第5章 承久の変
承久3年(1221年)

後鳥羽上皇、北条義時追討を命じるが敗れて隠岐に流される。西国の御家人は没落し、東国から守護地頭が派遣された。北条氏の幕府は全国を掌握した。

「ひどく叱られたものだ」
北条実時邸から出て行く三人はげっそりと肩を落としていた。
「字の下手なのは仕方ない、誤字も多いし文章がいかにも稚拙だ。こんなものを俺に読ませようと言うのか、無礼者。きちんと推敲し清書してから提出せよ、おまえたちはなんでも書けばいいと思っておろう、読むのは俺だぞ、よく心せよ」
 火の出るように厳しく叱責された。それで提出する前に必ず点検してもらうことになった。卜部兼名という最近、京都から来たばかりの文人に引き合わされた。祐筆の一人であり、書庫を管理し書籍を整える仕事を任されている。幕府の重鎮、安達泰盛の知己も得ているという。
 翌朝、いつもの時間に三人が集まったが房の中に入る気になれずに池の前に座った。一面の蓮の葉の上を吹いてくる風は涼し香しい。しかし康元は黙って池に石を投げている。ボチャンという音がさびしげだ。
「カエルだよ、下郎下郎と鳴いている」
 晴憲は少し機嫌を直して笑いかけた。
「お歴々お歴々とも聞こえるぞ、俺たちを認めてくれている」
「俺の字は汚いと言われた。問注所の上役には流れるように元気一杯だと褒められている、けっして雑なのではない。気に障ったのは晴憲の字だろう、貴公の筆は女に好かれる文字だ」
「康元よ、流麗な字だと言ってくれ」
 ただ二人とも以長が一番上手だと認めている。
「…こうしていても仕方ない…」
 誰かが房の方からやってくる。
「皆さん、こちらでしたか。房には誰もいないので探しました」
 明るい声がした。実時の祐筆が早速、訪ねてきたのだ。汗をふいて扇を使いようやく一息いれると名乗りをあげた。といっても相手を威嚇するような無骨な武家の態度ではなく、いかにも京都の文人といったやわらかな物腰で雅やかな京言葉で話した。
「姓は卜部、名は兼名、正七位下の官人です。安達泰盛さんの推挙でここに仕えております、以後ご昵懇(じっこん)に願います」
 穏やかな様子と反対に挨拶は切り口上なので三人はまごまごした。
「皆さんのお名前はうかがっております、学問にご熱心だそうで敬服いたします。私ごとき不学不才がなんのお役に立つはずもございませんが、かくも優れた若いお方のお手伝いができるというだけで身にあまる光栄でございます」
「よろしくお願いします」
 ようやく晴憲が挨拶するとあとの二人もペコッと頭を下げた。
「朝廷のことしか知らない者です。鎌倉のことは逆に教えてもらわなければなりません」
 こうおだてられれば誰でもうれしくなる。三人はすっかり自尊心を取り戻した。
「ではうかがいましょう、帝(みかど)とはなんですか」
 康元はこのいかにも下級の公家の官人らしい物腰にむっとしていた。それでわざとつっけんどんに聞いてみたのだ。さすがの兼名もこんな無作法な質問には驚いた。
「歴代のことを申すなら神武天皇カムヤマトイワレヒコノミコト以来この国を統べる尊いお方です」
「なぜ神武と言いカムヤママトトなんとかなどと言うのか、」
「平安の昔、淡海三船という文章博士がいて天皇の御名を漢風に名づけました。武力で大和朝廷を打ちたてた初代ですから神武です。和風の御名はカム(神)ヤマト(大和)イワレ(磐余)ヒコ(彦)ミコト(命)」つまり大和のイワレの地の王という意味です」
「後鳥羽という御名は」
「鳥羽に宮を持たれた天皇の後裔という意味あいでしょうかな」
 さすがの康元も博識に気を飲まれて言葉遣いが丁寧になった。
「神話の王が天から降りてきたというのは本当ですか」
 兼名は子どものいたずらを見たように怒るのか笑うのか判別できない表情をした。
「帝は鳥ではありませんから羽がありません。だから天というのを大空と思ってはいけません。つまり尊い場所を『天』とし、この世界を『地』としたのです。帝は先祖のおられた『天』の神々と、今、住まわれている所である『地』の神々を祭って、この世界の安穏を祈願されておられます」
 晴憲はこの前の出来事を思い出した。美しい姫に、あなたは天人のようだと言ったら、その通り私は天から降りて来ましたと答える。脇から侍女が、私はお花畑で生まれましたと口出しする、馬鹿にしていると思っても怒るわけにもいかず、ああ夢のようだと笑ってごまかしたのだった。
 しかし、この場では冗談は言えない。
「…後鳥羽院とはどんな方でしたか…」
 真面目な以長がとつとつと聞くので兼名もようやく気持ちがおさまった。
「文武の達人、英雄の心を持つお方でした」
 御名は尊成親王、祖父が後白河院。後鳥羽天皇は3才で即位した。先代の安徳天皇は平家とともに海に沈んだので、三種の神器のないままで皇位についた。13才の時に後ろ盾の後白河院が死んだ。19才の時に出家して院になった。武芸が好きで朝廷守護の北面の武士団に加えて西面の武士団を創設した。呪術に詳しく、尊重という荒法師を身近に使って五壇法という秘法を行い討幕を呪ったらしい。
「なんと怖いお方だ」
 三人が驚くと兼名は自分の説明に満足して一息ついた。
「しかし、それだけではありません。あの藤原定家卿が尊敬するほどの歌人で蹴鞠と管弦の名人、武術の達人」
 康元がじれったそうに言葉をさえぎる。
「そんなお方がなんで戦乱を招いたのか」
 兼名は雄弁だった。
「日本一の大天狗と頼朝公が嘆息したのが後白河院です。側近に内紛を起こして朝廷の藤原氏勢力を分裂させ、政権を奪った平家を源氏に討たせ、すぐに後鳥羽天皇を即位させ、次に頼朝と義経を不和にして鎌倉幕府を混乱させました」
「つまり平家と安徳天皇を見捨てて、今度は源氏とも縁を切ろうとしたのだな」
「朝廷が政治を行うのが正しい道だと信じておられたからです。後鳥羽院も祖父と同じ思いを持たれました。20才の時に頼朝公が亡くなってからじっと機会を待ち、続いて二代三代の将軍が非業の最期をとげられて、ついにその時がきたと思われたのです」
「まるでネズミをねらう猫ですね、ところで兼名殿も朝廷が政治を執るのが正しいと思われていますか」
 晴憲は感情を隠して淡々と言う。これは不意打ちの一撃だった。兼名はあわてた。
「私はこうやって金沢さんに仕えています。物事を決めるのは上の方、下の者は従うだけです」
 晴憲、康元、以長はいきりたった。
「良し悪しを言うのは不都合ですか」
「上にへつらっては真実が記せまい、貴公は歴史を曲げてもいいとお考えなのか」
「…正義はどうなるのか…」
 兼名はあわてて両手を広げ三人を抑えた。
「まあまあ、聞いてください。お三人の仕事は問注所のように理非を正すのではない、出来事を記すのです。読む人が是非を判断する、百年二百年経てば世の中の価値も変わります。そのために資料を残すのです」
 そう言って兼名は気負いたつ若者たちに冷水をかぶせた、しかし気持ちは温かかった。純朴で純真な熱意はいかにも東国らしく、後鳥羽院を筆頭とする京都の公家たちは陰謀と保身に生きているからだ。
「私が話すだけでなく、皆さんが知っていることをまず言い合ってみてはどうですか」
 康元はさっきから話したくてうずうずしていたのだ、さすが官人の兼名はめざとい。
「それがいい、まず俺が貴公らの耳を借りることにしよう」
 その3年前に三代将軍実朝が殺され頼朝の血統は絶えた。鎌倉の危機は京都の好機、後鳥羽上皇は喜んだ。実朝を倒すために朝廷が仕掛けた秘法は官打ち、官位をどんどん上げていくとその分だけ寿命が縮まるという。公家は武器を使わない。しかし実朝は暗殺され、代わりに公卿の息子を征夷大将軍にすることになった。幸先良く左大臣藤原道家の二才の息子が選ばれて後継者に推された。
「…ところで公家といい公卿というのはどちらですか…」
 一生懸命に記録を取っていた以長が口をはさんみ兼名がすぐに答えた。
「公卿は三位以上のお公家様です。武家に対して公家ですが、私などはそれにも及ばない、官人とか文人とかと呼ばれます」
 武者は戦場で手柄を立てれば人に褒められ地位も上がる、しかし公家は生まれながらの身分に縛られて生涯をすごす、それが少し哀れだ。兼名の表情をよみとった三人はしゅんとなった。
「それにしても貴公のガラガラ声は耳障りだった。せっかく貸した俺の耳がもう嫌だと言っている。話を譲って喉でも湿せ」
 晴憲が話題を変えると、めずらしく以長がのんびりと話しはじめた。
「…俺に話をさせてくれ、長江殿のことを話す…」
 実朝が殺されて二ヶ月後に後鳥羽院から弔意の使者が鎌倉に来た。ついでに摂津の国長江倉橋の庄園を院が求めていると使者は言った。長江倉橋庄は北条義時の預かりとなっているが、あの鎌倉権五郎景正の息子景明がかつて地頭として在任し、その子の長江義景が育った由緒ある土地だ、長江の姓もここに由来する。それを後鳥羽院は亀菊という白拍子に与えるからよこせという、幕府は怒って返答をしなかった。
 康元を黙らせておくのは難しい。
「なるほど後鳥羽院は虎の尾を踏んだな。あたりまえだ、戦いで血を流して獲得した土地をハイハイと手放す武者などどこにもいない。守護・受領の任命、所領は幕府の専決事項だ」
 後鳥羽院はそこにずかずかと踏み込んできた。そして実朝と義時がそれまで心を砕いてきた京都と鎌倉の調和を崩してしまった。
 晴憲が兼名の顔をそっと見た、少しうとうとしていたようだ。
「兼名殿、すると承久の変でもし朝廷が勝っていたら昔どおり公家が主で武家は従の世になるのか。幕府が勝ったから武家は自分たちで物事を決める権利を守ったのですか」
「そう言えましょう。帝は公家の藤原氏に政治を奪われ、その後には武家の平氏に、次に鎌倉の源氏に奪われたと思っておられました。とはいってもたとえ帝が権力を取り戻しても国の秩序を維持する力はありません」
「なるほど権力を取ることが目的で、その権力で国を治めることは考えていないということか」 
「いや違います。帝にとってこの日本は一つです、東国はエミシの国でした。それを坂上田村麻呂がようやく治めた、しかし平将門が新皇となって独り立ちしました。今は鎌倉の征夷大将軍が幕府を立てて東国を支配している。しかし、西の地はまだ朝廷に服しています」
 なるほど承久の合戦で西国の御家人は後鳥羽院についた。幕府の権威は関東だけにしか通用しない、だから京と関東、二つところから命令が出て御家人たちは混乱した。康元は黙って考えている。以長は無口だ、晴憲が代表となって兼名に問うている。
「西国は朝廷、東国は幕府が治めると分けたのですか」
「本当は全部が一つにならなければいけません。実朝さんも義時さんも承知している、だから第四代将軍は帝のご血縁を求めたのです」
「後鳥羽院はそれが不満だった、関東が血縁を使って西国を飲み込もうとしている、と考えたいうことですか」
「藤原氏も平氏もそうやって帝を我が物にしてきましたからね。義時さんも…おっと言いすぎました。これはここだけの話にしてくださいね」
 兼名は汗をふいてニヤリと笑った。大胆な言葉だ、三人は実時の顔を思い出してゾクッとした。
「私も話をいたしましょう」
 なぜかずいぶん丁寧な口調になって晴憲が話しはじめた。
 承久2年、鎌倉ではまだ混乱が続いている。火事が何度も起き、彗星が飛び、大雨が降った。しかし鎌倉の不安は京都の安心だ。
 5月になって後鳥羽院は決断し全国に宣旨を発した。しかしそこには倒幕ではなく北条義時の追討とだけ書かれている。京都守護は大江親広と伊賀光季の二人、親広は幕府重鎮の大江広元の子、光季は義時妻の伊賀局の兄、幕府にとっては最も信頼できる人物だ、それが分裂した。親広は光季を誅殺した。
 京都にいた三浦胤義もすぐに官軍に加わった。胤義は三浦義村の末の弟で武勇の士だ。北条と三浦の微妙な関係は朝廷もよく知っている、三浦が分裂すれば幸先がいい。押松丸という者が秘密のうちに宣旨を届けた。
 晴憲が一息つくと康元がため息をついてようやく話に加わった。
「長い話だ、以長、書き留めてくれたか」
 以長が書付を取り出した。
「…一部始終が書かれているものを探して持ってきた…」
「なんだ、そんなものがあるのなら早く出せよ。続きを読み上げてくれ」
 承久3年5月19日午の刻(正午) 伊賀光季から飛脚、院が官軍を召し集めている。大江親広がそれに応じた。
 同日未の刻(午後2時)三善長衝から飛脚が届き光季の誅殺と宣旨の内容が『義時追討』だと知らせてきた
 同日同時 鎌倉葛西谷にひそんでいた押松丸が捕らえられ宣旨が取り上げられた。三浦胤義からも兄義村に書状が届いたが、義村は使者を追い返し義時に注進した。
 同日午後 陰陽師が招かれ占うと関東太平と出た。
「当たり前だ。不吉なことなど言ったら血祭りにあげられる」
 康元が吐き捨てるようにつぶやいたが、晴憲はニヤリとしただけだ。たぶん顔を見知っている一族の長老たちが都合よく託宣したのだろう。
 同日午後 政子は鎌倉にいる御家人を招集した。まず頼朝の恩を説いてこの度、逆臣の讒言により宣旨が下った、院に参りたければ今すぐ申し出よ、これは激しい恫喝だった。
 同日夕刻 義時館で軍議。政子はすぐに東海から関東の御家人に命じた。『京都より坂東を襲撃するとの風聞あり。時房、泰時が軍勢を率いて出陣する。このことを速やかに一家の人々に伝えて出陣せよ』
「簡単な文書だな、これで御家人たちは納得して軍勢に加わるのか」
 晴憲が康元に語りかけた。
「字の読める御家人は少ないのだ、たとえ長く書いても読めなければ同じだ。執権から手紙が来たというだけで奮い立つ」
 御家人たちは箱根で官軍を迎え討つことを提案したが義時は同意せず、すぐに京都まで攻め上るべきだと主張した。大江広元が同じ意見で政子を説いた。
「さすが政子殿、義時追討を倒幕と正しく読み替えた。朝廷が敵にしているのは幕府だ、武家の支配を終わらせたいのだ。しかし北条に反感を持つ武士も多い。敵を北条にすれば諸国の御家人の耳に入りやすい」
 三人とも政子は知っている。しっかりしたお婆さんだった。
21日 大将泰時は館を出て藤沢に宿泊。
22日 泰時は18騎で出立。時房は三浦義村らとともに出立。朝時は北陸道大将として出立
25日 東国武士は全て出立 軍勢あわせて19万騎
「それは見事なものだったろう」
 康元はきらびやかに武装した将兵の姿を想像してうれしそうに言った。
「しかし総大将泰時は出陣にあたり父義時に聞いたそうだよ、もしも後鳥羽院ご自身が軍の先頭に立って攻めてきたらどうしようか。その返事は、武器を捨てて降伏しろということだった」
 晴憲が言うと康元は武者の夢をさまされて不機嫌になった。
「貴公はそんなやりとりが本当にあったと思うのか、それは甘いな。勝てば何とでも言えるのさ、朝廷をないがしろにしたのではありませんとかね。第一、いくら武芸の達人でも上皇が先陣に現れるはずがないではないか、戦闘が始まれば殺すか殺されるかしかないのだよ」
「しかし朝廷も考えが甘いな、幕府に勝てると思っていたのだろうか。兼名殿、どうお考えだ」
 兼名は目をパチパチさせた。
「はあ、公家たちは武家のことは知りません。公家の流儀は一つことを決めるのに何日も集まって、うだうだ話して後は下の者にまかせるだけです。まさか幕府がすぐに決定し、それほどすばやく行動するとは思ってもいなかったでしょう」
「…続きを読んでいいか…」
 以長がおずおずと自分の存在を主張する。
 27日 出陣の様子をすっかり見させて押松丸を京都に帰す。
 29日 後鳥羽院は鎌倉の対応を知り驚愕。
6月1日 押松丸が京都に帰着 院に詳細を報告する
「この押松丸というのもなかなかの男だ。わずかな間に京都に戻った」
「健脚自慢の従者なのでしょう。しかし斬りもせず出陣の様子を見せてから帰すというのは義時も智謀のお人だ」
「院や公家の性格をよく知っているのさ」
5、6日尾張一ノ宮周辺の各要害に立てこもる官軍数十人を撃破する
 8日  院はじめ公家が比叡山に避難
13日 大雨の中 瀬田橋で会戦 関東方24人負傷
14日 長江四郎他98人 馬で川を渡り対戦 泰時もイカダに乗って渡河。官軍の大将源有雅以下全員逃亡
「なんだよ、総勢19万騎などとずいぶん大きく言ったくせに戦闘の人数は何十人だけなのか」
「たぶん19は正しくて、そのあとは千か百がつくだけなのだろう、郎党や荷物運びの下人も数にいれてな」
「坂東武者は一騎当千といいますから嘘とは言えますまい、さて先を続けてください」
 兼名がそっとうながした。
15日 三浦胤義が後鳥羽院に戦況を奏聞 後鳥羽院は院宣を泰時に届ける。
『この度の合戦は謀臣らが申して行ったもの、狼藉のないように』
 三浦胤義は東寺で戦い西山で切腹、首は義村が探しだし館に送る。
「公家というのはそんなものだな、つまり家来の武士が勝手にやったことで自分には責任がない、かかわりはないという、それで謀臣にされたのは誰なのだ」
「後鳥羽院の一番の寵臣は藤原光親という公家だ。しかし、院に戦いを思いとどまるよう数十通も諫言状を送ったそうだ。それでも院は決行した」
「それも公家らしい保身の術でしょう」
 兼名はすっかり三人に気を許しているようだ。
「三浦胤義はなぜ朝廷側についたのか、以長、記録があるか」
「…そういうものは記録には残さない…康元は知っていないか…」
「こういう話は聞いている、俺の役所のうわさだ」
 胤義は二代将軍頼家と兄弟の血をひいている。北条が頼家を殺害した後、頼家の妻を胤義が自分の妻とし、その子ども禅暁と栄実の後見人になったが、それも北条に惨殺された。恨みは深い。
「こんなことも語られています」
 兼名もしんみりしている。
 後鳥羽院が自分は陰謀にかかわりないと言ったのを聞いて胤義は、口惜しき君の御心かな、かかりける君に語らわれまいらせて、謀反を起こしける胤義こそあわれなれ、と嘆いたそうだ。
「まことに公家と武家とは心根が違います。後鳥羽院の御歌は
   奥山のおどろが下も踏み分けて
        道ある世ぞと人に知らせむ
 その結末が、敗者が首を切られ、町には人や馬の屍が散乱し、家々は略奪され田畑は踏み荒らされました。天皇家も滅びようとしている、そう民衆は嘆いたそうです」
 晴憲も戦乱の悲惨さはよく知っている。
「名ある武者たちが自害すると主を失った郎党たちは散り散りになる。ある者は世を捨てて僧になり、ある者は農や漁に暮らす道を選ぶ。中には盗賊や海賊になり世の中に復讐をする者や悪党と呼ばれる無頼の集団に入っていく者もいる。世の中の混乱はここに生まれる。康元も武者振るのは仕方ないが、こうした世の中を知っていてほしいのだ」
「晴憲よ、良い大将というのは仁慈の者だ、俺もそうなりたいと思っているのだ。この記録は真実だろう」
16日 時房と泰時は六波羅の館に入り。ただちに包囲網の一方を開いて落ち武者を逃がした。戦火を免れた京の人々は二人を褒めたたえた。
 しかし、北条義時は容赦しなかった。土御門院は土佐、順徳院が佐渡、後鳥羽院は隠岐に流した。朝廷側の公家、御家人を断罪し所領を没収した。それが三千ヶ所にものぼり御家人たちは大喜びをした。
「源平合戦の時よりも多い褒美だ、一所懸命が鎌倉武士だからな」
「これで西国もすっかり幕府に支配されました。武者と違って公家の首は切れません。五体満足でなければとあの世で不自由すると信じているからです。だから水死を望んだ公家もいました。まして帝の血を流すことなどは絶対にできません。それで流刑にします」
 兼名がわが身のこととして話した。
7月5日 後鳥羽院を仙洞御所より鳥羽離宮に遷し厳重に監視する
27日 後鳥羽院を船で出雲大浜の津から隠岐に移す  
「義時殿は明敏だ、是非を正すというのはこのことだ。たとえ院であっても謀反の罪は大きい」
 康元がはしゃいで言うと晴憲は暗い顔で横を向いた。武者はそれでいい、陰陽師と天文方はそうはいかない。院は幕府にとって許せない罪人なので名前を奪い隠岐院、土佐院、佐渡院と呼ばれた。しかし天変地異が続き、戦乱は絶えず、怨霊の恐怖が広がった。隠岐院は21年後に絶望し飢え死にしたという。その荒ぶる魂を鎮めなければ怖ろしいことが起きる、鎌倉の地も京都と同じように怨霊で満ち満ちている。ついに後鳥羽院という諡(し)号が贈られ佐渡院には順徳院という諡号が贈られた。
「…こんな書付がある…」
 以長は同席していることをすぐ忘れられる存在だ。
 泰時の前で戦功を申告していると佐々木信綱と芝田兼義が瀬田の先陣の功を争って争論した。目撃者が信綱を押すと芝田は憤激した。泰時が鎌倉の裁量でまちがいなく褒美が出るだろうとなだめたが芝田は褒美などいらないとふてくされた。
「武者の心には欲と名誉心と嫉妬深さと頑迷さが入り混じっています」
 兼名は嘆息した。こういうものに駆り立てられて武者は戦い世間の人は賞賛する。文人の願う安穏な世などに関わりない人たちだ。
「…こんな記録もある…」
 北条時氏の秘蔵の馬が矢に当たり苦しんでいたのを捕らえられていた友野遠久という西面の武士が治した。武者たちは喜んだ。
「…人の首は切り馬の命は大切にする…」
「それは貴公が医師だからだ。馬は友、敵は憎むべき敵でしかない」
「天命により人の生死は決まっているが馬の生死は予測できないからな」
 三人のやりとりを聞いていた兼名が笑い出した。
「猛き武者にも優しい心があると思えばいいのです。和歌を詠むことが武者のたしなみでもありますから。康元殿は和歌の心得はありますか」
「いや、まだ、その」
「討ち死にする前に歌の道を志しなされ」
 縁起でもないことを平気で言う。
「…続けます…」
 西面武士になっていた御家人は処刑した。頼朝の恩を忘れて勅命に従ったからだという。人々は弓馬の道に外れた者だと彼らを忌み嫌った。
「つまり武士は鎌倉に従え、それが恩に報いる武士の奉公だ、朝廷ではないということだ」
「逆に朝廷は武士を支配してはいけないともいっている」
「…それをはっきり区分した…」
 もちろん兼名には意図が分かっている。
「朝廷から武力を奪う策です。もはや倒幕はできません」
 義時はこの機会を逃がさず幕府を磐石にしようとした。朝廷をはばかることなく改革をどんどん進めた。
「義時大活躍だな」
「息子の泰時を大将軍に出したのは、侍所別当だから当然ともいえるが、幕府の軍事力を北条が支配する絶好の機会だったな」
 義時は政所と侍所をつかさどり、その権力は父親の時政よりはるかに強くなった。問注所だけを取らなかったのは訴えや裁きをする人の恨みをかう仕事は三善氏のような官人に任せた方が無事だと考えたからだ。
「分かったぞ、このへんから執権と呼ばれるようになったのだ。政所も侍所も長は執事とか別当とか呼んでいた。それでは以前と同じになってしまう、差をつけて別格にしなければならない」
 康元が目を輝かせて言う。
「北条一族も数を増やしたから、その正嫡つまり得宗の義時とか泰時とか時頼は幕府の長になる、それが執権という名乗りだな」
 晴憲も興奮している。
「…将軍はただの飾り物、幕府は執権のものだ…」
 定めを作り武士を統率する、古くは律令と言い頼朝は下し文と言った。すでに要綱は決まっているのだから、あとは重々しくそれらしく記せばいい、幕府の名によって。幕府という言葉は執権と置き換えてもいいのだ。
・諸国は守護が治め、幕府が任命する
・公家以外の官位・官職は幕府が推挙する
・すべての罪人は幕府が裁く
・所領、相続のことは幕府の定めによる
・国衙や寺社、荘園に幕府はかかわらない
 晴憲、康元、以長は重苦しく黙っている。兼名がはっとしたように窓の外を見た。さすがの夏の日も傾きだしていた。
「だいぶ遅くなりました。これから金沢まで帰らなければなりません。朝比奈の切通しあたりで暗くなりましょう。あの辺りは昼に通っても気色の悪い場所で…」
「お送りしようか」
 康元が言ったが兼名は断った。
「それではあなたの帰りが心配です」
 本当は康元も心細かったのだ。
「書付がまとまったらお届けください。実時さんにお渡しいたします。心配いりません、校正してきれいに清書して渡します。では、また後日に」
 兼名は身軽に帰っていった。残された三人はしばし無言で座っている。心身ともに疲労した。
「…三浦も大江も義時に屈した…」
「違う、三浦も大江も幕府の重鎮だ。親広と胤義が敵に回ったのは大変な失策だ、さぞ狼狽したことだろう。しかし身内が敵味方に分かれるのは源平以来よくあることだ」
「承久の変で一番、得をしたのは誰だろう」
 晴憲がぼんやりつぶやく。
「義時かな」
 以長が珍しくはっきりと言った。
「…三浦と大江です…」
 三浦一族は戦功で肥前国神崎の地頭になり有明海を支配するとともに筑前宗像の将軍領預所職として玄界灘にもにらみをきかせ大陸と南方と両方から来た船を押さえるようになった。さらに、その領地は三浦に加え紀伊、河内、讃岐、土佐の守護として海を支配した。
 しかし、義時は和田義盛の領地だった金沢の港、六浦を手に入れた。東からの物産は利根川を下って金沢で陸揚げされ鎌倉の搦め手から運ばれる。今はそこを金沢実時が支配している。しかし、それよりも圧倒的に重要な西からの船は三浦の厳重な監視下にある。義時の得たものよりもはるかに大きい。
 一方、大江広元はそれまでの名乗り「中原」をやめて「大江」になった。こちらは所領の代わりに名誉を望んだのだ。大江というのは朝廷にとって大切な由緒正しい姓だ。しかし、こうなってはやむをえない、広元は大江を名乗った。北条と三浦は強く後押しした。
「なるほど戦いは勝たなければならないということか、肝に銘じるよ」
 康元は武者気質の持ち主だ、家を興し名を残そうとする欲がある。
「武者と違って姓を変えるなどということは大変な誉れだ。位階は功績で上がっていくが姓は変わらない」
 晴憲も慨嘆した。安倍という家柄は由緒正しくても天文・文章・陰陽という職掌は地位が低い。どんな才能を示し実績を積んでも低いままだ。それは悲哀でしかない。
「なるほど頼朝以来の文武の要はその二人か、北条はまだ二番手でしかない。義時も後鳥羽上皇のように時節を待ったのか」
 晴憲が一言ずつ噛みしめるように康元にささやいた。
「義時は次の壁を打ち崩そうと戦意を燃やしたのさ」
「…合戦の終わりは合戦の始まり…」
 康元と以長が言葉を添えた。
「遅くなった。俺たちも終わりにしよう」
 康元が大声を出した。
「暗くなりかけている、逢魔が時という」
 晴憲も不安そうに言った。
「…北条は…」
「以長やめろよ、晴憲、やめようよ」
「そうだな、これ以上話すと魔が出そうだ」
 三人は実時に怒られたことを忘れない。
「…これが宝治合戦か…」
「そうだとすると危ないな、康元もそう思うか」
「これは書けないぞ、実時殿がどう思うか」
「…史実は曲げられないと言ったのは康元だ…」
「それでは真正面から北条に当たるようになる。たぶんその前に兼名殿が削除してしまうだろうがな」
「以長よ、俺は実時殿が心底怖いんだ」
「…でも真実を書かねば、晴憲はどうだ…」
「どうせ削られるなら提出してもしかたがない、ならば波風立てずにおくにがよろしかろう」
「…でも…」
「よし良いことを考えた。二部作ろう、俺たちの分と実時殿の分だ。とりあえず出すものと大事なもの二部だ」
「…卑怯だ…」
「仕方ない、俺たちはまだ下っ端なんだよ。戦場でも兄と弟とが敵味方になるだろう、書付などいくつあっても不思議はない」
「康元の言い訳には無理があるが、今日はこれだけで終わりにしよう。また良い知恵が出たら話し合おう。魔につかまらないうちに家に帰ろう」
 
 承久の変の後始末をして3年後に義時は死んだ。早朝に死を悟るとすぐに出家姿となり5時間ほども南無阿弥陀仏と念仏を唱え続けて死んだという。しかし義時がなぜ今日中に死ぬと悟ったのかは分からない。藤原定家は著作、明月記の中でこんなことを記した。承久の変の首謀者の一人二位法印尊長はずっと隠れ続けていたが、密告されて捕り手に囲まれた。覚悟して切腹したが死にきれない。『伊賀の方が義時に飲ませた毒薬があるだろう、早くそれをくれ』と叫んだという。伊賀の方は義時の妻室で尊長の姉だ。
 義時の死を聞いて六波羅探題にいた泰時はすぐに鎌倉に向かった。しかし9日たっても鎌倉に入らず、弟時房と婿の足利義氏が来るのを待った。政子は執権を泰時に命じ、大江広元も賛成したが泰時はためらった。なぜなら伊賀の方が実子の政村を執権にして婿の一条実雅を将軍にしようとしたからだ。そのうえ三浦義村が同心して兵を出そうとしている。それを知った北条政子は単身で義村に会い激しく叱責した。三浦をはじめ諸将は政子に従い一条実雅は敗れて越前に配流された。政子は幼い将軍頼経を抱いてその前で泰時を執権に任じた。
 その翌年に政子と大江広元が相次いで亡くなった。幕府は次の世代に委ねられた。
 
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