宝治元年6月初め合戦があったが戦乱は思いのほかに小さく終わった。たくさんの予兆(よちょう)に脅かされ、この度も家と財産のすべて失うのかとあきらめて避難していた鎌倉の人々は明るい表情で住み家に戻ってきた。ついに三浦と北条が戦う、それは予想通りの最終戦だった。三浦一族は源義家が阿部貞任と戦った後三年の役の昔から源氏を支えて来た最強の武者団で、それを率いる三浦義村は幾多の修羅場をくぐりぬけてきた族長だった。対する北条時頼は兄から執権職を譲られたばかりの若者だ。しかし義村は対決を待たずに死んだ。後を継いだ三浦泰村(やすむら)は弟の光村を制御できなかった。光村は自負心が強く、前将軍経頼(つねより)を慕っているのてそれを追放した北条を第一の敵と憎んでいた。
宝治元年6月5日朝、安達景盛の奇襲で合戦が始まったが戦いは一日で終わった。泰村邸は焼かれ三浦の荒武者たちは法華堂に立てこもった後、ことごとく自害した。北条の支配は定まった。
時頼は独裁的な執権となり、戦乱を煽(あお)りたて主導した安達景盛は第二の権力者となってほくそ笑んだ。
「貴公は法華堂を見たのだな」
晴憲が以長に聞く。
「…思い出しても吐き気がする…」
「どんなものだった」
長江の郷の領主長江明義もその子景重も三浦に与して共に死んだ。首を失った死者は集められた。親戚や友人、知人たちは弔うために運んでいった。それでも残された屍は砂丘に掘られた大きな穴に埋められた。身に着けていた鎧兜や太刀、長刀、衣服は全て持ち去られている。遊行の僧侶が石に経文を書いて手向けとしただけだ。なによりも半日ばかり戦った後で三浦一族500人が全員、自害してしまったのは不可解だ。
晴憲と以長は吐き気を覚えたが、康元は平気で干魚を手づかみでかじっている。
「下人に昼食の文句を言ったのがすぐに伝わったようだ。食べ物も種類が増えて量も多くなった。俺たちは意外と大事にされているようだ。さて始めようではないか、俺のもっている記録だ」
6月1日 時頼が使者を泰村邸に送る 館内の様子を見ると百二三十の鎧
櫃(よろいひつ)があった。
2日 近国の御家人鎌倉に参集し時頼邸を警護する 雑役の車を集め
辻々を固め通行できなくする。佐原盛時は時頼邸に遅れて来たので入れないのではないかと皆が心配したが、門を乗り越えて入ってきた。
3日 泰村が時頼に弁解する 自分に野心はない、誰かの讒言(ざんげん)だ 身命は貴命に従うと書状が届いた。
4日 三浦一族が結集する 泰村妹の毛利季光妻室が白い小袖と茶の帷子をつけて端女(はしため)1人を連れて来る 必ず夫を味方につけると誓約する
5日 辰の刻小雨 時頼は再び使者を泰村邸に送る 安達景盛はそれを聞き、ただ運を天に任せて雌雄を決すべきと叫んで攻めかかる。泰村は応戦する。巳の刻になって毛利季光が泰村邸へ参集。午の刻 時頼は将軍御所に行き策略を凝らす 北風が南風に変わり泰村邸は炎上 武者一同は法華堂に入り防戦する 時頼勢が寺内に乱入し三浦方と三刻にわたり戦う 泰村以下の三浦武士276人をはじめ500人余が自害 申の刻に首実検をする 使を京都に送る 法師が一人天井裏に隠れていた
「ありえないことだ。あの三浦の荒武者どもが矢を射つくしてしまったからといって簡単に自害などするものか」
晴憲は同情的にしんみりして湯を飲んだ。
「別れの宴を開きしんみり話しあって酒を飲み、すぐ自害したそうだ」
「きっと何か隠されている。しびれ薬ということはないか。酒に混ぜてあったので気がついたら立つこともできなくなっていた」
晴憲は天文方なので中国歴代の皇帝がどう死んだかをよく知っている。どの星回りの時に何が起きるか予想するのも仕事なのだ。
ようやく以長が口をきいた。
「…いっぺんに五百人の武者を倒すような毒薬はない…」
「まるで呪術をかけられたようだ。鬼をも怖れぬ武者を自害させる呪文」
おっとりと言う晴憲に康元がいらだった。
「合戦の最中だぞ、呪文などなんの役に立つのだ」
「では、俺のもとにある記述を読み上げてみる」
寛元5年の2月末に改元して宝治となった。3月11日に由比ガ浜の海が血のように赤く染まった。翌日には大きな流星が現れた。17日に黄色い蝶が密集して何群も壁のように渦巻いて飛んだ。人のような大きな魚が打ち上げられた。
「それはただのうわさか、それとも文字で記録されているのか」
晴憲が康元の問いにしっかりと答えた。
「天文方の記録にある。平将門の乱、安倍貞任、藤原泰衡、源頼家、和田義盛の乱の時にも同じようなことが起きたと記録されている」
「なら、戦乱に前兆があるのは事実なのか」
もちろん人々は騒然となればうわさ話は半日で鎌倉中に広まる。晴憲だって自然現象が戦乱を引き起こすとは思っていない。
「いや違う、こういう現象が起きても戦乱にならなかったという記録もある。当たり前だ蝶々なんかフワフワ飛んでいるだけだ」
康元はまだるっこしくてたまらない。
「では戦乱の始まりはいつなんだ」
「4月4日安達景盛が京都から戻り執権北条時頼邸にとどまる、とある、これが始まりだろう」
「謀議だな、景盛は子息義景と孫の泰盛を叱責している、お前たちはまったくやる気のない奴だと言ってな」
以長が小さな声でぼそぼそと会話に加わった。
「…5月13檜皮(ひわだ)姫が亡くなる、18才、将軍頼経の御台所、時頼の妹、しばらく病気だった。将軍はまだ8才、結ばれてからたった1年だ、かわいそうに…」
「まだ8才の子どもの10年上の妻だと、つまり結婚は世のため家のためだよ、年上だからといって驚くことはないだろう」
「康元は知恵者だが恋愛には縁が薄いな」
晴憲は多少、恋愛にはくわしいのだ。
「先に進めよう、時頼は三浦泰村の邸に移った。これが分からん、なぜ第一の敵の三浦の邸に単身で移ったのだ、檜皮姫の物忌(ものい)みのためだというのだが、なぜ三浦の邸に行くのだ」
晴憲が平然と答える。
「なにか相談があったのだろう」
「じれったいな、誰と誰が何を相談するんだ」
「最初は時頼と大叔父の北条政村と安達景盛が相談したのさ。安達は北条に次ぐ家柄だ。それから時頼と泰村が相談したのだ、何しろ三浦は武力では北条をしのぐ」
すでに北条と三浦の対決は避けられないものと鎌倉中の人々が思っていた。時頼は兄から執権職を譲られると前将軍頼経を体よく京都に追い返した。頼経は三浦と親しく結ばれており、当主泰村の弟の光村は頼経を大殿と慕って京都まで送っていった。それでも別れがたくて、かならず鎌倉に招き返すと約束したという。もちろん時頼はそれをしっかと心に留めている、まだ20才ながら深謀遠慮の持ち主だ。
「三浦は決戦を想定していたのだろうか」
「…時頼が単身で三浦邸に乗り込んできた…」
「大胆な行為だ、三浦は甘く見られたのか」
5月21日、八幡宮鳥居の前に木札が置かれてこう書かれていた。
『三浦には近いうちに懲罰が加えられる』
近国の武者たちが続々と鎌倉に集まってくる。
26日、土方次郎という侍が三浦に謀反の企てありと時頼に密告した。
「筋書きを書いたのは時頼だ、口実を作らなければ兵は動かせない」
康元がまた得意そうに言う。
27日深夜 時頼は密かに三浦邸を出て自邸に戻った。屋敷に武装した武者共が満ちているのはなぜだという置手紙があった。泰村は今さらになって陳謝したが時頼は戻らない。
6月1日、時頼は三浦邸に使者を送って謀反を詰問した。泰村は讒言だと抗弁したが邸内に百数十もの武者がいるのでもはや言い訳は通らない。
「ところで晴憲、この日の天気は晴れか雨か」
康元が聞く。
「突然のご下問おそれいる、記録にはない、以長は調べていないのかな」
「…ムム知らん、なぜ知りたい…」
「天気が悪いとイライラするからな、合戦などというのは何かのはずみで始まるものだよ」
6月2日、三浦一族の佐原盛連が北条時頼の味方になった。
5日、時頼はまた泰村に使者を送った。次の朝にも和議の書状を送った。しかし返事が届けられる前に安達景盛は泰村邸を焼き討ちにした。三浦光村は永福寺で戦おうとしたが兄の泰村に説得されてともに法華堂で自害した。
「この日の天気もご下命かね、晴れのち小雨」
「そんなことはどうでもいい。晴憲、さあ、ここが要点だ、全員が自害した、俺なら外に出て華々しく討ち死にする。なぜ泰村は法華堂内を死に場所にしたのか」
「気が衰えた。前の日の使者が帰った後で泰村は湯漬けを吐いたと書かれている」
「…激しく緊張すると胃が痙攣(けいれん)して食べたものを吐くことがある…」
以長がボソリと言う。
「そんなことを誰が見ていたのだ。敗者の姿を臆病だったといいふらす、都合よくこしらえたうわさ話だ。しかし、ここに要点が二つある」
康元が座りなおすと晴憲と以長もまじめな顔をした。
永福寺は門構えも厳しく築地も厳重で合戦の場としてふさわしい。それなのに光村は呼び寄せられて死にに行った。
そして一族全員が法華堂で自害した。
「聞いてみるしかない」
康元が言い放ったので晴憲は端正な顔をゆがませた。
「みな死んだよ」
「…三浦のことは長江殿がご存知だ。父のお供で長江景秀殿にお会いしたことがある…」
以長が珍しく自分から言い出した。康元はすぐに結論を出した。
「それがいい、長江殿のところへ行こう。いつ行こうか」
「まず書状を届けて、お伺いを立ててから訪問するのが順当だ。貴公のようなせっかちは戦場で真っ先に討ち死にするぞ」
そう言いながらも晴憲はもう手紙の用意をしていた。
それから数日して三人は馬を走らせて長江の郷に向っていた。鎌倉からは一里余だ、馬を歩ませて半刻ばかりで館につく。
宝持合戦で長江明義は三浦方につき、滅びた。父の義景以来、明義、義重と三代続いて住んだ館は破却され焼き尽くされていた。しかし明義の弟の長江師景は時頼側についたので、長江の郷は息子の八郎左衛門尉を名乗る景秀に与えられていた。明義のもう一人の弟景行の領地の深沢も師景の子、弥六左衛門尉を名乗る景泰に与えられた。一族の武勇を時頼は忘れていなかったのだ。こうして長江氏は西国から鎌倉に入る道と東国に出て行く道の両方を固めることになった。
新領主となった景秀は館跡をそのままにして川向こうの丘に住んだ。そこには鎌倉権五郎を祀る社があり代々の御霊が祀られている。討ち討たれるのが武者のならい、とは言っても伯父と従弟の無念の残る地にはいたたまれなかったのだろう。
郷の人々は先の領主に哀悼(あいとう)を示したが決して景秀を侮(あなど)ることはなかった。
誰も館跡に入ろうとする者はいなかった。しかし一人の残党がいた。風早(かざはや)三郎と呼ばれた老人だった。館のからめ手になる谷深くの小屋で暮らしている。川で魚を取り小さな畑を耕す。郷の人々も仏に供養するような気持ちで三郎に物を届けた。
景秀は館へ三郎を招いた。長江三代に仕えた老人をいたわろうとする気持ちだった、しかし三郎は応じなかった。すでに三浦の残党狩りは終わっていたが、うっかり見あらわされて捕らえらたらどんな迷惑をかけるかもしれない。無言の返事を聞いた景秀は無言の感謝を返した。
景秀も武勇の人だった。毎年8月16日に行われる八幡宮放生会流鏑馬は武者にとって栄えある舞台だ。狩衣も凛々しい若武者たちが一同に会し、きらびやかに技を競う。三年前の流鏑馬の一番は長江師景が承り、射手を景秀、的立てを三浦光村が引き受けた。二番は北条時頼で射手が武田政綱、三番が後藤基綱、四番が千葉秀胤、最後の十六番は三浦泰村、射手が舎弟の資村だった。法治合戦で時頼はこれらの人々をことごとく滅ぼした、それゆえ師景・景秀親子が優遇されていることは強い緊張をともなった。
しかし景秀は穏かで快活な人物だった。
「若者たちにお目にかかれてうれしい。それで俺に何の用事か」
景秀はわずかに見覚えのある以長の顔を見た。
しかし話をすすめるのは三人の中で一番物言いが丁寧で礼儀正しく応対のできる晴憲と取り決めてあった。
「私どもは金沢実時殿のご命により文書を整理しております者で」
「聞いておる。ご苦労な仕事だ」
「宝治合戦について聞きたいことが」
みるみる景秀の顔が曇った。
「実時殿に聞けばよかろう」
「実時殿は御所を守る大将でしたから法華堂のことは知らぬと仰せられます。身近のお歴々もお話しになりません」
「俺も知らぬ、とは申せ、それでは貴公たちもお困りだろうか」
「ついこの前のことながら分からぬことがたくさんあります」
「俺も身内を失った。そして従兄弟の土地を与えられた。この俺に何を話すことができようか」
「…」
「とまあ、それではわざわざ来たのが無駄足になる、ある者を引き合わせよう、俺も会ったことはないのだが」
それが三郎という郎党だと聞いて三人は少しがっかりした。その気配を察して景秀は笑った。信頼できる笑顔だ。
「思慮ある者だと聞く、ウソや偽りを言わなければならぬお年でもない。話しても無駄ならやめればいいだろう」
やってみよう、晴憲が二人の顔を見て景秀に大きくうなずいた。
「しかし俺の館に来るのは今日が最後にしてくれ。そして三郎に聞いたことは一切、俺には話さないでくれ」
執権時頼は日本中の御家人たちを統率する権力者になっている。北条が倒した者はすべて幕府の敵なのだ。
景秀は郎党を呼んで三人の顔を覚えさせ、今後いつでも郷の中を馬で走ってよいという許しを与えた。そして下人に命じて三郎に手紙を届けさせた。
「すぐに返事がこよう、少し早いが飯を出す、そまつなものだが一緒に食べてくれ」
武者の食事は2回だけ、山盛りの飯に汁と山海の食べ物だ。
「ちょうど昨日、イノシシを射たので汁にした。肉は焼いて醤(ひしお)で食う、たぶん八幡宮の飯よりもうまいだろう。人に会うのだから酒はやめておく。存分に食ってくれ、相伴しよう」
三郎の小屋は、長江川が正面と北側を山に阻まれて真南に流れを変えるその谷戸の中腹にある。茂るままの夏草も勢いを失って昼でも虫が鳴いている。館のからめ手からこっそりと川を下り海に出ることができる人に知られないところだ。
三郎は小屋の柱にもたれて目をつぶっている。
この風早三郎もとうとう七十の爺になってしまった。安房、上総まで漕ぎ渡り、遠く美濃まで走っていったのは昔のことだ。時代は変わり自分は取り残された。しかし、まだ朽ち果てたわけではない。
南の島に漕ぎだしていった朝比奈義秀殿からは何の知らせもない。あの大船も朽ちてしまっただろう。伝説の武者の源為朝が領主になったという島に義秀殿も漕ぎ寄せたのだろうか。為朝の後をついで島のお館様と呼ばれているのかもしれない。自慢の武技を見せる義秀殿の得意げな顔が思い浮かんでくる。そんなことを思っていれば、この南の谷に陽がさしこんでくるような楽しい気持ちになれる。
もう俗世にかかわることはない、郷の人たちも自分を生かしておいてくれるし新領主も気を配ってくれる。それが第一の温情だ。たくさんの人が死んでいくのを目の前にした、いずれ自分の番だ、そんなことを静かに受け止めていた。
風早三郎は生まれながらに長江一族の郎党だった。よちよち歩き始めたころに源頼朝が旗上げし当主の長江義景が三浦一族とともに参戦した、そんな古くからの出来事を記憶している。若い頃は腕のいい水手(かこ)として海を往来した。足が速いのが自慢で舟が湊に着くと山を駆け野を走って手紙を届ける、そして返事をもらって館に帰る。ひょうきんな顔をしていて身が軽く、陽気に歌い踊るので宴会には欠かせない。それに機転がきいたので和田義盛のような恐ろしい武者にもかわいがられた。
入り口を覆うムシロが開いて、いつも郷の恵みをもたらしてくれる農夫が顔を出した。黙って手紙を渡してじっと待っている。三郎は読み書きができるので郷の人に敬愛されている。
「お館様からの手紙だ」
「うん、届けるように頼まれたんだ」
手早く書状を開いて一読すると三郎は農夫に言った。
「若いお武家が3人訪ねてくるそうだ。心配することはないが、ただ郷の者は見て見ぬふりをしてくれとのことだ」
男が返事を待っている。
「承知しましたとお館に申し上げてくれ。ただ小屋があまりむさくるしいので一刻(2時間)だけお待たせする、館の脇は通らないで川沿いの道をお連れしてくれ、お前も焼けた館の跡は通りたくないだろう」
男はさっさと帰っていった。
「この際だ、いらぬものは捨てよう。長刀も鎧もいらぬ」
粗末ながらも武器を家の裏手に運び出し、部屋を掃き清めると僧侶か隠者の小房のように静寂に見えた。
「そうだ茶をさしあげよう」
義盛が実朝将軍から戴いた茶の木が館の裏山で育っている。母堂とお方様に召し上がっていただきたいと届けられた木だ。戦乱の中で忘れられていたが三郎は覚えている。季節ごとに摘んだ葉を切り刻んで臼で粉にするとまがりなりにも抹茶となった。御所や寺社にはともかく鎌倉ではまだ珍しい飲み物だった。
きっちり一刻たって三人がやってきた。馬を立ち木につなぎ草をかき分けて上っていくと板葺きの小屋がある。三郎が入り口のムシロを開けて立っていた。
「私は安倍晴憲、この二人は太田康元と丹波以長、金沢実時様の命で史書の整理をしております。お館様の許しを得て…」
三郎はあわてて手で制して笑いかけた。
「俺は三郎、老い先短い郎党です、遠慮することは一切ない、日も短くなってきた、まず俺に聞いてください、あとは話します」
例によって康元がずっけりと聞く。
「宝治合戦はなぜ起きたのですか」
「見た話と聞いた話を申し上げましょう。発端は古いことながら頼朝公が北条時政の娘政子様と結ばれたことです。流人頼朝の監視役の時政は平家を裏切った。陰謀と裏切りは恥じるものではないと以前から時政殿は言っていました」
頼朝は旗上げして平家を滅ぼすと続けて源氏の大将義仲と義経と範頼を倒した。頼朝の死後はいよいよ争いは苛烈になり二代頼家も三代実朝も殺され、梶原、佐々木、和田と幕府の功臣が次々に滅ぼされた。しかし、北条時政も追放され、承久の変で朝廷を屈服させた執権義時が急死し、翌年には政子と大江広元も死んだ。北条泰時は18年にわたり執権として天災と騒動を乗り越え幕府の権威を高めた。
ここまで三郎は一気にしゃべった。さすがの三人もその記憶と能弁にあきれた。
「幕府の権威といったがそれは北条の権威ではないのですか」
じっと聞いていた晴憲が口をはさんだ。三郎は我が意を得たりとうなずいた。
「北条は政子の縁で幕府に位置をしめましたが弱いきずなです。古くからの豪族の兵は強い。北条の力ははるかに劣ります」
「それでいながら数々の戦いに勝ち抜いてきたのはなぜだというのか」
康元はこぶしを固く握っている。
「陰謀と裏切りは武家のほまれ、北条には道義とか潔さとかの教えはありません。さっきも申し上げました」
「宝治合戦もそうなのですね」
晴憲は武者の猛々しい外見が、実に心の底から湧き出る溶岩が固まったようなものであることを知って身震いした。
泰時の跡は経時が執権となったが四年後に亡くなり、その弟の時頼が執権を継いだ。
「京都に帝、鎌倉に将軍、その二人を結びつけるのは執権なのです。ところが世間の誰もが見誤りました、時頼は20才とはいえ曽祖父義時や祖父の泰時と肩を並べる大胆で知謀に優れる人物です」
将軍位を6才の息子に譲らされて怒った経頼はすぐに反時頼の動きをみせた。時頼にないがしろにされていた名越光時がすぐに加担した。時頼は計画を察知するや電光石火で光時を伊豆に流し、加担した有力な御家人の千葉秀胤を上総に追放、頼経を京都に送り返してしまった。
「もしここで三浦が頼経側に味方すれば時頼はあっさりと滅ぼされたのです。泰村はこれを北条の内部争いというだけの判断しかできなかった、名越光時の先祖は得宗家の兄にあたります。まさか前将軍を追放するなどとは予想もしなかった」
頼経を支え幕府を動かしてきた三浦氏は痛打を受け、強硬派の光村がいまさらになってから北条打倒を叫び始めた。時頼は安達景盛と息を合わせて火に油を注ぐように三浦をいっそう挑発した。
「次に時頼は三浦の結束のほころびを見つけようと仕掛けました。泰村の弟の家村は幼い将軍のお気に入りです。前年の放生会の流鏑馬で射手の一人が倒れた時、将軍は代理に家村を指名しました。もちろん陰で時頼が動いています。恥をかけばよし、しかし家村はすばやく衣服を改め見事に的中させて何事もなかったように座に戻りました。みなが褒め称えましたが、案の定、泰村は面白くないようでした。時頼は今度は由比が浜の笠懸の奉行を家村に命じます。小さなほころびがやがて大きくなっていくことを時頼は知っています」
なるほど弟の手柄を喜ばない兄は多い、頼朝も弟の義経の功績を嫌い攻め滅ぼした。
「次に時頼は泰村が嫌がるようなことをわざとつぶやきました。若年の自分は未熟だから、京都にいる北条重時を呼んで政務を手伝わせたい」
自尊心と自負心の強い泰村はそれを拒否する、相談役は自分だけでいい。しかし、それで何か借りができたようになり時頼と気まずくなる。
「ふだん強気で傲慢な男は案外、小心なものです。あなた方もお若いうちに人の心持ちを学んでおいたほうがいい」
三人はなんとなくうなずいた。
「次の策は『いざ鎌倉』でした。この号令を発して関東の御家人を鎌倉に招集し幕府への忠節の度合いを確かめました。また腹心の者たちに自分の名を名乗らせて諸国を巡行させ実情を探らせるようなこともしました。時頼様は諸国の隅々まで知っている、御家人の味方だ、ご自身も回国しているようだといううわさが広まりました」
「そういうことなのか、納得できる、うわさが気になって、世間ではもしかすると時頼殿ではないかと旅の僧を大事にもてなすようになったのだ」
感に堪えたように康元がうなった。
「情勢を見極めると時頼はいよいよ相手のふところに乗り込みます。実の妹の檜皮姫が亡くなったので、その物忌みを三浦邸でしたいと願います。武者の館ではよくあることですが、この切迫した時期に北条の得宗が三浦の邸に滞在すると言ったのです」
「その晩、俺は灯火の役をしていました。一晩中灯を絶やさないのは老人の仕事です。二人は親しく話をしていました。泰村がもっぱら話し、時頼は聞き役でした。暗い灯の影で俺は話を聞いていました」
三郎は暗い顔で言った。
「時頼はその晩、泰村の弱点をすべて知りました。そして三浦を合戦に引きずり込むための方策を考えました。どんな卑劣な手を使っても三浦を滅ぼそうとしたのです」
第一に木札をこっそりたてました。『泰村は独断の余り幕府にそむいている。近いうちに懲罰を加えられるだろう』もちろん策略です。
次に願文の策。『自分は泰村一党の反逆には加担しない。だから神仏の加護を願う』鶴岡八幡の社頭に土方次郎という武士がこんな願文を貼り出して行方不明になりました。もちろん時頼に言い含められてのことでしょう。
「館の近くでこんなことが度重なると誰でも嫌な気分になります。泰村殿は三浦武士の怒りを抑えられなくなってきました」
「泰村殿を決定的に傷つけた言葉はなんだ」
話に夢中になった康元が叫んだ。
「それは『独歩』と言われることでしょう」
幕府には一揆(団結)と独歩(離反)という二つの言葉がある。壇ノ浦で平家を滅ぼし全国に守護地頭を置いた時に御家人三百余名が頼朝に一揆した。つまり忠誠を誓って自分たちの主としたのだ。一揆から離れていくことは許されない、独歩すると死の制裁を受ける。
「北条と三浦は、どちらが一揆でどちらが独歩なのか激しい駆け引きをしました。その結果で御家人たちはどちらに味方するか判断します」
「そして時頼は勝ち、泰村は負けたと」
晴憲が感にたえたようにつぶやく。
「合戦の日の朝、時頼は泰村に書状を送って、誤解を解きたいので法華堂で会おうと呼び出しました。時頼の和議の書と泰村の詫び状を前にして頼朝の位牌の前で読経し香を手向けました。俺はこの日も隅っこの薄暗がりで火の番をしていました。時頼にとっては一騎打ち、ところが泰村はこの若い執権に息子のような親しみと信頼を感じています。時頼は静かに三浦一族の歴代の罪業を説いていきました。梶原景時は頼朝に深く心酔し、その子頼家を盛り立てようとしたが三浦に追われて駿河の清見関の道端で殺された。頼家将軍も三浦に誅殺され、その後に比企一族を滅亡させたのも三浦だ。畠山重保と郎党三人を由比ガ浜で殺し、身内の和田義盛を裏切って滅亡させた。
泰村を追い込み戦意をそいでいく。泰村だって陰謀と裏切りなど平気な武者だ、ふつうなら三浦歴代の出来事などを負い目にすることはなかったろう。しかし、この薄暗い法華堂に座って重く厳しい時頼の声を聞いていると、まるで頼朝に叱責されているような気分になりました。死んだ武者たちの無念の顔が次々と目に浮かび、恨みや嘆きや呪いで全身を包まれ身動きできなくなる。まるで戦場の真ん中に一人取り残されて途方にくれたようでした。
「三郎殿、時頼は茶を勧めませんでしたか」
晴憲がふと思いついて聞いた。
「仏前ですので茶も酒も出しません」
「…しびれ薬ではない…」
以長がぼそぼそと言う。
「ただ私も堂内にいてぼんやりと夢を見るような心地になりました」
「…妙なことに…」
「はい、香の煙が堂に満ちてきて体がゆらゆら揺れるようでした」
以長は真剣に聞き取っている。
「いつのまにか時頼はいなくなり泰村は物思いにふけっていました。やがて三浦の主だった武者が堂に入ってきました。泰村は皆を座らせて読経を始めました。俺は居場所がなくなったので梁に登り天蓋の影から様子をのぞいていました」
それでは戦機を失ってしまうと焦る武者もいたがしばらく堂内にいると立つことが辛くなる、そういう武者がどんどん増えていった。やがて堂の外に敵兵がひしめきあい、最後に光村が走りこんだ時には三浦の荒武者たちは不思議な静寂の中にいた。
「光村殿は、頼経将軍の命に従っていれば武家の権力が握れたのに、悔やんでもあまりある、と叫びました。しかし泰村殿は、血で御堂を汚し、寺を焼くのは不忠、と申されました。数代の功、三浦四代の誉れ、されど故義村殿は自門他門の者に多く死罪を行い、その子や孫を滅ぼした。罪業の因果か。北条殿を恨んではいない、と言われました」
「それは北条にとってはまったく都合のいい言葉だ」
康元が口をゆがめて言う。しかし三郎は静かにたしなめた。
「武者というのは潔いものです。恨みを後に残すようでは極楽往生はできません。最後のときを迎えると人は清らかになります」
「それを見ていたのは三郎殿お一人か」
「梁の上には生意気盛りの小坊主が二・三人、俺の顔を見てニヤっと笑う者もいました。どこの戦場にも見物人はいるものです」
さすがに三浦一族が次々に切腹し始めると、いたたまれなくなって小坊主どもは逃げ出した。最後まで見届けた三郎は泣き泣き長江の郷に帰ってきたのだという。
「話が長くなりました。これでは鎌倉に着く前に暗くなりましょう」
帰りをうながされて三人は小屋を出た。そして夢うつつのように帰路についた。
翌日、房に出てきた三人はまだぼんやりしていた。
三郎が毒薬など飲むはずがない、ただ体がフワフワして突拍子もないことばかり考えていたという。ここから飛び降りたら自由に羽ばたいて外へと飛んで行かれるとか、突然ね目の前に光が現れて青くなったり赤くなったりキラキラ点滅したという。
「…魔薬…」
以長がつぶやくと二人が鋭く反応した。
「なんだ、それは」
「…そうかもしれない、煙か…」
宋の国からは色々なものがもたらされた。茶も禅僧が眠気を覚ますための薬だった。そしてもっと恐ろしい薬もたくさん運ばれた。
「…かの国は人を毒で殺す…」
煙を吸い込むと訳が分からなくなる薬がある。不思議なものが見えたり聞こえたり、そんな薬があるそうだ。
「なるほど武者は皆、まぼろしを見て、極楽に招かれたり、地獄が迫ってきたりして、自分の最期だと思い込んだのか」
「生きていられなくなって切腹したり、友だちに誘われて自分も死のうとしたり」
「…そう考えると納得できる…」
「時頼はそんな薬を持っていたのだろうか、義時も毒薬で殺されたといううわさがある、そうかもしれんな」
康元と違って晴憲は陰陽師、天文博士という立場から考えている。
「修法で祈り殺したり、生霊が祟って命を取ったり、そんな古風な時代ではないのだな」
「でも時頼が一緒だったぞ」
「煙は上にたまる、やがて降りてくる。それまでに部屋を出ればいいのだ。たくさんの武者が入ってくれば風が起きてたまっていた煙は下に降り武者たちは吸い込む、そうかもしれん、そうでないかもしれん
「…おそろしいことだ…」
三浦一族の後家や子どもなど全てが翌日に探し出された。時頼は御家人が賛嘆するような人情味あふれる戦後処理を行った。泰村の妻室は感謝して肌身離さなかった時頼の最後の書状を提出した。時頼は安堵した。
「人に見られては困る内容だったのだな。たぶん妻室を脅して取り上げたのだろう。出さなければ子どもの命を奪うとかな」
「三浦を執権に立てて北条はそれに従うとか、所領を増やすとか、いかにも三浦を油断させるような内容だったのでしょう」
「…底知れない謀略だ…」
泰村妻室はじめ後家たちが生計を立てられるよう扶持を与えたが鎌倉に居住することは禁じた。
続いて寄合いの場で首実見が行われた。残党捜索はようやく30日になって終わった。慣例の水無月祓えは中止になった。
「分からん」
さっきから書付をひっくり返していた康元がうめいた。
「実朝は渡海船を造った。北条泰時は和賀江島を造った。そして朝比奈切通しを整備し六浦の湊の便を図った。時頼は今度の合戦で三浦と千葉を滅ぼした。ぜんぶ海に関わる」
「もちろんそうだ、北条が海を支配したということだ」
晴憲は明快だ。
「鎌倉に入る海の道は三浦のものだった。六浦と三崎、安房の先端の館山、和田浦それぞれに領地を持ち海辺に館を構えて舟の往来を支配した。兵も馬も兵糧も運ぶのは舟だ」
いくつも川を渡り山を越え重い荷物を運んでいくのは難儀な仕事だ。
「源平合戦の時だって西国にはるばる米を運んだのは三浦の舟だ。それがそのまま兵船になって壇ノ浦の勝ち戦になったのさ」
「それが北条の目的か」
御成敗式目で全国の守護に海賊の取り締まりを厳しく行うことを命じている。夜討・強盗・山賊・謀反人そして海賊だ。
「俺は海賊のことなど知らないぞ」
康元は馬に乗り弓を引く武者だから海のことは知らない。
山賊は旅人、海賊は船が通らねば商売にならぬ。荒くれ男が入り江から漕ぎ出していって通行料を取る。最ももうかるのは難破船だ。海では岸に流れ着いたものは浜のものになる、船も同じだ。しかし大きな寺社が乗り出してきてその権利を求めた。流れ着いたものは寺院・社殿の修理費として収めよ。そこで海の武士たちは荘園と同じように寺社に名目だけ寄進して利益を独占するようになった。そんな「田舎の習い」を幕府は統制して海の秩序を保とうとした。
「なるほど御成敗式目か、しかし海賊はなくなるまい。地頭は転んでも土をつかむというくらい強欲だからな」
「…一番の強欲は…これは言えない…」
以長が口ごもりながら言うと二人もうなずいた。頼朝が旗揚げし御家人たちが必死に戦って築いた幕府が今は北条のものになっている。
「…妙なうわさを寺で聞いた…」
以長は医師として寺にも招かれる、命がけで悟りを開こうとしているはずの坊主なのに病気に弱くて薬が大好きなのだ。
「…異国は滅びる間際だそうだ…」
「宋の話だろう、俺も聞いている。蒙古という強い兵に脅かされて散々だそうだ。民も僧も逃げ惑っている。わが国にも逃げてきているそうだ」
晴憲は異国のことに熱心だ。
「飛鳥に都のあったころから百済の王、新羅、高句麗の王が戦いに敗れるたびにわが国に逃げてきたのだ、康元は知るまい」
晴憲につっこまれて康元は少し悔しそうに苦笑いをした。
「貴公はずいぶん異国のことに関心が深いようだ」
「俺の母は異国の者だ」
ずっけりと言われて二人は言葉につまった。
「…異国か…」
「そうだ高麗人の娘だ。蒙古に焼き払われた町に住んでいた。その母は王宮の侍女だったが殺された。天文博士の父と娘は我が国に逃げて朝廷に助けを求めた。俺の父の安部晴基はその天文博士の父親について学び、その娘を妻とした。小さい頃の俺は宋の言葉で母と話した」
「…やはりな…」
以長は医師だったので骨相を知っている。かねがね晴憲の顔に異国の面影を感じていたのだ。康元は遠慮がない。
「それで貴公は女に好かれるのか。色は白いし目鼻立ちが整っている。全体に優雅な風情だ。うらやましい」
「それが辛いときもあるぞ」
「なんという言い草だ。女にちやほやされて辛いことがあるものか」
「…ああ…」
心配事、腹痛、発熱、疲労など一人で静かにしていたい時がある、しかし女が世話を焼きに来る、にっこり笑って相手を喜ばせてやらなければならない。時には女と女の間にはさまってしまう、それぞれの良いところを納得いくよう褒めてやらねば決裂する。女が愚痴を言う、誰かの悪口を言う、嫉妬する、馬鹿なことを言う、うんざりしても聞いてやらなければならない。
「康元のように短気では女人はあしらえない。以長のように無口では女人は退屈する」
「しかし俺はお前が許せないよ、良い目にあっているからな」
「…女は求めぬ…」
晴憲は寂しそうな顔になった。
「俺もうんざりしている。だから俺は異国の女と結ばれようと思っている」
「…どこの国だって人の気持ちは変わりないだろう…」
「おや珍しく気の利いたことを言ったな、以長殿おお手柄だ」
康元が場を賑わした。
次の章へ