしたい。海賊かせぎとは縁切りだ」
「そうしよう、風の良いうちに船出するのが一番だ、凪(なぎ)になってからあれこれ言っても誰も相手にしてはくれん。先に和睦をした方が恩賞も多かろう」
 長井の兵太は商売上手らしい。
「それがしは惣兵衛殿の許にしばらく逗留します。誓約とか恩賞とかの求めは遠慮なく申し付けてください」
 それまで隅に控えていた真部がようやく前に出た。一同はすこしずるそうな顔になった。
「頼みにしますぞ」
 惣兵衛が話をまとめた。
 やがて宴が果てて、一艘一艘と舟が漕ぎ出していった。それを見送って宗長は小唄を歌った。
 乀 月は山田の上にあり、船は明石の沖をこぐ、
          冴えよ月、霧には夜舟の迷ふに
 繰り返し歌う声が水面に流れていった。水と同じように澄んだ歌声だった。やがて渚(なぎさ)を離れ沖に出て、聞こえるのは櫓が水を分ける音だけになっても男たちの耳には歌が響いていた。
 
 しかし三崎十人衆は里見と組んで、伊豆と相模の海をしばらく騒がせた。頭領の出口五郎左衛門は足利成氏に仕えた三浦高信の子で、道寸からは形見に新勅撰集を渡されている。出口は三崎水軍を城ヶ島に移して下田の水軍を相手に抵抗した。早雲は力攻めを嫌って円覚寺に仲介を頼んで和睦を図った。もちろん宗長も真部を支えて真情こめて説得した。ついに三崎水軍も小田原を主人として迎えた。
 そして出口は三浦の名を後世に残すことができた。
 
 伝説によると新井城では荒次郎義意の首がまださらされていて目をむき歯がみして人々を恐れさせていたという。誰が経を唱えても成仏しない。ついに小田原の総世寺の僧が回向にきて首に向かって歌を詠んで聞かせたという。
   うつつとも夢とも知らぬ一睡り
          浮世の隙をあけぼのの空
 すると首は目をつぶり、たちまち白い骨だけになった。けれど、その地の草は牛馬が食べると即座に死に、野鳥も獣も近寄らないところになっているという。
 もちろん小田原に対する三崎衆の反発が義意に託されて、怖い話を聞きたい旅人たちに語り聞かせたのだろう。そして僧の歌は道寸の辞世とよく似た響きがある。道寸を思う情がこんな歌を創作したのだろうと思う。
 早雲は韮山城から離れなかったが、父と同じ新九郎を名乗る息子の氏綱が小田原を本拠にした。しかし関東に覇をとなえるまでは苦難の連続だった。甲斐の武田、安房の里見、上杉が執拗に攻め立てた。しかし、早雲は下克上の大将だったが氏綱は天下取りの大名になった。
 
 ようやく宗長に静かな日が戻った。
「お師匠様はだいぶお疲れのようです」
 収穫を終えた郷では祭りで賑わっている。郷の人たちは宗長の歌や尺八を聞きたがって集まったが右近は断ろうとした。
「いや、こうして平穏に生かしてくれるのは郷の恵みだよ。そうそう右近殿もあの小袖を着ていくとよい」
 駿河の連歌の会で着た派手な小袖だ。
「福厳寺でいただいたものだから、今晩それを着るのが礼儀というものです」
 宗長は御霊社に集まった郷の人たちの輪に入っていった。しかし、宗長の歌は聞く歌であっても踊る歌ではない。右近の祖父惣兵衛は良い歌い手で、海で鍛えた声でおどろくほどやわらかい節回しができた。
  新玉の年の始めに 門には門松松飾り その待つの小枝に 
  孔雀がとまりて羽やすめ 片羽に銭が千貫 
  口には黄金をくわえそよな その鳥がなあよ 
  またとまれば 末代長者で暮らすだろ
  女子どもばかりでなく男たちも手をふり腰をまわして踊った。太鼓が鳴り笛が響いた。歌がやむごとに誰かが何か叫び、笑い声が後を追う。また歌いはじめると踊りが続く。焚き火を囲んで人々の影がせわしくなく動く。夜がふけても終わらない、宗長の姿はとうに消えていた。
 焚き火から離れて立っていた右近の袖を引っ張る者がいた。驚いて振り向くと郷の娘だ、川久保のユイという地味な顔立ちの娘だ。
「右近、こっちに来て」
 引っ張られるままに土橋を渡り福厳寺の脇を抜け桃畑に連れて行かれた。
「ここなら誰も来ない、話をしよ」
 二人は並んで座った。
「右近は郷を出て行くんだって、みんな話しているよ。それが良いという人もいるし悪いという人もいるけど」
 ユイは一気に話した。右近は返事ができなかった。
「おらは右近が好きだ。タエもシウも好きだと言っている。けど他の娘は嫌いだと言うよ、右近は宗長さんのお稚児だから女は嫌いなんだって、本当かい。若い衆たちも右近は嫌いだって。仲間に入らないし、本を読んで難しいことを言う、生意気だって」
 ただ黙ってユイの顔を見た。さっきと同じ真面目な顔だ。思い出してみれば右近は小さいときから祖父と一緒に舟に乗り畑仕事をして、郷の子どもたちともあまり遊ばなかった。福厳寺にいることも多かったし、今は宗長のもとで暮らしている。
「右近はレンガシというのになって旅に出るのかい」
 ユイが間近に顔を寄せる。
「おらは待っていられるよ。この前も右近が旅をした時、毎日お念仏を唱えて待っていたんだ。今度、出かけても大丈夫だ、待っていられるよ」
 あまり真剣なので返事ができない。
「旅の途中でちょっとだけ顔を見せてくれればいい、おら、それで十分だ。右近の思うとおりにするといいよ」
 宗長が家を離れて旅を続け、その家族が家を守って宗長を待っている。あの時の家族の顔はみな平穏だった。何年も留守をしていたのに、昨日でかけた夫、父の帰りを迎えるようだった。
「もし右近が侍になるなら、きっと長江の殿様になっておくれよ。そしたらおらは嫁さんとは言わない、下女になって仕えるよ。おらは右近が好きなんだから、ねっ約束しよ」
 それだけ言うと闇に走り去っていった。
 右近はもう焚き火に戻る気になれずぼんやり座っていた。風が冷たくなってきた。がっかりしたような気持ちで草庵に戻ると二つの影が見えた。宗長と化粧坂の婆だ。一節切が響き歌が聞こえた。右近は気づかれぬようそっと家に帰った。
 
 何日かして草庵に来客があった。夕陽があっというまに西の空をすべりおちる、それまでにまだ間のある時間だった。
 客は津阿弥と名乗った。何日もの旅をしてきた様子で衣服がくすぶり髪も乱れていたが疲れた様子はなかった。小さな包みを背に負い短い刀を腰に差しているが武士ではない。
「津阿弥殿、さてどなたであろうか」
 宗長はいぶかりながら戸口に出たがたちまち笑顔になった。
「なんと四条家の包丁人の左近殿ではないか。これは久しいことだ、よくぞ訪ねてくださった」
「主人が下総に下向されましてそのお供、主人からもよろしくと」
「ご壮健でなにより、そして津阿弥殿か」
「遊行の上人から阿弥号をいただき今は津阿弥と呼ばれております。お忘れなく」
「当今、道に一流の者は阿弥を名乗るが、そなたの料理上手は皆が褒めておる、しかし津の字に不審があるが」
「左近なら左阿弥でしょうが同名あまたあり、上人は困って津島の生まれゆえ津阿弥と」
「さすが融通念仏(ゆうずうねんぶつ)、自在なものだ。ところで旅のお疲れはいかが」
「昨晩遅くに鎌倉の鶴岡八幡宮に着き参籠、昼に出立してまだ一里しか歩いておりません」
「では散策にお付き合いいただいて歌心を養いましょう。友あり散策に伴う、またうれしからずや、右近殿、もてなしの用意を。ただ津阿弥殿は料理の名手だ、心せよ」
 二人はすっと庵を出て行った。
 右近は台所に行き献立を考えた。浜に走るとスズキが上がっていた。アワビ、サザエこれは毎日の獲物だ。青菜を湯がきヒシオであえる。飯を炊き湯を沸かした。
 黄昏の夕風が吹き始めて二人は帰ってきた。
「田舎ゆえ酒も料理も鄙(ひな)の味わいじゃ」
「それが良いのです。海から土から上がったばかりの食べ物は慈しみ深き味、なまじ料理人の手が入ると損ねるばかり」
「右近殿、褒められたぞ、名誉なことだ」 
「宗長殿、いかがでござるか、月に松風、心地よい夜に足りぬものがありましょう」
 にっこり笑いかけられて宗長も笑みを返した。
「ご所望とあれば一座の余興、酒の肴に吹きましょうか」
 そう言いながら暗い片隅から手馴れた袋を持ち出した。
 沈黙を破って宗長は低い声で吟じだした。
 乁 我々も持ちたる尺八を、腕の下より取り出して、
           しばしは吹いて松の風
 そこで尺八が低い響きを発した。松林に吹く風のように長く続いたかと思うとパッと途切れ、響きを変えてまた吹き始める。部屋の中を音が行きかい、屋根から床下まで充たしていく。今までは夜のうす暗い部屋に座っていたのが、曲に導かれて月の照らす潮風の松林に連れて行かれ波の音を聞いているようになった。音が途絶えて歌が始まった。
 花をや夢と誘うらん、いつまでかこの尺八、吹いて心をなぐさめん
 歌から音へ、尺八が響く。
 満開のサクラの花の下で踊ったり笑いあったりした春の日、若かった頃、楽しかったこと、そして一切が失われた今、そんな思いが湧いてきて目が熱くなった。
 ふっと音が途切れて、一同はうす暗い部屋に戻った。
「泣かしてくれましたな」
 津阿弥の言葉に宗長は静かに答えた。
「良い涙ならいつまでも流し続けなされ」
  吹くや心にかかるは
 また尺八が響いた。今度は少しおどけた明るい曲だった。
  花のあたりの山おろし、更くる間を惜しむや、
     まれに会う夜なるらん、これ、まれに会う夜なるらむ
 ホッホッと短く吹きだされる音は鳥の鳴き声、いやシカの鳴き声、吹いてくる風は山の頂を越えていく遠音、月影の下でケモノたちが遊び、木々がそれを楽しんでいるような。
「あっ、お師匠様、これは恋ですね」
 俺は叫んでしまった。
「たまに会ううれしさというのは我々のことではなく美しい女人のことなのだ。友よりも恋、宗長殿も人が悪い」
   春風細軟なり西施の美
 そして一気に朗詠した。
 これは俺には分からない。師匠の顔をじっと見る。
「少年は春風のようだ。しかし、恋もかなわぬうちに北風になってはかわいそうだ。西施というのは越の美人、呉王の夫差に愛されて、ついに呉の国は滅びた。国を危うくする美人を傾城という、しかしそれは美人のせいではない、迷う者が責めを負うべきだ。春風は花の香り」
 津阿弥が口をはさんだ。
「辛い旅になりましょうな」
「甲斐か」
「半年ほど」
「いや、事を急いではならぬ、一年と思いましょう」
 右近は驚いて口をはさんだ。
「お師匠様、旅に出られるのですか」
「この津阿弥殿が歌枕をたくさん持参されての、せっかく住み慣れたねぐらを追い出すのだよ」
「人聞きの悪い、右近殿、お師匠は今川殿に乞われてご出立されます」
「お供します」
「今度の旅はいつ帰れるやら、危ない旅だ。それに祖父も父も兄も海の上、頼りになるのは右近殿だけ、家を留守にできますか」
 一緒に行かなければという気持ちと家を守らねばという気持ちがぶつかりあった。宗長も津阿弥もじっと見ている。
「わしは必ず帰ってくる、そう約束します。時々は手紙も出そう、家を守ってください」
 津阿弥も優しい目で右近を見つめて、いたわりの言葉をかけた。
「宗長殿はたくましい方だ、安心してお見送りなさい。たしか山賊に会ったのは上総でしたな」
「それは宗祇様の昔話です」
 筋骨たくましく赤銅色に日焼けした男が立ちはだかって銭を出せという。財布から衣服まですっかり渡して、これだけしかないと言うと、お前のヒゲで箒を作るから抜いてしまうと言う。
「宗祇様はその頃、自慢のヒゲを生やしておられた。香の煙をいつまでも焚きこめておくためのヒゲだとおっしゃってた。そこで一首、
    我がためにハハキギばかりは許せかし
           塵の浮世を捨て果つるまで
 山賊はうれしがって一切を返してくれたそうだ。まことに和歌の徳は深いな」
 右近はなごやかな気持ちになって聞いた。 
「それでお師匠様はいつご出発ですか」
「今」
 えっ、夜も更けている。
「津阿弥殿と夜道を歩いて6里、江戸城に明け方に着きましょう。2、3日滞在することになりましょう、その後は」
「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)、桜花に慶事を告げながら」
「今年は桜の散るのが早まりました」
 いかにものんきな二人だが決して目は笑っていなかった。
「そうそう右近殿、また例の壁草を持っていきますぞ。あれは大事だ宿賃になる」
 
 甲斐の武田信虎は家督を継いで十年、海を求めて折りあるごとに駿河に兵を出した。富士川、大井川は武田兵の軍道だった。たまりかねた今川氏親は正月が明ける前に甲斐に出兵した。甲斐の兵は強かった、たちまち今川勢は包囲されて攻めることも逃げることもできなくなった。
 宗長は2ヶ月の間、信虎のもとに滞在して和議を申し入れ、ようやく駿河勢を帰国させた。
  雪氷 山や争う 春の水 
 そんな句を残している。
  宗長は求められるままに、そのまま越前一乗谷に旅立って行った。
 武田と今川は約を結び武田信虎は駿河を訪れるようになった。
 ずっと後に今川義元を訪れていた信虎は息子の信玄に裏切られ、帰路を閉ざされ追放同然となった。しかし、その義元も桶狭間で討ち死にして駿河の国は北条、武田、徳川の取り合う所となった。
  
「宗長殿が帰ってきましたぞ」
 福厳寺からの知らせに右近はびっくりして寺に走った。みすぼらしい雲水姿の宗長が庵主の前に座っていた。
「ゆっくりはできません。実は化粧坂の婆に会いにきたのです。右近殿、すまんが迎えに行ってはくれますまいか」
 庵主が静かに言った。
「あれから日にちも経たぬまに…」
「えっ」
 さすがの宗長も絶句した。
「預かっているものがあります」
 古びた紙に大きな文字で記してある冊子だ。
 宗長はそれを押し頂いて読んでいく。
「ああ、これこそ私にとってかけがえのない、化粧坂の婆は恩人だ、この書き物を残してくださった、礼の言いようもない」
 庵主は読んで知っていた。小唄の数々が記されている。京で鎌倉で、公家に武士に遊び女に歌われ聞く人の心を揺り動かした歌、尺八の拍子を添えている。婆が娘だったころから書きとめていた冊子らしい。
「私も大方は記してありますが、この書き物を得てどれだけ豊かに確かになりますことか、化粧坂の婆のご供養を切にお願いいたします、昔は花開くような美しい女人だった。そして私も若かった」
 泣き笑いの表情になった。そして慌しく江戸に向かって立ち去って行った。
 
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