そのころのながえの郷の領主は長江義景(ながえよしかげ)で殿が谷と呼ばれる谷戸に館を構えていた。鎌倉権五郎景正という剛勇の武者の孫だ。鎌倉と三浦の付け根を押さえて三代の将軍に信頼されていた。
鎌倉幕府の歴史は内部抗争の連続で、武者たちは獲物を襲うオオカミのように攻めかかる。群れの首領はつねに第二第三の者に狙われる。将軍頼朝は一族の義仲、義経、範頼を次々に倒して幕府を率いたが頼朝が死ぬと闘争が始まる。まず御家人たちは結束して第一の側近だった梶原景時を滅ぼした。二代将軍頼家は実権を握る前に追放され殺された。頼家の後ろ盾の比企一族は滅亡し、畠山重忠も倒された。和田義盛は三浦一族に裏切られ、三代将軍実朝も甥に暗殺された。北条時政は子の政子と義時により追放された。四代将軍頼経、五代将軍頼嗣も京都に追放されている。頼経の後ろ盾だった三浦一族も滅亡し、北条だけが残った。そこに蒙古が襲来した。二度の戦いで勝利したものの守護地頭など諸国の御家人は貧窮した。さらに御内人(みうちびと)と呼ばれる北条氏直属の家臣が幕府を左右するようになり、御家人筆頭の安達泰盛は御内人筆頭の平頼綱に滅ぼされた。専横する頼綱を執権北条貞時が誅殺したが混乱はとどまることなく、ついに次の執権北条高時は足利、新田などの御家人に倒されて鎌倉幕府は終わった。
しかし、それは権力をめぐる武士の話でながえの郷人は日々を平穏に過ごしていた。
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