東の民は馬でゆく 野の神にまもられて
赤い夏の風とともに
南の民は舟でゆく 海の神にまもられて
青い春におとずれる
西の民は輿でゆく 天の神にまもられて
白い秋におとずれる
北の民は徒歩でゆく 山の神にまもられて
黒い冬におとずれる
今は、大地が隆起し人が開拓して、ながえの郷は山に抱かれた谷間の郷になった。しかし、王の墓が造られたころはナガエとタゴエという2つの入江に突き出す細長い岬があっただけだ。人々は岬の中腹に住み、小川の流れに田畑を作り、海に降りて魚や藻を採った。山の尾根の元に王の館があり、王亡きあと岬の先に2つの古墳が造られた。海を隔てて、丹沢と箱根と伊豆の連山を望み、その奥に山々を圧して富士山がそびえたつ。春分と秋分の夕刻には太陽が富士の頂に沈んでいく。湾が途切れて大海に向かう沖のはるかに7つの島々が浮かんでいる。岬からまっすぐの海の先には箱根の二子山が双頭の姿を見せている。規模こそ小さいが同じ形と名を持つ山が突き出た岬の根元を支えており、それに続く低い山なみが半島いっぱいに伸びている。尾根を縦断して走水に降り海を渡ればそこは上総だ。同じ形と名を持つ山がある。
海から見た岬は翼を広げた大きな鳥の姿をしている。左手には逗子の砂浜が山の根まで広がり、右手には鐙摺の岡から灰色の岩場が続く、その先は白い砂浜がもう一方の翼を形つくっている。
そこに古代の王の大きな墓がある。
一つの墓は足柄峠、王の来た道を望み、一つの墓は王の行く道、安房上総を見つめている。そして海の道を行く人たちも日に輝く二つの墓を仰ぎ見ながら舟を進めていく。
その頃のナガエの郷の記録はなく、言葉で伝承されたものは忘れられてしまった。どんな人々が何人くらい住んでいたのか、それは想像するしかない。たぶん鐙摺からナガエ、タゴエの川口にかけて数戸のアツミの人々が魚貝海藻を採り塩を焼いて暮らしていただろう。ナガエ川の中流にはやはり数戸のアヤの人々が米や野菜を育てカイコから糸を引いて布を織っていただろう。そして二子山には古くからナガエに住む十数戸の人々がケモノを狩り、樹皮と山菜・木の実を採り土器を作って暮らしていた。海の幸・山の幸・里の幸は人の背で運ばれて交換され、さらに遠くへと交易されていっただろう。
「なぜ、ここに大きな古墳があるの」
それに答えるのがこの物語なのだが、まず質問の要点を5W1H新聞記事のように考えてみよう。
When いつ 4世紀末
Where どこ ナガエの郷で
Who だれ ?分らない カマクラワケという名の王がいたともいう
Why なぜ 偉大な王の霊にこの国を護ってもらうため そして王をし
のぶため
What なに この国で一番大きな墓を造った
How どうやって
説明の順番を変えて、たぶん皆が知りたいだろうと思う順に記して
いくことにする。
最初はHowだ。
この2つの墓は全長90メートルと88メートルの大きさだ。山を掘りくずして前方後円の形にしている。
日本最大の大仙陵古墳は全長400メートルの前方後円墳だが、その造営をある建築会社が試算した。労力として一日2千人、15年8ヶ月かけてのべ180万7千人、その費用は796億円。
100メートルの前方後円墳は16分の1の規模になる、それに基づくと、労力が一日130人で1年間のべ5万人、その費用が48億円。ただナガエの古墳は平地に盛り上げたのではなく山をくずしたものなので工事はずっと簡単だったろう。
前方後円墳には厳密な設計図がある。ヤマトの大王と同じ形状にするために監督官と設計士が造営責任者として派遣される。
費用はすべて王の後継者が支払う。
What
当然、墓の大きさは財力と権力の大きさに比例する。相模の国では最大の古墳だから、その時代の一番の王が葬られたということだ。しかし、ナガエの郷の人々は今も昔も小さな暮らしをしている、とても王国を担うような力はない。王の後継者は、そして王自身は財源をどこに求めていたのだろうか。
それはヤマトタケルの東征にもかかわっている。ヤマトの大王はこの頃に全国を制覇していった。東国からの貢ぎ物は何だったのだろう。それをどうやって遠い都まで運んで行ったのか。
アツミの人々の祖先は海の民だった。一本の丸太を焼いて削った舟ではなく、板を組み合わせて船体を大きく堅固にし帆柱を立てた船、それで海を渡り交易する人々だった。その技と実績を今に持っている。
これが一つの答えになるだろうか。
Who
ヤマトタケルというのは個人の名ではない。ヤマトの勇士、クマソタケルもカワカミタケルもいたがヤマトタケルに敗北した。東国に派遣されたのはコウスという名の王子だ。東海道を下り、足柄峠を越えて相模に入り、走水から上総に渡った。そしてヤマトに帰る途中のミノで死んだ、その魂は白鳥になって飛んで行ったという。
このナガエの地に残って王となったのはカマクラワケという名だったという。ワケという称号はタケルの父のヤマトの大王も持つ重要な称号だ。ヒコもワケも王の称号として残っており兄弟でも使い分けられているが、どういう区別があるのか分らない。
When
古墳は4世紀末に造営されたという。そこで3世紀から5世紀にかけての歴史を見てみよう。
247年、邪馬台国のヒミコは狗奴国と戦い、翌年病死した。老衰だったろう。後継の男王に代わりトヨが女王となった。
266年、トヨは西晋に白珠5千などを朝貢した。前年に蜀を滅ぼした魏の司馬炎は、国号を西晋と名乗っていた。諸葛孔明や関羽・張飛が活躍した三国史の時代だ。
280年頃、箸墓という象徴的な古墳が造られた。ヤマトトトビモモソ媛が葬られたという。古墳時代の始まりはヤマトが統一王朝となったしるしだ。そして次の王が神の名を持つミマキイリ彦(崇神)だ。
4世紀のヤマトの大王たちは積極的に攻勢を図り、出雲、東海と王の支配を広げていった。しかし東アジアは激動していた。匈奴が西晋を滅ぼし、高句麗は楽浪郡を滅ぼし、百済も新羅も侵略された。
350年オオタラシ彦オシロワケ(景行)は北夷の反乱を征伐した。これでヤマト朝廷の関東支配が定まった。
5世紀はヤマトの海外進出の時代だった。
400年、ホムタワケ(応神)が即位した。母はオキナガタラシ媛(神功皇后)神の名を持つ二人だが、兵を率いて朝鮮半島に渡り三韓征伐を行ったという。
430年、オオサザキ(仁徳)が即位する。その死後に世界最大の墓、大仙山古墳が造られる。倭の五王たちは盛んに出兵し朝貢し交易して海外に進出していった。
471年、ワカタケル(雄略)は宋に使者を送り順帝から六国諸軍事安東大将軍という名を賜った。宋書倭国伝に記されているその履歴書には『東は毛人を征すること55ヶ国、西は衆夷を服すること66ヶ国、渡りて海北を平らげること95ヶ国』と誇っている。たぶんこれは歴代の王の事績だろう。征服した所も東西は国だが、海北は村レベルの大きさだったろう。
ワカタケルには杖刀人(常に刀を持って側に侍る人、親衛隊)を持っていた。その長たちは地方の豪族で100人ばかりの部下を従えてヤマトの宮に常駐していたろう。その一人が上毛(かみつけ)のヲワケ、金文字の刻まれた刀を賜って大切にしていた。死後、それを持って墓に葬られた。
すでに関東では馬の飼育が広まっていたから、ヲワケも騎兵を率いていただろう。
Where
葉山桜山古墳の主がここに住んだのは短い間だけだった。
相模の最初の王たちは相模川の東側、今は海老名の秋葉山と呼ばれる地に墓を残した、3世紀末だという。古代の東海道がカミツケ上毛方面とシモフサ下総方面に分岐するところ、相模川の流域に海が入り込む広大な湿地、そこを見おろす地だ。しかし、まだヤマトとのつながりが薄かったので、墓は葺石や段築で固め、円筒ハニワを並べたヤマトの大王のような前方後円墳は造れなかった。巨大な円墳は技術的に難しく専門の技師の手によらなければならない、ヤマトの許しがなければ設計図も渡されない。そこで許されていた前方後方墳を造った。
4世紀半ばに王の地は海に近づいた。今は平塚の真土(しんど)と呼ばれる相模川の西側の地に墓が残っている。墓からは大量の被葬品が出た。玉、直刀、銅矢じり、巴形銅器など、なかでも三角縁神獣鏡は日本で発見された32枚のうちの一つだ。小高い砂丘の上に造られた墓からは春分・秋分の日にダイヤモンド富士が見られる、長柄桜山古墳と同じように。
なぜ墓所は転々と変わったのだろう。墓と王の住まいは隣接するから、数代のうちに王の居場所が変わったことになる。ヤマトがそうだった。オオキミは一代で宮を移す。秋葉山も真土もそのころの王の地の名ではない。広範にいえば海老名は綾瀬のうちでアヤ(漢)の地、真土は厚木のうちでアツミ(安曇)の地だった。アヤノキミノオオツカ(綾公大塚)、アツミノキミノツカ(安曇王塚)だったのだろう。ただ真土をマツチと読めば古語になる。浅草の待乳山聖天も川岸にある。
足柄道を下りてくるとそこはハタ(秦)野、古語で野は山の裾野のことだ。灌漑と織物の技を持つ人々が住みついた。箱根側の野には後にソガ(蘇我)の民が住んだ。さらに後にはコマ(高麗)がやってきて海辺に住んだ。
その後、5世紀後半になってから造られた墓がいくつかある。寒川に大神塚、50mの帆立貝型前方後円墳、和・漢鏡、直刀が出土し、陪塚からは金・銀環と勾玉が出た。再び上毛の国に向かう道路の分岐が重要な場所になったのだろう。ずっと後になって国分寺もこの地に建てられる。
戸塚のトツギヒコ(富属彦)の前方後円墳は32m、愛甲大塚の前方後円墳55mだ。武蔵に向かう道にある。低い山並みを上り下りし、いくつもの河川を越えて道は武蔵、下総、常陸まで続いていく。峠道、渡し舟、広大な雑木林と草原の中を抜ける道しるべ、そういったものが整備されてきたのだろう。
三浦半島を下った平作川口を見下ろす大塚古墳は30mだが6世紀
になってからだ。海の道は健在だったが、その価値は少し下がったようだ。
しかし、いつでも王の地はきっと華やかだったろう。
次へ