永正九年八月、伊勢早(そう)雲(うん)は岡崎城を攻めて三浦道寸(どうすん)を敗走させた。岡崎城は金目川を西の守りとし周囲を湿地で囲んだ要害で、古く鎌倉の時代から岡崎一族が城を構え東海道を押さえていた。戦さが長引くのを嫌った早雲は城方の何人かを調略して、門の閉まりを外させ夜襲をかけて一気に攻め落とした。守っていた三浦道寸以下の武士たちは暗闇を駆けに駆けて、ようやく道寸の弟の三浦道香(どうこう)の守る小坪の住吉城に逃げ込んだ。しかし、陣を立て直す間もなく早雲の軍勢が殺到した。早雲はこの戦いで三浦一族を滅ぼし関東を奪い取る決意を固めていたのだ。住吉城は城というより砦に等しく包囲戦に耐えることはできない。道香は兄を逃がそうと大手から討って出た。その間に搦(から)め手から道寸一行は浜辺を走って鐙摺(あぶずり)の砦に入った。道香は田越川の延命寺で力尽きて切腹した。亀ケ岡八幡宮の近く、先祖の三浦一族が源頼朝を招いて宴を張った晴れの地であった。
鐙摺の砦にはもう一人の弟が詰めていた。早雲は百人ばかりの兵を名越の切通しから沼間を通りぬけ長江に繰り出して桜山で狼煙(のろし)をあげた。鐙摺の城兵は背後の敵におびえて逃走した。早雲はもう八十才になろうとする老人だったが少しの疲れも見せずに追撃を命じた。鐙摺の砦は火をかけられ小田原城に戦勝を伝えた。
秋谷(あきや)の砦で道寸は兵をとどめた。長者ヶ岬の急坂に守りの柵を立て、逃げ込む兵を収めながら防戦しようとした。しかし早雲の軍は津波のように柵を乗り越え、守りの兵を粉砕した。芦名(あしな)、和田と小さな砦は続いているがとても敵の勢いを食い止めることはできない。その後には本拠地油壺(あぶらつぼ)の新井城しかなかった。そこは道寸の嫡子義意(よしおき)が守っている、並外れた剛力を持つ頼もしい男だ、さすがの道寸も今はそこに逃げるしかなかった。
秋谷も芦名も三浦の兵たちの屍(しかばね)を残して炎に包まれた。早雲はようやく追撃の勢いを遅らせ、山に隠れ磯に潜んだ落ち武者を捕らえながら陣を構えた。
新井城は固く守られており一気に攻め落とすことはできない、早雲は息子の氏綱(うじつな)に玉縄城を修築させて包囲の拠点とした。
「おお、生きておったか、よかった」
「恐ろしいともなんとも」
「ああ侍などに生まれなくて…幸せだ」
郷の住人たちが姿を見せたのは7日もたってからだ。いま郷の真ん中に集まって寄合を開いている。およそ百人ほど、男も女も老人も子どもも郷人全部が集まっていた。
「わしらの隠れているすぐ下を雑兵衆が走りぬけた、手に持った刀が光ったよ」
「川に水をくみにいったらドッと三浦方の鎧武者が逃げてきてな、その後を小田原の馬乗り衆が追いかけてきて恐ろしい叫び声が聞こえた。きっと討ち死にしたのだろう」
郷人たちは目の前にした戦いの様子を語り合った。
「おら、山芋掘りに行っただ。尾根道を横切ろうとしたら物音が聞こえた。ガチャガチャと鎧の音を響かせて武者が一人、走り上ってくるだ。おら、あわてて木によじのぼった」
一筋続いている尾根道の下の方でキラリと何かが光った。さっきの道の先にヤリの穂先が飛び出した。それをかわした武者が刀を構えてヤリの根元に飛び込むと、胸を貫かれた雑兵がウォという声を立てて転がり落ちた。またヤリが突き出される、柄をつかんでねじると雑兵は横倒しになる、それをめった刺しにする。逃げようとしたもう一人を素早く刺す。それでようやく静かになった。伏せ兵は見張りだったようだ、首を取るほどのものではない、武者は死んだ雑兵共の額に刀で八の字の印をつけて走り去った。
「全部、見届けただよ、ああ怖かった。夢に見るよ」
もう一人、若い男が前に出た。
「おら、山を越えて鐙摺の磯に貝を拾いに行っただ」
すると山の麓から大きな叫び声が聞こえて矢がパシッと木に立った、流れ矢だ。また弓弦が鳴った。木の幹を盾にしてそっと山を下っていくと、もう一本矢がとんできた。雑兵が一人矢に当たってもがいている。武者が林を走ってきて弓兵にのしかかり、あわてて刀を抜こうとする兵を肩先から切り裂いた。
「むごいものよな、前には侍になって手柄を立てて出世したいなんど思ったが、ごめんだね、百姓が一番いいだ」
「おら、田越えの渡し場に洗濯にいっただよ、朝早くにだ」
すると馬のひずめの音が高らかに聞こえてきた。背に小旗が翻っているので伝令らしい。川岸に隠れていた雑兵がヤリを馬の足にひっかけると馬は棹立ちになり武者はあやうく飛び降りた。身構える暇もなく雑兵は飛びかかり覆いかぶさって胸に短刀を突き立てた。若い武者だった。いい装束をつけている。甲を払いのけ短刀を首に押し付けて引くと血が噴出した。雑兵は首と兜を持って一目散に名越の切通しの方に走っていった。
戦場には手負いの落ち武者狩りや鎧兜、槍や刀を拾い集める男たちが右往左往して殺気立っていた。ようやく戦場の嵐が去り山も郷も静かになったのを見定めて人々は隠れ家から戻ってきたのだ。
「郷は焼かれなかったんだな」
「鍋釜も着物もなにも盗まれてはおらんぞ」
「田も畑もまったく荒らされていない、これは不思議なことだ」
戦場となった村は悲惨だ。乱妨(らんぼう)取りといい、一物残さず略奪され焼き払われ、男女、子どもばかりでなく老人までもが捕らえられ連れ去られる。しかし、長江の郷は平和なたたずまいを残していた。
「神仏のご加護だ」
「いや小田原の早雲様のおかげだよ」
郷の屋敷に戻った長老の前に三十人ばかりの雑兵が現れ、頭(かしら)と見られる男が名乗りをあげて郷を守ったのは自分たちだと誇ったという。驚く長老に、早雲様の命により当面この郷に滞在すると告げてさっさと屋敷に入っていった。長老一家は親戚の家や寺に分散して住むより仕方なかった。
雑兵たちは郷のことを驚くほど知っていた。家々の数、田や畑、井戸の場所、広い道から谷戸の抜け道まで細かい絵図を持っていた。
戦いが始まる前に早雲が調べさせておいたものだ。
彼らは戦うことしか知らない粗野な男たちだ、気が荒くでたらめで陽気、賭け事をし大酒を飲み肉を食いケンカをした。しかし郷人には手を出さない、乱暴するとその場で切り捨てるという強い掟が言い渡されていたからだ。彼らは兵糧も酒も郷人に分け与えるほどたっぷりと持っていた。
「小田原様はありがたい、なんと民に情けをかけてくれるのか」
「三浦様よりよほど良いお方だ。年貢も安くしてくれるそうだ」
それが早雲の方略、新たな領民を支配する策であったが戦乱を免れた郷人にとっては神仏よりもありがたかった。
この郷を戦乱から救ったわけは他にあった。西の谷の中腹に小さな庵があって宗長という老人が住んでいる。
雑兵の長は、以前に宗長が親しく早雲と談笑しているのを見たことがあった。そして住吉城攻撃とともに早雲に直接呼び出されて厳命された、長江の郷を固く守れ、不都合を起こせば全員が首を失う。そんなことは郷人は知らない。
「おお、坊様もご無事でしたか」
「いや、わしは連歌師だよ、ありがたいお経などは知らぬぞ」
「宗長などというのは坊様のお名前だ、それにこの庵室は福厳寺のご住職のものだ、ここを貸してもらってお住まいになっているのだから坊様だよ。第一、マゲを結っていない」
宗長は連歌の宗匠だ。諸国を旅して和歌を詠み、土地の人と連歌を楽しむ。福厳寺の住職ともなじみなので庵室を借りて住んでいる。しかし連歌師などという名前を聞いたこともない郷人は、庵で一日中書籍を読み、書き物をし、尺八を吹く人、住職と親しい人を坊様と思うのは当然だった。
「あの雑兵衆は伊豆のなまりがあると誰かが言っていたが、確か坊様もそちらの人だの」
「駿河の国、島田の鍛冶屋の生まれだよ」
「なんだか雑兵の頭は坊様のことをひどく大事に思っておるようだぞ」
「ああ早雲殿も道寸殿も連歌の知己だから、それで大事にしてくれるのだろう」
「わしらレンガもチキも何も分からんがお前様にいてもらって本当に良かったよ。今、聞けば鍛冶屋さんかい、今度、鎌が欠けたり釜に穴があいたりしたら持ってきますからよろしく頼みます」
宗長は師匠の宗祇と陸奥の旅に出た時に大田道灌と親しくなった。その縁で三浦道寸とも厚誼を結んだ。二人とも名だたる武将で連歌の上手だ。道寸の娘は娘を道灌の息子に嫁がせた。早雲も室町幕府に仕えていたころから連歌が巧みだった。早雲が仕えていた今川氏親も宗長と親しく連歌を詠んでいる。
連歌はこの時代に盛んになった文芸だ。何人かが交互に五七五・七七・五七五と句を詠み繋げていく。句ごとに季節や恋を詠むなどの規則があり百句を連続させるのが基本だ。詠み手の機知と個性が自由に発揮され流れるように情景が変化する。そこから達人が生まれて師匠となり全国を巡る。地方の武士たちは師匠の来訪を心待ちにした。宗祇は当代一の大師匠、弟子の宗長も名人だった。もっとも京童からは四条河原の落書では、
京鎌倉ヲコキマゼテ、一座ソロワヌエセ連歌、
点者ニナラヌ人ゾナキ、と辛らつにからかわれている。
「お師匠様、ご入用のものはありますか」
軒端から声をかけて少年が入ってきた。まだ連歌も尺八も教えていない少年に師匠と呼ばれる、宗長の心は和んだ。少なくとも坊様と呼ばれるよりはいい。
「さきほど郷の人がきて何やら畑の物を届けてくれた。右近殿は料理が上手だから夕飯が楽しみだ」
右近と呼ばれた少年は野菜を受け取った。
「立派な茄子だ、これは北の谷で採れたものでしょう。この豆は本郷の畑です、栗は早生だから南の谷でしょう」
「右近殿は野菜を見ただけで分かるのか」
「本郷は川沿いの砂交じりですから豆には良い。北の谷は南風が吹くので茄子には良い、栗は昨日、俺も手伝ってイガを取りました。栗の雑炊に茄子の油味噌炒め、枝豆はゆでておきます。お酒もありますよ」
庵の周りには秋の七草が咲き始めている。月が山に明るい光を送ってくるまではまだ時間がある。
「では一献するとしようか」
「ぜひ今晩も尺八を聞かしてください」
右近は福厳寺の住職に命じられて宗長の世話をしている。老人は興に乗ると歌を歌い尺八を吹く。西の谷の人たちも木々の間から聞こえてくる音色を楽しんでいた。こんな殺伐とした出来事の後だから歌声に涙を流す人も多かった。
宗長はふっくらとした温顔で小さな口許にいつも微笑を浮かべている、何よりも春先のワラビのような形をした大きな福耳が印象深い。おだやかな物腰は誰にも好かれている。あの方といるだけで気持ちほんわり温まるようだ、雑兵たちでさえもそう言って丁寧な言葉で挨拶した。
本郷の高札場に早雲殿の布告が貼り出された。夫役だった。一郷に十人ずつ、戸主または相等しい者が鍬(くわ)とモッコを持参して霜月十五日に玉縄城に集まれ。十五日間の手伝いに銀十匁または相当の米と塩を与える。郷人は自分たちを守ってくれた早雲に感謝の気持ちを感じている。
「小田原様はおらたちの親のような慈悲をたれてくれた。なんとか恩返しをしたい」
しかし長江の郷から玉縄に行く道はまだ物騒だった。小坪に出るには住吉城の門前を通らなければならない。焼け落ちた城跡は凄惨だ。名越の切通しから釈迦堂切通しを通り、迂回して半増坊を左に見ながら山越えをして田谷から東海道を上ることはできる。しかし、そこには敵とも味方ともつかない野武士たちがたむろしている。
「やはり舟を出すしかないの」
「惣兵衛殿に骨を折ってもらいましょう」
惣兵衛は右近の祖父、長江の郷の水手(かこ)を束ねている。もう還暦をはるかに越えた老人だが知略はいよいよ磨かれ威厳があり郷人はなにかと頼りにしていた。
闇にまぎれて夜明けまでに片瀬川をさかのぼれば玉縄城近くまで行くことができる。
「それはわしも思っていたところだ」
惣兵衛は快諾した。
「惣兵衛殿はどうして玉縄に行こうとしておられるのか」
「八丈島のことが気にかかっている」
伊豆の島々もまた騒乱の中にあった。早雲と道寸はそれぞれの水軍を駆使して争っていた。米も穫れないし人も少ない島々だったが、目の前に浮かんでいる島々は支配者にとって捨てがたいものだ。そこに敵の水軍がいすわっていては船の航行ができない。
「早雲様に会ってお願いしたい。島は餓えているだろう。この戦さはしばらく日がかかりそうだから、食べ物を運んでやりたい」
一行は10日ばかり城普請に出かけて行った。惣兵衛は早速に願いを述べたが早雲は許しを与えなかった。しかし息子の氏綱は後日また話しておこうと約束してくれた。
殿ヶ谷から流れて長江川に注ぐ小さな流れの脇に、悪い水が湧き出した池がある。物の腐ったような臭いがつんときて、死とかケガレとかを思わせ不吉なので郷人は近づかない。ところが足軽たちは池をさらって4・5人も入れる四角い穴を掘った。臭い水はすぐに穴に溜まった。
「このくらいの、そうだお前の頭くらいの石を拾ってこい、銭1枚やる」
旗持ちの足軽が言うと子どもたちは急に欲深くなった。
「1つで1文かい」
「3つで1文だ、拾ってくるだけだろう」
「海までは遠いよ、2つで1文さ」
「欲張りめ、まあいいとするから早く行ってこい」
「いやご苦労だったが2日のうちにこんなに集めたのか」
「いくつあるか数えておくれ」
「おうおう、30個もある、皆同じくらいの大きさだ、よくやったぞ、さあ約束だから15文渡すぞ、重かったろう、海までは遠いからな」
「誰が海まで行くかい」
「なんだと、ならどこから集めてきたのだ」
「この裏山には昔、城があったのさ、馬防ぎの石積みが崩れてごろごろしている、半刻もかからなかったよ」
「えっ、こいつ俺をだましたのか」
「海は遠いといっただけで海から拾ってくるなんて言わなかったよ。それに海の石は塩を吸っているからしょっぱいぞ、山の石の方がずっと気持ちいいぞ」
「なんという奴らだ、大人をからかうとろくなもんにならんぞ」
「足軽くらいにはなれますよ」わあわあと笑いながら行ってしまった。
「この戦さはお前の負けさ、首が無事なことを喜ぶんだな」
頭に言われて旗持ちはしょんぼりしたがすぐに可笑しくなって大声で笑った
さあ湯につかれるぞ、この前から体がむずむずしておった虱に噛まれての、極楽、極楽垢が落とせる、そんなことを叫んだり笑ったりしながら足軽たちは火を起こし丸石の周りに薪を積み上げ大きな焚き火を燃やした。
「もう少し水があった方がよかろう」
頭(かしら)がそう言うとすぐに一人が太い竹を切って半分に割り、流れのよどみにあてがった。水が穴に流れていく。
「湯が熱すぎたらこれでうめるんだ、お前は湯の番人になれ」
「へぇ、なら俺はいつ湯に入れるので」
「最後だよ、それから汚れた湯を水であふれ出させてきれいにする、湯の番、頼んだぞ」
石が熱く焼けると転がして穴に落とす。激しい音と蒸気が立ち上る。
「うん、いい湯加減だ。4人だけ入るぞ」
もう頭は裸になって湯に入っている。
「あちちち」
続いて入ったものが悲鳴をあげた。
「馬鹿、枝の上に乗らなければ足を焼くぞ」
裸のまま飛び出した男が木の枝を求めて走り回る。足軽たちは大笑いをした。
「次のやつらが入る前にまた焼け石を入れてやれ」
郷人も集まってその様子を見ている。
「わしらも湯に入っていいかね」
長老がおそるおそる聞く。足軽は頭から湯気を上げて顔をてらてら光らせていた。
「ああ、いいとも。郷の人には世話になっておるから少しの恩返しだ」
ここに来て初めて見せる人の好い顔だった。
郷人たちは何人かで薪をかついで温泉に来ると同じように湯を沸かした。女と子どもを湯につからせ、自分たちもワアワア言いながら沐浴(もくよく)を楽しんだ。
「さすが伊豆の衆だ、温泉を見つけるのには慣れているの」
「お師匠様も入りに行きませんか」
「そうしよう、湯につかって尺八を吹くのもいいかもしれんな」
「郷人も喜びますよ」
葉山温泉 足湯
場所 長柄殿ヶ谷 地下40メートル 海底火山の噴出火山灰 凝灰岩
成分 ナトリウム塩化物 炭酸水素 アルカリ性低張性冷鉱泉
効能 神経痛 うちみ 切り傷 やけど アトピー 痔 疲労回復
残念ながら今は温泉スタンドだけです
7月29日は宗祇の命日で8月1日は八朔(はっさく)の祝いの日だ。ふだんなら宗長は精進と慶事とが重なって多忙だったが、ここでは静かに過ごしている。
「師匠の命日の供養は私だけで済ませました。しかし八朔の祝いをしたい人がいるのを忘れていた。時期は遅くなったが仕方ない」
京都の八朔の祝いは大変な物入りだ。もともとは「田の実の節句」稲が実ったお祝いだが、それが武士の行事となると盛んになった。弟子は師匠に家臣は主君に、主君は公家や管領に、公家や管領は将軍に贈り物をする。馬や刀、書画や骨董だがそれぞれの目利きが即座に値段を判断する。守護くらいになると百貫(注・約一千万円)ではとても足りないくらいの費用がかかる。相手の喜ぶ物でないと後々まで評判を落とす。逆に気に入られると様々な恩恵にあずかる。
足利将軍は領地も軍兵も少ししか持っていない。戦争、御所や寺社の修繕、儀式や宴会まで家臣に負担させた。家臣の屋敷や寺社をひんぱんに巡って献上品を受け取り、それをまた家臣に下賜する、そんな物々交換のような暮らしをしていた。将軍義政室の日野富子などは金貸しをして収入を支えていたという。幕府は贈り物の習慣はなくせない。
「右近殿どうだろう、道寸殿に八朔の祝いを届けてあげよう、あわせて合戦で討ち死にした道香殿や武士たちの供養をしてやりたい」
宗長に言われて右近はびっくりした。
「だけど新井城は厳重に包囲されています」
「連歌師はどんな道でも通っていくよ」
「お命があぶなくありませんか、なぜそんなことをするのですか」
「お顔を見たいし話もしたい。茶を進ぜましょう。道香殿には追善の連歌を詠んであげましょう」
ふと右近は疑念を持った。早雲殿はもう高齢だから少しも早く城を落としたいだろう。しかし道寸は武勇に優れ、息子の義意という当代一の豪傑が側にいる。力攻めをすればたくさんの死傷者がでよう。この乱世では今日の味方は明日には敵になっている。弱みを見せればすぐに食いつく猛獣のような武士たちに囲まれている。だから戦いをやめて道寸と手を結びたい、師匠はその和議を頼まれているのではないか。
「道寸殿が会いましょうか」
「心配ない、それに道寸殿の母上、奥方、お娘ご、義意殿の奥方のことも伝えたい。舟は手配できますか」
道寸の母は大森氏、奥方は横須賀氏、娘は大田道灌の息子資康と結婚、義意の妻は真利谷氏だがそれぞれ父の土地に隠れている。
「お師匠はなんでもご存知なんですね」
「連歌の席、茶の席というのは心が開ける場所だからね、それに連歌師というのは物を忘れないたちなのだ」
この季節は大雨大風の荒れた天気になることが多いが今年はよく凪いだ。祖父惣兵衛と右近が舟を漕いで新井城へ向かった。惣兵衛は右近がお気に入りで小さい頃から手元に置いて可愛がってくれる。そして舟の艫(とも)には宗長が澄まして座っている。
「たぶん舟路にさわりはありますまい。昼前には油壺に着きます。敵にも味方にも宗長殿のお顔は知れ渡っています、とがめる者などおりません」
惣兵衛も澄まして言う。
「それは心強い、こんな顔でも役に立ちましょうかな」
しかし右近は知っている、父や兄や祖父は何度も城に行っている。米や野菜を運び、干魚を届けている。三崎の城が島の隠れた岩屋を本拠にして、浦々の舟が道寸の後盾となって籠城を支えている。
舟は入り江にすべるように入った。どんな嵐の日でもさざ波ひとつ立たず、まるで油を流したようにねっとりと静まっているので油壺と名づけられた入り江だ。海に突き出た断崖は左から右から緑濃い岬に抱きかかえられて水面が美しく澄んでいる。正面には岩礁が点々と顔をのぞかせ舟は回りこんで砂浜に着く。しかし切り立った断崖は足場すらなく、一筋だけ急な小道が斜面を登りつめ、やっと頂上に着く。そこに要害新井城がある。
城の大手には台地の上に道が続いているが、三崎道という一筋の街道から分岐する馬の背のように狭いところで断たれている、引橋という切所だ。掘割のような入り江の左右の岬は小網代、諸磯と呼ばれ天候にかかわらず舟を繋ぐことができるが、鬱蒼と茂る森に阻まれて陸伝いにたどる道はない。
この難攻不落の新井城に三百人とも千人ともいう三浦の兵が立てこもっている。主筋の武将、上杉朝良(ともよし)や娘婿の太田資康(すけやす)が早雲を破って救援してくれるかもしれない。または老齢の早雲が病に倒れて遠征軍を引き上げかもしれない。いずれにせよ自力で窮地を脱することはできなくなっている。
すぐに城兵が気づいて注進したのだろう、細い山道を駆け下りてくる一団があった。先頭は荒次郎義意だ。
「これは宗長殿、ようこそ来られた。使者でございますか」
「いやいや連歌師の身、浮世は離れております。少し遅れましたが八朔の祝いで風雅に遊ぼうと参りました」
義意は豪傑笑いをした。
「それはありがたい、いささか退屈しておりましたゆえ」
「この者は右近と申して私の一番若い弟子でございます。初見参ゆえお言葉をかけてください」
宗長に言われて右近は一歩前に出てお辞儀をした。義意は猛獣のような目で右近をにらんだ。見上げるような大男で装束をはちきらせんばかりに筋肉が盛り上がっている。恐ろしい顔だ、しかし笑顔は人懐こかった。
「右近殿とは優しいお名だ。どんな由緒をお持ちなのか」
右近には答えることができない。宗長が静かに言った。
「長江左近将監景茂殿の所縁の者と郷人は思っておりますが仔細は知らず、左近では障りゆえ通称右近と、祖父の惣兵衛殿はお館でも知られておりましょう、お見知りおきくださいますよう」
「長江の一族は三浦に尽くし宝治合戦で四散した。三浦本家も滅びて今は佐原の末が三浦を名乗っている。と申しても父は上杉の出、名誉の名前を継いでいるだけだ。右近も名誉の家の生まれなら興し直してくれ。俺が戦うのも名のためだ」
宗長は持参した酒壷と肴を運ばせたが、兵たちは飢えてはいないようだった。しかし美味なものは不足している。
宗長は道香はじめ死者に香を献じて低く経を唱えた。待ちかねたように酒宴が始まった。道寸は言葉少なだったが義意はよく話した。
右近は義意と道寸の顔をじっと見くらべている、確かに親子は似ている、目鼻立ちも表情もそっくりだ、しかしどこか違う。
宗長はひとしきり親類縁者の消息を知らせて手紙を何通か渡した。それで城方の質問ぜめになった。
「上杉殿になにかの動きがあるか」
「玉縄城が目障りのようです」
「早雲は」
「達者で陣を指揮しています」
「各地の情勢はいかん」
「奥州では伊達と最上が争っています。もっと北方では現地の民が松前城を攻めているとか、鳥取では尼子の軍勢が活発なようです。世の中には物騒なことがいよいよ広がっております。そうそう幕府の11代将軍足利義澄様が亡くなったことはご存知ですね」
道寸がぽつりと言った。
「あれは痛恨の一事であったな、もう20年になるか」
どのことが痛恨なのか宗長は計りかねたが道寸はそれだけしか言わなかった。
小田原城で威勢を振るっていた大森氏頼が没し、息子の藤頼が相続した。道寸の後ろ盾だった上杉定正が落馬して急死した。道寸は祖父の時高を殺害した。早雲は堀越公方足利茶々丸を追放し小田原城を攻めて我が物とした。一挙に起こった事変は時代の変わり目であった。早雲は戦国大名の先駆けとなった。
道寸は盃を口にしてまた暗い表情で続けた。
「祖父はこの城で死んだ、世人はわしが殺したというが実は自害されたのだ」
祖父の時高は実子高教(たかのり)(道香)誕生を機会として養子義同(道寸)を殺害しようとした。そのため義同は逃げ出して寺に入って髪を切り道寸と名乗った。しかし大森藤頼や家臣団はそれを許さず、時高を攻め滅ぼした。早雲は父殺しと声高く非難し、それを口実に小田原城を攻めた。藤頼は城を捨てて逃亡した。
三浦氏は代々相模国守護職、所領は三浦南端だけだが名は高い。そもそも関東の戦乱は鎌倉公方足利持氏と室町幕府の将軍足利義教の不和から始まった。それを受けた関東管領の上杉氏も山内と扇谷の二つの家系が激しく権力争いをした。
三浦時高は扇谷上杉の次男高救(たかひら)(道含)を養嗣子に迎えた。高救は江戸城の名将太田道灌と親しくしていたが実父の上杉定正は道灌を謀殺した。怒った高救は山内側に立ち実家を敵として戦った。以来二十年、ついに山内が扇谷に降参したが関東の戦乱は終わらず、駿河の今川氏や越後の長尾氏などが参戦して戦乱はまだ続いている。
義意が重い雰囲気を吹き飛ばすような高調子で語った。
「宗長殿の知ることをお聞きしたい、早雲というのはどんな大将だ」
「あり余る金銀を蓄えております」
「富を好む吝(しわ)い男か」
「武者に与えるときは玉を砕くほど惜しげもなく使います」
さすがの義意も居住まいを正した。
「小田原攻めで早雲は火牛の計を用いたというが誠でありますか」
狩りをする許しを得て兵を潜ませ、牛の角にたいまつをつけて走らせたという。
「昔、木曽義仲が行ったということを思い出した誰かの作為でありましょう。城を守るのは兵です」
藤頼は暗愚だった、しかし、それを道寸の息子に言うのは障りがある。
「俺は守り続けてみせる、早雲逝けば氏綱が相手だ、氏綱というのはどういう武将か」
「攻めより守りの武将でありましょう。早雲は安心して小田原城も玉縄城も氏綱殿に渡しております」
「それで早雲自ら出陣か、一騎打ちがしたいのう」
義意は自信満々だったが道寸はまだ沈んでいる。道寸は新井城を義意に与えているので自分が表に立つ行動は慎んでいた。父子の争いは醜い。かつて自分も自衛のためとはいえ父を追い詰めたことが忘れられない。
やっと右近は気づいた。義意には屈託がない、名を尊び現在を戦うだけだ。道寸には過去のあらゆる屈託がある、裏切られ、おとしめられ、裏切り、おとしめた苦渋と悔恨の日々がある、しかし未来の展望はない。
宗長がすばやく道寸の心をよんだ。
「昔の戦さでも一族が分かれて敵と味方になり家を保ちましたな」
道寸は一段と低い声で言った。
「しかし朋友、所縁の者など誰が聞いてもおかしくない分かれ方だった」
今の道寸は戦いの大義を持っていない、その苦みを宗長は感じとった。
「応仁の乱から後は下克上などといって味方になるのも敵にまわるのも、求めるのは利だけとなりましたな。幕府も利だけ、在郷の侍たちは幕府を頼らなくなりましたな」
道寸は盃を干してつぶやいた。さっきより力がこもっている。
「在郷では鎌倉の頃と同じで武士は一所懸命で戦う、死んでも土地は奪われまいとしている。ところが幕府は関銭だ役銭だ礼銭だと金のことばかり、早雲も幕府に仕えていたことがあるから銭をかせぐのがうまい。まったく仁義礼智信に欠けておる」
義意が吠(ほ)えるように言った。
「武士の本分が戦さでなくなったんだ。文才だ詩才だと言って、戦さを指揮する武士はいても戦う武士は少ないでないか」
宗長は義意の不満をそっとなだめた。
「京では悪党という連中が現れて欲得づくで戦います。骨皮道賢という悪党の大将を見ました、何百という荒くれ男を率いて、金さえ出せば相手かまわず戦ってくれます。鎧も甲も着けずに裸同然で刀を振るって敵陣を突き崩します。ふだんは驚くほど豪華な衣装で長い槍と強弓を持ち都大路を歌い踊りながら行進している。家柄も由緒もない盗賊どもで、浪人や百姓の食いつめ者たちを、乞食をするより楽しく暮らせると誘って仲間を集めています」
「末世か」
道寸は吐き出すように言った。
「父上、末世です、酒を飲みましょう、そうしょげていると早雲の思う壺ですぞ」
宗長は思いついたように話題を変えた。
「そうそう道香殿の追善の連歌でしたな」
「あれとは兄弟でありながら互いに辛い日を過ごした。こんな形でわしに報ってくれるとは思わなかった。宗長殿、連歌はまたの機会にしたい」
数献の酒が回った。会話が少なくなったのを潮時にして宗長がいとまごいをした。
「ほど良く頂戴しました。帰り舟が長い、これにておさらばといたします」
義意が舟まで送ってくれた。
「宗長殿、またお目にかかろう」
「おん身大切に」
「早雲に会ったら一騎打ちをしようと伝えてくれ」
「連歌師の座興と笑われましょう」
一瞬、義意の顔色が変わり恐ろしい形相になった。右近は震え上がった。しかし宗長はそしらぬ風で舟に乗り込んだ。
おおよそ沖に出て声が届かなくなる頃に祖父が聞いた。
「宗長殿、首尾はいかがで。義もなく利もなき戦さは辛いものですな」
宗長は何も言わずに城を振り返った。
「わしら水手(かこ)どもは道寸様のお味方しておる。しかし百姓衆はお見限りだ」
「海の衆はなぜ道寸殿のお味方か」
宗長が訊ねに右近が答えた。
「伊豆の衆は駿河の海、里見の衆は安房上総の海、われらは相模の海が縄張りです。これは武士の領地と同じ、一所懸命の場」
宗長と惣兵衛が同時に笑った。
「海に境い目はないようでいて人の心には境い目がありますか、右近殿に教えられた」
「孫も世の中を広く見なければならんのですがな」
それからは三人とも黙っていた。祖父と右近は櫂を漕いで月の出るころに家に帰った。
宗長が帰った翌日、義意が息を切らせて道寸の許にきた。
「お館(やかた)、馬を責めたいと存じます」
若い武士からも申し入れがあったという。
「古語に髀肉之嘆(ひにくのたん)というが、馬場だけでは不足か」
城には十数頭の馬が飼われている、一緒に城にたてこもった愛馬たちだが、馬場が狭いので毎日の鍛錬が十分ではない。
「責め足りませんな、それでお館、浜で流鏑馬(やぶさめ)がやりたい、我らも競い合えば馬も激しく働きます」
流鏑馬は疾駆させた馬上から矢を射て的に当てる武士の技だ。
「宗長殿もそんなことを勧めてくれたな、さっそく仕度をするといい」
道寸もひさしぶりに笑った。
「ならば見物が多い方がよかろう、早雲殿に知らせて伊豆の水軍衆を招いてみよ。ただ矢を向けることのないように。笠懸(かさがけ)にしてはどうかな」
浜は弓なりになっており馬を走らせることができるのは二町ほどの距離だ、流鏑馬では的を三つ立てるが、敵の舟が岩礁の外側につけても二町ほどしか離れていない、十分に矢が届く距離だ。笠懸は地面に土器を置いて足元を射る、流鏑馬以上に難しい技だ。
「早雲殿にも準備があろう、5日ほど先にしよう。太ってしまったのは馬だけでないぞ、若い者たちも腹のあたりがふくらんでいるようだ。落馬せぬよう鍛えておけよ」
道寸が大声で言い、聞いていた者たちが哄笑した。籠城中には笑いが大切だ。そんなことも宗長は話の中に含ませていた。
源平の頃から弓の名手は賞賛された。鎮西八郎為朝から那須与一、朝比奈三郎と名前が語り継がれている。三浦一族にも弓の名手がそろっている。
弓矢を整える、馬を鍛える、浜の準備をする、そんなことでたちまち5日が過ぎた。早雲に書状を出して、かしこまったという返事が届いている。
当日の朝はよく晴れて風が凪いだ。城方が驚いたことに数十の舟が集まってきた。ひときわ大きな関船にはきらびやかな具足を着けた武士が居並んでいる。十人ばかりの警固の男を乗せた小早船から見物に駆り出された小さな漁舟までがずらっと船端を並べている。
「ふん、早雲め、自分の水軍を見せつけて我らを脅そうとしているわ、お互い様じゃ、我らの海賊衆も攻め口を工夫しておるわ」
義意の言葉に嘘はない、道寸は前日までに三浦の水軍を諸磯と小網代の浦に集結させ、主だった水手頭を城に入れて敵船を見定めさせようとした。もちろん早雲も忍びの者を配して道寸側を見定めている。両者ともに抜け目はなかった。
日が真上に来て影がなくなった時に太鼓が鳴り、一番の射手が疾駆(しっく)した。海から見物がしやすいように的は山側に据えている。十五騎が三回走って弓矢と馬術の技を競う。的中するとカツンという甲高い音が響き渡り、太鼓が鳴る。見物がどよめく。
三浦一族は何よりも笠懸の技を一族の誇りにしている。馬上で両手を離し、弓に矢をつがえ屈みこんで、馬の頭越しに矢を射る。こうして巻き狩りで山野のイノシシや鹿を射、犬追物では柵の中に何十と犬を放して射た。すべては荒ぶる神を喜ばす神事であった。そして実戦では逃げ惑う徒(かち)武者を射た。
義意は自分の馬を失っていた。身長が7尺もあり筋骨たくましい巨漢を乗せて疾駆できる馬は城内にはいない。それで正面に櫓を立て敵船をにらみつけながら笠懸を差配した。
道寸は城の中から遠見していた。関船には早雲の子の氏綱が乗っているようだ。早雲の戦略を熟知した後継者だ。伊豆と駿河の水軍を我が物とし、安房から上総にまで手を伸ばしている智謀の士だ。たぶん早雲も目立たぬところでこちらを見ているのだろう。
道寸は水軍の動きも見ている。このまま引き返すか、これを良い機会として、どこかに集結して攻め寄せるか。油断を見透かせば今晩は夜討ちだろう、流鏑馬から引き揚げる武士の動きを見れば通路が分かる。
こちらからは早雲の帰路を襲うことも考えていた、帰着した湊に夜討ちをかけることもできよう。
日が傾いて早雲の水軍は帰っていった。関船が先頭を行き左右十丁ずつの艪を漕ぎ、御船歌を歌いながら悠々と進んでいく。船尾の屋形で采配を振っている大将が氏綱かもしれない。小早船が左右に従い、小舟が何列も後を追った。夕陽を受けて船具や武士の甲冑がキラキラ光った。すぐに順風を受けて船団は帆を張り、正面の富士山に向かって湾を横切っていった。どうやら江ノ島に泊まるようだ。
しかし装備も士気も味方の負けはみえている、道寸のもとに集まった海賊衆は威容に押されて萎縮(いしゅく)した。道寸は追撃を断念した。
右近は自分の心配を宗長に話してみた。
「お師匠様は疑われたりしませんか、敵味方、相手構わず話したりして」
「はっは、わしは正直者だし財宝が欲しいとか名誉が欲しいとか一切思わぬ。わしを疑う者がいたら自身の破滅を招くだけだ」
「お師匠様は言われましたよ、人の心は揺れ動くって」
宗長はため息をついた。
「連歌は人をむすびつける。その結びつきを求める人もいるが、それを嫌う人もいる」
右近は驚いた。
「師匠は結びつけたり切り離したり自由にできるのですか」
「いや、わしは誰とも区別せず同じ話をするのだ。聞いた人がそれを判断する、深く知りたい人は重ねて聞く、わしは見たとおり、聞いたとおりを話す、決して予断や推測はしないのだ」
「でも郷にもいろいろな人がおります。武士ならば余計に激しい気持ちを持っているでしょう」
「昔、こんなざれ歌を詠んだよ」
山川の音にこそ聞くもののふは
あさき瀬にこそ さざ波は立て
「つまり音に聞こえた武者というのは深い淵のように静かで、うわさ話で名の高い者などは浅瀬と同じで簡単に踏み渡られるということさ。武者の功と連歌の功は同じだよ」
お師匠様は揺るがぬ人だと右近は確信した。
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