奈良時代の末に淡海三船という官人が光仁天皇までの歴代天皇の名を漢風諡号(かんふうしごう)にしました。それまでの大王(おおきみ)を天皇と呼称したのは天武朝の頃からといいます、遣唐使が往来して国号を「倭」から「日本」としたため天皇の名も中国風にしなければならなくなった、これが当時の国際化対策でした。
三船が考えた歴代天皇の名はその時代と事跡を反映していますが、文人らしく皮肉な感情も込められているように感じます。三船は漢詩集「懐風藻」の編者の一人で当代一の文人でした。しかし臣籍降下した天智天皇の玄孫で、天武朝には冷たい感情を持っていますし政治的に活躍することもできません。
和風諡号は生前・死後の実名ですから古事をそのまま残しています。それに漢風諡号の示唆するものを重ね合わせていくと古代のことが少しはっきり想像できるでしょう、ただし以下は私見です。
神という名
神武、崇神、神功皇后、応神が漢風諡号 カムヤマトイワレヒコ ミマキイリヒコイニエ オキナガタラシヒメ ホムタワケが和風諡号です。賛辞を除くと、盤余(いわれ)の王、御間城(みまき・今来)入り(委譲した、または西)の王 息長たらし一族の姫、誉田の別になります。
神武から開化までの9代はヤマトの名がついたあまり個性的とは言えない名です、だから実在を疑われています。ただ8代孝元はオオヤマトネコヒコ(大日本根子彦)という賛辞がついてクニクルという名、言葉だけでとらえれば大きな国を委譲されたという意味になりましょう。ちょうどこの頃がヒミコの時代なのです。
そして9代開化はワカヤマトネコヒコ、若い王だったのでしょう、名をオオヒビ大毘々といいます。毘は災禍、それを祓うのはナオビノカミ直毘神、王が毘だったのか、または毘を祓ったのか。いずれにせよ妻の名をトヨといいます。
開化という諡号には閉ざされていたものが開放されたという趣きがあります。停滞した王朝を継承した若い王オオヒビは、新しく王権を求めるイニエに共鳴して権力を委ねた、それが戦争ではなく平和に行われたので開化という明るい名がつけられた。
これは良い方の解釈ですが、悪い方は禍々しい王を悔い改めさせて、ちょうどアマテラスの岩戸開きのように国が開かれたとなります。どちらが適切でしょうか。魏志倭人伝の記述には、ヒミコの後に男王が立ったが国は乱れ1000人もの死者を出す内乱になった。13才の宗女トヨが立ち国は治まった。そこに狗奴国が侵略してきた。帯方郡の武官張政がトヨに軍事指導をしたと書かれています。張政は世界の動きを熟知している魏の武官です。倭国の動乱は東アジアの均衡を崩し、魏にとっては不安材料になります。その後、ヨーロッパまで攻め込んでいった匈奴は恐怖の対象です。そして拡大する高句麗ば伽耶の鉄生産を脅かします。自分の兵を持たない張政にできることは戦争ではなく調停でしょう。ヤマト系三十国とクナ系何十国かを同盟、連合、統一かどれかに導く、トヨの名でそれを行う、知恵をしぼったことと思います。
狗奴国のことは別の章で書きました。双方が興亡をかけて全面対決をしたという気配はありません。
ヤマト国を継いだのは神の名を持ち歴代とはまったく違う名前のミマキテリヒコ・イニエ崇神です。以後、垂仁・景行と三代にわたりヤマトは進出拡大し全国制覇を成し遂げました。
次の神の名を持つ神功皇后と応神天皇の母子は海外に進出しました。百済、新羅、高句麗と戦いを交えてホムタワケは八幡神、武の神として全国に神社を残しています。
たぶん神という名は「国産みの神」という名だったのでしょう。
その後、11代のオハツセノワカサザキ武烈が国を傾けた、二代と末代はサザキの名を持ちます。ヤマトの王権は空位となり、コシの王、オオド継体がヤマトに乗り込んできました。しかし、それまでの長い月日には内紛と混乱を感じます。皇后はオハリのクサカ媛、やはりオハリの氏族は尋常の豪族ではないようです。
その後、神という名は天に変わります。古代から道教も儒教も広く学ばれていました、渡来人は博識です。
ナカノオオエカツラギノミコ天智とオオアマノミコ天武です。三船は深い思いを込めて名を考えたのでしょう。
アメミコトヒラカスワケ天命開別 中大兄葛城皇子
アマノヌナハラオキノマヒト天淳中原瀛真人 大海人皇子
これが和風諡号のほぼ最後です。以降は漢風諡号だけになりますが、天皇の個性や実績が名に反映されることはなく、故事に基づいて「良い字」を選んだ名がつけられます。貴族も武士も氏族が広がったので個別化のために住所で呼ばれるようになりました。
そして明治になって一世一元という制度が作られ、今は令和天皇とお呼びしています。