今年は昔通りの平穏な正月を迎えた。30人の雑兵たちが暮れになって伊豆に戻っていったからだ。
「こうやって俺たちが戻るのは、もはや新井城は助からないということだな」
「タコ壷のタコ同然、手も足も出ないということだ」
「さっさとつかみ出せばいいのにな」
「危ない危ないイボと口、もう少し押し込めてグッタリさせてからだ」
「しかし正月にふるさとの酒が飲めるのはありがたいことだ」
雑兵たちはそれでも少し名残おしそうだったのは郷人たちとすっかり仲良くなっていたからだ。元はといえば駿河で田畑を作っていた男たちが多い、百姓仕事は手に慣れているが、磯で貝や藻を取ったり塩を焼いたりするのは初めてだ。そんなこんなで戦場にいるよりずっと楽しい日々を過ごした。なかには郷の娘といい仲になった男もいて、それが不快だった郷人はほっとした。逆にその機会を失ってがっかりした娘もいるらしい。しかし、雑兵はこの郷に風呂を残した。もちろん自分たちが楽しむためだったが、今は郷の人の憩いの場となっている。
別れの宴ということで焚き火を取り囲んで酒盛りが始まった。長老や女子どもは敬遠したし、男たちもそれに習った。しかし楽をして儲けたいという根性の郷の若い者はカナブンのように火に集まってきた。
「雑兵ほど楽な暮らしはない」
酒がまわって野放図な声になってきた。
「食えと言われれば食う、寝ろといわれれば寝る、なんにも考えることはない。それが百姓なら雨が降っても降らなくても、雑草と虫と鳥、刈り入れから脱穀、俵に詰めれば年貢の心配、一年中、次から次へと気を働かせていく、そんな苦労がまるでないんだ」
先のことを心配してはいけない、それは大将と侍衆がすることで、雑兵は走れといわれれば走り、突けといわれれば槍(やり)をそろえて突撃し、伏せ勢になればじっと潜んで敵を待つ。陣中では酒を飲み博打をし、いざ合戦となって危なくなったらさっさと逃げればいい。
「おじさんもそうやって逃げてきたのかい」
「そうともさ、侍衆は首を切られるが雑兵衆の首なぞ取ったところで手柄にならない、邪魔なだけだよ、来たければ一緒に来いよ」
あの戦いの恐ろしさを実感していたはずの郷の若者までが酒に浮かれてその気になった。しかし雑兵たちは夜明け前に郷を去っていった。
残った酒と食料を雑兵たちが置いていったので郷の正月はふだんより豊かになった。すると人々は急に八丈島のことが気にかかった。
「早雲様は行ってはならんと申されているが…海の者たちは助けあわねばな」
「餓えて苦しければ食べ物を届ける、人の暮らしは同じだよ」
「島はこちらとは少し違うよ」
「子どもが聞いているから、たいがいな話にしておきなよ」
庚申待ちの夜はいくら長い話をしてもいいことになっている。人の体の中にはサンシの虫というのがいて居眠りしただけでも天に昇っていき、その人の悪い事を天の神様に告げ口する。だから一晩中、起きていなければならない、大人も子どもも火を囲んで長い夜を過ごす、それが楽しみでもあった。
「年貢っていったって米が取れないんだよ。しかしカツオは獲れる、あそこの漁師が自慢していたよ、舟2隻で一万本上げたことがあるってさ」
「それをみんなカツオ節にするんだ、これなら腐らないし船で運べるからな」
「女の仕事は機織りさ、八丈縞(しま)という布を織るんだ。けど島の人は着ないよ、全部年貢に出してしまうのさ」
「冬でも暖かいところだから、皆、肌着だけで過ごしているよ。袖のついた着物を持っているのはお役人と名主様だけだ」
「井戸がないんだよ、だから女が小川に水汲みさ、頭の上に壷を載せて山道を行くんだ」
「そうそう大賀はオオサト川、中之郷はアツサ川、末広がヤシロ川、みんな水の味が違ったな、山ごとに岩が違うからだろうな」
「年中行事はこちらと同じだよ。正月3日間はご馳走、ひな祭り、お釈迦様、菖蒲の節句、ただ菖蒲は生えていないんだよ」
「米が取れないから食べるのは麦、粟、稗、芋さ。酒は造れない、米がなにより大切だからね」
「5月にホトトギスが鳴き、八十八夜が近づくと日和を見る。年貢船が仕度をする。これは大騒ぎだ、交易の勘定をし、買い入れの注文をし、別れを惜しみ、物のやり取りをして、出航の前の晩が大晦日だ。
「きれいな女の人が多いね、色白く髪黒く愛嬌あり、笑顔がかわいいこと」
「だんだん危ない話になってきたな」
「父すじと殿すじというのだよ、島の男が父親なら父すじ、外から来た役人や船頭が親なら殿すじというんだ。船が入るだろ、すると島の女たち全員が浜に並んでね、頭の上に食べ物やら飲み物やらを載せて手で招くんだ。自分の家に来てほしいってさ、婿入りといって島にいる間は仮の婿にしてくれるのさ」
「お役人とか船頭とかは違うよ。名主や肝いりが自分の家に連れて行ってね、自分の女房を妻にしてくれる。そして我が家に留まっていただいてかたじけないと挨拶して、婿入りの儀式をするんだよ」
島は人が足りない。災害が多く食べ物が不足するので、子どもが育たず大人も命を失うことが多い。それに島のわずかな人たちが結婚しあうと血が古くなってしまう。だから渡ってくる人に頼って子どもを産む。島に渡ってくるのは水手が大半で、皆、強壮な男たちばかりだからだ。
「飢饉とか嵐とか津波はしょっちゅうのことさ。噴火のことを御神火というのだが、これも毎年のようにあるよ」
「津波で船も家も流されてしまう。するとしばらくして壊れた船や家財道具がどこからか流されてくる。土佐とか紀州、伊勢や志摩の者が多いね」
「行ってやるか」
「そうしよう、だけど小田原には内緒でな」
そんな話が秘密にまとまっていった。
「今日は物乞いに出かけましょう。右近殿の方が顔が広いので貰い物が多そうだ」
右近は驚いて宗長の顔を見た。
「野菜、魚は不自由なく届けてもらっています、紙と墨の無心だよ」
このところ夜遅くまで書き物をしていたのを見ている、福厳寺に頼みに行くという。郷人は知らないが新月の真夜中に密かに宗長を訪ねてくる者がいる。言葉少なく話をして書状を交換して去っていく。右近は気づかぬふりをしている。
「なんぞ土産が…そうだ頂いたばかりの扇がある。あれなら庵主様も喜ばれるだろう」
この頃の福厳寺の住持は尼だった。
寺に着いてふと気づくと本堂の縁に腰掛けて日向ぼっこをしている老女がいた。いったい幾つくらいになるのだろう顔中に縦横のシワを刻んだお婆さんが小柄な背を丸めて座っている。二人に気づかないのか挨拶もしない。
宗長はじっと横顔を見ていたがはっとしたように声をかけた。
「乙御前(おとごぜ)、化粧坂(けわいざか)の、連歌師宗長です」
「めずらしや」
二人の老人が手を取り合って喜んでいるのを見て俺はギョッとした。このお婆さんがなぜ寺にいるのか郷人には分からない。たぶん住持さんの身寄りだろうと見当をつけている。鎌倉が焼き尽くされた騒ぎの時、逃れてきた人なのだろうと思っている。
二人は本堂で笑いあったり涙したり話に夢中になっている。どんな知り合いだか分からないが縁が深そうだ。途中から住持さんまで加わって話がはずんでいる。
「本堂の桜が幾枝か咲きました、夜桜を愛でてはいかがでしょうかの」
「それがようござります。晩になったらこちらに参ります」
右近が困った顔になった。祖父が束ねている水手たちが集まって八丈島の件で談合する、右近もそれに出なければならない。これは師匠にも言えない秘密なのだ。
「いやいや私一人で参るから供はいりません。ひととせの月をくもらす今宵かな、わが宗祇師匠も当意即妙、曇っても明月です」
この人たちは時々、分からないことを言いあっては互いに感心しあっている。
やはり気になって談合を抜け出して寺のわきに忍んでいった。お婆さんがなにやら低い声で歌っている。宗長が尺八を吹き、庵主さんが聞いている。小さな灯に照らされて三人の影が揺れている。
〽 思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや忘れねば
思い出すとは忘れていたからだ、覚えていれば忘れたなどとは言わない、当たり前だ。今晩の右近は少しひねくれている。老人同士が仲良くしていると若い者にはうっとおしくて、しゃくにさわるものだ。
〽 何ともなやのう 浮世は風波の一葉よ
波の上に木の葉一枚、それが世の中だよ、少しさびしすぎる。いくら戦さに明け暮れる世の中だって楽しいこともいっぱいあるさ。なんともないなんてごまかすなよ、俺はこれから世に出ようとしているのだぞ、早く大人になりたいんだ。
月の光は青く静かで、桜の香がわずかに漂ってきた。はっと気づくと涙が出ていた。大人は慰める方法がある、歌もそうだ。しかし子どもだって悲しみもあれば哀れもある。人買いにさらわれて行方しれずになった子どもがいる、病気で苦しみながら死んだ子どもがいる。慰める歌もなく、それをただ運命だとあきらめていった子どもたち、もしかすると自分もそうなったのかもしれない。
〽 音もせいでお寝(よ)れお寝れ 烏は月に鳴き候(そうろう)ぞ
ちょうど月に雲がかかって鳥が一声鳴いた。俺はびくっとして身動きした。歌と尺八がやんだ。
「庭前の君子殿、月の傾く前に家に帰りなさい。親に心配させるは不孝ですよ」
住持さんの優しい声が聞こえた。
談合はまとまったようだ。祖父も父もいつになく厳しい顔をしている。翌朝、いつものように西の谷の草庵に行こうとすると祖父に声をかけられた。
「宗長殿のことは信用しておる。しかし新井城と小田原城には知られたくない。口を慎め。時季が来たら助言してもらおう」
きつい口調なので少し気分が重くなった。
宗長はいつもの通りニコニコしている。
「老人の話は若い衆には辛いものだ。その毒気にあてられると盛りの前に枯れてしまうことがある。老人が集まったら、すぐに逃げ出した方が賢明じゃよ」
「お師匠様はお寺で学問をされたのですか」
「読み書きを覚えました。そこで書物を読んで昔の人の心と知恵を知りました。その時々の思いを書き記すことができるようになりました」
「それって大事なことですか」
「お百姓が種を蒔いても、草を取り肥料をやり鳥を追って丹精しなければ実りがありません。私の生まれた家は鍛冶屋でしたから毎日鉄を打ちましたが、鎌なら百回打てばいい、刀なら千回打たねばならぬ。鉄を溶かして打ち叩き形を造る、これは職人の苦労でもあり喜びでもあった。お百姓が田で畑で種を撒き育てて実を結ぶ苦労と喜び、糸をつむぎ布を織り着物に仕立てる、木工も金工も竹細工も同じ苦労と慶びがある。芸能もというのも同じです」
「…」
「私は今川義忠殿に仕え、宗祇と一休という二人に仕えました。父親は私に同じ仕事をさせたかったが私は家を離れ、諸国を巡り、連歌をつくり、古今集や伊勢物語を学び、尺八を吹きました。三条西実隆卿と細川殿、上杉殿、会う人がみな師匠でした。化粧坂の婆も得がたい師匠です」
「あのお婆さんがですか」
「昔は美しい人でした。ある公卿が駿河に伴った後、帰って鎌倉の化粧坂に住みました。歌と舞の名人で公方も管領も宴席には欠かせない人でした。私も一節切(ひとよぎり)の稽古をしてもらいましたが厳しい師匠でした。しかし私の一節切をあんなに上手にあしらって歌ってくれる方は都にもおりません」
「尺八を一節切っていうんですね。この郷には縦に吹く笛はありませんでした」
「一休禅師は大変お好きでした。聞いていると心が研ぎ澄まされていくようでした」
「俺にも吹けますか」
「若い方は何でもやりたがる、それがいいのです。あれはいい竹です。頂戴できれば右近殿の一節切を作りましょう」
囲炉裏の上に積んであるすす竹を宗長は指差した。何十年も煙にいぶされた古い竹だ。
「この竹のように値打ちがありながら知られていないものがたくさんあります。人も同じです。私は義忠殿に拾われ宗祇と一休に磨かれました。これからは私がたくさんの人を見出していきたいと思っています」
たぶん俺もその中に入るのだと思って右近はうれしくなった。
「一休さんというのはどんな人でしたか」
「この歌でその人が分かるでしょう」
南無(なむ)釈迦(しゃか)じゃ娑婆(しゃば)じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃ
どうじゃこうじゃというが愚かじゃ
「変な歌ですね、だってこの方は坊さんでしょ、お釈迦様の悪口を言っていいんですか」
「お釈迦様の名前を使って金もうけをする人たちへの悪口です」 こ の前も旅の坊さんがお経を唱えてありがたいというお札を置いていった。母はずいぶんな米を渡した、俺はその話をした。 「たぶん母上はそれで心が満ち足りたのでしょう。そのお礼と思えばムダではない」
「ならどんなことがムダなのですか」
「物に執着することです」
大徳寺が再建されて一休が真珠庵という塔頭を建てた時、宗長は山門を贈った。定家自筆という宝物のような源氏物語を売ってお金をこしらえた。世の人は宗長を無欲とも言い、物の値打ちを知らないとも言った。しかし師匠の一休が喜んでくれたので宗長はそれだけでよかった。 「死んで、あの世にもっていけるものは何もありません。この世に思いを残すと往生できなくなります」
ある貧乏な僧が死ぬ時に、ふと蜂蜜壷を思いだし、誰があの蜂蜜をなめるのかという邪念が残ってしまった。僧は往生できず小ヘビになって部屋から去ろうとしなかった。 「私も今は一節切に執心しているので死んだ後に現れて笛を吹くかもしれませんよ」
そう言って宗長は笑った。俺はお師匠様の幽霊なら少しも怖くないと言い返した。
「それにしても美しい夕焼けだ。こうやって富士山に日が沈むのを拝むと極楽往生ができそうな気がします」
宗長は富士山が好きだ。晴れた朝と夕方にはよく庵の裏の細道を登って山の頂に立ち、江ノ島のかなたにそびえる富士山を見た。みはるかす相模の海は日々姿を変えていく。
「お師匠様の故郷は富士山のふもとでしょう。ならもっと美しい富士が拝めるでしょう」
「海を隔てて西の方に富士を拝む場所はそう多くありません。それに江ノ島が富士の入り口の鳥居のように見えます」
「お師匠様にとって富士山は何ですか」
「これは厳しい問答だ、答えそこねるとカラカサ一本で追い出されてしまいそうだ。ソモサン」
老人とは思えない大声に右近はびっくりした。しかしすぐに優しい笑顔に戻った。
「わが師一休も宗祇も亡くなって久しいが、私は生きて、まだ目の前にそびえる富士を見ています。思い出せば、かつて水無瀬(みなせ)というところで師の宗祇と牡丹庵肖伯(ぼたんあんしょうはく)と私が連歌を巻きました。鎌倉幕府に敗れて隠岐に流された後鳥羽院の二百五十回忌法要の連歌でした。私が『雪にさやけき四方の遠やま』と詠みかけると宗祇は『峰の庵(いお)木の葉ののちも住みあかで』と続けました。嵐が果てた翌朝は四方の山々が白く輝いている、怨(うら)みを離れて安らかにという気持ちでしたが、師は、すっかり木の葉が落ちてしまった私の庵だが次々に変わる風情に飽きることがない、時代は変わり人も代わって新しい日々をつくっていくのですと受けてくれました」
こんな答ではまるで分からない。
「亡き人の面影を富士に見るのです。雄々しく荒々しく、時には優雅にたおやかに、富士の姿が亡き人そのままに見えるのです」
それからも時折、化粧坂の婆は草庵を訪ねてきて宗長の尺八に合わせて歌い、言葉少なく語った。そんな時に右近は外に出て二人だけにしておき、老人の側にはいない方がいいという教えに従った。
新月の次の朝早く、宗長は右近を呼んだ。夜中に手紙が届いたらしい。
「旅に出ましょう。駿河の今川氏親殿が厄年の祓(はら)いに連歌を詠むそうだ。前にも話がありましたが、私に同座を求めてきた。5月の12日までに駿河に着きたい。右近殿は前から一緒に旅に出ることを望んでいた、祖父の惣兵衛殿には以前にお話ししてある。父上母上に許しを願ってください。端午の節句は小田原で過ごしたい。明後日、出立できようかな、思い立った日が吉日という、旅は修行です」
「父も祖父もお師匠様が大切ですから、きっと許してくれると思います」
「20日あれば往還できよう、これは失態、右近の気持ちをまだ聞いていなかった」
それはもちろん大喜びだ。お師匠様と一緒に旅ができる、こうやって庵にいるだけでもうれしいのに知らない土地を見聞するなど、胸の高まる気分になっている。
「誰が止めても俺は行きます」
「旅の辛苦を味わいたいのかな」
「そうしてお師匠様のようになります」
旅の支度は調った。福厳寺の住職が派手な小袖を2枚餞別にくれた。良い方は貴人に会うときに着る、だいぶ痛んでいる方は道中で。右近は宗長が着るのか思ってびっくりしたが、右近の衣装だと言われてまた驚いた。宗長は行李の中から墨染めの衣装を取り出した。旅の修行僧、雲水の着る物だ。
「紙と矢立、薬、着替えの下着は布に包んで、傘は背に負いましょう。路用は十分にあります。右近殿、荷物を背負ってください。さほど重くはない。大事なのはこの一冊、初めての句集『壁草』の写しだ」
昨年中、書いていた書物だ。
「土壁に練りこむ草ですか」
「土を固め壁を守る頼もしい草だよ」
「一冊だけでいいのですか」
「おお、数日滞在していれば誰かが大事に書き写してくれるのさ。その間はのびのびと暮らしている、けっして粗末にはされないよ」
なるほど連歌師というものはしたたかなものだと右近は思った。
弁当を福厳寺が用意しておくので出発の時に寄るように言われた。
まだ東の空が暗いうちに庵を出て寺に寄るともう明けの鐘の準備をしていた、寺の朝は早い。まだ暗い山を越えて浜辺を歩くと、波だけが白くうちよせている。しかし、すぐに空と砂が白くなり朝焼けの雲が朱に染まり、輝く太陽が端をのぞかせた。稲村ガ崎、腰越、江ノ島と3ヶ所だけ浜から離れた。それぞれが川渡りの場所で、橋を求めて道を回りこまないとならない。
「鎌倉から村岡に出て東海道を歩くこともできた。そうすれば遊行寺を拝観したのだが、あそこに寄ると話が長くなる。連歌好きの上人がござってな。それに右近殿は初めての旅だ、浜辺を行きたかろう」
確かに右近は不安だった、海が見えていれば自分の家から離れていく感じがしない。小坪、由比ガ浜、腰越、片瀬の砂浜を歩き、沖の烏帽子岩を通り過ぎると昼前には相模川に至る。ここでは渡し舟に乗る。川べりには数人の旅人が待っていた。寺でいただいた飯を食べているうちに川向こうから渡し舟が来た。古びた舟を同じくらい年取った水手が漕いでいく、難なく渡った。
ようやく右近は宗長が雲水の姿で旅に出たわけが分かった。
「坊さんだと渡し賃は取らないのですね」
宗長は口に指を当てて小声で話せと言った。
「わしは旅の雲水だ、右近殿はわしの身の回りの世話をする大稚児殿だ。渡し舟だけではない、関所もあれば盗賊もいる、僧形は災厄除けのお守りになる」
「それなら普通の人も坊さんの姿になればいいのに」
宗長は頭巾をそっと脱いだ。
「マゲを結っていては僧といえない、武士も商人もマゲを落とすことはできまい。わしのように荷物も持たずに歩いている気軽な者でなければ僧とは思ってもらえない。それに舟の中でお経を唱えなければならないのだ」
「お師匠様のお経はなんですか」
「古今集の和歌を詠んでいたのだよ」
昔、稲毛という武将が妻の追善供養のためここに橋をかけた。その渡り初めの日、頼朝は落馬して死んだ。不慮の死に驚いて人々は例のとおり怨霊話をした。平家の侍の幽霊が川から現れて馬を驚かせたのだ、いやそれは義経の怨霊だなどと。
「わしは本当に見たのだと思うよ、その方が物語になるだろう」
「本人に聞いてみなければわかりませんね」
平知盛の怨霊が義経の前に現れ弁慶が祈り伏せたという。その義経の怨霊は誰も退散させられなかった、修行を積んだ尊い僧が身近にいなかったのが原因だ。だから、僧を敬え。
「うわさは誰かに都合よく語られる。うわさが広まれば我と思わん僧侶は幕府に名乗り出て貴人を取り巻こうとするでな」
「お経の徳ですね、お師匠様の連歌の徳はありませんか」
「ただで舟に乗れることくらいかな」
道は浜辺を離れた。ずいぶん歩きやすくなった。右近も旅の気分にだいぶ慣れてきた。松並木が続いている。
「このあたりだよ」
朝霧のいづく こゆるぎ磯の松
「さて右近殿、季節はいつであろうかな」
「朝霧ですから秋の頃でしょうか」
「さて右近殿は敏い、そのときは霧の中をまぼろしのように歩いておった、松のこずえを雲がいくように霧が流れていました」
右近にはその姿が見えるようだった。
岡崎にも焼け焦げた城跡が残っていた。早雲に攻められて岡崎一族は諸方に逃げ隠れ、娘婿の三浦道寸も逗子の住吉城に逃れた。今はそこも落とされて新井城に立てこもっている。たぶん、この先、宗長は様々な人に一部始終を話すのだろう。八朔の祝いに出向いた目的の一つはそこにあったのかもしれない。あの時、道寸は話さず義意はよく話した、やはり察する者と察しない者の違いだったのか。
「道寸殿はどうなるのでしょう」
「早雲殿の心一つだ、唯一の頼みとする上杉朝良殿も玉縄城の氏綱殿に阻まれて助けに行けない。なんとかしたいな、なにしろ道寸殿はわしの古い知己だから」
道は大磯に入った。緑濃い高麗(こま)山の麓に高麗寺がたたずむ。日はようやく西に向かっている。二人は木陰で一休みした。
「ここは更級(さらしな)日記ゆかりの地」
平安の昔、菅原(すがわら)孝標(たかすえ)という公家がいて上総介に任じられた。任期が終わって京に帰るまでの道中を娘が記したのが更科日記だ。
「この浜辺はもろこしが原と呼ばれていました。そこに大和なでしこの花が咲いている。それを興がって日記に記した。もろこしというと唐のことだを思うが、実は海を渡ってたくさんの人が渡来して、こには狛(こま)の人が住み着き高麗(こま)の郷をつくった。自分の住む土地には良い名前をつけたいものです」
「では長江というのは誰がつけた名前でしょうか」
「鎌倉の昔、長江義景殿は摂津の長江郷で生まれ、相模の郷で育ちました。元はなんという名だったのか、その地を故郷にして長江と名づけ、一族も長江氏を名乗りました」
「摂津の長江にも川があったのですか」
「京から流れ出し海に注ぐ大河です」
「長江の川はそれほど大きくありませんが」
「いいのです、名前は人の思いでつけられます。右近という名もそうなってほしいという願いがあるのでしょう」
宗長が明るく言った。
「そして、ここは名高い大磯の地、曽我兄弟の話は知っていますか」
工藤祐常を敵とする曽我十郎、五郎の兄弟は富士の巻き狩りに潜入し仇討ちを果たした。十郎は討ち死にし五郎は捕らえられた。その勇気と力に感動した諸将は命乞いをしたが頼朝は許さず首を切った。
「もし、この金目川で頼朝が落馬していれば曽我兄弟の恨みということになったのかな。十郎には虎御前という女人がいたのだよ」
二人は和歌を贈りあった。
板間より 分かれて後の 悲しきは
誰に語りて 月影を見ん
いとうとも 人は忘れじ 我とても
死しての後も 忘れるべきかは
「あまり上手な和歌ではありませんね」
「まったくだ、言葉がもつれあって力を失っている。右近殿ならどう直すかな」
また難題を出した、そんなときに限ってとびっきりの優しい声を出す。
「最初の方は、下の句を景色だけにしたらどうでしょう」
「月影清か 松葉散り敷く とでもしようか、すると次の句が詠みやすくなる」
「2番目のは理屈だけですね」
「そうだ直しようがない。物語に合わせて言葉を並べただけ、詠み手はまったくの上の空で悲しくも寂しくもないのですからな」
褒められたような気がしてうれしかった、しかし、こんなことが旅の間中、続きそうだという予感がした。旅の修行というのは和歌を上達することなのかもしれない。
「さて今日は早めに宿を取りましょう。右近殿がこんなに歩き上手だとは知らなかった。もう、この辺から足が痛いと泣き出すと思ってここに泊まることにしていたが、もっと先まで行けたかな。さあて街道筋の家に泊まるか寺に泊まるか、どちらにしようか…」
結局、高麗寺に泊まることにした。旧知の住職は不在だったが顔見知りの僧侶が喜んで宿坊に案内してくれた。質素だが一汁二菜の夕食も振舞ってくれた。
若い僧侶が話を聞きに来た。
「西行法師の歌を解き明かしてください」
心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮れ
鎌倉の昔、北面の武士、佐藤憲清は出家して歌を詠み諸国を廻った。
「されば三夕といって寂蓮法師は槙立つ山、定家卿は浦の苫屋、西行法師は鴫立つ沢を歌われた。いずれも秋の夕暮れという句で結んでいる」
寂蓮は、その色としも…いつもと変わりないのだがと平静心を詠い、定家は花も紅葉もなかりけり…絵に描いたような色彩と対比させた。しかし西行は鴫のたたずむ姿に孤独を詠った。出家した公卿、歌の誉れ高い公卿、諸国を漂泊する武士、それぞれの心を伝えている。
もちろん宗長には西行の心境が分かるだろう。さらに古今伝授を受けて定家の風は熟知している。話すことはたくさんあった。右近より若い僧の方が根負けして居眠りを始めた。たぶん宗長は右近に話していたのだろう。
翌朝はゆっくり起きた。曇り空だった。本堂で読経のあと朝食、のんびりした旅だ。
「小田原の城まで4里だけだ。ちょうど夕飯時に城に着くように急がず歩きましょう」
午後の遅い時間に酒匂川を越えた。こちらは徒歩渡りだ。梅雨とはいえ、まだ降る日が少ないので水は浅い。疲れて熱くなった足には心地よかった。
早雲の迎えの武士が待っていた。さっそく城へ案内された。右近は郎党の部屋へ案内され、ゆっくり休むことができた。早雲と宗長は夜の更けるまで話していたようだ。
翌朝、小雨の中を息子の氏綱が馬を走らせて来た。また、ひっそりと話が続いたようだ。
昼食となった。右近も近侍ということで相伴した。京風の料理が右近には珍しかった。早雲は幕府に仕えていたので食べ物も京都の薄味を好み、健康に細かく気を遣っている。そして戦場の武将として驚くほど高齢だった。
「堪能いたしました。早雲殿のお振る舞いはさながら京にいるようです」
「しかし肩の凝る話であった。気晴らしに湯はいかがかな、幸いまだ降りそうもない」
それで一行は熱海の走り湯に馬を進めた。
しかし氏綱だけは帰っていった。
雑兵の掘った湯よりずっと上等のようだった。嫌な匂いなどまるでない透き通った熱湯が木の樋からあふれてくる。もう一本の樋から冷水がほとばしる。右近が湯加減をみるとヒノキの香り高い浴槽に宗長と早雲が身を沈めた。湯は新鮮だ、風の通る座敷で茶を入れることになった。しかし、針の先ほどの油断もない。要所には武士が身構えている。
「宗長殿、発句はいかが」
早雲の目はいつも鋭く光っている。
「空や春 山は走り湯 朝がすみ」
「たしか以前に聞いた句ですぞ」
早雲が笑って言った。
「いつ来ても同じ湯があふれております」
宗長は戦乱の諸国を巡り仁義礼知信のすべてを失って、もはや人と言えなくなったような男や女をたくさん見てきた。戦乱を止めようと力ある人に訴えてきた。一時は消しとめた火も誰かの一吹きですぐにまた燃え盛る。無力を感じることが多かった。
「こういう世になったのは」
宗長は横向きのまま静かに茶碗を早雲の前に置いた。
「やはり武士でございましょうな」
早雲は表情を変えずに茶碗を両手で取った。
「武士の欲と意地が軸になって世の中を回してしまいました」
早雲はひと口ふた口と茶を喉に流した。その音が脇にはべっている俺にも聞こえた。しかし、早雲は何も言わなかった。
「末世ともいい世替りともいいます」
京にも鎌倉にも足利公方がいる。鎌倉の公方は古河に逃げ、京からは別の公方を送ってくる。管領も上杉一族が争い、それぞれが本拠を持って兵を擁している。武士たちは己の利を求めて大義も道理もなく戦い死んでいる。今日の味方は明日には敵になる、戦う相手がいればいいのだ。まるで戦うことが生きている証のようだ。
早雲は茶碗を置いて懐紙でぬぐいぽつりと言った。
「幕府の没落は自業自得だ」
室町幕府は京と鎌倉の両方に公方を置いた。足利義満が死ぬと鎌倉公方足利持氏は自分が京の公方になろうとした。鎌倉こそが武家の都だ、そんな持氏に鎌倉管領の上杉禅秀は反発し、上野、上総、甲斐、常陸の武士を束ねて戦ったが敗死した。
持氏はこの恨みを二十年も忘れず、禅秀の子の管領上杉憲実を討伐しようとした。しかし憲実は京の公方足利義教に支援を頼み持氏は敗死した。持氏の遺子たちは憲実と戦ったが敗れて一人だけ命を助けられた幼少の成氏が鎌倉公方になった。十年たって成氏は上杉憲実の子憲忠を殺し京に叛旗を翻したが破れて古河に逃げこみ古河公方と呼ばれた。
京の公方義教は自分の弟の政知を鎌倉公方として派遣したが、関東武士に阻まれ伊豆の堀越にとどまり堀越公方と呼ばれた。しかし義教は殺され応仁の乱が起きた。この先の出来事は早雲がかかわってくる。
宗長は黙って道具を片付け始めた。
「大義とは天意仏意に叶うことだろう」
「お師匠様」
右近は小さな声で道具を片付け終わった宗長に聞いた。
「早雲様のお言葉は難しくて分かりません」
二人が笑った。茶の徳というのは数々あるが、人の心を和やかにするというのが第一だ。ふだんだったら叱られるか聞こえないふりをされるだけだろう。
「人の行ないの善悪は皆その友人による、良きを見習い悪しきに従わなければよい」
右近も強情に聞き返した。
「私は幸いにして良き師匠と良き殿を得ました。人の善悪をお教えください」
早雲は居住まいを正した。
「ただひたすらに心を正しくおだやかに持ち、正直一途に暮らし、上なる人を敬い下なる者をあわれみ、包み隠しなく、有るをば有るとし無きをば無いとして、ありのままの心持ちで暮らすことだ」
「それなら私にもできそうです」
「ほう」
二人同時に言ってまた笑った。
「後生畏(おそ)るべし」
伊豆山神社に参拝して宿坊に泊まった。
要害さながらの社殿と屈強な社人に守られている。しかも早雲は30名ほどの屈強な兵を引き連れていた。
翌朝も雨は免れた。出立は早朝、家臣の大道寺がなにやら早雲にささやいた。
「宗長殿、今朝は多賀の道を行く、少し遠回りだが、この頃、箱根には曲者が多い、伏せ勢などされては面倒だからの」
「三浦、今川ではございませんな」
「甲斐の衆」
兵はいずれもきちんと武装している、雑兵ではない。半分が騎馬、残りが徒歩だった。
早雲と宗長は馬を並べて語らいながら山道を進んでいく。早雲は語りかけ宗長は答えている。右近は馬の脇を歩いた。まだ山道を馬でいくのは不安だったからだ。
日は照っていないが蒸し暑くて汗ばんだ。
一行は海に突き出た山の頂で一休みした。そこは与一堂と呼ばれる社がある。すぐに宗長が皆を集めて由来を話して聞かせた。
佐奈田与一は頼朝旗揚げに真っ先に従い、ここ石橋山の戦いで討ち死にした。頼朝はそれを嘆いて一堂を建立した。あれほどの武者が軽々と討たれるはずがない、人々は原因をセキのせいにした。与一は敵を組み敷いて郎党を呼ぼうとしたが、セキのために声が出ずとうとう討たれてしまったのだという。
「きっと頼朝公はご自分の身代わりだと思われたのでしょう」
「与一といえば屋島で扇の的を射た那須与一のことだろうか」
大道寺が大声で言う、皆の聞きたいことを察して代わりに発言するのがこの武士の賢さだ。一種の身代わりを務めている。
「もう一人浅利与一がおります。当時は11番目の男子を与一と名づけたようです」
「それは大層な子福者だ、で母親は何人いるのじゃろう」
一同がどっと笑って疲れを忘れた。
それからも草深い山道をいくつも上り下りしてようやく多賀の浜に出た。風のない日で海は静かに広がっている。松林の一角に舟がもやっている。小さな堂がある。
「この仏は毘沙門天、鎌倉の昔、北条と和田が競って造らせたという運慶仏師の作だ」
小道が裏山の社に続いている。
「宗長殿もこの道はご存知あるまい」
「山伏峠の道でございましょう」
「連歌師は油断がならぬ、他言はご無用に」
「連歌の道も険しくござれば」
すぐに先駆けの10騎が進んでいく。早雲は大道寺にそっと目配せをした。急坂に息をきらせながら上っていくと、たちまち伊豆の海を一望する高みに立った。
「あの島は伊豆の大島、晴れていれば利島、新島まで見えるのだが」
「八丈島も見えますか」
「それは無理だ」
二人の話を聞いていた早雲が口をはさんだ。
「わしにはよく見えるぞ」
「早雲殿は遠目がきく」
「島人の暮らしを見守ってやらねばな」
右近はヒヤリとして早雲を見た。祖父の計画が知られているのだろうか。それとも玉縄城の普請の時に願ったことを早雲はもう実行しているのだろうか。それとも今の言葉は自分に聞かせるためで、祖父に伝えよという含みだったのだろうか。今は何も知らぬふりをするだけだ。宗長は知らん顔をして一歩後ろを歩いている。城で三人が熱心に語り合ったなかには八丈島の件があることを右近は察した。
その時、あとから馬を走らせてきた大道寺がそっと近寄って小声で告げた。
「一人だけでござった」
「ふうん、わしなら二人にするがの」
「武田には油断がありますな」
右近が聞きたい様子をすると宗長が目で教えた。あとから話す、黙っていよと。
またきつい上りが続いた。また早雲と宗長から八丈島という言葉が聞こえてきた。しかし歩くのが精一杯で右近はそれ以上、何も考えられなかった。
8里の道のりを越えて夕刻に韮山の館に着いた。右近はすぐに館の前の清流に飛び込み水を浴びた。
それほどの疲れも見せずに早雲が言う。
「この地はホタルの名所だ。今夕は宴を開いてホタルを愛でよう」
宗長も悠々と答える。
「それは重畳、早雲殿に発句を願ってもよろしうござるか」
「では使い古しの句ではないのをご披露しようか」
「それがよろしうござる」
宗長は朝のことなどどこ吹く風で飄々(ひょうひょう)と答えた。
部屋に通されてようやく二人だけになると、すぐに右近は宗長に聞いた。
「あれはな、用心深い早雲殿が間者を退治したのだよ」
「すると大道寺殿が」
「配下に命じて山道に隠れていたのだ。ヤリで一突きだろう」
「二人といいました」
「早雲殿なら一人に追わせて一人が見守る。ところが武田殿は一人しか間者を置いていなかったのでそれっきりだ、それを油断だと評したのだ」
「では間者を倒すために、この道を選んだのですか」
「他にも目的があろう、わしに道を教えるためでもあろう」
「しかしお師匠様は知っておいでだった」
「いつでもこの道を使っていいとお許しくださったのだ」
なるほど武将の言葉は重く深い。ふと心配になった。
「それでホタルの句は?」
「わしが作る、それがわしの役目だ、もうできている」
月は消え 思いに燃えて 飛ぶホタル
「もちろん元歌があるのだが早雲殿は知るまい。これを肴にして風流を語れば一刻だけでも殺伐(さつばつ)とした毎日から離れて、人の情にひたることができる、それが清々しいのだ」
韮山城ではささやかな宴が開かれた。
「貴公の庵室はいかがだな、柴屋軒(さいおくけん)という名であったか」
「はい、もう8年になりますので木々もすっかり落ち着きました」
「わしの早雲庵も二昔になろうか、最も落ち着かないのは庵主だがな」
「関東の戦乱を終わらせるために東奔されておりますからな」
「さよう、西奔の事は今川殿の磐石の抑えに甘えている、ありがたいことだ、この度は氏親殿の厄年千句だそうだ、ご武運だけでなく文運も祈りますぞ」
明応2年のことだから、もう20年以前になる。足利茶々丸を滅ぼした後に伊勢新九郎は剃髪しようとした。もちろん仏門に入って静かに暮らすためではない、多くの武将がそうするように大事の後で心機一転したかったのだ。
そんな時に宗長に出会った。
「そういつまでも伊勢新九郎殿ではありますまい」
ひとしきり風流の話が続いたあとで、宗長は目に笑いを含ませながら、しかし真剣に言った。
「関東を制する名前なら鎌倉執権だった北条の名を再起されるとよろしいでしょう。北条の名は伊豆の韮山にちなみます」
そう言って自分の前に座っている半眼を閉じた新九郎の顔をじっと見すえた。そして低い声で続けた。
「ひとたび名前をお捨てなされてはどうかと申しております」
「なるほど、愛憎積もった名を捨てれば自由になるというのかな」
「五欲を離れ、清廉な後生を過ごせば諸人は感じ入り、神仏は喜びます」
しかし、これは言いすぎたと思い口を閉ざした。
「なら貴公の名をいただこうか」
宗長は不意打ちをくらって目を丸くした。
「貴公でも名は捨てたくないようだな」
宗長は礼拝した。まるで太刀打ちをしているようだと思った。自分の修行など新九郎の修練とは段違いだ、合戦で自分の死を見つめ、国の統治で人間の生を隅々まで知り尽くした人の重さだ。
「いやあ、それは困ります。私はお館様を師匠とも弟子とも思いたくありません」
かろうじて太刀をかわした。
「では朋輩となって宗友とでも名乗ろうか」
まったくたわむれている。
「私は宗歓(そうかん)から宗長になりました」
「わしも貴公と同じように一休宗純禅師を敬愛している。宗の字をくださるだろうか」
「喜ばれましょう」
「下の字はめでたくしたいものだ」
「瑞祥、瑞兆、瑞雲、瑞光、奇瑞」
「宗瑞は良い、そう名乗ろう」
「武運長久を祈念します」
「わしは文武両道をと願っていたが連歌師殿は仲間入りをさせてくれないようだ。旅に出て雲水の修行をしなければなるまいか」
「さよう、日々雲水の心でいるために庵名をそうおつけなさいませ、行く雲の早さ、早雲庵がよろしかろう」
宗長が真面目な顔でそんな昔話をするので早雲も氏綱も大笑いした。
「その折に、時を得たらというお返事をされたことを私は覚えております」
早雲はギロッと鋭い目で宗長を見た。
「時は未だ、氏綱殿にお申しなされよ」
戸惑う氏綱を一瞥して早雲は話題を変えた。
早雲を「東海路に武勇の禅人あり」と讃えたのは大徳寺七十二世の宗牧、戦国武将たちは禅僧を通じて王道の規範を学ぼうとした。しかし、一休禅師は「法中の姦族」と厳しく批判して禅僧が軍書を研究し政道にのめりこむのを制止しようとした。
酒宴には玉縄、小田原の家中の者も加わってにぎやかだった。
「宗長殿、おひさしぶりでござる」
荒木兵庫が無骨な顔で寄ってきた。宗長は愛想よく挨拶をした。
「三浦の衆は相変わらずか、まだ根をあげませぬのか」
「三浦も誇り高いですからな」
「なに三浦といっても親父は上杉の子ではないか。祖父が親父を養子にし、今度は孫を養子にする。実の子ができたからといって養子を殺そうとすると養子が祖父を討つ。何がなんだか分からん人たちだ」
「そういう我らもうさんくさいと思われているだろうよ」
山中才史郎が割ってはいった。
「我らも関東下向のときは野武士同然、ずいぶん恐れられたものだったな」
これもお得意の昔話だ。
伊勢新九郎は仲間6人と関東に下向した。大道寺太郎、荒木兵庫、多目権兵衛、山中才四郎、荒川又次郎、在竹兵衛だ。伊勢で神水を酌み交わし、もし仲間の一人が大名になったら他の者は家臣になると誓い合った仲だ。
「あの地震が早雲殿の出世のきっかけになっったのだな」
明応7年8月大地震が起き四国から関東まで津波が押し寄せた。特に伊豆の被害は大きく、沼津では36メートルの高さまで上がったという。伊勢新九郎はすぐに救援の米を届け年貢を戻した。郷人たちは計り知れぬほど喜んだ。
「世の人が、地震は天の災いだ神仏の怒りだなどと騒いでいるうちに早雲殿はさっさと民に衣食住を恵んだ。天も神仏もしないことを早雲殿がした。なぜ地震が起きたのか、そんなことはどうでもいい、民には暮らしが大事だ、それを守るのが領主だ」
山中才四郎は拳を固く握り、宴席をにらみつけながら叫んだ。だいぶ酒が回ったようだ。
年をとってしまった仲間たちはすぐに酒に酔って思い出話に興じている。しかし早雲の目だけは鋭く光っていた。
二人は暗いうちに城を出た。見送る者はいない、その方が清々しいと宗長はかねがね言っている。また山越えをして三島の社を遠くから拝んだ。
「ここは海から拝まなければ本当の姿は見られない。3つの頂きを持つ丘が神々しい。周囲の山は聖域を守るように囲んでいる」
舟で来た人々はずっと富士山に畏怖しながら上陸地を探していた、するとこの丘が見えた、舟人は自分たちを迎え入れてくれる神を見出し、舟を寄せていった。伝承は三島の神が海から来たというのだが、本当は海から来た人が祀(まつ)ったと思う方がいい。
「長江の郷にも二子山という二つの頂を持つ山があります」
「知っている、箱根の二子山をはるかにのぞみ、ふりかえれば上総の二子山を見る、神々のつながりを感じる山だ」
沼津、原と平坦な道が続いた。
「ここからしばらくは千本松原といって黒松の林が続いている。海を見ず潮騒だけを聞く道だ。右手に見えるのは興国寺城、早雲殿が今川から最初に与えられた城だよ」
堀越公方政知は次男の義澄を京の公方にした。そして三男の潤童子を自分の後継者にしようとした。怒った長男の茶々丸は潤童子と義母を殺して自分が堀越公方になった。伊豆の武士たちはそれを受け入れた。
しかし早雲は今川氏の意向を受けて茶々丸を滅ぼし、伊豆の武士たちを支配した。
気高く美しい富士山を仰いで歩く。白雪が青天にくっきりと映えて、右近はこのまま走れば頂上に登れるような気分になっていた。富士は歩くにつれて大きくなっていく。
田子の浦ゆうちいでて見ればま白にぞ
富士の高嶺に雪はふりける
「山部赤人という奈良に都のあった時代の歌人です」
「西行さんと同じ仲間ですか」
「もっと古い。しかし旅をして和歌を作る歌人の始まり、西行や私たちの大先輩です」
今の都の前に別の都があったことに気づいた。奈良の都、その前は、そんなことを聞けば長い話を聞かされるだろう。それより歌のことが聞きたかった。
「景色そのままを歌っていますね」
「都の人たちは見ることのできない東国の景色を想像してあこがれたことだろう」
「舟から見たのですね」
「ずっと富士を見ながら歩いてきたので。雨に降り込められて旅ができなかった。ようやく晴れて出立したら山では雪だったことに気づいた、そんな感動でしょうか。さあ私たちも舟に乗って三保松原をめざそう」
歌を聞いたので見る景色が変わった。山部赤人という歌人が景色に現れた。それは宗長の姿にもなった、そして次第に景色を見ている自分の姿になってきた。景色を自分の言葉で書き留めたい、そんな望みがわいてきた。
「お師匠様、こちらではどこも富士山は半身隠してのお目見えですか」
かなりの高さのある山でも富士山の胸、腰のあたりまでしか届かない、富士は頂だけを見せている。
「吉原の郷まで行けば全身を拝むことができるよ。そこには、昔、竹取りの翁が住んでいました」
宗長が妙なことを言うので右近はびっくりして顔を見た。いつものように機嫌のいい顔でまっすぐ前を見て歩き続けている。
「ある日、根元の光っている竹を見つけ切ると中からかわいい女の子が出てきました」
「お師匠様、お伽(とぎ)話ですね」
「実は翁の郷はここだという」
それは信じられない。竹取物語の話は子どもも知っている。大人になったカグヤ姫は帝に求婚されるが月の世界に帰ってしまう、帝は悲しんで富士山の頂で姫の手紙と不死の薬を焼き、それがいまだに燃え尽きず煙が出ている、この話が本当にあったことだというのか、確かに富士山頂からは煙が出ている。
「なぜ煙が出ているかと子どもに聞かれて誰かが作った話ですね」
「なかなか良いお考えだ、では、わしの考えも話しましょう」
竹から人が生まれる、これはよくあることだ。竹ばかりではなく、卵、赤い玉、木の根からも人は生まれるし、父親の代わりは木の枝、桃、朱色の矢、蛇、熊、狼でよい、太陽を見ただけでも子どもが生まれる。
「それこそお伽話でしょう」
「誰が何のために作った話だというのかな」
「…」
つまり初代の王の父母が普通の人では困る。王は天から授けられた力の持ち主だから皆が従う。同じようにひとなみ外れて美しい姫も父母が普通の人では困る。
「生まれながらに人間の幸せを知らぬ悲しい人、それだから人々は同情するのだ。さすがに時代が下ると子どもでも納得しないので色々と理屈をつけるようになった」
カグヤ姫はウグイス姫になった。ウグイスの子はホトトギスになる、実はホトトギスが巣からウグイスの卵を捨ててしまい、その後に自分の卵を生むのだが、知らぬ者には不思議なことだ。ならばホトトギスの代わりに人間の姫が生まれてもいいだろう、ウグイスが姫を生む、不思議な話のついでだ。
「お師匠様、それは子どもをだますようなことですね」
「夢のようなことだと思えばよいのです。自分の母は実はウグイスかもしれない、女の子にはそう思う時期があってもいいだろう」
「そう思い続けたら……」
「ホトトギスのような男が現れて求婚するでしょう」
でも、なぜ吉原の郷の話になったのだろう。
「竹取の翁が吉原の人だったという話を作ったのは誰だと思いますか」
「翁の子孫しかいません」
「今はこんな竹細工を作っているが、先祖はすごい人なんだ、そう子どもに思わせれば、親は子どもを後継ぎにすることができます」
富士川を舟で渡り、もちろん舟賃は古今集のお経だ。蒲原を通る道は「親知らず子知らず」という。そそりたつ崖と波のかぶる磯辺の間を危うく道が続いている。こういう道は右近は歩き慣れている。しかし、宗長は一休みをしてからようやく落ち着いた。
「肝を冷やしました」
「お師匠さん、大丈夫ですか」
「こんな和歌を思い出していました」
大海の磯もとどろに寄する波
「さて、右近殿はどんな景色を思うかな」
「目の前の景色です」
見上げる岩に波がかぶり白く砕ける、次も次もと波が砕ける。
「これを詠んだのは鎌倉三代将軍実朝公。伊豆の海の歌だが景色は同じだ、さて右近殿、下の句七七をお聞きしたいものだな」
「俺ならどっしりと動かぬ岩を詠みます。みじろぎもせぬ黒い岩かな、とか」
「なるほど結構、だが少し景色が固まってしまいますね、実朝公はこう詠まれた」
割れて砕けてさけて散るかも
「波のしずくがどんどん小さくなっていくんですね、ずいぶん弱々しい感じだ、戦場では頼りになりそうもない」
「ひどく悪く言われたものだ、確かに猛々しい武者ではありません」
偉大な父親を持つと、それをしのいでたくましく育つ子と、押しつぶされてしまう子とがいる。文武両道の父頼朝に対して実朝は文を選んだ。
「なら、お師匠様ならどう詠みますか」
「波が砕けてしずくになって風に飛ばされていく、どっしりした黒い岩は黙って受けとめている、途切れることなく寄せる波、景色は人の心にとどまります」
「お師匠様は見たまま感じたままを詠みなさいとおっしゃいました」
「その通り、何を見、何を感じるか、それが毎日の修行です」
「私にできますか」
「弟子は師匠を越える、子は父を越える。早雲殿の子息の氏綱殿は父をしのぐ武将です。今川殿の子息はどうなりますことか」
宗長は言わなかったが、過去と現在を重ねれば未来の明暗・美醜が現れる。これから向かう駿府城には小田原城の気迫はない。それを見届けたいと宗長は思っている。
「お師匠様の一番の連歌を聞かせてください」
右近は思い切って聞いてみた。一瞬、宗長は鋭い目となったが、すぐに納得したように表情をやわらげた。
「古今伝授の時となりました。よろしかろう、わが師宗祇と牡丹庵肖柏と私の三人で連歌を巻きました」
雪ながら 山本霞む 夕べかな 宗祇
行く水遠く 梅匂う里 肖柏
「さて私の番だ、遠い山だが春霞が立っている静かな夕…川の流れと梅の香り、里へ続く道…風を起こしたい、豊かで新鮮な色合いを見せたい、私も必死に考えました。右近殿ならどんな景色にしますか」
「じらさないでください」
「川風に 一群(むら)柳 春見えて…とんだ自慢話を披露してしまいました。水無瀬の里で後鳥羽院を思いながら創った連歌です」
薩埵峠を越えて興津に出ると清見寺という巨刹(きょさつ)がある。宗長は自分の家に帰るようにすたすたと門をくぐった。現れた僧侶も名前も聞かずに僧坊に案内した。
「ここではわしは身内、さ、くつろぐがいい」
食事も無言、案内も無言、静か過ぎる夜だった。ただ海鳴りだけが聞こえてくる。ツツジの花、菖蒲(あやめ)の花、卯(う)の花 稲田では苗が青々と伸びている。右近は駿河が豊かな土地であることを知った。
翌朝は湿気の多いくもり空だった。朝食の粥をすするとその場から発った。誰も無言、もちろん二人も無言、それが一期一会だ。
もう府中の城まで道は近い。江尻(えじり)の湊を過ぎたあたりで安倍川が増水しているという話を聞いた。
「何日か歩くばかりだったので舟が恋しいでしょう。三保の松原を見物して安倍川を突っ切り、持舟の湊に着きましょう。それから山越えをすれば私の草庵柴屋軒(さいおくけん)がある。待っている人がいるのです」
最後は少し照れくさそうな表情になった。宗長には妻がいる。娘は9才になる、息子は7才だ。どうやら父譲りで音楽の才がありそうだ。琵琶を弾いて音を外さない。そんなことをポツポツと話した。
なぜ家をずっと留守にして平気なのか、前にも聞いたが返事はなかった。しかし久しぶりに一家が会う場に同席することは右近には気まずかった。それに柴屋軒という家は狭そうだ。右近は頼んで近所の寺に泊めてもらうことにした。
翌朝、一刻ばかりで府中の城に着いた。
「おおこれは宗長様、お久しうございます」
すぐに挨拶に出たのは朝比奈泰以(あさひなやすもち)という武士だった。泰以は柴屋軒から宇津谷峠を越えた朝比奈郷の武士で兄の泰熙の子泰能の後見をしている。実子はいない。柴屋軒を気にかけ、何かと援助してくれている。
「これはこれは朝比奈様、ご恩義ありがとうございます。おかげさまで女房も子たちも息災でおりました」
日ごろの宗長らしくなく挨拶の文句が妙にちぐはぐなので右近は笑いそうになった。
「朝比奈様も連歌にご参会ですか」
「こたびは書き役でございます」
「良きように添削して書き直してください。この若者は右近と申し、わしの一番若い弟子でござる、会に同席させたいのだが招かれておりません。朝比奈殿、なにか策を講じていただけると幸いです」
「では、それがしの脇において書き役の手伝いをさせることにいたしましょう。さればそれがしも楽ができる。宗長殿の句は楽しみだが他の人の作は肩がこりましてな。それこそ書き直したいような気分になります」
「かたじけない、墨をするやら紙を調えるやら、この機会に仕事を覚えさせてください」
右近は分からないままにお辞儀をした。
「して、どなたじゃな」
右近は福厳寺でもらった華やかな小袖に着替えている。髪も寺ですっかり稚児髷に調えてもらったので風采の良い若衆に見える。
「連歌師も弟子も氏素性はござらぬ」
「これは一太刀参りました」
「実を申せば、右近と申し相模の国三浦は長江郷の生まれ、こう聞くと朝比奈殿には多少の縁がありましょう」
「わしは朝比奈弥三郎泰以、わが祖先は朝比奈三郎、和田義盛の子、といっても、朝比奈は海辺のどこにもある名前だ。三郎殿はよほどあちこちの浦で子を生ましたようだ」
泰以は正座し直してわざと堅苦しく名乗りをあげたが、愉快な人物らしい。右近はほっとした。
「和田義盛の母は長江義景の妹でしたか」
「宗長殿は博覧強記だ、そう聞いている」
「八丈島で道寸家臣の朝比奈弥三郎と早雲家臣の朝比奈円明が一戦交えそうです」
「同名ではあるが、どちらもわが一族ではありません。弥三郎の方は道寸殿が代官に任じるときに戯れに、島を治めるのは古来から朝比奈だと名づけたそうです、円明は水手の頭で駿河の円明といっておったが、早雲殿も戯れて、敵が朝比奈なら味方も朝比奈、そう言われた。しかし水軍のことは気になる、どうなりましょう」
「さよう、立ち話でも…」
「これはご無礼をしました。宗長殿と話していると場を忘れる」
「話したいことがたくさんございます」
府中の城で10日間を過ごした。思惑通りに句集「壁草」はすっかり書き写され、その間、二人は手厚いもてなしを受けた。
連歌会は3日にわたって行われ千句と公表される句が書き記されて浅間社に奉納された。
巻き納める儀式が行われ宗長には引き出物が下された。
親しい数人だけで別れの宴を開いた。宗長はすぐに京へ旅立つことにしたと言って右近を驚かせた。
「前年に大徳寺大仙院の本堂が建立した。それに今年は建仁寺で栄西禅師の三百年忌が執行される。大徳寺はわが師一休禅師の寺、栄西は茶の道の祖、ぜひ上洛したい」
それで俺は、と言いかけてやめた。来た道を帰っていけばいいだけだ。旅に出たいと願ったのは自分だから、そのくらいの始末がつかないでどうする。不安と寂しさを飲み込んで深くうなずいた。宗長は全てお見通しだぞというように微笑んだ。
「幸い朝比奈殿のお身内が東国に行くそうだ。ご一緒すれば退屈しないし旅がはかどるでしょう」
朝比奈泰以も微笑んだ。実は前から宗長に相談されていたのだ。
「私が後見する甥の泰能(やすよし)を早雲殿と氏綱殿にお目通りさせる良い機会だと思ったのだ、右近殿、同行してくれますか」
「この後、お師匠様は一人旅になります」
ようやく気づかいを表すことができた。
「右近殿もだいぶたくましくなった。まことに旅は人を育てます、わしなどは育ちすぎてしまったようだ」
「それにあやかって泰能も世間を知るとよい。心きいた郎党を一人つけます」
「泰能殿は何歳になられた」
「16歳になります、まだ婚礼の予定はない。早雲殿の御めがねにかない良い嫁女を世話してくださるとよいのだが」
それなら右近よりも2歳年上ではないか、少し不安になった。
「父親に死なれて叔父の私が後見しておりますが、引っ込み思案で大人しい。そして旅は初めてなので心配でたまらないようです。ぜひ右近殿に旅で鍛えてもらうとありがたい。宗長殿は良い弟子を持ったと喜んでおられる、きっと泰能も良い旅の仲間を持ったと喜ぶことでしょう」
右近は覚悟を決めた。宗長は楽しげに様子を見ていた。
梅雨があけて、すっかり夏空になっている。街道は草いきれに包まれている。宗長を見送って一行は東海道を下った。赤ん坊の頃から泰能に仕えているという老人が従った。
泰能はおっとりとした気の優しい青年ですぐに仲間づきあいをしてくれた。景色を見るたびに宗長の顔が浮かんできて、土地土地でしてくれた話を思い出す。右近は覚えていることを次々に話した。一歩一歩、歩いて行くとまるで書物をめくるように話を続けていくことができる。声音や話し方までが宗長に似てくるので自分でも驚いた。しかし、聞いている泰能は真から驚いたようだ。自分よりも若い右近がこんなにも博学で連歌の技に長けているのか、旅に慣れているのか、すぐに驚きが賞賛に変わった。泰能がいちいち驚くので、右近もつい20日ほど前に通ったばかりの道なのに初めて見るような気になった。宗長の目で見ていた景色を自分の目で見直している、そう感じた。
「右近殿はどんな修行をされたのだ。宗長殿に厳しく鍛えられたのですか」
「俺は漁師の子です。お師匠様の身の回りの世話をしているだけです」
「私は何をやってもダメだ、期待されたことが何もできない、叔父も愛想をつかしていることだろう、それが辛い」
「お師匠様は言われました。栗の実ははぜるまで食べられない、無理に食べてもうまくない、梅の実などは青いうちに食べると死んでしまう。熟れるまで待て」
「今年もたくさんの桃の実が嵐で落ちてしまった。私なども熟す前に地面に落ちるのではないかと心配している」
「枝にしっかりつかまっていれば嵐は去ります。失礼ながら後見というのはそういう役ではありませんか」
「父の後に叔父が朝比奈の家を継げばよかったのだ」
「泰以様は愉快な方ですが、この上なく律義です。そして、あなたの才気をよくご承知です。だから時季がくるまでしっかりと枝にしがみついていらっしゃい」
「これからお会いする早雲殿とはどんなお人なのか」
「眼光鋭く油断のない」
「では氏綱殿は」
「眼光鋭く油断のない」
「同じではないか」
「早雲様とは苦労が違います。富士山を麓から登ったのが早雲様、五合目から登るのが氏綱様です。胸突き八丁といいます、山道は登るほど険しくなります」
「当意即妙(とういそくみょう)、感心いたします。それも宗長殿の知恵か」
「はい、富士を見ながら歩いていてそんな話をされました」
「連歌の修行とはそういうことか」
「聞いて忘れないことです」
当意即妙と泰能が言った言葉の意味が分からず見当をつけて答えたら当たったようだ。なるほど連歌師は当意即妙が極意なのだ。
「こんなことを思い出しました。大師匠の宗祇様の話です」
宗祇を困らせようと誰かが難題をかけた。
二つあるもの四つに見えけり
宗祇は即座に返した。
月と日と入江の水に影さして
もう一人が言った。
五つあるもの一つ見えたり
月にさすその指ばかりあらわして
もう一人が言った。
メともいうなりモともいうなり
宗祇は
引き連れて野飼いの牛の帰るさに
二人は笑うやら感心するやら
「右近殿も何かやってみてください」
「俺はまだ小僧です」
よむイロハ 教える指の下を見よ
「これは驚いた、右近殿はすごい」
「いえ、これは今の話の続きです。宗祇様がお答えになったのです」
「なるほど覚えて忘れない。しかし出し惜しみする、それが連歌師の極意ですね」
早雲は韮山城にいる、小田原城は氏綱に委ねてしまった。城門で別れる時には二人は兄と弟のような気分になっていた。兄はしっかりした優れた弟を得た喜び、弟は優しく包みこんでくれる兄を得た喜び、二人は別れがたくて何度も行きつ戻りつした。郎党の老人はその様子を見て、しきりに目をこすって涙を見られまいとしていた。
「城に一緒に入ってくれ」
「私は招かれていません。早雲様は厳しく礼節を守る方です」
「氏綱殿なら許してくれよう」
「早雲様の不興をかいたくありません」
「…」
「またお会いしましょう」
「今年中に必ず」
「それは無理です。しかしお師匠様が帰られたら必ず、それはお約束します」
韮山を出てからは何も考えなかった。景色も色あせて見えた。ひたすら家に帰りたくて急いで歩いた。
魚見の台で漁師たちが火を起こしていた。冷たい雨が朝夕降って、海面はモヤに覆われている。風は激しく吹く日があったり、ベタ一面に凪いでしまう日があったりして漁師たちは海に出ることができなかった。
まだ十分に熟れていない楊梅の実を口にしながら惣兵衛がつぶやいた。
「八丈島にはいつ舟が出せるかの。米、味噌は底を尽いているだろうに」
ぼんやりしていた漁師たちはようやく話題を見つけて口々に言い始めた。
「親戚同然の人たちだ」
「四方が海、島では待つだけだからの」
「わしも風待ちで二十日の間、島にいたことがあるが、その心細いこと、毎日、早く帰れるようにと神さんに祈ったわい」
二本松という荒くれ男がしおらしいことを言った。
「お前なんかに祈られては神さんも困るだろう」
「まったく、ふだん忘れてくれているから神さんもほっとしておったのにな」
「二ツ岩の玄爺は酒が飲みたくてイライラしておろうが」
「その婆さんも飴がなめたくて爺さんに当り散らしておろう」
「いつ漕ぎ出せばいいのか、この風が変わらなければ吹き戻されるだけだ」
「アトリ丸も海に出たがっておるだろう」
百石ばかり積む荷船だが船足が速くて島通いの便船に重宝している。船首の水押(みよし)のケヤキ板に節があって茶色い胸に白く斑の入った翼を広げた小鳥、アトリのように見えるので皆がその名で呼んでいる。
「米、味噌、酒かいの、干魚なども不足しておろう」
波が出ると漁師は海に漕ぎ出せないので島は魚に不自由する。
「この前、糸と針を頼まれていた、布もないし薬も切れていることだろう」
「不自由なものだ、それでも住みたいかの」
「戦さがないから」
一同は黙り込んだ。新井城が包囲され戦闘がまったくないので郷の暮らしは平穏だ。しかし三浦の武者たちの運は尽きそうだという暗い思いがたちこめた。
「道寸様は風雅を知るお方だから、ご自分の小早船に八景の名をつけられた。夜雨、晩鐘、帰帆、晴嵐、秋月、落雁、夕照、暮雪とな」
惣兵衛がなつかしそうに言った。
道寸の小早船は二十丁艪で水手20人と舵取りを乗せる。船が細長いので兵は十数人しか乗せられない。
「しかし、それは水手どもには難しい名だ、それで自分たちで勝手に名をつけた。へさきに大きな木のふしがある、それで節丸だ。海の真ん中でツバメが帆柱に羽を休めた、それでツバクラ。沖泊まりでイカリを流された、それで知盛。イロハとか牛若とかいろいろあった。どれも立派な船だった。わしは節丸が好きでいつも乗ったものだ」
その軍船も過半は分捕られたり沈んだりして、残りは三崎十人衆が早雲の目につかないところに隠している。
惣兵衛がわざと陽気な声をはりあげた。
「二本松、お白粉と紅を忘れるなよ」
「あっ、オラちょっと鎌倉まで行ってきますべぇ、いつ船出してもいいように」
「わしの許しなしに出てはならない」
「親方、意地悪はなしだ、オラの姉子(あんこ)が待っておるから」
「神さんには頼まないのかい」
一同がどっとはやした。
晴れた日には目と鼻の先に見える大島を横目にして五つの島が見える。それを越すと八丈島だ。しかし、その間には黒瀬川という海の真ん中を流れる川がある。その流れの速いこと、性も根も尽きるほど懸命に力漕してようやく渡ることができるのだが、風が悪いととんでもないことになる。
水手はただ海をにらんでいるだけだ。
「諸磯の茂爺は来てくれるのか」
「ああ約束している。ただいつもと同じように秋が終わらないと風が変わらん、冬の初めだと言っている」
諸磯の茂太は三崎十人衆の水手頭だ。海賊働きのときには出てこないが、水軍として出陣するときには先頭に立つ。汐見の茂爺と呼ばれて、太陽と空を見、雲と風を予想し、潮を測る名人で大将方の信頼も厚い。八丈島に渡るためには是非とも乗ってもらわなければならない。
茂爺は三崎諸磯の水手の末っ子、生まれながらに足が曲がっていてヨチヨチ歩きしかできなかった。父親が不憫に思って手元から離さない。以来60年を海で過ごした。かしきとして食事を作り、商いのときには帳面をつけ、舵取りとして舟の方向を定めた。今は海にかかわる森羅万象を記憶している汐見の茂爺になった。
壮年のとき、八丈島の女を妻にして連れ帰った。以来、女の子ばかり5人をもうけた。
その妻の母が巫女(みこ)だったことは後で分かった。島には巫女がいる。占いや予言の霊感をもち、病気や悩み事、作物の収穫や海の恵みなど島人の相談に乗る。子を産み終わったあとに霊力が生じてくるらしい。夫婦が睦みあううちにその力が爺にも伝わったらしい。巫女は死者と交信をするが、爺は海のことを予感することができた。亀の甲羅を焼き、難しい顔で割れ目を占い、ゆるぎなく決断を下す様は威厳に満ちている。
爺は船のへさきに立ち、風に白髪を乱し、キッと行方を凝視した。まるで海神ワタツミのように見える。水手たちは深く信頼している。
伊豆七島は鎌倉の頃は北条の支配下で静かに暮らしていた。関東で戦乱が始まると八丈島に菊池治五郎という相模国神奈川の領主奥山宗麟の代官がやってきた。
「ちょうど、わしが生まれた頃、大昔だ。上杉の誰かが島のことを思い出したのだろうな、年貢を出せという、迷惑なことだ」
八丈島と八丈小島と青ヶ島が年貢の領域だ。菊池治五郎は氏神の宮を建て、宝明神と名づける神体も運んできた。そして島に代官役を残して帰っていった。島には年一回、舟が通うようになった。暮らしの様々な物を届け、年貢を受け取った。しかし困ったものも運んできた、おこりやまいという熱病だ。続いて天然痘がもたらされた。時には島人の半分が死んだ。難破船も危なかった。嵐で打ち上げられた伊勢の舟は猛烈な下痢の病いを流行らせて、おびただしい島人の命を奪った。
舟の便もよく滞った。ある年は代官役だった八郎次郎が浜に打ち上げられた材木で船を造り年貢を奥山宗麟に届けた。12反帆の200石を積む舟だが島にはそれだけの米は取れない。布やカツオ節を届け、衣食の材を求めた。宗麟は喜んで願いをかなえた。その後、八郎次郎は代官役を息子新五郎に譲った。
それから12年経ち、代官の新五郎は死に、弟の八郎五郎が代官役となって年貢を届けた。
それが足利茶々丸を早雲が自害させ伊豆を支配した時だった。早雲は道寸と同盟して奥山宗麟から伊豆七島を奪い、八丈島にもそれぞれの代官を任じた。道寸は三崎水軍の朝比奈弥三郎を現地に行かせて中之郷を支配させた。早雲は下田水軍の長戸路七郎左衛門を代官にした。長戸路は現地の八郎五郎を代官役にした。
島は相変わらず飢饉と噴火と嵐に苦しんだ。7年後の飢饉は特にひどかった。人々は里で暮らせず山に入って食べ物を探し、飼育していた牛まで食べた。飢饉は3年続いた。役人と神主、寺の坊主と御用船を預かる船頭さえ困窮した。たまりかねた船頭の與次郎は舟を出して下田に渡り代官の長戸路七郎左衛門に窮状を訴えた。食料と穀物の種を積んだ舟が帰島し、全島に配られて島人はやっと蘇生した。しかし、これを聞いた早雲は激怒した。責任を問われた長戸路は道寸の許に逃げて、浅沼と名を変えて新井城にこもった。早雲は自分の思うとおりに八丈島を処置しようとしていたのだ。
道寸の代官の朝比奈弥三郎は中之郷に新田を開発しようとした。しかし島人は新たな負担を嫌がり、神の祟りがあると言いふらした。神は日和を支配する、風が起これば舟が出せない。新田計画は挫折した。
ようやく風が変わって惣兵衛一行の船は八丈島を目指した。水手が20人、茂爺は船首に舵取りの惣兵衛と二本松は船尾に立った。水手は声をそろえてお舟歌を歌ったが小田原方に見つからないように夕闇の頃に船出した。見送った右近も郷人たちも暗くなった海に歌声が流れてくるのをいつまでも聞いていた。しかしどんな闇夜でも惣兵衛と茂爺が乗っていれば安心だ。たぶん二ヶ月はかかる航海だが郷の人たちに不安はなかった。
船には武者が2人乗っていた。鎧兜(よろいかぶと)に身を固めた屈強な男、長戸路七郎左衛門の息子だった。早雲に恨みがあり、島のことをよく知っている。戦いとなる予感があったし、旅先から宗長の手紙が届いて武者を同行させることを勧めていた。どうして宗長が企てを知ったのかと惣兵衛はいぶかったが信頼する宗長の言葉に従った。
正月の少し前に船は戻ってきた。
20人の水手は元気いっぱいで森戸の社に船をつけたが、荷物を降ろすと船はすぐに回航していった。三崎を回り六浦の湊に行くらしい。まだ小田原側の手の届かないところだ。
3日たって惣兵衛も茂爺も水手たちも郷に帰ってきた。山越えは少しきついが行程は半日だ。
すぐに宴会になったが茂爺は諸磯に帰るという。茂爺は酒を浴びるほど飲んでケロッとしていることもあり、食べ物飲み物をまったく受けつけずにじっと瞑想(めいそう)にふけっていることもあり、気楽につきあえる人ではない。海の上ではこのうえなく信頼できるが、陸に上がるとわけのわからない人になる。そのことをよく知っている惣兵衛は息子に小舟を出させて諸磯まで送らせた。もちろん水手たちはほっとしている。
「あの荷物は八丈島の年貢だ。折を見て新井城の道寸様にお届けするのだ」
「話はそんなに簡単ではすまないぞ、合戦中だよ合戦中」
二本松ががなりたてた。
島には早雲側の年貢を取りにきた代官役の八郎次郎と次郎三郎と船頭の三人が逗留していた。その年も島は飢饉で苦しんでいて年貢が集まらない。三人はとりあえず漁師に頼んで下田の代官の左衛門に書状を送った。それを聞いてまた早雲は激怒した。島人が道寸側と共謀して謀反を企てているのだろう、その剣幕に怖れて左衛門は逃亡してしまった。すぐに早雲は船を仕立てて、武具をそろえ具足を作り道寸側と戦うよう命じた。
それからしばらく経って惣兵衛の船が到着したのだ。
「さすが陸の上では武者はすごいね、鎧兜でヤリを構えて進んでこられたら、ひょろひょろ弓矢なんかはじき返したよ」
「牛革の具足なんかなんの役にもたたないものだ」
島では具足を作る材料がない、仕方なく貯えていた牛革で腹当てを作ったのだ。
「武者が突進すると相手は逃げたよ。その後を俺たちがついていく。皆、地面に頭をつけて命乞いした。ああ良い気分だった」
「ついに相手方は代官役の八郎次郎と次郎三郎を縛って連れてきた。こっち側の代官の与三郎様はすぐに許して縄を解かせた」
「2人は泣いて喜んでね、酒だ米だと持っているものを全部差し出した」
「年貢はぜんぶ頂戴し、酒をたらふく飲み、幸先良しと一目散に帰ってきたのさ」
「あの武者、浅沼様二人は島に残るってさ。下にも置かぬもてなしを受け、きれいな娘にかしづかれて幸せそうだった」
代官弥三郎も武者に残っていてもらいたかった。島にも戦乱が始まったのだ。
「二本松は婆さんにもてなされたな」
「二言目には南無阿弥陀仏のお念仏だ、いったい誰が教え広めたのだろうな」
苦い気持ちになった。母も祖母も念仏を唱えている。一休禅師は念仏を唱えて金儲けをする坊さんの悪口を言っている。すると笑いたくなった。お師匠様はお経の代わりに古今集を唱えている。信じているならそれでいいのだろう、そう思うと気が楽になった。
島一番の寺は宗福寺という。鎮西八郎為朝の子、二郎丸が親の供養のために建立し弥陀寺と名づけた。それはすぐに島人の寺になった。二郎丸の母は島人だ。奥山宗鱗が禅宗をもちこんで宗福寺となった。この勢いでは武士の影が薄れるとすぐに浄土宗になるだろう。
右近は浮かれ騒ぐ水手たちの輪の外にいてしきりに早雲の顔を思い浮かべていた。思慮深く機略にあふれる早雲は次にどんな手段を用いるのか、道寸が押し込められている現在では朝比奈弥三郎の勝ち目はない。あの武者二人も先の知れた命だ。これ以上、祖父にも父にも八丈島にかかわってもらいたくない、危ういことだ。
「三崎の衆にもこの事を伝えなければならないな」
誰かが言うと二本松が立ち上がった。
「行ってくる、善は急げだ、ついでにお城にも伝えてくる」
「だいぶ酒を飲んだが大丈夫か」
「人に知られた長江の舵取り、二本松じゃ」
しかし二本松は帰らなかった。舟だけが漂っているのを引き揚げられた。酔って海にはまったという者が多かったが海の魔物に取られたのだという者もいた。あんなに早く茂爺が帰ったのは危険を察知したからだという者もいた。
「小田原様か」
右近はそっと祖父に聞いた。
「お手がずいぶん長くなったな」
「八丈島にはもう行かないでください」
「三崎衆にまかせるのがいいだろうな。今度のことでわしも義理を果たした。もはや島は早雲殿のものだ」
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