いろいろな文献を見てもヒミコを擁立した30ヶ国がどこか説明されていません。
紀元前1世紀に倭は百余国あったという報告が漢書に記されているのですから、それを伝えた倭人は自分たちの世界の全体像を知っていたはずです。さらに1世紀半ばには後漢に朝貢して光武帝から金印「漢委奴国王」を得た国があります。これは博多湾の志賀島から出土したので奴国が九州北部にあったことは明らかです。
それから百年、相変わらずヤマトが北九州にあり狗奴が南九州だったとすると世界が大変に狭くなります。ヒミコが死んだのは248年、これはほぼ確定しています。ミマキイリヒコ(崇神)が近畿のヤマトを平定したのが300年頃、すると50年くらいで九州勢力が近畿を制した、それは無理でしょう。第一、ヒミコは親魏倭王です。大きな近畿ヤマト国があるのに小さな九州連合の首長に魏がこんな大きな名前を与えるでしょうか。魏志倭人伝に記されている国の数は九州に7つ。使節は行かなかったという国が21、それと邪馬台国、数えれば29、邪馬台国と連合した国の数と合います。魏の使者ですから当然、敵対する狗奴国側のことは書かない、狗奴国の背後にも同じくらいの国があったことと思われます。紀元前1世紀の倭は百余国、2百年の間に3分の1が合併された、これも無理のない想像です。倭人の国は広大でした。
では狗奴国はどこなのか。
それから50年ほど経ってオオハツセワカタケル(雄略)は使節を送り六国諸軍事安東大将軍の名を賜ったことが宋書倭国伝に記されています。その履歴書には『東は毛人を征すること55ヶ国、西は衆夷を服すること66ヶ国、渡りて海北を平らげること95ヶ国』…そして南はどうしたのでしょう。もちろん皇帝は世界の中心にいるのですから、ヤマトの大王も国の中心にいるのは当然です。ヤマトには南がないのでしょうか。
「狗奴国はヤマトの南」という魏志倭人伝の記述を思い出します。ヤマトを近畿と考えれば南は紀伊半島、そこには30ヶ国を相手にするような大勢力はありません。けれどヤマトも北九州から南行した所にあると記されています、近畿は東です、すると狗奴国もヤマトの東になります。東にはオハリ族、アツミ族が東海から北陸、カイ、シナノ、関東にまで勢力を広げていました。これは狗奴国にぴったり符号します。
ところが狗奴国はキビだという論説を読んでしまいました。(鳥越憲三郎)キビは文化的にも血液型も縄文系だ、後々までヤマトと対決した、瀬戸内海を制するキビは、ヤマトが近畿でも九州でも戦わなければならない相手です。魏の使節も晋の使節もキビを通過しなければ近畿ヤマトの往復ができない。九州ヤマトも隣接するイヅモとその背後にあるキビは敵対国です。
ヤマトタケルの戦績はまずクマソのカワカミタケル征伐、そしてイヅモタケル征伐(古事記)キビツヒコ征伐(日本書紀)イヅモとキビが同盟していれば何のことはない同じ相手です。そして最後が東国のエミシ征伐となります。
ヤマトタケルは北九州諸国の要請でクマソを恭順させて強力に統制し、朝鮮半島と大陸への交易路を確保しました。しかし、鉄をはじめとする多くの物資がヤマトへ運ばれていくのを目の当たりにして、キビとイヅモはそれが許せません、当然、妨害し略奪し海路陸路を閉鎖する。だから次のヤマトタケルは兵を率いてイヅモタケルまたはキビツヒコを制圧しました。そして三番目のヤマトタケルが東国へと出征していったのです。
英雄的な武人をタケルと呼び、後には健児(こんでい)と記して防人制度廃止後の志願兵を呼ぶようになったのもこれに関わっています。
ヤマトは近畿にあったと確信しました。では狗奴国は…オハリ一族と思うか、キビ・イヅモ勢力と思うか、その結論がでてこないことには物語は進みません。
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