第7章 頼朝没
正治元年(1199年)  


源頼朝は相模川の橋の渡り初めに臨み、落馬して死ぬ

「頼朝様とはどんな方だったのか、今、目の前にいらしたら俺たちはどんな気分になるのだろう。あの姫と侍女があこがれる通りの方だったのか」
 仕事に退屈した晴憲が筆先をなめながらつぶやいた。少しは姫と侍女を思うこともあるようだ。
「貴公とは雲泥の差だったろう」
 姫の名が出ると康元は晴憲に冷たくなる。以長が書き物に目を落としたままでつつましく言った。
「…さぞ怖かった…ろうな…」
 金沢実時に睨まれた怖さが三人には忘れられない。人をためらわずに殺す目だと震え上がったのだ。
「…でも大将の大将…穏かで人徳にあふれる…頼れる人…だったろう」
「貴公は医者だから人を温かく見るのだ。俺は天文博士だから人は宿縁の中に生きるだけだと信じている。功績といい悪業というのもつまりは裏と表だ」
「冷たく突き放したな、貴公は俺たちの中で一番温和で優雅だと言われている、まったく人の目は節穴だよ」
 俺の方がずっといいのに、この前の遊君の一件でも康元はまだ口惜しくてたまらないようだ。
「…それで頼朝様は…」
「俺の持っている書付で一番古いのは治承四年の記事だ」
 康元が古い綴じ込みをパンパンとはたくと、ほこりが舞い上がる。
 源三位頼政がついに挙兵した。同じ源氏でも家系が違うと命令することができない。そこで後白河院の第二皇子以仁王が諸国の源氏に令旨を出し協力を求めた。頼朝のところにも源行家が使者となってやって来た。
「令旨には何が書いてあったんだ、教えてくれ、こうなると康元殿が頼りだよ」
 晴憲が知りたがった。もっとも自分に対する反感を和らげてゴマをすった様子がある。
 平清盛が天皇・上皇に逆らい、公卿を押さえ、百官万民を悩ませ、財物を奪い国を領有し仏法を滅ぼしている。三宝と神明の思し召しで、源氏の者・藤原氏の者・諸国の勇士は追討せよ。功績のあった者に褒賞を与える。しかし源頼政は宇治の合戦で負け以仁王も討死した。
「ずいぶん都合がいいな、清盛は悪者だから皆でやっつけろ、もし勝てば褒美をやるが、負けたら知らん顔をする。そうだ承久の変も宇治の戦いが勝敗を決めたのだったな。なるほど執権義時は故事を思い出して後鳥羽院を厳罰にしたのか」
 はっと思いついて晴憲は手を打った。
 令旨を受け取った者を平氏は追討していった。頼朝32才、不安の底にいるときに三浦義澄と千葉胤頼が訪ねてきた。京都の大番役から帰る途中だった。三人は挙兵の計画を練った。頼朝の父は義朝、母は大納言藤原季通の娘の由良御前、清和源氏の中で一番位が高い。嫡男だけに継承される「源太産衣鎧」と「太刀髭切丸」を所持している。頼朝は広く関東の源氏に挙兵を手紙で知らせた。
 平清盛が京都を制したのは平治の合戦で源氏に勝ったからだ。源義朝は裏切りにあい殺された。次男の朝長は合戦で傷を負い父の手で斬られた。長男の義平は捕えられて斬られ、三男の頼朝以下は流された。側室の常盤御前の子三人は寺に入れられた。今若は阿野全成、乙若は源義円、牛若が源義経だ。阿野全成は悪禅師と呼ばれる乱暴者だったが後に北条政子の妹阿波局と結婚し、頼朝にとっては二重に弟分となった。
「波乱万丈だな」
「天下を二分する戦いだったのだよ」
「…敵か味方か…」
「迷って決められない時には親子兄弟別れて両方に顔を出すのさ、それで家を守る」
「…負ければ首がない…」
 
 頼朝は旗揚げした。初勝の勝利は必然だ。平家の判官山木兼隆を討った。年貢の取り立てで皆に嫌われており、政子の一件もある。三島神社の祭礼の日、郎党が参詣して留守のところを襲った、うまくいった。
「成功の陰に機略あり、何かおもしろい話があるだろう」
 康元の問いに晴憲が答えた。
「これは伝聞だが」
 屋敷内の様子が分からない。そこで京都から流れてきた下っ端の公家が協力した。酒宴に乗り込み、歌って踊って座を盛り上げた、そして屋敷の間取りを覚えて絵図にした。
「誰でも何かの役にたつ、いや言い方が逆だった、誰でもつかって役立てる、それが大将の才幹だ」
 討ち入りの日に頼朝は主だった武者をこっそりと一人ひとり呼び出し「信頼できるのはお前だけだ」と告げたという。声をかけられたのは自分だけだと思って武者たちは感激した。
「なかなかやるじゃないか。身命を賭す気持ちにさせる、北条時政あたりの入れ知恵かもしれないが」
 挙兵の直前に伊豆山神社の衆徒が、相模と伊豆を結ぶ道沿いが物騒になったと訴え出た。たぶん去就を決めかねたのだろう。頼朝は自分が勝ったら伊豆と相模の土地を一ヶ所ずつ与えると約束した。衆徒は喜んで味方になり、戦乱中は北条政子をかくまうと申し出た。
「なかなか心にかなう協力だ、伊豆山にも臨機応変の軍師がいるようだ」
 平家方の大将大庭景親は配下の俣野景久を甲斐に向かわせたが、富士山麓で野営した夜に弓の弦を全部ネズミにかじられてしまい、翌朝、攻めてきた甲斐源氏の軍勢に敗退したという。
「源氏方に寝返った原因がネズミか、まったく都合がいい話だ、侍烏帽子を被ったネズミが出たのだろう」
 康元が笑うと部屋がゆれるようだ。頼朝は俣野景久を部下にした。
「ネズミも人助けをする。さすが十二支筆頭だけあるよ。でもその程度の兵では戦えまい、三浦一族はどうした」
 総帥三浦義明は八十余歳、婿の長江義景に長江館、三男の太多和義久に鐙擦館を固めさせ、三浦の本拠衣笠城の大手口を守った。由比ガ浜の前哨戦で和田義盛は畠山重忠の武蔵綴党50騎を討ち取ったが、すぐに平家方の大軍が押し寄せて三浦一族は衣笠城にたてこもった。義明は東口を長男の三浦義澄、西口を孫の和田義盛、中陣を婿の長江義景に守備させたが守りきれないと知り夜中にすべての兵を城から逃げさせた。そして、たった一人で城に残って討ち死にしたという。
「そもそも三浦とはどんな一族なのだ」
「平氏の流れと自称しているが、名を残したのは前九年・後三年の戦いのときだ」
 
 往古、葉山と逗子・鎌倉は広い入り江だった。海は長江川、田越川、滑川の三つの流れの上流まで深くくいこみ、山裾を波が洗っている。突き出した細長い岬が三つの浦を区切っている。その突端には鐙摺、小坪、住吉の砦を作って海辺の守りを固めている。古くからの道が鎌倉から名越の山道を通り長江川の源流を渡って衣笠に至っている。 
 ここに人が住んだのはずいぶん昔からのことだが、農をするに土地が乏しい。海に出て漁、山を走って狩をするのが男たちの日常だった。そして冬でも枯れない山と、潮に見え隠れする岩礁や藻場の多い海がケモノとサカナを育てていた。
 源氏の大将、源頼義は前九年、義家は後三年の戦いに土地の男たちを引き連れて陸奥に進軍していった。祖父の為義も父の義朝も代々の武者を信頼した。特に三浦一族は荒々しい体力と気力に加えて、馬を駆け弓矢を射る技、舟を操る技に優れており、遠征と補給に不可欠の武者たちだった。
 源氏は鎌倉に八幡宮を建てて聖地とし、そこを御浦と呼ぶこともあったらしい。
「だからといって武者たちがそれを姓として名乗ることはできまい。三つの浦に住む者で三浦というのが妥当だな」
 晴憲が言うと康元も同調した。
「第一、鎌倉権五郎という武者が鎌倉という姓を使ってしまったからな」
 後三年の戦い以来、三浦為次と権五郎景正は一族同様につきあった。
 合戦の最中、景正の目に矢が当たった。すぐに為次がその矢を立ったまま抜こうとしたら景正が怒って下から切りつけた。俺に足をかけるのか、あわてて膝をついて丁寧に抜き取ったという。
 その孫が長江義景だ。
「源平合戦では義景の活躍がない。名前が出てこない、なぜなのか」
 今度は康元がつぶやくと以長が答えた。 
「…頼朝の側近…鎌倉にいた…」
「なるほど、源氏の主力の三浦は一族を率いて西国にいる。だから留守を信頼する長江に任せる。また戦況を検分し頼朝の方針や命令を的確に伝達する。華々しい功名は上げられないが、それに勝る仕事だ」
「それにしても梶原景時はなぜ殺されたのだ、頼朝第一の側近で鎌倉権五郎の一族だ」
 康元が言うと晴憲がやんわりとさっきの冷たい言葉の仕返しをした。
「目障りだったのさ。武者というのは嫉妬深いものだ。景時が主君を独り占めにしてうれしそうにしている、それをねたんだのさ」
 康元は言葉のトゲに気がつかない。
「たぶん、皆それぞれが恨んでいたのだろう。和田義盛についてはこんな記録があるぞ」
 頼朝は義盛から侍所別当の職を取り上げた。義盛は武者らしく物事を理よりも情で判断したがる、それを頼朝は武者を甘やかすと見たのだ。別当職を命じられた景時は義盛の無念を思って、別当職はただ借りただけだということにした。しかし、義盛はそれを聞き入れず景時を深く恨んだという。
「こんな記録も残っている」
 木曽義仲を滅ぼした次第を範頼と義経がそれぞれ文書で頼朝に送った。しかし、読んでもさっぱり分からない。そこへ景時の手紙が届いた。明瞭でよく分かる、景時は褒められ、範頼と義経は面目を失った。
「石橋山で頼朝様を救ったのは自分だと自慢するしな」
 敵に追いつめられた頼朝はとっさに大樹の穴に隠れた。先頭に立った景時は誰もいないと偽ったが、続いた武者が穴に入って探そうとした。景時は、自分の言葉を疑うのか、許せない切り捨てるぞと威嚇した。頼朝は助かった。
「源平合戦では逆艪(さかろ)のことで義経とケンカしたと自慢するしな」
 頼朝から軍監の任務を委ねられた景時は無茶をする義経を何度も諌めた。たとえば舟戦さで舟を漕ぐ水主(かこ)どもを射殺する、ひよどり越えの戦いでは崖から馬を落として攻めかかる、嵐の中を屋島に渡る、ともかく勝つために手段を選ばぬ戦術だ。戦いには作法がある、それを無視してはいけない、そうまでして軍功を立てたいのか。しかし景時の諌めに逆らって義経は勝利を重ねた。頼朝は嫉妬深い、戦功を誇ってはならない、それを承知している景時は何度も自粛を求めたのだが義経は理解しようとしない。そして武者たちは諫言を讒言と思ってしまったのだ。
 晴憲も自分はかたくなな武者とは一線を画したいと思っているようだ。
「景時は文武に秀でていたそうだ。武技だけしか誇れない武者たちはそれも腹立たしいことだったろう、こんなことも聞いたぞ」
 橋本の遊女が招かれて媚を売った、頼朝は浮き浮きとして歌を詠んだ。
    はしもとの君になにをか渡すべき
 景時がすぐに下の句を詠んだ
    ただそま山のくれであらばや
 橋元がくれというのだから雑木林から平たい板(くれ)を取って渡してやればいい。
「なるほど当意即妙、ただ頼朝様は苦笑いしただろう。しかし景時は武勇にも優れていたというぞ」
 上総権介広常に無礼があって頼朝に誅罰を命じられた。景時は広常を誘って双六を打ちながら、油断を見て切り殺した。
「頼朝にこの上なく信頼されていた、それが命取りになったのか」
「二代将軍頼家にも忠節を尽くそうとしたが頼家側近にも御家人たちにも気に入らない、これからも権力をふるいたいのかと」
「…たぶん…景時はよい人だ…」
 謀反、実はこれだけが武士を討伐する理由になった。殺し、盗み、騙し脅し、飲酒は武士の日常だ。強い子を生み、兄弟、一族、親戚の一員として領地の経営に加わらせる、邪淫というような道徳観もない。
 疑り深い頼朝も、気分を高ぶらせた頼家も、憂鬱な実朝も讒訴により近臣を失くしていった。
「瓶に百匹の虫を入れてみろ。最後には一匹しか残らない。御家人もそうだ。鶏を養う者はタヌキを飼わない、ケモノを牧する者は山犬を育てず」
 景時弾劾の時に和田義盛が言った言葉だ。
 
「だいぶ長く話をしてしまった、疲れたよ」
 晴憲が大きくのびをした、康元も筆を投げ出した。以長だけはきちんと座っている。
「昼飯にはまだ半刻ほどある、兵糧をつかおう、煎り豆を持ってきた」
 三人はさっそくかじり始めた。静かな部屋の中にポリポリという音がうるさく響いている。晴憲が笑い出した。
「偉そうなことを言っても我々のこの有様は子どもだな」
 康元も仕方なく笑った。
「煎り豆というのは止まらないものだ。一つを噛むと、もう手が次の豆をつまんでいる」
 以長は一粒づつを慎重に口へ運んでいる。
「…武者の戦い…こんなものなのか…」
 二人がちょっと驚いて以長を見た。
「…豆一つ…終わる前に…次の豆…」
 三人はふっと感じることがあって思いに沈んだ。
 
 頼朝死後わずか十日で朝廷は宣旨を発して頼家を二代将軍にした。そうしておいて御所襲撃の陰謀を企てたという理由で源通親ら親幕派の公卿を排除した。幕府は激怒したが頼家は深く考えずに同意した。
 頼家は自分の側近たちに領地を増やしてやりたくて、源平合戦以後に御家人たちに給与した土地五百町を没収しようとした。これには御家人たちが激怒した。しかし景時は新将軍の命じるままに没収を強行しようとした。御家人たちが激しく弾劾したので、頼家はあっさりと景時を見放した。景時は逃亡する途中で殺された。
 安達景盛の側室は美しいと評判だった。頼家は景盛に命じて三河に遣わし、その留守中に側室を奪った。大切な鶴ヶ岡八幡宮の行事にも欠席するほどの寵愛だった。一ヶ月後に景盛は帰ってそのことを知った。頼家はすかさず軍令を発した、景盛謀反、討伐せよ。驚いた政子はすぐに使者を送り頼家を厳しく叱りつけた。しかし、武者たちは続々と鎌倉に集まってきて大騒動になった。大江広元が騒ぎを収めようとしたがだめだった。そこでまた政子が乗り出し、景盛から起請文を取って疑いを晴らし、頼家を再度叱責した。
 
 北条時政は権力を我が物にするために次々に手をうった。一方で朝廷も幕府討伐の謀略を続けた。後鳥羽上皇は城長茂に幕府追討の挙兵をうながした。しかし長茂は吉野で殺され、次いで甥の資盛が越後で挙兵したが佐々木盛綱に鎮圧された。その時に負傷して捕らえられた板額御前、資盛の叔母を頼家が引見した。浅利義遠が願って妻に貰い受けた。頼家はからかった、美しい女だが豪傑だと聞けば少しも愛らしくない、頼家は無骨な武者が嫌いになっていたのだ。
 7月の焼けるような残暑の仲、涼しくなるのを待って毎晩、百日間も蹴鞠を続けた。
 8月には台風で八幡宮の回廊、門、塔、仏閣がみな倒壊した。高潮が千人もの人や舟を流した。そんな時にもかかわらず頼家は後鳥羽上皇に依頼して紀行景という蹴鞠の達人を鎌倉に招きよせた。
 9月には頼家は行景と蹴鞠を700回も蹴上げた。執権の北条泰盛が見かねて諭したが聞き入れず逆に叱責した。
 10月になって頼家の怒りを受けた泰盛は伊豆に引きこもった。折しも伊豆は飢饉にあえいでいる、泰盛は領民に食事や酒を振舞い、債務証文を焼き、一人一斗の米を与えた。それもまた頼家は不快だった。
 翌2月に頼家は正三位に叙せられた。沼間に残っていた祖父源義朝の旧宅を栄西の寺に移させた。頼朝はそのまま残して記念にするよう命じていたが、政子の夢に義朝が現れて、浜辺で殺生が行われるのが耐え難いから静かな寺に移してくれと言ったという。蹴鞠名人の紀行景に柳の古木を屋敷に移植させた、いずれも世評は悪かった。
 3月には京の舞女微妙を寵愛した。すると微妙は讒言され奥州に追放された父を助けてほしいと願った。頼家はあっさり承諾したが、政子は不審に思って微妙を引き取り調べてみると父はすでに死んでいた。微妙は出家した。
 7月 頼家病気
 8月 頼家危篤
 9月 比企能員(ひきよしかず)が時政追討を頼家に進言した。それを聞いた政子は時政に急報し合戦となった。比企一族は滅びた。
 3日たって小康状態となった頼家は合戦の結果を聞いて激怒し、すぐに和田義盛と新田忠常に時政誅殺を命じた。しかし義盛が時政に注進したため忠常は殺された。執権義時は頼家を出家させ、弟の実朝を次の将軍に推挙した。頼家は伊豆の修善寺に移され、翌年殺された。
 時政の妻の牧の方が畠山重忠が謀反だと義時に注進した。三浦義村と安達景盛らが重忠を討伐したが、これは冤罪だったことが分った。続いて政子の妹阿波局が牧の方が実朝暗殺を企てていると密告した。すぐに義時は兵を出した。
 7月 時政は出家して伊豆に帰った。
 朝廷は金の鎧を奉納したが祭主の大中臣定隆が途中で急死し、その日に正殿で蜂が巣を作り、スズメと蛇が子を産んだ。こういう時には、朝廷の秩序を軽んじ国土を危うくする凶臣が現れるがすぐに敗北する、このこと先例のとおり間違えなしと陰陽師が奏上した。倒幕の機は熟したと朝廷は判断した。
 
「もうやめよう、きりがない」
 晴憲がうんざりして言った。
「康元よ、武者の闘争は煎り豆と同じか」
 以長も訊ねた。
「…始めたら…なくなるまで…続く…のか」
 康元は黙ったままだった。晴憲が重ねて言った。
「我々も同じか、ああやって煎り豆を食っている我々も武者と同じ心に違いない、思うといやになる。俺は文人でいたい」
「…俺も…医者がいい…」
 康元は答えない。以長が言った。
「…ポリポリいう音…怖ろしい…」
 晴憲が重苦しくため息をついた。
「もうやめよう、同じことの繰り返しばかりだ。毎回出来事は同じで武者の名前が変わるだけ、することは同じ殺戮だ。武者というのは一所懸命の欲望と猛々しいオオカミの心しか持っていない。こんなことを続けていると、それが正しい歴史というものだなどと思うようになる、いつかは身を滅ぼしてしまいそうだ」
「…煎り豆はやめられる…が…」
 ようやく康元が口を開いた。
「貴公ら、実時様に何と言う」
「できませんと詫びるのだ」
「それはできない、名を恥じる」
「…出家して…」
 思わず三人とも笑い出した。
「そう思いつめずにしばらく考えようや。卜部兼名さんも京都に帰ってしまったし、書き物が遅いと催促されることもなかろう」
 晴憲が言うと康元もようやく気分を直した。
「とりあえず俺たちはここまで調べた。宝治からさかのぼって頼朝公の時代まで歴史をたどった。この実績は誇らしい」
 以長がぼそりとつぶやいた。
「…精査…」
「そうだ、その通り、精査したのだよ」
 さっきの憂鬱はどこへやら、康元は少しもへこたれていないようだ。
 
 執権時頼は幕府の改革に努めた。それは北条氏が日本全国を治めるということだ。将軍ではなく執権が支配する。
 時頼は三人の側近を指名した。北条政村と安達義景、そして金沢実時だ。しばしば三人は召されて時頼の相談を受けた。将軍頼経を京都に追放するときも、それに続く宝治合戦の時も三人は時頼を支えた。深秘御沙汰と世間でうわさになった秘密会議だ。金沢実時はいよいよ多忙になり、金沢の邸に帰ることもできなくなった。
 せっかく苦心して書き物を提出しても留守の者が預かるだけだ。もちろん実時に面会することなどできない。なんとなく三人はお役御免になった。そして八幡宮の小房にもいつのまにか別の人が出入りするようになり、小者たちは相手にしてくれない、食事も出なくなった。元の職場に戻るより仕方がない、幸いどこも温かく迎えてくれた。たぶん神秘御沙汰の怖い金沢実時様にこき使われた可哀想な下っ端の若造たちと同情されたのだろう。
 
「さて落着したな」
 晴憲に誘われて康元と以長が海辺の小さな旅宿に顔をそろえた。離れの10人ばかりが座れる板敷きの部屋は海風が吹きぬけてくる。
「合戦が終わった時は祝宴を開くのが作法だ。幸い金がまだ少し残っているから遣い尽くそう」
 晴憲が口を切ると康元は驚いた。
「なんの金だ」
「初めの対面の時に実時様から頂戴した。何かと用があろうから役立てよ、足りなくばさらに求めよと。その金で土産を調えたり小者に与えたりしたがだいぶ残っている」
「俺には言わなかったな」
「実時様が目配せした。金を預けて安心なのは俺だけだとな」
「許せんが許す、俺も以長も金の使い方は知らんからな。では心置きなく散財しよう」
「…どんな…趣向だ」
「白拍子を招いている」
 むっつりしていた康元が突然、喜色を顔中に表して叫んだ。
「それはいい、それでこそ我らの凱旋祝いだ、昔のことはぜんぶ忘れてしまえ、戦いは明日にある、俺は生涯戦うぞ」
 晴憲は少し嫌な顔をした。こんなに昔のことを調べてきたのは明日に間違えを起こさないためだったのではなかったのか。康元は今までの武者の誤りに学んでいないのか。しかし以長が糾弾してくれた。
「…煎り豆…」
 康元は苦笑いをして額をぬぐった。
「分った分った、もう言うな、さて食い物も出るのか」
「祝いだから海の幸山の幸を取り寄せてある。以長は酒を飲まなかったな、俺たちが代わりにいただく。さて、くつろいだら白拍子に入ってもらおう」
「…白拍子…知り合いが…あるのか…」
「以前、遊女が訴え事でたずねてきたのを忘れたか。この康元殿を振ったお方だ。その時に知り合いが色々増えたのさ」
「大丈夫だな」
 康元は少し不安そうだった。
 
 縁を歩く音がして薫香が香った。水干に緋の袴を長く引いて、立烏帽子の下は真っ白く化粧をした美しい顔、そっと一礼をすると歌い始めた。静かに扇を開いてゆったりと舞う。
 
 乁 君が愛せし綾藺笠 落ちにけり 賀茂川に 川中に それを求むと尋ねとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は
 
 舞い終わると床机に座り三人に笑みを送った。
「お気に召されましたか。真弓と申す白拍子でございます」
 知らぬまに笛と鼓を持つ稚児衣装の二人の女の子が座っている。
「真弓御前と申されるか、一期一会のひとときを共に過ごしていただきます」
 晴憲が丁寧に挨拶したので真弓御前はうれしそうに微笑んだ。
「ところで康元殿は武者ゆえ綾藺笠をお持ちだろう、川に落ちた笠を探しに行ったのは誰だと思われるか」
 晴憲が真面目な顔で難題を吹きかけた、もちろん座興だ。
「当然、従者だよ、秋の夜の出来事だ、夜明けまでかかって流れていった笠を追いかけて拾ってきたのだ。ご苦労様なことだ」
 晴憲が今度は真弓御前の顔を正面から見て笑いながら言った。
「まったく風流気がない貴公の答えだ。二人は舟に乗っているのさ、笠が落ちたのは前かがみになったから、かがんで何をしようとしたかって、経験のない者には分かるまい。あら大変、大事な笠が落ちたわ。なに、このまま舟を流れのままにしておけばどこかにひっかかるから大丈夫だよ、だからさ、そして夜が明けましたとさ」
 真弓御前が笑っている。それに嫉妬した康元が言いつのる。
「貴公の解釈は色っぽすぎる。女人と会う約束をしていたのはいいとして、遅れた言い訳に、実はあの笠を落として探しているうちに遅れてしまった。それが真面目な解釈さ」
 真弓御前が優しく康元に言い返した。
「殿原というのはウソがお下手です、こんなさわやかな朝にそんな話をして、でも許してさしあげましょう、あなたの綾藺笠はとてもすてきですから、とまあ」
「…綾藺笠…苦手だ…」
 以長が想像できる世界ではない。しかし康元が果敢に攻め込んでいった。
「真弓殿、そういう言葉を俺にもかけていただけないか、ともに暮らすことはできるか」
 晴憲がさえぎった。
「俺たちは客だ、御前は今もてなしてくれているんだ、うろたえるなよ」
 しかし真弓御前は華やかな笑顔で康元に酒を注いだ。
「まず妻をめとりなさいませ、妻あってこその白拍子、名をあげ家を興してこその白拍子、妾(わらわ)をご所望ならお待ちしましょう」
 
 乁 仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ
 
 静かに歌い静かに舞った。凍りついたような空気を衣ずれの音が切り裂く。三人はポカンとして真弓御前を見ている。キリリとした人を寄せつけない表情、この女人は早朝のほの暗い窓の外をながめながら涙をこぼしたことがあるのだろう。誰かの定めか、自分の定めか、仏に願い救いを求めたのか。
 
乁 仏も昔は人なりき 我等も終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなり
 
 今度は少し声を張り、舞いの手振りが強かった。もはや仏に願い救いを求める手弱女の姿ではない。合戦に臨む武者かもしれない、自分の運命を切り拓くたくましい男だ、いや女でもよい。北条政子がそうだった、権力を求めて敗れた牧の方もそうだった、全力を尽くして勝ち、または負けた後には仏の世界が広がっている。逡巡するな、おのれに打ち克て。仏は自分なのだ。
 
 真弓御前はこの若者たちに生きる勇気を吹き込んでいった。夜が更けていく。 
 
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