感染者は1900人になった。PCR検査を受けた3000人のうちだから高率だ。コメディアンの志村けんさんが感染して亡くなったんだ、コロナが身近に迫ってきたのを感じて日本中がパニックになった。外出が滞った、宅配弁当が繁盛した。しかし子どもはうれしそうに道路で遊んでいる、遊び場がそこしかないのだから仕方ない。
古い知人に釣りに誘われた、知人だよ友人ではない。二人とも半ズボンでムギワラ帽子をかぶっている。借りたのは小さな古いボートだ、オールの軸受けはさびついてギシギシするが水漏れはしていない。水の下に岩場があり海藻がゆれている。魚の黒い影がすっと通り過ぎる。
「見えてる魚は釣れない、だってむこうも見ているんだから」
私が網を出してすくおうとすると、また言った。
「速いよ、魚は流線型なんだ、宮本武蔵ならできたかもしれない、飛んでいるハエを箸でつまんだそうだからさ」
いや違う、それは塚原ト伝だと言おうとしたがやめた。さっきから少しからんだ話し方をしているのが気になる。波の上だ、ほっぽりだされて、アバヨなんて言われてもつまらない。小魚の黒い群れが動いている。静かにやってくると、突然、直角に曲がってつっと行ってしまう。
海はトロリとよどんでいる。ナイフでさっと切り取れるような感じがして、指をひたしてみると、やはり海だった。
知人が言う、人ってのは行方不明になりやすいんだ、記憶喪失か水死だよ、酒を飲んでいたと分かれば皆が納得してしまう、原因などはおざなりのままだ。「誰もいない海」という歌いだしの青春歌謡があるが怖くって嫌だね。皆と一緒に遊んだり飲んだりしていれば、海から変なものが現れても大丈夫だ。北朝鮮ばかりではない、海にはたくさんの命が沈んでいるからね。
彼を裏切ったことがある、提案に賛成しなかったのだ、そんなことを覚えているのか。自分より年上の先輩だったことをずっと知らなかった、タメグチを遣っていたのが不快だったのか。なにか批判したのを回りまわって耳に入り恨んでいるのか。細君が死んだ時に葬儀に行かなかったのを許せなく思っているのか。年を取ると些細なことで怒りを爆発させ凶行に及ぶことが多い。見ぬように彼の顔をうかがった、無表情でオールを握っている。佐々木小次郎はあれに打たれて無惨に倒れたんだ。
「長いつきあいだが釣りは初めてだな」
彼がこちらを向いて静かに言った。
「人生色々あったよ、まだ生きているのが不思議なくらいだ」
浜まで200メートルはある、ボートを降りたいと願ったよ。
憎悪や狂気が殺意を実行する寸前なのか。
「釣れない日もあるさ」
風が出てきたので堤防の上の釣り師も帰り支度を始めている、きっと何も釣れていないだろう。
鳥たちが蜜を吸いに飛んでくる。ウグイスはいつも二羽で飛んでいる。夫婦の仲のいい鳥だ。しかしホトトギスという悪者に卵を奪われ、知らぬうちに取替えっ子のホトトギスを育てて大きくするという悲劇を演じる。二羽は楽しそうにツバキの蜜を吸っている。