第8章 禅門の乱
正応6年(1293年)

エピローグ 執権貞時 平頼綱を滅ぼす

    前年に執権北条時宗が死んだ。蒙古軍は撃退したがなお来襲のうわさは絶えない。時宗の心労はたいへんなものだったろう。
    得宗家の貞時が執権になったがまだ幼少だ。貞時の乳母の夫は北条家の家臣の平頼綱だ。御内人(みうちびと)と呼ばれた北条家臣団は幕府直属の御家人たちと対立していた。なかでも御内人筆頭の頼綱は御家人筆頭で勇名高い安達泰盛を憎悪していた。そして泰盛の子が源の姓を名乗ったことを奇貨として讒訴した、将軍に取って代わろうする謀反を企てたと。執権貞時は15歳になっていたが是非を決められぬうちに頼綱は兵を出し泰盛を自害させた。幕府は混乱した。
 しかし、丹波以長はそんな世事にかかわらない。相変わらず長江川が海に注ぐ松林にひっそりと住んで医師の仕事を続けていた。小さな家の窓は朝日を迎え月を送った。海風が松の枝にやさしい音を立て、カモメが驚いたような声で鳴く。漁師が叫び、子どもたちが笑いさざめいた。彼らはケガや病気の時だけ丹波以長を思い出し、不安そうな顔で診療にやってくる。お礼に魚の一尾や季節の野菜を子どもに持たせてくる。孫のような子どもたちは以長の家に遊びにきて薬草を摘み乾かして粉にして膏を練る。ついに家庭を持たなかった以長は郷人たちを家族のように思っていた。そして今日のことも明日のことも心配せずに静かに過ごしているだけでよかった。
 あの二人の消息は絶えていた。
 安部晴憲は京都の六波羅にしばらく滞在して朝廷と幕府の橋渡しに努めたようだ。蒙古襲来の際には大宰府で宋の言葉を駆使して敵の捕虜を訊問したともいい、戦いの後には和平の使者と同行して異国へ行ったといううわさが流れてきた。手紙は届かず、またかの地を往来する船は何隻か嵐で沈み風に流されて行方知れずになっている。再び元が攻めてくるならば日本の使者などとうに命を失っているだろう。覚悟の上でかの地に渡ったのだとしても残された者は辛い。余生を天文の研究を深めたいとい晴憲の願いはかなわなかった。
 太田康元は九州の御家人と共に襲来した元軍と戦った。本人がいれば戦いの様子を得々と語っただろう。しかし以長に届いたのは討ち死にの知らせだけだった。
 やがて日が過ぎ月が移り年が経っていく。家も主も朽ち果てていく。波音と松風だけが昼も夜も吹いていた。
 金沢実時は文永の戦いで元を撃退したことを聞いた後で亡くなった。再度の襲来は知らなかった。金沢文庫はなかなか再建されなかったが吾妻鏡は引き続き編集されていた。前編が火災から3年後に完成し、後編も着々と書き継がれていた。しかし以長のところには何の連絡もなかった。その後も以長はぽつぽつと書き物を校正していたのだが、提出を求められることはなかった。
 三度目の蒙古襲来はなかった。フビライは侵略を命じたが巨額の費用を用意することができなかった。また国内に様々な問題が起きて日本への遠征などできる状況ではなくなった。
 御家人の困窮は一層進んだ。蒙古襲来に備えて九州に出向く武士も多かったし、武器食料を拠出することも御家人の重い負担になった。しかし昔のように農民から取り立てることはできない。無理難題を要求すればたちまち訴えられ、厳しく理非を判定される。御内人の支配する幕府は徹底して御家人を統制した。銭の力も平清盛の時代よりはるかに強くなって、銭不足のために銅板を丸く切り抜いたものまでが通用した。幕府はたびたび禁止令を出したが無駄だった。
 物や土地を担保に金を貸し高い利子を取る商売が横行した。悪党と呼ばれる無頼の者が用心棒となり、取り立てを行い暴力を振るう。ちょうど昔の武者たちが公家に雇われて荘園を取り仕切り、年貢運搬の用心棒となったのと同じことだ。
 徳政が度々施行された。借金や質入れの契約を無効にする、借りたものは返さなくても良い、誰が考えても無茶な制度だ。そして貸す側は少しも困らない、いくら徳政を発令しても、質に取った土地や財物を、銭を払って借りたのだと強弁すれば奪いとることができる。それでも貧窮した御家人は借りにくる。借上(質屋)や問丸(両替)はあらゆる言いがかりをつけて御家人の領地や年貢をかすめとった、それは悪党以上だった。かつて徳政令は御家人の窮状をみかねた安達泰盛が始めたことだ、それを悪用して平頼綱は専横を極め、御内人たちはかさにかかって御家人を苦しめた。
 その時、ようやく執権貞時が動いた。頼綱は討伐された。平禅門の乱と呼ばれる。しかし、その後も内患と外患の憂いを抱えながら北条氏は余命をつないでいった。
 京都にも一人、ひっそりと思い出を綴っている者がいた。卜部兼名の孫で兼好、吉田の姓を名乗っている。祖父が金沢実時に仕え息子の兼顕もそこに住み兼好が生まれた。今は京都で隠者の暮らしをし徒然草と名づける随筆を著した。そこに金沢に住んだ思い出も書き残した。
  安達泰盛殿は馬の名手だが自分の乗る馬をきびしく選んだ。足をそろえて跳ぶ馬は勇みすぎる、敷居につまずく馬は鈍いという。道を心得た人というのは常に慎重なものだ。
 泰盛殿は弓の稽古をするときに右手に1本しか矢を持たない。ふつうは二の矢というものを持つ。訳を訊ねた人にこう答えた。俺は次の矢に頼らず、この矢1本で勝負を決めるのだ。
 甲香というのは小さな法螺貝(ほらがい)のことで香をねりあわせるのに使う。金沢の地では「へなだり」といった。
 祖父の兼名も父の兼顕もとうに亡くなった。徒然草の末尾はこう締めくくられている。
 8才になった時、父に問うた。仏はどのようなものか。父が言う仏は人がなった。では人はどうやって仏になるのか。仏の教えにより。では第一の仏は?。空から降ったか地から湧いたか。いくら辛抱強くても、そうしつこく攻め立てられると閉口したのだろう。8才の口達者に言い負かされた苦笑いの顔にはうれしさと誇らしさがあふれているようだ。
 昔、同じように祖父の兼名もしつこく攻め立てられた。相手は安部晴憲と太田康元と丹波以長という三人の若者だった。しかし、それは忘れられた出来事だ。
 三郎の小屋も主を失い、荒れ果てて草や木にすっかり取り込まれた。いつから三郎がいなくなったのか分からない。ただ、皆が最後に見たという日だけは確かだ。三郎は郷の正月の振る舞いに一杯だけ酒を飲んだ。ではお肴つかまつる、そういって歌い舞った。声は枯れ足元はおぼつかなかったが郷人はおかしくて涙を流して笑った。
 乁 一葉風にさそわれて 水に浮かべる昔より 河海を渡るはかりごと    
   波濤をしのぐ便りとす
 宴でなじみの「舟」という曲を最後に歌った。心ある人は三郎が別れを告げているのだと思った。身を南海に捨てるのか、しかし三郎の心は晴れ晴れとしていた。朝比奈義秀がいるという島へ、実朝があこがれた地へ旅立っていく、その船出だった。
 
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