第6章 実朝暗殺
承久元年(1219年)

三代将軍実朝を兄の二代将軍頼家遺子の公暁が暗殺する。

 晴憲が遅れてやってきた。康元がいらだたしげにくってかかった。
「遅いな、合戦に遅れれば裏切りかと疑われるぞ」
「まあ怒られてもしかたない。東門の矢場の手前で二人の女人に呼び止められた。例の姫様と侍女だ。長話につきあわされてしまったんだよ」
「貴公に思い入れているという二人か。くわしく話せよ」
 二人は書付を乱暴に押しやって晴憲につめよった。
「侍女は沢乃という名で何ともおしゃべりな娘だ」
「姫様は」
「菊名姫、困ったものだよ」
 晴憲が憂鬱そうな顔をしているのでここぞとばかり康元がからかい始めた。もちろん以長はおとなしく話を聞いているだけだ。ほかの二人はどうであれ自分は女に好かれる人間ではないと思い込んでいる。だが康元は自信家だから自分ほどの者を好きにならない女などダメなやつだと言う。晴憲は顔立ち振る舞いが端正優美だから男も女も自然に好意を持つ。
「晴憲が気を落とすほど不細工なのか」
「貴公とは違う、俺は顔かたちで人を判断しない」
「では性悪で冷酷、まるで…おっと」
 言いかけて康元はあわてて口をふさいだ。壁に耳ありだ、妙なことを言うと報復される、男に限らず女も敵を作り謀略を尽くして滅亡させる、それを生きがいにしている者がいるのだ。
「ふたりそろって政子様を崇拝しているのだ。しかし頼朝公ほどの方は今の世にはいないものとあきらめている、だから俺くらいがちょうどいいと思っているのが侍女沢乃、俺を通して頼朝様の夢を見ているのが菊名姫なんだ」
「よく分からんが貴公にほれているのはどちらだ」
「現実の俺には沢乃、まぼろしの俺には菊名姫さ。沢乃は俺にいちゃいちゃつきまとう、菊名姫は離れた所からじっと俺を見ている、その視線には怖いものがある」
「女に好かれるのも苦労なものだな」
「それは皮肉か」
 晴憲はかっとしたが康元が至極まじめな顔をしている。
「まあ仕方ない、貴公はそんな生まれなのさ」
「…俺の知らない世界だ…」
「それで沢乃は何を話したのだ」
「私は政子様を慕っていますといって亀の前のことを話し始めた、幕府ができる前の出来事だよ」
 亀の前という女性は良橋入道の娘で頼朝が伊豆にいた頃から寵愛(ちょうあい)していた。鎌倉に来てからは小坪にある小中光家の邸に預けていたが、山一つ越えた飯島の磯の伏見広綱邸に移した。その方が鎌倉から通いやすい、その時に政子は出産中だった。
 時政の後妻の牧の方が政子に告げ口した。
「それが怖いのだ、男とちがって女は毎日が戦場の気持ちなんだ」
 康元がさっき口を押さえた名前の中に牧の方もいる。
 それを聞くや否や政子は牧宗(むね)親(ちか)に命じて広綱邸を打ち壊させた。うわなり打ちという習慣だ。男が他の女に気を移した時、正妻はその女の家を打ち壊してもいい。広綱は亀の前を連れて必死に逃げ、逗子の浜をぬけて鐙摺の大多和義久の館に走り込んだ。翌々日、今度はそれを聞いた頼朝が激怒した。すぐに宗親を呼び出し、政子の命令をすぐに自分に知らせなかったという罪状でもとどりを切り落とした、首を切るのと同じくらいの処罰だ。そし再び亀の前を光家邸に隠した。またまた政子が激怒して今度は広綱を遠江に流罪にした。ついに夫婦仲は最悪となった。
「家臣というのは辛いものだな。それで沢乃さんはなんと言うのだ」
「当然、頼朝様が悪い、私でも許さないと。だから私をそんな目にあわさないと約束してくれと俺に手を合わせて拝むんだ、まったく思い込んでいるんだよ」
「それで菊名姫はなんと言う」
「俺は菊名姫と言葉を交わしたことはない。ただ遠くから見つめているだけだ、何を思っているか分からん」
 晴憲の置かれた状況を康元も少し理解した。
「つまり侍女は、姫が何も言わないので自分と晴憲の仲を黙認してくれたのだと誤解している、姫は侍女が自分のために晴憲を口説いてくれていると誤解している、誤解が二つで十戒だ。三千世界は五戒で保つというから足せば六千世界が保たれる」
「貴公らは俺をなぶるのだな」
「…で夫婦仲はどうなった…」
 北条時政は巻き込まれるのを怖れて伊豆に帰ってしまった。折りしも木曽義仲が京都に軍を進め、頼朝はそれどころではなくなった。政子も戦勝を祈願したり御家人たちの留守を気遣ったりで喧嘩はうやむやになった。
「弁護するわけではないが公家の風習では正妻の他に側室をたくさん持つ。頼朝様もそれに習おうとしたのだ。しかし政子は東国の武家の育ちだ、勝気で率直で純朴の上に知力胆力に富む。一夫一婦こそ武家にふさわしいと信じている」
「…夫婦は生まれも育ちも他人同士…」
「ところがその話はまだ続くのだ。沢乃はおしゃべりだからその後日談まで全部を話さなければ終わらない」
 木曽義仲の息子の義高は政子の長女の大姫と結婚していたが親子ともに頼朝に滅ぼされた。夫の死を悲しんで大姫は病気となり十数年も追慕し続けて、つい先日亡くなった。一途な心情は政子の娘にふさわしい。
「あなたが死んでも私は一生あなたを思い続けますと沢乃が言うんだ。そんなにいつまで思われたくはない」
「結婚の誓いだな、断ったのか」
「その前に相手がまたしゃべり始めた。私は政子様のようにどんな艱難辛苦があろうともそれを乗り越えあなたを支えますだとさ」
 時政は娘の政子が頼朝を慕っているのを知って、あわてて目代の山木判官に婚がせようとした。自分も平家、山木も平家、おまけに相手は伊豆の支配者だ。しかし、いよいよお輿入れとなった夜、政子は逃げ出した。大雨の中、真っ暗闇の山道を夜通し駆けて頼朝がいる伊豆山神社にたどりついた。山木判官も時政も怒ったが、伊豆山は僧徒が多く武力があったので手が出せない。ところが時政はこの事件以後頼朝側についてひそかに援助するようになった、まことに世渡りがうまい。治承元年、二人は結婚した、政子21歳、頼朝31歳だ。頼朝は平家討伐の旗揚げをすると最初に山木判官を討伐した。
「ところで貴公は何歳になる」
「知っておろう、康元より1歳半下だ」
「31歳までしばらくあるな、沢乃ははいくつだ」
「俺よりは2、3歳年上だろう」
「…やめておけよ…」
「当たり前だ、でも姫様は熱い視線を送ってくる、立ち話だから通行人はジロジロ見る、まるで問注所に引き出されたような気分だ。沢乃は自分がいかに思慮深いか、また政子様の話の続きをするんだよ」
 義経の愛人だった静御前が捕らえられ鎌倉に連れてこられた。美貌の白拍子で歌と舞いの名手だ。頼朝は尋問を終えると八幡宮社頭で舞うよう命じた。静御前は妊娠していることを理由に、また義経を殺した者たちの前で歌ったり踊ったりできるものかと拒否すると、それなら勝手にしろと頼朝は怒った。すると政子が穏やかに、しかし断固として静御前に舞を求めた。工藤祐経が鼓を打ち畠山重忠が銅拍子を打って静御前は舞った。
 乁 しずやしず しずのおだまきくりかえし                  
           むかしをいまになすよしもがな
 幸せであった時のことを思い出す、そんな時は二度と戻ってこない
 群臣は褒めちぎったが頼朝だけは激怒した。これは祝儀の歌でない、なぜ鎌倉を褒め称える歌にしないのだ。しかし政子は頼朝をたしなめた。昔、山木判官から逃げた時、自分がどれほど切ない気持ちだったか、あなたにも分かるでしょう。静御前の心を思いやってください。
「沢乃さんは自分が政子であり静御前でもあるというのだな」
「いや静御前とは言わない、自分が美しくないのを知っているから。ただ政子様くらいの器量だとは思っている」
「…なるほど奥ゆかしい…」
「馬鹿馬鹿しい話につきあわされた、早く仕事にもどろう。もうすぐ昼飯だ。仕事をしている姿を下人に見せなければなるまい」
「俺の話は自慢ではないぞ、貴公らが求めたから語っただけだ。それにしても憂鬱だよ」
「…おすそわけがほしい…」
「忘れろよ、今度は俺の手柄話だ、俺はとうとう二十五房へ潜入したんだ、その話をしたかったんだ」
 晴憲ががらりと態度を変え話しはじめた。
「まず番人と親しくなった。木戸番は退屈している、俺もひまな天文博士だ。運勢を見てやり、吉兆の方角を占い、何度か災禍を祓ってやったが当たるも八卦だ。もちろん酒も土産にしたさ。それでいよいよ決行した。自分は算学が未熟なので内緒で僧房の誰かに指南を頼みたいと願った、番人たちは門を開けてくれたよ」
「何を聞きたかったのだ」
「もちろん実朝暗殺のことだ」
 二十五房というのは八幡宮大臣山の左手、東西南北の谷戸に置かれた二十五の僧房で、入り口は厳重に番をされている。これも頼朝が平家の失敗に学んだことだ。平清盛は源氏の血を継ぐ子どもたちを都から遠い地に流した。頼朝は伊豆に、義仲は木曽に、範頼は三河に、義経は比叡山にといった具合だ。まさかそこで成人して叛旗(はんき)を翻し平氏を滅ぼすことになるとは思わなかった。だから頼朝は平氏の子どもたちが命乞いされると目の届く所に閉じ込めて監視した。やがて彼らは僧房の中で老いていった。
 そこに大事件が起きた。将軍実朝が刺殺された、それも幕府の重鎮や公卿が参列している儀式の場でだ。犯人は公暁、二代将軍頼家の子、二十五房に逃げ込んだ。
「二十五房は大騒ぎになった。何人もが嫌疑をかけられ厳しく尋問された。そして良祐、良弁、顕信、猷弁の四人は帰ってこなかった。どれも平氏の一族、顕信は平教盛の子息だ」
 康元と以長も興奮してきた。
「…斬られたか…」
「そうだろう。どうしても公暁が一人でやったとは思えないんだ」
 この事件には不明なことがいくつもある。晴憲は康元と以長が話し出そうとするのを抑えて言った。
「当日は四人の公卿が列席していた。目の前で目撃したのだから一番確かだろう。彼らが朝廷に報告した内容を慈円という坊さんが書きとめた。しばらくして鎌倉に下向する僧に頼んで二十五房に確認してもらった」
 その日は膝の上まで積もるほどの大雪が降った。儀式は遅れてうす暗くなってから終わった。八幡宮の通路はきれいに雪が払われている。実朝が衣冠束帯の裾を長く引いて石段を降りきった時、突然、飛び出した若い僧が裾を踏みつけ、のけぞるところを短刀で首を切り落として抱えて逃げた。同じ服装の僧が三人飛び出して太刀持ちの源仲章を切り倒した。
「親の敵と叫んだそうだ。太刀持ちの役目は北条義時だが直前に腹痛を訴え、仲章と交代したというんだ。そのため義時が事件を企てたのだといううわさが広まった」
「それは大変なことだ」
 康元が昨日起こった出来事のようにせきこんで聞くが晴憲は落ち着いて言う。
「本当は当日の義時の役目は中門の番だったらしい。きっと誰かが作ったうわさ話だ」
「…犯人は…はっきりしている…」
 以長は緊張するといっそう口ごもる。晴憲があたりをはばかるように低い声でいう。
「公暁は三浦義村邸に逃げ込もうとしたところを斬られたらしい。その時に首は持っていなかったがあとから見つかったという」
「…それでは黒幕は義村か…」
 以長がなおも話そうとするのを康元が制して前に出てきた。
「よしよし、ようやく俺の出番になった。今度は俺が話すぞ」
 晴憲には話の続きが残っていたが、大人しく引き下がった。
「貴公の話は誰に聞いたのだ」
「俺は問注所の賦(くばり)役だ、知ってるな。つまり裁判を起こすためやってきた諸国の人を受け付け、訴える内容を聞き取り、誰を担当にするかを決める係だ」
「その見習いにすぎない」
 晴憲は誰でも偉そうに言う者をからかいたくなる。
「だから皆の性格や実績を調査しなければならない。俺には誰もが真実を話す。これは大江広元が泣いた話だ」
 晴憲がびっくりして抗議する。
「それがどうつながるのだ、話をひっかきまわして混乱させないでくれ」
 広元は京都の下級の公卿だったが頼朝に見出されて鎌倉に下向し幕府の組織を束ねた。おおよそ実務などできない武者たちは広元を頼りにした。公家には珍しくモノノケや怨霊など気にもかけないしっかりした精神の持ち主だ、それに泣かないことでも有名だった。
「その広元が一度だけ泣いたというのだ」
 承元四年に駿河の馬鳴(まなり)大明神の稚児が神懸りして酉年に戦乱が起こると託宣した。聞いた以上は仕方ない、広元が取り次ぎ祈祷と恩賞を伺うと、実朝はその必要はないと即答した。
「私も同じ年に戦乱が起きる夢を見た。託宣を聞くまでもない」
 広元はいぶかしく感じた。公家ならともかく、武家の棟梁が夢を見てそれが正夢だなどと信じるのはどうなのか。
 実朝は広元にこうも言った。
「自分の代で源氏は絶える」
 たしかに子はなかったが、だからといって家が滅びるなどと予言するのはどうなのか。
 実朝は朝廷に近衛大将の任官を望んだ。広元も北条義時も反対した。父頼朝は武威を振るって幕府を開き任官された。その子だからといって若年者が近衛大将を望んでいいのか。広元は病気が重くて視力を失っていた。思いとどまるよう懇願した。そのうちに涙がとまらなくなってきた。これは凶事の前兆かもしれない、さすがの広元も暗然とした。
 朝廷は望みどおり実朝を近衛大将にした。そればかりか同じ年の十月には内大臣にし、さらに十二月に右大臣にした。どんな位を与えたところで朝廷の会議に出席するわけではないし意見を言うわけでもない、まったくのお飾りだが、任官の度にお礼参上があり莫大な品物が献上される。公家たちはそれを楽しみにしている。実朝はその右大臣任官の拝賀のために鶴岡八幡宮に参詣したとき殺された。
「その話が暗殺とどうつながるのだ」
「…長話だ…」
「貴公らはここに隠されている壮大な筋書きが分からんのか、では話してやる」
 朝廷は『位負け』という戦法を使った。短い期間にどんどん地位を大きくすると人物が逆に小さく縮んでしまい命を失うという。
「実朝は父に似て猜疑心が強く、暗示にかかりやすい。また和歌を詠み京都の公卿を師と仰いでいるので無常観や厭世観に落ち込みやすい。だから、いつ朝廷に服して幕府滅亡のきっかけを作るか分らない」
「…和歌と朝廷と滅亡がつながるのか…」
 康元は少しも騒がず胸を張った。
「諸君、もう少し俺の話を聞きたまえ。北条には戦略がある」
 まず倒すべき者は比企能員だ。頼家は子の一幡と弟の千幡に家督を半分ずつ与えることにした。北条時政は驚いた、一幡が後継者になると比企能員が権力を握る。そこで仏像供養と称して比企能員を誘いだし一族を滅亡させた。
 頼家は激怒して和田義盛と仁田忠常に時政追討を命じた。時政は忠常を誅殺した。頼家の命運は尽き伊豆に追放された。ついで北条は三浦を裏切らせて和田義盛を滅ぼした。
 次の目当ては実朝だ。将軍から実権を奪い鎌倉幕府を執権が支配する、それが北条の描く道筋だ。
 鶴岡八幡宮別当の定暁が死に、後任の別当は公暁になった。公暁は実朝を激しく怨んでいる。実朝の不安はいよいよ大きくなりすっかり鬱屈してしまった。政務が滞り、感情の起伏も激しく理不尽に怒ることさえあった。寿福寺の行勇禅師も激しく叱責され、怒り、泣き、怨んで引きこもってしまったという。広元の諌めも聞き入れない。
和田合戦から五年になる。世間には無念の死を遂げた勇士の怨霊を恐れる者が多い。厳しくも人間味にあふれた和田義盛、気の迷いや鬱屈をものともせずに払いのけてくれた義盛、実朝はその面影を偲んだ。そして和田一族の神社や寺を次々に復興させた。三浦と北条と大江広元はそれが不快だった。
 由比ガ浜にはまだ渡海船の残骸が墓標のように風に吹かれている。
「しかし、話はまだ確信に至っていないな」
 晴憲は冷たい目で康元を見る。
「なんで突然に渡海船が出現したんだ」
「…渡海船の件なら俺が話す…風早三郎に聞いてきた…」
「おお、いつのまに。貴公にしてはすばやかった。三郎は何と話した」
 康元は話を肩代わりしてくれた以長を大仰に褒めた。
「…その頃は和田義盛のところで…一部始終を見た…そうだ」
 実朝は異国にあこがれていた。宋に行ってみたい、栄西禅師が学んだ宋の国には京鎌倉にはないものがあるだろう。宋の皇帝は日本の天子様だが征夷大将軍とはどこが違うのか。知りたいことがたくさんある。
 突然、希望の光が輝いた。この鎌倉からも宋に行くことができる。自分が行けなくてもかの国の人たちを迎えることができる。港を作ればいい。
 それを聞いた近習たちはすぐに反対した。
「先代頼家様は道を外し将軍の務めをないがしろにしたと弾劾されました。今、実朝様は官位を上げ公卿の振る舞いを習い鎌倉武士らしさから離れたと思われております。昨今、天災あいつぎ世情が不安の中で、港を造り海に乗り出していけば、平家の後をならうのと同じ事、お考えを改めください」

 中秋の14日、晴れ渡った一日前の満月が影に侵された。月食だった。不吉な気分のまま人々は翌日の月見を待ったが薄い雲に覆われていた。三日経つと大風が吹いて八幡宮の鳥居が倒壊した。それから地震が始まった。土砂はくずれ家も道も押し流した。津波が来て浜の苫屋と舟を流し去り、砂浜をむしりとっていった。毎日、時間を変えて大きな揺れが起こり、小さな揺れは一日中感じられた。それが一ヶ月にも及んだ。
 年が明けて小正月の十五日、片瀬の漁師が息せき切って鎌倉に舟を漕ぎ寄せ、江ノ島の海に道ができたと伝えた。すぐに三浦義村が陸と海から急行すると確かに島は陸続きになっている。江ノ島明神社の禰宜が夢に明神の神託を受け、参詣の便を図って神変を現したと告げたという。
「禰宜などと申す者は都合よく話をこしらえるものでござる」
 義村は苦笑しながら報告したが実朝はもっと大きな神託を受け取った。
「神は一夜で橋を造った、人は百夜かけても港を造ろうぞ」
 実朝の築港渡海の願いはいよいよ強くなっていく。
 翌年の六月、鎌倉に参着した陳和卿は実朝に謁見すると大仰に驚いて、卿こそは前世には医王山長老、私はその弟子の末席におりましたと言上した。実朝は以前にも前世が僧だったという夢を見たことがある、そんな噂を聞いた陳和卿が法螺(ほら)を吹いたのだろう、中国人の古くからの処世術だ。しかし実朝はこの言葉にはまった。
「医王山とはどこにあるのか」
「寧波に近く阿育王寺と申します。昔、鑑真和尚とも縁が深い禅宗五山の一つです」
「前世の私はそこの長老だったのか。ぜひ行って見たい」
「船さえ造れば造作ないことです」
「汝(なんじ)に船が造れるか」
「仰せとあらば」
 義時も広元も驚いて止めた。しかし、湧き起こった望みに火がついては、もう止められる者はいない。

 こうして由比ガ浜で渡海船を造ることになった。暮の十一月、寒風吹きすさぶ中、浜に仮小屋がいくつも作られ造船が始まった。毎日のように実朝は馬を走らせて様子を見、生き生きとした顔で帰って行った。
冬は木々が葉を落とし、草も枯れているので材木を取るにはいい季節だ。すぐに人が配されて半島の山から巨木が伐り出された。三浦・伊豆ばかりでなく安房、上総の山からも材木が鎌倉に運ばれてきた。二隻の船で吊りさげて運ぶ巨木だ。コロをあてがい修羅と呼ぶソリに乗せて砂浜を引き上げ番匠たちによって板にされた。
 陳和卿の引いた図面は日本の船番匠たちには珍しかったが陳和卿はそれほど深い知識を持ってはいなかった。言葉も伝わらない。日常の生活に必要な言葉や仏教と禅宗の言葉くらいは和語で話すが、造船の用語は翻訳もできず、漢文から想像するより他なかった。
 しかし陳和卿は楽観していた。日本の番匠たちは勤勉だ。すばやく正確に板を削り、ホゾをうがち、釘を鍛える。作業ははかどり実朝も焦燥することはなかった。部材が調うまでは苫で覆っておく、子どもじみた満足感から船の全容は秘密になっていた。番匠たちに分かっているのは自分で作った部材だけだ。
 弥生の頃を過ぎると船は形をなしてきた。長さが30メートル、幅9メートル、排水量300トン、二本の帆柱に網代に編んだ縦帆をつけ、船首にロクロと石碇、中央と船尾に屋形を作り水手(かこ)ともに百人ほどの人を乗せる堂々とした渡海船だ。伊豆を回り紀伊を越えて兵庫から瀬戸内海に入り博多に出て黄海を渡る。ふだんは艪(ろ)を漕ぎ、風のいい時には帆を広げる。
 かの地の人々の好む扇や蒔絵、螺鈿や刀剣を積んで行き、帰りには銅銭や陶磁器、織物や薬や書画などの宝の山を持ち帰る。
陳和卿は東大寺再建を委ねられただけに理財に長(た)けていた。
建保五年4月17日、いよいよ渡海船を海に浮かべることになった。由比ガ浜には近郊に領地を持つ御家人たちが通達を受けて郎党を繰り出し、あわせて数百人の屈強な男たちが集まっていた。よく晴れた朝だ、侍烏帽子だけをつけ半裸の男たちは家紋を染めた幕の中でもうびっしょり汗をかいていた。
 康元が話をさえぎった。
「まてまて、まるで見てきたような話になってきた。貴公としては精一杯がんばって流れるように話したが誰が見ていたんだ」
「…だから三郎は見ていたのだと…」
「なるほど、三郎は当時、和田義盛のところにいたと言っていたな」
 晴憲も話に引き込まれている。
「御家人の指揮役は義盛だろう、実朝が一番信頼していたのだから」
「…もう少し聞け…」
昼近くになって近習を従えて実朝が出御した。陳和卿がたどたどしく挨拶し、次にかの国の言葉で訓示した。造船の意義と苦労、前途の期待などを話し、留学僧が通訳した」
 それから読経があり儀式は終わった。
 信濃守行光が大声で下知した。総員が船から海に伸びる四本の綱にとりついた。
「えいやさ、えいやさ」
 力強い声が響きわたり綱はぴんと張った。ずるずると船は台から滑り下りていき、波の寄せる水際まで来て傾いて止まった。黒く濡れた砂が徐々に船腹を埋めていく。濡れた砂では船が滑らない。
 誰もがこれまでの和船と同じ底の平たい船だと思っていた。しかし、この渡海船には竜骨があり喫水が2メートル近い。竜骨を支える隔壁を密に配して幅が30センチもある外板を張ってある。
 午後の日差しが傾いて大船の影も人々の影も長くなっていく。男たちは海の中に入って綱を引いたが足が砂にもぐるばかりだ。沖に出ていた小舟も綱を引いて思い切り漕いだ。頭となる御家人は馬を海に乗り入れて綱を引いた。しかし潮はみるみるうちに引いていき、船は砂の上に取り残された。たいへんな力が加わったので棚板がずれたり船体がゆがんだりしている。
「えいや、えいや」の声が途絶えた。美しい夕焼けとなった。凪ぎとなり砂の上に座り込む男たちの汗は乾かなかった。
 実朝は黙って還御した。その後も二度、三度と船を海に浮かべる努力がされたが、梅雨時の大雨と大風でまったくの破船になった。徒(いたずら)に砂頭に朽ち損ずと吾妻鏡に記されている。
「まったく悲しい話だ、それにしてもなぜ船は浮かばなかったのか」
 康元の問いに晴憲が答えた。
「それは地震のせいさ、陳和卿が最初に見た由比ガ浜はなだらかな砂浜の先が急に深くなっていた。なぜなら前年の津波が大きくえぐりとったからだ。陳和卿は少しだけ曳けばすぐに浮かぶと思ったのさ」
 一年の間に自然は砂浜を回復させ、以前の遠浅の海に戻っていたのだ。陳和卿とてそれに気づかないわけではなかったが今さらどうにもならない。異国の流儀で、船を造るまでが自分の仕事、海に浮かべるのはあなた方の仕事と割り切っていた。
「そういえば陳和卿は大仏殿の建築を依頼された工匠だな」
「…できませんなどと言ったら首がなくなるかもしれない…」
 康元も以長もため息をついた。
「…三郎の話はまだ続く…要所は書き留めておいた…もう少しだ…」
二月になって実朝はまた病気になった。皆々心配する中でやや回復した実朝は杜戸の浦に出でて磯で遊んだ。長江四郎明義が一切の支度をした。小笠懸を行い武者たちは馬を駆けさせ弓を射た。宴は夕方まで続き月が出た。
 帰りにあたって明義は実朝に思い切って申し出た。
「曽祖父景正が死んではや百年になろうとしています。篤く菩提を弔おうと思います」
 権五郎景正は偉大な祖父であり一族の礎を創った。しかし子孫はそれに及ばない。今、大庭も梶原も滅びてしまった。発祥の地の鎌倉は幕府に領有され長江は小さな所領に甘んじている。
 実朝は察しが早かった。
「故事がしのばれる。我らは古くからの主従である。幸い前浜にはまだ広い土地がある、そこに屋敷を構えてはどうか。土屋や波多野も縁のある御家人だ。戻ったら広元に奉行させよう」
 そして実朝は舟で御所に帰っていった。そして言葉通りに沙汰があった。お気に入りの和田常盛にも屋敷地が与えられた。
建保三年梅雨の頃、栄西禅師が亡くなったという書簡が届いた。長く寿福寺の住職を務め、頼家が京都に建仁寺を建立するとその開祖も引き受けていた。
 実朝の思い出は、以前に宴会があった翌朝の出来事だ。
早春、箱根権現と三島明神を続けて参詣し、夕刻、安達景盛の饗宴で酒を過ごして翌朝、起きることができなかった。加持祈祷をとあわてて従者が禅師を連れてきた。実朝は恥ずかしそうに小さい声で、過ごしたのでと言った。禅師は澄まして、法具が必要だから寺に帰ると言って、湯を沸かしておくように言いつけた。大きな釜に何杯も沸かしてある湯を見て禅師は哄笑し、ただ一杯だけを碗に汲んで茶をたてた。深みのある緑が泡だって芳しい香りがする。口にふくむと甘みと苦味が口中から胃まで爽快になった。
「せっかくの湯ですから、湯浴みもなさい」
 すっかり快気した実朝を見て従者たちは不思議に思った。やがて茶の効能は鎌倉から全国に広まり茶の種が鎌倉土産となった。茶は田にも畑にもならない所に育てなさい、禅師の言う土地はどこにでも広がっていた。
「偉い禅師だった。二度の入宋を果たされ頼家卿の発願によって建仁寺を建立され、東大寺の勧進職を受けられ、鎌倉と京都をつながれた方だった」
 実朝は人の死に過敏だった。しかしこうも思うのだ。
   塔をくみ堂をつくるも人のなげき
       懺悔(さんげ)にまさる功徳(くどく)やはある
 建仁寺という巨刹をつくる費えは莫大なものだった。飢饉もあり災害も多い時代に、その費用を調進しなければならない百姓の苦労は並々ならなかった。
   深林人知らず 明月来たって相照らす
 こういう気持ちを持つだけでは足りないのか寺が必要なのかと栄西禅師に尋ねた。
「人としては良し、衆生としては不可」
 それは分かっている、大衆を教化するには見えるものが必要だという。実朝は、一人だけのおのれではなく、たくさんの己を束ねる立場にいる自分が辛かった。
 
 満月の夜に実朝は由比ガ浜に舟を浮かべた。楽師が雅楽を奏でる。月は波の上に金波銀波を散らした。笙の音は甲高く叫び、笛の音は風を切るように響く。実朝はずっと沖に向かっている。後ろには夜目にも白い砂浜が広がり、一箇所に黒々と残骸が残っている。こんな小舟ではない、へさきに立てば大海原の風を切り、ともに座れば波を泡立てて航跡を残していく渡海船だった
 次の日も実朝は舟に乗って三崎の椿の御所に向かった。郷の人たちはうわさを聞いて、すこしでもお慰めしたいと娘たちの踊りを見せた。
 乁 仏は常にいませども 現ならぬぞあはれなる
   人の音せぬ暁に  ほのかに夢に見えたまふ
    仏も昔は人なりき 我等も終には仏なり
   三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなり
 
 白拍子を真似て一生懸命に踊るの素朴な郷の娘だ、歌声も舞の手もおぼつかない。しかし実朝は自分を気づかってくれる優しい心に感動した。
 側近の和田常盛が大声で言った。
「褒美の布を受け取るがよい、着物に仕立てれば器量が上がろう。こちらの黒い布は帯にするがいい。この紅染めの布は姫様の小袖の端切れだ、髪を束ねるのによろしかろう。次に見せてくれる時にはかわいい姿をみせてくれ」
 郷人も娘たちも実朝の笑顔を見て喜んだ。そしてもっと上達してお目にかけたいと願った。
「そのひなびた様子がいいのだが、殊勝な思いに応えたい。ここに楽師も連れてきているから教わるといいだろう」
 そして誇りたかい楽師たちの不満を抑えるために舞装束の新調を約束した。
 
「実朝というお方がよく分かったよ。確かに戦場の人ではない、謀略の人でもない」
 康元が珍しく静かに言うと晴憲も続けた。
「公家のように惰弱でもない、武士の誠実と真情を持ち、高潔で同情心にあふれる人だ」
「…それゆえに邪魔…」
 失った人を思慕する気持ちで三人は房をあとにした。どんな事件だったのか知りたいという欲も消えうせた。ただ心豊かで孤独な若者が不慮の死をとげたということだ。哀しい気持ちしかない。
 
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