丹波以長(たんばのもちなが)は長江川が海にそそぐ砂丘の松林に一人で住む医師だった。みかけは老人だったが本当はそれほどの年齢ではなかったのかもしれない。ともかく若いうちから老け込んでいて、はつらつとした気分だけでなく裕福、優雅、勇気などには縁の薄い人生だった。しかし友情だけは永く温めていた。
数年ぶりになろうか、今日はその友だちを迎えている。酒と肴を前にした二人の客の笑い声が響いている。
「…これが実時殿から届いたのだ…」
口ごもりながら丹波以長が書き物の束を示した。
「相変わらず貴公は口が重い。若い頃からそうだったが、一層ひどくなった。貴公が話すのを聴くといらいらしたものだ」
水干(すいかん)を着た男は太田康元(おおたやすもと)といい、すっかり白髪になっているが幾つかの合戦で戦った武者だ。戦場にいるような大声で遠慮なく笑う。
もう一人の文官姿の男が慎ましくつぶやいた。
「色あせている、汚れている、虫の食い跡がたくさんある。あまり大事にされなかったようだな」
安部晴憲(あべのはるのり)は天文博士なので仕事柄、細かなことに目がとどく。昔は人が振り向くような整った顔立ちをしていたが、今はそれも皺に埋もれている。三人はもう40年に及ぶつきあいだった。
「それでこれは何だ。俺は近々大宰府に出立する。このところ異国の使節が再々来て、執権も朝廷も不安を募らせている。問注所が対応せよという下知だが何をするにも現地を知らなければならない、それで俺が行くことになった。当分帰れないだろう、九州は遠いな。ぜひ見せたいものがあると書いてよこしたのがこれか」
「…昔のこと…忘れたか…この文字を…」
晴憲と康元は顔を見合わせた。
「下手な筆跡だ」
「なるほど見覚えがある、康元の字だ。すると以長よ、つまりあれか」
「…あれだ…」
おそるおそるという風情で二人は紙の束を手にとった。
文永7年の暮に金沢文庫が失火により炎上した。空気は乾いて北風が強い鎌倉の火災はいつものことだが、ここが燃えたのは初めてだ。文庫の持ち主、金沢実時は剛毅(ごうき)な武者であったがさすがに落胆を隠さなかった。実時という武者は八幡宮の祭儀に列座した折にも、お歴々の視線をはばからず悠々と読書をしていたという人物だ。寺社仏閣は図面に従えばいつでも建て直せる、しかし文書は灰しか残らない、そこで実時は用心深く書籍を管理した。まず戦乱の絶えない鎌倉から自邸の金沢に移し、さらに屋敷とは山を隔てた谷戸の奥に書庫を建てた。しかし火は容赦しなかった。
実時は焼け残った書籍を整理し復元しようとした。書き手の名前があるものは送り返して書き直すよう命じた。書庫の奥に埋もれていたものも多かった。そのうちのつづらの一つに阿部晴憲、太田康元、丹波以長の名があった。往時の出来事を実時は思い出した。
「それで実時殿はどう仰せられた」
「…大切に保管せよと…」
「いまさら書き直しを命じられても困るのだが」
「その必要はないだろう。東鑑(あずまかがみ)は書き終わったと聞いている」
実時が史書『東鑑-吾妻鏡』の編集を思いついたのは北条一族が幕府支配を確立し、権力に不安がなくなった頃だ。平安の時代には優れた史書がある。大鏡、今鏡、水鏡、増鏡と呼ばれ、その時代を鏡に写すようにまざまざと書き伝えている。この関東にもそれがなければならない。古老の記憶を書き留めなければならないし、幕府中枢にいる者として歴史の理非を正すことも大切だ。
しかし、と実時は思った。過去の出来事は鏡の中の映像にすぎない。昔の史書は失われた時代を記しているだけだ。この東鑑は、幕府創業の道理と支配の知恵をこれからの時代の武士に伝え、誇りを持ち奮い立つようなものにしたい。高潔で智謀に満ち、困難に向かい臆せずひるまず立ち向かう、武勇と仁慈にあふれる武者の書だ。鎌倉幕府を統領する北条の執権たちはそうであった。武士の団結すなわち「一揆」を担い、離脱し謀反を図った「独歩」の者共を容赦なく滅ぼしてきた。偉大な将軍頼朝を支え、時にはいさめ、時には導いてきたのが我らの先祖たちだ。人の鑑(かがみ)というものがあれば執権義時であり泰時、時頼である。そしてそれを継承していく覇気と熱血に燃える若者、それは実時自身であった。史書の編纂には必ず若者を加えねばならない。
「そして俺たち三人が集められた。ずいぶん昔のことだ」
「…40年前だ…」
「うたかただな、宿昔青雲志 誰知明鏡裏」
つかのま若者の心が三人に戻ったが、すぐに現実に引き戻された。
「…たぶん東鑑も焼けたのだろう…」
「俺たちの書いたものがどれくらい役立ったのか知りたいものだが」
晴憲がひっそりと言うと康元はまた笑い飛ばした。
「思い出してみろ、ずいぶん大胆に推理したり真実を暴(あば)こうとして無茶を書いたりしたぞ。関わりのある人たちはさぞ不愉快に思っただろう。きっと無視されて忘れられてしまったのだよ」
「ならば書き直して再度、差し出した方がいいのか」
晴憲は以長の顔をじっと見た。
「…まず読み直してみたい…」
「以長よ、俺は大宰府に行く。宋は滅び元が興(おこ)った、そしてわが国に降伏せよと言ってきた、戦いは必定、生死は運次第だ」
康元はため息をついた。戦場の恐怖と悲惨をまた味わうのか、あきらめが混じっている。
晴憲も不安そうだった。
「貴公らも知っている通り俺は高麗の言葉が分かる。母から教わった、母は高麗の生まれだ。宋から渡来した友人もいる。異国との交渉は朝廷の役目だが、こんな武張った相手には通用しまい。朝廷と幕府が一緒になって使者を出すことになろう。俺にも役目がありそうだ。近々京都の六波羅探題に行くように命じられている」
「…そうか…」
しかし気を取り直したように康元は明るい顔になった。
「以長よ、俺たちより長生きしてくれ。この書物を預かってくれ。そして昔を思い出しながら書き足してくれ。俺たちの思い出だ、なあ晴憲よ」
「若気の至りで恥ずかしい文章もあろうよ。今の若者たちが読むに耐えるようなしっかりしたものにしてほしい。頼む」
「…長生きは受けおえぬ。俺も多病だ…」
晴憲は深くお辞儀をした。
「天文でも占いでも自分のことは分からんが、貴公に算を置いてみると大丈夫と出た。新しい執権の時宗殿も運が強いようだ。お前は医師だ、その誇りもあろう、自分を大切にしてほしいのだ」
康元は慈(いつく)しみの目で以長を見た。
「蒙古とは戦いぬく、また会った時にしっかり読ませてもらおう、頼んだぞ。さあ話はこれで終わりだ、しばらくの別離になる、飲もう」
「…しかたない。…引き受けよう。しかし、貴公らも知っているとおり俺は酒が飲めない…」
友情を確かめるのは時間はいらない。思い出話は尽きず灯をともす頃まで談笑が続いた。
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