東京はもう何度目かの緊急事態宣言さ、耳たこだね。20日前に解除したばかりなのにぬけぬけと大臣が言う、国民が自ら自分を守って欲しいとさ、責任放棄そのものだ。首相は五輪しか頭にないそうだよ、きっと内緒の約束がたくさんあるのだろうね。
コンビニから出てきたのは小さな老婦人だ。帽子とマスクに覆われて顔は見えないが傘寿卒寿という年頃だろう。大儀そうに橋の上で立ち止まった。引きずってきたカートの中身を一つ一つ取り出して満足そうにうなずいている。一つの袋を破いて食べ始めたんだ、アンパンらしい。
すぐにコンビニから人が走り出た、ユニフォーム姿だ。あっ万引きしたんだと思ったよ、高齢者が欲しくもないものを見境いなく持って行ってしまう。盗むという意識もないんだ、恍惚の幸せか生活習慣なのか、店ではたまらない。
ようやく見つけたという表情で店員は無心に食べている老婦人に近づいていく。
昔は橋の下といえば乞食だったが今のホームレスは立派なビニールシートの家を構えている、それにこんな小さな川でなくて大河の岸辺だ。もっと昔には小豆洗いという妖怪が住み着いていて、夜になると小豆洗いやしょか人取って食いやしょかとつぶやいたそうだ。橋姫という怖い鬼のいたところもあるし人柱もあったな、父親や娘が生き埋めにされたという、橋には妖しい話がたくさんある。今は大雨の増水と津波が怖いだけだ。あの海抜何メートルという標識は人を脅かす。
店員が声をかけた、老婦人は無邪気にそちらを見て静かにうなずいている。手渡されたのは財布、どうやらレジに置き忘れたらしい。老婦人は財布を開いて店員が見つめる前でじっくりとお金を数えはじめた。緊張したね、もし所持金を思い違えていたら騒動になる、老婦人は盗まれたと騒ぎ立てるだろう。笑顔で別れたから良かったよ。
ネムの花が咲いた。孔雀の冠のようにふわりと開いたピンクのグラデュエーション、目覚めたばかりのうっとりした眼差しのようだ。西施でなくてもいいから誰か一緒に夜明けのコーヒーを飲めればなと、スズメバチが飛んできて威嚇するのですっとんで逃げたよ、ボディガードは完璧だ。
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